『ギャンブリングナイト』  
 
都市から遠く離れた小さな町の酒場。  
都市に比べると、夜の闇ははるかに深く、娯楽も少ない。  
酒場に集まり、喋りに、賭け事に興じる人々。  
そこにリュートを持った小柄な人物が入ってくる。  
ちらりと視線を送り、またもとの姿勢に戻る客たち。  
カウンターにあるスツールへ腰をおろし、蜂蜜レモン水を頼んで喉を潤す。  
店主としばらくの間、話しに興じて、最後にひとつうなずく。  
客の方向に向かって座りなおし、リュートをひょいと抱え上げる。  
ゆっくりと静かに爪弾きだし、しだいに音は大きくなる。  
気がついた人々が手を止め声を切り、吟遊詩人のかき鳴らす音に注目する。  
十分に視線が集まったのを確認すると、酒場の高い天井に低い声が朗々と響いた。  
 
 
―――今宵歌いますは、へっぽこと呼ばれる英雄の物語。  
   至高神に愛されし娘に、態度が極大皮肉屋魔術師。  
   この二人の初めての契りの色語り。  
   それを取り巻く仲間たちの歌語り。  
   さて、皆様。  
   今しばらくのご静聴を、  
   そして私が無事に歌い終えることができるよう、  
   芸術神の加護をお祈りくださる事をお願い申し上げまする。  
 
 
 
   夜の色は深い闇。  
   月明かりと人々が手に持つランタンが、  
   闇をわずかながらもうち消してゆく。  
   家路に急ぐ道行く人々。  
   通いなれている店に入る人々。  
   さまざまに行きかう人の流れの中に、その店はある。  
   威勢のよい掛け声と、多種多様な会話が飛び交う店の中。  
   壁際にひときわ目立つ3人組がテーブルを囲んでいる。  
   見た目こそ若い面々だが、其々が特化した才能を持ち、  
   急激に名を上げた冒険者グループの一部。  
   駆け出しのころとメンバーが変わっているものの、  
   名を下げるどころか上がり続ける一方。  
   ちなみに看板娘のウェイトレスもその仲間。  
   嫉妬やねたみもあるかもしれないが、  
   彼らの纏うどこか間抜けな雰囲気に、  
   その声が大きくなることはほとんど無く、  
   常連客で彼らを知らないものは、当然いない。  
   ただし彼らの間では、『腕のよい冒険者』としてよりも、  
   『仲の悪さが仲良い証拠』という矛盾した認識で、  
   記憶の中に刻み込まれている。  
   そしてその認識は、正しく彼らの関係を表現していて、  
   彼らの会話に耳をはさめばそれはすぐにわかる事。  
   青い小鳩の看板が、軒先で揺れるこの店で、  
   いつもの光景が繰り広げられる…はずだった。  
 
   少しだけ違う、いつもの光景。  
   そこから日常がずれてゆく。  
   それに気がつくものは、誰も、いない。本人たちにも、わからない。――  
 
 
 
※        ※        ※        ※        ※  
 
 
 
 バスが《青い小鳩亭》に入ったとき、既にそこには仲間たちがテーブルについていた。陣取ってい  
 る壁際の卓へ歩み寄ると、すぐさまマウナが飛んできて、注文をとって引き返す。軽く手を上げて  
 挨拶し、無造作に空いている椅子へと腰掛けた。壁にリュートを立てかけると、仲間たちの会話に  
 耳を傾ける。どこにアイデアの片鱗が落ちているからわからないからだ。ネタの枯渇は、吟遊詩人  
 にとっては死刑宣告にも等しいもの。  
 今も仲間の言葉を耳に挟み、いつも持っているネタ帳をとりだした。  
 
「へー、イリーナの家庭教師してるんだ」  
エキューが空になったグラスを置き、フォークを手に取る。目の前にあるのは、出来立ての料理たち。  
「おう。最近旅が続いてご無沙汰だったけどな」  
「うーんと、兄さんが学院に入ってすぐからだったっけ?見てもらうようになったの」  
既に食事を済ませ、使い魔にえさをやりながら上機嫌でワインを飲んでいるヒースと、彼女のご自慢  
のグレートソードの鞘をいじっているイリーナも、いつものように同じ卓についている。  
「そうだ。いかんせん出来のいまいちな生徒でな。この間まで共通語の読み書きが怪しかったんだぞ」  
「そういえばそんなこと言ってたね。ノリスと2人で書類の前で固まって動かなくなっちゃって、  
 ガルガドさんが頭抱えてたのが懐かしいわあ」  
エールのジョッキを持ってテーブルの間を回っていたマウナが、ちらりと視線を送り声をかける。  
ついでにテーブルの上の空いたグラスを回収し、軽やかに遠ざかってゆく。  
「マウナ、言葉が痛いです…」  
椅子の上で体育座りをして、いじいじといじける。  
しかし既に彼女は遥か遠く。声はまったく届かない。  
「それでよくファリス聖典を理解できましたな?」  
帳面に何かを(おそらくは歌のアイデアを)書き留めていたバスが顔を上げる。  
 
「はじめは俺様が聖典を簡単に意訳してやってたんだ。その後は確か…アネットだったか。彼女が聖  
 典の内容を教えていたと聞いているが」  
「……ヒースが?」  
「な、何だ、エキュー。その目は」  
「どうにも信用度がイマイチ……ねえ」  
料理を食べつつ聞くエキューの瞳は冷たい。並々ならぬほどに冷たい。  
「最近こそあまり礼拝に行ってないが、一応俺様はファリス信者だぞ!  
 しかもイリーナは司祭の娘でその上啓示も受けている。  
 さらにおじさんおばさんには、お袋経由で小さいころから散々お世話になっている。  
 もう一個追加するなら、俺は今も昔も最低限で最大の効果を得る事を得意としている。  
 等々の理由により、いくらなんでもきっちり仕事したぞ!」  
「昔兄さんがまとめた『誰でもわかるファリス神の聖典』は今でも神殿の子供たちの読み物になって  
 ますよ」  
額に青筋を立てて全力で力説する幼馴染を見て、仲間内では一番長い付き合いになるイリーナがフォ  
ローに入る。  
「子供たちにも評判よかったよなあ、確か……」  
それを聞いたエキューとバスの目が大きく開く。イリーナほどは付き合いが長くないため、にわかに  
は信じられない様子だ。まあヒースの普段の言動を見ていれば、それはむべなるかな。  
「ほう、ヒースでもやるべきところはやるのですな。」  
「当然、って言うかバス、それじゃ俺様が何にもしてないみたいじゃないか」  
「本当にそれに答えてほしい?はっきりきっぱりばっさり、と」  
フォークをぴこぴこと動かしながら、面倒くさそうな様子でエキューが応じる。  
 
「うぐ…ま、まあいいさ。言っとくが、イリーナの家庭教師については手を抜いたことは無いぞ」  
「……次は、しあさって、でしたよね」  
どこか影がある表情で、日付の確認を取る。  
「ああ、ちょっと学院のほうで授業とレポートが詰まっててな。明々後日以外には時間の都合がつけ  
 にくいんだ」  
そう言うとにやーりとヒースの口元が笑みを形どる。  
「出しといた課題、頑張るようにな。基礎はほぼ大丈夫だから応用問題を入れといた」  
「ああ、やっぱり。さっぱりわからない問題がいくつかあると思ったらそうだったんですね!」  
「応用もやらんと身につかんぞ。ま、ちょっと今のお前じゃ解きにくい問題かもな。一応コツさえつ  
 かめば簡単なものばかりだが」  
「ひどい、兄さんひどい」  
「今度の講義はかくごしとけよ。懇切丁寧に教えてやる。楽しみだなあ、くっくっく……」  
「ねえ、ヒース。もしイリーナが全問正解してたらどうするの?別のこと講義するの?」  
バスのオーダーを次々とテーブルの上に並べていたマウナが、ふと思ったことを聞く。それはバスと  
エキューの中にも浮かんでいた疑問で、3人の視線がヒースに集中する。  
ヒースの邪悪としか言いようの無い笑いが止まる。  
 
