ウィストの飲み残しを飲み干したアンセルムが溜息を吐く。そして手に持ったグラスを床に叩き付け――  
 (何てことするんだ!  割れた音を聞きつけて誰か起きてきたら――)  
 階段の上から覗き見していたウィストは慌てる。が、アンセルムは手を振り上げたところで止まった。  
 (よかった……)  
 安堵の息が漏れた。そして息を吸い込んで初めて、ウィストは今まで息を詰めていたことに気付いた。同時に、自分が息を詰めなきゃならないような『何』をしているのか――  
 (部屋に戻ろう。何でこんな覗き見みたいなこと……)  
 覗き見みたいどころか、覗き見以外の何物でもない。  
 (大人しく寝てるべきだったんだ。眠れなくても……)  
 だが、もっと眠れなくなったような気もする。それを認めるのは何だか悔しい。と、アンセルムがグラスを置いて立ち上がった。  
 (飲みすぎじゃないか?  もっとゆっくり飲まないと身体に悪いぞ?)  
 泥酔されても困る。いや、泥酔して眠りこけたアンセルムを部屋へ連れてってやるのはいい考えだ。背が高いからきっと重いだろうが、恩を売ってやれば色々と――  
 「泥酔したところを見られたらボク達だって困るんだぞ。今度から黙って一人で飲まないでちゃんと言えよ。危ないから横で見張っててやるからな」  
 何かやらせるのもいいな。  
 「重かったんだからな。貸し一つだぞ」「悪い悪い」「さあて、何をやらせようかな」「いきなり奴隷扱いかよ」「奴隷は可哀想だから下僕で勘弁してあげよう。出掛ける時にはボクの荷物を持つんだぞ。ボクが疲れたら背負って歩くんだぞ」  
 (そう言えば娼館に居た頃、姐さんが四つん這いになった客に座ってたことがあったな。気分がいいと言ってたけど、どんなもんか一度試してみようか)  
 ニヤニヤ想像していた所為で気付くのが遅れた。アンセルムは酒をおかわりする為に立ち上がったんじゃない!  こちらに向かって歩いて来ている!  
 ウィストは一転して蒼褪めた。  
 (まずい!)  
 覗き見してたなんて知られたら軽蔑される。ウィストは慌てて立ち上がった。だが、  
 (軽蔑されたから何だって言うんだ。蛮族じゃないか。スパイかも知れないんだ。覗き見してたんじゃない。ボクは見張ってたんだ)  
 反抗するように湧き上がった自己弁護に気を取られて対応が遅れてしまった。間に合わない。  
 階段下まで来たアンセルムは階段を登ろうと見上げて、固まった。その驚愕の表情。  
 (ああ……もう駄目だ)  
 怒るだろうか。軽侮されるだろうか。それとも嘲笑されるのか。逃げ出したいのだが、顔を背けたいのだが、体が硬直したように目が離せない。目が合ったまま、長い時間が過ぎた。  
 (何か言わなければ……アンセルムが何か言う前に!)  
 ウィストの身体はその望みを叶えてくれた。望んでいない形で。冷徹な声で。  
 「ボクが姿を消せば、少しはスパイらしい行動をするかと思って見張ってたけど、何もしなかったようだね。潜入成功って連絡をしなくてもいいのか?」  
 ウィストの言葉にアンセルムは顔を伏せた。そのまま黙って階段を登ってくる。  
 (違う!  違うんだ!  謝れ!  謝るんだ早く!)  
 しかし身体は動かない。自分でもわかる冷笑を浮かべたまま。見下すように。アンセルムが横を通り過ぎる間、何も出来なかった。  
 アンセルムが横を通り過ぎ、その姿が視界から消える。脱力感。そして後悔。  
 その両肩に手を置かれ、ウィストは飛び上がるほど驚いた。  
 「ヒィッ!」  
 「ひとついいことを教えてやろう」  
 恐怖で動けないウィストに後ろからアンセルムが囁いた。その息が耳朶を愛撫すると、娼館で《教育》された身体が反応する。漏らしてしまいそうな恐怖と耳朶を愛撫される快感に混乱した。  
 「階段に立つ時は気を付けた方がいい。下着が丸見えだ」  
 ウィストがその意味を理解して振り向いた時には、アンセルムはドアの向こうに消えたところだった。  
 
 いつものように布団を剥いだが、ウィストが起きる様子は無い。いつもなら布団を探して手が伸びてくるところなのだが……頼まれた以上、起こさないわけにはいかない。  
 (仕方が無いな)  
 エリヤは階下に降りて行った。  
 
 飛び上がって起きたウィストを見てエリヤは満足気な笑みを浮かべる。  
 「お早う、ウィスト。騎士団式のお目覚めは如何?」  
 水浸しになったウィストは呆然と答えた。  
 「二度とエリヤには頼まないようにするよ」  
 
 「エリヤが髪を短くした理由が漸くわかったよ」  
 タオルで髪を拭きながらウィストが恨めしそうに言った。  
 「そういう、わけじゃ、ないんだ、が」  
 エリヤは腹筋運動をしながらそれに応える。しかしウィストは無視して続けた。  
 「毎朝こんなに水浸しになるんじゃ、髪を乾かすのに時間がかかり過ぎる。早く起きた意味が無いじゃないか」  
 身支度を終える前に部屋から出るなんて、貴族育ちのウィストにはみっともなくて出来ない。急いでいるというのに。  
 湿ったタオルを交換し、乾いたタオルで髪を叩く。角を叩かないように注意しながら。  
 「なら今度からはミケに頼むんだな」  
 「グラスランナー式?  詳しく教えてくれないから怖くて嫌だ」  
 ミケは起こしたがるのだが、どうやって起こすのか教えてくれない。絶対に飛び上がって起きる、と断言するだけなのだ。にんまりとしながら。その顔を見ていると、グラスランナーが悪戯者と嫌われる理由がわかる気がして怖くなる。  
 そのミケは、港で魚の水揚げを見物しに行っている。好奇心旺盛なグラスランナーらしくあれこれ聞いて廻って、結構可愛がられているらしい。毎日売り物にならない小魚や甲羅が割れた蟹をもらってくる。  
 「もう大丈夫なんじゃないか?」  
 腹筋運動を終えたエリヤがウィストの髪に触れて言う。  
 「まだ……んー、もういいや」  
 湿気が残っていて不快だったが、ウィストはもう出ることにした。急いで下に行かないと。少なくともアンセルムより先に。  
 どんな顔をして挨拶すればいいのかわからないから。  
 だがウィストが先にテーブルに着いていれば、アンセルムの方から挨拶してくる。そしたらウィストはそれに合わせればいいのだ。  
 アンセルムが挨拶してこない可能性は、頭に昇らなかった。世間知らずだから。  
 
