「もう!いったい何をやってますの、貴方は!」  
 ベルカナは腰に手を当て、そうクレスポを怒鳴りつけた。  
 盗賊ギルドでの一幕である。なんとか一仕事終えギルドまで戻ってきたものの、パー  
ティーは散々な状態だった。マロウがなけなしの精神力を駆使して全員を回復させたため  
見た目にはここを出て行く前とそれほど変わっていないが、よく見ると頭から埃をかぶっ  
ていたりところどころ服が破れていたりする。怒鳴られたクレスポのほうは口を尖らせ、  
テーブル越しにベルカナに異論を唱えた。  
「えー、俺だって前線で戦いたいっスよー。ベルカナなんか魔術師なのに前出てぶん  
ぶんメイス振り回してんのにー」  
「生命力1クレスポが何言ってんの」  
 そう言ったのは隣で二人の会話を聞いていたシャイアラだった。豪奢な金髪をかきあげ、  
かぶりを振ってばさりと落とすと、  
「ああっ、お姉さまー」  
 すかさずそばに寄ろうとするクレスポをかるくいなす。  
「あんたに前衛は無理よ。一生ね」  
 人差し指でとんと額をつかれ、クレスポは「だってー」と情けない声を上げた。  
「クレスポさんが戦闘で役に立ちたいのなら、弓を買うしかありませんね」  
 ブックが小さな体で、腰にくくりつけたそれ相応の大きさのフレイルに手をやる。指先  
が触れた拍子にじゃらりと鎖が鳴った。  
「そうするつもりがないのならおとなしく引っ込んでることです。死人が出たってうちの  
パーティーには蘇生のためのコネもお金もありませんからね」  
「あるとしたらマーファ神官のマロウくらい?」  
「オラのレベルじゃいつ蘇生させてもらえるかわかんねえだよ。クレぽんの気持ちは  
わかるけえど、素直に弓を買ったほうがいいだ」  
 
 水を向けられたマロウが申し訳なさそうに肩をすくめる。クレスポは四対一の戦況に  
多少イラついた様子でがーっと両腕を挙げると、  
「俺は鞭がいいの!」  
 と主張する。  
「いいっスよ、三世覚悟だもん!俺は太く短く生きるんス!」  
「そんなことでいいと思ってますの!?」  
 ベルカナが声を張り上げた。クレスポにずいと一歩詰め寄る。  
「まともに戦えない人が一人いることがどれだけ負担になっているとお思いですの!?  
攻撃されそうになれば庇ってあげなければならない、危険な位置にいないかいつも気を  
配っていなくてはならない、これでは何の力もないただの子供と同じですわ!」  
「なんスか、それ!」  
 言いたい放題に流石に我慢がならなかったのか、クレスポは彼にしては珍しく腹を  
立てた表情を見せた。こちらもベルカナに向かって身を乗り出す。  
「俺が足手まといって言いたいんスか?」  
「ちょ、ちょっと、クレぽん」  
 険悪な雰囲気を察してマロウが間に割って入ろうとするが、気の弱い彼のこと、ベルカ  
ナの「引っ込んでいて頂けますこと!?」の一言ですごすごと引き下がった。――この辺、  
パーティーの力関係を如実にあらわしている。ベルカナは見せ付けるようにことさら顎を  
つんと上げ、  
「この際はっきり言ってしまったほうがいいと思っただけのことですわ」  
「そりゃ、たしかに貧弱で一撃食らえば死ぬかもしれないけど、俺だってそれなりに  
役に立ってるつもりっス!筋力だってあるし、足にだって自信あるし」  
「アタシたちの中では一番遅いけどね――むぐ」  
 余計な一言を付け加えたシャイアラの口をマロウがあわてて塞ぐ。  
「その程度のことを自慢されても困りますわ、クレスポさん。中途半端な力なら無いのと  
同じですわよ?」  
 もともと口達者なベルカナと、面と向かって他人をコケにする類のボキャブラリーが  
極端に少ないクレスポ。最初から勝負は見えていたが、ここまでくるとクレスポも引き  
下がれなかった。勢いでどんとテーブルを叩く。  
 
「わかったっス、ベルカナは俺がいないほうがいいって言うんスね?」  
 クレスポはベルカナをきっと見返した。  
「それならそうとはっきり言えばいいんスよ。いちいち回りくどい言い方して偉そうに、  
ホントヤな女っスね」  
「……何ですって?」  
 思いがけない言葉に、ベルカナは目を見開いて硬直した。それに気づかないまま、クレ  
スポは声を放った。にわかに緊迫した空気にマロウが口を挟もうとしたが遅かった。  
「聞こえなかったんならもう一回言ってやるっスよ。今まで思ってましたけど、ベルカナ  
って性格サイテーっス!性格ブスっス!そんなんじゃ誰にも一生相手になんてされないっ  
スよ!」  
 なんだなんだとギルドの人間の視線が一点に集まった。ベルカナは一言も言い返さなか  
った。その顔を見て、クレスポは苦し紛れに自分の発した言葉がどれほどの威力を持って  
いたかを知った。  
 ベルカナの顔は誰の目にもわかるほど色を失っていた。端正な顔が幽鬼のように白く、  
いまにも貧血か何かで倒れてしまいそうに見えた。  
 しかしそれを見たのはわずか一瞬のことだった。それを見た誰が動くよりも早く、ベル  
カナが身を翻したからだ。傍にいたマロウが伸ばした手をさっと振り切り、逃げるように  
その場を離れる。ギルドの外へ続くドアが軋んだ音を立てて閉められた。  
 わずかにしんとした空気が場を満たす。  
「……あーあ」  
 沈黙を破ったのはシャイアラだった。クレスポを白い目で見、  
「泣ーかした」  
「……先につっかかってきたのはあっちじゃないっスか」  
 シャイアラには弱い。思わずへの字口をつくると、クレスポは言い訳めいた響きの声で  
そう言った。マロウが急ぎベルカナの荷物と自分の荷物を抱える。  
「オラ、ちょっとベルカナを追いかけてくるだよ。みんなは先に解散しててくれてかまわ  
ねえから」  
 告げると、マロウも駆け出す。二度目、あけて閉められるドアを見ながら、クレスポは  
シャイアラとブックの冷たい視線にひたすら耐えた。  
 
 
 ベルカナはすでに街路まで出ており、探し出すにはわずかに時間を要した。マロウは早  
足で歩く後姿に声をかける。  
「ベルカナ、クレぽんだって本気じゃねえだよ、だから」  
 腕をとるとわずかばかり抵抗を見せながらも、彼女は足を止めた。しかし振り返ること  
はせず、マロウを見ようとしない。  
「ベルカナ?」  
「……大丈夫です、あんなの、気にしていませんわ」  
 やっと聞き取れるくらいの声でそう喋り、マロウの差し出した自分の荷物を受け取る。  
その間もかたくなに顔を上げず、ベルカナは言葉少なに「ありがとうございます」とだけ  
言った。マロウはふとその顔を覗き込む。  
「ベルカナ、泣いてるだか?」  
「そんなことありません!何で私がっ」  
 噛みつくように反論すると、ベルカナはたっと駆け出した。方角を見るに家に戻るのだ  
ろう。これ以上追いかけても逆効果だろうかと、マロウは再び追おうとした足を止めた。  
不安な面持ちでベルカナを見送る。これ以上ややこしいことにならなければいいだども、  
とマロウは漠然と考えた。  
 
 
 
(あんなこと、言うはずじゃなかった)  
 駆けながらベルカナは思った。始終うつむき気味であるために何度も人にぶつかりそう  
になりながら、それでも足を止めることはしなかった。  
 クレスポに言われた言葉は自分でも何故そうなったのかわからないほどに、強く彼女を  
打ちのめした。ショックだった。それは一番聞いてはいけない言葉のような気がした。そ  
の言葉を聞いた時、自分がクレスポに向かって言った言葉の本当の意味にもはじめて気が  
付いた。そしてその自分自身の言葉がクレスポの言葉を引き出してしまったのだというこ  
とも。  
 
(あんなこと、言うはずじゃなかった)  
 ベルカナは自分の気持ちを素直に口に出すのが苦手だった。むしろ、本当に思っている  
こととは逆のことを口に出してしまうことが多かった。いつもそうだ。わたしは――  
(わたしは、どうすればいいんでしょう……)  
 ベルカナは鞄をぎゅっと抱き締めた。  
 
 
 
