夕暮れ時、ベルダインの宿屋<牢獄亭>――シャディは、立て替えていた飲み代を
回収すべく、リュクティの部屋の前まで来ていた。
「おーい、リュクティ、こないだの…」
そう言ってドアノブに手をかけた瞬間、中から人が壁にぶつかる音と同時に
聞き慣れた女性の声――しかもかなり怒っている――が聞こえてきた。
「まったく!…お前という奴は…私を一体何だと思ってるのだ!今日という今日は
心底愛想が尽きたぞ!お前は素敵なバカでも何でもない、ただのバカだ!」
(あちゃー…最悪…)
シャディは内心ぼやく。よりにもよって痴話喧嘩の真っ最中だったとは。こりゃ飲み代の
回収どころではないな…そう思っていると、ドアが内側から開き、さっきの声の主が着衣の
乱れを直しながらシャディの横を通り過ぎていく。その怒りのオーラのすさまじさに
シャディは声をかけることも出来ない。一方、部屋の隅ではリュクティが頬を押さえたまま
うずくまっている。
「おーい、生きてるか?」
シャディはうずくまったまま微動だにしないリュクティに声をかける。
「うう……」
呻き声をあげながら、リュクティは何とか起きあがる。しかし左の頬は赤く腫れ
口の端からは血を流している。どうやら本気で殴られたらしい。
「しっかし、派手にやられたねぇ…。レイハのやつ、相当怒ってたみたいだけど…
一体今度は何をやったのさ」
普段のレイハは思慮深く冷静沈着なだけに、声を荒げることなど殆ど無い。
それだけに一体何をやったらあれだけ怒るのか、という興味が湧くのも無理からぬ
ところだ。
「そ、それは…」
理由など口が裂けても言えない。言ったが最後、噂はベルダイン中に広まり
笑い者にされること請け合いだ。
「浮気?それとも金?」
シャディはなおも興味津々といった風情で訊いてくる。
「いや…ちょっとした意見の相違だ」
「意見の相違、ねぇ…」
それくらいのことであんなに怒るもんかね…シャディはそう思ったが、これ以上
追求してもリュクティは口を割りそうにない。
「ま、どうでもいいけど、あんまり怒らせてばっかだと愛想尽かされるよ、いい加減」
「面目ない…」
「あたしに謝ってどうすんのさ。さっさとあいつに頭を下げて許してもらって来なよ」
「ああ…」
力無く頷くリュクティ。しかし、頭を下げたくらいで許してもらえるのだろうか…
そんなことを考えながら、のろのろと部屋を出る。
「まったく…世話が焼けるって言ったら…」
リュクティの背中を見送りながら、シャディは一人ごちる。
いい奴ではあるが、人間的にだらしがないリュクティに対して、姉御肌で包容力のある
レイハはぴったりだし、シャディ自身も、出来ることならこの二人にはうまく行って欲しいと
思っているのだが…
「ま、なるようにしかならないか…」
誰にともなく呟くと、シャディは主のいなくなった部屋を後にした。
「許してもらって来い、って言われてもなぁ…」
シャディに言われて部屋を出たのはいいが、素直にレイハのところへ謝りに行くのは
気が引ける。なんといってもあの剣幕である。今顔を合わせるのは逆効果に思えて
ならない。
しかし、どうしてレイハを怒らせる羽目になったのか。事の始めは数日前に遡る。
場末の酒場でひとり呑んでいたリュクティの耳に、隣に座る酔客同士の会話が聞こえてきた。
「…あー…やっぱ死ぬまでに一度でいいから、変わった相手とヤりたいなぁ…」
「変わった相手?そんなもん、娼館にでも行けば粗方揃ってるぜ。エルフ、ハーフ
エルフといったマトモなところから、裏ではハーピイみたいな魔物まで扱ってるって話だ」
「そういう『何とかすれば手が届きそう』ってな相手じゃなくて…もうちょっと夢のある
相手だよ」
「夢のある…って、神様や精霊とか、そんな類か」
「そうそう!精霊なんていいね。シルフやウンディーネとか」
「いいね、って言われても…実体ないだろ…」
熱く言い募る男に対し、聞き役に回っていたもうひとりの男は「もう付き合ってられん」
といった口調で答える。
「精霊かぁ…」
ぼんやりとその会話に耳を傾けていたリュクティは、ある妙案(?)を思いつく。
「そういえば、レイハって…」
言うまでもなく「戦乙女の紋」を身に纏っているレイハなら、紋様の力を解放させることに
よって、実体を持たないバルキリーと一体化することが可能である。つまるところ、その状態で
エッチをすれば、精霊とするのと同じ事ではないか…?