今までそういった奇跡のようなことは 起こったことが無い。  
考えたことも無かったし、想定する必要も無かった。  
「――マウナ。冗談は寝て言え。俺が教えはじめてからそのような事は一度も無い。特に今回は応  
 用問題が入っているし、先ほどのイリーナの言葉から予測するに、解くコツを見つけていないと推察  
 される。それが3問ほどあるんだぞ。1問ぐらいなら解けるかもしれんが、全問正解となると厳し  
 いかと。ゆえに、お前のその質問は実にナンセンスなものと思われるのだが?」  
「兄さん、本気でひどい。さっきの言葉がかすむほどひどい!私だって、やってみれば……」  
イリーナの燃える目がヒースをにらむが、それを軽く受け流す。なれたものだ。  
「……できるものならやってみろ。一度でいいから俺の講義の負担を減らしてくれ」  
「できるもん!」  
「イヤ、難しいだろう」  
「できるってば!」  
「無理だって」  
「できる!!」  
「むーりーだ!」  
顔を突き合わせ、声がどんどんヒートアップする。  
仕舞には椅子から立ち上がり、同じ言葉を繰り返す。ついには無言のにらみ合いになる。  
両者とも一歩も引かない。ヒースの使い魔― 鴉のフレディ ―はとうの昔に天井へ退避していた。  
 
あきれ果てていたマウナが仲裁しようと動いたところで、『悪・即・断!』と叫ぶときと同じような  
勢いで、イリーナの指が目の前の家庭教師に向かって突きつけられた。  
「なら兄さん。今出てる課題、もし全問正解していたら、私の言うことを1つきいてください!」  
「賭けってか?」  
「そうです!!」  
「ほほう、面白いことを聞いた。なら受けてやろうじゃないか。そうだ、1つと言わず3つでどうだ」  
「本当ですね」  
「もちろん。信じられんならファリス様に誓ってやる。もしイリーナ、お前が課題を全問正解してい  
 たら、お前の言うことを、俺が――ヒースクリフ・セイバーヘーゲンがどんなことでも3つ、実行  
 してやる」  
胸元に隠れていたファリスの聖印を引っ張り出し、軽く手をあてて、高い天井をあおぐ。  
口元には不敵な笑いがにじんでいた。  
「なら私も誓います。もし全問正解していなかったら、私――イリーナ・フォウリーはヒース兄さん  
 の言うことを3つ、どんなことでも実行します。……兄さん、勝負です!」  
それを見たイリーナも、服に刺繍されている聖印に手をあてると、再びヒースに指を突きつけた。  
「イリーナ、大丈夫なの…?正直、その、かなり分が悪いと思うんだけど、な」  
「馬鹿にされて悔しいんだろうけど、やめたほうがいいと思うよ。大体条件がフェアじゃない」  
「無謀ですな……いずれにせよ、ファリス神に誓った後では、取りやめは不可能ですかな」  
すべてをあきらめた様な、それでいて面白そうなバスのトドメの言葉。  
「とうぜんだ」  
「とうぜんです」  
簡抜入れずに答えが戻ってくる。こうなってしまっては、ほっとくしかない。そう三人は判断し、説  
得することを早々に放棄した。  
 
「あーあー、まあこの二人だもんね」  
「そうだね。イリーナは頭に血が上っちゃってるみたいだし」  
「ヒースのほうは意地になっているようですしな」  
バスが壁に立て掛けていたリュートを手に取ってジャラン、と大きくかき鳴らし、店の中へと響かせ  
た。他のテーブルで思い思いに飲み食いし、(大きな声で叫びあっていたにもかかわらず)語り合っ  
ていた者達の視線が集まる。  
「それにしても、この賭けで一寸した歌が作れそうです。もしよろしかったらではありますが、賭け  
 の結果と、願い事の内容を教えてくださりませんかな?ああ、もちろん決着がついた後にで結構で  
 すよ。無理にとは言いませんが……」  
歌うときほどではないけれど、朗々とした声が店に響く。  
この状態では、後日結果と内容共に聞き出され、バスの歌に新たなバリエーションが加わるのは決定  
的である。本日店にいた客すべてが証人だ。  
「みなさん……ひどいです。なんか楽しまれてる〜」  
「ふん、当然の反応だゾ。イリーナ。ま、せいぜい首を洗って待ってることさ」  
「に〜い〜さ〜ん〜。誰が原因だとおもってるんですか!」  
「ふご、ボ、ボウリョクハンタイ〜……くヶ」  
さっきまでの緊迫した雰囲気はどこへやら。いつものムードが5人の間に流れ出す。  
イリーナがチョークスリーパーでヒースを落とすのと同時に、それを見ていた客の間で大きな笑い声  
が巻き起こった。そんな客たちを、カウンターから店主夫婦がほほえましく眺めている。  
 
今日も《青い小鳩亭》はにぎやかだった。  
 
 
 
―― 三日後  
 
ヒースはイリーナの家にいた。賭けの約束をしてから今日まで、イリーナと会っていない。朝には店  
に来ているらしいが、自分はレポート作成が忙しく、夜しか顔を出していないし、イリーナのほうは、  
夜には店を訪れていないせいだ。  
どうやら課題を必死に解いているらしいと、マウナたちからは聞いていた。  
日に日に微妙に衰弱しているとも。妹分から言い出したが故の事とはいえ、さすがに心配になる。  
しかし杖で家の扉をノックすると、いつもと変わらない様子でイリーナが出迎えた為、拍子抜けする。  
両親が今日明日と神殿で泊り込みのため、泊まっていってはどうかとの誘いを受けたため、学院寮に  
は外泊届けを出してきた。そのついでに小鳩亭でサンドイッチや鶏肉の揚げ物などを買ってきて、講  
義前に二人で腹の中を満たすと白墨と小さな黒板、手作りの教科書を机の上に用意した。  
「じゃあ、はじめるぞ。この間の課題を出せ」  
まずは先日出された課題の採点を始める。その間、イリーナは緊張した面持ちで、手の中にある聖印  
を握っている。この結果で先日の賭けの結果が決まるのだ。自信の有無にかかわらず、緊張するのは  
当然である。  
「……」  
課題の書かれた、少し大きな黒板の上を、ヒースの手が滑る。その表情は、最初こそ余裕のあるもの  
だったが、しだいに引きつってきた。悔しそうな舌打ちが、二回響く。その度に、イリーナの体が軽  
く震え、明るい表情に変わってゆく。そして最後の問題で手が止まり、音が消える。緊張に耐えられ  
なくなって、目を閉じる。しばらくして、黒板の上に、シュッと書き付ける音が響いた。  
 
「…ほれ、イリーナ。目をあけろ」  
その言葉に恐る恐る目を開けると、目の前に課題が突き出してある。それを受け取り、目を通すと、  
すべての問題に丸がついているのが見えた。  
「……これってつまり……」  
「ああ、全問正解だ。それ以外に何に見える」  
憮然とした口調でヒースが告げる。  
「と、言うことは、賭けは私の勝ちですよね」  
「そんなの知らんな…と言いたいところだが、そうだよ、お前の勝ちだ」  
その表情は硬く、苦虫を何匹も、思いっきり噛み潰したような顔をしている。  
「つまり、私の言うことを何でも三つ、きいてくれるんですよね」  
「…その通り、て言うかしつこい!正解はしてるが、いくつか補足したい部分がある。とっと教科書  
 を広げろ!」  
何度も確認する生徒にぶちきれたのか、大声を上げて、講義の開始を促す。  
「兄さん、お願いごとは〜?」  
「講義が終わったら、きいてやる」  
「わかりました…。絶対ですからね」  
「俺様はそんなに信用ないか?」  
「日頃の行いを、もう少し省みてくださいね」  
「うぐ……ほれ、始めるぞ!」  
そう言って、黒板を手元に引き寄せる。  
教科書を使って課題の補足を始めるころには、ヒースもイリーナも、いつもの表情に戻っていた。  
 
時間が過ぎる。一つ一つの問題を丁寧に解説し、『補足』という言葉の通り、正解しつつも足りてい  
なかった部分を補ってゆく。その手際はよく、かつ判りやすい。以前『手馴れた先生っぷり』と知り  
合いから評価されたこともあるが、今はそのときよりもさらに腕を上げていた。  
「よし、ちょっと早いが、今日はここまでだ。コツはわかったか?」  
「うん。こうやればもっと簡単に解けたんだね」  
「だろ、まあお前の解法でも間違いではないんだが、こっちのほうが、計算数も少なくて、確実だ。  
 次に同様の問題があったときは、これを使え」  
そう言って、課題の書かれた黒板を消し、教科書を閉じる。イリーナがその横で大きく伸びをする。  
講義が終わり、賭けも勝利に終わって、開放感あふれた表情だ。その手には短くなった白墨が握られ  
ていて、唐突にパチンと音がはじける。どうやら握りつぶしてしまったらしい。頭の上からぱらぱら  
と白い粉が振ってくる。粉で髪の毛や顔が白く汚れた。  
「あらら、またやっちゃった」  
「イリ〜ナ〜」  
おどろおどろしい声に横を向くと、ヒースの側頭部と、横顔が白く染まっているのが見える。思いっ  
きりかぶってしまったようだ。  
「何度も言ってるのに、また握りつぶしやがったな……」  
「ああ、ごめんなさいごめんなさい。すぐに湯浴みの準備してきます〜」  
そう言うと椅子から勢いよく立ち上がり、逃げるように走って行く。それを見送ると、ふかくため息  
をつき、水場へ顔を洗いに行った。  
 
