「さすが、見事なモンですね〜」  
マウナの持つナイフがひらめくたびに、クラウスは感嘆の声を上げる。  
「ふふ、そんなことないですよ。毎日やってればこれくらい普通ですって」  
謙遜はするものの、褒められて悪い気はしない。マウナは上機嫌でさらにナイフを動かす。  
2人がいるのは青い小鳩亭の台所。もう夜も更け、にぎやかに冒険者を迎えていた店もとっくに閉店している。  
雑談しながら店の片付けをすすめる中で、どういう風の吹き回しか、  
クラウスがマウナに料理を習いたいといってきたのだ。  
とりあえず腕の確認を、とまずは芋の皮剥きなどさせてみたわけだが、  
普段クラウスは店の裏で力仕事をしたり、仕入先に自ら出向いて交渉したりと、厨房には回ることはない。  
そんな、今まで料理などしたことのない人間である以上、当然野菜の皮剥きなどもやったことはなく……  
「俺のほうは、やっぱ無残な出来で」  
苦笑するクラウスの前には、ひどく角ばってしまった芋が積まれている。  
「そんなことないですって。初めての割には上出来じゃないですか」  
そういってマウナは笑う。実際、初めてイリーナに料理を手伝わせた時のことを思えば十分及第点だ。  
「刃物には慣れてるから、もうちょっとうまくいくもんかと思ってたんですが」  
「ふふっ、剣とは全然違いますからね」  
クラウスにとっては、恐ろしい魔物達よりも、手のひらよりも小さな芋のほうが強敵らしい。  
真剣な顔で芋とナイフを握るクラウスを、マウナは微笑ましく思う。  
並んで厨房に立つ自分たちの姿は、端からはどんな関係に見えるのだろうか。  
 
 
 
青い小鳩亭主人夫婦の養子である自分と、夫婦の甥っ子であるクラウス。  
イリーナ達は、自分とクラウスが将来一緒になって青い小鳩亭をきりもりしていくと信じきっている。  
養父母も、クラウスと結婚するかは別としてもそれを望んでいるようだ。  
小鳩亭に訪れる冒険者には、すでに若夫婦だと思われているふしもある。  
 
だが、実際には自分とクラウスの間では、約束していることなど一つもない。  
 
クラウスに好意は持っているし、向けられている自覚もある。  
だが、お互いにそれをはっきりと口に出したことはなかった。  
はっきりしない関係のじれったさに、自分から告白してしまおうか……などと思ったこともあった。  
けれど、自分の中のなにかがそれを押しとどめる。  
 
 
――自分は、大切なものを作るのが怖いのだ。  
 
 
今までにも、いくつも大切に思えるものはあった。  
けれど、それらは、ことごとくマウナの手の中から失われていった。  
お守りだったスカーフ、放火された青い小鳩亭、そして――仲間であったイリーナまでも。  
青い小鳩亭もイリーナも、今はまた元通りマウナの傍にある。  
けれど、また失ったら? 今度こそ戻ってこないかもしれない。  
青ざめた顔、冷たい手のひら、泣きじゃくり、うちひしがれる自分たち……。  
イリーナの命が失われた時。それらは今だって、ふとした瞬間にはっきりと瞼の裏によみがえる。  
当時のことを思い出したせいか、背筋に走った悪寒にマウナは両腕を抱きしめた。  
イリーナが死んだ時、今までに見たことがないほどに真剣な表情で、  
てきぱきと指示を出していたヒースの姿を思い出す。  
彼女が復活できたのも、彼の迅速な動きがあってこそだろう。  
神殿に押しかけて散々無礼を働いてしまったと聞いたときは呆れ、  
最期まで格好つけられないヒースらしいとも思いはしたが、  
それもイリーナを復活させたいがためだったはずだ。  
その時ただ泣くだけで、うろたえてばかりいた自分が、恋人が死んだ時にそこまでできるのか……  
ノリスにしろイリーナにしろ、復活の奇跡に縋れたのは本当に運が良かったのだ。  
次に誰か失った時、今度こそ奇跡は起きないかもしれない。  
そして、それが自分の恋人だったら――  
そうなったらもう、きっと自分は立ち直ったりはできない。  
仲間の一人にとどめておけば、きっと悲しむだけですむはずだ。  
これ以上、クラウスに深入りしないほうが、きっと――  
 
