彼女と最初に出会ったのは、安い食堂で空腹を満たしている時だった。  
 《裸足の王様》亭という名の、浮民・奴隷向けレストラン……というか小汚い飯屋だ。この飯屋の食い物は正直、不味い。ここが人族の街だったら即潰れてるレベルだ。一番マシなのが”シェス湖のきれいな水”だっていうんだから、その程度が知れる。  
 さりとて、その不味い飯屋以外で何か食べられそうな場所も近くにはなかった。仕方なく手作りソーセージ盛り合わせなどを頼んでみたはいいものの、これが生臭くて食えたものじゃなく、このぶんじゃ魚料理とやらも望み薄だと諦めかけた時だった。  
 ――そう、彼女が店の中に踊りこんできたのだ。  
 亜麻色の髪の若い娘だった。  
「ごめん! テーブルの下貸して!」  
 そう言うと彼女は勝手に僕の座っているテーブルの下に潜り込んだ。  
 周囲で同じように不味い飯を我慢して食べていた浮民の人たちが、不審げな様子で僕とそのテーブルをチラ見して、そっと距離をとる。僕はこっそり口の中のソーセージ(と店主が称するもの)を皿の上にうえっと吐き出した。  
「クソアマ!! どこに逃げやがったァ!」  
 と、店の入り口でやかましい怒鳴り声がして、数体の蛮族が現れる。声のでかさでわかった。ボガードだ。  
「おい、そこのてめえ! ここに怪しい女が来なかったか?」  
 そこのてめえ、とは僕のことらしい。僕は手の甲で口もとを拭いつつ、静かに席を立った。  
 テーブルを身体の後ろに隠すようにして進み出る。  
「すみませんが見てませんね」  
「ああ、そうか」  
 ボガードはあっさり引き下がった――なんてことはなかった。  
「じゃあ、代わりにお前を殺して、ヤツを始末したことにしてやるよォ!」  
 案の定、襲い掛かってきた。  
 はぁ、まったく……この街じゃいつもこれだ。  
 やってられない。  
 僕はハードノッカーを嵌めた手をワキワキさせて、グッと握りこんだ。スッと腰を落とし、間合いを見極めて踏み込む。手斧を振り下ろそうとしていたボガードの機先を制して、腹に一発。ついで顎にも一発ぶち込んで、滑るようなバックステップで距離を外す。  
「て、てめえ……ッ!」  
 
「人間風情がァッ! 殺すッ!」  
 激昂して武器をぶん回すボガードどもをひょいひょいと躱し、間をすり抜けるようにして背後を取る。さっき顎にヒットさせた奴がヨタヨタしていたので、すかさず回し蹴りをぶち込んで沈めた。  
 パキッ、と頚骨を砕く感触がスタンパー越しに伝わってくる。  
 ――必殺の一撃だった。  
 これをくらって生きていたらむしろおかしい、と思えるくらいの。  
 ぐらりと身体ごと傾いて膝から落下したボガードが、テーブルに倒れこんで派手に料理をぶちまける。  
「うわっ、うわわっ!」  
 テーブルの下に隠れていた”怪しい女”こと彼女が慌てて転がりだした。僕の手際に半ば唖然としていた生き残りのボガードたちも、それを見て再び激昂する。  
「いたぞ! あの女だ!」  
「殺せぇーッ!」  
 ボガードどもが汚くて狭い店内で暴れまわり、皿やら椅子やらそこらじゅうの物を手当たり次第にぶっ壊す。客の浮民たちは驚くべき素早さで店の外へ退避し、あるいは安全な物陰で身を縮めて隠れていた。  
 僕と彼女は必死こいて逃げ回り、隙を見ては反撃する。彼女もなかなかの手練のようで、武器こそ持っていないものの身のこなしは風に舞う羽のようだった。  
 ――と、僕ものんびり観戦している場合ではない。  
 ボガードが踏み込みざま棍棒で薙ぎ払ってくる。その一撃をむしろ間合いをつめることで殺し、そこから腕をとって投げに移った。関節を逆に極め、体勢を崩したところを足払いで一閃。  
 見事に宙を舞ったボガードの巨体が、さらにもう一匹のボガードを巻き込み、店のど真ん中をごろごろと横断して散らばった皿をバリンバリン踏み割った。  
「……もぅっ! やってらんないわっ」  
「同感だね」  
「そこの人! ケツまくって逃げるわよ!」  
「うん、まったく同感だね」  
 僕は彼女と呼吸を合わせて、店から飛び出した。  
 ……で、まあ、予想通りというか、やつらはしつこく追ってくるわけだ。  
 しかも数が増えてやがんの。  
「事態悪化してるじゃない! どうしてくれんのよ!」  
「こっちは巻き込まれたんだぞ! そっちこそどうにかしてくれ!」  
「あーもー……っ! ええい! 二手に分かれて逃げましょ」  
 同意した旨を伝えると、彼女はニコッと微笑んだ。  
 亜麻色の髪が風に流れてその微笑を飾る。  
 ――霧の街に来て、僕は初めて美しいものを見たと思った。  
 もっとその笑顔を見ていたかったけれど、空気を読む文明を持ってないボガードとその仲間の連中がどやどやと追いかけてくる。仕方なく、僕と彼女は別々の路地にさっと分かれて全力移動した。  
 ……うう、すきっ腹に響く。不味くてももっと食べておけばよかった、と少し後悔。  
 細い路地に駆け去る直前、彼女がウィンクして言った。  
「あたしはマリリンよ。月夜蜂のマリリン。縁があったらまた会いましょ。その時は奢るわ」  
 僕はその名前を聞いたことがあった。誰に聞いたんだったんだったか……そう、確か袋小路長屋のミランダばあさんだ。蛮族の暗殺が趣味のアブナい女がいるとか。通り名を――そう、”首狩り”。  
 ”首狩り”のマリリン、だ。  
 