 
汚れた範囲の広かったヒースに湯浴みの順を譲り、食物庫から、母親が今日の講義用に用意してくれ  
ていたお菓子を取り出す。不器用な手つきでそれを皿に並べ、戸棚から茶器を取り出して、何を入れ  
ようか迷っているところに、ヒースが戻ってきた。  
寝巻き代わりのシャツを着て、湿った長い髪をタオルで拭いている。  
「ン、茶を入れるのか」  
「うん。何にしようかな……。兄さんは何を飲みたい?」  
ざっと菓子の盛り付けられた皿に視線をやる。  
「……無難にいつものでいいんじゃないか?奇をてらうこともあるまい。後は俺がやっておくから、  
 お前もとっとと湯浴みに行って来い。顔にまだ粉がついてるぞ」  
そういって、自分の右頬を指で軽く叩く。  
それを見て、左頬を手の甲でぐいっとぬぐうと、甲がわずかに白く染まった。  
「あ、ほんとだ。じゃあ、お願いしますね」  
「どこで食べる?居間か、それとも客間か?」  
茶葉を探しながらたずねる。  
「そうですね……私の部屋に持っていってください」  
どうせ居間だろう、と思っていたため、意外な言葉に振り向くが、既に姿は無い。自分の部屋に着替  
えを取りに行ったのだろうか、階段をばたばたと走る音のみが響いている。ひとつ、息をついて探し  
物を再開した。  
 
 
先ほどまでは黒板や白墨が散らばっていた机の上には、いくつかの菓子が乗った皿と、二人分の茶器  
がおいてある。傍らにおいてあるポットには保温のためのティーコーゼがかぶせてあった。お湯を入  
れてからの大体の時間を確認し、カップに注ぐ。ふわりと室内にお茶の心地よい匂いが立ち上り、美  
しい色が、カップ内に広がった。  
「兄さん、おまたせしました」  
「お、来たか。今お茶を入れたんだが、ちょうどよかっ、た……」  
そういって振り返り、とまる。  
「すっごくいい匂い。……どうしました?」  
湿った髪、ほてった肌――これは湯浴みをしたのだから当然だ――太ももの半ばまでを覆う、大きな  
シャツ一枚。そこから伸びた筋肉質の伸びやかな足に、驚く。  
「……イヤ、何でもない」  
「そうですか」  
しかしよくよく考えてみれば、妹分の神官服の下は、鎧を装着している場合を除けば、たいていミニ  
スカート、もしくはキュロットをはいている。その丈の長さは今の状態と大して変わりは無い。一気  
に冷静さを取り戻す。  
そんなことを考えていたせいで、イリーナのもらした残念そうなため息には気がつかなかった。  
 
会っていなかった二日間のことを色々はなす。冒険者として、共に旅に出るようになってからは、ほ  
とんど毎日《青い小鳩亭》で顔を合わせていたわけだから、それだけ会っていなかったことが、逆に  
不思議な感じがする。  
講義前に軽食を取ったばかりだというのに、皿の上のお菓子の減りは早い。二人とも話を聞いている  
時は口の中にお菓子をほうりこみ、それ以外のときは喋っているといった具合だ。わずかな時間の後  
に、皿の上が空になる。それからは、話すことも少なくなった為、ゆったりとお茶を飲み始めた。  
言葉が止まり、心地よい静寂が訪れる。しばらくそれに身を任せ…少しの時間の後、イリーナが口を開いた。  
「兄さん。賭けのお願い事なんだけど……」  
「ああ、いいぞ。言ってみな。ただし、絶対に実現不可なことは言うなよ。その場合は容赦なく却下  
 するからな」  
「判ってますよ。三つとも可能な……事、ですから」  
言葉の間に不自然な躊躇が見える。それに違和感を覚えつつも、無言で促した。  
「ええと、一つ目はですね、」  
 
一つ目は、あきれながらも承諾。懐具合に思いをはせる。  
二つ目は、微妙な顔をするが、言いかけた皮肉を飲み込んで承諾。面倒くさがる。  
三つ目は―――  
「は、今何つった?」  
「……私を……抱いて…ください」  
うつむいた顔が赤い。そんな彼女の様子をみて少し考えた後、腕を伸ばして、抱きしめ、離れる。  
「こういうことか?」  
「違います!はぐらかさないでください!!」  
「イヤ、俺様は結構本気だったんだが……」  
顔を赤くして、本気で怒っているイリーナに、ヒースの腰が引ける。  
「じゃあ、言い方変えます。本当はこっちは言いたくなかったけど――」  
沈黙が落ちる。時間がじりじりと過ぎて行く。  
「私を…ユニコーンに、…その、触れることが、出来ない様に……して、ください」  
「……」  
再び沈黙がその場を支配する。はじめに言われたときに、既に判ってはいたが、こうも比較的直球で  
こられるとは思っておらず、意識がくらりと回る。  
「イリーナ『ファリスの鉄塊娘』とあだ名はついているが、お前さんは一応女という性別にすみっこ  
 にこそっと属してるだろうが。もう少し婉曲な表現は出来なかったのか?」  
「だってはじめに言ったほうだと、はぐらかそうとしたじゃないですか!あと『すみっこにこそっと』  
 はよけいです。私はれっきとした女の子です!」  
信じられなかったからとはいえ、はぐらかしかけたのは事実のため、反論できない。  
「えーっとな。確かに賭けは賭けだ。だけどその前に、ソンナオ願イゴトヲスルハメニナッタ経緯ヲ  
 セツメイシテモラエマセンカナ?」  
あせりのためか、口調がおかしい。そんな幼馴染を見て、寂しそうにつぶやいた。  
「しなきゃ、だめですか」  
「…いやまあ、な。正直気になる」  
あまりといえばあまりな『お願い事』の意図がわからず困惑する。それを読み取ったのか、ヒースの  
方を向いていたイリーナの顔が伏せられ、床に敷いてある絨毯に視線が落ちる。  
「判りました…言います。その代わり、絶対、約束は守ってくださいね」  
ぽつり、ポツリとイリーナの口から言葉が発せられる。  
 
その内容は、ヒースにとって信じがたいもの、だった。  
 
「いつからか寝ていると、その―切なくなるときがあるんです。心はすっごく痛いのに、体は熱くて、  
 止まらなくて」  
「――もしかして、お前……イヤ、俺が言葉に出すもんじゃないな」  
「たぶん考えてることで正解です。はじめは何が何だかわからなくて、我慢してたんだけど……」  
 
声が切れる。  
 
目の前で座っている、妹も同然の幼馴染から漏れる言葉に、ただ沈黙するしかない。  
「神殿に泊り込んだ時、アネットやみんなに相談したら、まあ色々教えてくれて。女の子が集まると、  
 やっぱりそういう話になるし……彼氏がいる子もいますしね」  
イリーナの顔は伏せられたまま。羞恥のためか肩が軽く震えている。  
 
言葉は続く。  
 
「それから、かな。切なくなると一人で……」  
「言わなくていい。わかったから、俺が悪かったから、もう言わなくていい!」  
その先を聞きたくなくて、思わず声を荒げて静止する。  
 
止まらない。耳にはいってくる。  
 
「いつも、ヒース兄さんの事を思ってしてた。その時浮かぶのは必ず兄さんの事で、そんな自分が恥  
 ずかしくて、申し訳なくて」  
「――で、俺に」  
かすれた声がヒースの口から漏れる。  
「一回だけでもいいから、抱いてもらえれば、落ち着くかなって。兄さんなら、平気だし……」  
 
