霧の街の空はいつも薄暗い。  
 じめじめと陰気で、辛気臭く、昼でも太陽など拝めたためしがなかった。外に出て歩けばじっとりと暑く、夜ともなれば冷えた霧が露となって衣服を濡らす。この街で生きていくなら霧よけの外套は必需品だ。  
 左右と背後に注意を払う。  
 蛮族どもに目を付けられぬよう、フードを目深にかぶり、気配を殺して、壁際を足早に歩く。すれ違う者が人族でも気を抜いてはいけない。そいつはスリかもしれないし、蛮族に魂を売り渡した「名誉蛮族」かもしれないからだ。  
 入り組んだ小路を何度も曲がりながら、尾行を確認しつつ娼婦街の奥へと進んでいく。蜘蛛の巣のように複雑な街路だったが、既に道順は覚えこんでいた。  
 ――この街に流れ着いてから一ヶ月で、俺もすっかり霧の街の作法に慣れた。  
 レーゼルドーン大陸、シェス湖畔に位置するこの街は、蛮族の街だ。バジリスクの上位種が君臨するこのイグニスの痰壷は、かつての魔動機文明時代の遺跡の上に築かれたと聞く。その頃にはここにも晴れ晴れとした青空があったというが、本当の話だかどうだか。  
 まあ……、どのみち遠い過去の話だ。レッドキャップやグレムリンどもが大通りをのし歩き、浮民にいちゃもんをつけては殺したり奪ったり食ったりする今の惨状を見たら、四人の始祖とやらはどう思うのだろうか。  
 俺はなじみの宿の近くまで来ると、一旦歩みを緩めた。もう一度背後を確認し、ふと、遠く街を囲う城壁と灰色の空を見上げる。  
 あいかわらずぐずぐずとした天気だ。希望の一片さえ見えない。  
 舌打ちをし、俺はさっと娼婦宿の戸口をくぐった。  
 
 俺が帰ったことに気付くと、女は俯けていた顔を上げた。お帰りなさい、と呟く。  
 そして俺が一人で戻ったことを知ると、きゅっと唇を結んで涙を堪えた。  
 俺は外套を脱ぎ、粗末な椅子の背にそれを掛けた。  
 手短に説明する。  
「帰らずの街で死体を発見した。破損が酷くて顔の見分けがつかなかったが、人間の女で、緑にも見える黒髪だ。近くに男の死体もあった。どちらもまだ新しかった」  
 そして、彼女の遺品を懐から取り出し、見せた。  
 蜂の刺繍入りのハンカチだ。赤黒く血に汚れている。  
「これを持っていた」  
「……ミレーヌのものだわ」  
「そうだと思ったから、持ち帰った。悪いが死体までは回収できない。月神シーンの流儀で簡単に弔ったが、それでよかったか」  
「いえ……。いえ、いいのよ。……ありがとう、司祭様」  
 司祭様はやめろ、と俺は言った。神の声を聞けるのは確かだが、神殿の儀礼も説教の仕方もろくに知らない。第一、俺は盗っ人の生まれで、戦と冒険で食ってきた男だ。知ってるのは死者に祈りを捧げることと、シーン様が美人の人妻ってことぐらいだった。  
「十分すぎるわ……。私たちには。ミレーヌもきっと感謝してる」  
「だといいがね。ゴーストになってうろつかれても困る」  
 荷物袋と武器を下ろし、柔らかい寝藁にどっかりと腰を下ろす。無意識に周囲の聞き耳を立ててから、皮鎧の留め金を外した。  
 女がもう一度礼を述べる。こんどは涙も引いていた。きっとミレーヌの死も覚悟していたことだったのだろう。この街では死などありふれて、ありふれすぎたものだ。運が悪いと意味もなく死ぬ。それも残虐に死ぬ。遺品が見つかっただけでも幸運とさえ言えた。  
「少ないけど、これ、取っておいて」  
 百ガメル金貨が二枚。きっと仲間の娼婦たちが集めてくれたのだろう。俺は遠慮なくそれを頂戴した。その上さらに、他には何も付かないのかと聞いた。もちろん、冗談交じりにだ。  
「何でもしてあげたいけど……あげられるものが何もないの」  
 女は悲しい顔で笑みを作って言った。真面目な女だ。それに友達思いで、健気。おまけに色が白くて、結構美人だった。  
「あるさ」  
 女が心細げに組んだ腕を、俺はそっと取った。  
「とりあえず食える飯と飲める酒をくれ。それから、今夜は俺を客にとれ。いいだろ?」  
「あら……。好き者の司祭様ね」  
「だから――司祭様はやめろって」  
 女の手首を強引に引く。絡まりあうように寝藁にもつれ込んだ。女の囁くような小さな嬌声が耳をくすぐる。その笑顔に一筋こぼれた涙を、俺はぺろりと舐めた。  
 