 それから少し経って、僕は彼女と再会した。追い剥ぎ小路辺りをぶらっと流している時に、バッタリと行きあったのだ。  
「あれから無事だった?」  
 あのときの微笑そのままに、彼女は快活に話しかけてくる。身体にぴったりとフィットした黒い皮鎧を着け、腰には使い込まれた小剣を帯びていた。  
「なんとかね」  
 と、僕は肩をすくめた。この街じゃ逃げ足の速さは生死に関わる問題だ。その点に関しては多少の自信があった。剣でなく格闘を選んだのも、腕力より素早さを生かす道としてだ。  
「どっかでご飯でも奢るわよ。約束だしね」  
「じゃあいい店を知ってる。僕の主人の店だ」  
 その店は”ヤムールの酒場”といった。霧の街には珍しくまともな飯が食えると評判の店だ。  
 主人は芸術的な編み髭のドワーフで、名誉蛮族。だが蛮族に魂を売った振りをしつつもダーレスブルグ公国に協力しているというスタンスだと説明されていた。事実、ヤムールは人族の抵抗組織”風の旅団”とも連絡を取り合っている。  
「いずれ街を脱出してカシュカーンに情報を持ち帰るのを条件に、言えばいつでも首輪外してくれるって。いい人だよね」  
「で、あんた頭ッからそれを信じて首輪つけたの? お人好しねえ」  
 だってそれつけてたら気分次第でいつでも殺せるんだよ、と彼女は――マリリンは僕の首輪を指差す。  
「あたしだったらぞっとしないな」  
「逆に聞くけど、ヤムールさんが僕なんか殺して何の意味があるのさ」  
「いやまあ、そうかもしんないけど」  
「奴隷なんかって言うけど、この街じゃ誰かの奴隷になってた方がずっと安全だよ」  
 僕はもう何杯目かになる葡萄酒を傾けた。木製の深いカップになみなみ注がれた葡萄酒は軽く暖めてあり、蜂蜜が入っていてとても美味い。特にこの店のは味にうるさいドワーフの店だけあって、ちょっと他にないくらいの逸品だった。  
 何より、奢り酒ほど美味いものはない。  
 おかげで酒が進んで、いつのまにやらついつい身の上話なんかしてしまう始末だった。  
「風の旅団に協力していれば、いつか有用な情報や脱出の糸口がつかめるかもしれないしね」  
 お人好しねえ、とマリリンが繰り返す。  
「話し振り見てると育ちもよさそうだし。あんたみたいのが、なんでこんなとこに流れてきちゃったのさ?」  
「その……なんていうか……逃げそこなった?」  
 
 僕は元々南の大陸で冒険者をやっていた。だがあるとき、ちょっとばかり強すぎる蛮族とぶち当たってパーティーは戦う前に敗走、その際に取り残されちゃったのが僕……という、まあなんとも情けない始末ではあるのだけど。  
「それあんた、捨て石にされたんじゃないの?」  
「えー? いやそんな……ことはないと……思、う……?」  
 断言できないけどね。  
「ま、あんたぐらいの腕と逃げ足があったら捨て石ってこともないか」  
「そのへんは霧の街に来てから磨かれたからなあ……」  
 それから、故郷の話なんかをぽつりぽつり話した。何年も前に飛び出したあの小さな町は今頃どうなっているのか……なんて、最近は考えてしまうことが多い。  
 聞いてみると、マリリンもごく近所の村の出身らしかった。僕らは懐かしくなって、あれこれと町の有名人の名前を挙げてみたりして、今頃彼らがどうなっているのか勝手に予想して盛り上がった。あの町長は絶対もう髪がなくなってると思う、なんて……。  
「――君の噂は聞いてる。蛮族を殺しまくって恨みを買ってるって」  
 とっぷりと夜も更けた頃、ランプの灯りを挟んで僕らは寄り添うでもなく並び、スツールに腰掛けていた。  
 ほろ酔い加減で亜麻色の髪を手櫛で梳く彼女の横顔。非凡な美人というわけじゃない。でも、ひどく心をざわめかせるような魅力があった。  
 鋭利さ。  
 あるいは、危うさ。  
 研ぎ澄まされた刃というよりは、割れた玻璃のギザギザの欠片のような、洗練されない、だからこそ危険な輝きが彼女の横顔には宿っていた。  
「ねえ……マリリン。それだけの腕があって、この街から出たいとは思わないの?」  
「思わない」  
 マリリンは断言した。  
「あたしはこの街でやることがあるの」  
「仇が……いるの?」  
 ちょっと人の事情に踏み込みすぎかな、と思いつつ、恐る恐る聞いた。マリリンはにやっと笑って横に目を流し、ぼんやりとした仕草で前髪を弄った。  
「……そいつはもう殺したわ」  
「じゃあ、どうして」  
「憎いから殺し続けるの――。それだけよ」  
 瞳に暗い炎を燃やして、彼女は凄惨に微笑んだ。そんな笑い方もできる女性だった。でもそれは……僕には、とても辛そうな様子に見えたのだ。  
 だけど彼女の生き方に、僕が口を挟むのも差し出がましいような気がした。彼女は十九歳、大人の女性。それも僕より二つ年上だ……。  
 ――手ごわいよなあ。  
 マリリンが無言で葡萄酒に唇をつける。僕の視線に気付いて、「……ん?」という感じで小首をかしげた。  
 僕は迷いながら、口を開く。  
「――ひとつ、仕事があるんだけど」  
「それは蛮族を殺せる仕事?」  
「……なるべく、そうならないほうがいい仕事」  
 ”風の旅団”からの依頼。この街の東にある”叫びの門”を見張り、その様子を観察する任務だった。  
 さして難しいミッションではないけれど、丸一日かかるから一人では寝る時間がなくて辛い。さりとて、気配を殺す心得がないと相棒には選べない。そこのところ、マリリンはうってつけだった。  
「どうかな? 組んでくれる?」  
 いいよ、とマリリンはあっさり頷いた。  
「あんたには借りもあるからね」  
 