沈黙が落ちる。  
先ほどまでは暖かかった空気がひどく冷たい。  
やわらかく部屋を照らしあげていたランプの光も、どこか寒々しい。  
心地よかったはずの静寂も、今は重い。  
それらを吹っ切ろうと、勤めて明るい声を出そうとする。  
「それもあって、あんな無謀な賭けを吹っかけてきたのか。…正直驚いたぞ。まず第一に賭けなんて  
 言葉、お前の口から出て来たのが信じられん。第二に、この間の、あのまったくわかっていない状  
 態から全問正解に持っていくとは思わなかった」  
少しだけ、空気が軽くなる。しかし、すべては消えない。  
そして次の言葉で、ヒースも自分の意思を決める。  
「本当は、賭けなんてするつもり無かったんです。でも言い合いしている時に、いきなり浮かんで、  
 気がついたら賭けのことを叫んでました。こんな不順な動機で賭けを誓って、勝つ為に頑張ったな  
 んて、ファリス様に申し訳なかったですけど、すっごく、頑張りましたから…。この三日間、頭が  
 沸騰するかと思いました」  
一気に喋り終えると同時に、椅子がこすれる音がする。足音も聞こえて、下を向いたままの瞳に足先  
が入り込む。  
「ふ、ん。賭けは賭け。負けは負けだ」  
「兄さん?」  
イリーナの顔があがる。いつに無く真剣な表情のヒースが視界に映る。  
「賭けといえ、約束を反故にするのは、ファリス様もお許しにならんだろ」  
その中にはいつもの皮肉げなものは無い。久しぶりに見た幼いころのままの幼馴染の顔だ。  
「……それって、つまり……」  
手が伸び、まだ湿っている栗色の前髪をかき上げ、額にやわらかいものが触れる。  
「抱いてやる。ただし抱くからには泣こうがわめこうがやめてはやらんぞ。あと言っとくが俺も初め  
 てだ。どうなるかは…知らん」  
最後のほうは照れくさそうに頭を掻き、顔を背けてしまう。ランプの明かりにまぎれてよくはわから  
ないが、確かにその頬は赤くなっていた。  
 
「ありがとう、兄さん」  
そんなヒースに抱きつき、胸に顔を寄せる。  
胸元にあるイリーナの頭を軽く叩くと、少しかがんで肩とひざ下に両腕を差し込み、その体を持ち上  
げた。  
「わわ、び、ビックリした〜。」  
魔術師とは、室内にこもって研究するイメージが強いため脆弱なイメージがあるが、ヒースは体力と  
精神力はともかく、力だけなら並みの戦士よりも強い。  
いくら人間離れした膂力を持つイリーナといえども、体格の差は大きく、簡単に抱きかかえることが  
できた。  
「…やっぱり軽いんだな。あんな鉄塊状態からは信じられんが」  
紋章輝くプレートメイルを着込んで巨大なグレートソードを振り回し、背中と腰から大小様々な武器  
が突き出した姿で、敵に突進している後ろ姿が脳裏に再生される。  
一度その攻撃を受けることがあったが(もちろん外れた。当たったら生きてはいまい)それを思い出  
すと、今でも身が総毛だつ。それほど迫力のあるものだ。  
「ひどいです。私だって一応女の子なんですよ。そんな失礼なこと、ましてや、今から、その…」  
でもいま目の前にいるのは、小柄な、力さえ除けばどこにでもいる普通の娘だ。  
「んん〜、さっきの勇気はどうした?……冗談だ。オネガイダカラクビヲシメルノハヤメテクダサイ  
 マセンカ、イリーナサン。アンマリシメルオッコチマスヨ?」  
イリーナに首を軽くかるーく絞められ、半ば朦朧としながらも、ベッドの上にそっと座らせる。  
 
名残惜しそうに離れた細めの腕が、自分のシャツの胸元をギュッと握り締める。乱れた呼吸を整え、  
自分もベッドにあがったヒースが、手を伸ばし、ゆっくりと小さな体を抱き寄せた。指で、かすかに  
震えている唇に触れようとしたところで、止まる。  
「兄さん?」  
「……キスはやめとく」  
「え、どうして?やっぱりダメなの?」  
表面にこそは出していなかったが、内心はうれしさでいっぱいになっていた。いまさら拒否されるの  
は、一気に絶望のふちにまで叩き落されるようなもの。イリーナの目じりに涙がたまる。  
「俺は『キスは』といったんだ。一度した約束を破るようなこと、するわけない」  
「だって…」  
目じりに指が触れ、そこにあった涙をすっと拭い取る。  
「今回抱くのは賭けの約束があったからだ。正直、お前のことは抱いてもいいと思っている。言っと  
 くが嘘や法螺はついてないぞ」  
耳元でいつもより低められた声が響く。肌に感じる振動が心地よくてゆったりと瞳を細める。  
「けどな、今言ったとおり、好きとかそういう感情で抱くわけじゃない。だからせめてキスぐらいは、  
 初めてを残しとけ」  
「兄さん、意外とロマンチストなんですね」  
「ふん。余計なお世話だ。魔術師は“ろまんちすと”でないと勤まらん。それに仕方ないだろ、そう  
 思っちまったんだから。自分の中で納得した以上、実行するのは無理だ。俺様の理性が許さん」  
「別に私はいいんだけどな……」  
小さな声でごちる。顔を寄せているヒースの耳にも当然届くが、あえて黙殺する。  
「まあいいです。言う通りにします。それじゃあ、ね」  
誘うような笑みを浮かべ、首に腕を回して自ら体を引き寄せた。  
 
唇にキスをしない代わりに、額や頬の上へと唇を落とす。その感触がむずがゆいのか、しきりに顔を  
振って逃れようとするが、腕でしっかりと抱え込む。イリーナのほうが圧倒的に強いわけだから、  
逃げようと思えば簡単に振り払うことが出来るだろうが、その体には、そこまで力が入っていない。  
「ん、ふ……くすぐったい、ですよ……」  
「んー、そうみたいだな、じゃあ、少し目を閉じてな」  
「こう、ですか?」  
「そう。いいって俺が言うまで、開けるなよ」  
抱え込んでいた腕をはずし、大きなシャツの上から、体のラインを浮かび上がらせるように、手でな  
ぞる。ここは刺激が強いだろう、と思える部分はわざとはずし、ゆっくりとすべらせて、間近にある  
イリーナの表情を観察した。  
はじめは動かすたびに、小さな笑い声が出てきていたが、しだいにそれが消え、困惑したような呼吸  
音のみになる。徐々に頬が上気し、布地越しに伝わってくる体温も高くなったように感じた。  
「はあ…ふ、ん……まだ、開けちゃダメなの?」  
「ダメだ」  
イリーナの声色に表れた変化に、嗜虐心が刺激される。強い口調で言うと、びくりと肩が震えた。  
「……なんだか、怖い、怖いよ」  
ヒースの息が徐々に荒くなる。自分で出した声に、イリーナから漏れる言葉に高ぶっている。  
「何が、怖いんだ?言わなきゃ、わからないぞ?」  
「言えないよぉ…」  
耳元に口をよせ、軽く息を吹きかける。  
「あ、ひゃぁ、ん」  
声に艶が混じる。幼馴染のこんな声を聞いたのは初めてで、頭に血が上りそうになるのをすんでで抑  
えた。  
 
「あのね、すごく、もどかしくて、どこまでも流されそうになるのが怖いの。けどそれよりも……こ  
 んなこと思って、言って、兄さんに拒否されるのが……一番、怖い」  
「……もっと、触れてほしいか?」  
一瞬の躊躇。その後、ゆっくりと首がたてに振られる。  
「もう、目を開けてもいいぞ」  
その言葉にほっとして、イリーナが目を開ける。ランプの明かりがともる中、シャツを脱ぐヒースの  
大きな背中が写った。少し驚いている間に、ヒースのひざの中に抱え込まれる。後ろから腕が伸び、  
きゅっと体に回った。  
(あ…なんだかすごく、安らかな感じ……)  
布一枚越しに触れる肌が心地よい。この服が無かったら、直接肌が触れたらどれだけ熱いのだろうか。  
そんなことを考えると、頭の中がぽわーっとしてくる。なかば夢うつつでいたところに、幼馴染の腕  
が解かれて、両手のひらが太腿の部分におかれた。そのまますっとすべる。はじめは上だけだったも  
のが徐々に外に、そして内にとずれてゆく。伸ばしていた足が落ち着き無くさまよい、少しだけ入っ  
ていた力が抜けていった。不意に、片手が離れる。離れた手は持ち上がり、緩やかに膨らむ胸に当て  
られた。  
 