 クレスポの常駐している安宿。夕刻、バイトを終えたマロウはそこにいた。ベルカナの  
様子はマロウから見ても少しおかしかった。それを伝えたいと思ったからだった。  
 しかし、クレスポがどの部屋に泊まっているかは知っているが、ここまで来ながらマロ  
ウはいまいち足が進まなかった。何と言えばいいのかもわからないし、伝えてクレスポに  
具体的にどうして欲しいという明確なビジョンも無い。何をするでもなく店の中で立ち尽  
くしていると、看板娘のアイリが声をかけてきた。何度か顔をあわせたことがあり、知ら  
ない仲ではない。客が入る前の時間帯ということもあり、彼女の声は気安かった。  
「こんばんは、マロウさん。いらっしゃい」  
「あ……あの、クレぽんは」  
「今ならたぶん部屋にいるわよ」  
 そこまで言って、アイリは急に声をひそめて顔を近づけてきた。  
「ね、どうしたのよ、あいつ。なんかいつもと微妙に雰囲気違ったんだけど」  
「う、うん……」  
 マロウがしどろもどろに「ちょっと仲間と喧嘩して」とだけ説明すると、彼女は「ふう  
ん」と鼻を鳴らした。  
「意外に軟弱なのね」  
「はは……」  
 マロウは冷や汗をかきながら、背後を通り過ぎて、外に用があるのか入り口のドアに向  
かうアイリを見送った。そして彼女と入れ替わりに入ってきた、この場末の安宿にそぐわ  
ない、小柄で身奇麗な姿を見た。あまりに意外なその姿にマロウは一瞬言葉を失う。  
「――ベルカナ!」  
 茶色の長い髪を揺らして、ベルカナはマロウを見た。相手の姿を見て驚いたのは彼女も  
同じだった。突然呼ばれて、何事かと思えば自分より一足先にマロウが来ている。おそら  
く自分だけではなくクレスポのことも気にしてここに来たのだろう。マロウらしいとは思  
いながらも、ベルカナは思いがけないことにわずかに足がすくんだ。  
 どうすればいいか、彼女には結局答えが出なかった。ただ、気が付いたらここに足が向  
いていた。何か言わなければならない、無意識のうちにそう思っているのかもしれない。  
 地獄で仏とばかりにマロウはベルカナに駆け寄る。ベルカナは顎を引くようにして多少  
萎縮したような表情をした。  
「あまり大きな声を出さないでください」  
 肩をせばめてうつむく。鈍感なマロウにはわからなかったが、それは大抵の場合、自信  
を喪失した人間が見せる仕草だった。  
「クレぽんと話し合いに来てくれただな!?」  
「待ってください、マロウさん、わたし」  
 片手で襟の辺りをぎゅっと握り締め、彼女は声を抑えて言葉をつむいだ。  
「その、別に話し合おうとか、そういうことで来たのでは」  
「でも来てくれたってことは、やっぱり気になったんだべ!ささ、クレぽんは二階にいる  
だよ。はやくはやく」  
 二階への階段に向かって背中をぐいぐい押され、ベルカナは慌てて踵でブレーキをかけ  
た。  
「ちょっ、やめてください、本当になんでもないんですからっ」  
「……ベルカナはクレぽんが気になって来たんじゃないだか?」  
「あ、当たり前ですっ。なんでわたしが」  
 自分への問いとちょっとしたハプニングが彼女を混乱させた。思わず普段の態度に戻っ  
てしまう。それは咄嗟に自分の弱みを包み隠すためのオブラートだった。ぱっとマロウの  
手を払いのける。  
「あちらから謝るのならともかく、わたしからなんて死んでもゴメンですわ。女の人のお  
尻を追いかけるしか能の無いクレスポさんと、なんでわたしから仲直りしなければならな  
いんですかっ」  
 言ってしまった後、気付く。まただ。わずかな後悔に苛まれてマロウの顔を見た時、マ  
ロウが呆然と自分の後ろを見ていることに気付く。それを見たベルカナはこれまでに生ま  
れた不安の全てがそこに結実したように感じた。  
 
 ぱっと振り返る。そこには果たして、クレスポがいた。  
 ちょうど客室のある二階から下りてきたところのようだった。急な階段の途中に立ち止  
まり、明らかに気分を害した顔でこちらを見ている。  
「……ふーん」  
 咄嗟に口ごもるベルカナに、鼻を鳴らしてクレスポは言った。  
「別に。いいっスけど。俺だってベルカナに謝るのなんて死んでもゴメンだし」  
 手すりに両肘をつき、クレスポはベルカナを見た。クレスポが昼間のように怒鳴ること  
はなかった。代わりに冷ややかな視線を彼女に投げた。  
「――――」  
 ベルカナはぐっと唇を噛んだ。その瞳を見返すことは今の彼女には出来なかった。頭が  
かっと熱くなる。どうして。どうして――  
 何も考えられなくなり、気が付くと叫んでいた。  
「――あなたが、わたしに何か言えますの?あなたなんか、何も――何も出来ないくせに  
っ」  
 売り言葉に買い言葉とはまさにこのことだった。  
 その一言に、クレスポが明らかに表情を硬くしたのが見えた。あ、と心の中だけで手を  
差し伸べるが、口は何も言えず、身体も動かない。彼女が躊躇するわずかの間に、クレス  
ポは黙ってぷいと背を向けた。  
「……そんなに俺が嫌なら、とっととパーティ抜けるか、そうでなきゃ解散でも何でもす  
ればいいでしょ」  
 二階に戻りながら、こちらに聞こえるか聞こえないかのささやかな声が聞こえる。  
「……これだからいいとこのお嬢様は」  
 その一言は鋭く放たれた矢のようにベルカナの胸に突き刺さった。ドアの閉まる音。な  
にかを断絶するようなその音に、ベルカナは息をつめて目を見開いた。  
 形容のできないひどい感情に、とまどうとともにどうしようもない憤りを覚える。その  
膝は突然ぐらりとかしいだが、倒れることは無かった。マロウが支える前に彼女は自分の  
足で自分を支えた。その足はまるで誰にも支えられたくないとでも言わんばかりに彼女を  
支えていた。そのことに、ベルカナはなぜかひどくショックを受けた。  
 
「ベ、ベルカナ」  
 マロウの気遣うような声音に、ベルカナは逆に心を掻き乱された。自分の全てが情けな  
く、救いようの無いものに思えた。吐き気すら覚えてベルカナは言った。  
「……放っておいてください」  
 わたしのことなんか。  
「もう、放っておいてくださいっ!」  
 叫び終わると、とたんに体中から生気が抜けていく。どうすることもできず立ち尽くし  
たマロウの前で、彼女はのろのろと踵を返した。  
 
 
 
「……ちょっと、喧嘩するのはいいけど、宿の外まで筒抜けよ?恥ずかしいったらありゃ  
しない」  
 言いながら外から水を汲んで戻ってきたアイリは一人、呆然とするマロウを発見した。  
「……」  
 腕を組んでしばし見やっていると、ぎぎぎ、ときしんだドアのような動き方で、マロウ  
はこちらを向いた。  
「……これってもしかして、オラのせいだか……?」  
「そうかもね?」  
 ため息をつくと、アイリは半眼でそう答えておいた。  
 
 
 
 珍しく安い宿の二階に、シャイアラとブックは部屋を取っていた。クレスポも追えず、  
ベルカナも追えず、精神的にふらふらのマロウがそこにたどり着けたのは、幸いにもあら  
かじめ場所を告げられていたからだ。  
 先ほどの出来事を詳細に話すと、流石のシャイアラもわずかばかり眉をひそめた。窓辺  
に立ち、くつろいだ姿勢で髪飾りをはずしながら言う。  
「バッカねー。これだから人間は」  
 ブックが本から顔を上げて、「姐さんと較べちゃいけませんよ、姐さん。生きてる時間が  
違いすぎるんですから」と口をはさんだ。シャイアラは無言で肩をすくめた。マロウは肩  
を落としたまま、すがるような口調でシャイアラに尋ねた。  
 
「どうすればいいべか、シャイアラどん。オラ、もうわかんねえだよ」  
「どうって?」  
 シャイアラが目を丸くして答える。  
「アタシたちが口出すことでもないでしょ。ほっといたら?」  
「そ、そんなぁ!」  
 思いがけなく冷たい言葉に、マロウは詰め寄らんばかりの勢いでたずねる。  
「シャイアラどんはパーティがどうなってもいいだか!?」  
「そこまでは言わないけど」  
 マロウの剣幕などどこ吹く風、彼女は軽い調子で言った。  
「だってアタシたち、結局のところ自由意志で集まってるんだもん。お互いに、集まった  
ら楽しいから集まってるわけでしょ?だったらアタシたちがどうこう言ったところでどう  
しようもないじゃない」  
「そりゃ、そうかもしれねえけど……」  
 ドライな理論に、マロウは反論もできないが納得もできないといった顔で頭を抱えた。  
シャイアラは窓の外がよく見える位置に据えられたソファに腰を下ろしたが、その体重で  
ソファはばふっと音を立て、埃が勢いよく舞い上がった。どうやら掃除が不十分のようだ。  
シャイアラは顔をしかめて目の前の埃を手をぱたぱたとあおぎはらった。  
「もう、ブック!もっといい宿は取れなかったの?こんな表通りから引っ込んだ汚い宿じ  
ゃなくて」  
「すみません、姐さん。なにしろ今日の昼まで仕事でしたから、いい宿が取れなくて。明  
日は責任持って、姐さんを納得させられるような場所を用意させてもらいますから」  
「ん、頼むわね……」  
 頬杖をついた彼女の言葉は途中で途切れた。食い入るように窓の外を見つめる。次に口  
を開いたとき、彼女は落ち着き払った優雅な物腰になっていた。  
「マロウ。前言撤回」  
「へ?」  
 頭を抱えてうんうん唸っていたマロウが、目を丸くして顔を上げる。シャイアラは解い  
た金髪を指先に絡ませながら視線をマロウに戻した。  
「このことはアタシもなんとか考えてみるから、今日んとこは帰んなさい。もう真っ暗だ  
し、今からどうにかしようとしてもしょうがないわ。とりあえず明日ね」  
「……わかっただ」  
 いかにも年長者らしい反論を許さない物言いに、マロウはしょぼーんと肩を落として了  
承した。退室する彼を見送りながらブックが呟く。  
「彼も損な性格ですねえ」  
「いいんじゃない?ああいう子は一人くらいいた方が楽しいわよ。それよりブック、アタ  
シ夜食ほしい。貰ってきて」  
「またですか。美容によくありませんよ?」  
「いいの。アタシは今食べたいの。わかったらさっさと行って来る」  
「わかりました」  
「チーズと、それからワインもつけてもらってよ。エールは却下。できれば赤がいい」  
「あるかなあ?」  
 言いながらもブックは素直に本を置き、とことことマロウに続いて退出する。それを見  
届けると、シャイアラは窓の外に視線をもどし、クレスポの安宿と自分のいる宿との位置  
を計算し始めた。  
 
 
 
 自室のベッドに腰掛け、クレスポはすこぶる不機嫌だった。  
 一向にいつもの調子が戻ってこない。元気が取り柄の自分が、なんで宿の自分の部屋で  
ひとり悶々としてなきゃならないのか。  
 しかし、いざ動こうとすると足が鉛のように重い。まるで幽霊か何かが自分の足にくっ  
ついて動きを制限しているかのようだ。  
「……」  
 そう思って子供のように足をぶらぶらさせてみるが、無論何も無い。重力にしたがって  
ゆらゆらと揺れているだけだ。  
 わかっている。重いのは心だ。  
 ああは言ったものの、クレスポ自身は自分の不甲斐なさについては十分に納得していた。  
貧しい村に生まれてこういう体質だと、誰からも何かと邪険にされるものだ。だからこう  
いったことには慣れているつもりでいた。ベルカナのキャラクターはよくわかっているつ  
もりだったし、自分は能天気だ。なのに思わず反撃してしまった。自分はよほど、ここで  
役に立てないことに気がかりがあるのだろうか?それとも……。  
 