 ”叫びの門”は、海路を除けば唯一、この街で外へと繋がる道だ。  
 赤黒い城門はその昔の戦争で死んだダーレスブルグ兵の血が塗り込められているとも言われる。門衛には常に二十匹からのアンドロスコーピオンその他がうじゃうじゃと就いていて、交代制で二十四時間真面目に警備しているんだから、まさに地獄のような光景だ。  
 僕たちはその門の様子を、近くの廃墟に身を潜めて窺っていた。  
 観察してわかったことだけど、朝から夕方までは門は片方開いている。そこから蛮族の集団がゾロゾロと出たり入ったりするのだ。  
 夜になる直前に、門は閉じた。閉門の前に武装した蛮族の一団が――多分人族の集落を襲撃し略奪するのだろう――偉そうにふんぞり返って出て行った。  
 僕はそれをじっと考え込みながら睨んでいた。  
「何考えてるの?」  
 夜闇の中でマリリンが囁く。  
 日のあるうちに交代で睡眠をとり、夜の時間帯は二人とも起きていようと決めていた。霧の街の夜は危険だからだ。夜は蛮族の時間だ。三百年も地下の暗闇で暮らしてきたせいか、奴らのほとんどは夜目が利くし、ティダンの威光たる太陽が大嫌いだった。  
「……うまいことやって、あの門をすり抜けて行けないかと。そう思わない?」  
「あたしはあいつら皆殺しにしたいとばかり考えてるわ」  
 そう言うマリリンの双眸には、剣呑な光が宿っていた。  
「勘弁してよ。今回はさ」  
「わかってるわよ。でもあいつらのにやけ面を見てるとはらわたが煮えくり返るの。この気持ちは自分でもどうにもならないわ」  
 あの門を見てるとどうしても思い出す、と彼女は言った。  
「あたしはあの門をくぐってこの街に連れてこられたのよ。鉄の檻の中に閉じ込められて。本当なら奴隷市場に行くところだったけど、御者が何人か減らすって言い出したの。数が多くて運びにくいからって。ねえ、”減らす”ってのがどういう意味かわかる?」  
「開放する……わけじゃ、ないよねえ」  
「遊んで殺して食べるのよ」  
 もう五年も前のことになるのね、と呟く彼女の声は乾いていた。  
「……たった五年、かな。妹と弟も一緒に連れてこられてたわ。妹はあたしの目の前で陵辱されて殺された。”荷物になるから”って理由でよ。その後、あのクソ豚どもは妹を刻んでスープにして奴隷たちに配ったの。もちろん、面白半分に」  
 僕は耳を塞ぎたい気持ちに耐え、沈黙して彼女の話を聞いた。  
「弟はスープの皿をコボルドの顔に叩きつけたわ。そして首をもがれて死んだ。あたしだけが助かった……スープを、食べたからよ。妹のスープをね」  
 マリリンは喉の奥でくつくつと笑った。一瞬、泣いているのかと思ったけれど、そうじゃなかった。彼女は笑っていた。とてつもなく凶悪な目をして。  
「妹の仇を殺したのは十六の時。毒を使ったのよ。あのゲロ虫どもはアホみたいに喉をかきむしって死んだ。死に顔を見たときは思わず涙が出たわ。嬉しくて」  
 凝って形を成しそうな殺気に、僕はゾクリとする。  
「もっと殺すわ。一匹殺せば一匹減る。殺して殺して、この街の蛮族を根絶やしにしてやる」  
 マリリンは、そう言って門に群がる蛮族どもを睨む。全てが凍りつきそうな視線だった。  
 
