drop/sweet
からりと小鳩亭の扉がなった。
冷ややかな冬の風が、人々と暖炉の熱気で包まれた空気に滑り込む。
同時に響く、軽やかな鐘の音。
今日何度聞いたか、混雑した中でも響くその音に、イリーナはすばやく反応した。
兄貴分と『夕飯時に』と約束してどのくらいがたったのだろう。
来た時にはまだ赤かった空は、完全に闇に落ちている。
太陽の変わりに輝くのはぼんやりと光を振りまく月に、それに隠れる星の雫。
つい先程まで、扉の方を振り向いてはため息を漏らしていた。
でも今度は違う。
確かにずっと来訪を待ちわびていた人だ。
イリーナの待ち人だった幼馴染のヒースは、ぐるりと中を見渡す。
ほどなく仲間達の姿を確認すると軽く頭を振った。
扉を後ろ手に閉め、のろのろとした動きでテーブルを縫う。
途中、冒険仲間でウェイトレスのマウナに話しかけられ、けだるげに注文を伝える。
マウナはわずかに眉をひそめ、軽く手をひらひらさせるぽんと彼の方を叩く。
ゆらゆらと微妙に左右に揺れる兄貴分の動きに、イリーナは席を立った。
「…おぅ、待たせたな」
それに気がついて、挨拶代わりに上げられた手。それもすぐに力を失って、へにゃりと体の横に垂れ下がる。
イリーナがその手をとって軽く引っ張ると、されるがままに誘導される。
これ幸いとイリーナは兄貴分の体からマフラーやコートを引っぺがした。
「兄さん、疲れてるね」
「……昨日実験に失敗してナ。原因の洗い出しやら、材料の再手配やらで時間を食った」
がくりとヒースの左膝が崩れる
「以外ですな。【眠りの雲】はともかく、余りそういう失敗談は聞かないところです」
同じ卓にいたバスが抜群のタイミングで椅子を引と、すぐさまそこに座り込み、背もたれに体重を預けて天井を仰いだ。
「まあ、実際優秀な俺様だから? 意外な結果が出ることもあるが、大抵は想定範囲内。
誰の目から見ても〜なんて事はしたことがナイ」
「うゎ、クマが出来てる。目が半分だし」
「ったりまえ。昨日からぶっ続け。いわゆる徹夜だ。今の今まで寝とらんわい」
遠慮無しに横から顔を覗き込んだノリスの額に、へしゃりと手で突っ込む。
「あ゛〜。マジデ疲れた」
ずり落ちそうになる体をゆすり上げ、テーブルに頬杖を付いて、意識と体勢を何とか確保する。
「……くそッ、1ヵ月前からの準備がほとんどパーだ。資料が残ってるから良かったものの……」
「なら不幸中の幸い? ってやつじゃないか。全部おじゃんになったわけでもないし」
「あくまで結果論だろ、それは。まあ、その通りではあるがな……」
エキューの珍しい慰めに反論と同意を同時に行い、そのまま口の中でぼやき続ける。
「はい、お待たせ。ねえ、そんなんでウチにきて、大丈夫なの?」
温かいお茶の入ったカップをその目の前に置き、マウナが心配そうに覗き込んだ。
その手に持つトレイには、パンとスープ、いつもよりは少ない量の焼き鳥に付け合せの温野菜が乗っている。
「約束してたしな〜。来ない訳には行かないだろ? 心配するし」
軽い音を立てて焼き鳥とスープの皿をその目の前に並べた所で、ぼそぼそと答えが返ってきた。
「約束?」
「私と、待ち合わせしてたんです」
コートを自分の椅子の背に引っ掛け終わったイリーナが、トレイに残っていたパンをヒースの前に置く。
「今日、勉強の日だったの。ココで夕飯食べて、うちに来る予定だったんだけど……」
「悪い、イリーナ。今日は無理。また明日ナ。今日は寝かせてくれ」
すぐに手を伸ばしたヒースがパンを掴み、緩慢な動作で千切ると、スープに浸して口へ放り込む。
しょぼしょぼと細かいまばたきをし、のろのろと食事をするその姿に、イリーナは軽く笑った。
「わかってますよ。さすがにこんな兄さんに教わっても全然ダメでしょ」
