アリエル・ウィンザーの施療院は今日も満員だった。診療室の小さな待合室には、何処にどんな怪我をしているのやらわからない元気そうな『患者』が、用意されているベンチに収まりきらずに立って待っている。男性ばかり。全員仮病の、アリエルのファン達だ。  
 本当に怪我や病気をしているなら普通は神殿に行く。アリエルの施療院でいくら使おうがアリエル一人が儲かるだけだが、神殿に寄進すれば様々な慈善事業にも使われるのだから。神殿で祀っている神の為から巡り巡って世の為人の為街の為、そして最終的には自分の為になる。  
 しかもアリエルの治療の腕前はなかなかのものなので、腕前から考えれば格安の料金でも“下町の癒し手”の二つ名には少々ふさわしくない金額となっている。必然的に、此処に来るのはアリエルのファンか、特殊な事情を持つ者だけになる。  
 ザウエルが入ると、待合室の視線が集中した。妬み、嫉み、嫌悪。以前はこんなことは無かったのだが、ピグロウ山で邪竜ラズアロスを退治した冒険以来、だんだんとこうなってきたのだ。理由はわかっている。  
 診療室のドアが開き、アリエルに見送られながら陶酔した『患者』が吐き出された。  
 「次の――」だがアリエルの声はザウエルを見付けて弾んだ。「あ!  ザウエルさん!  まあぁぁ!  またこんなに怪我をして!  さぁ、早く治療しなければ!」  
 アリエルが腕を絡め、嬉々としてザウエルを診療室に連れ込むのを、十数の歪んだ羨望の視線が追う。  
 順番を飛ばされることに不満があるのではない。優しく美しいアリエル先生が『本当の』怪我人を優先するのはいつものことだし、むしろ気になる患者はとっとと済ませてもらって、自分の『治療』をじっくりゆっくりしっぽりたっぷりしてもらいたいのだから。  
 不満があるのは、ピグロウ山の一件以後に流れ始めた噂――もはや疑いようが無いと誰もが思っている――の所為だ。  
 
 診療室の二重扉を閉めると、アリエルは我慢が出来なくなったようにザウエルの鎧を脱がし始める。最初は脱がし方を知らなかったのが、ザウエルが自分で脱ぐのを盗み見て留め金の外し方を憶え、今ではザウエル自身よりも手早く脱がせられるまでになった。欲望の力は偉大だ。  
 「あぁ……」鎧を脱がすと血の匂いが立ち込めた。その匂いにアリエルは陶酔した声を漏らす。「こんなに沢山怪我を……なんて美味しそうな……」そして破れた服の肩口から覗くやや大きめの傷を嘗め、切な気に喘ぐ。「あふぅ」  
 だがザウエルが微かに顔を歪めたのに気付いて、すぐに謝った。  
 「あの、申し訳ありませんザウエル様。あまりにも美味しそうだったものでつい……」  
 「それはいいんだけどよ、その……様ってのはやっぱり……」  
 あれ以来幾度か血を吸われているが、アリエルは血を吸う時だけはザウエルのことを「ザウエル様」と呼ぶのだ。やめて欲しいと何度か言ってはいるのだが、本人は無意識の内に言っているのか、未だに直る気配が無い。  
 「申し訳――」  
 「いやいい、いいんだ。気にしないで始めてくれ」  
 「はい、有難う御座居ますザウエル様。あ、ザウエルさん」  
 明るい笑顔で言うアリエル。だがその声にはもう、先程までの弾みは無かった。  
 
 アリエルにはピグロウ山の一件で同行してもらった代わりに、血を提供する約束になっている。  
 言葉の上ではいつ何時でも、という約束なのだが、アリエルはあらかじめ定期的に決めてある日にしか血を吸いに来ない。文献に拠れば普通は毎日吸うものなのだそうだから、耐えられる限りは耐えてくれているのだ。  
 だからと言うわけではないが、冒険の後に施療院に来た時には、治療の前に血を吸っても良いと伝えてある。実は、施療費を只にしてもらっているのだ。  
 ちゃんと払うと言ったのだがアリエルが、訪れる患者の血を吸わなくて済むようにしてもらっていることがどんなに有難いことかを滔々と説明した挙句に「『仲間』なんですから!」と両手の拳をぎゅっと握り締めて力説したので、その厚意を無碍に出来なかったのである。  
 後日、アリエルの秘密の日記を熟読したユリスから怪我、それも大きい怪我をした直後の(そして治療前の)血が特に美味だと日記に書かれていたと聞かされれば、吸わせてやるしかない。  
 アリエルの陶酔した表情や切な気な喘ぎ声を聞きたいという下心の有無はともかく。  
 
 アリエルはザウエルを問診席に座らせて傷口の様子を診察し始めた。傷口を一つまた一つと確認する毎ごとに、アリエルの視線が熱を帯びてくる。そして腹に負った大きな傷を診察し終える頃には、アリエルの頬は上気し息は荒くなっていた。  
 (相変わらず、捕食される気分だぜ)  
 だが以前それを口にした時、アリエルが酷く萎縮し消沈したので口には出さない。約束だから――というだけでもないのだが――血を吸われるのは変わらないのだ。どうせ同じ吸われるなら、美味しく吸ってもらった方がマシだ。  
 ザウエルが妙に広い診察台に乗って横になると、アリエルも添い寝するように診察台に乗った。続いてひんやりとした太いものがするするとザウエルに巻き付いてくる。アリエルの長いスカートから伸びている、大蛇の下半身だ。  
 逃がさないように両脚にきっちりと巻き付き、絞め上げてくる。まさかこれが、脚に溜まった血液を搾り出し血圧を上げ吸血し易くするラミアの本能によるものだとは本人さえも気付いていない。  
 「あぁ……ザウエルさまぁ」  
 柔らかな両腕でザウエルの腰を捕らえ、長い舌と熱い吐息でザウエルの腹の傷を嘗める。食事の前に匂いを嗅ぐように、期待感を高め気分を盛り上げているのだ。この興奮の声音が最高潮に達すると――  
 「ステキな匂い……たまらない……あぁ……はあぁぁ……もぉ……もぉたまらないのぉ――」  
 ザウエルは痛みに耐えるべく、腹に力を籠めた。  
 
   がぶり  
 
 アリエルの鋭い犬歯がザウエルの腹に埋め込まれる。痛い。普通に生活している一般人なら、一生の間に何度も味わう痛さではないだろう。激痛と言ってもいい。  
 だが、剣で叩き斬られる痛みに比べれば大した痛みではない。生死を賭して戦う冒険者にとっては言うほどの痛みではない。だが、  
 「ほおぉぅっ」  
 思わず間の抜けた声が漏れてしまう。血を吸われたのだ。  
 一瞬にして背筋から睾丸の付け根までを冷たい何かが突き抜け、全身から力が奪われる。まるで背筋の全てが男根となって射精しているような――射精し続けているような――快楽に腰砕けになる。それもアリエル先生の豊満な肉体にしがみ付かれながら。  
 (やべぇ……)  
 男根――本物の方――がムクムクと大きくなっていった。それに反比例するように目の前が暗くなっていく。だが男根の先端が鋭敏に感じ取った柔らかい圧力が意識を繋ぎ止めた。大蛇の身体を見ないようにと逸らしていた目を慌てて戻す。想像通りのことが起きていた。マズイ。  
 「ひゃぁ!」  
 アリエルが驚いた声を上げた。牙が抜け、吸血も止まる。快楽も止まる。だがそれどころではなかった。  
 「い、いや違うんだこれは――」  
 慌てて言い訳をするのだが、アリエルに聞いている様子は無い。驚いた表情で固まっていた。  
 ズボンの中からアリエルの巨乳を押し上げているモノを凝視したまま。  
 
 横になった屈強な男の隣に座り、頬を赤らめながらいそいそと服の乱れを直す美女。まさしく『お楽しみ』の直後の風景である、男が服を着ていなければ。或いは股間を直立させていなければ。だがそれでもやはり『お楽しみ』の直後ではある。楽しんだのがどちらかはともかく。  
 「それでは《治癒》の呪文をかけます。少しふわっとしたり圧迫感を覚えたりして不自然な感じがするかもしれませんけど、我慢したり耐えようとしたりしないで、流れに逆らわずに受け入れて下さいね」  
 アリエルは杖を取ると、いつもの口上を述べてから呪文を唱える。もちろん《治癒》の呪文だ、《眠り》の呪文ではない。呪文を唱え終わると、ザウエルの傷口が発熱しながらゆっくりと塞がっていき、消えた。アリエルの歯形だけが残る。  
 「お加減は如何です?」  
 アリエルは脱力し切っているザウエルに声を掛けた。ザウエルは力無く答える。  
 「あぁ、大丈夫。痛みも無くなった」  
 だがまだ気だるい。血を吸われすぎたのだ。それでも呪文一回で此処まで回復出来たのだから、アリエルの操霊術の腕は確かなものだ。この腕なら、一般人なら瀕死の怪我人でも全快させられることだろう。だがそれは逆に、一般人なら先程の吸血で死んでいたことを示している。  
 どんなに強力な《治癒》の呪文をかけても死人が生き返ることはない。うっかり吸い過ぎた、で人が死ぬのだから、やはりラミアは危険な蛮族なのだ。アリエルの腕なら最も有名な操霊術の一つである《黄泉還り》の術も使えるだろうが、生き返らせればいいという問題でもない。  
 気だるさから起き上がらずに居るザウエルに気付いて、アリエルは声を掛けた。  
 「まだ回復し切ってませんか?  もう一度かけましょうか?」  
 「いや、大丈夫だ」言いながらザウエルはダルそうに半身を起こした。「血が足りてねーだけだからな、水飲んで寝ないと治らね――」  
 「駄目です!」アリエルは大声で制止した。「水を飲んじゃ駄目です!  絶対駄目です!  今までも飲んでたんですか!?  水中毒になっちゃいます!  死んじゃうんですよ!?」  
 突然の大声に驚いたザウエルだったが、今は飛び上がる元気も無い。  
 「いや死ぬって……水中毒?」  
 「そうです!  汗をかいたり怪我や火傷で体から水分を大量に喪失した後はとても喉が渇くんですけど、水を飲んじゃ駄目なんです!  中毒症状を起こして、糸が切れたみたいに突然死んじゃうんです!  専用に調合した特別な水じゃなければ飲んじゃ駄目なんです!」  
 「わ、わかった」強い調子で言うアリエルに少し引き気味にザウエルは答えた。「水は飲まねーよ、うん」  
 その答えにアリエルは胸を撫で下ろした。  
 「良かった。ザウエルさんが死んじゃったらわたし――」  
 「でもよ」しかしザウエルは聞いていない。「水分を大量に喪失ってつまり、先生が血を大量に吸ったってことだよな?」  
 「ごご、ごめんなさい。あまりにも美味しくて久しぶりでつい吸い過ぎてしまって……あの、サービスしますのでどうか……」  
 一転して小さくなって謝るアリエル。ザウエルは今の『専用に調合した特別な水』とやらを振舞ってもらえるのだと思って気軽に言った。特に喉が渇いているわけではないが、せっかくだ。  
 「あぁ、頼むよ」  
 「有難う御座居ます。では服を脱いでうつ伏せになって下さい」  
 「は?」  
 
 間抜けな声を出しながらも、頭に血が巡っていないザウエルは言われた通り素直に服を脱いだ。それを受け取ったアリエルが(こっそりと匂いを嗅ぎながら)畳んで鎧の上に重ねている間に、ゆっくりと身体を横たえてうつ伏せになる。  
 何か変だな、と考えてる間にも、アリエルが妙に広い診察台の頭側へと廻って来た。  
 「では始めますねぇ。楽にしてくださぁい」  
 妙に甘い声で言うと、ザウエルの肩甲骨のあたりを両手のひらで大きくさすり始めた。その動きに合わせてぽむんぽむんと巨乳が後頭部に着地する。  
 「おい待て」言ってから黙っておいた方が良かったかも、と後悔しながら顔を上げた。「サービスってのはさっきの水じゃあああぁぁぁ――」  
 言われて動きを止めたアリエルの巨乳に思い切り顔を突っ込んでしまった。  
 「あわゎゎゎ、ザウエルさん」アリエルの顔は一瞬で真っ赤になった。体が硬直する。「あのそのえっとそういうサービスがお望みでしたら今ここではちょっと……」  
 言ってから、後で別の場所でならいいと言っていると受け取られはしないかとか、そう受け取られたらどうしようとか、何と答えたらはしたなくならないように了承の意を伝えられるのかとか、頭の中が忙しく廻って先ず身体を離すべきだということを忘れた。  
 ザウエルは慌てて顔を離そうと背筋に力を籠めたが、背筋力一杯まで背を反らしてもアリエルの巨乳から顔を離すことは出来なかった。頭に血が巡ってない所為で、反らさずに伏せれば済むことに気付かない。  
 「ちょっと待ってくれ先生」  
 「はい!  待ちます!」  
 背中に手をやっていた所為で腕を引かれたアリエルは、さらに混乱して何も考えられず素直に答えた。言われた通りそのまま動かず待つ。  
 アリエルが身体を引くと思っていたザウエルも身体を動かさなかったので、そのまま二人は止まった。  
 