 僕はしばらく考え込んだ。そして迷いながら、ぽつりと言った。  
「……一匹や二匹殺したところで、結局奴らは減らないんじゃないかな……?」  
「そうかもしれないわね。奴らは増え続けるから、殺し続けないと」  
 まるでそれが楽しみでもあるかのように、彼女は声を弾ませる。  
 僕は悲しくなった。  
「そしていつか自分も殺されるの?」  
 彼女が表情を消して振り返る。その顔を見つめ続けるのが辛くて、僕は目を逸らした。  
「ねえ……マリリン。それは終わらない復讐だ。それに何の意味があるの?」  
「――あんたには関係ないでしょ」  
「何かを取り戻すためでも前に進むためでもないとしたら、それはある種の自罰行為だよ。スープを食べたことを後悔してるなら、それはもう許されたっていい」  
「…………」  
 彼女は舌打ちをした。押し殺した苛立ちを吐息に含めて吐き出す。  
「マリリン、僕は――」  
「……知った風な口利かないでッ!」  
 彼女が声を荒げた。  
 僕は慌てて周囲を見回す。マリリンもはっとして身を低くした。門のそばでくっちゃべっていた蛮族どもが怪訝そうな顔をして廃墟を見上げてくる。おいお前見てこいよ、と汎用蛮族語で居丈高に命じるのが聞こえた。  
 僕とマリリンは顔を見合わせて、廃墟の家具の陰に隠れた。狭い空間に身体を密着させるようにしてねじ込む。  
 やがて、レッサーオーガらしき蛮族が数匹、廃墟に近づいてきた。部屋の中をざっと見回して、手にした棒っきれで適当にそこらを引っ掻き回す。だが僕たちの痕跡を発見するには至らない。  
 レッサーオーガどもは「やっぱ気のせいじゃね?」とか言い合いながら背中を向けて、戻っていこうとする。  
 そこで――僕にぴったりくっついたマリリンの身体がピクリと動いた。暗闇の中でもわかる。彼女は「今が奇襲のチャンス」とか考えているに違いない。  
 僕はすかさず彼女の腕を封じた。体勢として、ぎゅっと抱きしめるような格好にならざるを得ない。  
 密着して抱きしめて……まあその、彼女の髪の甘い匂いとかを感じたり、想像以上に柔らかい体の感触とかを感じてしまったりしたわけなんだけれど、そんなこと今言っている場合じゃなくて。ええと。  
 ……なんて考えているうちに、気がつけば蛮族どもは姿を消していた。  
 なんとかやり過ごせたようだ。ふうっと息をつく。  
 と、腕の中でマリリンが言った。  
「いつまで抱きついてんの」  
「あ! ……ご、ごめんっ!」  
 慌てて手を放す。顔が熱かった。なんだかやたら恥ずかしい。いやっ、だって、考えてみればほとんど押し倒すというか、その……っ!  
 一方で、彼女の方は落ち着いて鎧の位置なんかを直していたりした。  
「え、えっと。マリリン、……あのさ」  
「何?」  
 何気なく視線を向けられて、僕はやっぱり顔が熱くなる。  
「悪かったよ。その……もう言わないよ」  
 彼女は返事をしなかった。たぶん、聞こえない振りをしたんだろう。  
 
 それからというもの、僕はたびたびマリリンと組んで動くようになった。僕は”風の旅団”の協力者で、マリリンは娼婦街を拠点とする”月夜蜂”の一員。組織は違うが、立場はほとんど変わらない。僕たちを通じて、組織間の連絡が交わされることもあった。  
 二人で組めばたいていはうまくいった――ひとりでは無理な任務も、マリリンとなら不安はなかった。だけど厄介なこともある。何しろ、マリリンときたら蛮族と見ると殺したがるから。  
 それも手ごわい相手ほどムキになって挑戦したがる。多数に囲まれて窮地に陥ることもたびたびあった。組織間の手紙の配達の際、運悪く行きあった”汚水の女王”オンディーヌに喧嘩を吹っかけた時は死ぬかと思った。九死に一生を得たのは幸運と言うほかない。  
 おかげでというかなんというか、敵の力量を読む目と逃げ足はいっそう磨かれた。こと生き延びるという一点に関しては霧の街でさえ恐れるものはなかった。それこそ、老いるまでここで生き延びられるほどに。  
 いやはや、恐るべきは冒険者という生き物か。こんな地獄の隣近所みたいなところでさえ適応するんだから。  
 僕はマリリンといつものようにヤムールの酒場で飲み交わしながら、来し方のことをそんなふうに考えていた。  
 来し方のこと、そして行く先のことを。  
「でね、その子さっぱり他の客をとらなくなっちゃって……」  
 マリリンが葡萄酒を片手に娼婦街で聞き込んだという噂話をしていた。知り合いの娼婦の娘が、司祭様だかってオトコにのぼせ上がってどうしようもないとか、そんな話だ。  
「聞いてみたら、その司祭様の方はどっかに逃げちゃったっていうから酷い話よねー。ねえ聞いてる?」  
「――街を出ようよ」  
「へ?」  
「一緒に霧の街を出よう、マリリン」  
 僕には故郷に残した家族がいる。父と母、ふたりの妹、叔母、祖父……は、まだ生きているだろうか。最近、家族のことが思い出されてならなかった。退屈のあまり家を飛び出して冒険者になった僕だが、この辺で一度里帰りする時節なのかもしれないと考えていた。  
 マリリンの目をじっと見つめ、僕はもう一度言った。  
「一緒に来て欲しいんだ」  
 