 クレスポは顔を上げた。そこには先ほどのままのベルカナが立っている。口では散々な  
悪口を叩きながら、なぜかその表情は今のクレスポを鏡で映したように晴れない。むしろ  
自分などよりよほど精神的に参って、泣きそうにすら見える――  
(……って、なんで俺がベルカナの事なんか気にしなきゃならないんっスか!)  
 ぶんと頭を振って幻影を追い払う。幻影のベルカナは掻き消え、そこには元のとおり、  
辛気臭い部屋の片隅があるだけだった。  
 これではますます思考の袋小路に入り込んでしまう。クレスポは立ち上がると、もうそ  
んなことをするような時刻ではなかったが、思い切って窓を開けた。  
 とたんに、聞こえないはずの声が聞こえ、クレスポはぎょっとして顔を上げた。  
(ああ、届いた。もう夕方だし、宿にいるなら駄目かもと思ったけど、運がよかったわ)  
「シャイアラさん?」  
 ウインド・ボイスだ。そう思う間もなく、魅惑的な声がクレスポの耳を打つ。  
(ねえ、クレスポさあ。今からアタシの宿まで来てくれない?)  
「は!?」  
 それってこうでああでそういう意味なんでしょうか。とはとてもではないが尋ねられず、  
クレスポは間抜けに口をパクパクさせるだけに留まった。だが、いつもの自分なら狂喜乱  
舞して三軒先の民家まで聞こえるほどの絶叫を発しそうなこのお誘いに、クレスポは今だ  
けは乗る気にならなかった。  
「うーん……」  
 ごまかすように苦笑いしながら答える。  
「また今度じゃ駄目っスか?」  
(だぁめ)  
 あっさりと却下すると、シャイアラはクレスポの宿から自分の宿への道順を指示し、最  
後にひとことこう言った。  
(あんた、今後アタシに一生ハブられたくなかったら、おとなしく言うこと聞きなさい。じゃあね)  
 実に自分勝手な通告を残して風はやんだ。なんだか想像していたような意味のお呼び出  
しではないらしい。……すこし冷静に考えてみれば当然だが。  
「ハブねえ」  
 お仕置きならクレスポ的にはオールオーケーだが、ハブとはちょっといただけない。…  
…放置プレイと思おうとすればそう思うこともできるが、残念ながら放置プレイはあまり  
好みではない。  
 
 クレスポはよっこらしょ、と立ち上がった。ハブどうこうより、彼女に逆らうとろくな  
ことにならない気がする。  
 
 
 
(……もう駄目)  
 ベルカナは裏路地の闇に埋もれるようにして、一人座り込んでいた。  
 暗い路地にはゴミが散らばり、据えた匂いを発している。普段のベルカナならば通るこ  
とすら避けるような界隈だったが、今の彼女にはまるで気にする余裕はなかった。家に戻  
る気にもなれない。すこしでも明るい場所に行こうという気すら起きない。  
(わたし、立ち直れない)  
 クレスポはもう、わたしのことを仲間だとは思ってくれないだろう。それどころか、二  
度と会ってくれないかもしれない。  
(……自業自得、ですわね)  
 あんなことを言ったのだから当然だ。彼女はひざに顔をうずめた。  
 小さなころから甘やかされて育ってきた。父親は自分を溺愛しているし、使用人たちは  
ベルカナの言うことなら何でもイエスと答えて従った。そして自分自身は、父親が傭兵出  
身であることから必要以上に背伸びをし、家柄だけの周囲に負けじと必死に勉強に打ち込  
んだ。心に強力な殻を張り巡らせ、父親が社会的地位を持たない成金というだけで自分を  
認めない連中と張り合い、最後には実力でねじ伏せた。  
 そしてついに学院の頂点に上り詰めたとき、唐突に彼女は悟った――自分の周りには誰  
もいないということに。そしてそれを招いたのは他でもない、自分自身だということに。  
 その後のベルカナはひとりで下町に出ることが多くなった。何の解決にもならないこと  
がわかっていても、そうせずにいられなかった。  
 巻き込まれるようにして今の仲間たちと組んで冒険をするようになったとき、最初は冒  
険者なんてみっともないとか、こんな人たちと一緒にされては困るとか、外側の、これま  
で自分が構築してきた殻によって感じる、見栄を張った気持ちのほうが大きかった。でも  
二度、三度と冒険を重ねていくうちに、彼女自身も含めて、メンバーはこの面子で集まる  
ようになっていた。  
 
 それはベルカナにとっては殆ど初めてと言っていい経験だった。毎回、まったく同じ顔  
ぶれで、ひとつの事を成し遂げる。そのなかで自然に自分の立ち位置が決まり、一人では  
無理だろう大きな依頼をこなし、それに見合った報酬を受け取る。そこに上下は全くない。  
競い合うこともない。彼女は初めて仲間を持つことのよろこびを知った。  
 そしてそれを自らの手で壊してしまった。  
(……)  
 もう二度とこんな機会には恵まれないだろう。あるいはめぐり合っても再び壊してしま  
うだけだろう。彼女にはもう、前に進む意思が残っていなかった。前に進んでももう希望  
が無いからだ。  
 彼女は少しだけ顔を上げた。そこに二つの足元を見る。視線を上げていくと全容が見え  
た。大柄で、お世辞にもスマートとは言いがたい容姿の、知らない男たちだった。柄はす  
こぶる悪い。  
「どうしたい、お譲ちゃん。こんなところで」  
 下卑た声をかけられたが、ベルカナは無視した。より正確に言うと、誰に声をかけられ  
ても答えたくない気分だった。そして全く知らない相手だったのでそれを敢行した。相手  
はこちらの気分など気にもかけていない様子でもう一人が続ける。  
「こんなところで座ってちゃ風邪ひくぜ?」  
 肩に手をかけられる。そこで初めて嫌悪を感じ、彼女は眉をひそめてその手を払った。  
「触らないで」  
 そう言うと、彼らは何が面白いのか、近所迷惑な笑い声を発して、酒臭い顔を近づけて  
きた。  
「お譲ちゃん、俺らといいことしようや」  
 こたえる気にもなれず、彼女は顔を背けた。酔っ払いの匂いは大嫌いだ。  
 その態度に、彼らはそれまでのただ好色だっただけの目つきを、粗野で剣呑なものに変  
えた。急激に変わった雰囲気にはっと顔を上げたときには、既に手首を掴まれていた。  
「立てや、譲ちゃん」  
 男の力に逆らえず、ベルカナは引きずられるようにして立たされた。肩を掴まれ、背後  
の壁に押し付けられる。したたかに背中を打ちつけ、彼女はあえいだ。あごを掴まれ目の  
前に汚い男の顔を見たとき、ようやく抵抗するという選択肢が頭に浮かんできた。  
 しかし、  
(……武器が無い)  
 
 身体からすうっと血の気が引く。目の前が真っ暗になった。こんなことになるとは想像  
しておらず、彼女は武器を家に置いてきてしまっていた。発動体の指輪だけは指にはめて  
いたが、呪文を唱えるのを目の前の男が黙って見ているとは思えなかった。  
 手首を掴まれ、初めて小さな悲鳴を上げる。襟に手をかけられると男の手が布越しに鎖  
骨の当たりに触れた。そのおぞましい感触に、彼女はパニックに陥った。  
「ひ……嫌あぁ!」  
 突然暴れだすベルカナ。男はその両手首を力まかせに掴みひとまとめにすると、後ろの  
壁に押し付けた。襟のリボンを解かれ、閉じていた詰襟が離れると、彼女の恐怖は頂点に  
達した。今度こそ声を上げそうになる。と、そこで急に手が止まった。  
「ああん?」  
 男は手を止め振り返った。表通りからの角に他の人影があることに気づいたらしい。ベ  
ルカナもつられてそちらを見、恐ろしい偶然に息を呑んだ。  
 そこにいたのはクレスポだった。完全に予想外だったであろう状況に出くわしぽかんと  
突っ立っている。多少の距離と夕闇はあったものの、互いの仕草から視線までわかる程度  
の位置に彼はいた。いまいち状況が把握できていないのか、呆気に取られてこちらを見て  
いる。  
「……っ」  
 ベルカナは思わず目をそらす。大喧嘩の直後にこんな風に弱みを見られてしまうのは最  
悪だった。恥ずかしさとみっともなさがない交ぜになり四肢を硬直させた。  
「小僧、見世物じゃねえんだ、あっち行ってな」  
 もう一人の男が手を振って追い払う仕草をする。クレスポは腹を立てた表情を見せたも  
のの、迷いを見せてもいる。次に取る行動を決めかねている様子にも見えた。  
 ベルカナは呆然とクレスポを見た――助けて。そう言おうとしたのだが、なぜか、声が  
出なかった。気まずさと心理的抵抗、なにより精神的に衰弱していたベルカナにとって、  
この状況でクレスポに助けを求めることは非常に勇気の要る行為だった。  
 手足がかすかに震えていた。このまま助けられずにいるのも恐ろしいが、助けてもらう  
ことも同様に恐ろしかった。クレスポは、出自や性格はともかく、こういった『場末の喧  
嘩』といった類のものに到底向く体質ではない。それも見たところ、彼は普段は装備して  
いる鞭も、そして鎧も身に着けていなかった――そんな状態で屈強な男たちと一対二でや  
りあうなど、わざわざ殴られに行くようなものだ。  
 そして、仮にそこまでして助けてくれたとして、その後わたしはどんな顔をして彼に接  
すればいいのだろう?  
 いつまでも動かないクレスポに業を煮やしたのか、クレスポに近い方の男が罵声を浴びせた。  
「失せろって言ってんだよ」  
「なんだ?混ぜて欲しいのか、坊主」  
 乗じて、もう一人もからかいがてら野次をとばす。事態の進行を嫌でも感じ、ベルカナ  
はすがるような瞳でクレスポを見た。クレスポもこちらを見る。一瞬視線が絡んで、そし  
て、  
 
