『ヒースクリフと雨の森』
ヒースクリフ・セイバーヘーゲンは、いつの頃からか雨が好きだった。
それは、何時の頃からだったのか…。
ずっとずっと、幼い頃。
雨の匂いと青葉の匂い。
そして幼いイリーナの身体の温もりと匂い。
ヒースの故郷の森の中。
いきなり泣き出したように、降り出した雨。
雨宿りに、大きな木の虚の中に、身を屈めて座りこんだ。
雨が、大地と大気から温もりを奪いとっていく。
次第に少し肌寒く感じはじめた。
肌寒さは、すうっと心を冷やして、理由もなく、心細さを感じさせる。
そんなアンニュイな感傷を、幼いイリーナにも感じるところがあったのかもしれない。
幼いイリーナが、ぴとっと、ヒースの身体にくっついてきた。
ヒースは片腕でイリーナの肩を抱き寄せた。
身を寄せあって、温もりをわけあって。
『雨はなんだか…、胸がきゅっとします…』
心細気なイリーナの呟き。
そんな幼いイリーナの様子を兄貴分の責任感と、ほんの少しの照れ臭さと嬉しさと安らぎでもって、小さく微笑んで眺めた。
『大丈夫だ。通り雨だから、すぐに止む』
ヒースは、そう言いながらも、なぜかほんの少しだけ、寂しく感じた。
二人は、雨が止むのを待っていた。
けれど。
イリーナは晴れわたる青空が大好きで、太陽の下が、良く似合う。
(良く似合っているけれど…。)
雨が降っているというのも、いいかもしれない。
静かな世界。優しい雨音。雨霞にくすんだ穏やかな色彩。
何時になく、おとなしいイリーナの身体の温もり。
世界でたった二人きりのようなこの淋しさと静寂と、優しい温もりの中で、
時間が止まればいいのにと、ヒースクリフは、ふと願ってしまった。
イリーナが、すぐ側にいるのは、安心する。
すぐ側に居てくれて、おとなしくしてくれているのは。
イリーナは何時も、やたらと元気すぎて、片時も目が離せないから。
イリーナの元気さを愛しく思う。嫌いじゃない。
しょぼくれているイリーナを見るのは、自分のことのように辛い。
イリーナは青空の下。太陽の下で元気に飛びはね、笑っているのが良く似合う。
けれど。
それでも。
こうしてイリーナが、すぐ側にいるのは安心する。
すぐ側に居て、身体をくっつけて、おとなしくしてくれているのは。
だから、今だけでも。
……今だけ、でも。
ぱたぱたと雨が降る。さわさわと木々の梢が揺れる。
静かな世界。優しい雨音。
白くて茶色い、優しい温もり。
雨はまだ、止まない。
何時の頃からか、ヒースは雨が好きだった。
そして、今も。
窓の外の雨音を、まるで懐かしい子守歌のように聴きながら、同じシーツと毛布に包まり、
今もなお、優しさと温もりを分けあう少女の姿を、愛おしく眺めていた。
肌と指先に触れる温かく柔かい少女の肌と、耳に心地良い穏やかな呼吸音。
解いて流した薄い金色の髪の先をつまみ、眠るイリーナの頬を子供が悪戯をするように、ちょいちょいと擽った。
ん〜っ、と無意識のうちにむずかるイリーナの反応に、悪ガキのように声を抑えて笑う。
どうか。
どうか、この穏やかな時のまま時間が止まってくれればと、
叶う筈もない、他愛ない願いを、胸に浮かばせた。
ぱたぱたと雨が降る。さわさわと木々の梢が揺れる。
静かな世界。優しい雨音。
澄んで冷えた、大気の匂い。
──腕の中に、かけがえのない優しい温もり。
どうか、今だけ。……今だけ、でも。
◇ ◇ ◇
『イリーナ、ほら、起きて見ろよ』
『んん…?え、なんですか、兄さん?』
『虹が出てる』
うとうとと眠ってしまっていたイリーナを、ぽんぽんと軽く叩いて起こし、青空に架る七色の橋を指し示した。
木々と大気が雨に洗われて潤い、艶めた色を取り戻した、雨上がり。
幼い二人は互いに手を繋いで、樹上の遥か天高く架る、美しく大きな天上の橋を見上げた。
【終】