 門の見張りをしたとき以来、ずっと胸のうちで暖めていた計画を僕は話すことにした。  
 単純で、そして困難な計画だ――昼間、あの門が開いている時にこっそりと抜ける。変装して蛮族の一団に混じり、堂々と門をくぐって、そしていつのまにかすっと一団から姿を消すのだ。気付かれなければ、こっちの勝ち。あとは二人でカシュカーンへ向かう。  
「そんなこと」  
「君とふたりならやれると思う」  
「あたしは行けない」  
「どうして」  
 マリリンは頑なに唇を結んで目を伏せた。僕は言い募った。  
「カシュカーンに戻って、情報を伝えて、軍隊を動かそう。それがこの街の蛮族を一掃する唯一の方法だよ。それとも、まだ私怨が晴らしたりないの?」  
「……もちろんよ」  
 亜麻色の前髪を透かして、血に飢えた瞳が覗く。背すじが寒くなるような目つきだった。  
「もっと殺すわ。言ったでしょ。憎いから殺し続けるの……!」  
「殺しても殺しても、君は救われない。もうわかってるはずだ」  
「もうやめて。……帰るわ」  
 マリリンがせかせかと席を立つ。僕は苦いため息を飲み込み、そして――叫んだ。  
「……犬死にって言うんだよッ、そういうのはッ!」  
 マリリンがきょとんとして足を止める。  
「何? ……今、なんて? 何言ってるのよ、いきなり?」  
「憎いから殺し続けて、そのあげく返り討ちにあって死んで! それまでに何十匹か道連れにできたら偉いの? それで満足? それで何かが変わるの? この街のクソミソさが何とかなると本気で思うの? ……なるわけないだろッ!!」  
「………………」  
 マリリンが目を見開き、沈黙する。  
 僕は激昂して木のゴブレットを壁に叩きつけた。ヤムールさんが物言いたげにちらりと見てくるが、頭がカッカきている僕は自分を止められなかった。  
「予言してやるよ。そうやって、君はこの街の一部になっていくんだ。殺しと略奪でできたゲロ壷みたいな街に同化して、君自身が霧の街になるんだ。君のやってることは蛮族と同じだ。やられた事をやり返して、そうしてゲロ壷のゲロと同じ存在になるのさ」  
 そうとも。この街に流れ着いた冒険者はみんな同じだ。ルールに適合する。そしてルールの一部になる。暴力がすべてっていうルールに。  
 だけど、その行き着くところは、人族の品性と誇りを捨てるってことだ。  
「何か言い返せよッ! マリリン!!」  
「……おやすみ」  
 マリリンは、そっと肩をすくめ、何やら後ろめたそうな微笑を残して、ヤムールの店から立ち去った。さも、大人の女みたいに。僕はもどかしくて悔しくて、酒を呷りながら半べそをかいた。  
 
 その日の深夜。  
 やるせなさで眠れず、寝台で輾転反側していた僕は、小部屋のドアの前に誰かが立つ気配を感じた。  
 敵ではないようだった。殺気がない。  
 ――こそ泥か?  
 苛々とした気分のまま、僕は足音を殺してドアに歩み寄る。とっさの事態にも対応できるよう、重心は両足の中央に。さらに双眸にマナを集中させ、暗闇を見通す”梟の瞳”を発現する。  
 そしてドアを一気に引き、開け放った。  
「――きゃ!?」  
「……マリリン?」  
 そこにいたのは、今にもノックをしようか、どうしようかと躊躇うような格好で片手を上げた彼女だった。  
 娼婦街の拠点に帰ったはずじゃ、と言いかける僕に、マリリンはばつの悪そうな顔で言った。  
「友達のところを追い出されたの。客をとるからって」  
 安全な寝床で一番近いのってここだし、と言い訳じみた口調で続ける。  
「それに、色々考えたけど、やっぱり謝ったほうがいいのかなあって。……あの、あたしね。他人にあんなふうに心配されたことってなくって。なんていうか……どうしていいのか、よくわかんない」  
 えへへ、と照れたように笑う。  
 僕は脱力して、とりあえず、彼女を部屋に導きいれた。マリリンは冷えるのか、自分の背負い袋から毛布を出して、それに包まった。僕はなけなしの蒸留酒の壜を出してきて、彼女に振舞う。本当なら温かいものが欲しいが、贅沢は言ってられない。  
「結局ね、あんたの言う通りなのよ」  
 夜霧を透かして、月光がかすかに窓から差していた。マリリンは毛布に顔をうずめて壁に寄りかかった。舐めるように蒸留酒を少し飲み、そして話し始めた。  
 彼女の唇が秘密をつむぐ。  
「復讐になんか意味はないわ。その通りよ。ずっと前から知ってたのよ。そしてあんたの言う通り、あたしはこの街と同化しようとしている。……ねえ、つまらない話だけど聞いてくれる?」  
 僕は頷いた。  
 