 (遅かったか!)  
 下の食堂に降りると、既にアンセルムは来ていた。カウンターでダルガーと話をしていて、何ガメルか払っている。  
 (あ!)  
 昨夜あのあと、怒ったウィストは銀貨を置かずに酒を何杯か飲んだのだ。アンセルムに奢らせてるつもりで。ますます気まずい。  
 クリフは入り口近くのテーブルで他のパーティーの女戦士と歓談している。クリフが一方的に話しかけているだけなのだが、昨日と違って殴られていない分、少しは進展したらしい。  
 ウィストは急いでいつものテーブルに着いた。フードを深くかぶって横を向き、アンセルムに気付いていない振りをする。こっそりと窺い見ながら。  
 ダルガーと話を終えたアンセルムは、カウンターでグラスに水を二杯注いで持って来た。一つをウィストの前に置き、隣に座る。  
 「お早う、ウィスト」  
 ウィストは今気付いた振りを装い、挨拶を返した。  
 「お早う、アンセルム」  
 (良かった。普通に挨拶出来た)  
 しかし振り向けばアンセルムは水を飲んでいる。何となく面白くない気分になり、意地悪に訊いてみた。  
 「どうして隣に座るんだ?」  
 「落ち着く場所だからさ。本当は、あんたが座ってる席が一番落ち着くんだがな」  
 入り口から遠いテーブルの、入り口を見通せて壁を背にした席。なるほど。  
 「譲るよ」  
 そう言ってウィストが立ち上がると、アンセルムは飲みかけのグラスを持って移動してきた。アンセルムがグラスを置くと、ウィストはそのグラスを取って向かいの席に移動する。  
 席に座ると目が合った。その視線をさえぎるようにグラスを持ち上げ、回す。ゆっくりと回しながら見れば、アンセルムがどこに口付けて飲んだかがわかった。  
 (やっぱり)  
 ウィストは意地悪気な笑みを浮かべながら、残った水を飲み干した。そしてアンセルムに向かって滑らせる。グラスはテーブルの中央を過ぎたあたりで止まった。  
 「おかわりが欲しいのか?」  
 「おごってくれるなら」  
 アンセルムは腰を浮かせて空のグラスを取り、代わりに自分の前にある口を付けていないグラスを滑らせた。グラスがウィストの前でぴたりと止まる。  
 「すごい!」  
 思わず歓声と共に顔を上げたが、アンセルムは既に居なかった。ウィストは何となく、面白くない気分になった。また。  
 
 「全く……」  
 口に出してからウィストは気付いて、可愛く言い直してみる。  
 「もう!」  
 駄目だ。似合わない。ウィストは軽い自己嫌悪を覚えた。幼い頃から男として育てられたとは言え、今では女としての自覚がある。特に娼館での《教育》は、自分が女であることを強烈に自覚させられた。だが、女らしい態度が取れない。似合わない。  
 そんなウィストの気持ちも知らずに、アンセルムは新しいグラスに水を注ぎながら店主のダルガーと何やら話をしている。と、酒瓶を受け取った。それをマントに隠して部屋へ向かうアンセルム。だがウィストと目が合ってしまった。  
 にっこりと笑ってみせるウィスト。フードに隠れて見えないが、アンセルムは驚いたようだ。そのままそそくさと二階へ上がった。  
 戻ってきたアンセルムはダルガーに金を払うと、テーブルに戻ってきた。手には水と、昨夜貸したフードを持っている。  
 「忘れてたぜ、ありがとな」  
 「いーもの見ーちゃった」  
 「皆には内証にしててくれよ」  
 「口止め料って知ってる?」  
 「昨日あんだけ飲んだじゃねえか」  
 「あれは別だ。乙女のパンツを見たんだからな」  
 「高ぇパンツだな。パンツ要らねえ。次からはパンツ無しで頼むぜ」  
 「バ!  馬鹿!」下着を着けずに階段の上に立っているところを下からアンセルムに覗かれるのを想像してしまい、ウィストは思わず股間を押さえた。「そしたらあんなに安いはずないだろ!」  
 「幾らだ?」  
 アンセルムがニヤニヤしながら訊く。世間知らずなウィストにとって予想外だったその質問に、驚いて思わず聞き返してしまう。  
 「何だって?」  
 「パンツ無しなら」  
 ウィストは立ち上がりざま両手で強くテーブルを叩いた。店内の会話が止まる。  
 「今度そういうことを言ったら」怒りに震えた声。「赦さないぞ」  
 沈黙に包まれた店内に、クリフが女戦士に別れを告げるのが僅かに聞こえた。アンセルムは睨み付けるウィストに、表情を改めて重々しく答える。  
 「悪かった」  
 「よし」  
 ウィストが座り直すと、店内に会話が戻った。そこへクリフと、ちょうど降りてきていたエリヤがやってくる。  
 「どうしたんだ?」  
 「何でもないよ、アンセルムがボクの下着を覗いたんだ」  
 「ちょ……誤解を招く言い方はやめてくれよ」  
 「それはいけませんね。同じ男として許せません。僕のように、ちゃんと許可を得てからでないと。そうですよねエリヤさん」  
 「許可してない!  と言うか、覗くな!」  
 「もちろん覗いていないですよ、まだ許可を貰ってないんですから」  
 「まだ!」  
 「そこに突っ込まない。ミケ、おかえり」  
 「ただいまー」  
 見るといつの間にかミケが帰ってきていた。両手に小魚を何匹も貰ってきている。小骨が多くて売り物にならず、畑の肥料にされる種類だ。  
 「またそんな食べられもしない魚をもらってきて……」  
 エリヤの言葉を無視して、ミケは貰った魚をアンセルムに見せた。嬉しそうに。  
 「どれどれ」  
 その小魚を一匹、アンセルムはつまみ上げると口の中に放った。ミケが吃驚して見上げる前で、バキベキと響く派手な咀嚼音。  
 「喰えねえことはねえぞ」  
 そう言って顔を上げると、メンバーがドン引きしていた。  
 「うわ……」  
 「生のまま……」  
 「野蛮ですよね?  だから蛮族と呼ばれているのですよ」  
 「なるほど」  
 納得するエリヤの様子を見ながら、アンセルムはうろたえた。魚を生で食べるのは拙いらしい。憶えておこう。  
 
 ミケが手、腕、そして頭にまで皿を載せてやってくる。小さな体で、全員分の皿を一度に持ってきているのだ。ちょっと背伸びをしてテーブルに皿を置く。  
 ピラフだ。  
 (また……)  
 ウィストは溜息を吐きながら、細かく刻まれたニンジンの欠片を一つ一つ丁寧に取り分ける作業を開始した。  
 