 離れた。  
 
「勝手にやってろよ。俺は興味ない」  
 クレスポはふっとそっぽをむいて冷たく告げた。  
「――――」  
 体中から力が抜けるような気がした。  
 ベルカナはがくんと膝を折ったが、頭上に固定された両手のためにくずおれることはで  
きなかった。眼前の男が咄嗟に彼女の両手首を握る腕に力を込める。  
「残念だったな、譲ちゃん」  
 男の声はベルカナにはひどく遠くに聞こえた。もう一人のほうもクレスポの方に唾を吐  
き捨てこちらに向き直る。  
 そして次の瞬間、その背中がはじかれるようにもんどりうった。  
「うぐ!」  
 そのまま、呻き声とともに倒れふす。その声と音に、ベルカナの腕を掴んでいた男が何  
事かと振り返った。手を離される。急激に身体が開放され、落下感がベルカナを襲った。  
石畳にしたたかに腰を打ち付けるが、そのときのベルカナにはその痛みもまるで他人事の  
ように思えた。  
 彼女の瞳は一点を捉えたまま動かなかった――こちらへと全力で走りながら手を伸ばし  
てくるクレスポの姿を。  
 
 
 
 クレスポはめまぐるしく思考をめぐらせていた。普段は考えるよりも感覚だけで動いて  
しまうことが多い性分だったが、今回だけはそういうわけにいかない。  
 相手は二人。こちらはベルカナを連れて無事逃げおおせなければならない。ベルカナが  
自分で逃げてくれれば問題ないのだが、よほど恐い思いをしたのだろうか、男の手が離れ  
た今でも、逃げるどころか立ち上がろうともせずただ呆然とこちらを見ているだけだった。  
クレスポは短く舌打ちした。一度ベルカナの傍まで近づかないと――クレスポは走りなが  
ら左手を握り、また開いた。  
 興味の無いふりをして隙を作ってもらう作戦はとりあえず成功した。自分に近い方の一  
人目の背中に全体重をかけて突撃した後、クレスポは脇目も振らず一直線に走った。  
「てめえっ!」  
 ベルカナを捕らえていたもう一人が掴みかかってくる腕を難なく交わし、横をすり抜け  
る。間一髪、伸ばされた腕はクレスポの高等部で結んだ髪に触れて、過ぎ去った。  
 ここからが勝負だった。ベルカナの傍にたどり着くとほぼ同時に跪き(第三者にはつま  
ずいて転んだようにも見えただろうと思う)、ベルカナに右手を伸ばす。  
 それまで放心していたベルカナがようやく悪い夢から醒めたかのように目を瞬かせる。  
そして突然悲鳴を上げた。  
「――――!?」  
 ベルカナの反応に、クレスポは反射的に振り返る。丁度、一撃目をかわされた男が第二  
撃目としての拳を、クレスポの頭上めがけて叩きつけようとしているところだった。  
 体を傾げ、咄嗟に左腕を伸ばそうとするが間に合わず、しかたなく身体を捻る。拳は真  
横を過ぎ去り、こめかみをかすめて打ち下ろされた。ベルカナが息を呑む音が聞こえる。  
「――っぶねえな、この野郎っ!」  
 罵声を吐きながらベルカナの手を掴む。  
「何してるんスか!逃げるんスよ!」  
 腕を引かれ、ベルカナはようやくクレスポの意思を汲んだようだった――聡明な彼女の  
反応としてはありえない程遅いものだったが。  
 
 クレスポにすがるようにして立ち上がる。そうなってしまうとクレスポの自由はさらに  
きかなくなり、第三撃をまともに浴びることになるのは避けられなかった。  
 襟首を掴んで殴り倒そうとでも言うのか、真正面に手が伸びてくる。クレスポは出来る  
限り身を引きながら、再び左腕を差し出した。すばやく握り締める。  
 ぶん、と虫の羽音のような音がした。  
 なにかがクレスポの左腕の周囲をぐるりと巡った。それは一瞬にして実体化し、男の腕  
を受け止める。  
「――なんだぁ!?」  
 完全に予想外だったであろうそれに、男が素っ頓狂な声を上げる。ぶつかってきた手は  
手首を捻挫していてもおかしくない衝撃だった。男は思わずといった様子で腕を引き、そ  
の手首にもう片方の手をやった。  
 それはベルカナに金を借り、加えて自分のほぼ全財産をはたいて買ったガード・グラブ  
だった。  
 相手が怯んだ隙にクレスポは駆け出した。ベルカナの力の無い手を引いて促す。  
「しっかりするっス!ベルカナでしょ!?」  
 握った手がびくりと震え反応を示した。一聴にはわけのわからない言葉だったが、ベル  
カナには正確な意味合いとして伝わったようだった。青い顔にさっと唇を引き結び、彼女  
は自身の足で立った。二人同時に駆け出す。  
 すぐに路地を抜け、表通りに出る。視界が広がった。  
 
 
 
 シャイアラは眼下の騒動が去っていくのを黙って見送っていた。万一に備えて準備して  
いた精霊魔法を解除する。  
 何かと厄介ごとを呼ぶベルカナがいきなり絡まれた時はさすがに肝が冷えたが、あれな  
らまあ、苦もなく逃げ切れるだろう。走り去るクレスポとベルカナを見やって彼女は大き  
く体を伸ばした。腕を枕にしてソファのうえで寝そべり、目を閉じる。  
「世はなべて事もなし」  
「姐さんも人が悪い」  
 
 薄く目を開けるとワインのボトルとグラス、チーズやパンが乗った盆と、それを持った  
小さな手が見えた。  
「遅い。何やってたのよブック」  
 ブックは彼には少々大きすぎる盆を抱えてテーブルのそばに移動しながら言った。  
「姐さんのご期待に沿おうと努力した結果、赤ワインは出してもらえましたが、交渉に多  
少時間を費やしました。それからお金もね」  
 それほどの額じゃなかったから頼みましたけど、と続ける。多少危なっかしく(なにし  
ろ背が低いのでテーブルが目線の位置にある)盆を置きながら、彼は窓の外を視線で指し  
示した。  
「全部ご存知だったわけですね?道理で、姐さんにしてはマロウへの対応が優しかったわ  
けだ」  
「ふふーん。青春してるベルカナを見つけちゃったのでちょっと悪戯しただけです。人が  
悪いだなんて人聞きの悪い」  
 いかにも楽しそうに、シャイアラは体を起こした。グラスを取る。  
「ああしてみると、なんだかんだ言ってもクレスポも男の子ねえ。何はともあれパーティ  
ー崩壊の危機を回避できてよかったよかった」  
 グラスを差し出すとブックの手でワインが注がれる。心得たもので、グラスの四分の一  
程度の位置でワインは止まった。口元へ引き寄せ、グラスを回しながら彼女はにっこりと  
微笑んだ。満足げにワインを一口含んで嚥下する。  
「あー、面白かった」  
「だから姐さんは人が悪いんですよ」  
 漏れた本音に、ボトルをテーブルに戻しながらブックは苦笑いした。  
 
 
 
 足の速さに関しては普段ならベルカナがクレスポに勝るのだが、今回ばかりはクレスポ  
がベルカナを引っ張り、始終一歩先を駆けていた。追いかけっことなると二人の足に適う  
者はなかなかいない。男たちが彼らに追いつくことはまず不可能だった。  
 すでに幾路地もを走り抜け、あるいは曲がっている。  
 夜半特有の湿った、冷たい風が吹く。吹き抜けていく瞬間、再び声がした。  
 
(やっほー)  
 クレスポは石畳の隙間に足を取られてひっくり返りそうになった。  
 トラブルにかまけていてすっかり忘れていた。シャイアラだ。  
 ごめんなさいシャイアラさん実はベルカナが――クレスポが口を開きかけたまさにその時、能天気な台詞が降りてきた。  
(あ、あんた、もういいから)  
「――」  
 は?  
 絶句するクレスポを完全に無視して声は言った。  
(好きに帰って。じゃあねー)  
「……」  
 なんスかそれはー!思わず叫びかけ、すんでのところで自分が今ベルカナを引っ張って  
走っていることを思い出す。なぜか後ろめたさを感じて振り返ってみるが、シャイアラが  
よほど範囲を絞って会話していたのだろう、ベルカナに聞こえていた様子は無い。  
 しかしとりあえずこれでシャイアラさんのことはいいっ!振られた(?)悔しさをかみ  
締めながらも足を進める。こちらがとにかく立て込んでいるので好都合ではあった。――  
知らないことは幸せである。  
 さらに何区画かを通り過ぎ、クレスポは追っ手をまいたことを何度も確認しながらよう  
やく足を止めた。遅れてベルカナもつまずくようにして止まる。その勢いのまま冷たい石  
畳の上に座り込むと、彼女は思い出したように激しく息をつき始めた。クレスポの位置か  
らはベルカナのつむじと頭に結んだリボンだけが視界に入っていて、その表情はわからな  
かった。ただ、ベルカナが地面についていた両拳をぎゅっと握り締めたのだけは見えた。  
 彼女が顔を上げたときの表情は険しいものだった。  
「いったい何をやってますの、貴方は!」  
 彼女はよりによって、昼と全く同じ台詞を、昼とは比べ物にならないくらい憤った声音  
で叫んだ。  
「貴方、あんなくだらないところで命を懸ける気ですか!よりによって鎧も無しで真正面  
から飛び掛っていくなんて、正気の沙汰じゃありませんわ!」  
 クレスポが――実は――真っ当な冒険者であることすら忘れているらしい。一般人にま  
で負けることを予想されていたとは心外だ。それに、と心中で付け加える。別にくだらな  
いところだなんて思わなかったんスけど。  
 