 しばしの沈黙。二人とも硬直したまま。  
 やがて遅まきながら伏せれば済むことに気づいたザウエルが身体を伏せると、再び時間が流れ出した。伏せてから身体を横にしたまま仰向けに転がり、起き上がる。  
 「あのだな」  
 「ひゃい!」  
 上擦った声で答えるアリエル。続くザウエルの口説き文句を緊張しながら待っている。  
 「あー、なんか、すまなかった」ザウエルの言葉にアリエルがキョトンとする。「てっきりさっき言ってた特別な水ってのを飲ませてくれるのかと思っててよ」  
 アリエルは言われて初めて、ザウエルが今喉が渇いているはずだということに思い至った。なのに水中毒の話をして水を飲んではいけないと言ってしまったから、ザウエルは水を飲みたいはずなのに我慢していたのだ。  
 (こんなことにも気付けないなんて!  優しいザウエルさんは約束通り水を飲まずに、わたしを気遣って喉が渇いたとも言えずに苦しんでたのに!)  
 カルゾラル高原に居た頃は上手くやれてた。暴力的な支配者の下で、気紛れな罰を与えられることもなく数多くの任務をこなし生き延びることが出来た。逃げることさえ上手くやれた。かなり優秀な部類だと自画自賛していた。だがそれは自惚れだったのだ。  
 (もっともっと上手くやれるようにならないと。実力を身に着けないと。ザウエルさんは優しいからわたしを石にしたりしないけど、暴力を振るったりもしないけど、だから弱くていいなんてことにはならない!)  
 自責、反省、後悔の念が溢れて来る。  
 「ごめんなさいザウエルさん、すぐに作ります」  
 「あ、いや別に貴重なものならそんな――」  
 「大丈夫です材料は安いですしすぐに出来ます」  
 言いながらアリエルは準備室に飛び込み、いくつかの瓶を抱えて出てきた。瓶から白や灰褐色の粉を計量し、妙な形の器に入れる。それと汲み置きの清潔な水。飲用だから煮沸せずに入れ、掻き混ぜた。粉が全て溶けたのを確認すると、それを水差しに入れてコップに注ぐ。  
 「お待たせしました。どうぞ」  
 
 「あぁ、どーも」目まぐるしい勢いに頭がついていかず、ぼんやりとコップを受け取って一口飲む。「しょっぺぇ。なんだこれ、塩水か?」  
 「はい。人間の体液と同じ濃度になってるんです。これより薄いと体液が薄まっちゃって水中毒になるんです。でも濃かったら濃かったで脱水症状になるのでやっぱり良くないんです。でもこれならいくら飲んでも大丈夫ですから。沢山作りましたんでいくらでもどうぞ」  
 そう言われたら飲まざるを得ない。塩味ではあるが塩辛くはないので、ザウエルはごくごくと飲み下した。すぐにアリエルがお代わりを注ぐ。それも一気に飲み下した。すぐまたアリエルがお代わりを――  
 「待てまて」ザウエルは制止した。「もう大丈夫。もういいから」  
 「わかりました……あの、ごめんなさいザウエルさん」  
 「え?」気の所為か先程までよりも血の巡りが良くなった気がしたが、まだアリエルが何を謝っているのかわからない。「何が?」  
 「今もそうですけど今までも、血を吸ったらザウエルさんが喉が渇くってわかってたのに、水を準備するどころか気付くことも出来なくて……」  
 「いいよ、そんなに喉が渇いてたわけじゃねぇんだ。気にしねーでくれよ」  
 やっぱりザウエルさんは優しい。わたしの落ち度を責めないでくれる。その優しさに報いなければ。血を吸わせてもらって優しくしてもらって、なのに何も報いないままでは、そのうち捨てられてしまう。  
 初めてのスパイ任務の時はそれで失敗した。それでも今生きているのは、運が良かっただけなのだ。同じミスは二度と繰り返さない。死なない為に。殺されない為に。生きて、幸福になる為に。  
 
 「そんなわけにはいきません。せめてサービスさせて下さい」  
 「サービスってさっきの――」おっぱいをぽむんぽむんさせるやつか、と言おうとして慌てて止めた。だが先程のがそれ以外の何なのかはわかっていない。「あー……さっきのやつか?」  
 「はい!」アリエルの表情は心なしか熱を帯びた。「ザウエルさんはいつも《治癒》以外はご興味無いようでしたが、実はうちのメインメニューはマッサージなんです。お蔭様でご好評もいただいてますし、バリエーションも豊富で――」  
 「いやいいって」しかしザウエルは、過熱気味に宣伝するアリエルをさえぎった。「好評なのは待合室を見ればわかるけどよ、先生ほどの腕前の《治癒》を毎回只でやってもらってんだ。その上サービスまで要求するような業突く張りじゃねーよ」  
 「それは、だって『仲間』なんですから!」  
 いづれ仲間よりもっと親密な関係になりたいと思っているアリエルは、力強く仲間であることをアピールした。ピグロウ山の一件以後もザウエルは何度か冒険を重ねているが、アリエルを誘ってくれたことはない。このままでは仲間ですら居られなくなってしまう。  
 だがそんなアリエルの思惑を知りもしないザウエルは苦笑した。  
 「だからさ。仲間だからこそ、サービスなんか要らないだろ?」  
 「あ……うー……」何とかしてザウエルに『サービス』したかったアリエルは、だが言葉を返せない。無理は禁物、深追いは怪我の元。仲間だと認められているのなら、その認識を阻害しないように従った方が得策だ。「そうですね、『仲間』ですもんね。ごめんなさい」  
 「謝ることじゃねーよ、気にすんなって」  
 「はい。じゃあ今夜うかがいますので」  
 「へ?  今夜?」間抜けに問い返してから思い出した。今日が例の『血を吸いに来る日』なのだ。だから今日中に帰る為に強引にケリを付けようと無理をして手傷を負ったのだ。「って、まだ吸い足りないのかよ!?  ちょっともう今日は打ち止めってことに――」  
 思わず声が大きくなってしまった。ザウエルの悲鳴だけが聞こえた待合室で、その言葉と噂の内容から邪推される妄想に絶望的な悲鳴が上がる。  
 「はわわ……ザウエルさん、声が大きいですぅ」  
 「す、すまん……」  
 これは流石に謝らざるを得ない。万一今のでアリエル先生の正体がバレたら、いや例えバレなくとも疑いを抱かれたら……  
 此処は冒険者の集う街フォルトベルク。経験豊富な冒険者も多く、人族の街深くに潜入する蛮族ラミアの名を知らない者の方が少ない街。疑われたら、必ずバレる街なのだ。  
 
 アリエルが施療院を建てた時に、強くこだわった点がいくつかあった。  
 一つは勝手口。普通、この規模の平屋では勝手口を作ることは無いのだが、表玄関から待合室、施療室、準備室、居住スペースを経て勝手口へと抜けられるようになっている。  
 その所為で居住スペースの部屋割りが不自然になり、その上いつかは男性と二人で、などと夢見てダブルベッドだのソファーセットだのを揃えた所為でずいぶんと手狭になってしまった。  
 もう一つは防音。万一施療中に正体が露見してしまっても外へ助けを呼ばれることが無いように。外からの増援さえなければ、外に知られてさえいなければ、施療中の一人だけを『何とか』すれば勝手口から逃げ出せる。『何とか』とは説得とか誘惑とか拘束とか、始末以外で。  
 これは流石に不審がられたが、「子供が治療を嫌がって暴れたり叫んだりすることは良くあるが、知らない人が勘違いして騒ぎになることが多く風聞が悪くなるから」と誤魔化した。お影で完全防音は無理だったが、大声で叫んでやっと待合室まで聞こえる程度には出来た。  
 完成後、使い魔のニコ――蛮族育ちのアリエルには使い魔に名前を与えるなど思い付きもしなかったのだが、ザウエルが名前をつけて以来この使い魔の名前はニコになった――を使ってどの程度の大声でどの程度に聞こえるのかを確認してある。  
 そして待合室と施療室の間の、施療室側を全面磨りガラスにした二重扉である。これもまた「治療で肌を見せてもらうこともあるのだが患者が女性だったりすると施療室を覗こうとする不届き者が居るのですぐわかるように」と説明して納得させた。  
 その所為で建築費が同規模の家の数倍はかかってしまったが、施療室でならアリエルの秘密に関わる話も普通に出来るし、ザウエルがうっかり叫んだ部分しか待合室には聞こえていない。そしてまた、興味に駆られた誰かが二重扉の外側を開けたりしていないこともわかっている。  
 これで地下を通って庭の隅に出られる抜け道があれば完璧なのだが、既に充分に値が張っていたことと、納得してもらえそうな説明を考え付かなかったので諦めたのだ。  
 カルゾラル高原――思い出したくもない故郷――から持ち逃げした逃走資金の大半を費やすと聞いた時には、将来また逃げ出すことになる可能性を考えてずいぶんと悩んだが、それだけの価値はあった。この施療院こそはアリエルを守る城、秘密のセーフハウスなのである。  
 
 しかしそんなことを知らないザウエルは蒼褪めていた。先程の大声は、普通の家なら向こう三軒両隣まで聞こえて醜聞の元にもなり得るほど大きかったのだ。夫婦喧嘩が終わったら家の前に人だかりが出来ていた、なんてことはそれほど珍しい話では無い。  
 しかもそれが選りに選って「吸い足りない」だなんて。施療室でアリエル先生が喜んで吸ってザウエルが拒絶なり制止なりするようなものなど、血の他には何も思い浮かばない。  
 ザウエルは診療台から飛び降り、床に土下座した。  
 「すまない、先生。本当に済まない。ちゃんと責任取るから」  
 「せせせせ責任!?  責任て責任って責任ってぇぇ?」  
 大事に至ることはないと知っていたアリエルは気にしていなかったのでザウエルが何の話をしているのかわからず、都合良く誤解した。心の中では「吸血から始まる恋って本当にあったのね」と狂喜乱舞している。だがそれも、続くザウエルの言葉を聞くまでだった。  
 「必ず先生を街の外に連れ出す。もちろん傷一つ負わせさせねぇ。手配書が廻っても大丈夫な都市国家連合外のどこか、ワイラーあたりの静かな田舎町まで護衛する」  
 「あ……責任ってそっち……デシタカ……デスヨネー……」  
 何をどう考えてそう思い至ったのかはわからないが、どうやらザウエルは、先程の大声で待合室の『患者』達にアリエルの正体が露見した、と判断したらしい。さて、どう説明したものか。  
 「ユリスの最後の神殿があるんで一緒に逃げるってわけにゃ行かねーがちゃんと護衛はする。ワイラーまでなら船を乗り継げば一ヶ月ちょっと……で……」  
 其処まで言ってザウエルは、唯一人の信者であるザウエルが往復で二ヶ月も神殿に参らなくてユリスが大丈夫なのか、とか  
最近登録冒険者がめっきり減って碌な依頼が来なくなっている《炎の髭亭》でほぼ唯一のプレイヤーである自分が二ヶ月も留守にしたら経営が立ち行かなくなってしまうんじゃないか、などアリエルを護衛して町を出るには大きな問題があることに気付いた。  
 