 「あーん」  
 アンセルムの膝に座ったミケが、目を瞑ったまま口を大きく開ける。舌を出して。アンセルムがその中にピラフを入れると口がゆっくりと閉じ、食べ始める。やはり目を瞑ったまま。  
 その間にアンセルムは自分の分のピラフを食べる。そしてミケが飲み込んでまた口を開けると、その中にピラフを入れる。雛に餌をやる親鳥のように。  
 (アンセルム……スプーン換えろよ)  
 昨夜自分が使ったグラスにアンセルムがしたこと、今朝アンセルムが使ったグラスに自分がしたこと、それらを思い出しながらウィストは思った。  
 そんな素振りを全く見せなかった自信はあるが、自分がやった時には結構勇気が要った。アンセルムがした時にも勇気――或いはそれに匹敵する強い感情――があったに違いないと思っていたのだが……  
 (アンセルムにとっては気にするようなことじゃなかったってことか、ボクとの間接キスなんか)  
 娼館での《教育》でキスの経験はある。ボクと言うクセが直らなかった所為で毎夜々々、手練手管に長けた先輩娼婦からもてあそばれるように《教育》を受けた。お陰でどうやればいいかも、その快楽も知っている。  
 が、最後の《仕上げ》の前に逃げ出してしまった所為で男性とのキスの経験は無い。間接キスでさえあれが初めてだ。やり方は知っているつもりだが、上手に出来る自信は無い。  
 (結構勇気が要ったんだけどな)  
 クリフとの会話に困ったエリヤが隣のアンセルムに話を振る。それに応えるアンセルム。ウィストはアンセルムの向かいに座っているので、なかなか会話に混ざれない。  
 今はアンセルムの膝に座っているミケの席が空いているのだが、食事の途中で席を移動するのは、貴族育ちのウィストにとっては特別な意味を感じさせる。マナーに反してまでそうする理由。  
 (別に、アンセルムと話をしたいわけじゃ……)  
 隣のクリフがエリヤばかりに話し掛けるから、話し相手が居ないだけだ。エリヤもアンセルムにばかり話を振らないで、少しはボクにも振ってくれればいいのに。  
 エリヤとアンセルムの言い様に、クリフのいつもの姫騎士演説が始まった。後ろの方のテーブルから、パーティー内の女戦士を姫騎士呼ばわりしてからかう声が聞こえる。恥さらしなヤツだ。  
 と、いつまで待っても何も食べさせてもらえないミケが身体を揺らして催促した。目を瞑ったまま。正面から見ているウィストにはその咽喉の奥まで見える。舌を出した切なげな表情。  
 (物欲し気な顔して。甘えん坊さんだね。アンセルムも、ミケばっかり甘やかさなくたって……)  
 ふと、自分がやっても甘やかしてくれるだろうかと考える。膝の上に座り目を瞑って、口を開けて物欲しそうに舌を出し、身体を揺らして《おねだり》したらアンセルムは――  
 (だ!  馬鹿!  何を入れるって言うんだ!)  
 アンセルムが自分の口の中にナニを入れるのかを想像して真っ赤になってしまった。数年間毎夜々々《教育》された身体は、想像にさえ敏感に反応した。身体が切なくなってくる。熱望する。渇望する。  
 教え込まれた身体が命ずる。《おねだり》しろと。《おねだり》すればイかせてもらえるから、と。一度でダメでも、諦めずに何度も何度も《おねだり》すれば、いつかきっとイかせてもらえるから。  
 (駄目だ!  《おねだり》しちゃ駄目だ!  《おねだり》しても無駄なんだ!  何度《おねだり》したって、もう誰もボクをイかせてはくれないんだから!)  
 熱くなる身体と欲望を沈めなければ。ウィストは皿の隅にある、ピラフから器用に取り除かれたニンジンの山にスプーンを伸ばした。  
 口の中に放り込むと、奇妙な甘味が広がる。その不快さに欲望は気を逸らされ、少し楽になる。もう一口入れると、また少し楽になる。  
 (よし。これなら――)  
 そう思ってもう一口入れたところで、正面のミケが視界に入った。大きく口を開けて舌を出した切なげな表情。脳裏に改めて再現される自分の姿。そしてその口にナニかを入れるアンセルム。  
 (!)  
 口の中に広がる奇妙な甘味。切なくなる身体。声を発しようとする咽喉。そして得られるはずの絶頂。半月ぶりの……  
 
 安物のベッドがギシギシと軋む。その上で、ブーツも脱がずに腰を激しく振りながら自らを慰めるウィスト。陽の光が差し込む明るい室内で目を瞑り、独り暗闇の中。脳裏には、妄想。  
 階段の中ほどに立ち、アンセルムを見下ろす。見上げているアンセルムの視線。何処を見ているのかはっきりとわかる。  
 「高ぇパンツだな」妄想のアンセルムがニヤニヤしながら言う。「パンツ要らねえ」  
 アンセルムの言葉に行動で応えた。下着を降ろす。ブーツが邪魔で脱ぎにくい。引きちぎるように強引に脱いで放り投げる。引いた糸が陽の光で輝いた。  
 「幾らだ?」  
 (ボクのカラダは……モノじゃないんだ)  
 「コレは売り物じゃねえか。売り物ってのはこうやって」アンセルムは銀貨を払った。「銀貨と交換するものなんだろ?」  
 グラス一杯の安酒。5ガメル。  
 (5ガメル……ボクのカラダは5ガメル……安酒一杯分の価値しかない……守る価値なんて無い、守らなくてもいい、守る必要なんて……もう守る必要なんて無いんだ。買われてしまったんだから……)  
 それを守る為に我慢してきた色々なこと。もう守らなくてもいい。もう我慢しなくてもいい。たった5ガメルの、モノの為には。  
 指が陰核に控え目に触れる。アンセルムがウィストの陰核に口付ける。姐さんの囁き声が耳に蘇る。「感じる」  
 指が割れ目に沿って撫でる。アンセルムがウィストの割れ目を嘗める。姐さんの囁き声が耳に蘇る。「気持ちいい」  
 指が開いた中にそっと入る。アンセルムがウィストの中に入ってくる。姐さんの囁き声が耳に蘇る。「素敵」  
 指が開いた中で大きく動く。アンセルムがウィストの中を激しく犯す。姐さんの囁き声が耳に蘇る。「もっと激しくして」  
 独り激しく腰と指を動かすウィスト。喘ぎ声と共に漏れる声。  
 「もっと激しくして……もっと激しく……もっと……」  
 声が漏れる毎に激しくなる、腰と指。漏れる毎に大きくなる、喘ぎ声。  
 
 「どうです?」  
 心配気に訊くクリフとアンセルムにエリヤは不安気に首を振った。が、ミケは平気な顔。  
 「大丈夫だよー」  
 「大丈夫なのか?」  
 逆にエリヤの方が訊いてしまう。  
 「うん。しばらく一人にしておいたら大丈夫ー。でもー、一人にしてあげないとだめだよー?」  
 「何だったんだ?」  
 心配気なアンセルムに、ミケは笑顔で答える。  
 「おんなのこのひみつー」そしてエリヤに同意を求める。「ねー?」  
 だがエリヤにはわからない。不安気な顔でミケとアンセルムを交互に見た。つい数日前にアンセルムが穢れがらみの呪いを受けて、昨日死にそうな思いをして解いてもらったばかりだ。  
 「アンセルムも」エリヤがドアの前を譲り、聞き耳を立てるように促した。「同じ呪いじゃなければいいんだが」  
 引っ張って止めようとするミケを引きずって、アンセルムはドアに耳をつけて聞き耳を立てる。  
 「これは……」抑えたアンセルムの声音に、エリヤの咽喉が鳴った。「ミケの言う通りだな」  
 「ねー?」  
 「本当に……大丈夫なのか?」  
 「ああ、下で待った方がいい」  
 「だが……」  
 「下で待とう。それが一番ウィストの為だ」  
 「何だかわかりませんが大丈夫のようですから、僕達は下で食事を続けましょう」  
 クリフが空気を読んでエリヤを下に連れて行く。さり気無くその腰を抱いているところを見ると、空気を読んだわけではないのかも知れない。腰を抱かれ連れられながらエリヤは、心配そうに何度も振り返った。  
 「何なら、オレが残っていようか?」  
 アンセルムが提案すると、クリフがすかさず反応した。  
 「たまには君もいいことを言いますね、アンセルム。ほらエリヤさん、アンセルムが残っているから大丈夫ですよ。僕達は下で待っていましょう、二人きりで」  
 ミケは不満気にアンセルムを見上げた。おんなのこのひみつなのにー。  
 「ミケも、残りはクリフに喰わせてもらいな」  
 「子守を僕に押し付けるのはやめて下さいよ」  
 ミケはしばらくアンセルムを凝っと見ていたが、ふいっと振り向くと階段を駆け下りていった。その後を心配そうに振り返りながら、腰を抱かれていることにも気付かずにクリフに連れられていくエリヤ。  
 ドアの前にはアンセルム一人が残された。ドアの前に座り込み背を預ければ、かすかに漏れ聞こえるウィストの喘ぎ声。嬌声。ベッドの軋む音。その想像の中でウィストをもてあそんでいるであろう男に覚える、嫉妬。  
 
