デーニッツ家に仕えるルーンフォーク、アイシャの最初の記憶は、自分を見上げるふた組の稚い眼差しである。
半ば無意識のうちに柔らかく微笑みかけるアイシャを見つめ、二人の幼い兄弟はうわぁとも、わぁともつかない、賛嘆の声を上げる。
それが六年前。
アイシャが目覚めた直後の出来事。
その日から、アイシャはデーニッツ兄弟の弟、ベルハルトを主人と定め、今日まで仕えてきた。
ベルハルトは聡明で大人びた、どちらかと言えば大人しい子供で、アイシャの手を煩わせることは殆どなかった。
ただ、二歳年上の活発な兄、ジークハルトが絡むと、ベルはとたん年相応の子供に戻ってしまう。
それは、血を分けた兄への無意識のうちの甘えであり、ある意味、微笑ましいとさえ言えるものであったが、時として盛大に兄弟喧嘩をして、周囲を巻き込む大騒ぎに発展することもあった。
その度に、ジークに肩入れするジーク付きのルーンフォークであるメシュオーンと、ベルに肩入れするアイシャは反発しあい、勢い両者の関係は険悪なものに……。
いや、と“私”は思う。
確かに、ジーク様にあれこれと法螺を吹きこんでは焚きつけるメッシュに対して、その当時から良い感情を抱いていなかったことは事実だ。
ジーク様の大らかな気性をよい事に、従者の分を踏み越えている、と。
だが、その頃は、それを表に出すことはなかった。
一つ屋根の下に暮らす者同士ということもあって、現在のように顔を合わせれば角を突き合わせるといった関係に陥ることを、意図的にこちらから避けていたのだ。
なるべく顔を合わせないように気をつけ、偶然出会ってしまった時は、儀礼的な挨拶を交わすだけの関係。
今とは違った意味で、仲が悪かったとも言えるが、少なくとも積極的に口喧嘩をするような間柄ではなかった。
仲違いの原因は、ひどく単純な話だ。
ジークハルト・デーニッツ。ジーク様。
我が主、ベル様の、兄上。
気安い方だった。
誰に対しても態度を変えず、だが、不思議と馴れ馴れしいとは感じさせない方だった。
その態度に違和感を抱く者も、いつの間にか、それがごく当然の態度であると、そう思わせてしまうような魅力が、ジーク様にはあった。
そんなジーク様は、屋敷の中で私の姿を見れば、必ず声を掛け、ベル様のご様子をお聞きになった。
主人の兄上という事もあって、聞かれたことだけに答える、敬して遠ざけるという態度で接していた私も、気がつけばごく当たり前に立ち話をするようになっていた。
そして、ジーク様との会話を楽しむようになり、ごくまれに訪れる二人きりになれる機会を待ちわびるようになるまで、そう長い時間は掛からなかった。
そう、仲違いの原因は、酷く単純な話なのだ。
それは、その原因は、理由などなくともジーク様の傍に侍ることのできるメッシュへの嫉妬。
自分の感情を自覚したとき、かなり動揺したことを覚えている。
私はルーンフォークだ。主人に仕えるのは、本能と言っても良い。
そして、私の主人はベル様だ。ジーク様ではない。
何一つ落ち度のない主人であるベル様をないがしろにし、ジーク様に心を移すなど、決してあってはならない失態だ。
常日頃から軽蔑しているメシュオーンでさえ、こんな自分に比べればルーンフォークとして格段に優れている。
自分自身が、無価値ながらくたに堕した気がした。
だが、それはそれとして、ベル様の日々のお世話を滞りなく行う自分がいた。
正直、驚いた。ここまで自分が感情と行動を切り離すことが出来るとは、思っていなかった。
しかし、表面を取り繕う事は出来ても、結局、何か心の底に澱のように積もっていくものがあったのだろう。
ある日、それが爆発した。
あの日は、ベル様とジーク様が大ゲンカをした日だと記憶している。
ジーク様が、泣かせてしまったベル様のその後の様子を聞きに、夜中にこっそりと私の部屋に忍んできたのだ。
そういう事は、それまでも何度もあった。
喧嘩のあと、弟の様子を聞きにくる何だかんだで優しい兄上。それがジーク様だった。
内心の歓喜を押し殺して、しかつめらしく夜更けに出歩くことの非常識さを説き、そして、秘密ですよ、とベル様の様子をお教えした後、しばらく他愛もない雑談に興じる。