 「……いや、神殿には参れなくても毎日沢山祈るからユリスには頑張ってもらおう。グルードの方も、他の冒険者の店とかに応援を頼んだりして何とか頑張ってもらう。先生を殺させるわけにはいかない」  
 それを聞いてアリエルは感動した。責任感故の言葉とはいえ、信仰する女神様の滅消の危機よりも自分の安全を優先してくれるなんて……  
 そして同時に頭をフル回転させた。タネ明かしをするのは簡単だが、それではここまでの覚悟で守ると言ってくれたザウエルの厚意を無碍にした上に恥をかかせてしまうことになってしまう。  
 何とかしてこの『危機的状況』を、『仲間』である『二人』で、『力を合わせて』乗り越えたい。あわよくば恋の一つや二つは芽生えそうな形で。  
 出来た者が栄え、出来なかった者が死ぬ。あらゆる生命体に等しく共通したこの世の原理である。カルゾラル高原を逃げ出したとは言え、アリエルはバルバロス文化の中で生まれバルバロス文化の中で育ったのだ。その根底にはバルバロスの哲学が流れている。  
 この千載一遇のチャンスを捕らえ、活かし、利することこそが実力であり、実力だけが未来を創るのだ。何とかモノにして結婚――は無理でも恋人、或いは愛人、むしろペット、いっそ性奴隷でもいいから『時々血を吸いに来る厄介な元仲間』よりマシな関係にならなければ。  
 すぐにそこまで行かなくてもせめてキスの一つぐらいは、少なくとも女性として意識されるぐらいは。  
 
 既にザウエルはアリエルを女性として意識しているのだが、アリエルはそう思っていない。ザウエルがまだアリエルに何もしていないからだ。犯そうともしないし、口付けを奪おうともしない。肩を抱こうとさえしない。口説き文句の一つも言ってくれない。あんなに強いのに。  
 そうしない理由がまさかラミアだからだとは、種族が違うからだとは、アリエルには想像も出来ないのだ。差別の存在しないバルバロス文化で育ったアリエルには。  
 ラミアだからという理由で殺そうとする人族が居る。それは知っている。だがザウエルはそうではないのだ。種族が違うからという理由で差別するような愚かな人族とは違うのだ。だからザウエルがアリエルに何もしないのは、女性として意識していないからに相違無いのだ。  
 
 「ザウエルさん」アリエルは床に突いているザウエルの手を取り、持ち上げた。顔を上げたザウエルの目をまっすぐに見る。「そんなに自分を責めないで下さい。何とかしましょう。『二人で力を合わせれば』きっと何とか出来ます」  
 「いや、だけど……」  
 ザウエルは口籠もって目を逸らした。こんな時なのに、アリエルに引き寄せられた手が大きな胸元に押し付けられ、その柔らかさを意識してしまったのだ。アリエルに危険が迫っているというのに、そんなことを考えている自分に罪悪感を覚える。  
 「まさかザウエルさん……」目を逸らされてアリエルはショックを受けた。想像もしたことのなかった可能性に思い至る。ピグロウ山の一件では、都合が良かったので利用しただけだった可能性に。「わたしのことを……追い払いたい、とか……」  
 「そんなことはない」ザウエルは慌ててアリエルの目をまっすぐに見て言った。「何とか出来るなら何でもする。それで先生に疑いがかからなくて済むならどんなことでも」  
 その力強い言葉を聞いてアリエルは内心狂喜した。じゃあキスして下さい、とか犯して下さい、とか言いたくなったが、残念ながら照れ臭くて言えない。それに良く考えたら、それだと『疑いがかからなくて済む』ようにはならないから言っても無理だろう。  
 「本当に、何でも、ですか?」もう一度聞きたくて訊き直す、不安そうな怯えたような表情で。ザウエルの手を自分の巨乳――劣等感の源ではあるが人族の男性を誘惑するには都合の良い武器――に強く押し付けながら。「本当に?」  
 それにザウエルは力強く答えた。アリエル先生の巨乳の弾力と柔らかさから意識を逸らす為にも、力強く。  
 「本当だ。もしも何か考えがあるなら何でも言ってくれ。遠慮なく。オレに出来ることがあるなら本当に何でもするから」だがそこで目を逸らす。「だけど、オレにはどうすればいいのかわかんねーんだ。オレには先生を安全に逃がすぐらいしか思い付かなくて……」  
 (あー、もう!  余計なことを言わなければカッコ良かったのに!)  
 
 アリエルは心の中で残念がったが、口には出さない。ザウエルは元々そんなにカッコいい男ではない。顔もそうだが、それ以上に何と言うか、本当に色々と残念なのだ。  
 確かにラミアの価値観としてはカッコ良さよりも血の味の方が大事だし、バルバロスの価値観としてもカッコ良さより強さの方が重要だ。ザウエルはそのどちらも満たしていて、さらには蛮族領から逃亡するラミア達にとって大切な「優しい」という点に関してもクリアしてる。  
 それでもやはり、どうせならカッコ良くあって欲しいと思ってしまう。残念なところが目に付くたびに目が醒めるので、なかなか『酔えない』のだ。  
 「実は、考えがあるんです」  
 
 「本当か。オレに出来ることがあるなら言ってくれ」  
 「ザウエルさんの協力が必要なんです」  
 「もちろん何でもする。安心してくれ」  
 「ですがザウエルさんにとってはもしかしたら不名誉な噂になってしまうかも」  
 「そんなの気にしねーでくれよ。今だって“呪いの三剣”だの一緒に冒険したら死ぬだのボロクソ言われてんだ。もう一つ増えたところで何も変わりゃしねえって」  
 そこは「アリエルの為ならどんな不名誉でも」と言って欲しかったなぁ、と思いながら、アリエルは説明を始めた。  
 
 「……それだけ?」  
 「はい、それだけです」  
 アリエルの『考え』を聞いたザウエルは、そのあまりの簡単さに聞き返した。アリエルはそれをあっさりと認める。  
 「えーと、アリエルせんせ?」  
 「はい?」  
 「オレにはどうも、良くわかんねーんだが。何でそれだけで大丈夫なんだ?」  
 「えっとですね。んー、ザウエルさんは、その、噂は……聞いてますでしょうか。わりと最近の……わたしに関する、と言うかその、わたしだけじゃないんですけど……」  
 照れているのか恥ずかしがっているのか、もじもじと詰まりながら話すアリエル。そしてザウエルも言葉に詰まった。ピグロウ山の一件以来アリエルが頻繁に、それも深夜に《炎の髭亭》へ訪れていることが噂になっているのだ。  
 その日にはジェラルディンも来るので吸血後は飲み会になるのだが、グルードは吸血の現場を見られないように気を利かせてアリエルが来ると早目に店を閉める。すると今度はアリエルが気を使って閉店間際に来るようになった。つまり深夜に。  
 結果として、深夜にアリエルが来てまもなく店が閉まり、そのままアリエルは出てこない。まるでアリエルが泊まりに来ているように見えるのである。  
 そして街の中に家を持つアリエルがわざわざ《炎の髭亭》に泊まりに行き、翌日はつるテカお肌で上機嫌とくればもう、誰がどう見ても『さくばんはおたのしみでしたね』である。その相手は誰かと言えば、《炎の髭亭》を常宿にしている男は一人しか居ないのだ。  
 そうなったのは、アリエルを部屋に連れ込むと悪い噂になるのではないかとザウエルが気を使った(ユリスとジェラがからかったのもある)所為で一階の食堂兼酒場で吸血せざるを得なくなったのが原因なので、つまりザウエルが悪いのである。  
 初めてその噂を聞いた時には何が正解だったのかと頭を抱えたが、そんな噂の話をアリエルにするわけにもいかず、結局知らん振りをして黙ったままにしていたのだ。  
 
 「んー……」  
 知らぬ振りを決め込むことにしたザウエルは唸って誤魔化そうとする。アリエルはあっさり騙された。  
 「ご存知ないですか?」  
 「あぁ、わかんねーな」  
 アリエルは困った。流石に自分から「わたしとザウエルさんは肉体関係なんだって噂です」とは照れ臭くて言えない。それも本人に向かってでは尚更だ。  
 恥ずかしがっているアリエルを見てザウエルは罪悪感を覚えた。アリエルを恥ずかしがらせている不名誉な噂が流れる原因となったのは自分なのだ。噂を知っててもやはりアリエルの言う通りにすれば疑われることがなくなるとは思えないが、その時はその時だ。  
 その時こそ、命を懸けてアリエルを逃がしてやればいい。  
 「よくわかんねーけど、その噂があるから疑われずに済むってわけなんだよな?」  
 ザウエルの言葉にアリエルはぱっと顔を上げた。肉体関係になっても不思議じゃない間柄なんだ、と意識してもらうことは出来なかったが、とりあえずは助かった。今は無理でも、いづれ噂を知った時には意識してくれるはずだ。今は焦らなくてもいい。  
 「はい、そうなんです」  
 「で、その噂ってのはきっと良くない噂なんだろうと思うんだが」ザウエルは知らない振りをする為にボカして言った。「それがあるから大丈夫だってことはその噂を利用するわけだろ?  噂を肯定してることになっちまうと思うんだが、先生はそれでいいのか?」  
 「もちろんです」むしろ大歓迎です、とは言えない。今は知らなくてもいづれ知るであろうことを思うと恥ずかしいのだ。やはり誤魔化すしかない。「わたしまだこの街に居たいですから」  
 
 「んっんん」  
 施療室を出る二重扉の前に立って、軽く咳払い。ザウエルの緊張した様子に、アリエルが心配そうに訊く。  
 「大丈夫ですかザウエルさん。演技力に自信はあります?」  
 「ねーけどよ。アリエル先生の為だからな。何とかやってみせるさ」  
 期待通り「アリエルの為に」と言ってくれた。嬉しい。  
 「じゃあ、行きますよ」  
 アリエルは声を掛けると、腕を絡めて身体を寄せた。巨乳を腕に押し当てるように。  
 「オレは少し早目に歩きながら、先生の方を見ないで気の無い風に『わかったわかった』と『はいはい』って言うだけでいいんだよな?」  
 「はい、それだけです。立ち止まらないで下さいね」  
 「よし。行くぞ」  
 ザウエルは全面磨りガラスになっているドアを押し開けた。  
 「生殺しなんて酷いですぅ」  
 「わかったわかった」  
 言いながらザウエルは待合室側のドアを引き開けた。その腕に絡んでいるアリエルを引っ張るように待合室へと出る。十数の悲痛な視線が刺さった。ザウエルは持てる限りの演技力を駆使して、それを無視した。  
 「今晩伺いますからね」  
 「はいはい」  
 「続き、楽しみにしてますからね」  
 「わかったわかった」  
 そのまま混雑する――と言っても十人に満たない――待合室を足早に通り抜けた。出入り口のドアを開け、そのまま出て行くザウエル。アリエルは絡めていた腕を解いて立ち止まった。  
 「精の付くお料理を作りますからね。朝まで寝かせませんからね」  
 「はいはい」  
 言われた通りにザウエルは、振り向きもせず立ち止まりもせずに歩き続ける。その背にアリエルが声を投げた。  
 「もー、一滴残らず搾り取っちゃうんですからね」  
 「わかったわかった」  
 だがザウエルは全然わかっていなかった、このやりとりの何処が『吸い足りない』を誤魔化せるのかを。  
 