 体重が戻ってくる。それと共にはっきりとしてくる意識。記憶。理性。満足の代償に襲ってくる自己嫌悪。羞恥。そして恐怖。  
 (誰かに聞かれてなかっただろうな)  
 見回したが部屋の中には誰も居ない。でも最後の《おねだり》はすごい大声だったような気がする。その直後の嬌声も。自慰なんて初めてだからわからないが、もしも部屋の外にまで聞こえてたら――  
 慌ててベッドから飛び降り、ドアを開ける。それは《バルバロス流の口説き方》をしないように耐えていたアンセルムの不意を討った。引いたドアと共にアンセルムが室内に後ろ向きに倒れこんで来る。つい数秒前まで自分を愛撫し嘗め回し犯し悦ばせてくれた男が。  
 (聴かれた!?)  
 一瞬で真っ赤になるウィスト。聴かれていなかった場合の為に何を言うべきか考え始める冷静な自分と、聴かれていた場合のアンセルムの次の行動に期待する淫らな自分と。頭は混乱し、身体は素直だった。  
 頭は誤魔化す為の言葉を探そうと右往左往。身体は次に入ってくる指以外のモノを受け入れる準備。熱くなっていくのが自覚出来る。羞恥の為なのか、それとも――  
 驚いて倒れたまま目を見開いているアンセルムを見下ろして、ウィストは言った。  
 「苦しんで倒れた女の子の部屋を盗み聞きか?」返事は無い。身動ぎ一つしようとしないアンセルム。「いい趣味とは思えないね」  
 軽蔑したように顔を逸らしてやるのだが、アンセルムに反応は無い。目だけで下を見て様子を窺うが、真下すぎて顔は見えない。  
 「全く。考えてみたら盗み聞きするのも当然か、スパイならね」  
 不自然なくスパイ疑惑を持っていることをアピール出来た。顔は真っ赤なままだが、聞かれていなかったなら誤魔化せただろうとウィストは満足する。そして振り向いた。下を見ずともアンセルムの顔を踏まないように、大きく脚を上げてまたいで。  
 そしてベッドに片膝を突いて手を伸ばし、間を持たせる為に乱れた毛布やシーツを丹念に直した。直しながら、後ろで起き上がりながらもそれ以上動く気配の無いアンセルムの方を振り向きもせずに言う。  
 「で、いつまで女部屋に居るつもり?  家捜しならさせるつもりは無いぞ?  ボク達の荷物なんか報告しても意味無いだろうけど」  
 座り込んで呆然と眺めながらアンセルムは言う。  
 「エリヤが心配してたぜ」  
 「ああ、もう大丈夫だ。下に行こう」  
 そう言って振り向いたところで、アンセルムが床に座り込んでいるのに気付いた。  
 「またボクのパンツを見てたのか」  
 「パンツなんか見てねえ」  
 立ち上がりながらアンセルムはそう言ったが、ウィストは信じない。  
 「ふーん、そういうこと言うんだ。さ〜て、今夜は何杯おごってもらおうかな」言ってから思い出した。「そうだ、さっきの酒瓶。あれを半分もらおうかな」  
 「半分も飲むのかよ。飲み過ぎだぜ?」  
 「そう、半分。君が一杯飲む時には、ボクも一杯飲む。今日飲み終わらなかったら明日も、ね。君一人で飲んだら駄目ってわけだ。わかったかい?」  
 「オレが一杯飲む時には、必ずあんたにも一杯飲ませてやればいいんだな?  オーケー。それで商談成立だ。後からやっぱりやめたとか言わねえでくれよ?」  
 「言わないよ。行こう」  
 ウィストは機嫌良くアンセルムの背を押して、一緒に部屋を出ようとした。が、アンセルムがそれを止める。  
 「待てまて」  
 「ん?」  
 「あー、着替えた方がいいんじゃねえかな?  汗をかいてるぜ?」  
 考えながら言うアンセルムに、ウィストはいぶかしげ。確かに汗をかいているが、これぐらいなら旅をしている時とか普通だ。  
 「んー、まあ。せっかく宿に居るんだし、着替えてもいいかな」  
 「オレは先に下に行ってるぜ」  
 「覗く気か?」  
 「一瓶全部やる気はねえ」  
 アンセルムはそう言って部屋を出て行った。それを見送ってからウィストは、荷物から着替えを取り出そうと、かがむ。  
 (!!!)  
 目に入った自分の光る太腿。そして床に落ちている白い布切れ。それを見て初めて、自分が今下着を着けていないことに気付いた。  
 (み……見られ……)  
 耳まで赤くなるのがわかった。  
 (見られた……声は聞かれなかったかも知れないけど……ばっちり見られた……)  
 ミニフレアのスカートで寝転がったアンセルムの顔をまたがって立っていた自分。大きく脚を上げてまたいだ自分。ベッドに片膝を突いて尻を上げてた自分。乱れた毛布やシーツを直そうとして尻を振り振り――内股を光るほど濡らして。  
 (ぎゃー!)  
 
 「どうだった?」  
 抱擁してくるクリフを押しやりながらエリヤが訊いてくる。  
 「汗をかいたから着替えてるぜ。心配なら行ってやんな」  
 エリヤはクリフを突き飛ばして階段を駆け上がっていった。  
 
 エリヤがノックもせずに部屋に飛び込んできた。  
 「ウィスト!」  
 中ではウィストが、濡れた内股を拭いている。  
 「エリヤ!?  ちょっ……ノックぐらいしろよ!」  
 「すまない」  
 急いでドアを閉めながら、エリヤは納得していた。  
 (お漏らししたのか。もういい歳なのだから想到恥ずかしいに違いない。確かに、放っておいた方がウィストの為だったんだな……)  
 「すまない」  
 改めて謝るエリヤ。だがウィストはノックしなかった件だと勘違いして応えた。  
 「もういいって。吃驚はしたけど、ボクとエリヤの仲じゃないか」  
 「いや、アンセルムに様子を見るように頼んだのは悪かったと思って……」  
 思い出してウィストは真っ赤になった。  
 「ああああ、いやそれはそのあの、うん。大丈夫。責任はアンセルムに取らせるから。エリヤは悪くない。悪いのは全部アンセルムだから」  
 (あんなに真っ赤になって……私だってお漏らししたなんて知れたら、いや例え誰にも知られなくても恥ずかしい)  
 「すまない」  
 「もういいから」ウィストは急いで新しい下着を穿いた。「さあ下に行こう」  
 