「前にあたしの家族が蛮族に殺された話はしたわよね……。あれね、言ってなかったことがあるの。あの日、妹と一緒にあたしも犯されたわ」  
 蛮族でもごく弱い部類であるゴブリンどもだった。霧の街に拉致されてきたその当日、ゴブリンどもは『荷物を減らすため』に遊び半分でマリリンの妹を犯して殺し、食った。  
「弟の目の前でひん剥かれて、四つんばいにさせられて、お尻を並べて輪姦されたの。十匹ばかりにね、便所の代わりに使われたわ」  
 それが何日か続き、気が狂いそうになった。妹はもっとひどかった。美人だったからだ。  
「ろくな食べ物も与えられずに、生きるためにゴブリンどもの精液を啜ったわ。ねえ、本当の本当に、何かを憎んだことってある? 憎いって感情、わかる? あたしは知ってるわ。憎しみと殺意がどう違うのか説明できる。殺意は冷たくて甘い。憎しみは内側が焼け爛れるのよ」  
 やがて、ゴブリンどもは『荷物を減らそう』と言い出した。マリリンと彼女の妹のどちらかを捨てることに決まる。どっちを捨てるか、バルバロス式に決定するのだとゴブリンどもの頭領は言った。  
「妹と殺し合いをしろって言われたの」  
 調理用の肉をさばくのに使うナイフを与えられ、お互いに殺し合えと命令された。逆らえば二人とも死ぬのはわかっていた。  
「…………」  
 僕は絶句して目をきつく閉じた。マリリンの語りは、しばらく途切れた。  
「……詳しい話は、さすがにやめておくわ。口に出したくない。要は、あたしは生きてここにいるってことで、あとは察して。あんたが想像したので大体合ってるわ。付け加えるとしたら、あたしは最終的に死んだ妹の身体を刻んでスープにぶち込んだってことぐらいよ」  
 マリリンの指先が、暗闇の中で細かく震えた。僕はそれをそっと握り、暖めるようにさすった。  
「わかる? つまりあたしは人殺しだし、十分以上に蛮族と似たようなものだってこと。もう戻れないのよ。あたしだけは、戻れないようになってるの……」  
 もどれないのよ、と断じるその声が、僕には助けを求めるように聞こえた。僕は毛布の上から彼女を包むように抱きしめた。  
「マリ、リン……」  
「どうして、あんたが泣くのよ」  
「君は悪くない」  
「あんたにッ……そんな、こと、言われる筋合い、ないわ」  
「そんなことない。君は悪くない。悪いとしても、もう赦された。僕が赦した」  
「前から言おうと思ってたけど、あんたって結構、傲慢よね」  
 口ではそう言いながら、マリリンは寄り添うように額をくっつけてきた。体温が伝わる。彼女の息の匂いがした。  
 マリリンは僕の腕の中で、少し緊張しながら、訴えるようにじっと見つめてきた。僕は躊躇しつつも、そっとマリリンの頬に口づける。マリリンのおとがいが僕を追うように動き、自然と、僕たちは唇を合わせた。  
 躊躇いがちで、ささやかな、けれどとろけるような甘い口づけだった。  
 
 暗闇の中の彼女の濡れた瞳。震える呼吸。  
 ……マリリンが、尖った声で囁いた。  
「やっぱりあんた一人で行って。だいたい、あたしは外に出ても身寄りがいないもの」  
「僕の家族になればいい」  
「やめてよ」  
「本気……だよ」  
「あたしを妻にしようって言ってるのよ? わかってんの?」  
「もちろん」  
「あたしの話、聞いてたの?」  
「うん、もちろん」  
「あんた、バカなの?」  
「……たぶん」  
「……バカ。バーカ」  
 泣きそうな顔で言う彼女をきつく抱きしめて、僕は強く唇を奪った。  
 覆いかぶさるように寝台に押し倒して、何度も、息が苦しくなるほど口づけをした。互いの体温を分け合うように肌をまさぐる。  
 服の紐を手繰ると、彼女はびくんと身体を硬くした。  
「……ごめん。怖い?」  
「ん……。そういうんじゃ……ないの」  
 マリリンはふっと脱力した。何かを諦めたような顔で、そっと僕の胸を押しのける。  
 そして自ら、革鎧を外し、服の前紐を解いた。  
「……いまさら、びっくりしないでね」  
 灰色の月光に浮かび上がる、彼女のくびれた輪郭。  
 柳のように細い腰、引き締まった柔軟な背中の筋肉。亜麻色の髪の絡まる乳房は意外なほど豊満で、僕は頭がくらくらするほど欲情した。  
 彼女の素肌に触れる。  
 