 「と言うわけでな」  
 いつも通り貸切同然の《炎の髭亭》で、やって来たジェラルディンに酒を飲んでいるのを不審がられたザウエルは昼間の出来事を話した。血を吸われる日はいつも、アリエルが来るまでザウエルだけは酒を飲まないのだ。  
 「なるほど。つまり今日はアリエルは来ないのか」ジェラルディンは少々残念そうに言った。「だが、たまにはおまえと二人で飲むのもいいだろう」  
 「そこかよ……」  
 ザウエルは言いながらも、ジェラルディンが掲げたジョッキに自分のジョッキを打ち鳴らした。  
 「何だ?  女神様がいらっしゃらないことか?」  
 「ユリスが居ないのは、先生に着せる衣装を作って待ってたのに先生が来ねーって聞いたんで不貞寝してっからだ。そうじゃなくてだな……」  
 「……私と飲むのは嫌だと?」  
 ジェラルディンの視線が危険な光を帯びた。並大抵の人間なら縮み上がるのだろうが、百戦錬磨のザウエルは平気な顔だ。  
 「そーじゃねーって!  ジェラはわかったのか?」  
 「何がだ?」  
 「何でさっきので『吸い足りない』が誤魔化せるのかだよ!」  
 「誤魔化せるだろう」  
 「……え?  即答?」  
 だがジェラルディンは答えず、飲み干したジョッキを逆さに振ってグルードに見せる。グルードがお代わりを準備し始めたのを確認すると、改めてザウエルに向き直って繰り返した。  
 「誤魔化せるだろう?」  
 「オ、オレがおかしいのか?  もしかして」  
 ザウエルが不安気に言うのを見て、ジェラルディンはにんまりと笑う。  
 「若いなあ、青春だなあ、かわいいぞお。本当に昔の兄を見てるようだ」  
 言いながらザウエルの頭を撫でる。  
 女が吸いたくなる男のモノが何かと言えば、つまり男のモノだ。そんなことはある程度の経験があれば知れること。噂の所為で二人が恋人同士だと思っているなら、アリエルが吸っていたのはザウエルのモノだとしか思えないだろう。  
 それに気付かないザウエルはつまり経験が無い、或いはあっても浅いということだ。若者の特徴である。  
 「よせって」  
 ザウエルが頭を反らしながら言うと、素直にやめた。いやグルードが持ってきたエールを受け取る為に、なのかも知れないが。  
 「しかしだな。アリエルは来ない女神様も不貞寝していらっしゃるとなると、おまえしかいないではないか」  
 「あんたねぇ、オレをいくつだと思ってんだよ」  
 「21歳だろう?  若い若い」  
 「……そういや、ジェラはいくつなんだ?」  
 「レディーに歳を尋ねるなど――」  
 「前もそう言って誤魔化したよなぁ?  エルフだからわかんねーと思って、実は言えねーような歳なんじゃねーのか?……百歳とか」  
 だがジェラルディンは挑発に乗るどころか澄ました――と言うよりもむしろ得意気な――顔。  
 「ふむ、そんなに若く見えるか。この美顔法の為にわざわざあの女に頭を下げに行く時は断腸の思いだったが、それだけの価値はあったようだな」  
 「え……もしかして、もっと上だったり……とか?」  
 ザウエルが驚きを通り越して不安気に聞く。ジェラルディンはジョッキをグルードに見せてお代わりを要求した。  
 「そうだ。だからアリエルの件では心配は要らんことも簡単にわかる」  
 「う……なら、なんでなんだよ……」  
 「ふふふ。飲みが足らんなぁ、ザウエル」ジェラルディンはにんまりと笑いながらそう言うと、厨房に居るグルードに聞こえるように声を張り上げた「グルード!  ザウエルの分も頼む!」  
 「は?  いやオレのはまだ残って――」  
 「はい!  ザウエル君の♪  ちょっとイーとこ見てみたい♪  あそれイッキ!  イッキ!」  
 手拍子しながら音頭を取るジェラルディンに「此処に来る前にどんだけ飲んでたんだ!?」と言いたくなったが、ザウエルは半ばやけになってまだ半分以上残っているジョッキを一息に空けた。  
 「おー、いい飲みっぷりだ」其処へグルードがジョッキを二つ持って来る。ジェラルディンはそれを早速ザウエルに渡した。「さぁお代わりが来たぞ。それイッキ!  イッキ!」  
 「オレだけかよ!」  
 ザウエルが言うとジェラルディンは、もう一つのジョッキを掴むと一気に飲み下した。そして笑顔で続ける。  
 「それイッキ!  イッキ!」  
 「くそっ!」  
 ザウエルも一気に飲み干した。  
 「おー」パチパチと拍手。そして機嫌良くお代わりを頼んだ。「よしグルード、もう一杯づつだ」  
 その様子を見てグルードは、特製ではない安い方のエールを持って来ることにした。  
 
 「そう!  年に三度は風邪で寝込む程に脆弱で、体を動かすこと全般が苦手で荷物運びさえ出来ず、頭は良かったものだから議論は達者でいつも正論を吐いて相手を怒らせておきながらビビってすぐに逃げ隠れしていた兄が、だ!」  
 酔って大声を張り上げるジェラルディン。同じく酔っているザウエルは、グルードの「そろそろ閉める時刻なんだが……」という目配せにも気付かない。  
 「ちょっと待て!?  それじゃまるっきり駄目男じゃねーか!  っつーか、ジェラより強いんじゃなかったのか!?  そんでオレに似てんじゃねーのかよ!  オレそんな駄目男じゃねーぞ!?」  
 ジェラルディンは言葉を切り、興奮して立ち上がったザウエルの肩をぽんと叩いた。そして構わず続ける。  
 「そんな兄が、だ!  ザイア騎士団に入団したのだぞ!  あの性悪年増ビッチの為に!  酷いとは思わんか!?」  
 何がどう酷いのか全くわからないが、ジェラの「強くて優しくて頭も切れるすごい兄」の話が一転して「無力で貧弱でビビリな兄」の話になった話の飛び方が酷いのはわかった。唐突に性悪年増ビッチとか出てきたのも酷い。以前に小娘だか幼女だかと言ってなかったっけか?  
 一気飲みを繰り返した所為か、それとも昼間に血を吸われ過ぎた所為か、ジェラルディンの話がおかしいのか自分の記憶があやふやなのかも良くわからない。  
 水でも飲んだ方がいいだろう、と思ってグルードを見たら、手でバツ印を作っていた。閉店だと言いたいらしい。  
 「ジェラ、ジェラ、閉店だってよ」  
 「閉店?」ジェラルディンは熱弁を中断した。「よし、もう一軒行こう。良い店を知っているぞ。中々美味いエールを出す店でな、《炎の髭亭》という店だ。だが今日はエールの味がいまひとつだったな」  
 「ジェラ、あんた酔ってんのか?」  
 言動を見れば一目瞭然だが、ほとんど顔に出ないのでつい聞いてしまう。ジェラルディンはいつも《炎の髭亭》に来る前に騎士団の仲間と他所で飲んでから来る――と言うか、他が全員酔いつぶれたから来る――のだが、此処まで酔ったのは初めて見た。  
 いつもならそろそろアリエル先生が来て店を閉めてからが本格的な宴になるのに、そしてそれでもなお少々言動が変だなという程度なのに、今日に限っては随分とメートルが上がっている。  
 「酔ってなどないぞ」  
 そう言ってジェラルディンは立ち上がり何やらポーズを決め――ようとしたらしいが、よろけた。そのままぐらりと倒れそうになり、座っていたザウエルの頭にしがみ付く。意外とある胸が顔に柔らかく押し当てられた。魔動甲冑が鎧モードでなくて(色々な意味で)良かった。  
 「お、おいっ! ジェラ!」  
 「ザウエル……おまえだから赦すが、いくら酔った勢いとはいえ急に女に襲い掛かるのは感心出来ることではないぞ」  
 「オレかよ!」  
 あまりにも理不尽な科白に思わず叫んでしまう。しかしジェラルディンはしがみついたまま見下ろして、視線を合わせて言う。  
 「当然だ。私がおまえ以外の誰に肌を許すと思っているのだ」その瞳が潤んでいるのは、飲み過ぎている所為だろう。と、ふいっと眼を逸らした。「兄か。兄ならば仕方が無いな。うむ」  
 「いいから離れろって」  
 ザウエルはジェラルディンの胸の中から顔を上げ、勝手に自己完結したジェラルディンに文句を付ける。無理矢理押し離すことも出来るが、先ず本人の意思を確認しないとな。うん。  
 「顔が近いな、ザウエル。そうやって力尽くも悪くはないが、やはり女を口説く時には言葉を尽くして褒め称え機嫌を――」  
 しかし言いかけたジェラルディンは、グルードの声に言葉を止めた。  
 「いらっしゃいアリエル先生」  
 ぐるりとすごい勢いで首を巡らせれば、入り口にはアリエルが立っていた。  
 「今晩はぁ」  
 再びすごい勢いで首を巡らせてザウエルを見たジェラルディンは、花瓶か何かを落として割ってしまった子供が助けを求めるような表情をしていた。  
 
 しかしそれも一瞬のこと。ジェラルディンは立ち上がり、ザウエルの頭を抱えるなりアリエルを指差した。  
 「ははははは」悪役か何かのような、わざとらしい高笑い。「どうやら遅過ぎたようだなアリエル」言われたアリエルはキョトンとしているが、それには構わず続けた。「残念ながらザウエルの血は既に酒漬けだ」  
 「あ、大丈夫です。今日はもう頂きましたんで」  
 あっさりと言うアリエル。言われてジェラルディンも思い出した。だからこそザウエルに飲ませたことを。  
 「そう言えばそうだったな。だからザウエルに飲ませたのだった。決してアリエルのことを忘れて飲ませたわけではないぞ」  
 わざわざ言わなければわからなかっただろうに、ジェラルディンはザウエルを解放しながら律儀に言う。そして解放されたザウエルが聞いた。  
 「アリエル先生、何しに来たんだ?」  
 「ひ、酷いですザウエルさん」  
 「そうだ酷いぞザウエル。用が無ければ来てはいけないとでも――」  
 「今夜伺うって言ったじゃないですか、精の付くお料理を作りますって。ザウエルさんもわかったって言ってたじゃないですかぁ。忘れるなんて酷いですぅ」  
 そう言って、持って来た材料の入っている籠を見せた。  
 「おー、本当に酷いなザウエル。アリエルの料理が相伴出来ると知っていれば」ジェラルディンはテーブルの上一杯に広げられたつまみや小料理の皿に眼をやる。「グルードの料理を頼まずに我慢したものを」  
 実はグルードの料理の腕前はあまり上手ではない。  
 特製エールは好評なのに店が流行らないのは料理の所為ではないか、とザウエルは何度も指摘しているのだが、グルードは何だかんだ言いながら料理人を雇おうとはしないでいる。だが店に協力的なザウエルでさえ昼は外で済ませているぐらいなのだから、問題は深刻だろう。  
 「地味に傷付くのぉ……」店を閉める準備を終え、最後に扉を閉めるべくやって来ていたグルードが言う。「大分回っとるようじゃが、まだ飲むつもりなら樽は出しておいた方がえぇかのぉ?」  
 エールはワインと違い、小さな樽で醸造する。樽の残りが少なくなった状態でしばらく置くと気が抜けて、捨てるしかなくなるからだ。だから樽の残りが少なくなった状態で閉店を迎えそうになると、捨てるよりはということで気前良くエールが振舞われたりするのである。  
 いつも吸血後の飲み会では、その樽を一つ二つ丸々買って出しておく。今日は二人ともすっかり酔っているようだしアリエルは来ないと聞いていたので、もうお開きだろうと思っていたのだが……  
 定期的に開かれるこの酒宴は今や、《炎の髭亭》の売り上げの無視出来ない部分を占めているのである。出来るなら逃したくない。冒険者の店としては情けない話だが。  
 「女神様はもうお休みですか?」アリエルがきょろきょろと店内を見回す。ユリスが居ないなら飲まされることは無いだろう。「でしたらわたしは別に……」  
 「オレもこれぐらいにしておこうかな」  
 「むぅ……独りで飲むのも何だな」  
 「ならワシは寝るでな、いつものように戸締まり――」  
 「独りで飲むのも何だな」  
 言いかけたグルードを遮って、ジェラルディンはザウエルの目を見て繰り返した。  
 「何だよジェラ。飲むなら飲むって言えよ」  
 「だが独りで飲むのは何だな」  
 「……わかったよ。グルード、悪りぃけど一つ頼むわ。口の開いてるのでいいから」  
 「構わんぞぃ」  
 そう言って厨房へと歩いて行くグルードの足取りがとても軽やかだったことには、誰も気付かなかった。  
 