 
「……ナさん、マウナさん?」  
「―――え?」  
「どうかしましたか?」  
ふと気がつくと、クラウスの顔が間近にあった。  
「え?! あ、いえ、その」  
「顔色が悪いようですが……大丈夫ですか?」  
考え事をしているうちに、自分の世界に入りきってしまったらしい。  
「いえ、ちょっとボーっとしちゃって……」  
「すいません、今日もちゃんと仕事があったのに  
俺がこんなこと頼んじゃったせいで。もうお疲れでしょう?」  
クラウスはすまなそうに頭を下げる。  
(結局、誰にでも優しい人なのよね……)  
ふっとそんなことも思う。  
彼は基本的に礼儀正しく、露骨に敵意を向けてくるエキューに対してもそれは変わらない。  
思い返せば、感情的になったところだって見たことはないような気がする。  
彼が向けてくる好意はいつも穏やかなもので、世間一般でいう恋のような激しさは見当たらない。  
(エキューほど……とは言わないけれど、せめてあの半分でも態度に出してくれるなら、  
こっちも気持ちを固めようってものなのにな……)  
マウナが感じている好意も、結局のところ仲間に対する好意であるかもしれないわけだ。  
想いを受け止めてもらえるはずだ、と自分から告白して、  
もしクラウスの方はそんな気がなかったとしたら……  
それを考えるといつだって、恋の予感に浮かれていた気持ちは一瞬で冷え切ってしまう。  
振られてもいいからなんて、なりふり構わずに彼に対して愛を求めることなどできない。  
 
「……あの、本当に大丈夫ですか?」  
「へっ? あ……」  
ほんの短い間だったようだが、また思考に没頭してしまっていたらしい。  
気遣わしげな表情のクラウスが顔を覗き込んでいた。  
「今日はここで終わりにしましょう。俺が片付けておきますから、先に休んでください」  
クラウスはマウナを椅子に座らせると、手早く芋の山や床に散乱した皮を片付けてゆく。  
あわててマウナも手伝いにかかった。  
「そんな、クラウスさんだけにやらせるわけになんかいきませんよ」  
「いえ、そもそも俺がお願いしたことですからね。このくらいやらせてくださいよ」  
朗らかに笑いかけてくるクラウスの顔を見ると、  
彼の気持ちがどうだこうだと考えていた自分がなんだか恥ずかしくなる。  
ごちゃごちゃ考えたりしないで、もっと素直になれれば良いのに――と、マウナは小さく溜息をついた。  
使っていたナイフをまとめて水桶につけようとする。と、その瞬間、  
「痛っ……」  
指先に鋭い痛みが走り、手の中からナイフが滑り落ちる。  
不注意だったせいか、ナイフを持った時に薄く指先を切ってしまったようだ。  
ひっかいただけに見えるような傷の上に、じわりと血の玉が浮かんでくる。  
普段なら絶対やらないような失敗に、マウナは再び溜息を漏らした。  
小さな傷とはいえ、やはり水に浸かるとしみるし、  
包丁を握ったり皿を運んだりする時には力を入れると痛んでしまう。  
かといってヒーリングするような傷ではないし、包帯をまくのも大袈裟すぎる。  
どうしようか、面倒だなあ、などと傷を見ながら考えていると、あわててクラウスが飛んできた。  
「切りましたか?!」  
「あ……はい。でもそんなたいした傷じゃ」  
引っ込めようとした手をクラウスは強引に取り、彼女の指先をじっと見つめる。  
傷を確認するためとはいえ、手を握られたことにマウナの頬はわずかに紅潮した。  
普段から水仕事をしたり弓を使うことで、どうしても指先は荒れ、固くなってしまう。  
働いている手を恥じようとは思わないけれど、それでもなんとか見た目が悪くならないように――と、  
湯を浴びた後や寝る前には手入れをかかしていなかった。  
普段から気をつけていて良かった、と内心マウナは安堵する。  
「うん……このくらいなら、すぐ直りますね」  
「そうでしょう?」  
だから手を離して…と、口に出す前に、クラウスがマウナの指に顔を寄せた。  
「……っ?!」  
止める間もなく、マウナの指は彼の口にくわえられていた。  
つううっ…と、傷の上を生温かく湿ったものが這う。  
(ししし舌がっ!!)  
指先に伝わる、ちりちりとした痛みとぬるついた感触。  
傷口を舌でぬぐわれるたびに背筋がぞくぞくする。  
舌の感触が気持ちいい、と一瞬感じ、次の瞬間マウナの顔は羞恥に紅く染まった。  
(て、手当てだってのにあたし……気持ちいいだなんてっ……)  
傷の大きさからすればほんの数回ぬぐうだけで血は止まるだろうに、クラウスの口はなかなか離れない。  
執拗と言えるほどにマウナの指を舐り、舌を這わせている。  
 