 ――ざらざらとした、凄惨な傷の感触が掌に伝わってきた。  
 
「これだから、あたしは娼婦になることもできなかったの」  
 マリリンは淋しそうに笑った。無数の、背中を埋め尽くすほどの傷痕。切り刻まれ鞭で打たれ痛めつけられた、その赤黒い傷痕を恥ずかしがるように彼女は自らの身体を抱いた。  
「ねえ……あんた、こんなあたしを抱ける?」  
 僕は迷わずに彼女を抱き寄せた。  
 無性に愛しさがこみ上げて、むしゃぶりつくように傷痕に口づける。  
「綺麗だ」  
「…………っ、……バ、カァ……」  
「好きだ」  
 今度こそ僕は彼女をひん剥いて、すっぱだかにして、寝台に押し倒した。  
「……やっ……」  
 何度も、何度も唇を吸って舌を絡める。たまらなく気持ちよかった。  
 柔らかな乳房を押し潰すように両手で揉む。可愛らしい乳首を指先でいじくる。マリリンの押し殺した喘ぎ声が漏れ聞こえるたびに股間が痛いほど膨張する。  
 僕は躊躇いがちに、でも堪え切れずにせわしく、彼女の秘部に触れた。  
「……ふっ……、…………んっ……、っ…………ひ、ぅ……」  
 マリリンが怯えたような顔で僕を見上げてくる。  
「濡れてる、よ……?」  
「…………ん、っ……」  
 ぎゅう、としがみつくようにマリリンが僕の肩をつかむ。  
 涙声で、懇願するように囁く。  
「怖い……」  
 僕はハッとした。こんなにか弱くて、切なそうな彼女の声を初めて聞いたのだ。  
「ご、ごめん……! い、嫌……だった?」  
 彼女はふるふると首を振った。  
 僕の胸に赤ん坊のように顔をこすり付けて、むせび泣く。  
「怖い……。怖いの。幸せだから」  
 はたはたと熱い涙がこぼれて僕の胸を濡らした。  
 僕は静かに彼女の亜麻色の髪を撫でた。  
「別に怖くないよ。その……どう言っていいかわかんないけど……。いいんだよ、それで。それでいいんだ」  
 落ち着いてもらおうと思ってそう言ったら、彼女は余計に泣いた。  
「あたし、憎い相手をどうするかは知ってるわ。でも、好きな人にどうしていいかわからない」  
「任せて」  
 僕はマリリンの頬をくすぐるように口づけた。  
「教えてあげるよ。一つ一つ、全部教えてあげる」  
 マリリンはなぜかかぁーっと頬を染めて、……こくん、と素直に頷いた。  
「……どうするの? どうすれば、いい……?」  
 それがあんまり可愛かったので、僕はいたずら心を起こした。  
 にやっと笑って唇を舐める。  
「まず、脚を開いて僕の上に跨って……」  
「……ばか」  
 そう言いつつ、彼女は僕の言うとおりにした。  
 そっと粘膜を擦りつけ合い……やがて、ぬぷりと深く沈める。  
「……ぁ、……はぁっ……」  
 甘い陶酔が腰の奥を貫いていく。  
 ゆるり、ゆるり、と彼女が身動きするたび、痺れるような快感が襲ってきた。我慢できなくなって、僕も下から激しく突き上げる。際限なく硬くなった僕のものがゴリゴリと彼女の中を擦り、その度に膣が絞り上げるようにきつく締まった。  
「あ、う、…………ん、……はぁうっ!! ……んぁ、や、あ、ああっ!! ああああっ!!」  
「き、つ……いよ、マリ、リン……」  
「はげ、はげしいの、らめ、……ん、ふぅ、……はぁあっ!!」  
 柔らかくてみずみずしい肉と粘膜の感触に誘われて、僕は激しく射精した。  
「はぁ…………あぁ…………」  
 汗まみれのマリリンが、放心した表情でぐったりと身を預けてくる。だが、僕はそれで満足はできなかった。今度はマリリンを下に組み敷いて、両足を抱え込む。  
「ぁ……ちょ、……やだ、嘘……」  
 涙で潤んだ瞳で、焦ったように僕を見上げてくる。こういう彼女もいいな、と僕はマリリンの魅力を再認識して、さらに強力に勃起した。  
「あ、ぅ……。んっ……!!! ゆ……ゆっくり……して……。……は、ぁ、んんんぅっ……!!! んぁっ!! ……は、はげしいの、ら、めぇ……っ!!」  
 夜はまだ長い。たっぷり彼女を幸せにしてあげよう。僕はそう決めた。  
 
 『叫びの門』とは、その開閉時の断末魔のような音から付けられた名だ。門は分厚く、見上げて絶望するほどの高さがある。門の左右には魔動機文明の開閉装置を備えた二つの塔。  
 周囲には四六時中、蟻の巣の蟻のように無数の蛮族が徘徊している。  
 ――未明。  
 叫びの門に程近い広場に、列を成す群れがあった。  
 近隣を哨戒に出る蛮族の一団だ。思い思いの武器をぶら下げ、眠そうな顔でアンドロスコーピオンの隊長の指示に従っている。まだ出発前とあって弛緩してはいたが、どいつもこいつも凶悪な面構えのバルバロスばかりだった。  
 そのうちの一匹に、小柄なレッドキャップがいた。  
 腰の両側に短剣を吊り下げ、少し落ちつかなげにきょろきょろと列を見回している。保存食のつもりなのか、ネズミを紐で縛って木の枝にぶら下げ、肩に担いでいた。  
「おい、赤髪野郎。その臭えネズミはなんだ? 昼寝の枕にでもするのか? ……まさか弁当だなんて言わないよなぁ、おい? そんなもん、浮民のクズでも食わねえぞ!」  
 ボガードが汎用蛮族語ではやし立てた。薄い失笑が漏れる。だがレッドキャップは下を向いて何も言わなかった。レッドキャップがボガードに逆らっても勝てるわけがないのは明らかだ。ボガードも軽く鼻息を吹かすと、それっきり、そいつのことを忘れた。  
 日が高くなった頃、隊長が号令をかけた。  
 列がぞろぞろと叫びの門へ向かっていく。哨戒の一団は検閲されない。そのまま門をくぐり、列を乱さずに進む。――なにしろ、列を乱すと神経質なアンドロスコーピオンの隊長に射殺されるからだ。  
 一団は予定通りに、定例のコースを辿り、幾度かの休憩を挟みつつ、再び霧の街へと帰還した。  
 何の変事もなかった。  
 ……唯一つ、棒切れとネズミを担いだレッドキャップが一匹、いつのまにか姿を消していたこと以外は。  
 