「ただ、時間的な問題があるよなぁ…」
バルキリーと一体化すると言っても、無制限というわけにはいかない。前にプロミジーで
レイハがその力を解放したときは五分と持たなかった。そのことを考えると、勝負は早く
済ませなければならない。
「ま、それくらいは何とかなるな。…今度するときにお願いしてみるか」
頭の中はバルキリープレイ(?)のことで一杯になり、バルキリーと一体化することの
危険性にはまったく考えが及ばないリュクティであった。
「あ…こんな時間から…んっ…」
喉元を唇で責められ、レイハは思わず甘い声を漏らしてしまう。
「…ティリーが…帰ってきたら…」
「大丈夫。ティリーならシャリンと二人きりでピクニックに出かけたから、帰ってくるのは
陽が落ちてからだよ」
<牢獄亭>のリュクティの部屋――ルームメイトであるティリーが留守の時には
こうしてレイハと逢瀬を重ねている。最初は昼間から体を重ねることを嫌がっていた
レイハだったが、最近では強引なリュクティのやり方に慣らされたのか、抵抗せずに
許すようになった。
「ティリーは…うまくやっているのか?」
「ま、それなりにうまくやってるみたいだけどな」
レイハの耳飾りを弄びながらリュクティは答える。
「それなりに?」
「…こないだ、『キスくらいはしたのか』って訊いたら、顔を真っ赤にして否定されたよ。
仲はいいみたいだけど、そういうことはさっぱりみたいだな」
「いかにもティリーらしいな」
「とはいえ…もう少し積極的になった方がいいような気もするけど」
そう言ってリュクティはレイハの項に唇をつける。
「あ…」
項から喉元、そして顔の方へと、ゆっくりとリュクティの唇は移動していき、吐息が
かかるほどの距離にお互いの顔が接近する。
もう随分と見慣れているはずなのに、間近で見るレイハの顔――特にその深い
藍色の瞳は、リュクティを魅了してやまない。
「きれいだ…」
無意識のうちにリュクティは呟く。
「…おだてたって、何も出ないぞ」
「お世辞じゃないさ…」
そう言ってリュクティはレイハの頬にそっと手を当てて、ゆっくりと唇を重ねる。
最初はゆっくりと、ついばむように柔らかい唇の感触を楽しむ。
そして一度唇を離すと、今度は激しく、貪るように重ねる。
「っ…んっ…」
激しい行為に、レイハはくぐもった声を漏らす。
その間にもリュクティはレイハの上着の襟を開いて手を差し入れ、下着越しに
胸をまさぐる。
「んっ!」
荒々しい愛撫に、思わず体が震えてしまう。
しばらくして唇が離れると、行為の激しさを物語るように唾液の糸が二人の間にかかる。
そのまま息を整えていると、何かを思い出したようにリュクティが口を開く。
「あのさ…今日はひとつお願いがあるんだけど…」
「…なんだ」
「その…今日は…バルキリーと一体化した状態でしたいんだ…」
…最初は何のことを言っているのかわからなかった。さっきまでのキスと愛撫で
頭がぼーっとしていたから、というのもある。
「…一体どういうことだ?」
真意を確かめるべく訊き返す。
「いや、だから…バルキリーを降臨させた状態の君と…したいんだけど…ダメかな…」
…なるほど…そういうことか。さっきまでとは違った意味で、レイハの頭に血が上る。
そして冒頭のシーンへと繋がる。
怒りにまかせてリュクティを張り倒し、部屋を飛び出したレイハだったが、外の空気を
吸って冷静さを取り戻すと、言いようのない悲しさと虚しさがこみ上げてきた。
自分は将来、故郷のミラルゴへ帰り、族長となる姉を補佐しなければならない。その上
「夫となる者以外の異性には肌を見せてはならぬ」という部族の掟と、戦乙女の紋がある。
だから結婚は勿論、異性と愛し合うなんて考えたこともなかったし、自分には必要の
ないことと勝手に決めつけたりもしていた。実際にリュクティを好きになってからも
最初のころは人前、二人きりの時を問わず、普通の恋人同士のようにベタベタするのは
自分の信義に反するという思いがあったし、正直なところ恥ずかしさもあった。
しかし、そのことをリュクティはどう思うか、というところまでは考えが至らなかった。
…好きになったのは自分なのに、つまらない見栄や羞恥心のせいで、リュクティとの間に
見えない壁を作っていた…そのことに気づいたのはリュクティと初めて結ばれる直前のことだ。
そして、初めて体を重ねて…リュクティとひとつになると、自分の中に今まで無かった感情が
芽生えていることに気づいた。それは「好き」「愛している」という感情とは少し違うもの…
あえて言葉にすれば「愛おしさ」だろうか。一緒にいたい、触れ合いたい…自然にそう思えるように
なった。だから、リュクティが望めば、自分の倫理観に反する恥ずかしい行為でも、ある程度のことは
言う通りにしてきたつもりだ。
人前ではともかく、二人きりのときは恋人同士らしくいちゃいちゃしたい、とリュクティが言えば
(多少の恥ずかしさはあるが)その通りにしているし、明るい内から体を重ねることや、危ない日に
「中で出したい」と言われも、あえて拒絶はしなかった。その結果、子供が出来たとしても
リュクティとの子供なら構わないと思っている(もちろん、責任を取るという言質は取ってある)。
だが、今回ばかりはそうはいかない。「バルキリーと一体化した状態でしたい」だなんて…!
前にちゃんと言ったはずだ。「バルキリーと一体化することは危険も大きい。危うく
死にかけたこともある」と。それなのに…一体何を聞いていたというのか。
それに、リュクティが「戦乙女の紋」を纏った自分をそういう風に見ていたということが
何よりショックだった。
「リュクティにとって、自分は何なのだろうな…」
先程リュクティにぶつけた言葉を、もう一度、自分の心の中で繰り返す。
あの時は別に答えが聞きたくて言ったわけではない。「愛想が尽きた」という言葉も
怒りにまかせてつい口から出ただけだ。
ただ…実際はどうなのだろう…俄に降って湧いた不安は、細波のようにレイハの心の中を
広がっていく。そんな気持ちを知ってか知らずか、空から俄に落ちてきた雨粒が外套をゆっくり
濡らし始める。普通なら急いで宿に戻るか、雨宿りのためにどこか店に入るところだが、生憎
今は人と話をする気にはなれない。レイハはそのまま、行くあてもなく歩を進めることにした。