それは、いつものことだった。  
何年も繰り返された、幼なじみの日常。  
 
いつものように妹分をからかい、  
いつものように兄貴分に鉄槌を下す。  
ただのじゃれあい、スキンシップ。  
 
 
――その瞬間までは。  
 
「い、痛てて、動かないでくれなさいイリーナさん」  
ここは武の国オーファンが首都、ファン。その魔術師ギルド、ハーフェン教室、ヒースクリフの自習室。  
響き渡る情けない声に、イリーナはヘッドロックの手を緩める。見れば、ヒースクリフの前髪が、イリーナが提げる聖印の鎖と、神官服を合わせる胸元のリボンに絡み付いてしまっていた。  
 
「うわ、こんがらがってますね」  
「っつ!イリーナさん、不用意に引っ張らないでクダサイ。オレサマ、まだ禿げたくはナイデス」  
「あ、すみません。」  
不器用なイリーナに髪を引っ張られ、ヒースの目にうっすらと涙がにじむ。  
「でも、自業自得ですよ?兄さん。せっかく差し入れ持ってきたのに、意地悪言うから」  
 
イリーナとヒースクリフは、幼なじみであり、同じパーティーに属する冒険者。(一応)パーティーの司令塔であるヒースは、魔術師ギルドの特待生でもある。  
奨学金の支給を受けている都合上、良い研究成果を上げねばならず、レポートの数も多くなる。  
近頃は立て続けに依頼が入り、ギルドを空けることが多かった。溜まってしまった課題を仕上げるため、ヒースは現在カンヅメ状態。  
普段彼らがたむろしている、『青い小鳩亭』にも顔を出さない。  
 
そんな兄貴分を気遣い、イリーナは差し入れ――小鳩亭謹製ランチボックス・レアな焼鳥入り――を、持ってきたのだが。  
『イリーナ、お前も食え』  
『いいですよ、私、お昼食べて来ましたから』  
『何を言う、その乙女にあるまじき、無駄に有り余る人間限界の筋肉を維持するのにどれほどの栄養を必要とするか。ここまで歩いてくる間に、消費されきっているであろウ?ん?』  
『……ひーす兄さん。さすがにそこまで燃費悪くないです、……よ!』  
自習室に椅子は一脚しかない。イリーナはヒースの斜め後ろに立っており、ヒースは椅子に腰掛けたまま、イリーナの方を振り向いていた。  
それがまずかった。  
普段なら届かないヒースの頭が、丁度手の届く範囲にあった。  
 
かくして、悲鳴は響き渡ることになったのだった。  
 
「俺様の言ったことは、概ね真実だろうが。……あ、嘘ですウソデス、だから動かないでクダサイ」  
イリーナに動かないよう釘をさし、ヒースは前髪を解放しにかかった。念のため左腕でイリーナを抱え込んで、恐る恐る自分の頭に右手をのばす。  
触った感じでは、リボンの方は解けばすぐに解放されそうだ。  
しかし鎖に絡んだ方は、ぎっちりと巻き込まれていて、少なくとも、不器用なイリーナが解くのは無理だろう。  
 
「アー、前髪じゃあ切ると目立つなー……。とりあえずリボン解くぞ、イリーナ」  
「どうぞ。……あ」  
 
軽い身じろぎとともにイリーナが声をあげる。違和感を覚えたヒースは、胸元に延ばした手を止める。  
「ん?どうした」  
「い、いえ、なんでもアリマセン」  
「痛て!だから動くなと言っているだろーが」  
 
慌てて首を振るイリーナに再び釘をさし、改めて左腕に力を込め、押さえ込む。  
これ以上のダメージを防ぐため、頭はしっかりと胸元に押し付けた。  
手探りで神官服の胸元の、赤いリボンにたどり着く。  
指を絡めて軽く引くと、しゅるり、と音をたててリボンはヒースの右手に収まった。あとは長さのある鎖だけ。  
 
「……よし。イリーナ、そのまま動くなよ?」  
 
聖印は、鎖の留具さえ外してしまえば、後からゆっくり解けばいい。  
右手をそのままイリーナのうなじにのばして、留具を探す……が、よく、わからない。  
「んー?何処だ?」  
もたついていると、イリーナが耐え兼ねたような声をあげた。  
「あ、あの、私が外し……ううん、やっぱりいいです」  
「うむ、やめてくれなさい、イリーナ。お前に任せたら……」  
 
前髪を一部解放され、少し顔を動かせるようになったヒースは、不吉な申し出に上を向く。  
 
イリーナの顔が、赤い。  
困ったようにしかめられた表情の中で、泣き出しそうな、怒ったような瞳がヒースを射抜く。  
 
それを見て初めて、現在の自分達の体勢に思い至る。  
神官服の前がはだけたイリーナを抱き寄せ、胸元に顔を埋めている、ように、見える。というより、その通りなのだが。  
この状態は、まるでいちゃいちゃしている恋人達、いわゆる『ばかっぷる』そのもの、な訳で。  
 
気付いてしまえば、普段は気にもとめない事柄が、一気に意識に入り込んで来た。  
左腕にすっぽり収まる引き締まったウエスト、男とは違う甘い体臭、赤く上気した幼げな頬。  
何より、前髪越しに感じる、薄いながらも確かな弾力。  
 
 
じわり、と、体温が上がる。  
うっすら、背中に汗がにじむ。  
どうやら、動揺している。  
それを自覚して、ヒースは心の中で舌打ちをした。  
 
 
ゆっくりと下を向き、絡んだ視線を外す。  
「アー、イリーナサン。」  
「な、なんですか」  
そろりと両手を外し、降参、というように軽く掲げる。  
「金具、外して頂けマスカ?俺様、位置が良く解りませんデシタ。」  
身体を起こし、鎖の長さが許す限り、イリーナから離れる。  
「……はい、わかりました」  
どこかぎこちない動きで、鎖を外しにかかるイリーナ。一度鎖が強く引かれ、頭皮に激痛が走ったが、ヒースは全力で表情にださず、耐えた。  
「はい、外れましたよ」  
「ありがとうございマシタ。」  
イリーナから微妙に目を逸らしたまま、礼を言うヒース。  
だから、次の台詞を告げたイリーナが、どんな表情だったのかわからなかった。  
 
「……ヒース兄さんのばか」  
 
一瞬の硬直。慌てて振り向いたときには、既にイリーナは部屋から出ていく所だった。  
 
「ばかって、おい……」  
それはどの行為に関してなのか。  
からかったことか、不用意に抱え込んだことか、それとも。  
 
何にせよ確実な事が一つだけある。  
「アー、しばらくは確実に差し入れ無し、だナ」  
少なくとも、このカンヅメ中は、絶対に来ない。  
 
ため息を一つ落として、机に戻る。差し入れのランチボックスからサンドウィッチを一つつまんで、レポートに再び取りかかる。  
 
必要なレポートは、あと三つ。早く書き上げねば、冒険に出る事はおろか特待生の身分にもかかわる。  
書き上げたら、いつも通り小鳩亭に行こう。いつも通りの不遜な俺様で。いつも通りの兄貴面をして。  
 
――そうすれば、何も変わらず今まで通りでいられる、きっと。  
 
普段よりしょっぱい気のするサンドウィッチを飲み込んで、ヒースクリフはレポートに集中した。  
 

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