「ダメとはナンだ、ダメとは」
「ダメだね」
「うん、ダメだと思うよ?」
「やめるべきですな」
イリーナの言葉に反論して見れば、瞬く間に仲間達から駄目押しの言葉が返ってくる。
最後に、1人立っているマウナが、下に見えるヒースの頭頂にとすっとトレイを突き刺した。
「法螺も皮肉もいえないようなヒースじゃ、いつも以上にダメね」
手首をひねってぐりぐりと、とどめを刺してカウンターから呼ばれてきびすを返す。
「……いいんだ、な〜んにもも言えない時だって、たまにはあるんだ…」
平常時であれば皮肉と法螺の言葉を幾らで綴れるこの魔術師だが、今回は珍しくイジケモードに入っている。
「――あー、本気でへこんでる」
そんなめったにない光景に、お気楽全開のノリスもさすがに不憫に思ったのか。
「ゴメンねヒース。はい、お詫び」
『ノリス御用達スペシャル定食』内の特製プリンを一匙掬い、ヒースの口元へと持っていく。
座った瞳でそれを認識したヒースは、これまた珍しくも素直に匙を口に含んだ。これにはその場にいた全員が驚く。
近くに座る、顔見知りの常連客も。少し遠くにいるマウナも。カウンターの中にいるクラウスに女将も。
勿論、テーブルに座る仲間達。特にヒースを良く知るイリーナはなおさらだ。
「……こんな素直な兄さん、久しぶり……―――でもないか……な?」
最後の言葉は口の中で小さく小さく呟いて、声として音となったかどうかも定かでない。
匙を持つノリスも笑顔のまま硬直している。
ヒースの口は既に離れているが、彼が動き出すのにはもうしばらくかかりそうだ。
「悪いことは言わない。ヒース、君すぐ帰れ」
余りといえば余りの事態に、あくまで冷淡にエキューが促す。
「分かってる。出来れば俺様も自分の部屋で安らかに眠りたい」
「う〜む、本日ここにガルガドがいないのが残念です。なかなかに良い反応が見れたでしょうに」
そばに立てかけていたリュートを手に、静かな旋律をかなではじめる。
「…ヤメイ、最後の一押しをしようとするんじゃない。帰れなくなる」
何とか自分の前に並んだ料理を胃の中に押し込んだヒースが、半眼でヴェーナー神官を睨み付ける。
「それもその通りですな」
常に細められている瞳をわずかに開き、バスはすぐに弦から指先を離した。
最後の音は空気に消え、小鳩亭の中も喧騒を取り戻す。しかし視線はちらちらとヒースに送られている状態だ。
テーブルに突っ伏してへたれているヒースの前に、小振りのバスケットが置かれる。
「はい、明日起きたら食べなさい。これは一応ウチからのお見舞いって事で。さっきのご飯はツケね」
マウナが苦笑し、さっきぐりぐりしたお詫びなのか、軽く頭頂をなでる。
それを見たイリーナはちょっとだけ顔をしかめると、ヒースの肩にコートをかける。
「じゃあ兄さん、とっとと帰りましょう」
「送ってくれなさいイリーナさん。途中で寝そうで俺様とっても危険」
イリーナ手には、ちょっと目が不揃いなヒースのマフラーあった。袖に腕を通すと、首を少し伸ばして妹分に差し出す。
首にぐるぐると二周巻くと、端を持ったまま立ち上がった。それにつられて、ヒースの腰も持ち上がる。
「分かってます。それじゃみんな、またあした」
「苦しいぞ、手をこれから離せ。――サラバだみなの衆。――だから離せと!」
長めのマフラーがリード代わりとなって、ヒースがイリーナに引っ張られていく。
「ん、気をつけてね(それにしても――)」
歩くイリーナの左手にバスケットを持たせると、マウナがひらひらと腕を振る。
(犬ね……)
マウナ以下その光景を見たほぼ全員がそう思う中、からりと扉がなって、2人の姿は外へと消えた。
イリーナの足はしっかりと大地を踏みしめ。対するヒースの歩みはかくかくふらふらと。