 霧の街から歩いて二、三時間ほどの、暗い森の中。  
 深い霧の最中で、若い女の呟きが漏れた。  
「うえぇ〜、あいつらの臭いのひどいことったら……鼻がひん曲がるかと思ったわ」  
 逆立てた赤い髪をむしりとると、それは鬘だった。外套のフードの下から現れたのは、美しい亜麻色の髪だ。  
 いぼの浮くひび割れた頬を布で拭うと、それは瞬く間に消え、肌理の細かい白い肌が現れる。その変装の見事さは、男女差はもとより、人族と蛮族の区別さえ見失わせるほどだった。  
「折角奮発して買った<マジックコスメ>を、こんなことに使うとは思わなかったわ」  
 女――かつて”首狩り”のマリリンと呼ばれた彼女は、無念そうに呟く。  
 その足元、マリリンの投げ捨てた赤い髪の鬘がモゾモゾ動き、下からネズミがちょこんと顔を出した。  
「ま、命の値段って考えると安いかな。……ちょっと、あんたも早く着替えてよ」  
 ネズミがぴょこんと飛び出し、彼女の身体をタタタッと駆け上がる。そして襟元からするりと入り込むと、胸の谷間からおへそ、ふとももの間まで大冒険を繰り広げた。  
「きゃっ!? こら、バカッ! ……もう、何考えてんのよ……」  
「へへへ」  
 彼女の服の裾から這い出したネズミは、奇妙にも交易語で笑った。そして見る間にその姿はむくむくと大きくなり、やがて――一人の若い男になった。  
 つまり、僕だ。  
 錬体術の技には、自らの肉体を変幻させるものもある。シェイプアニマルと呼ばれるその技で、僕はここまでずっとネズミになっていたのだ。  
 ……ちなみにこの技、服を着てると使えないので、今現在僕は全裸だったりする。  
「早く服着なさいよ!」  
「いまさら恥ずかしがることないのに……」  
 と言いつつ、無防備なのも心もとなくて、僕はさっさといつもの装備に着替えた。足元にスタンパーがあるとやっぱり安心する。  
 マリリンの荷物袋を背負ってやりながら、僕は言った。  
「カシュカーンまではどのくらいかな?」  
「徒歩だと……ひと月はかかると思うわ」  
「先は長いね」  
 とはいえ、最も危険な地点は――霧の街は脱した。一息ついてもいい頃だろう。ああ、そこらを見回しても蛮族が居ないなんて。なんて素晴らしいんだ。  
 一歩歩くごとにあの危険地帯から少しずつ遠ざかっているのだ、と考えると、僕もマリリンも気分が高揚してくるのを抑えられなかった。  
 警戒を怠らない程度に、小声でくすくすと囁きあい、森を抜けて歩いてゆく。  
「カシュカーンに着いたら、まず何をしようか。宿を取るでしょ。で、やっぱりまともな食事が欲しいな」  
「ふふふ。あたし、決めてるのよ。宿に入ったら、まずそこで一番高いお酒を頼むわ。で、宿の主人と、ついでにそこにいる全員に奢ってやるの」  
「自慢話もしなきゃな。霧の街の凄まじさを思いっきり語ってやろう」  
 ――そこで、僕たちは示し合わせたようにふっと口をつぐむ。  
 別に話題がまずかったわけじゃない。  
 しゃべってる場合じゃないって気付いただけだ。  
「来たね」  
「うん。……蛮族かしら?」  
「いや……」僕は鼻をひくひくさせた。「死臭がする」  
 ――アンデッドの臭いだ。  
 やがて、森の暗がりにポゥッと不気味な光が点る。  
 ゆらゆらと可笑しげに揺れながら、そいつらは宙を漂って近づいてきた。  
 手にしているのは漆黒の大鎌。馬鹿でかいかぼちゃを頭に乗っけた死神のような姿……ジャックランタンという不死の怪物だ。  
「どうする?」  
 マリリンが落ち着いた声で僕に聞いた。僕も慣れた声で答えた。  
「いつもので」  
「了解」  
 そして次の瞬間、二人揃って全力疾走する。三十六計、逃げるにしかずだ。  
 薄い靄を掻き分け、木々の小枝を折り飛ばしながら、森を突っ切って飛び出す。  
 かぼちゃのオバケが金切り声を上げながら追いかけてくる。  
 ……しかも、また数が増えてやがんの。  
「ねえマリリン……。君といると、こんなのばっかりだね」  
 舌をかまないように気をつけながら、僕は隣を併走する彼女に言った。  
「文句ある?」  
「いや。退屈しないよ」  
 逃げ足の速さなら僕らは天下一品だ。どこまでも逃げて、逃げ延びてやるさ――。  
 絶望の、その届かないところまで。  
 
 
 
霧の街にてU 終  
 

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