 アリエルが奥の厨房で料理を作っている。ユリスが居ないので妙な服は着せられていない。いつもの簡素な、ロングのワンピースだ。ザウエルとジェラルディンは食堂で、さっきまでの勢いはどこへやら、エールをちびちびと飲みながら料理が出来上がるのを待っている。  
 包丁の軽やかな音が止み、油で炒める激しい音が聞こえ始めた頃、ジェラルディンがザウエルに言った。  
 「今夜は大変そうだな、ザウエル」  
 「何がだ?」  
 「口で言うのは簡単だが、結構な体力が要るらしいからな」  
 「だから何がだよ」  
 「朝まで寝かせないのだろう?」  
 「ち、違――」  
 思わず声が大きくなってしまった。それに反応してアリエルが手を止めて厨房から出てきた。  
 「血がどうかしたんですか?」  
 「ちげーよ!  悪りぃ、何でもない。大丈夫だ」  
 アリエルは不思議そうな顔をしたが、大人しく料理に戻った。ザウエルは声をひそめるようにジェラルディンに言う。  
 「違うんだってばよ、あれはアリエル先生の作戦で、えー、オレにも何でだかわかんねーんだけど、そうすりゃ誤魔化せるって言うから演技しただけなんだって。そもそもオレが言ったんじゃなくてアリエル先生が言ったんだぜ?」  
 「だが『今夜来る』のも『精力のつく料理を作る』のもそうだったのだろう?」  
 「まあな」  
 ザウエルが認めたのを確認したジェラルディンは、声をひそめた。  
 「なのにアリエルは約束通りに来て、約束通りに精力のつく料理を作っている。となれば同様に、約束通りに『朝まで寝かせない』つもりだと考えるべきではないのか?」  
 「だけどよ……」その可能性を認めたくないザウエルは否定材料を探した。「来んのも料理すんのも、今までだって何度もあったことなんだぜ?  約束だからってわけじゃねぇかも知んねーだろ?」  
 「……そうかも知れん」ジェラルディンはあっさりと認めた。「だがそれでは面白くない」  
 「面白……って、面白半分で他人をくっつけんなよ。ひでーな」  
 面白いのはユリスやアリエルの思わせ振りな態度にドギマギしているザウエルなので、他人をくっつけようとしているわけではない。だが酷いことには変わりが無いので、ジェラルディンは特に否定せずにエールをちびちび嘗めた。  
 「なぁジェラ」  
 ザウエルの呼びかけに目を上げる。  
 「なんだ?」  
 「ジェラは、オレとアリエル先生をくっつけたいのか?」  
 ザウエルは正直、アリエルに女性としての魅力を感じている。ピグロウ山での冒険の最中にいいムードになった時には、ラミアでなければあの場で押し倒していたかも知れないし、ジェラルディンが寝ぼけて邪魔しなければ、ムードに押し流されていたに違いないのだ。  
 だがアリエルはラミアであり、人の生き血を啜る蛮族なのである。極端なことを言えば今から厨房に行ってアリエルを背中から刺し殺しても、犯罪どころか数千ガメルの報奨金がもらえる。そういう存在なのだ。  
 だからアリエルを口説こうという気になれないでいる。口説き慣れていないから余計に。独りが長過ぎた弊害で、口説いていいものかどうかが判断出来ないのだ。  
 しかしもしもジェラルディンが、ザウエルがアリエルを口説くことを支持しているのなら――  
 「そんなつもりは全く無いな」  
 ジェラルディンはあっさりと否定した。むしろくっつかれたら面白くなくなる。ジェラルディンは三百年前の失敗を思い出して、苦々しい表情でエールを呷った。  
 
 ジャリルデンが十歳の時、理由は憶えていないが両親が出掛けて子供達で留守番したことがあった。兄はもう操霊術を修めていて店の雑務から経理までこなせるようになっていたし、食事に関しては父の友人の娘が来てくれることになっていた。  
 八つ年上の兄よりさらに五つ年上のその女性は、恐ろしく独創的な料理を作ってくれた。優しくヘタレな兄は文句を言わずに大人しく食べたが、ジャリルデンは食べられなかった。  
 それを誤魔化す為に色々と興味を惹く話題を探したのだが、見付かったのは、兄は彼女に魅力を感じているようだ、という話題だった。兄の反応は面白く、また彼女の興味も惹けたのでしばらくその話題で盛り上げて、時間を稼いで少しづつ食べた。  
 誤算は、それが切欠で後日二人がくっついてしまったことである。大好きな兄を取られてショックを受けたジャリルデンは、近所の仲の良かった幼馴染のお姉さんに相談した。そして気付いた時には、今度はその幼馴染まで兄とくっついていたのである。  
 いい男を紹介したら誰だって奪いたくなるに決まってる。自分の愚かさ加減を嘆いてもどうにもならない。幼いジャリルデンは毎日兄にまとわりついたり夜這いをかけてみたりと色々とやってみたが、流石に十歳の妹とどうこうなることはなかった。  
 その後、二人の恋敵はジャリルデンを無視して互いを牽制していたが、三年後に《大破局》が訪れて幼馴染は国を守る守護女神となり、兄は女神に請われてその最初の神官となった。もう一人は守護女神に諂う周囲からの圧力により、身を引いた。ジャリルデンも身を引かされた。  
 モテナイ君に唐突にモテ期が来て、また一気にモテナイ君に逆戻りしたのだ。守護女神の神官となる為にザイア騎士団を辞めていた兄は、まだまだ貧弱だからモテナイ君に逆戻りしたのだと考えたようで、廃墟から拾い集めた怪しい魔動機で体を鍛え始めた。  
 その様子があまりにも不憫で、ジャリルデンは両親の目を盗んでは兄を元気付けた。兄はひどく感激して喜んでくれ、ジャリルデンも嬉しかった。  
 そして一年が過ぎたある夜、間違いが起きた。ジャリルデンは悲願が叶えられて喜んだが、それも束の間だった。翌日、訪問者が来たのだ。  
 女神となったはずの幼馴染だった、ジャリルデンと同じ歳の。  
 以来、常に女神に監視され続けた。逢いに行くことは許されなかった。極稀に兄が実家に帰って来た時には特に、女神も両親もジャリルデンからは片時も目を離さなかった。  
 二人で会うことが出来たのは250年後――国の外からの訪問者が訪れた時――に、カイン・ガラへの外交使節に選ばれた時だった。  
 故郷を出たジャリルデンは、二度と女神の監獄へは戻らなかった。  
 
 「なら、からかうのはよしてくれ」  
 ザウエルは情けない声で言った。ジェラルディンは答える。  
 「なるべく控えよう、今日は」  
 「なるべくかよ。しかも今日だけかよ」ザウエルは頭を抱えた。そしてちらりとジェラルディンを見上げて言う。「何ニヤニヤしてんだよ」  
 「かわいいなぁ、ザウエルは」  
 「おいそれ男に言うことじゃ――」  
 ザウエルが言いかけたところで、アリエルが厨房から出てきた。  
 「お待たせしましたぁ」  
 
 つまみの皿が片付けられ、テーブルの上いっぱいにアリエルの手料理が並べられた。沢山の皿に色とりどりの野菜がバランス良く配置され、見目美しく食欲をそそる。暖かく良い匂いがふんわりと鼻をくすぐった。  
 「うぉー、美味そー」  
 「これはまた、ずいぶんと豪勢だな」  
 「女神様もいらっしゃると思ったので少し多目ですけど、無理しないで残してくださいね」  
 アリエルはそう言うと、隣のテーブルから椅子を持ってきて座った。ジェラルディンの正面――ザウエルの隣に。  
 「両手に花だな」  
 「控えるって言ったじゃねーか」  
 「大丈夫ですザウエルさん。とっても精の付くお料理ですから」  
 「ちょっ……アリエル先生までやめてくれよ……」  
 「?」  
 「いただきます」  
 「どうぞ召し上がれ」  
 ザウエルの言葉の意味がわからず不思議そうな顔をしていたアリエルだったが、ジェラルディンの食前の挨拶に笑顔で応えた。  
 
 ザウエルとジェラルディンがアリエルの料理に舌鼓を打つ。男は胃の腑でつかまえろ、というラミアの間で伝わる格言に従うべく練習を欠かさないアリエルは、こんな下町にある料理店程度では太刀打ち出来ない腕前なのである。  
 「グルードの料理のあとだからな、余計に旨い」  
 「いっそのこと、グルードがアリエル先生を雇っちまえば店も大繁盛なのにな」  
 「わぁ、嬉しいです」  
 ジェラルディンはそれに「毎日アリエルの手料理を食べたいのか」とか「プロポーズか」とか「もういっそ結婚しろ」とか、色々とからかう言葉を思い付いた。しかし、あまり刺激して本当にそうなったらそれはそれで困る。  
 アリエルがザウエルを憎からず想っているのは間違い無いのだ。同じミスを繰り返すのはあまりにも愚かしい。かと言って、なら自分が結婚したいのかと言えばそうでもない。我侭な妹心理である。  
 何も言わずにジョッキを空けたジェラルディンに、アリエルが新しくエールを注いでくれた。  
 「アリエルも飲んだらどうだ?」  
 「いえわたしは――」  
 断ろうとしたところで、店の奥側――宿の方に続いている側――の扉が勢い良く開かれた。  
 「ザウ!」  
 「女神様!」  
 「よぉ、ユリス。目が醒め――」  
 「何故わたしを除け者にしておる!」  
 「除け者になんかしてねーよ。不貞寝したのはおまえだろ」  
 「アリエルが来ないと言ったのはザウであろうが!  除け者にしていないと言うなら何故に然様な嘘を吐く!」  
 「まぁまぁ女神様」言い争いを始めた二人をアリエルが止めた。「ザウエルさんはわたしが来ないと思ってたんですから」  
 「むぅ……」  
 「女神様の分もありますから。今お皿を持って来ますね」  
 アリエルはそう言って厨房へ取り皿を取りに行く。ついでにジョッキも。飲まされるのは間違い無いので、二つ。  
 戻ってみたらアリエルが座っていた席――ザウエルの隣――にユリスが座っていた。  
 複雑な思いで皿を置いたアリエルに、ユリスが布を渡した。  
 「さあアリエル。これを着て見せよ、新作ぞ」  
 「はい、女神様」  
 表面上は素直に、だが内心はさらに複雑な思いでアリエルは答えた。どうせまた、妙に露出度の高い服に違いないのだ。ザウエルの目を惹けるのはいいのだが、なにせ恥ずかしい。  
 だがこれも、ザウエルに女性として意識してもらう為。自分からは出来ないのだから、その機会をくれる女神様にはむしろ感謝しなければならない。  
 そう自分に言い聞かせながらアリエルは、服を受け取って着替えに行った。  
 
 「女神様ぁ」アリエルは細く開けた扉の隙間から顔を覗かせた。「これは……無理ですぅ」  
 「無理ではない。早よ」  
 「無理ですぅ。絶対に見えちゃいますぅ」  
 弱々しく懇願するアリエルにもユリスは容赦無い。  
 「見えても良いから早よ」  
 「いや良くねぇだろ」  
 ザウエルが割って入った。しかしユリスは無視して扉を開けてしまう。アリエルは逃げもせずにその衣装を晒した。  
 巨乳の下半分だけを覆う薄手のビスチェ。そして晒されたウエストのくびれの下に、大きく横に広がり過ぎて太ももをギリギリまで見せるスカート。それにリボンタイを着けたカラー(襟)と大きなカフス(袖先)。  
 肌の九割方を晒したアリエルが、顔を真っ赤にして立っていた。  
 「おー!  おー……おー?」  
 「ひどいです女神様!」  
 「似合うぞ、素晴らしい。なぁザウエル」  
 ジェラルディンがザウエルに水を向ける。  
 「お、おぅ」  
 胸と太ももに目移りしていたザウエルは、その所為で応えることが出来た。どちらかに目を奪われていたら応えられなかっただろう。  
 その体中をまさぐる視線にアリエルは耐えた。これしきの恥ずかしさに耐えられずに、一糸まとわず夜を共にしたいという欲望を叶えられるはずがない。ザウエルが襲ってくれない以上、アリエルが耐えなければならないのだ。力尽くで襲ってくれれば耐えなくて済むのに。  
 「こらザウ」ユリスが飛んで行ってザウエルの頭を小突いた。「いやらしい目で見るなヘンタイ」  
 普段なら言い返すザウエルも、流石に自覚があったのか大人しく目を逸らした。  
 それを確認したユリスがジョッキを持ち上げる。  
 「乾杯じゃ!」  
 その声にジェラルディンもジョッキを挙げた。のろのろとザウエルも挙げる。見れば空いている――ザウエルの正面の――席にもジョッキが用意されていた。アリエルの分だ。  
 アリエルも(椅子は無かったが)自分の席に来てジョッキを持ち上げた。  
 「乾杯!」「かんぱーい」  
 ガチンガチンとジョッキがぶつかる。アリエルは律儀に全員それぞれとジョッキをぶつけ、そのぶつけるごとに衝撃で巨乳が震えた。  
 エールを飲み干してジョッキを下ろしたユリスがアリエルに言う。  
 「アリエルも座らんか」  
 言われてアリエルは、隣のテーブルから椅子を取ってくる。椅子を持ち上げようと腰をかがめると、大きく広がったスカートが跳ね上がり、尻が丸見えになった。尻が。生尻が。  
 「ぶふぅっ!」既に大分飲んでいたのでゆっくりとエールを飲んでいたザウエルは正面からばっちり見てしまい、盛大に噴き出した。「ちょ……せんせ!?」  
 「はい?」気付いてないのかアリエルは、椅子を持ち上げるのを中断して振り返った。ザウエルを見た後、周囲を確認する。椅子を持って行く以外の何かが出来るとも思えない。「どうしたんですか?」  
 「いや、あー……」ノーパンであることを指摘したら見たことになってしまう。何とか見なかったことにしたまま伝える方法は無いものかと考えたが、無理そうだ。「何でもないんだ」  
 アリエルは不思議そうな顔をしていたが、すぐに椅子運びを再開する。ザウエルに指し示されたユリスとジェラルディンが見ている前で、再びアリエルの尻が公開された。  
 「ぶーっ!」  
 ジェラルディンも噴いた。  
 「アリエル!」今度は中断せずに椅子を運んできたアリエルにユリスは立ち上がって怒鳴りつけた。「何故に穿いておらんのだ!」  
 「ひゃあ!」アリエルは今更ながらに慌ててスカートを押さえた。「見たんですか!?」そして上目遣いでザウエルを見る。ザウエルは慌てて目を逸らした。「まさかさっきのって……ザウエルさんにも……」  
 「えーい!  ザウの処罰は後で良い!  そもそも根本的に何故に穿いておらん!」  
 処罰ってオレが悪いのかよ、というザウエルの声は無視された。  
 