「見たところ武器も持っていませんでしたから、本当に丸腰かと思いましたわ!馬鹿!馬  
鹿ですわ、貴方は!こんなことならシャイアラさんやブックさんが助けてくれたほうがま  
しでした!魔法も使えるし、攻撃を受けるようなへまだってしませんもの――」  
 罵詈雑言の嵐を、クレスポは黙って聞いていた。今となっては何を言われても怒りを覚  
えることは無かった。もともと、何だってへらへらと笑ってやり過ごせてしまう性格だっ  
た。なのに何故ベルカナとはこうもでこぼこした関係になってしまうのか、どうしてそん  
なことを今になって思い出したのかが、クレスポにはわからなかった。  
 今なら、ベルカナのその顔が言っていることと全く逆の感情を描き出しているのが、は  
っきりとわかる。  
 クレスポはベルカナに視線を合わせるようにしてかがみこんだ。実際には身長差にずい  
ぶん開きがあるため、かがんでもなお、視線の高さを同じにするというわけにはいかなか  
ったが。  
「立つっスよ、ベルカナ。……連中に、何にもされてないっスよね?」  
 手を差し伸べるとベルカナはうって変わって、突然何も言うべきことが思いつかなくな  
ったかのように押し黙った。細い肩だけが怒りを表すように上下している。襟元のリボン  
が解け胸元が露わになっているのを見て、クレスポは初めてベルカナを意識したような気  
がした。なぜか照れくさくなり、目をそらす。おかしい。いつもの自分なら嬉々として覗  
き込むところだろうに。  
「……どうして」  
 ベルカナは顔を伏せて言った。再び、その表情が見えなくなる。  
「どうして、私を助けましたの……?わたし、あんなに」  
 その後は声が小さすぎて聞き取れなかったが、大体想像はついた。んー、と唸って、ク  
レスポは口を開いた。  
「俺、誰かとの喧嘩って、三日以上続いたことないんスよね。頭に血が上ってもそのうち  
忘れちゃうし。ほら、俺、馬鹿だから」  
 へら、と笑って続ける。  
「ベルカナこそ、なんでそんなにひねくれたこと言って、ムキになってるんスか?」  
「ひねくれてなんていません!ムキになってなんていません!馬鹿にしないでっ」  
 ぽかぽかと胸を叩かれる。力の無い腕に殴られ、クレスポは困り切って天をあおいだ。  
 
 しかしそれはだんだんとゆっくりになり、やがて止まった。ベルカナの額がこつんとク  
レスポの胸に当たる。クレスポの胸にしがみつくようにしてベルカナはうめいた。  
「わたし……わたし、どうしていつもこうなんでしょう……」  
 か細く、消え入りそうな声が言った。その声は自信なく頼りなげで、とてもベルカナの  
声とは思えなかった。  
「いつもいつも、こんなことしか言えなくて……本当は、もっと……っ」  
 その言葉も途切れ、あとはすすり泣く声だけが聞こえる。しかしクレスポにはそれだけ  
で十分だった。くだらないわだかまりは氷解し、あとには彼女に対するなんとも形容でき  
ない感情だけが残る。  
「ベルカナ」  
 名前を呼ぶ。ベルカナのしゃくりあげる声が一瞬止まった。こんなことをしたら後での  
されるんじゃないかと思いつつ、彼女の頭に手をやる。ゆっくりと、安心させるようにな  
でながら、クレスポは慎重に言葉を選びながら言った。  
「俺だったらもう、わかってるっスから。何言っても大丈夫っスから」  
 言いたいことが伝わっているかどうかはもう、完全に運任せだと思っていた。駄目なら  
もう自分にはその資格は無いと思うし、他にもっと相応しい人間がいるのだろう。ただ、  
だからといって実際にそうなってしまうのも、少し癪な気がした。  
 彼女を見やったちょうどその時、同時にベルカナも顔を上げた。今までに無かったほど  
ごく近くにその顔を見る。  
 ありていに言って、ベルカナの顔はひどい状態だった。ずっと顔をうずめるようにして  
泣いていたから顔はぐちゃぐちゃだし、頬に涙の後も付いている。いつもの凛として冷た  
い、美貌のベルカナには到底適わなかった。しかしクレスポはそれを見てかえって安心し  
た。こうしていると、ベルカナもごく普通の少女だと感じることが出来た。  
 
 涙を拭いてやろうと両手をあげかけ、そして女の子の涙を拭ってやるにはいささか無粋  
な分厚い手袋をつけていることを思い出す。仕方ないので両手をベルカナの背中の後ろに  
回し、その体を両腕で抱くような状態でグラブの留め金をはずそうと試みた。しかしそう  
いったものはこんなとき決まってうまく外れないもので、こちらを見上げるベルカナの顔  
を間近にしながら、クレスポは焦って十秒近くもの時間を費やすことになった。それでも  
やっと金具が開錠のような音を立てて外れた。ほっとした瞬間、そちらにわずかに気をと  
られていたクレスポは、すっと近づいてきたベルカナの大きな茶の瞳に気付かなかった。  
 グラブがクレスポの手をすり抜けて石畳の上に落ちた。  
 
 
 
 自分のしでかしたことに一番驚いたのはベルカナ自身だった。  
「……」  
 唇を離す。そこでやっと、ベルカナは自分のしたことをはっきりと認識した。  
(っ……わたし、何をやっているのですか――――っ!?)  
 頬に手を当て、心の中で絶叫する。顔が真っ赤に染まっているのが自分でもわかった。  
 キス、してしまった。しかも自分から!  
 今にもパニックに陥りそうになりながら、彼女はこのとんでもない状況を何と言い訳し  
ようかと脳をフル回転させ始めた。しかし成立しそうな言い訳を彼女が思いつく前に、突  
然背中に回された手に力が込められた。  
「あっ」  
 引き寄せられ、驚く間もなくもう一度唇が重なる。  
「……んっ……」  
 思わず目を閉じる。不思議なことに、それだけで沸騰寸前だった彼女の脳はすうっと落  
ち着きを取り戻していった。  
 先ほどより少し長めのキスが終わった。閉じていた目をふっと開けると、唇を離したク  
レスポが「あー」と気まずそうな顔をして言った。  
 
「嫌だったら、言っていいっスよ」  
「――――」  
 ベルカナは視線をはずしてうつむいた。答えるかわりに、クレスポの胸に顔を埋める。  
こうしていると安心できる。なら、わたしはこれでいい。  
 背中に回されていた手が頬に移動してきた。躊躇うような間がありながらも、頬を支え  
られて上を向かされる。  
 三度目のキスが始まった。これまでと同じ唇が触れるだけのものから、不意に唇の角度  
をずらされたかと思うと、半開きの唇に舌が侵入してくる。逃げようとする舌を捕らえら  
れ、ベルカナはそのナマコのような感触に身を震わせた。  
「んっ……く……ふ」  
 舌と唾液が絡み合ってくちゅくちゅと音を立てる。口蓋を通り嫌でも耳に届く嫌らしい  
音に、ベルカナは身をすくめながら、同時に感じてもいた。  
 そんなベルカナの心中など知らぬげに、クレスポは舌の動きを激しくしていく。ベルカ  
ナは大量の唾液が流れ込んでくるのを感じた。大きく舌を擦り上げられ、快感が体の芯ま  
で突き通る。  
「んん……っ!」  
 びくりと体を跳ねさせると、ようやく絡んでいた舌が離れ、ベルカナは大きくあえいだ。  
「っは……あっ」  
 呼吸が整わないまま首元に唇を這わされる。頬を覆っていた手が離れ、はだけた部分を  
さらに広げようと動き始めた。ベルカナは目を丸くする。  
(こんなところで……っ?)  
 夜になれば誰も通らないような細く暗い路地ではあるものの、屋外には変わりない。し  
かしベルカナは制止することが出来なかった。このまま一緒にいて欲しいという思いが強  
くなりすぎてしまっていたからだ。  
 少しでも近くにいたい。心がそう渇望していた。  
「やっ……んうっ」  
 肌を吸われるたびに、舌を絡めていたときと同じように強烈な快感が襲ってくる。体が  
だるい。力が入らない。自分がいつの間にか完全にクレスポに体重を預けてしまっている  
のに気付くことさえ、今のベルカナには出来なかった。首をそらし、泣きそうな顔で愛撫  
を受け入れ、そのたびにちいさく声を上げる。  
 
(……こんなに、感じるものなの……っ?)  
 はあはあと息を継ぎながら、誰にも触れさせた事の無い肌を差し出す。白い上衣は既に  
地面に落ちていた。その下のブラウスは肩まで脱がされていて、そこにも赤いしるしが付  
けられた。  
 胸の谷間に手を差し込まれる。ごつごつした指がやわらかい肌の上を撫でるように動き  
回った。やがて頂点にたどり着くと、行為が始まってから初めて、耳元でクレスポの声が  
ささやかれる。  
「まだ発展途上っスねー。でもまあ、これはこれで」  
「……っ」  
 気にしていることをっ!屋外であることも忘れ思わず叫ぼうとしたが、胸全体を大きく  
揉み上げられてその言葉は喘ぎ声に変わった。楽しそうな忍び笑いが聞こえる。  
「この先に期待するっス。揉んだら大きくなるっスかね?」  
「下品なことを言わないでくださいっ……あん……はぁ……っ……」  
 ぴんと背をのけぞらせて、ベルカナはあられもない声を上げた。揉まれ、撫で上げられ  
て、胸の中心は急に本来の目的を思い出したかのようにかたくしこりはじめ、触れられて  
いる指の感触をもっと得ようと震えている。その期待通りに、クレスポの指が頂に触れた。  
ぴりぴりとした感触が体中を支配する。  
「は、ぅん……!」  
 情けないほど震える声を上げてしまう。どうしようもない恥ずかしさに体中を桜色に染  
め、ベルカナはせめて止まらない痙攣を抑えようとぎゅっと両手を握り締め背中を丸めた。  
 残念そうなクレスポの声が聞こえる。  
「あ……やりにくいっス」  
 知るものですか、少しは気を使いなさい!心の中だけで罵りながら目を瞑る。すると突  
然つ、と背筋に指を這わされた。  
「あっ!?」  
 突然の不意打ち。思わず声を上げてしまう。同時に身体から力が抜けた。くたりと身体  
を預けると、腹が立つほど優しく受け止められる。  
「こんな手もあるっスよ。ほら」  
「やあっ」  
 脇腹に触れられくすぐったさに身をよじる。この男、なんてことを……!涙目になって  
 