「!!」  
自分以外が触れたのは初めての為、ゆっくりと加えられる力に、恐怖心と期待感が混在する。だから  
太腿に置かれたままだった手が内股に当てられ、足をゆっくりとひらいていくのに気がつくのが遅れ  
てしまう。気がついた時には、ヒースの長い足に自分の足が絡みとられ、そう簡単には動かせない状  
況になってしまっていた。  
「……兄さん、あのー、この格好は、流石に…」  
下を向いて、改めて自分の格好を確認する。耳の方まで、今まで以上に赤くなるのを感じた。  
「そうか?俺はうれしいぞ」  
「はあ、嬉しいですか。私は恥ずかしいです。こんなの……」  
楽しそうな幼馴染の言葉に、少しだけ情けなくなって、ため息が言葉と一緒に漏れた。  
「うむ。なら意図した通りだな」  
大真面目に囁かれる。  
イリーナから言葉が返ってくる前に、耳朶にキスをした。そのままゆっくりと舌を這わす。  
のどの奥まで出ていた言葉は、その感触によって封じ込められた。いつの間にか、ヒースの両手が緩  
やかな曲線を描く胸を、服地ごとふわふわと揉んでいる。大きくは無いが、よく鍛えられた体とあい  
まって、手ごたえのある弾力を手のひらに返していた。  
かすかに声が漏れ、一度は落ち着いていた呼吸も、荒いものになってゆく。手を動かすうちに、硬く  
なり、布地を押し上げている部分に気がつく。  
そこを指でゆっくりと押しつぶすと、声と呼吸が一際、高く荒くなった。布地越しに指の側面使って  
はさみ、少しづつ刺激を加える。イリーナのあごが上がり、駄々っ子のように首を振った。  
「イヤか?」  
「…そんな事、ない、です…。でも、こんなの、初めてだから…自分だと、こんな風に感じないから、  
 少しだけ、怖いです…」  
「ふう…ん」  
胸から手を離し、再び太腿に手を当てる。  
「あ……」  
 
残念そうな吐息が、彼女の口から漏れた。それにかまわず、いまだ太腿を覆っているシャツの下へ手  
を伸ばす。それを見せ付けるようにゆっくりと。  
言葉は漏れてこない。頬に両手を当て、ただじっと見つめている。  
ヒースからは見えないが、イリーナの瞳は期待と困惑を同時に映し出し、くるくるとその二つの強さ  
が入れ替わっている。大きな手がシャツを上へとはだけていく時には、その瞳は困惑を押しつぶし、  
期待のひと色で彩られていた。  
ほてった肌に、手が触れる。吸い付くような感触の肌に、感嘆しか沸いてこない。  
わずかににじんだ汗が、肌の密着度をあげる。  
片手は胸に、残りは下のほうに移動する。  
胸に当てられた手は、先ほどまでとは違い、手と腕で胸を押し上げるように固定した。わざと敏感  
な部分に触れないように動かし、時折掠めさす。  
下へとむかった手は、じらすようにゆっくりと肌を伝い、わき腹やへその辺りを軽くくすぐる。  
その度に細い体が軽く振るえ、吐息が聞こえる。肝心な部分を飛ばし太腿を緩やかになでるころには、  
イリーナの足がもじもじとすり合わされていた。  
「どうした」  
答えは返ってこない。耳まで赤くなっている。  
「だから、どうしたんだって」  
再び聞く。判ってはいるが、あえて言わせようとの魂胆だ。  
「……」  
それでも返ってこない。やれやれといった風にため息をつき、まだ触れていなかった場所へとようや  
く手を伸ばした。内股をなでさすり、両足の間に手を差し込む。はじめこそ力が入り、手の侵入を拒  
絶していたが、耳や肌に唇を落とていくうちに、その力がすとん、と抜けた。  
力が抜けた足を、少し強引に左右に割ると、ショーツ部分に手を這わす。  
薄い布地越しに秘所を押し込んだ。  
 
「ん!ひゃん…アッ…ひ、あン…ふぁ……」  
口元に当てられていたイリーナの指の隙間から、声が漏れる。  
拒絶のような、歓喜のような、もしくはその両方が入り混じった声で、それはとても甘美なものだ。  
すっと意識が遠のき、一度は押さえ込んだはずの高ぶりが、一気に頂点に達する。興奮が、少しづつ  
理性を侵食していくのを感じた。それは止まらない。加速し続けていく。悔しく思いながらも、それ  
を制御することは、今のヒースには出来なかった。  
強く、弱く布地の上で指を往復させ、時折食い込ませる。指が動くたびに、イリーナの声が、体が、  
呼吸が敏感に反応を返す。それが面白くて、いたずらっ子の子供のように、弄び続けた。  
やがて、指先にじわりと湿っぽさを感じる。  
好奇心のままに布地の脇から指を差し込むと、そこはこぼれ始めた蜜で、熱く潤んでいた。  
 
 
シャツを脱がせ、濡れてしまったショーツを下ろすと、再び指を添え、綻んでいるスリットをゆっく  
りとなで上げる。  
「あ、…はあ…ふ、ふぁ……」  
少しだけ割り開くと、とろりとした蜜が絡みつく。  
「あ、すごいな…」  
「え…」  
信じられないといった様子で、下を向く。指をはなし目の前で広げると、つっと指の間を透明な液が  
繋いでいた。  
「兄さん、…恥ずかしいから、見せないでくださいよ……」  
今まで以上に赤くなりうつむいてしまう。イリーナの視線を追うように、手を再び下腹部へ伸ばし、  
指を動かす。胸に回った手は、肝心な頂部分をあえて触れないまま、さわさわと肌に指を滑らせ、く  
すぐる。無意識のうちにじれったそうに体を動かすが、何とかかわして愛撫を続行する。スリットを  
執拗に弄っていた指が、中への入り口を探り当て、軽く押入れる。指先が少しだけ潜ったところで、  
それまで荒い呼吸とわずかな声を上げていたイリーナから、鋭い声が飛び出した。  
「いた!痛い、止めて、止めてください…」  
最後には懇願するように声が小さくなり、背後にいる幼馴染の顔を見つめる。  
「…自慰をするとき、入れてみたこと無いのか?」  
「そんな、怖いこと、出来ないですよ…」  
「それはすまんかった。……ならこうしてみれば、どうだ?」  
脇から胸にまわしていた腕に力を入れ、スリットに手を添えたままイリーナの体を持ち上げる。急に  
悪くなったバランスに、その体が安定を求めて反射的にひざでベッドに立ち、軽く足を開けた姿勢を  
とった。座ったままのヒースの額にイリーナの肩口があたる。  
 
その背を軽く反らさせたまま、ヒースの指が再び秘所をいじり、硬くなったクリトリスを刺激する。  
反対の手で胸を掬い上げ、その存在を主張し、色づいている乳首を初めて直に弾いた。  
「は…ああ、兄さん…やめ…やめて、くださいよう…」  
懇願するのを無視して、背筋にキスをする。背がびくりと振るえ、力が抜けていくのがわかる。  
「あ、や、ダメ。力が、はいら、ない……」  
しだいにひざ上が笑い出し、少しずつ下へとずり落ちてゆく。スリットを割り、入り口付近に指を添  
えると、落ちるタイミングを見計らって、ギュッと敏感な上下二箇所を押しつぶし、捻り上げた。  
「あ、あ――!」  
急に与えられた強い刺激に、一気に限界に達し、ひざから力が抜ける。同時に先ほどまでは痛がって  
いたイリーナの中に、上からの体重を受けて、やすやすと指が入り込んでいった。  
「ハア…ハア…」  
必死であがった呼吸を整える。それが少し収まるのを待つ。  
「ほれ、入ったぞ。まだ痛いか?」  
「ン……平気みたい…」  
ゆるゆると指を動かし始める。その中は中指一本でもきつい。それでも耳朶や頬にキスをし、胸を手  
のひら全体でこね回して行くうちに、少しずつその綻びは大きくなる。  
「ん、はあ……」  
同時に秘所から流れ落ち、絡みつく粘っこい水音が部屋の中に響く。中指が自由に動くようになると、  
人差し指にも愛液を絡ませてそっと中指に添えるように中へと挿入した。  
さしたる抵抗を感じさず、ぬるりと指が食い込んでゆく。その感覚に軽く身を震わせ、耐える。  
すぐに中で動き出し、一本しか入っていなかったときに比べると、激しく、複雑に中をかき回される。  
先ほど軽く達していたため、一度は静まった衝動が、再び鎌首をもたげ、燃え盛ってくる。両足は自  
然と大きく開き、ヒースの指が動きやすいような体制を整えていた。  
首筋に唇を落とし、浮かび上がる汗を舌でなめ取り、這わす。粘り気を持って動く舌に、ぞくりと肌  
に鳥肌がたったのが判った。  
 