 「まぁまぁ女神様」ジェラルディンが執り成そうと割り込む。「この際理由は後回しにして、先ずは下着を穿いて来させるべきでしょう」  
 「む……そうだな。アリエル、早よぉ穿いて来い」  
 すぐにでも問い質したいユリスは一瞬躊躇したが、理由が何であれアリエルがノーパンのままでは確かに不都合だ。  
 「あの……ですが……」  
 しかしアリエルはオロオロするばかりで動こうとはしない。  
 「ですがも流石も無い!  早よ行け!」  
 女神の怒りに触れたとばかりに恐縮し切ったアリエルは平伏した。  
 「申し訳ありません女神様。ですが無いんです」  
 「だからですがも流石も……無い?」  
 「はい。元々穿いて来ていないんです」  
 「なんと!?  まことか!」  
 驚いて問うユリスの横では、囁き合うジェラルディンとザウエル。  
 「やはり朝まで寝かせないからであろう」  
 「んなわけねーよ違げーって」  
 それを聞き付けたユリスは矛先を変えた。  
 「ザウ、心当たりがあるのか?」  
 平伏しているアリエルのスカートが垂直になっているので後ろからは丸見えだな、とか不埒な妄想をしていたザウエルは急に矛先が向いてうろたえた。  
 「それはですね女神様」代わってジェラルディンが答える。「今日の昼にアリエルが、今夜は朝までザウエルを寝かせないと言ったそうで。それが関係あるのではないかと」  
 「まことかアリエル」  
 「申し訳ございませぇん。ですがその所為でもないんですぅ」  
 衝撃の事実が立て続けに明らかになった混乱と、しかし一向に事態が進展しない苛立たしさに、かえってユリスは落ち着きを取り戻した。堕ちても腐っても戦勝神である。  
 ユリスは椅子に座った。  
 「ふむ、わかった。とにあれ穿いて――は無理なのだったな。とにあれ座れ。そして話してみよ」  
 「はい」アリエルは平伏した姿勢から身を起こして正座した。「あの、わたしは――」  
 「椅子にだ」ユリスは指で指し示した。そしてアリエルが慌てて立ち上がるのを見ながらジョッキを掴んで、それが空であることに気付いた。「待て。その前に注げ」  
 アリエルは言われた通りピッチャーからエールを注いで、ユリスに渡した。空になったピッチャーに樽から注いでテーブルに置く。そして座らずに口を開いた。  
 「わたしは」其処で言葉を切り、一瞬の精神集中。下半身が大蛇になる。「こういう種族なので、その、人族用のショーツだと、こうなった時に破けてしまうんです。だから穿けなくて」  
 「破けても良いではないか。さほど高いものでもなかろう」  
 「とても痛いんです、引き千切ることになるんで。こう――」アリエルは胸の前で両の腕を揃える。「――してショーツに通して、」そして腕を広げた。「こうして破ることを考えてみて戴ければ、わかって戴けるかと思います」  
 ジェラルディンはごそごそとスカートをたくし上げてショーツの裾に指を掛け、軽く引いてみた。それだけではわからず、もう少し力を籠めて引いてみる。  
 「確かに、痛そうではあるな」  
 剣戟の痛みに比べてしまえば大した痛みではないだろうが、好んで感じたい痛みでもなさそうだ。可能なら避けるだろう。だが、その為に毎日ノーパンプレイを楽しみたくなる程か、と問われれば微妙ではある。  
 しかしそう考えてから合点が入った。  
 「なるほど、だからアリエルはいつもロングスカートなのか」  
 「はい、そうなんです」  
 「おいちょっと待てよ」ザウエルが割り込む。「今までだって先生は来るといつもユリスにミニスカートのヘンテコ衣装を着させられてたじゃねーか。まさか今までずっと……」  
 聞かれてアリエルは真っ赤になって顔を伏せた。  
 「ひぇぇ、実はそうなんですぅ。とっても恥ずかしかったですぅ」  
 実は酔った勢いで警戒心が緩んでうっかり見られちゃったりなんかするトラブルでザウエルが欲情するのをドキドキしながら期待していたりもしたのだが、残念ながら欲情どころか気付かれてもいなかったとは。胸を高鳴らせた分だけ損をした気分である。  
 露出プレイの後で、何も起こらなくて助かった安堵と同時に覚える、何も起こらなくて期待外れな気分。実はザウエルは気付いていて、いつも盗み見ては劣情を滾らせているのではないか、いつかその劣情を爆発させて襲い掛かってくれるのではないか、という妄想は破れた。  
 
 「ふうむ」ユリスは唸って見せた。「単に脱げば済む話ではないか」  
 「ショーツを脱ぐのって意外と手間が掛かるんです、服を着たままだと。慌てて転んだりすることもありますし」  
 「納得いかんのぉ」  
 「そんなぁ」  
 アリエルの声が泣きそうになっているのは演技ではないだろう。納得はいかないが、嘘を言っているようにも思えない。  
 と、ジェラルディンが立ち上がった。唐突な動きに三人の視線が集中する。  
 しかしジェラルディンは気付かないのか、そのまま両横からスカートに手を突っ込んでショーツを下ろした。だが腰を曲げて膝下まで下ろそうとしたところで止まる。  
 ブーツ(甲冑モードだと脚甲になる部分)にショーツが引っかかったのだ。  
 強引に下ろそうと手を動かし脚を動かししていたジェラルディンだったが、唐突に顔を上げてザウエルを見た。ばっちり目が合う。  
 ザウエルが慌てて目を逸らすと、ジェラルディンはザウエルを見たままゆっくりとショーツを上げて穿き直す。短いスカートがすっかりまくれ上がって丸見えになっている間、ジェラルディンはザウエルから目を離さなかった。  
 ジェラルディンが席に座ると、ザウエルも逸らしていた目を戻した。ジェラルディンはその様子に、何も言っていないのに何故わかった、とか実は見ていたな、など色々とからかう言葉を思い付いた。しかし残念ながら、今はいちゃつける空気ではない。  
 「納得はいきませんが、認めざるを得ないと思います女神様」  
 「ふうぅむ」  
 「なぁ、ユリスは何がそんなに不満なんだ?」ギロッと睨まれた。ザウエルが避けるようにジェラルディンを見たら、ジェラルディンも睨んでいた。助けを求めるようにアリエルを見れば小さくなっている。「お……おい、何だよ二人とも。先生まで……」  
 ザウエルの言葉に、ユリスとジェラルディンの視線がアリエルに向かう。アリエルはますます小さくなった。  
 「まぁよかろう」ユリスの言葉にアリエルが顔を上げる。「衣装もいまひとつだったからな。着替えて参れ」  
 「はい!  有難う御座居ます!」  
 アリエルは礼を言うと下半身を大蛇から人へと変身させた。脱げていた靴を急いで履いて、着替えに行く。  
 「待てぃ、何故にわざわざ――」ユリスの言葉にアリエルが慌てて立ち止まって振り向いた。巨乳が跳ね上がり、ミニスカートもふわりと広がって中身をチラつかせる。ユリスは激昂して怒鳴りつけた。「――とっとと着替えて来んか!」  
 「はひぃ!?」  
 アリエルは面喰らい、驚きと混乱で慌てて振り返って駆け出した。大きく上下に揺れるスカートは、もはや何かを隠す役には立っていなかった。  
 
 ほんの数秒でアリエルの姿は見えなくなる。  
 「全く……」ユリスが振り向くと、アリエルが消えた方をポカンと眺めているザウエルが目に入った。「鼻の下を伸ばすな!」  
 「伸ばしてねーよ」  
 言いながらもユリスとは目を合わせない。  
 「全く……」ユリスは改めて椅子に座り、ジョッキを傾けた。「今回の衣装は失敗であったな」  
 「そうですね」ジェラルディンが同意する。「巨乳はアリエルの魅力の一つだとは思いますが、巨乳ばかりが目だってアリエル自身の魅力がかすんでしまっていました」  
 「うむ。少々調子に乗り過ぎたようだ。隠しすぎておったから見せるようにしてみたが、見せ過ぎであったな」  
 「過ぎたるは及ばざるが如し、ですね」  
 「然り」  
 何やらお互いに納得しているユリスとジェラルディン。だがザウエルには理解出来ない。今回の衣装は今までで一番良かったと思う、ノーパンはともかく。実際に今までの衣装でどれが一番かと問われれば、正直には言えずにいつもの服が一番良いと答えてしまうのだろうが。  
 「ジェラはさっき、素晴らしいって言ってなかったか?」  
 しかしその言葉に、ジェラルディンのみならずユリスまで哀れむような目でザウエルを見た。  
 「ザウ、そなたはもう少し――」女の扱い方を憶えた方がいい、と言おうとしてユリスは言葉を止めた。実際にそうなったらザウエルはもっとモテるようになるだろうし、そうなればアリエルももっと積極的になるだろう。そうなっては面白くない。「いや、何でもない」  
 「言いかけて止めんなよ。気になんだろ」  
 「気にさせておるのだ、少しは頭を使え。我が使徒として恥ずかしい」  
 「ザウエルは頭が悪いわけではないからな」ジェラルディンは素直に言った。兄も頭は良かったが女心のわからない男だった。「恐らくは使い方の問題なのだろう」  
 「フォローのつもりかよ……」  
 「いいや、単なる事実の指摘のつもりだ」  
 