 階段からアンセルムが居るのが見える。顔が赤くなる。ウィストはフードを目深に被り直した。  
 「ウィスト……」  
 エリヤが思わず立ち止まるが、ウィストはそれを無視して足早に階段を降りた。そしてアンセルムとクリフの間の席に座る。  
 ドンッ!  
 「お?」  
 肩をぶつけられたアンセルムが声を上げる。  
 ドンッ!  
 「どうした?」  
 ドンッ!  ドンッ!  ドンッ!  
 別にウィストに肩をぶつけられたところで痛くもかゆくもない。それどころか、甘えられているようで気分が良くなる。  
 「人参がまだ残ってるぜ?」  
 アンセルムは平気な顔で、向かいの席にあったウィストの食べ残しの皿を引き寄せた。  
 「うー」  
 ウィストはうなりながらも、アンセルムが引き寄せてきた皿に手を付けた。  
 口の中に広がる人参の奇妙な甘味。脳裏に浮かぶ、物欲し気に口を開けた自分。その口にアンセルムが――  
 ウィストはその妄想を振り払うように勢い良く、残ったピラフと人参を口の中に詰め込んだ。水で一気に飲み下す。  
 「ぷはぁ!」  
 それを見てアンセルムが、カウンターでダルガーと話をしているミケを呼んだ。  
 「ミケ」  
 そして振り向いたミケにグラスを見せ、指を二本立てる。ミケは笑顔で頷いて、水を二杯もってきてくれた。  
 「ダルガーさんと何を話してたんだ?」  
 「あのねー、ミケはぴーまんきらいなんだよー」  
 「好き嫌いしてたらエリヤに叱られるぜ?」  
 「だからねー、ダルガーさんにもっとぴーまんのおりょうりちょうだいっておねがいしてきたのー」  
 そこへウィストが割り込む。  
 「アンセルムに食べさせてもらいたいからか?」  
 「いやーん!  うふふふふー♥」  
 「ボクはニンジンが嫌いだけど」素っ気無く、だが目深に被ったフードの奥からアンセルムを覗き見ながら言う。「アンセルムに食べさせて欲しいとは思わないね」  
 「そりゃ助かった。ミケならともかくウィストを膝に載せたら重くて仕方がねえ」  
 アンセルムの顔面に、ウィストの全力パンチが突き刺さった。  
 
 エリヤが荷物持ちにクリフを連れて買い物に行った後。ミケもついて行ったので、二人きりだ。  
 とは言え、店内には泊まりではない冒険者も集まってきていて賑わっている。  
 「今日も碌な依頼が無いな。新しい依頼は運河のドブさらいだけか」  
 「幾らなんだ?」  
 「人数無制限で一人一日25ガメル」  
 「銀貨25枚……」アンセルムは指を折って数え始める。「一日働いて五日分の食料か。悪くないな」  
 「だから何で食料なんだよ。宿代だってあるんだぞ」  
 壁に張り出された依頼書の前で、黒フードを深く被った二人がいちゃいちゃウィンドウショッピング。強者揃いの冒険者と言えども流石に敬遠する。二人が居なくなると、わらわらと集まってきた。  
 熱心にドブさらいするか否か話し合っている喰い詰め冒険者達の声を後ろに聞きながら、二人はテーブルに戻った。  
 街の中央部にある冒険者の店だけに流しの冒険者が多く、昼時でもテーブルは中々埋まらないのだ。宵ともなれば、ダルガーの特製チーズ目当ての客も来てカウンターまで満員になるのだが。  
 「もうすぐ昼か」  
 「エリヤ達はお昼どうするのかな」  
 「人族はいいなあ」  
 思いがけないアンセルムの言葉に、ウィストは驚いて聞き返した。  
 「はあ?」  
 「壁も屋根もある宿に泊まった上に、昼にも食事をするんだ。食事が草ばかりってのは何だが、一回仕事すれば数か月分の食料を手に入れられるようになって、こうして頬杖突いてノンビリしていられる」  
 「……その上、隣に美少女をはべらせて?」  
 「そうそう」  
 「その美少女の大事なところをじっくり見られて?」  
 「そうそう」  
 「しかもその美少女のHな声も聞けちゃったりなんかして?」  
 「そうそう」  
 うっかり答えたアンセルムの横っ面にパンチ。  
 「やっぱり聞いてたのか!  この、スケベ!」  
 しかしウィストの軽いパンチなど効きはしない。アンセルムは平気な顔で言う。  
 「御馳走様でした」  
 「悔しいやら情け無いやら……ボクもうお嫁に行けない」  
 脱力してテーブルに突っ伏すウィスト。しかしアンセルムは無遠慮に訊く。  
 「オヨメって何処だ?」  
 「場所じゃない」  
 「今『行く』って言ったじゃねえか」  
 「結婚するって意味だ。嫁ってのは奥さんのこと」  
 「奥さんってのは妻のことだよな?  何で結婚出来なくなるんだ?」  
 「大事なところをジロジロ見られた上にHな声まで聞かれたから」  
 思い出すだに恥ずかしい。そのジロジロ見た本人に、しかもその妄想の中でHな声を出させてくれた本人に言うのは、余計に。  
 (何だかものすごく情けない気がする。屈辱……ってほどじゃないんだけど)  
 「何でだ?」  
 「何でだろう。もっと屈辱に思ってもいいような気がする」  
 「は?」  
 「え?  あ、いやいや違う違う。えっと、そういうものなんだよ女の子は。ちゃんと口説かれてそうなったんならもっと違うんだけど」  
 「……んー、あー、アレだ。オレは、その、人族流の口説き方を知らねえから」  
 「ん?  ボクを口説くつもりか?」  
 思わず声が弾んでしまった。しかし、  
 「いや。そのつもりはねえ」  
 「ちょっ……それ酷くないか?」  
 「でもなあ、バルバロス流の口説き方はどうも……泣かれちまったし」  
 「泣かれたって、口説いたことがあるんだ?  人族を?  ふーん。アンセルムにはそういう人が居たんだ。へー」  
 「前にな。今は居ない」  
 「振られたんだ。モテないんだなアンセルムは」  
 意地悪気に言ったウィストだが、すぐに後悔することになった。  
 「死んだ。殺されたんだ、兄貴に。オレは……埋葬もしてやれなかった……」  
 