 
「そろそろいいかな……」  
十分にほぐした所で一人ごちる。それを聞いたイリーナの閉じた瞳が大きく開いた。同時に叫ぶ。  
「…!待って。心の準備が、まだ!」  
それを無視して、残っていた服を脱ぐ。足に力が入らず、その場に座ったままだったイリーナの背中  
をベッドに押し付ける。  
ひざを立てさせ、張り詰めた怒張を入り口にあてると、ゆっくりと体を前に倒した。  
「くぁ…は、痛い!兄さん、痛いよ、待ってよ!」  
イリーナの手が腕をつかみ、指に力が入る。同時に内が収縮し、侵入を阻もうとする。  
「イリーナ、キツ過ぎる…少しは力を抜け」  
「だって、無理、無理だよ…」  
そうは言いつつも、少しだけイリーナから力が抜ける。なぜか苦痛の表情の中に、少しだけの歓喜が  
浮かび上がっているが、己の猛りに飲み込まれているヒースには判らない、届かない。  
いつもの冷静な観察眼が、完全に沈み込んでいた。  
先端部が入っただけでも、背に戦慄が走る。それがすべて入ったら、どれだけの物を感じるだろう。  
今のこの状態がもどかしい。イリーナの腰に手を沿え、小さな肩を強くベッドに押し付けると、  
思いっきり力を入れて、押し込んだ。  
「ぐ…ぁ……は、ひぁ―――!!」  
少しの抵抗の後、それまでとは逆に引き込まれるように、奥まで入っていく。  
腕に強い痛みが走る。イリーナの爪が腕に食い込み、皮膚を突き破っていた。指が力を失い、離れる  
ときに、もう一度。その痛みが、熱くなっていた意識を今に引き戻す。  
 
グロテスクな自分のモノが幼馴染を貫き、奪った純潔の証が結合部を伝って、シーツをわずかに染め  
ている。耳に音が届く。静かなのに、かすかにしか耳に届かなかったその音は、泣き声、だった。  
「!」  
自分がしてしまったことに気がつく。  
何よりぼろぼろと涙を流している姿が、正気に戻ったヒースにはつらかった。  
傷つき、血がにじんだ腕が痛い。  
「あ……何て顔、してるんですか。さっき、自分で『泣こうがわめこうがやめてはやらん』て、私に、  
 言ったじゃ…ないですか」  
「確かに言った。でも……悪かった」  
「いいんです。私の無茶なお願い、聞いてくれて、そして、叶えてくれた」  
急激に冷やされた思考の中。  
痛むのか、ゆっくりと、途切れ途切れにつむがれた言葉が一つ一つ沁みてゆく。  
「この涙、痛かったからだけじゃないですよ?……涙って、嬉しい時にも、流れるじゃないですか」  
「……」  
繋がっている部分が灼熱のように熱い。すぐに動かしたくなる衝動に駆られるが、必死で耐え、言葉  
の終わりを待つ。  
「ヒース兄さんだから、初めてをあげたんです。……私が言っておきたいのは、これだけです」  
シーツをきつくつかんでいたイリーナの指を、そっと解く。  
手のひらを上に向け、その上に自分の手を重ねた。  
自分より小さい手のひらは、常に武器を握っているせいか、硬い。  
「ありがとな」  
「動いてもいいですよ。かなり我慢してませんか?私のほうが痛みには慣れてるし、ね」  
「……お見通しかい」  
「ふふ、長い付き合いですから」  
指が絡む。逆の腕で、イリーナの負担にならないよう体を支え、ゆっくりと動かし始めた。  
 
初めて異性を受け入れた彼女の内は、その筋力を反映してかきつく締まり、動かすのがとてもつらい。  
むしろ自分も痛い。  
「…キツイぞ」  
「ひゃ…そんな事、言われても…ん、はぁ………」  
それでも体を守るためなのか、徐々に分泌液が増えてくる。動くたびに掻き出されるそれが、シーツ  
に零れ落ちる流れを作るようになった時には、締め付けられる“痛み”は無くなっていた。  
無意識に閉じていた眼を開ける。ほつれた自分の髪が、淡い金色に視界を覆っている。  
それでも、小柄な体が自分の下でゆれているのが見えた。  
戦いの傷とは痛みの感じ方が違うのか、動くたびに眉根がきつく寄せられる表情が痛々しい。唇はぎ  
りっと音が出そうなほどかみ締められ、その隙間からかすかにうめき声が漏れていた。それでも、自  
分を拒絶する言葉は、もう出てこない。目じりに涙をためながら耐えている。必死に受け入れようと  
してくれているのが伝わった。  
(こいつ、昔っからそうだったよな。馬鹿正直で、まっすぐで、ひたむきで。俺を慕ってくれていて)  
ゆっくりと穏やかな思考の海の中へもぐりこむ。  
下半身から伝わる、やわらかく締め付けられる感触は、痛いほど脳に響いてくるのに、そんなのとは  
無関係に広がって行く思考に、心の片隅で苦笑する。  
過去、これから訪れるであろう未来、そして ―自分を兄と慕う幼馴染をこの手で抱いている― 現在。  
次々と海は移り変わる。  
 
そしてさらに深いところに沈み込み、体の感覚を手放しかけた時、声が耳元で響いた。  
「…兄、さん。ヒース兄さん。どう……しました?」  
すっとその声に導かれるように、意識が自分の中に戻っていく。  
「…何でもない」  
「でも…動き止ってます。私なら、大丈夫ですから。さっきも言ったけど、兄さんだから。ね」  
「しかしだな、そのー……何だ。」  
どうにも要領を得ない言葉がつづき、イリーナの心をわずかにいらだたせる。  
「ここまできて、ここまでして、いまさらなに言ってるんですか!」  
自分の上で逡巡している幼馴染の頭に手を回し、ぐっと引き寄せた。すかさず唇を重ねる。勢いがつ  
き過ぎて、互い歯が乾いた音を立てぶつかる。口元と、繋がった下半身から痛みが走るが気にしない。  
ヒースの淡い色の髪がイリーナの指に絡む。腕の力がわずかに緩むと、唇が離れた。  
「イリーナ! 」  
「だから、いいんです。兄さんはああ言ってくれたけど、初めては全部ヒース兄さんにあげます。  
 ……まあ言ってたキスも今のであげちゃったから、後の祭り…だけど。この意味、わかりますよね」  
しばらくの沈黙の後、ヒースからあきれたようなため息が落ちる。  
「お前な。せっかくの俺様の考えを無にするような事をさらりと言ってのけるなよ」  
軽い怒りにこわばっていたヒースの顔が緩む。かわりに浮かんだのはいつもの皮肉げな表情だ。しか  
し長い付き合いであるイリーナには、その中に自分への優しさが含まれているのがわかる。  
「でもまあ、お前らしいか。俺様の負けだ。ある意味な」  
「……何に、ですか?」  
「わからんのならいい。これは俺様の心の持ちようについてだからな」  
大きな手が小さいあごに触れ、軽く頤を持ち上げる。イリーナはその手に自分の手を重ねると、ふわ  
りと笑って目を閉じた。柔らかく唇が重なる。ついばむようなそれが何回も繰り返される内に、少し  
づつ重なる時間が長くなって、しだいに深いものへと移っていった。  
はじめは顔にあったヒースの手は背中と後頭部に回され、イリーナの体をギュッと抱き寄せている。  
とまっていた動きも、ゆっくりとではあるが再開された。  
 
部屋にベッドのきしむ音、二人の呼吸音とわずかな水音が響く。先ほどの会話の間、完全に止まって  
いたせいか、下半身からの痛みは大分やわらぎ、穏やかな痺れが意識に響く。  
それ以上に、重ねている唇の柔らかい感触と、その中で絡み、互いの舌で紡ぎ出している気持ちよさ  
に酔いしれていた。  
(あ、すごい…もっとしたい、もっと感じたい……)  
イリーナの腕はヒースの首元に周り、動きに合わせて指先が大きい背中をふわふわと掠める。  
指先がその背中を掠めるたびに、その体が軽く震え、喉の奥からわずかなうめき声が響いた。  
それに気がついて、すっと首筋から背中にかけて指先を滑らし、止める。  
指先から伝わる背中の感触は、鍛えあげた自分の筋肉の流れとは違っていて、不思議な感じがする。  
二度・三度繰り返すと不意に唇が離れ、つっと舌先の間を交じり合った唾液の糸がつないで、すぐに  
途切れた。  
「ん、ふ…く…。や、めろ、それは。」  
「―?…ああ、兄さんは背中が弱いんですね。今のは…さっきまでのお返しです」  
その言葉にヒースの顔が赤く染まる。  
「な、何い!俺様も知らなかった弱点がイリーナに看破されるとは……」  
「どーゆー意味ですか、ヒース兄さん?」  
「そのまんま。心当たりがあるなら、そう思ってろ」  
 