いつもの私なら、それが苦もなくそう振る舞えるはずだった。
そういう風に、その夜も終わるはずだった。
だが、その夜の私には、こんな簡単なことが出来なかった。
行儀悪く寝台の端に腰かけて、ベルの奴、どうだった? と、きまり悪そうに、少し照れくさそうに聞くジーク様を見た時、私の中で何かが弾けた。
強引にジーク様は押し倒した私は、衝動の赴くままに、思いを遂げた。
束の間、抗う様子を見せたジーク様は、結局黙って私を受け入れてくれた。
激しい肉の交わりの中で、ジーク様は幾度か若い精を私の内に放ち、そして、私は初めてだったにもかかわらず絶頂に達した。
覚束ないお仕着せの知識を手繰り、貪るように交わったことだけが、おぼろに残るその夜の私の記憶だ。
全てが終わったのは、もうすぐ朝日が昇ろうとする頃。
ようやく事の重大さに気づいて泣きじゃくる私の髪を、慰めるように撫でながら、ジーク様はこう仰った。
「年上に見えても、アイシャは俺よりも若いんだからさ。
あんま、思いつめんなよ? 俺は気にしないし、その、気持ち良かったし」
そう仰るジーク様も、多分に混乱されていたのだろうと思う。
少し早口で、話す言葉も、一貫しているようで纏まりに欠けていた。
「最近、少し様子がおかしかったから気になってたんだけど、まさかアイシャに惚れられてるとは思わなかったな、わはは」
“惚れられる”
ジーク様が誤魔化すように仰ったその言葉に、崩壊寸前の私はしがみついた。
私はつまり、一人の女として、ジーク様を求めているのだと。
それは、ベル様を主と慕う気持ちとは、また別の何かなのだと。
そして、その夜以来、何度となく私はジーク様と肌を重ねてきた。
今、この時のように。
サイドテーブルの上に置かれた眼鏡のレンズが、ランプの投げかける頼りない光を照り返す。
うすぼんやりとした闇の中に、アイシャの白い裸体がくっきりと浮かび上がった。
普段はきっちりと結い上げている下ろし髪が、ゆっくりとした身体の動きに合わせて揺れている。
初めての交わりがそうであったからか、アイシャはジークの上に跨って繋がる事を好んでいた。
何かを求めるように白いシーツの上を這うアイシャの細い指が、ジークの指に絡め取られる。
時折漏れる吐息にも似た抑えた喘ぎと、腰のあたりから発せられる湿った水音だけが、部屋の中を細くたゆたう。
常はかけている眼鏡を外し、髪を下ろしたアイシャの表情は、快楽に蕩けるというよりも、むしろ苦痛に耐えるために眉をひそめているようにも見える。
「アイシャ……」
自分の身体の上で、苦しげに快楽を貪る女にだけ届く声で、ジークが囁く。
片手が無造作に持ち上がり、硬質な美しさを湛えるアイシャの顔の、その滑らかな頬に、そっと掌を添えた。
愛撫というには、あまりにも優しく、慈しむような接触に、だけれどもアイシャの身体は敏感に反応する。
「……ジー、ク様……ゃ…今は、ダメで、す……んんっ!」
こらえていた喘ぎが漏れる。愛液で溢れる蜜壷を、ジークが貫く水音が高くなる。
アイシャの腰の柔らかな曲線が、切なげに震える。
強張っていた表情がほぐれ、抽送される快楽に蕩けていく。
いけないのに、いけないのに。
快楽に溺れるなど、許されないのに。
この人は、ジーク様は、もうすぐ私の前から、いなくなってしまう人なのに。
事の発端は、ジークとベルの両親が、あまりにも若く、そして相次いで物故したことにある。
腕利きの冒険者であった二人が、わずか一代で立ち上げたデーニッツ商会は、突如屋台骨を失い、大揺れに揺れた。
やがて時間が経ち、一応の落ち着きを取り戻したときには、長子であるジークを立てる一派と、幼いころから学問にに長じ、聡明なベルを立てる一派に分裂し、影で相争うようになっていた。
無論そのことはジークの耳にも届いていた。
賢しらな顔で、“ご注進”に及ぶ輩が、後を絶たなかったからだ。
だが、それら全てをジークは笑って受け流し、ただ、アイシャにだけは、ベルの耳に入れるなと、固く言い含めていた。
その頃からだ。
それまでは手慰み程度だった剣の鍛錬に、ジークが本腰を入れるようになったのは……。