 「いぶかしみながらも食事に招待されて、兄貴の、フィルゲン子爵からリリオの街を落とせたら男爵位を名乗ることを承認してもらえることになったって自慢話に付き合わされた。その食事を終えた後、美味かったかと訊かれたんだ」  
 淡々と話すアンセルムの暗い声。その雰囲気に呑まれて、ウィストは口を挟むことも出来ずに聞いていることしか出来ないでいる。  
 「美味かったと答えたら、オレの為に特別な食材を用意した甲斐があったって嬉しそうに……オレに見せたんだ、首だけになった彼女を」  
 「ヒッ!」  
 「その後のことは正直、頭に血が昇ってよく憶えてねえ。この」アンセルムは自分の剣を指差した。「剣で兄貴に斬り付けた。兄貴が油断してなかったなら斬り付けることは出来なかっただろうし、兄貴の部下から逃げ切ることも出来なかっただろうな」  
 ウィストはアンセルムの腕に抱きついた。顔を埋めるように。アンセルムはウィストの頭をなでてやる。  
 「……ごめん」  
 「いいさ、気にすんな。その娘と仲良くなってすぐの頃、ちょいといい雰囲気になってな。それで口説こうとして、泣かれたのさ」  
 一転して軽く言うアンセルム。そんなアンセルムの気持ちを察して、しんみりしていたウィストも合わせて軽く言う。アンセルムの腕に抱きついたまま、頬を寄せるように見上げて。  
 「どんな口説き方なのか、かえって興味が湧いてくるな」  
 それを聞いてアンセルムはウィストの顎をくっと持ち上げた。正面から顔を寄せて言う。  
 「口説かれてえなら、素直にそう言ってもいいんだぜ?」  
 「だ!  誰が!」  
 頬を染めて突き飛ばすように離れる。アンセルムは淋し気な微笑みを浮かべた。それを見もせずに、誤魔化すようにグラスを突き出すウィスト。  
 「水!」  
 「サンキュ」  
 アンセルムはわざと誤解して、自分のグラスを滑らせた。アンセルムに水を持ってこさせるつもりだったウィストは一瞬あっけに取られたが、憤然とグラスを取って水を注ぎに行く。  
 二つのグラスに水を満たして戻ってきたところへ、エリヤ達が帰ってきた。買い物に行ったはずなのに、手ぶらで。  
 「あれ?  カツラは買わなかったの?」  
 尋ねるウィストに、口ごもるように答えるエリヤ。  
 「だって、どれ着けてもクリフが『とても似合いますよ我が愛する姫騎士、ですがカツラなど着けていない貴女の方がもっと美しい』って毎回言うから、選べなくて……」  
 
 実際になるまで知らなかったけど、冒険者というものは案外と暇なものだ。金がある間は。  
 なにしろ、ちょっとの腕と経験さえあれば、一回の仕事でざっと一ヶ月分の生活費が手に入る。月に何回か仕事をこなせば、贅沢な生活が出来る。  
 その代償が命の危険であるのは考えものだが、贅沢しないなら後のほぼ一ヶ月を遊んで暮らすことになるのだから、自然と仕事を選ぶようになる。いい仕事は少ないし、その中で自分達の実力に見合った仕事となればもっと少ない。実に暇だ。  
 逆に命の危険を避けて通ろうとすると、碌な仕事は無くなる。ドブさらいとか、畑の収穫の手伝いとか、引越しの手伝いとか、逃げた飼い猫を探してくれとか。中には一日拘束されて五ガメル十ガメルなんて仕事もある。  
 ボク達はそんな仕事をするほど金に困ってないから、午後は丸々優雅に談笑して過ごした。  
 主な肴は、エリヤ。素直なもんだからクリフに姫騎士姫騎士言われるたびに赤くなったり目を白黒させたり。そこへボク達がヒューヒュー言ってからかうのだ。それにまた素直に反応してくれるから面白い。  
 時々、人族社会のことをまだよくわかってないアンセルムが妙に核心を突いた質問をすることがある。それにも真面目に答えようとするものだから、からかうネタが尽きることが無いのだ。  
 エリヤだってクリフのこと、そうまんざらでもないんだと思う。そう思われるぐらい素直なわけだけど、素直なのも考えものだね。感情に正直過ぎるのは、良い事無いよ。うん。  
 そんなこんなで夕食も終わり宵も更け、ダルガーさんの特製チーズ目当ての酔客が増えてきた頃、ボク達は部屋に戻って寝る。暗い部屋でベッドに横になってボクは、この後のオタノシミに胸を膨らませていた。本当に胸が膨らんでくれたら嬉しいんだけどね!  
 残念ながら胸の大きさは変わらないまま、深夜――  
 
 ウィストはベッドに潜り込んで、独りニヤニヤ。今夜から、あの酒瓶が空になるまで毎晩アンセルムと二人で飲むのだ。どうやって下着を見られたり自慰の声を聞かれたり大事なところをじっくり見られたりした仕返しをしてやろうかと想像するのは、楽しい。  
 見られたことに対する抵抗感があまりないのは、自分でも意外だった。だからといってこれ以上見せる気は無い。だが、春をひさぐのが嫌なあまり死を覚悟して娼館を逃げ出したのがほんの半月前であることを思うと、あまりにも平然としているように思える。  
 (何故なんだろうな)  
 不思議と言えば不思議だ。  
 (成長すると考え方が変わってくるものだそうだけど、冒険者になって考え方が変わってきたのかな?  もしかしたら、今なら春をひさぐことも……)  
 だが、やっぱり嫌だ。流石に死を選ぶ、とまではいかないにせよ、リスク程度なら取ると思う。あの時もリスクを取った。  
 (なら、見られる程度なら別にいいってことか?)  
 例えば宵の頃、一階が酔客で一杯の時にテーブルの上にあがって、これ見よがしに下着を脱ぐとか。  
 (無理々々ムリむり)  
 ならば深夜、アンセルム一人しか居ない中、テーブルの上にあがって下着を――  
 (うわー!  うわー!  うわー!)  
 独り真っ赤になって、毛布の中で手足をバタバタ。  
 (何てことを!  何てことを!)  
 だが今朝、意識していなかったとはいえ実際に、アンセルムの目の前で下着を穿かずに尻を高く上げて左右に振り振り――  
 (ぎゃー!  やめー!  やめー!  改めて思い出したら恥ずかしい!)  
 独り真っ赤になって、毛布を抱いて左右にゴロゴロ。  
 (駄目!  駄目だ!  あの時は絶対にお尻のあ……あ……穴……)  
 アンセルムが座るテーブルの上に尻を突き出して立ち、両手で自ら尻肉を広げて見せている自分を想像してしまう。  
 (ぎゃー!  ぎゃー!  ぎゃー!)  
 独り真っ赤になって、毛布を抱いたまま枕にヘッドバット。  
 (駄目!  ノー!  これは無し!  無理!  もう少し大人しいので……)  
 アンセルムが座るテーブルの上に両手を頭の上にやって仰向けに寝転がり、さあ召し上がれ♥  
 (うわー♥  うわー♥  うわー♥)  
 いただきます、とスカートの中にナイフとフォークを差し込むアンセルム。  
 (うひゃー♥  うわひゃー♥  ボクアンセルムに食べられちゃうー♥)  
 指が陰核に触れる。ナイフが軽く陰核に当てられる。  
 指が陰核を転がす。ナイフがそっと引かれて、波打った刃が陰核を小刻みに刺激する。  
 指が陰核をつまむ。フォークも陰核に押し当てられる。  
 指が陰核を引っ張る。アンセルムが陰核を強く吸う。  
 (食べられちゃうー♥  食べられちゃうのー♥  ボクはアンセルムに美味しく食べられちゃうのー♥)  
 皿に載った血まみれの、ウィストの生首。  
 (………………)  
 一気に、醒めた。  
 (全く……何だよ)  
 折角盛り上がってきてたのに。残念。  
 (聞かなきゃよかったかな)  
 だが、聞かせてもらえたことは喜ばしく思える。不思議な感覚。  
 (まあいいや。アンセルム、もう下に来てるかな)  
 来てなかったら下で、何をしてやろうか考えながら待っていよう。男部屋に呼びに行くのは流石に躊躇われる。クリフに知られたくないし。  
 エリヤ達が寝静まっているのを確認してから、ウィストは部屋を出て行った。下着を着けているのを確認してから。  
 