見上げると、クレスポは実に楽しげにこちらを見返した。その顔に浮かぶ悪戯っぽい笑み。  
この上なく憎らしい。自由にならない身体に業を煮やしてにらみつけるが、クレスポはど  
こ吹く風といったふうに、もう一度ベルカナの背中を抱いた。  
「いー加減あきらめるっス。善がらない女の子なんていないんスから」  
「…………!!」  
 心の内まで読まれている――業腹だ。とても業腹だ。とにかく何か言ってやろうと口を  
開きかけたとき、先んじてクレスポが言った。  
「いつものノリ、戻ってきたみたいっスね」  
 その言葉にベルカナはぽかんとクレスポを見上げた。思わず、口元に手をやる。  
「やっぱ、ベルカナはそのくらいキツい方がらしいっス」  
 言われて初めて、彼女は自分が以前と同じように、クレスポに対して遠慮なく、様々な  
ことを考えていられることに気が付いた。  
(――――)  
 気を、遣ってくれていたのだろうか。そう思うと急に安堵の念がこみ上げてきた。  
「もう……っ」  
 勝手に涙が溢れ出してくる。ぼろぼろと涙を零しながら、ベルカナは笑った。  
「真面目にやってくださいっ……」  
 ベルカナは初めて自分から手を伸ばし、クレスポの身体を抱きしめた。よほど意外だっ  
たのか、クレスポは目を丸くして動きを止めると、さっきまであんなに積極的だったくせ  
に、今は戸惑っている。  
 ほら御覧なさい、わたしだってこのくらい素直になれるんです。――貴方のお陰で。  
 でも決して口には出さない。そうでないと悔しくて仕方ない。  
 誰にも弱みを見せたくない、ひたすらその一念でここまで来た自分にとって、今日の一  
件はその一念を全てひっくり返されるような出来事だった。相応の痛みも伴ったが、かえ  
ってよかった。なんとか一歩、前に進めた気がする。  
 ぐっと腕に力を込めるとクレスポの体温が布越しに伝わってくる。ゆっくりとした動作  
でキスを求めると、クレスポは焦った顔をして彼女の肩に手を掛け引き剥がした。  
 
「ダメっス!俺が攻めてるんスから、ベルカナは受け!」  
 なにやら変なこだわりを披露し(どうせ普段は性格きつめの女の子がこういう時だけは  
男にリードされておとなしくなるのがいいのだとかそういう嗜好なのだろう)、クレスポは  
再び愛撫を開始した。先ほどまでよりずっと大胆になったその掌に、ベルカナは身体中を  
性感帯に変えさせられ、悶えさせられる。  
「ん、ふぁ……っ、はぅ……」  
 大きくはだけられたブラウスはもはや服としての役目をなさず、腰と二の腕とに溜まっ  
ている。控えめな乳房は今や完全にさらけ出され、余すところ無く触れられこね回されて  
様々に形を変えた。  
 その強すぎる感触に翻弄されていると、突然、脇の下に手が入ってきた。かすかな浮遊  
感が彼女の脳をわずかながら覚醒させる。  
 身体を持ち上げられ、膝立ちの状態にさせられたかと思うと、桜色の頂点に舌が触れ、  
音を立てて大きく吸われた。  
「ひ、う…………!」  
 突然の衝撃に、身体は自分でも驚くほどの反応を見せた。びくびくと何度も大きく震え、  
指から足先まで、弦が張られた弓のように反り返る。あまりにあっさりとそうなってしま  
った自分に信じられず、ベルカナは呆然と視線を中空に泳がせた。  
「――――」  
 イって、しまった。胸だけで。  
 そう思ったのもつかの間、脇の手が背中に回され、尻に触れてスカートをたくし上げ始  
める。クレスポが無類の女好きであることを、ベルカナは今更ながら思い出していた。今  
や中堅とも言えるレベルに達する盗賊の技も手伝い手の巧みさは折り紙つきだ。かさむ生  
地をものともせず、彼女のドロワーズを夜気の中にさらけ出す。  
 ドロワーズの、腰の位置に手が触れた。ずるりと引き下げられる感触に嫌でも身体が震  
える。  
 剥き出しになった尻肉に直接触れられる。生々しい指先の動きに、ベルカナはぎゅっと  
身体を縮ませて耐えた。クレスポの両手がその形を確かめるかのように動き回る。  
 大きさはともかく形にはそれなりに自信を持っていたが、実際にどう思われているかは  
わからない。不安にじっと動けずにいると、その手は突然太腿に下りて股間に入り込んだ。  
指先はすぐに彼女の最も敏感な部分へと達する。  
 
「あう――――あっ」  
 喘ぐ声を抑えられない。  
 すでに開き始めている花弁を指がなぞっていくたび、ぞくぞくとした悪寒に襲われる。  
それだけで彼女の秘裂は愛液を絶え間なく分泌し吐き出す。内股は既にぐっしょりと濡れ  
そぼり、割れ目はさらに大きく口を開けていった。愛液の雫が太腿をつたい流れ落ちてい  
く。丈の長いスカートを履いていてよかった。そうでなければとてもそのまま家には戻れ  
なかったに違いない。  
 開ききった陰唇に人差し指が差し込まれる。  
「……!」  
 難なく、彼女の中心はその指を受け入れ、飲み込んだ。  
 ベルカナは声も無く仰け反った。蜜があふれ、また太腿をぬらす。直接触れられること  
によって自分が今どれだけ濡れているかを再確認させられる形になり、彼女は嫌でも自身  
の淫猥さを痛感させられた。  
(わたし、こんなに、やらし……っ……)  
 そう思いながらも溢れる蜜は止まらない。それは指を入れているクレスポにもわかって  
いるだろう。そう思うと彼女は脳が煮えたぎるような羞恥を味わった――恥ずかしい、死  
んでしまいたい。だがその思考は強制的に中断させられた。  
 二本目、中指が続けて進入してきた。  
 一本のみの時と違い、中を押し広げる感覚が彼女を容赦なく苛んだ。痛みは無かったが、  
だからといって苛みが和らぐかと思えば、それは全くの逆だった。痛みより快感のほうが  
よほどたちが悪い。  
「っ、はうっ」  
 今にも崩れ落ちそうな身体にかくかくと膝を震わせるが、かといってそうしてしまうわ  
けにもいかず、ベルカナは必死に震えを押し殺す。しかしそれが彼女の細く白い肢体をさ  
らに燃え盛らせることになった。  
(……!……そんなに、掻き回さない、でっ……!)  
 秘密の場所で愛液と気泡、そして指が絶え間なく混ざり合ういやらしい音が聞こえるよ  
うな気がする。耳を塞ぎたくなる衝動に駆られるが、全く言うことを聞かない身体ではそ  
れもできない。耐え切れなくなり身を悶えさせるが、それが本当に恥ずかしくて悶えてい  
るのか、善がって悶えているのか、自分でもわからなくなってくる。  
 
そして、ある一瞬を経て、彼女の身体は突如変化した。  
「――――!?」  
 身体の中心にこれまでになかった感覚が生まれる。身体がふわりと持ち上がるような感  
覚。雑多な全ての感情を失う感覚。  
(っ――何ですの、これ……っ?)  
 心のうちで小さく叫ぶ。いや、正確には、彼女はそれが何なのか知っていた。自分です  
る時にも感じる、恥ずかしさと気持ちよさが完全に逆転する一瞬だ。しかしそれは自慰の  
時とは比べ物にならないくらい強く、そして完璧な一瞬だった。わずかに残っていた意識  
はあっという間に押し流され、繋ぐものも無く糸の切れた凧のごとく消え去った。  
「あ、ん……!ふあぁ、あ、あ、あっ」  
 声が勝手に唇を割って出て行く。強い酒で酔わされたかのように身体が熱い。身体の芯  
が度重なる愛撫によって完全に開花し、このまま治まることを許してくれない。さらに強  
烈な快感を欲して彼女の身体を、精神をも侵食していく。もう少し。もう、少しで―――  
―  
 気がつくとベルカナは上擦った声で懇願していた。  
「はっ、あっ、あっ……もっと、っ…………もっとおっ…………!」  
 応えるように指の動きは強さを増した。腹を擦り付け、彼女のより感じる部分をひとつ  
ひとつ探り出していく。動きも複雑さを増し、まるでピアノでも弾くように、二本の指は  
水音を立てて彼女の中を掻き回した。  
 そしてばらばらに自分勝手に動いていた指が、突然ある一点をえぐるように刺激した刹  
那、ベルカナの脳裏に強い火花が弾けた。  
「っ、ひぃんっ――――!」  
 二度目の絶頂。頭の先からつま先まで感覚を失い、待ち望んだ脳を焼くような快感に身  
を震わせる。身体中に力が入り、そして一気に弛緩した。力の抜けきった身体は尻餅をつ  
こうとするが、むきだしの尻を支えられていてかなわない。膝立ちのまま、彼女は長い余  
韻に浸ることになった。  
「あ……はぁ……」  
 クレスポの両肩に手を置き、脱力する身体を完全に預ける。クレスポのつぶやくような  
声が聞こえた。  
 
「……今の声、良かったっスよ、ベルカナ」  
 どさくさにまぎれて胸の谷間に顔を埋められるが、もはや憎まれ口を叩く気も起きない。  
二度も達したにもかかわらず、まだ花芯が疼いてどうしようもない。完全に目覚めさせら  
れた身体は本人の意思とは無関係に内側の痺れを訴え、胸に感じる顔の感触だけでも勝手  
に昂ぶっていく。  
 その時ようやく、クレスポがつと顔を上げ、遠慮がちに言葉を発する。  
「……その、なんだ。そろそろいいっスか?」  
「……」  
 目を丸くしその言葉の意味を反芻する。ついでかっと赤くなり、ベルカナはしどろもど  
ろになりながら言った。  
「よ、良くないわけないでしょうっ、この鈍感男っ」  
 むしろ待っているというのに――。羞恥心に負けてその言葉を飲み込み、ベルカナはぎ  
ゅっと目を閉じた。そのため、その答えにクレスポがどういった表情をしたのかはわから  
なかった。ぶつぶつとつぶやく声。  
「ここじゃ、寝かせたら痛いっスよね……どうしよ」  
 膝で感じる石畳の冷たさ。確かに痛いだろうが、冷たくて気持ちよさそうだった。よほ  
ど構わないと言おうかと思ったが、その前にクレスポがひょいと彼女の身体を持ち上げた。  
「やっぱ、このままで」  
 そう口にしてベルカナを完全に立たせる。貧血に似たようで全く違う、柔らかい眩暈が  
ベルカナを襲った。愛液が線を描いた脚はふらつき、背後の壁に背中をもたれさせる。背  
中に全体重を預けて大きく息をついていると、ベルトのバックルを外す音が聞こえた。顔  
を上げると、充血し屹立したそれが目に飛び込んでくる。  
「――――」  
 真っ赤になって目をそらす。さすがに、それを目にしたのは初めてだった。前だけを開  
いたクレスポも気持ちとしては同様だったのか、  
「……うー。ちょっと恥ずかしいっスね」  
 そう言い、照れをごまかすように覆いかぶさってくる。腰に触れられると再びぞわっと  
感覚が昂ぶってくる。再び引き寄せられるかと思った時、  
 