 「お待たせしましたぁ」  
 アリエルがいつものワンピースに着替えて戻ってきた。その頭には小竜のラズが乗っている。  
 「ラズ、シャスシャダアリエルグヮァグ」  
 「グゥ」  
 ザウエルが何やら奇妙な言葉を唱えると、ラズが返事をするように声を上げた。そしてアリエルの頭から飛び立ってテーブルに降り立つ。  
 「ドラゴン語か」  
 「言葉が通じるんで助かってるよ」  
 感心するジェラルディンにザウエルが惚けて見せる。  
 「ふふっ、かわいい。ラズくんがおねだりしてますぅ」  
 ラズ――元は“邪竜”ラズアロスだった小竜――は、肉の盛られた皿とザウエルとを見比べるように見ていた。  
 「おねだりじゃねーんだよ、この肉がオレの肉かどうかを心配してんのさ」  
 言いながらザウエルはフォークで肉を取り、ラズに持っていってやる。ラズは口を大きく開けてかぶりつき、あぐあぐと飲み込んだ。  
 「かわいいー!」アリエルが嬌声を上げる。普段はアリエルが来る前にラズは満腹して寝てしまうのだが、今日は女神が早々に不貞寝してしまったので食べる機会を逸したまま寝てしまったのだ。「わたしがやっても食べますか?」  
 「喰わんぞ」ユリスが割り込む。「こやつ、生意気にもザウの手からしか喰わんのだ」  
 「そーなんですか。残念ですぅ」言いながらもアリエルは席に座り、ザウエルがやったようにフォークで肉を取った。そして自分の前でブラブラさせてみる。「ラズくーん。お肉ですよぉ」  
 ラズは何度か揺れる肉とザウエルの顔を見比べた後、羽ばたいてアリエルの前に降り立つ。そして直ちに跳ね上がり、肉を奪った。フェイントを掛けたのだ。そのまま空中で羽ばたき始めてザウエルの前に降り立つと、ザウエルの様子を窺いながら少しづつ肉を食べる。  
 「むぅ……」  
 ユリスが唸る。自分の手からは喰わんのにアリエルの手からは喰うのか。  
 「ラズ」今度はジェラルディンが肉をラズの前に持って来る。ラズは大きく口を開けてそれにかぶりついた。が、ジェラルディンは一瞬早く上にあげてしまい、ラズは空振りする。からかうように振ってみせた。「ははは、ほーれほーれ」  
 「むむぅ……」ラズがジェラルディンの手から肉を奪い取るのを見て、ユリスはさらに唸った。「わたしの手からだけは喰わんだと?」  
 「今なら食べるかも知れませんね」  
 「きっと前の時はお腹一杯だったんですよ」  
 ジェラルディンとアリエルが無責任な推測を述べる。それを真に受けたわけではなかったが、ユリスも試しにやってみた。  
 しかしラズはユリスの肉を無視してザウエルに飛び付き、肩まで這い上がった。肩の上で向きを変え、ユリスを威嚇する。  
 「シャァ」  
 「こ、この……馬鹿にしおって……」ユリスの声は怒りを帯びた。「そなたは一度わたしに負けて封印の憂き目に遭っておるのだぞ!  わたしに絶対服従し命乞いすべき立場であろうが!  それを――」  
 「その所為なんじゃねーの?」  
 ザウエルの言葉にユリスの動きが止まった。  
 「あぁ、封印されてたんですもんね」  
 「それは憎しみも怨みも深かろうな」  
 「しかも神紀文明時代からだからな、何万年もだ」  
 「何万年もひとりぼっちで……かわいそう」アリエルがそう言うと、ラズはぱたぱたと羽ばたいてアリエルの前に降り立った。そして撫でろとでも言うように頭を差し出す。アリエルは素直に撫でてやった。「辛かったね。頑張ったね。偉いね」  
 「何が偉いものか!  そやつは又の名を“神喰らい”、何万という人を焼き、幾柱もの神を喰い殺した“邪竜”ぞ!」  
 「だから女神様が封印して浄化なされたんですよね?」アリエルはラズを撫でながら恐れ気無く反論する。「この子は頑張って耐えて、浄化されたんですよぉ?  いい子になったんですからぁ」  
 「ぐぬぬ……」  
 歯噛みするユリスを見てラズは、テーブルからアリエルの膝へと飛び降りる。そしてよじよじとアリエルの腹を登っていった。  
 「やーん、かわいー!  痛くなーい」  
 「ニコだと爪が痛そうだからな」  
 「ジェラ、ジェラ、ニコは使い魔だから先生が望まねー限り爪は出さねーんだよ」  
 「躾が行き届いているのだな」  
 「いや魔法生物なんだよ使い魔は。むしろラズが痛くしねぇって方が躾が行き届いてんだぜ?」登られたら痛いから教え込んだだけなのだが、言葉が通じるというのは便利だ。そしてよく登られているザウエルだからこそ、ラズの異変に気付いた。「ん?  何やってんだラズは」  
 
 その言葉に四人の視線がアリエルの腹に集まった。ラズはアリエルの腹までよじ登ったところで、何かを探すように右へ行ったり左へ行ったりと右往左往している。  
 「ぶふぅっ!」ジェラルディンが笑いを堪えられずに噴き出した。「くっ……ぷふふぅ!  くはっ……くふふっ駄目だ!」  
 何とか笑いを堪えようとするのだが、ますます噴き出してしまう。そんなジェラルディンを見て、不思議そうな三人。笑いが染つりそうで気分が高まってくるのだが、何を笑っているのかわからないので笑うことが出来ない。出そうで出ないくしゃみの様な複雑な気分。  
 「ジェラ、何が可笑しいんだ?」  
 「ラズ……ぷふ」笑いを堪えようとしながら、だが堪えきれないまま、ジェラルディンは途切れ途切れに伝えようとする。「ラズは……くっ、アリエルの……ふは……ふはは巨乳っぶふふ……」  
 「巨乳が邪魔で登れんのか!」  
 ユリスの一言で三人は爆笑した。笑い声の中でアリエル一人が真っ赤になって抗弁していたが、誰も聞いてはいなかった。  
 
 ラズが肉をすっかり平らげてからも飲み会は続く。話題はラズからピグロウ山での冒険、そして最近のザウエルの冒険に移っていった。  
 ここしばらくザウエルは、再びソロで冒険していたのだ。  
 「冒険っつーような冒険じゃねーんだよ、マジで」それとなく誘わないことを責められたザウエルは言い訳がましく答えた。「依頼料も安くてよ、三人で割ったら無くなっちまうようなのばっかさ。下手すっと人数制限があったりしてな」  
 依頼料は大抵、一人幾らで提示される。これはかなり昔からの慣習らしい。冒険者のほとんどは割り算が出来ないからだという説もあるが、そんな事実はない。にも関わらず、冒険者慣れしていない者からの直接の依頼でもない限り、総額で提示されることは滅多に無いのだ。  
 依頼する方からしてみれば興味があるのは総額でしかないので、総額÷一人当たりの報酬=人数制限となる。これが(不文律で)五人かそれ以下になる場合に、人数制限付きの依頼となるのだ。つまり500ガメルの依頼を1,000ガメル但し三人までという依頼に変えるのである。  
 ザウエルのようなソロプレイヤーや少人数パーティーの場合、報酬の値段交渉が可能になるので意外と旨味がある。交渉が巧くいけば、500ガメルのショボ依頼が3,000ガメルの依頼になるのだから。最も、人数の少なさを不安がられて全額成功報酬にされることが多いのだが。  
 《炎の髭亭》にはあまり大きな依頼は入って来ない。グルードの冒険者時代の依頼人が大きな依頼を持って来ることもあるが、そう滅多にあるものではない。ザウエルの、ソロというハンディを逆に活かした生存戦略である。  
 「っつーか、そろそろマジでみんなを誘えるようなヤマをキめねーとな。生活費がマッハでやばい」  
 ザウエルはエールを呷った。  
 「そんなに大変なんですかぁ?」  
 「あぁ。大喰らいが一柱と一匹いるもんでな。六年かけて貯めた貯金を勝手に一晩で使っちまうしよ」  
 ジロっとユリスを睨んでやるのだが、ユリスは素知らぬ顔だ。  
 「ご、ごめんなさい。わたし知らなくて――」  
 「いや先生が悪いんじゃねーって」  
 「あのわたし、ザウエルさんの、その、生活費ぐらいなら……えっと……」  
 アリエルは大胆にも言いかけ、だが肝心なところで詰まってしまう。  
 「おー、何ということだ」それを聞いたユリスが芝居がかった大声で割り込んだ。「我が使徒がヒモになる瞬間を目撃してしまったぞ」そしてジェラルディンを巻き込む。「ジェラ、わたしは何をすれば良いと思う」  
 「んー」  
 とろんとした目でジェラルディンがザウエルを見た。だが何か言おうと口を開く前にアリエルが遮る。  
 「わた、わたしも女神様の使徒だから大丈夫です!」  
 「ほほぉ〜。月に幾度かしか祈りに参らん使徒の、」ユリスは笑顔でアリエルの肩を抱き、引き寄せた。「何がどう大丈夫なのか奥でじっくり聞かせてもらおうかのぉ」  
 「ひぃぃ……ご、ごめんなさいぃ……もうしませんから許してぇ……」  
 背も低く年下に見える少女であるが、その迫力ある笑顔にアリエルは本気で怯えた。女神様がいらっしゃる前では絶対にザウエルを誘惑しないと固く心に誓う。  
 「おい」ザウエルが止めた。「先生は善意で言ってくれてるんじゃねーか。喧嘩はよせ」  
 ユリスがジトッと睨みつけてくるがザウエルは怯まない。アリエルが助かった安堵と助けてもらった感動とに表情をほころばせる。  
 「そう!  ヒモだ!」  
 何の前触れも無くジェラルディンが叫んだ。  
 
 「紐だ、アリエル」状況をわかっているのかいないのかジェラルディンは立ち上がり、自分の腰のラインを指でなぞる。「ここがこう、紐になっている下着があるだろう。あれなら良いのではないか?」  
 唐突に話が変わり、なんとなく怒りの矛先を失ったユリスはアリエルを解放して席に戻った。助かったとばかりにアリエルもそそくさと席に戻る。  
 「ダメなんです、ジェラルディンさん」  
 「何故だ?」  
 「昔試した人がいたんですけど、紐だと切れないんです。結び目がガチガチに固くなっちゃって解けなくて、痛みで集中できないから変身することもできず、ボガードの人が剣で切って助けてくれるまですっごく叫んでましたし、それから何日か起き上がれなかったぐらいです」  
 何日も起き上がれなかったのは、ボガードが紐を切ろうと切りつけた時の傷の所為である。剣(ソード)は刀(ブレード)と異なり刃の切れ味が悪い。叩きつけた時の衝撃と重量を刃に集中させることで斬る武器なので、必要以上に刃の切れ味が良くても刃が傷むだけで  
あまり意味が無いのだ。当然、紐を切るには工夫と時間を要するし、怪我をさせずに喰い込んだ紐だけを切るのは難しい。急を要していたこともありボガードは、大胆にも振りかぶって斬りつけ体ごと紐を切ったのである。大怪我になるのは当然だ。  
 「まぁ、簡単に千切れては紐として役に立たんからのぉ」  
 「そうではない」ジェラルディンは立ち上がると、腰を横に突き出すようにしてスカートを大胆にめくり上げた。「ここからこう伸びている紐をまとめて掴んで、」言いながら掴む振り。反対側も同じようにして掴み、左右に広げる。「こう引けばすぐに解けるだろう」  
 アリエルの表情が驚嘆に変わった。  
 「なるほど! 変身を解くことが必要になった時にはすぐに簡単に安全に脱げる……すごい!  天才ですジェラルディンさん!」  
 「実は故郷の伝統的衣装がそんな感じだったのでな」  
 「ステキです、ラミアと共存してる人族の国……」  
 「ラミアは居なかったが、湖の国なのでな」  
 ジェラルディンは故郷では湖での船を始めとした水上交通が盛んなこと、街には水路が張り巡らされて主要な交通手段がゴンドラであること、ゴンドラ同士をぶつけ合う事故や喧嘩がたまにあることを説明した。  
 「なので水に落ちた時にすぐ脱げるように、」ジェラルディンは手を廻して腰帯を示した。「こうしてここで結ぶだけになっている服が伝統なのだ。これなら帯を解くだけで、水中でも速やかに服を全て脱ぐことが出来るので溺れずに済む」  
 「はぁ〜」  
 アリエルはただただ感心するばかりである。  
 「え?  じゃ何か?  ジェラの故郷じゃ、女はみんないつでもどこでもすぐ脱げる服を着てんのか?  ジェラも着てたのか?」  
 「うむ」  
 「そう珍しいものでもあるまい」ユリスが立ち上がりながら言う。「わたしの服もほれ、」そして腰紐を解いて肩をすぼめれば、トーガはするりと床に落ち一瞬で下着姿になった。「この通り」  
 「きゃー!  女神様!」アリエルが驚き慌てて床に落ちたトーガを拾ってユリスの下着を隠す。「いけませんそんな!」  
 「慌てるでない。見られて困る者がおるわけでもあるまい」  
 「ザウエルさんが居るじゃないですか!」  
 「ザウ?  ザウなら構わんぞ。毎日見ておるのだ、気にもせんよ」  
 「まい……にち?」  
 驚きながらもちらりとザウエルを盗み見れば、確かにザウエルは平気な顔をしている。一つ屋根の下とはいえ、毎日下着姿を見せるということはつまりそういう関係なわけで……  
 バルバロスの文化では、寝取ることは侮辱することであり、即ち喧嘩を吹っ掛けることを意味する。しかもその喧嘩は簡単に殺し合い――乃至は虐殺――へと発展するのだ、男女関係無く。  
 (これは……絶対女神様に見付からないようにしないと……)  
 単にユリスが寝る時はいつも下着姿で、慈悲深くもベッドを独り占めせずに一緒に寝ているだけなのだが、アリエルは当然の誤解をした。ユリスはさらにその誤解を煽る。  
 「そう言えばザウ、もう少し大きいベッドを買う話はどうなったのだ」  
 「おまえが要らねーって言ったんだろ、すぐに天界に帰るんだから無駄だってよ」  
 「そうだったかのぉ」  
 ユリスは惚けながら、アリエルに視線を投げる。アリエルは慌てて目を逸らした。勝負は決したのだ。  
 