 廊下に出ると、一階から明かりが漏れている。ウィストはちょっと嬉しくなった。  
 (《暗視》のないボクの為に、わざわざ灯かりを点けて待っててくれたのか)  
 嬉しくて嬉しくて、意地悪をしたくなってくる。  
 (こっそり行って驚かせてやろう)  
 抜き足、差し足、忍び足。そうっと階段を降りながら階下を覗き見た。カウンターのランプが一つだけ灯されていて、その下には未開封の酒瓶と空のグラスが二つ。そして片方を耳に掛けたフード姿。  
 時々酒瓶をいじったり回したり。待ちかねているのがわかる。ウィストはそのまま階段に座り込んだ。昨夜と同じ場所。そのまま、待ちかねているアンセルムを覗き眺める。  
 (待たせるのがこんなに気分のいいものだとはね)  
 待たせるのは心苦しいものだ。貴族育ちなだけあって、そのあたりは幼い頃に厳しく躾けられてきたウィストである。だが、今は気分がいい。待たせておいて気分がいいなんて初めてでワクワクする。  
 ウィストは、アンセルムがランプを眺めたり酒瓶を回してみたり階段をちらちら見たりフードを直してみたり手を組みなおしたりする様子を楽しんでいた。  
 影に隠れていても《暗視》があるアンセルムには丸見えであることも気付かず。  
 
 待たされている者は待ち人が来るはずの方を見るものだ。アンセルムも例外ではない。だから階段に目を向けた時、ウィストが影に隠れて覗いているのがわかった。昨夜と同じ場所で。  
 どうも昨夜から、ウィストにいいように振り回されているような気もする。下着を見たのもその中身までじっくり見たのも、アンセルムが悪いわけではないように思える。  
 決して嫌なわけではないと言うか、いいこと尽くめでむしろ大歓迎なのだが――  
 (何かこう、主導権を握られてる雰囲気がなあ)  
 バルバロスの本能なのか、強さを尊ぶ文化で育った所為なのか、やはり主導権を握られる=弱い=屈辱的=挽回すべき状況である、という感覚がある。相手を強弱に係わらず尊重することと、自らが強くあろうと目指すこととはまた別だ。  
 (何しろ、口説きようがねえってのが困るんだ)  
 基本、強ければモテるバルバロスである。男でも女でも差別は無い。強ければ、モテる。強さはセックスアピールでもあるのだ。そんなバルバロス流の口説き方は極めてシンプルである。犯す。それだけだ。それが全てを語るのだから、それ以上は必要ない。  
 交易共通語では多彩な表現がある(らしい)が、ドレイク語でも妖魔語でも汎用蛮族語でも一つしか単語は無い。交易共通語では犯す、という意味を持つ。クリフに「抱くと言え」と教わったが、「抱く」は明らかに異なる意味だろう。  
 魅力的な=強い異性を抱きたいなら、自らが強くなければならない。弱い異性を抱くならそれは自らの弱さを露呈することであり、舐められ、不利になる。自分の強さに見合った異性と互いに犯し合う。理に適っていると思う。  
 だが人族は違う。理に適わない『何か』で異性を選ぶ。それが『愛』だということは、今のオレにはわかる。わからなかった頃に口説こうとして、泣かれたわけだが。  
 それでも未だにわからないことがある。この想い。この衝動をどうすればいいのか。どうすれば愛を得られるのか。それが人族流の口説き方になるなのだろうが、それがわからない。  
 結局は、愛とは何かという問題なのだろうと思う。クリフは、それは永遠の謎でありそれを追い求めることこそが生きることなのだと言っていた。ちょっと格好良いと思ったが、それが何故に姫騎士になるのかの方がよっぽど永遠の謎だ。  
 (いっそ、バルバロス流でもとにかく口説いちまえば――)  
 しかしその考えをすぐに捨てる。確かに事態は動くことになるだろう。だが間違いなく悪い方向に。バルバロス流の口説き方が人族に受け入れられていないことを知っている以上、それはリスクですらない。自棄を起こすには、まだ早い。  
 
 アンセルムは考えることに疲れてきた。ある程度のリスクなら取ってもいいような気がしてくる。今が良い状態ではない以上、事態が動かないことは良くない。  
 (どうせ)目の前の酒瓶を見ながら思う。(これだって、リスクなんだし)  
 店主のダルガーから買ったものだ。昔なじみの同業者が廃業に伴い倉庫に眠っていた色々を売り払っていたのでごっそり買ったのだという。恐らくは古いものだから酢になってる可能性もあるので格安で、代わりにノークレームノーリターンで宜しく、と言われて買ったのだ。  
 安かったから喜んで買ったものの、冷静になって考えてみれば、ごっそり買ったのなら一本ぐらい試すはずだ。大丈夫なら普通の値段で売れるのだから。それを格安で売っているのだから酢になってるのは間違いない。その場で冷静に考えられなかった自分の落ち度だ。  
 (どうするか……)  
 