意外なほど鍛え上げられたジークの両腕が、繋がったままのアイシャの身体を抱きかかえる。
突然、騎乗位から対面座位に体位が変わったことで、一層深く貫かれたアイシャは、思わず愉悦の吐息を洩らす。
ジークは、華奢な体に似合わない女性的な丸みを帯びたアイシャの尻肉を、鷲掴みにするように抱えあげると、それまでの穏やかさな交わりが嘘のような激しい動きで突き上げ始めた。
アイシャの赤い瞳が抑えきれない官能に潤む。
上気した頬を汗が伝い落ちる。
「ひっ、あっ…あぁあっ、んっ…や……ぁんっ…ジィ…ク……さま……ダ…ぁふっ!」
反射的に飛び出しそうになる拒否の言葉を封じるように、半ば強引にジークは口づける。
貪るように舌を絡めあい、互いの吐息を交換し合う。
快楽に揺さぶられ、アイシャの思考の焦点がぶれていく。
押し寄せる波に、理性も倫理も罪悪感も不安も流され、溶けてゆく。
アイシャの繊手が、抱きつくようにジークの背中にまわり、しなやかな脚が、腰にすがりつく。
ジークが突き上げるたびに、二人の身体は腰と腰がぶつかりあう湿った音を響かせる。
獣のように激しくまぐわいながら、互いに互いを絶頂に導いていく。
先に限界を迎えたのは、アイシャだった。
声にならない悲鳴をあげ、昇り詰めた快楽に身体を震わせながら、背筋を反り返らせる。
突き出された意外に豊かな乳房が柔らかに揺れ、そして、それを追いかけるようにジークもまた、アイシャの疑似子宮に大量の精を放った。
「あ……あぁぁ……はぁ、はぁ……」
絶頂の余韻を脚の付け根に感じながら、アイシャは必死に呼吸を整える。
だが、その余裕を与えないとでも言うように、横たわるアイシャの身体に、ジークが覆いかぶさった。
「ジーク様……?」
「すまん、アイシャ。今日はとことんやる」
その目には、悲愴とも言える決意が宿っている。
アイシャは、別れの日が来た事を悟った。
諦めるように閉じた瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。
その涙を、ジークの指が拭い去る。
鋭すぎて痛いほどの快楽が、再びアイシャの身体を貫いた。
嵐の海のように千々に乱れたシーツだけが、その夜の二人の交わりの激しさの気配を漂わせている。
寝台の端に座り、まるで何事もなかったかのように、アイシャは乱れた髪を結い直している。
その逆の端には、軽く汗ばんだ背中を晒して、ジークが座っている。
力尽きるように房事が終わってから、二人はただの一言も言葉を交わしていない。
言葉にしてしまえば、その瞬間、一つの関係が終わってしまう事を、暗黙のうちに二人は理解していたのかもしれない。
のろのろとジークが脱ぎ捨てられた服を拾う。
振り切るように、シャツの袖に手を通した。
「ベルのこと頼んだぞ」
絞り出すように呟いたジークに、アイシャが答える。
即座に返した返事は、まるであらかじめ用意されていたかのようだった。
「ハイ、ジーク様」
背を向けたまま、その答えを聞いたジークが、寝台から立ちあがる。
足音が遠のく。
アイシャは振り返らない。
躊躇わないその足取りこそ、ジークの決意の表れであり、そして、アイシャへの信頼の証しだった。
内側からかけていたアイシャの部屋の鍵をあける音。ドアが開き、閉まる音。ジークがアイシャの部屋から、永遠に立ち去る音。
スカウトであるアイシャの耳を持ってしても、ジークの足音が聞こえなくなってから、初めてアイシャは別れの涙を流した。
その日の昼、何時ものようにふらりとメッシュと外出したジークが、再びデーニッツ商会に戻る事はなかった。
夕飯時になっても帰らない二人を心配した使用人が、ジークの部屋で「冒険者になる」とだけ書き記したシンプルすぎる置手紙を発見し、大騒ぎになるも、時すでに遅く、リオスの街に二人の姿はなかった。
担ぐ神輿を失ったジーク派は気勢の上がらぬまま自然消滅し、暫くのちに正式にベルがデーニッツ商会の後継者となった。
ベルとアイシャが、凸凹主従コンビと再会するのは、それから一年ののち、商用で訪れたアイヤールは陰影領の奴隷市場での事になる。
了