 女はミレーヌの話をした。年端も行かない子どもの頃に娼婦になり、同じ境遇の二人が出会い、親友になった話。どっちがいい客をとれるか競争した話。ミレーヌにろくでなしの恋人ができたこと。ずっと、外に出たがっていたこと。  
 帰らずの街でがらくた山を漁って金を作ると言って、恋人と出かけて行ったこと……。  
 俺は彼女の丸くふくよかな乳房を撫で回しながら、口を挟まずにそれを聞いた。よくある話といえばよくある話だった。  
「ねえ……外って、そんなにいいところなの?」  
 彼女は霧の町の生まれだと言った。だから人族の普通の集落さえ知らなかった。そこには蛮族が一匹もいないし、霧がなくて空が青い、と俺が話してやると、彼女は不思議そうに首をかしげた。  
「――空が青いなんて、ヘン」  
 私はこの街から出るなんて考えられないわ……と、女が言う。女の両手の指がさわさわと俺の髪を撫でた。しがみつくようにして、裸の肌をぺたりとくっつけてくる。  
 若い女の肌はしっとりと吸い付くようで、温かく柔らかく、男の芯をうずかせるものがあった。綺麗な曲線を描く尻に、指を沈めて揉む。女が押し殺した悦楽の声を上げた。  
「……司祭様も、いつかここを出て行くつもりなの?」  
「さあな……」  
 俺は女の両腕を地面に押し付け、のしかかった。甘い臭いのする首すじに顔をうずめながら、腰を突き入れて女陰の感触を愉しむ。切なそうに濡れた粘膜は俺の逸物をキツキツに締め付けてくる。彼女は娼婦らしくこなれた腰つきで俺の快感を誘った。  
「行かないで欲しいな……。毎日、毎晩、通ってよ……」  
 ――私、司祭様の女になりたい。  
 その言葉に込められた切実さをあえて俺は無視して、客引きの手管だと思うことにした。俺は多分、酷い男だ。  
 これ以上余計なことを言わせぬよう、唇を口付けでふさぐ。女は無我夢中で俺の背を抱きしめてきた。膣の締め付けがたまらない。愛しげに絡めてくる舌を舐りながら、俺は彼女の子宮にたっぷりと注ぎ込んだ。  
 ――月の女神よ。  
 夜の守護者、娼婦と盗っ人の神シーンよ。  
 願わくばこの愚かな者たちを守護したまわんことを。  
 剣の加護あれ……。  
 
