「とりあえず出かけるか…」
早々に起こすのは諦めてベッドから降り、出かける為に顔や髪、服等々を整える。
身支度音の中に混じる、ちいさなちいさな呼吸音。
大変ご機嫌斜めなのか、尻尾がぱたぱたと振られている。
そっと手を伸ばし、張りのある毛で覆われた小さな頭や狭い背中を撫でるが、イリーナは反応しない。
むしろ、うっとうしそうに頭が一振りされてしまった。
振り払われた手を見つめ、自らが引き起こした寂しさを身にまとわせて、ふらりと出かけようとする。
入口のドアノブに手をかけ、振り返った。
変わらず猫イリーナは背を向けている、が、栗色の耳だけが自分の方に向き、ぴくぴこしている。
それを確認し、すうっと息を吸い込んだ。
◇
「お前の為にちょいと出てくる。すぐに戻るから、大人しく待ってナサイ」
呼びかけて1拍あと。
イリーナの長い尻尾が、ぱたんとシーツを打つ。
(気になってる癖にナ)
ドアを開けて廊下に出て、鍵を閉めるついでに廊下側の扉の下部を見た。
そこにはくっきりはっきり爪跡が残されていて、自分の予想が当たっていた事を物語る。
(ったく……)
心の中でそう呟いて、ヒースは大股で歩き出した。
小鳩亭へ立ち寄って、イリーナの服の状態を確認してみればどうしようもない。
変身した際に、水やらジュースの入ったコップを盛大にひっくりかえした為、洗濯中との事。
「鎧を着ていなくて本当によかった!! 不幸中の幸いよ!」
マウナはそう叫ぶと、十分に絞ったイリーナの神官服でパンっと音を立てる。
風にそよぐ洗濯物の中にはマントにスカート。ソックスに、ひっそりと干される見慣れた下着。
隅っこに引っ掛けてあるブーツに帽子。
庭のさらに奥で、クラウスとエキューが大剣と鞘に残った汚れを拭いている。
「やはり、予想通りか」
ヒースはその光景をみて、息をついた。
「……あ〜ぁ…」
小鳩亭で持ち帰りセットを頼み、ヒースの足はファリス神殿の方へ。
「あら、ヒース君。珍しいじゃない」
「こんにちは、おばさん。あのですね…」
神殿の入口を掃除していたイリーナ母のエリーゼに、簡単な事情を説明。
イリーナの部屋にはこっそり時折堂々と入り込んでいるから服下着一式の場所は知っている。
が、変わってしまった関係を、イリーナや自分の両親達にはまだ伝えていない。
伝えるべき時が来ているとも思えない。
「あの娘ったら」
そう言って苦笑して、エリーゼは奥に入っていく。
「ヒース君。信者の方からお菓子を頂いたの。用意している間、食べていって頂戴」
扉をくぐる直前。ひょいと彼女が振り返り、イリーナとよく似た笑顔でおやつに誘う。
「……では、お言葉に甘えて」
返事代わりに肩をすくめ、ヒースは早足で小柄な後姿を追った。
ファリス神殿から小鳩亭を経由して、自室のある寮への帰り道。
イリーナの下着に服にサンダルの入った袋を左手に。
小鳩亭で受け取った持ち帰りセット二人分のカゴを右手に持って、ヒースは時折空を仰いでいた。
『あの娘は真っ直ぐで暴走気味だから……そっか、ヒース君と足して2で割れば、ちょうどいいか。
おばさん、楽しみだ♪ これからもよろしくね』
神殿を出る際に、自分の母親の親友である人から言われた言葉が頭の上でくるくる回る。
とっさに動揺を押し殺し、別れの挨拶ついでに様子をうかがったのだが、
その顔にあるのはいつも通りな柔らかい笑顔。
(――……おばさん、気づいてる、よな。……怖いぞ)
でも、確実に存在していた威圧感。
その圧迫感に気おされて、逃げるようにその場を離れた。
(イリーナな〜)
記憶に残る小さい頃から今現在の姿まで。
イリーナに関する自分の記憶は、時折暴力全開のつっこみを入れつつも自分を慕ってくる姿ばかりだ。
先ほど見たいに機嫌を悪くしても、とりあえずは反応してくれる。
《一線》を超えてからも、その前も。なにも変わらない。
それが愛しくて仕方がないし、いまさら誰にも渡す気はない。
でもイリーナが自分と同じくらい思ってくれているかどうかは、わからない。
疑っているのとは少し違うが、自分の普段の言動が言動ゆえに、自信がないのだ。
ならば素直になってしまえばいいのだろうが、自ら意識して身につけてしまったこの性格を、
今更矯正するのは至難の業だろう。
そんなこんなで悩んでいても、澄み渡る青い空は相変わらずで、ちょっとだけ恨めしい気分になる。
両手に持つ荷物の重さ以外の重量を感じながら、帰り道を行く。
道端の日当たりの良い場所に、数匹の猫が集まって、のんびりふくふくと座っている。
(一応、覚悟はしてるつもりだが…。あ〜でもな〜)
そんな光景を横目にし、柔らかな日差しを浴びながら、考え込んだ様子の青年は歩を進めていた。
※ ※ ※ ※
自分の部屋にはイリーナが待っている。
猫の姿で。
ここん、と申し訳程度のノックをし、遠慮なしに扉を押し開けた。
待っている間暇だったのか、部屋内を歩きまわった痕跡がある。
例えば、床に積んであった本が崩れているとか、机上のペン立てが横倒しになっているとか。
テーブルの上に持ち帰りセットと袋を置いて、ヒースはため息混じりに部屋を見回した。