「あ」  
 何かに気が付いたようにクレスポが声を出した。訝しく思って見上げると、彼は「ちょ  
っと失礼」とばかりに身を屈めた。左足、膝の後ろに手を添えられ、持ち上げられる。  
「な……何を!?」  
 膝は自然に折れ、左足だけを持ち上げた状態になる。壁についた背中と両手、右脚で必  
死にバランスを取りながらベルカナはこれまで以上に頬を染めた。小さく叫ぶ。  
「や、やめてくださいっ」  
「そんな事言ったって、下着、足から抜かないと出来ないっスよ」  
「やあっ……!」  
 たまらずベルカナは顔を背けた。こんな格好をさせられたら……。するするとドロワー  
ズが足から引き抜かれていく。下着が踵にかかり一番足を高く上げさせられた時、ベルカ  
ナは悲鳴ともとれる声で懇願した。  
「み、見ないでっ……お願いっ」  
 もう出尽くしたと思っていた恥ずかしさだったが、まだ残っていたらしい。その懇願が  
余計にクレスポの視線を釘付けにするだけだということがわかっていても、そう叫ばずに  
いられなかった。  
 ドロワーズが右脚から完全に抜かれた。同時に、ベルカナの秘められた場所が、捲れ上  
がったスカートの下から慎ましげに顔を出す。  
「……!」  
 両手で顔を覆って視線に耐える。クレスポの身体がゆっくりと沈んで、頭がペチコート  
の中に入って来るのを、ベルカナはただ震えて待つしかできなかった。  
 足は持ち上げられ開かされたままだったが、持ち上げられていた左脚は、入り込んでき  
たクレスポの肩に掛けられたことがわかった。  
 割れ目をぞろりと舐めあげられる。  
「あ、くううっ!」  
 指ほど硬くなく、生暖かい未知の感覚に、ベルカナはまた泉から水が湧き出してくるの  
を感じた。そんな浅ましい自分を目の当たりにするのがまた恥ずかしく、いやいやをする  
ように頭を振る。さっきまで指を入れられねだっていたにしても、それは変わらない。ま  
してや舌で舐められている。指だけでは決して感じられない気色悪さに、どうしてかベル  
カナの声はさらに艶を増していった。  
 
「ああっ……舐めるのはダメっ、舐めるの……ん、くふぅ」  
 言葉と裏腹に、身体にはすぐに火がついた。顔にやっていた掌はいつの間にか離れ、背  
中の壁を拠り所にしている。これ以上の快感から逃れようと、彼女は必死に身体をくねら  
せた。  
 それがわかったかのように、クレスポの舌が割れ目を往復する。何度も、何度も。  
「んっ、あっ、あっ、あぁ、っひあ」  
 身悶えていると、やりにくかったのか両腕で太腿を固定されてしまった。さらに激しい  
舌使いが彼女を再び高みへ押し上げていく。  
「はああ、あっ」  
 どうしてこんな……!そう思った瞬間、新たな負荷が加わった――しとどに濡れる入り  
口よりもわずかに前、こりこりとした感触のそれに。  
(そ、そこは駄目、ダメです、やめてぇっ――――!)  
 その叫びも虚しく、つぶらな肉芽を捻られる。十本の指を残らず壁につき立て、彼女は  
三度目の絶頂を迎えて喉を反らせた。闇夜に浮かび上がる白いおとがい。  
「…………っ!」  
 がくがくと身を震わせ、果てる。背中に当たるひんやりとした石の壁が気を失わずにい  
させてくれたようなものだ。立ったまま行為を続けることに今度こそ耐えられず、ずるず  
ると尻餅をつく。そこでやっと、クレスポがペチコートの中から頭を抜き出した。  
「っ、はっ……ごめん、つい。順番狂ったっス……」  
「馬鹿あっ」  
 こんなに激しく、何度もイったのは、当たり前だが初めてだ。好きなように嬲られ、あ  
まつさえ悦ばされてしまう。これが気を許した弱みというものだろうか?しかも当の相手  
がわかってやっているであろうことが始末に終えない。  
 その考えを証明するかのように、クレスポが口の周りを無造作に拭き、口を開いた。  
「ベルカナ、恥ずかしいの好きでしょ?」  
 にやにやしながら言う。  
「すっげ、濡れてた」  
 つい出てしまった笑顔といった感で嫌な笑みではなかったが、ベルカナの羞恥を倍加さ  
せるには不足なかった。  
「……!!もう、知りません!」  
 
 知りたくなかった自分ばかり見せられてしまっていると、最後にはそれを容認するしか  
なくなる。ベルカナは負けを認める代わりにぷいとそっぽを向いた。  
 正面から肌が触れ合うくらい近づかれ、腰を抱かれる。ベルカナは抵抗することも無く  
それを受けた。膝の下にクレスポの腿が入ってくる。自然に膝を立て、開く形になった。  
「……」  
 目を瞑って恥ずかしさを追いやる。両腕をクレスポの肩に回す。間もなくして襲ってく  
るであろう痛みに対し、形だけでも準備しておく必要があった。  
 しかし、入り口に何かが触れると身体にやわらかく痺れが走った。  
「あっ……」  
 甘い声を上げる。あてがわれる先端にまた水音が鳴った気がした。  
「――わたし、はしたない子……なんでしょうか……」  
 思わず声がこぼれる。  
「え?」  
 いきなり問われ、クレスポの動きが止まる。ベルカナはクレスポの肩をぎゅっと抱きし  
めた。  
「こんなに……その……濡らしてしまって……」  
 不安が、瞑ったままの鳶色の睫を彩る。恥ずかしげに身をせばめ、ベルカナは言葉にし  
にくい言葉を吐き出した。  
 そんな心境を知ってか知らずか。クレスポは実にあっさりと返答した。  
「何で?俺のこと好きだからなるんでしょ?」  
「……」  
 ベルカナはあまりに短絡的な答えに呆れて言葉をなくした。その根拠のない自信はどこ  
から来るのか。  
 でも、  
「……そう、ですわね……」  
 ベルカナはいつの間にか微笑んでいた。  
 
「……たまにはいいことを言いますわ」  
 改めて、彼女は確信した。この男のこういうところに、わたしは気を許したのだと。そ  
の言葉にクレスポは普段と変わらない、いたずら小僧の声で応えた。  
「いつもっスよ……っ!」   
 その台詞とほぼ同時、クレスポがベルカナの中にずぶりと分け入ってきた。  
 
 
 
(!……入って……っ――――)  
 引き裂くような痛みに全身を震わせながらも、持ち前の気丈さで押さえ込む。それでも  
腕に力がこもり、クレスポの背中に爪を立ててしまったことは仕方ない。  
「……っ…………きつっ……」  
 耳元で苦しげにうめく声が聞こえる。クレスポも自分と同じように苦しいのだろう――  
それが痛みと快感という対極に近いものであるにしても、同じように分かち合っていると  
いうことが、彼女には純粋に喜ばしいものだった。  
(……男の人は、今くらいしか、気持ちよくなれないのですものね……)  
 どこでだったか、男性は乳首と性器くらいにしか性感帯がないと読んだ(あるいは聞い  
ただったかもしれない)気がする。本当にそうなのかしら、いい機会だから次はわたしが  
彼を『開発』して、おもいきり恥ずかしい思いをさせて差し上げましょう――今回の意趣  
返しを目論見ながら、必死に痛みを逃そうと試みる。  
「はあっ、は……っ」  
 大きく息を吸い、吐く。自分の腕と同様、背中に回されたクレスポの手が背をさすった。  
「全部、入った……。痛いっスか?」  
「っ……平気、ですわっ……」  
 平気ではなかった。膣内はずきずきと痛み、喋ることすらやっとといった有様だ。しか  
しベルカナは絶対に痛いと言わない心積もりでいた。男にここまでさせてまだ弱音を吐く  
というなら、わたしがそこまでの女だったというだけのことですっ!自分でもわけのわか  
らない意地を無我夢中で張り通す。  
 
 と、突然クレスポが耳元でささやいた。  
「ウイップ」  
「……」  
 わけがわからず身体を離す。冗談はやめて、と言おうとし、口ごもる。彼女はふと尋ね  
た。  
「何、ですの?それは」  
「しりとり」  
 クレスポはそう言って再びベルカナの背中をさすった。  
「ベルカナ、痛いでしょ?そう言っていいんスよ。俺も正直、気、紛らわせたいんス」  
「っ、気を、遣って、貰おうだなんて」  
 思いません――言いかけた唇を塞がれ、不覚にも彼女は感じてしまった。痛みを受け取  
っているだけだと思っていた内壁がクレスポのものをわずかに締め付ける。  
 唇を離すと、快感からか、眉間に皺を寄せながらもなんだか物欲しそうなクレスポの表  
情とぶつかる。  
「……甘えて欲しいんスけどねー、こっちとしては」  
「――」  
 何もかも身を任せてしまいたい欲求に駆られながらも、ベルカナはすんでのところで踏  
みとどまった。小さく舌を出し、言う。  
「ご、め、ん、ですわっ」  
 絶対に痛いとは言わない。だがその代わり、しりとりには付き合ってやることにする。  
「フレイル」  
「えっ」  
「ふ、でもいいのでしょ……?」  
「あ」  
 クレスポは多少ばつが悪そうに続けた。  
「えーと、ルーンマスター」  
「あ……アンデッド」  
「ドワーフ」  
「また、ふ、ですの?ファミリアー」  
 