そのたびにマフラーが引っ張られ、意識と体勢を確保する。
小鳩亭から出てすぐこそ文句も出てきていたが、賢者の学院正門前に付く頃には無言になっていた。
締められるたびに起こる酸欠に意識が朦朧としているのか、文句を言ってもどうしようもないと悟ったのか。
それはヒースにしか分からない。イリーナとすれば、確実にヒースを学院まで送ることが出来ればよいわけで。
「どうします?」
「よろしく」
「はい」短い言葉でそれだけをやり取りすると、引き続きマフラーを掴んで誘導する。
守衛に軽く頭を下げると、苦笑と共に『行って良し』とばかりに腕が振られた。
その後もヒースの体はゆらゆらと揺れ続ける。
寮の玄関をくぐり、階段の目の前に着いたはいいが、瞳が完全に閉じている。
さすがにこの状態で階段を引っ張って上がるのは危険そうだ。
「…兄さん、兄さん。せめて目を開けてくださいよ!」
「………んー、ぁぁ、んむ」
背伸びをして、兄貴分の頬を軽く叩いて見るが、返ってくるのは不明瞭な声ばかり。
完全に寝込んでいるわけではないが、意識はここにあらずといったところなのだろう。
「……全く」
そんな様子をみて、イリーナは小さなため息と共に呟いた。
マフラーから手を離すと、支えのなくなったヒースの体がイリーナのほうへと傾いてくる。
自分より背の高いその体を受け止め、腰を落とす。兄貴分の腰が、自分の左肩の上に乗る場所で、腰を上げた。
ヒースの体がイリーナの肩上で二つに折れると、左腕を体に回し、担ぎ挙げた体勢となった。
勿論マウナから預かったバスケットは、するりと右手に移動済みだ。
「あんまり、これ、やりたくないんだけどな」
男1人を余裕で持ち上げているが、当然がごとくイリーナの足取りに不安定な部分は見られない。
あっという間にヒースの部屋がある階まで階段を上りきり、該当の部屋前まで来る。
「兄さん、鍵」
「――ん」
ヒースがおぼつかない手付きで自身のベルトを探り、付けられていた部屋鍵を取り外す。
その手から鍵を受け取ると、危なげなく鍵をあけ、扉を押し開けた。窓の鎧戸が少しだけ開けられているが、中は暗い。
廊下の明かりを入れるため、入口を開けっ放しにし、通りすがりのテーブルに鍵とバスケットを置く。
奥のベッドの上に、大柄な体を遠慮なく投げ込んだ。
どさりと音がし、マットレスが悲鳴をあげ、ヒースの体が跳ねるが、目をあける気配はない。
どうやら鍵を渡して安堵し、本格的な睡眠に入ったらしい。
「しかたないなぁ」
コートにマフラー、ブーツ等を引っぺがそうと手を伸ばすと、ヒースの頭のそばに何か別のものがあることに気がついた。
目が慣れたとはいえ、部屋内の光量は足りずはっきりとわからない。だからそれを手でそっと掴み、目の前まで持ち上げた。
からり、と小気味の良い音がする。よく見て見れば、装飾が描かれきっちりと蓋が閉じられている、茶色い素焼きの壷だった。
もう一度振ってみれば、からからからりと愉快な音色。そろそろ近くなったある日付を考えて、笑う。
「うん、忘れます。部屋から出たら、忘れます。そうします。割れなくて、良かった」
大切なそれをそっとテーブルに置いて、物を扱うようにヒースの体をひっくり返すと寝るための準備を整える。
引っぺがした服などを整理し、最後にヒースへ毛布をかけると、イリーナは眠る兄貴分の顔を覗き込んだ。
「おやすみなさい。明日はよろしく」
そう囁いて、頭頂そっとなでると、立ち上がる。音を立てないように歩き、扉を閉めると、ヒースの部屋は闇に包まれた。
部屋の隅に転がる、小さい壷。
その中のあまいあまい、白と黒の雫。
ほどけてほどけてとろりと広がる赤に青。
年に一度の。
甘くて。
少し冷たくて。
でも、愛しい時。
その、ちょっと前。