唇では無く、首筋や胸元にキスを落とす。その度に体を震わせて反応し、切なく細い叫び声をあげる  
幼馴染に、再び嗜虐心が浮上する。先ほどのように暴走しないように気をつけながら、好奇心に任せ  
てキスした肌を強く吸い上げた。ぽうっと赤く跡が散る。  
「ほら、跡が残ったぞ」  
体を起こし、離れかけた細い腰を引き寄せてつぶやくと、イリーナの指を赤く残った跡に触れさせる。  
「え、ええ。やだぁ…」  
「イヤならもっと残してやる…鎧着てばっかなんだから、見えないだろうが」  
「でも、でも」  
「なら首筋にも残そうか。どうせなら神官服の襟元、見えるか見えないかぐらいの所にな」  
「それはいやです!恥かしいし…」  
しかし言葉とは裏腹に、言われた瞬間、内が強く収縮し、ヒースを締め上げる。  
「うが!……もしかして、今のに感じたか?」  
「…あ、ああ……」  
恥かしさで顔を手で覆ってしまい、明瞭な答えが返ってこない。それは十分に答えを意味していたが、  
あえて意地悪くもう一度尋ねる。  
すぐに力が抜けたことに内心ほっとしながら、少しだけ強く、大きく動かし始めた。  
「想像したか?ほら、答えてみろよ…ん」  
「ひあ、ひゃあ……ちょっとだけ、考えました……」  
「……どう、思った?」  
「すっごくドキドキして……は、恥ずかしいけど、嬉しくて…ふぁ、ん…ごめんなさい、これ以上言  
 葉が浮かばないです……あ、ァ…」  
「まあ、いいだろ。よく出来ましたっと…」  
 
再び上体を倒し、下腹部から胸元までの肌が触れる。汗が浮かぶ肌は先ほどまでよりも密着し、交じ  
り合うような、それでいて一つになるような不思議な感触が思考に流れる。  
茶色の髪が汗で張り付く首に、キスを何回もする。神官服を思い出し、先ほど言った通り、服を着て  
れば、おそらく見えるか見えないか、の位置で不意に強く吸う。  
「ん、あふ…兄さんのばかあ…」  
「だって、嬉しいんだろ?」  
「そうだけど、そうだけど…」  
「素直に言った、ご褒美だ」  
同じ言葉を繰り返す口に指を添える。言葉が止まり、すねたように突き出される唇のふちを軽くなぞ  
る。首筋から顎を通って、再びキスをした。  
その間も腰の動きは止まらない。少しづつコツをつかんできたのか、リズミカルにイリーナを攻め立  
てる。イリーナも、それにあわせてわずかながらも動かし始めていた。  
「ん、ぷ…ふぁ、あ……兄さん――ヒース兄さん!」  
近くにいるのに遠く感じて、必死にヒースにすがりつく。腕に入った力を何とか制御し、背に爪を立  
てないようにするので精一杯だ。  
(や、好き…、大好き……。だから、離れないで、一人にしないで!)  
叫びたくても、声が出ない。ひたすら名前を呼ぶ。  
それはヒースも同じで、むしろイリーナの腕力に阻まれて、呼吸をするのがせいぜいだ。腹の底から  
駆け上がってくる快感と、ぎりぎりな呼吸の苦しさに、意識が朦朧とする。それでも、彼女の体を深  
く貪るように動かし続ける。  
そんな状態は、初めての二人ではそう長くは続かない。  
(……ヤバイ、そろそろ、限界…だ)  
「悪い、もう、無理」  
あいまいな思考の中で、体から出るシグナルを感じ取る。  
「え?あ…あ…ひ、ふぁ……あ――は……」  
そう言うと、さらに奥へと腰を叩きつけた。耐えられないと一度認識してしまうと、快感の堤防はす  
ぐに切れ、次に来た大きなうねりに飲み込まれて、あっけなく崩壊する。  
イリーナも自分の中に広がり、流れこんでゆく感触に巻き込まれる。軽く四肢を震わせると、細い声  
を上げて、ヒースをきつく抱きしめた。  
 
 
ベッドに座っているヒースの膝の中にちまっとイリーナが座り、その背を彼の胸板に預けている。  
「まだ痛いか?」  
「…当然です」  
抱かれていた時はともかく、快感の波が去ってしまった後に残ったのは、傷ついた内の痛みだけ。  
もちろん、この痛みが心の充足感に繋がってはいるが、しばらくはこれに悩まされるのだと思うと、  
少しだけ憂鬱だ。  
「あ、そっか……『癒―』」  
「タンマ。ちょっとそれはまて」  
思いついて、祈りの言葉を唱えようとした口をおおきな手でふさがれる。  
「もご…ぬ、く…」  
「今傷を直すと、たぶん次の時も同じように痛むぞ?とりあえず今回のところは我慢しておけ。回数  
 を重ねれば、痛くなくなると聞いたことがある」  
「む、ぐ…ぷ、はぁ。兄さんそれって」  
手を振り払い、ぐるりと体を回して、幼馴染の胸元にすがりつく。  
かぶっていた毛布がずれて、イリーナの首筋から流れるラインがヒースの視界に入った。先ほどまで  
の情事の跡が、赤く肌に溶け込んでいる。  
「――!!」  
何か致命的なことを言ってしまったのに気がついて、たらりとその額に汗が流れる。甘い声が耳朶を打った。  
「『今回のところは』『回数を重ねれば』って言うことは、また……してくれるの?」  
腕の中で見上げるイリーナの口元に、いつもとは違う笑みが浮かんでいた。上気した頬と黒く潤んだ  
瞳とあいまって、それはとても愛しく映る。顔に出そうになった感情を押し殺す為に、天井を見上げ、  
ため息をついた。  
(あーあ、結局こうなっちまったか)  
顔を戻し、光沢のある髪を指でかき分ける。前髪の間から見えるイリーナの瞳が揺れている。  
(……まあ、いいか。こんな関係も悪くない)  
「ねえ、どう…っん――」  
返事のかわりに、何か言いかけた唇をふさいだ。  
(クリスさんに絞められるかもしれんが…)  
再び体に手を伸ばし、ゆっくりとなでさする。  
(『好きだ』なんて、絶対に俺からは言ってやらん)  
唇を離すと、言いかけていた言葉の変わりにこぼれてきたのは、切ない吐息だった。  
 
 
 
「おはよーございます!」  
イリーナの声が朝の青の小鳩亭に響く。  
その声にあわせて涼やかな鎧の音と、いきおいよく開いた扉の音も木霊する。  
「あら、おはようイリーナ」  
店内を軽やかに舞う、ウェイトレス姿のマウナ。  
「ああ、マウナさん。今日も素敵だ……っとおはよう」  
エキューはマウナの耳にうっとりと熱い視線を送っている。慌てて付け加えられた挨拶がむなしい。  
「アア〜♪ 今日も喉は絶好調ですな。おはようございます。お二人とも」  
自慢の喉の調子を試しつつ、リュートを調律していたバスが視線を送る。  
その先には、テーブルにぶつかりつつ歩いてくるイリーナと、挨拶代わりに手を上げ、肩や首をこき  
こきと動かしながら続く、長身のヒースの姿があった。  
「?……いつも以上に親父くさいしぐさですな。あなたは」  
「ほっとけ。俺は疲れてんだ」  
「イリーナも調子悪いの?いつもだったらこんだけ――」  
エキューが親指でイリーナの背後を指す。そこに広がるのは、整頓されていたテーブル配置が微妙に  
ゆがみ、いすがところどころでひっくり返っている光景。それを無言で、マウナや他の客たちが直し  
ていた。  
 
「ぶつかって歩くなんて事、しかもそれに気がつかない、なんてないのに」  
「ああマウナ、皆さん、ごめんなさい。責任とって私が直します!」  
「やっとくから、別にいいわよ。だって、なんだか今日は動きに切れが無いもの」  
顔を上げ、別に不愉快でもないように答える。そして自主的に手伝いをしているお客たちにとびきり  
の笑顔を振りまいた。  
「お手伝いありがとうございます。あとは私が片付けますので、皆さんはお食事を召し上がっていて  
 ください。追加注文も承りますよ。……そういえば、二人ともいつものでいい?」  
お礼をいいつつ、ちゃっかりと催促もする。サービスする気は無いようだ。  
「おう」  
「よろしく。でも本当にいいの?」  
「だからいいってば。エキューの言う通り、私から見ても調子悪そうだし。大体鎧着たままだと整頓  
 しにくいでしょうが。」  
「素直に好意に甘えとけ」  
あきれはてたヒースがイリーナの頭を軽く小突く。言葉にいつのも切れはない。  
「うん」  
イリーナのほうはと言うと、口調こそいつもと変わらないが、普段に比べればぼんやりとしているか  
もしれなかった。  
 