 それから、さらにひと月後。  
「……行くのね?」  
「ああ」  
 俺はアリアドネの問いに答えた。”月の娘”の異名をとるこのナイトメアは、娼婦たちを束ねる結社の首領だ。  
 結社の名は”月夜蜂”。  
 霧の街において蛮族に対抗する、人族の組織のうちの一つだった。  
「ああ。昨日からオルゾゾの海賊船が港に停泊してる。それに乗るつもりだ」  
「貴方には、借りがいくつかあったわね」  
 俺はアリアドネの元を拠点にして、いくつかの依頼をこなした。たとえば目立つ蛮族を暗殺したり、麻薬窟を襲ったりといった按配だ。「借り」とは、つまりはその報酬のことだった。  
「紹介状は用意しておいたわ」  
 アリアドネが折りたたまれた羊皮紙を差し出してくる。それから、数千ガメルの現金。  
「ここを無事に出られたら、現状をなるべく正確にダーレスブルグ公国に報告して頂戴」  
「言われなくても」  
 俺は金袋と手紙を取った。まずはいろいろと揃えなければならないものがある。守銭奴のザバールにまた金を毟られるのは業腹だが、背に腹は変えられない。三色の天幕に寄って、港へ向かうとしよう。  
 部屋を出ようとした俺に、アリアドネがポツリと言った。  
「彼女のことは……どうするの?」  
「――なんのことやら」  
 俺はとぼけてみせた。  
 むろん、わかっていた。あれからすっかり、まるで俺の専属になったみたいに毎晩尽くしてくれた娼婦の彼女だ。他の客もとらず、恋する乙女みたいな顔でいつも俺の帰りを待っていた。  
 蛮族を殺しに行く俺の帰りを、泣きそうな顔で待っていたのだ。  
 あの宿の戸口をくぐるたびに、ほっとしたような顔で飛びついてくる。司祭様はやめろと言ってるのに、全然直らないあのばかな女。  
「何も告げずに行くの?」  
 振り返ると、アリアドネがちくりと刺すような視線で俺を見てくる。  
「――そんな甲斐性なしだとは見込み違いだったわ」  
 俺は困ったように微笑した。肩をすくめる。  
「よしてくれよ。重たい女はごめんだ」  
「ええ、ええ、どこにでも行くといいわ。男なんて皆同じよ」  
 どこか傷ついたような顔で睨んでくる。それから、小声になって苦々しく言った。  
「彼女、お腹に子供がいるみたいよ。産むって言ってる」  
「――確かなのか?」  
 初耳だった。さすがに顔色が変わる。時期の問題から言って……だめだ、わからない。俺の子だとも、そうでないとも考えられた。ただ、彼女の子であることだけは確かだ。  
「貴方、それでも行くの?」  
 アリアドネの女狐め。これだからこいつは油断がならないんだ。伊達に秘密結社の頭は張ってない。俺は振り払うように言った。  
「……行くさ」  
「そう……」  
「だけど、いつか戻ってくる。必ず」  
 実を言えば――最初からそのつもりだった。このゴブリンの鼻糞をこねて集めたみたいなクソったれの街は、俺にとっちゃ見過ごすにはあまりに臭すぎた。  
 記憶に蓋をしたって、テラスティア大陸までプーンと漂ってくるに違いない。  
「それまで彼女のことを頼む」  
 俺は首に掛けていたシーンの聖印を外し、アリアドネに託した。彼女に渡してくれ、と告げて。  
 そして去った。海の彼方へと。  
 
 ――青い空なんてヘンだ、と彼女は言った。  
 だが洋上に広がる蒼穹、こいつをみろ。きっと一目で彼女の偏見を粉々に打ち砕くだろう。これだ、これを彼女に見せたい。  
 俺は波を砕く海賊船の舳先に立って、頭上を仰いだ。  
 シーンの夫たるティダンの輝かしい光が燦燦と降りそそぐ。  
 ――あの霧に塗れた汚らしい街に、この空を取り戻してやりたい。  
 いつからか、それが俺の望みになっていた。  
「クソ野郎どもめ! おいでなすったぞッ!」  
 背後からリルドラケンの胴間声。海賊船「三頭黄金竜号」の頭目、オルゾゾだ。物見台に上がった船員が遠方を指差す。そちらを見ると、海面から何か巨大なものが迫りあがってくるところだった。  
 ――シーサーペント……!  
 俺はすばやく武器を抜いた。  
 おそらく、これが山場になると予感しながら。  
「炎の息を吐く怪物だ! 気をつけろ、船長」  
「てめえこそな、お客さんッ! 自分の身は自分で守れよ!」  
 オルゾゾが叫び返す。どうやら、化け物は一匹だけではないようだ。海賊どもに任せてのんびり観戦とはいかないらしい。  
 俺は神聖魔法を発動するための祈りの文句を唱えながら、彼女のことを強く思い浮かべた。  
 ――いつかきっと。  
 ――いつかきっと、君を救い出しに行く。  
 月の女神よ。  
 夜の守護者、娼婦と盗っ人の神シーンよ。  
 願わくばこの愚かな者たちを守護したまわんことを。  
「剣の加護あれ――!」  
 慈悲の女神の奇跡が、船上の波飛沫にきらめいた。  
 
 
終  
 

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