 「ジェラ、ジェラ、大丈夫か?」  
 ザウエルが寝落ちしそうなジェラルディンを揺する。いつもであればアリエルが今にも落ちそうになる頃にユリスが寝落ちして飲み会はお開きとなるのだが、今日は様子が違ってアリエルもユリスもまだまだ落ちそうにないのにジェラルディンが寝落ちしそうだ。  
 「んー、らいじょーう。まらよっれらい」  
 「充分酔ってんぞ!」  
 「よっれう?」  
 「酔ってる」  
 「んーふふふ」ジェラルディンはにんまりと笑顔を浮かべた。「あらひをよあへれろーふうつもいらろら」  
 「何言ってんのかわかんねーよ」ザウエルは取り合わずに訊いた。「立てるか?」  
 「んー、」ジェラルディンはザウエルに両手を伸ばした。「られにゃーい」  
 「にゃーいじゃねーだろ、にゃーいじゃ」ザウエルは言いながら伸ばされた両手を掴んで引いて立たせてやる。が、そもそも立つ気の無かったジェラルディンはその勢いのままザウエルに倒れこんだ。慌てて抱き止める。「おい、ジェラ!?」  
 「じゅいぶんろらいらんじゃらいか、ジャウエウ」  
 「だから何言ってんのかわかんねぇって」  
 その様子を見ていたアリエルも、抱き止められたくて真似してみる。  
 「あー、わたしも酔っちゃったみたいですぅ」  
 「はん」ユリスが鼻で嗤った。「酔っ払いとは嘘ばかり吐くものだのぉ。酔っては酔ってないと言い、酔ってないのに酔ったと言い」  
 その言葉を聞いてアリエルは漸く、先程固く心に誓った内容を思い出した。  
 「あわわ……違うんです女神様。これはその、そろそろお開きにした方がいいのかなって……」  
 「ジェラがあれでは御仕舞いにするより他にあるまい。グルードが居らんで鍵も無いしのぉ」  
 《炎の髭亭》は冒険者の店なので、普通に宿泊施設もある。だが店主のグルードがもう寝てしまっているので、部屋の鍵が無いのだ。ザウエル(とユリス)の部屋はあるが、ベッドは一つしかないのだ。床に転がしておくわけにもいかない。  
 「悪りーんだけどさ、先生。ちょっと手伝ってくんねーかな」  
 「はい、はい!  手伝います!」  
 アリエルは慌てて立ち上がり、何やらうにゃうにゃとつぶやきながらザウエルの胸板に頬ずりしているジェラルディンを引き剥がした。  
 
 しばし誰がジェラルディンを送るかで揉めたが、結局アリエルが少し遠回りして送ることになった。  
 「頼んだぜ先生」  
 「任せて下さい!」  
 アリエルは妙に気合の入った声で答えた、肩を貸しているジェラルディンに胸を揉まれながら。  
 
 アリエルを見送って戸締まりをすると、ユリスが樽からピッチャーにエールを注いでいるところだった。  
 「お開きなんじゃねーのかよ」  
 「そのようだな」ピッチャーに半分も入っていないエールを見ながら言う。「ちょうど良いタイミングだったようだ」  
 ユリスがピッチャーからザウエルのジョッキに注ぐのを見て、ザウエルは慌てて言った。  
 「おい待てもう飲めねーよ」  
 「締めの乾杯ぐらい良かろう」  
 「乾杯……もキツいな」  
 乾杯とは読んで字の如く杯を乾かすこと、つまり一気飲みなのだ。今日は結構飲み過ぎている。控えておきたいところなのだが……  
 「振りだけでも良いから付き合え」  
 ユリスの普段と違う優しい声音に、ついジョッキを持ってしまった。その後にユリスの説教が延々と続くことも知らずに。  
 
 朝、いつものように胸にしがみ付いているユリスを起こした後で、二度寝を楽しむ。兄の神殿経営を手伝っていた頃からは考えられない堕落っぷりである。ザウエルに言わせれば理由はあるのだが、それも単なる言い訳でしかない。  
 繁盛から程遠い《炎の髭亭》であっても、朝だけは混雑するのだ。  
 冒険者の集う街フォルトベルクには、特定の冒険者の店に登録していない流しの冒険者が沢山いる。  
 流しの冒険者、と言えば聞こえはいいが、実体はならず者であったり他国での犯罪者であったり、故郷で仕事にあぶれて街に出てそれでもやっていけなかったヤクザ者であったりが大半だ。つまり、素行が悪かったりしてどこの冒険者の店でも登録してもらえなかった連中である。  
 当然、実力的にも大したことはないので、大抵は食い詰めている。そういう流しの冒険者が何とか仕事を得ようとして、朝に依頼が貼り出される時を狙ってあちこちの冒険者の店を廻る。それが《炎の髭亭》にも廻ってくるのだ。  
 普通の街なら何十人も居ないものだが、冒険者の集う街と呼ばれるだけあってフォルトベルクには数百人規模の流しの冒険者が居る。なので毎朝、ちょっとしたラッシュが発生するのである。  
 
 特に《炎の髭亭》は宿泊冒険者が少ない(一人しか居ない)ので、宿泊している冒険者に先を越される心配が無い。なので流しの冒険者のほぼ全員が《炎の髭亭》を訪れる。しかも最後に訪れる店でもあるので、そのまま朝食を摂る者も少なくなく、大混雑になるのだ。  
 ピグロウ山の一件での隕石のような大規模な騒動が起これば隕石を畑から除去する等の人数無制限の依頼を太守や神殿が出す(これは食い詰めた流しの冒険者に仕事を与え犯罪を起こさせないようにする社会福祉の面もある)のでしばらくラッシュは起きなくなる。  
 だがラッシュが起きなくてもザウエルが二度寝をしなくなるわけではない。つまり言い訳なのだ。  
 
 二度寝から起きて、朝食を摂りに酒場兼食堂へと向かう。既にピークを過ぎて大分時間が経っているのだが、今日に限ってはいつもより食事をしている客が多かった。テーブルが埋まっている。  
 ザウエルが不思議に思いながらもカウンターに座りグルードに朝食を頼もうとすると、声を掛けられた。  
 「ザウエルさん、おはようございます」  
 「アリエル先生!?」  
 アリエルは、以前にも着ていたことがある(ユリスが誂えた)ミニスカートのウェイトレス姿をしていた。  
 「はい。今日から朝の忙しい時間だけですけど働かせてもらうことになったんです。よろしくおねがいしまぁす」  
 「せんせ、ちょっと……」ザウエルはアリエルに耳打ちする。「スカート短いって。まずいぜ、それ」  
 「あ、それは大丈夫です」アリエルはそう言ってスカートをべろんと捲り上げた。薄桃色の紐パンが丸見えになる。「ジェラルディンさんに教わったので、今朝さっそく買いに行って来たんです」  
 ザウエルは驚いてアリエルの手を押さえてスカートを戻させた。  
 「だからって見せるモンじゃねーだろ!」  
 「は!」アリエルは自分が何をしていたのかに気付いて真っ赤になった。慌てて顔を隠す。「はわわぁ。ごごごごめんなさい嬉しくてつい……やーん恥ずかしい!」  
 「まぁ、まぁ、それはそれとして」ザウエルは急いで話題を変えた。「朝食を頼むぜ」  
 「ははははい!」アリエルは厨房に向かって叫んだ。「グルードさーん!  朝食一人前追加でーす!」  
 「……は?  先生が作ってくれんじゃねーの?」  
 「はい。わたしウェイトレスですんで」  
 「おいグルード!」  
 ザウエルは厨房に向かって叫んだ。グルードがエプロンで手を拭きふき出てくる。  
 「おはよう、ザウエル。どうしたんじゃ」  
 「どうしたんじゃじゃねーよ。なんでグルードが作ってんだよアリエル先生に作ってもらえよ何考えてんだ」  
 「ならば訊くがの、ザウエル」グルードは鋭い視線でザウエルを指差した。脚を傷めて引退したとはいえ元は有名な冒険者なだけあって、こういう時の迫力は中々のものだ。「ワシがホールに居るのと、若くて美人で巨乳でミニスカートのアリエル先生が居るのとどっちが嬉しい」  
 「そりゃ先生が居てくれた方が……」  
 「ならワシはまだ料理の続きがあるでな」  
 グルードは厨房に戻って行った。  
 
 巧いこと言わされてしまったザウエルは不満に思ったが、グルードの言うことも確かなので何も言えない。その正しさはなによりこの客の入りが物語っている。  
 不愉快な気分のままホールを見渡せば、アリエルが客の一人に何か言われて真っ赤になって否定していた。その客の手がアリエルのスカートに伸びる。  
 
  ドンッ!  
 
 ザウエルがカウンターを殴ると、客も気付いて手を引っ込め、目を逸らした。ザウエルは流しの冒険者の間では特に有名なのである。  
 「どんなに仕事に困っても、どんなにパーティー人数が足りなくても、どんなに実力が折り紙付きでも、命が大事ならあの男“呪いの三剣”ザウエル・イェーガーとだけは絶対に組んじゃいけない」  
 そしてザウエルは、流しの冒険者の全てが頻繁に訪れる《炎の髭亭》を定宿にしている唯一の冒険者なので、名前だけでなく顔も知れ渡っているのだ。勿論その実力も。最近ではフォルトベルク騎士団最強の騎士“騎士神の大盾”ジェラルドを組み伏せて従えたという噂もある。  
 流しの冒険者風情が洒落や冗談で楯突ける相手ではない。  
 助けられたアリエルがザウエルのそばへと逃げて来て礼を言う。そのままアリエルは、呼ばれていない時はずっと隣の席に座ってザウエルと話をしていた。  
 その様子を見た客の全員が、噂は本当だったのだと認識した。“下町の癒し手”が“呪いの三剣”の言うなりになっているという噂を。弱味を握られているのかどうかまではわからなかったが。  
 そしてその様子はまた新しい噂となって嫉妬と共に駆け巡るのだ、アリエルのファン達の間を。尾鰭を付けて。  
 
 「いいんじゃねぇか?」アリエルにウェイトレス業をちゃんと出来てるかと訊かれたザウエルは正直に答えた。「ウェイトレスが居るようないい店にはあんま行かねぇからオレもよくわかんねぇけどよ。少なくとも、悪い感じはねーぜ」  
 「良かったですぅ」  
 「そもそも、何でウェイトレスなんかしようと思ったんだ?」  
 「昨日女神様がおっしゃってたじゃないですか、わたしは毎朝お祈りに来ないって。だから毎朝お祈りに来ることにしたんです。それで、その時に、その……」  
 「グルードに勧誘されたってわけか」  
 「そうなんです。それで、施療院も昼前からですし、それまでならいいかなって」  
 本当は、昨夜《炎の髭亭》で働いたらいいとザウエルが言っていたので、お祈りに来た時にアリエルの方からグルードに水を向けてみたのだ。もちろん、そうすれば毎朝ザウエルに逢う口実が出来るからである。  
 ヒモパンを買ったことで、ユリスが勧める(強制する)ウェイトレス衣装も怖くなくなったのだ。この機会を活かさない手は無い。しかもアリエルは今朝初めて知ったのだが、ユリスは毎朝ザウエルを置いて信者獲得の為に説法に行ってしまうのだ。鬼の居ぬ間の何とやらである。  
 ザウエルの好みの(だとユリスに聞かされている)服を着て、しかもユリスは居ない。それとなくザウエルを誘惑するチャンスなのだ。それも毎日。  
 (ザウエルさんに襲われてしまうのも時間の問題です。頑張って女として意識してもらわないと)  
 アリエルは両の拳をぎゅっと握り締めた。  
 だが最も良いのは、共に冒険に出ることだとアリエルは考えている。ピグロウ山の一件ではいい雰囲気になって危うく唇を奪われそうになったこともある。あの時にキス出来ていれば、もう少し進展していたに違いないのだ。  
 冒険に出れば、またああいうチャンスがあるかも知れない。無いにしても、野宿して目の前で着替えるとか、途中の川で水浴びをして覗かれるとか、色々と切欠に出来そうなイベントがあるはずだ。  
 
 なのでアリエルは以後、毎朝一緒に掲示板を見ながらザウエルに冒険を勧めた。「生活費、苦しいんですよね?  稼がないと。わたしもお手伝いしますから」と言いながら。  
 それは翌週、ジェラルディンが団長に頼み込んで幻獣退治の依頼を横流ししてくるまで続くのであった。  
 
 
 

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