一応は注意していたのか、落としたら確実に壊れる実験道具やランプ達や、
本棚に入れてある借り物の資料などはそのまま、出かける前の光景を保っている。
確かに椅子にかけたはずなのに、今は床に広がる肉球を拭いた布を手にし、奥のベッドへ視線を送った。
小さな猫の体には不似合いに大きいベッド(標準サイズだが)の中央に、猫イリーナがいる。
ぐぐーっと体を伸ばし、大きく口を開けてあくびをすると、目をぱちぱちとする。
視界の中にヒースの姿を認めると、ふいっと横を向く。
「ふにゃ〜ぅ」
小さく鳴くと、尻尾が居心地悪そうにゆらゆら動き、耳がへとりと伏せられた。
大きな瞳がきょろきょろ動き、見ては離れ、見ては離れとせわしない。
「…そこまで動揺するなら、おとなしくしてろよ……」
そんな様子にため息を付いて、イリーナへと手を伸ばす。
イリーナの体に、逃げ出そうとじりじりと力が入る。
「怒りゃしないって」
その言葉でそれ以上の動きは止まるが、力はいまだ入ったまま。まだ警戒しているようだ。
ヒースの指先が、首に巻かれたリボンに触れる。
びくっとイリーナの体が震えた。
意に介さず、指先を後頭部にそわせ、手のひらでゆっくりと毛並みを撫でる。
「いつものイリーナでも危ないのに、今の大きさだと殊更危険なものもある。
好奇心猫をも殺すというし、俺の部屋の物を不用意に触るんじゃないぞ」
ふわり、ふわりと優しく毛皮を撫でるうちに、しなやかな体から力が抜け、ぺたんと伏せた。
「返事は?」
「んにゃぁ」
注意され、しょんぼりとしたイリーナから、鳴き声が返ってくる。
「ん、よしよし」
ヒースはその様子に口元に笑みを浮かべ、小さい頭を撫でる手のひらを喉元へと移動する。
軽く喉をくすぐると、イリーナの瞳がゆったりと閉じ、ころころと気持ちよさそうな反応をした。
「……気持ちよさそうだな」
喉を鳴らし続ける猫を見て、ヒースの瞳が思案気に細められる。
もふり、もふりと撫でていた広い手が止まった。
心地よさにうっとりとしていた猫イリーナの瞼が持ち上がる。
にやりと笑みを浮かべた幼馴染の姿がそこにあった。
「…んにゃ?」
ヒースの手が引っ込み、床に屈みこむ。
視線の先には、横倒しになっていた発動体の杖があり、それを掴む。
立ち上がり、再びイリーナの方を向くが、その顔には微妙な笑顔が浮かんだままだ。
怪訝そうに自分を見つめるイリーナを見ながら、ヒースは呪を紡ぎ始めた。
複雑な身振りも織り込まれ、難易度はとても高そうだ。
古代語魔法には通じていないイリーナでも、それは分かる。
そして、【解呪】の呪文では無い事も。
ならば、ヒースは何の呪文を唱えているのか、それはさっぱりわからない。
知るのは本人のみ。
すぐに詠唱は終わる。
同時にそして唐突に、イリーナの視界からヒースの姿が消えた。
「うにゃ? にゃにゃ!?」
猫イリーナは慌てて彼がいた場所を覗き込む。
そこにはつい今まで幼馴染が着ていた服が、落ちていた。
もぞっと風も無いのに服が動く。
イリーナは音を立てずにベッドから床におりると、警戒しながら覗き込んだ。
しゃりしゃりと服がこすれる音が続き、何かが姿を現す。
「ふしゃっっーー!!」
反射的に爪を出し、声を上げて威嚇する。
「…ん〜にゃ〜」(あ〜、威嚇スンナ)
それに答えるように、面倒くさそうな低い鳴き声が帰ってきた。
「にゅ? なぁ〜」(へ? 兄さん?)
「……にゃ」(そだよ)
猫イリーナの目の前で、青みを帯びた黒の毛並みを持つ大柄な猫が、ぶるぶると首を振る。
猫へと変身したヒースは、ぐるんと自らの体を見回し、満足気に長い尻尾をパタンと床に叩き付けた。
呆然としているイリーナを横目に、身軽にベッドへと飛び乗って、日当たりの良い場所に座り込む。
「ぅにゃにゃ」(昼寝再開)
一声鳴いて、ぼふりとシーツに横になり、昼寝の体制を整えた。
「ぐる〜なぁ〜うにゃ〜ふにゃ〜?」(また寝るの〜私の解呪は〜?)
ベッドの下で、硬直の解けたイリーナがうろうろと動いている気配を感じる。
やがて諦めたのか、小さな音がして、猫イリーナもベッドに上ってきた。
猫ヒースは頭を上げ、近寄ってくる妹分に視線を送る。
イリーナは鳴き声にならない小さなため息をついて、ヒースの隣にくりんと横になった。
ヒースは前足後足を伸ばし、イリーナのそれに重ね、頭を再びシーツに下ろす。
目の前に猫妹分の顔が来る。
ヒースの額を2・3度舐めた後、額をぴとりと引っ付けてきた。
ふわりとその瞳が降りるのを確認し、ヒースも再び目を閉じた。
互いの静かな呼吸音が唱和して、心地良く意識へ響く。
一度は引っ込んでいたと思った眠気が、漣となって多い尽くしてくる。
程なく、二匹はちょっといびつなハート型で眠りに付いた。
陽だまりに誘われるまま2匹でまどろみ続け、起きたのは夕方になってから。
当然がごとく、イリーナの解呪はその後となり、人の姿に戻ったと思えばむくれてしまう。
そんな恋人をあの手この手となだめるうちに、無常にも時間は過ぎて行く。
結局小鳩亭から持ち帰ったご飯を2人で食べたのは、夜もとっぷり暮れてからのことだった。
END2 【額をひっつけはぁと型】