 アンセルムが立ち上がった。それを見てウィストは漸く思い至った、待ちくたびれて怒って帰る可能性に。  
 (まさか!?)  
 そのまさかだった。アンセルムは酒瓶を取り、ランプを吹き消した。突然訪れる闇。  
 何も見えなくなって、もう一つ思い至った。  
 (アンセルムには見えるんだ!  この闇の中でも!)  
 昨夜と同じ状況が再現されているのだ。ウィストの目が見えない以外は。  
 (違う。ボクは今来た振りをすればいいんだ。昨夜とは違う。大丈夫)  
 ウィストは立ち上がった。足音が近づいてくる。胸がドキドキする。足音は階段の下あたりまで来て、そのまま上がって来た。止まらずに。  
 「アンセルム?  もう戻るところか?」  
 今来た振り。だが、  
 「また下着が見えてるぜ。もしかして、わざと見せてんのか?」  
 (また!?)  
 またやってしまった。が、反射的に隠そうとするのをウィストは抑えた。逆に見せるように、腰を突き出す。  
 「また見たな」  
 足音が止まった。はっきりとはわからないが多分、アンセルムの視線はちょうど――  
 (うわ!  うわ!  これは見られてる!  絶対に見られてるー!)  
 顔が赤くなっていくのがわかる。だが腰を突き出したまま、冷静に言う。  
 「ボクがわからないと思ってジロジロ見てるんだろ。スケベ」  
 アンセルムは答えない。動かない。ウィストには見えないが足音が聞こえてたのだから、実はもう居ないということは無いはずだ。しかし見えないので不安になる。動いていないから聞こえないのか、いつの間にかに居なくなってしまっているのか。沈黙が不安を煽る。  
 (誰も居ないのに一人でドキドキしてたら馬鹿みたいだ。だけど……)  
 だけど何だか負けるような気がして、耐えた。沈黙にも、視線にも。  
 長い時間耐えた――つもりなのだが、暗闇と沈黙に時間がどれだけ経ったのかもわからなくなってくる。ウィストはついに沈黙を破った、虚勢を張ったまま。  
 「いつまで見てるつもりなんだよ」  
 まだ腰を突き出したままだから、アンセルムの視線に耐えられなくなったわけじゃない。ウィストは自分に言い聞かせた。  
 しかしそれでもアンセルムは沈黙を守ったまま。急激に不安が煽られる。焦って、さらに言葉を続ける。  
 「スケベ。ボクがわからないと思ってジロジロ見てるんだろ。それともまさか」ウィストは口を滑らせた。「臭いを嗅いでるんじゃないだろうな」  
 衣擦れの音。ウィストの足元で。  
 (居た!)  
 急激に安堵感が広がる。よかった。アンセルムは居なくなっていなかった。よかった。まだそばにいて、ウィストのパンツをジロジロ見ていたのだ。よかった。安堵の溜息が漏れた。  
 しかしそれも一瞬のこと。  
 「臭いを嗅いで欲しいのか?」腰のそばから聞こえた声が近づく。「どれどれ」  
 近づいてきた声を運ぶ息が太腿にかかる。ミニフレアのスカートの裾に何かが触れた。  
 「ヒィッ!」  
 暖かい吐息が太腿を愛撫すると、娼館で《教育》された身体が反応する。アンセルムはわざと鼻を鳴らして臭いを嗅いだ。時々、聞こえるように大きく鼻から深呼吸。そして大きく吐かれた息が太腿と、下着の上から愛撫する。  
 (臭いまで)快楽に耐えながらウィストは思う。(嗅がれてしまった。声を聞かれて、見られて、臭いまで。あとはもう……)  
 あとはもう、舐められて味を知られ、触られて善がるしかない。そして……  
 (オナニーの妄想が現実に……ボクが《おねだり》さえすれば……)  
 もう何処までが妄想で何処までが現実なのかわからなくなってきている。娼館で《教育》された身体に耐えていられるのは、《おねだり》せずに済んでいるのは、意志の力だ。  
 ( 耐えるんだ……負けちゃ駄目だ……)  
 何に負けないのか、何の為に耐えるのか、それさえ忘れてウィストは耐えていた。  
 「すげえ臭いだな」アンセルムの無遠慮な吐息。「下着が透けてきてるぜ。ぱっくり開いてるところまで透けて見える」  
 (駄目だ……)  
 「飾りのヒラヒラまで透けてきたぜ?  オレに見せる為にわざわざ飾り付きの下着を着てきたんだろ?  見せるだけか?」  
 アンセルムが意地悪く問うてくる。  
 (もう駄目だ……赦して……)  
 
 アンセルムは諦めかけていた。ここまで溢れさせているにも関わらずウィストは言い寄ってこない。バルバロスの女なら間違いなく言い寄ってきているだろう。  
 そしてここまでなっている女を前にして何もしないなんて、男の方が批難されて恥をかくものだ。臆病者。意気地無し。  
 しかしウィストは言い寄ってこない。耐えている、荒い息を吐きながらも階段の手すりに掴まり、固く目を瞑って、強く歯を食いしばって。つまり、『愛』が無いから。  
 (ちっ!)  
 認めたくはないが、認めざるを得ない。そして駄目押しに、ウィストの固く瞑られた目尻に浮かんだ涙を見てしまった。  
 (また泣かせちまったのかオレは……)  
 犯すことを人族――ウィスト――が受け入れない以上、アンセルムに出来ることはもうない。これ以上やっても、ウィストを苦しめるだけだ。前と同じ過ちを繰り返してしまった。  
 (オレの誤解だったんだ。ウィストがそう言ってた通りに)  
 認めたくなかったことをこれ以上無く認めさせられ、不愉快な気分でアンセルムは立ち上がった。暗闇の中で見えないウィストは、音を頼りに顔を上げてアンセルムの方を向いた。息も絶え絶えに訊く。  
 「赦して……くれる……のか?」  
 胸に突き刺さった。オレはウィストに、赦してと言わせるほどの苦痛を味あわせていたのか。  
 (オレの誤解、オレの勘違いだったんだ、全部。何もかも!)  
 自己嫌悪。無能さと、考えの無さと、非道さに。そして弱さに。  
 「ほら」  
 アンセルムは酒瓶を差し出した。しかし闇の中、ウィストには見えない。見えていたとしても理解出来たかどうかは怪しいものだが。  
 「半分はあんたのもんだ。あんたに預けるから、飲みたくなったら呼んでくれ」  
 呼ばれることは無いだろう。それが答えだ。わかってはいるのだが、ウィストの元に何かを遺したかった。捨てられない何かを。  
 「なん……だ?」  
 見える者に見えない者の気持ちはわからない。アンセルムもそうだった。人族が闇の中では目が見えないことを失念していた。気付かなかった。  
 だからウィストの態度が、全否定されたようでショックだった。だから強引な態度に出た。だから……  
 「いいから預かってろよ!  ほら!」  
 アンセルムは、ウィストが握り締めていた、だが安堵した今は緩められている胸元の手に差し込むように酒瓶を握らせた。  
 「嫌あ!」  
 ウィストは叫ぶと握らされた酒瓶を勢い良く振り払った。そのままバランスを崩して倒れた。酒瓶が床に落ちて割れた。  
 これ以上ない拒絶。アンセルムは目の前が真っ暗になるような気がした。そのまま部屋へと階段を駆け上がる。その目には涙が浮かんでいた。  
 バルバロス社会で育ったアンセルムは知っていた。これが罰だということを。無知も誤解も勘違いも罪なのだということを。  
 
 「いいから預かってろよ!  ほら!」  
 イラついたアンセルムの声と共に、胸に何かを押し当てられた。敏感になっていた身体が淫靡な刺激に歓喜する。  
 赦された、終わったと思っていたウィストは不意を討たれ総毛立つ恐怖を感じた。必死の思いで振り払う。  
 「嫌あ!」  
 腕だと思っていたそれは抵抗無く振り払われた。  
 (え?  何?)  
 痺れが残ったまま歓喜と恐怖と疑問に混乱した頭では、何が起こっているのか理解出来なかった。勢い余ったウィストは階段に倒れ込んだ。  
 何かが割れる音、階段を駆け上がる音、体中の痛み、そして酢の臭い。  
 ウィストは倒れ込んだまま動かなかった。  
 (もうどうにでもしてくれ……)  
 しかし誰も何も、ウィストをどうにもしなかった。残念なことに。  
 
 身体の熱が引いてくると、頭が働くようになってくる。状況が把握出来るようになってからウィストが真っ先に行なったことは、立ち上がって呪文を唱えることだった。  
 魔法の明かりに照らされた階段下に割れた酒瓶とガラスの破片、巻き散らかされた元酒。立ち込める酢の臭い。  
 (預かってろって、あれのことか)  
 ウィストが振り払って割ってしまったのだ。悪いことをした。弁償した方が――  
 しかし気付いた。メラメラと怒りの炎が燃え上がる。  
 「ア、アイツ!  倒れたボクを放っておいたばかりか、掃除の後始末までさせようってことか!?」  
 放っておかれずにどうされたかったのかはともかく、怒り心頭である。  
 「アレはスパイだ!  間違いない!  酷いことばっかりしやがって!  絶対スパイだ!  スパイに違いない!  覚悟してろよ!」  
 ガラスの破片を丁寧に取り除いた後、酢の臭いを我慢して床を拭きながらウィストは恨み言をつぶやき続けた。  
 
 

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