 他愛もないやり取りが続く。それほど長い時間ではなかったが、そうしているうちに身  
体は完全にではないにしろ落ち着きを取り戻してきていた。ベルカナの息が整ってきたこ  
ろ、しりとりも自然に打ち切られる。  
「……悪ィけど、動くっスよ……」  
 クレスポが少し腰を上げ、動きやすいように姿勢を変えた。ゆっくりと動き始める。  
「ん、んんっ」  
 声が漏れる。痛い、けれどさっきよりはずっとましになっている。ベルカナはクレスポ  
にしがみつきながら耐えた。なんとか耐えられるようになっていた。立てていたままの脚  
が邪魔になり、伸ばす。右脚にはドロワーズが引っかかったままだったがなんとか向こう  
側へやった。  
「――」  
 そこまでした時、クレスポの動きが変わった。ぐっと身体が持ち上げられる感覚。  
「はっ、あ!?」  
 突き上げられる。それほどの衝撃ではなかったにせよ、ベルカナを悶えさせるには十分  
だった。ずっ、ずっ、と、長いものが中で擦られているのがわかり赤面すると同時に、こ  
んな風に律動して勝手に送り込まれてくる激しい痛みには免疫が無く、どうしても声を上  
げてしまう。痛みではあるが、それだけではないような気がする。ぼうっとした頭でそん  
なことを考えた。  
 自分の表情が痛みしか訴えていないだろう事が切なかった。必死にクレスポにすがり付  
いて、顔だけでも見られないように身を縮める。  
「くうっ、ふ、あ、ひ、あっ」  
 もっと抱きしめてもらったらこの痛みにも堪え切れるかもしれない――揺さぶられなが  
らも身体を擦りつけ、抱きついてもっともっととねだる。応えてか、背中に回された腕が  
強さを増した。  
 身を焼かれるような熱さにベルカナは仰け反った。責めたてられている部分は深く突き  
入れられるたびに淫靡な水音を奏で、彼女の声を大きくしていく。  
「あっ!あぁあ!」  
 ひときわ高い声をあげてしまったとき、彼女はやっとあることを思い出し、背筋が寒く  
なった。ここは街中で、屋外だ。これまでだったら『猫の鳴き声』で済んだかもしれない  
が、ここからはそうはいかないだろう。  
 
(駄目、やめてっ――)  
 再び突き上げられる。心のうちで叫びながらも声は止まらない。これまでで最も大きな  
羞恥が心の中を埋め尽くす。全身に震えが走った。  
「あ、あっ、ああ」  
 その時、肩に手がかかり、真正面を向かされた。  
「んっ……!」  
 突然唇を奪われる。苦しさに瞳を潤ませるが、鼻と、わずかに開いた唇の隙間から必死  
に息を継いでやり過ごす。痛みも絡む舌の生暖かさに、少しでも気がまぎれた。  
「んくっ、ん、んんっ、はっ、あっ」  
 舌を絡め、唾液を飲み下し、あるいは身体の中心を抉られる。それらが彼女の中でごち  
ゃ混ぜになり、身体と精神の許容量を超えて溢れ出して来る。ベルカナは自分の限界が近  
いことを知った。  
 律動が大きく、早くなっていく。クレスポも絶頂が近いのだろう。しかしベルカナには  
構っている余裕はなかった。キスにも集中できなくなり、唇が離れ始める。  
「ん、くふ、う!んっ、ん」  
 ただひたすら、声を抑えて耐える。それでも最後は声が出始め、最終的には何も考えら  
れなった。  
 深く深く貫かれる。身体が大きく持ち上げられた。  
「んっ、あ、ふぁ、ああ、ああっ、ああああああぁぁ!」  
 痛みに意識を飛ばす。閉じた視界が真っ白に染まった。膣の中で何かが大きく脈動する。  
彼女の中心がくわえ込んだそれを離すまいと締め付け、貪欲に貪っているのを感じる。  
「――――」  
(あ……あ……)  
 まだ身体が震えている。その感触を最後に限界を迎え、ベルカナはふっと目を閉じた。  
 
 
 
 翌朝。  
「……」  
 報酬を受け取りに来た盗賊ギルドで、マロウはぽかんと口を開けた。  
 
 席にいたのはブックとベルカナ、クレスポ。ブックとベルカナは同じテーブルについて  
いて、片方は積まれた金銭を前に算盤を弾き、もう片方はお嬢様らしく行儀良く着席して  
いる。クレスポは席には付いていないものの、以前と変わった様子は無い。  
 開いている口をようやく閉じて、とりあえず声を掛ける。  
「ええと……おはようだ、みんな」  
「よう、マロウ」  
「おはようございます、マロウさん」  
 計算に集中しているらしいブック以外が挨拶を返してくる。そこに昨日の気まずい雰囲  
気は無かった。そればかりか以前よりも、微妙ではあるがやわらかい空気のような気が…  
…。鈍感ではあっても空気は読めるマロウには、かえってなんとなく居心地が悪かった。  
そろそろとテーブルを回り込み、ブックの傍までたどり着く。  
 そこでブックがやっと顔を上げた。テーブルの上でぱちぱちと算盤の音を鳴らしながら  
振り返る。  
「ああ、マロウさん、おはようございます」  
「ブックどん……あの」  
 小声でブックの名前を読んで、視線をちらちらと二人のほうへ向ける。しかしブックは  
視線で示されただけで何を尋ねたいのかわかったようだった。小さく肩をすくめ、こちら  
も小声で答える。  
「仲直りしたようですね?」  
「……だな……」  
 頷きつつも腑に落ちない表情。げっそりとした様子でマロウは言った。  
「オラの昨日の悩みっていったい……」  
 ブックは積まれたコインを等しく皮袋に放り込みながら答える。  
「どうせそう長くは続かないって事ですよ、諍いなんてものはね――さあ、昨日の報酬の  
分割です。皆さん、お持ちください」  
 揃っているメンバーは四人だが、テーブルにはじゃらりと五つの皮袋が置かれる。シャ  
イアラはいつもの朝寝で欠席だ。結局はブックが二人分持ち帰ることになるが、几帳面な  
彼はいつもこうして目の前でわざわざ五つにわける。  
 
「やったー!」  
 クレスポが元気良くさっと手を出す。どれも額は同じなのだが、一番乗りすれば中身が  
増えるとでも言わんばかりに目の前の袋にタッチした。正確には、一瞬早くその袋の上に  
置かれたほっそりした手の甲に。  
「……あれっ」  
「……」  
 正面のベルカナと視線が合う。  
「……気安くさわらないでいただけません?」  
 ベルカナは白い目でクレスポを見つめ返すと、そのまま手を抜き出すようにしてぱっと  
袋を取り上げる。そしてそ知らぬ顔でぷいとあさっての方を向いた。  
「わたしが先に取ったのですから、これはわたしのものです」  
「あっ、ズルいっス!俺もそれがいいっ」  
「どれも同じでしょう?あなたは他のにしてください」  
「横暴だーっ!」  
 あきれたことに、他と全く違わないそれを巡って奪い合いになる。さっと袋を後ろ手に  
隠すベルカナ、それを追いかけてテーブルを回り込むクレスポ。クレスポには盗賊のスキ  
ルがあるが、ベルカナは小柄で素早い。まるでひとつしか持ち帰れなかった魔法のアイテ  
ムを奪い合うかのような激しい争奪戦が始まる。昨日と同じく、ギルドの人間の視線が彼  
らに集中した。  
 マロウは普段のように「恥ずかしいからやめなさい」と止めに入ることすら忘れ、ぼけ  
っとその様子を眺める。改めて、  
「……いつもどおりだなあ」  
 と感じる。  
「いつもどおりですねえ」  
 ブックが呼応した。現在、戦況は膠着状態に陥り、互いに互いの隙をじっとうかがって  
いる。じりじりと踵を動かしながらクレスポが言葉を発した。  
「いい子だからそれを渡すっス、ベルカナ」  
 腰を低くし、いつでも動ける体勢で、ベルカナが答える。  
「それはこちらの台詞ですわよ、クレスポさん。わたしのほうが年上なのですから、貴方  
が譲るべきですわ」  
 
「それフツー、逆じゃないっスか?」  
「あら、そうですわね。なら訂正しましょう――クレスポさんはあらゆる場面で押し並べ  
て、わたしに事を譲るべきですわ」  
 ぶーぶーとひとしきりブーイングを発してから、クレスポはついといった様子でぼそっ  
と漏らす。  
「素直じゃないっスねー。……昨日はあんなに」  
「――その事を一言でも口にしたら、即刻あなたを闘技場まで引きずっていってミノタウ  
ロスの檻の中に放り込んでドアに『ロック』をかけて差し上げますわっ!」  
 口にしかけた刹那、ベルカナが夜叉の表情で怒鳴る。クレスポは反省の色も無くへらへ  
らと続けた。  
「またぁ、照れてる照れてる――ごふっ」  
 ついに手が出た。女の子の定番であるところの平手ではなく、容赦ない拳の一撃だった  
が。きれいな右ストレートがクレスポの腹にめり込んだ。どしゃ、とくずおれ、クレスポ  
がうめき声を上げる。  
「……い……いいパンチっス……ベルカナ……」  
「お黙りなさいっ!」  
「和むだなぁ……ってクレぽん死にそうだべ」  
「和みますねぇ……まだ大丈夫なんじゃないでしょうか」  
 気付かないマロウに気付かないふりのブックが続ける。ブックは少し頬を掻いて、口の  
中だけでつぶやいた。  
「世はなべて、とはうまいこと言ったものです」  
 シャイアラはここまで予想していたのだろうか?だとすれば、まだまだ彼女に学ぶとこ  
ろはたくさんあるだろう。知識人のグラスランナーは可愛らしく腰に手を当て、未だ惰眠  
をむさぼっているであろう怠慢エルフのことを思い出していた。  
 
 

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