太陽が西に没し、南の水平線を覆っていた黒煙がほとんど見えなくなった。  
しかし南の水平線にはまだ灯りが見える。  
 
雲のように広がる黒煙を赤く照らすその灯りはグラスノの灯台ではない。  
グラスノが、城も城下も周辺の村も何もかも一緒に焼かれるその炎だ。  
蛮族との戦いに散った兵士たちの遺体は、その炎の中で灰になっているだろう。  
 
先ほどまでフィオの隣でその光景を見つめていた女王と第一王女はすでに船室に引き上げている。  
いや、艦橋か作戦室かもしれない。母と姉には、数隻の船とそれに乗る避難民を安全な場所へと導く責務があるのだ。  
 
では、自分には?  
国土を失い敗走する王族の一人、第二王女であるフィオ・グリュッセルトには今自分が成すべきことが何か、思いつかなかった。  
忙しく働く水兵たちは船縁で立ち尽くす自分を避けて通っている。  
彼らも故郷を失い、多くのものは家族や知人を、あるいは同僚を亡くしたはずだ。  
これ以上邪魔をしないで、自分も船室へ引き上げるべきだろう。煤け、あちこちに血が跳ねている服も着替えなくては。  
そう思いつつ、足が動かなかった。  
 
「フィオ姫」  
その声に振り返ると、自分と同じく傷だらけの軍装に身を包み疲れきった表情のロイ王子が立っていた。護衛の女戦士の姿は見えない。  
「夜風は体に悪いですよ」  
宗主国の王子が向ける優しい言葉、優しい目にフィオは自分がなすべきことが何かを思い出した。母が自分に命じたときには、まさかこんなことになるとは考えていなかっただろう。  
「西からの」蛮族の襲撃によってグラスノ王国が攻め滅ぼされ、生存者は船で海上に逃れるなど。  
 
グラスノ王国はダグニア地方の東端に位置する。いや、していたというべきか。その東には大河の河口があり、天然の防壁となってきた。  
西に伸びる街道はいくつもの宿場町を経てラ・ルメリア王国へと繋がり、さらに宗主国たるセフィリア神聖王国へと続いている。  
幾度も援軍をもたらしたその街道を使って蛮族が侵攻してくるなどありえないはずだった。そのありえないことがどうやって起きたのかフィオには判らない。  
判っていることは、女王たる母から直に命じられた任務を果たさねばならないことだ。  
いまや、自分に課せられた責務はとてつもなく重いものになっている。  
「判りました、船室に引き上げます」  
 
船尾楼に入り、割り当てられた船室のドアを開く。  
「僕も船室に戻ります。ではフィオ姫、ゆっくり休んでくださ……!?」  
そう言って離れようとしたロイにフィオは素早く抱きつき、自分の船室に引っ張り込んだ。  
狭いベッドに王子の細い体を押し倒す。  
士官用の個室は狭く、ベッドはもちろん一人用だ。しかし問題ではない。  
「ふぃ、フィオ姫、何をなさるのですか」  
鼻と鼻が接しそうな至近距離から、王子が狼狽して問いかける。  
「母から……グラスノ王国女王から命じられた任務を果たすのです」  
答えて、フィオは王子の服を脱がせに掛かった。まず肩からマントを外す。  
「ちょt、ちょっとまってくださいフィオ姫」  
「フィオとお呼びください」  
意に介さずにロイの腰帯を緩め、長剣とポーチを外してベッドサイドに落とす。  
「ドア開いてますよ」  
通路から女戦士の声。フィオは王子の薄い鎧に手を掛けたままで固まった。  
「……ドアを閉めて、邪魔が入らないように通路の見張りをお願いします」  
「私に命令できるのは法王ビスカイノ猊下と、猊下から権限を与えられたものだけ。この場ではロイ王子だけです」  
 女戦士、イングリッドが淡々と答える。  
「それは建前でしょう。王子の妻にして王孫の母たるこの私の言葉を無視できますか」  
「今のところ、どちらも架空の話ではありませんか。そもそも王子が同意されているようには見えません」  
「これから事実を作ります。……王子、邪魔しないように命じてください」  
 フィオはロイに顔を近づけ、目を潤ませて願いを口にした。  
「王子、いかがされますか」  
「えーっと、フィオ姫に婚約者がいらしたら問題じゃないかと……」  
「これからロイ王子と婚約します」「いらっしゃらないとお聞きしております」  
「……ええと……」  
「私ではお嫌ですか?」  
「そ、そんなことは無いよ」  
 ロイが答えるのを聞いてイングリッドは笑い、「ごゆっくり」と告げてドアを閉めた。  
 
 
「これで二人っきりですね」  
 手探りで鎧の留め金を外しながらのフィオの囁きに、ロイは抵抗を諦めた。  
 されるがままになっていたが、鎧が外されたところでふいにフィオの手が止まった。  
 目を開くと、フィオはロイの鎧下に手を掛けたまま固まっていた。  
「あの……お嫌でなければ、私の服を脱がせていただきたいのですけど……」  
「あ、ごめんなさい」  
 フィオの背に手を廻してマントの留め金を探る。なかなか外れない。  
「……」  
「……」  
 至近距離にあるフィオの瞳が何かを要求している。  
 しばらく見つめあい、ロイはフィオを抱き寄せて唇を重ねた。少し汗の味がしたが、あれこれと教えてくれた女官の唇よりも柔らかかった。  
 
 

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