 
二人の間に流れるいつもとは違う様子に、この連中にしては珍しく、無言のままの食事が終わる。  
休憩をもらい、自分のまかないと仲間用の食後のお茶を持って同じテーブルについたマウナが、卓の  
雰囲気に呑まれて、いごごちが悪そうだ。  
「賭けの結果はいかがでしたかな?」  
あいまいな空気のまま流れていた時間をバスが断ち切る。エキューとマウナも気になっていたのか、  
口にこそ出さないが、視線で回答を求めていた。  
「……私の勝ちでした。応用問題も全問正解。これだけ頭使ったの、はじめてだったよ」  
「すごいじゃない、イリーナ。よく正解できたね」  
「一昨日から夜に来なかったのは、課題をやってたからなんだ」  
「ふん。偶然だ偶然」  
悔しそうにヒースがはき捨てる。普段ならむっとした顔をするはずのイリーナは、何の反応もしない。  
ただうれしそうに、ニコニコしていた。  
「負け惜しみ言わない言わない。でさ、もうしてもらうことは決めたの?」  
「うん。兄さんにも言ってあるよ」  
「……あー、もし差し支えなければ教えて下さりませんかな?前にも言いました通り、無理にとは言  
 いませんが」  
細い目をきらりと光らせたバスが懐から帳面を取り出して、書き込む準備をする。言葉とは裏腹に、  
聞く気満々だ。エキューとマウナも身をわずかながらも乗り出す。  
 
そんな仲間たちに様子に苦笑すると、イリーナが口を開いた。  
「えっと、一つ目は剣の鞘飾りとベルトを買ってもらう事。二つ目は――」  
「二つ目は時間があるときに、俺と弓の稽古をする事、だ」  
ヒースが引き継ぐ。  
「それで、今日はいつも以上にかったるそうなの」  
「……そうだよ。あんだけ集中して弓を引いたのは久しぶりだから、まじめに疲れた。一つ目の鞘飾  
 りとベルトも値段聞いたら結構なモンだし、正直しばらくの間懐具合は微妙だぞ」  
実際は違う。約束は本当だが、今日はなにもしていない。疲れているのは三つ目の願い事が原因だ。  
今朝、イリーナの家を出る前に、既に口裏あわせについての話し合いはすんでいる。  
「へー、いい心がけじゃない。せっかく猟師としての腕もあるんだから、少しは磨いたら?」  
「猟師としては、マウナ、お前のほうが腕はいいだろうが。俺は仕事から離れて長いし、古代語魔法  
 は習得に時間がかかる。お前がいるなら、俺としてはそっちの方は完全に任せときたいんだ」  
テーブルに頬杖をついたまま、かったるそうに答える。でもその内容は、いつものように皮肉がそこ  
かしこに入り混じったものではなく、素直に相手を認めるものだった。  
「……お前ら、なんだよ、そのリアクションは」  
イリーナを除いた三人の動きが止まる。  
「本気で疲れてるのね、ヒース……。ほめられてるのに、なんだか不気味」  
思わず不憫になって、マウナが目元をぬぐう。  
 
「もう少し、体力つけたほうがいいよ。ただでさえ精神力低めなせいで、魔法を使うとすぐにへばっ  
 てるんだからさ。することが無いからって、前に出てきてほしくないし」  
「は、余計なお世話だ。体格と椀力の割りに、体力と精神力が低いのはいまさらだ。早々かわるもん  
 でもない」  
「まあいいけどね。苦労するのは自分だし」  
そう言うとお茶を一口飲む。  
「エキュー、声が冷たいです。ヒース兄さんの体力が無いのは昔から変わりませんよ。私もそのこと  
 に関して期待もしてません。あと兄さん。わかってるなら、前に出ないでください。正直邪魔です」  
「イリーナ、さらっときついこと言ってるわね。……そういえば、今日はなんで調子が悪いの?」  
「知恵熱…」  
ぼそっと皆のやり取りを静観していたバスがつぶやく。止まっていた手が動き始めて、帳面に文字を  
書き付けてゆく。  
「なるほど。それもそうね」  
「これで今朝の疑問が解けた」  
「…う〜、ひどい。けど否定できない〜」  
イリーナがテーブルに突っ伏すのと同時に、ヒースを除いた三人から笑い声が上がった。  
 
ひとしきり笑った後、その場が静まる。そこに再び、バスの声が空気を断ち切った。  
「三つ目は、何ですかな?」  
ヒースの額に冷や汗が浮かぶ。既に打ち合わせ済みとは言え、口を滑らせる可能性が無きにしも非ず  
な為、内心穏やかではない。表情は抑えたが、視界の端に細い目をさらに細めたバスの姿が入った。  
 
「三つ目は……秘密です。でももうかなえてもらってます」  
イリーナの頬にふわりと朱がさす。少しだけ棒読み口調なそれに、三人の間に沈黙が落ちる。  
「「?」」  
「……!」  
二人は顔に疑問の表情を貼り付け、もう一人は何かに気がついたように、一瞬だけ目を見開く。しか  
しそれはすぐに消え、いつもの柔和な表情に戻る。  
「ねえ、ヒース。いったいなんだったの?」  
「……イリーナが秘密にするなら、俺から言うもんじゃないだろ」  
「確かにそれが道理だろうけど…………ああ、そう言うことか。ならまあいいや」  
「そうですな。秘密にしたいと言うのに、無理やり聞くのも野暮なものです」  
「…?二人して納得しないでよ!さっぱりわからないわよ!」  
理解したふうな男性陣二人に、わからないマウナが叫ぶ。ヒースはあさっての方向を向いて、知らん  
振りを決め込んでいるし、イリーナのほうは、無言でお茶を口に運んでいる。  
「イリーナ、今度教えてもらうわよ!私だけわからないなんて、正直くやしい〜」  
「うん。でも今はまだ秘密。もう少したってからね」  
そういって、だるそうに頬杖をついている魔術師に視線を送り、笑う。その笑みには、今まで無かっ  
た艶が含まれているが、わからない悔しさで、頭に血が上ってしまったマウナは気がつかない。  
イリーナの手をとり「絶対だからね!」と叫んでいた。  
 
 
 壁に立てかけていたリュートを手にとる。調律具合を確かめるように、軽く爪弾いた。店の中に音  
が響き、まだ店に残っていた、余裕のある客たちの視線が集まる。  
 「いやいや、面白い話を聞かせていただきました。今はまだですが、いずれこの勝負について、歌  
としてまとめてみることにしましょう」  
 言葉の後、そのまま歌い始める。内容はよく知られた、ありふれた祝福の歌。バスの声が窓から入  
る日の光に包まれた店の天井へ、そして窓から外へと響いていった。  
 
 
※        ※        ※        ※        ※  
 
 
―――そして変わる二人の関係。  
 
     感づきつつも、そ知らぬふりを決め込む仲間。  
     貧乏性ハーフエルフにエルフフェチな元傭兵と無骨な歌い手。  
     どこにいるやら、間抜けなシーフに質実剛健のドワーフ神官。  
 
     正直すぎる至高神の神官戦士に捻くれ者の大法螺魔術師。  
     それは近すぎたがゆえに互いの思いを言葉にしない幼馴染。  
     そんなふたりのはじめての体の交わり、思いの交換。  
 
     さてさて、この二人がこれからどのような愛を育ててゆくのか。  
     仲間たちはこの二人をこれからどのようにちゃかしてゆくのか。  
     まだまだ語れることは数多くありますが、今宵はこれまで。  
     おなごり惜しくは感じますが、本日はこれにて、終演とさせていただきます。―――  
 
 
最後のリュートの音が、静まり返った空気に溶け込んで消える。  
大きな賞賛を体全体で受けた後、芸術神の神官らしく、胸に片手を当て、仰々しい挨拶をする。  
店主が用意したボウルの中に次々と投げ込まれる銀貨を眺めながら、ドワーフ族の吟遊詩人は満足気  
に微笑んだ。それは昔を懐かしむ、やわらかい笑顔だった。  
 
 
end  
 

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