(っ…く……)  
握られた手がひどく熱い。その熱が身体中に広がっていくようだ。  
心臓の音がひどく大きく聞こえる。  
必死にかみ殺していないと吐息が漏れてしまいそうで、マウナはたまらず口を押さえる。  
クラウスの顔は伏せられ、その表情もうかがうことは出来なくて、  
そして自分の顔も見られていなくて良かったと心から思った。  
「ひっ…!」  
不意にびくっ、とマウナの身体が跳ねた。  
クラウスの口が、舌が、徐々に移動している。傷などない指の上を舌が這い、唇で甘く挟む。  
「うぁ………っ」  
指の間から吐息が漏れた。  
握られた手が、指が、身体全体であるかのように感じる。  
彼の舌がすべるたびに全身が震えた。  
口を押さえていた手はもう役にはたたず、それでも声をこらえようと、マウナは唇を噛み締める。  
彼女の押し殺した喘ぎが聞こえているのかいないのか――クラウスは顔を上げることなく、  
ただただ彼女の手に愛撫を続けている。  
指先から根元へ向かって舌が這い、手のひらに口付け、指の腹で手の甲を摩る。  
マウナにも、もうそれが手当てなどではないことはわかっている。  
けれど、手を振りほどくことが出来ない。  
元々が手当てだったはずの行為を気持ちいい、と思ってしまった  
後ろめたさが、マウナから制止の言葉を奪った。  
口を開けば、どんな事を言おうとしてもそれは喘ぎに変わるだろう。  
それだけは聞かせてなるものか、と強く噛み締めた唇に痛みが走る。  
「っく……ぅ」  
ただ手を触られるだけで、どうしてこんなに身体が熱くなるのか、マウナにもわからない。  
異性に手を触られたことが無いわけじゃない。  
酔っ払い相手に料理を渡す際、わざとじゃないふりをして手を握られるのなんて日常茶飯事だ。  
――それなのに、どうして今はこんなにも身体が反応してしまうんだろう。  
多分わかっている。けれどわかりたくない。  
はっきりと、自分たちの関係を明確にしてからじゃないと、  
“そういう行為”に喜ぶ自分を認めることが出来ない。  
(……だめ)  
けれど、クラウスの舌が這うたびに、マウナの手を握る彼の手の強さが増すたびに、  
彼女の理性は少しずつ押し流されてゆく。  
彼を引き寄せて、抱きしめ、すべての思いを打ち明けたいと身体が叫ぶ。  
(…………だめ)  
これ以上は駄目だ。恋人ではないのだから、これ以上許してはならない。  
口を開いて、ただ一言「やめてください」、と。そう言えば良いだけだとわかっているのに、  
言葉が嬌声に変わってしまいそうだから、そんな声を彼に聞かせたくないから、  
それだけの理由で唇は強く引き結ばれてしまっている。  
(だめぇっ……………)  
がくがくと両足が震えた。今にもへたりこんでしまいそうな身体を気力だけで支える。  
身体中が熱を持ち、まるで全身を愛撫されているかのようだった。  
 
もうだめだ、これ以上耐えていたら、彼に全てをささげたくなってしまう。  
マウナは食いしばった歯の隙間から一音一音搾り出して、彼の名を呼んだ。  
「ク、クラウ、ス、さ……」  
「――あ」  
クラウスはその声にはっと我に返ると、はじかれたように口を離した。  
その表情は呆然としており、まるで自分のした行為が理解できないかのようだった。  
わずかに頬が紅潮している。  
「えっと……その………」  
言い訳の言葉を捜すように、クラウスの視線が宙をさまよう。  
けれど、結局言葉は見つからずに、黙り込んでしまった。  
マウナの口も、言葉を忘れてしまったかのように固まっている。  
けれど、握った手は離れないままだった。振りほどくこともできない。  
永遠とも思えるような静寂を、先に破ったのはクラウスだった。  
「……………すいません」  
視線を床に落としたまま、搾り出すように謝罪を口にする。  
なんでいきなりあんなこと、とか、怒ってます、とか、色々言いたいことはあったはずだった。  
けれど、マウナが返した言葉は、  
「……謝らないで下さいよ」  
「え……」  
驚いたような声音。視線を上げることはできなくて、彼の表情は想像するしかない。  
握られた手のひらに汗がにじんだ。  
「その……いや、だったら………さっさと振りほどいてますからっ」  
勢いにまかせて唇から吐き出した。そのまま黙り込んでしまう。  
クラウスも言葉を返すことが出来ず、再び場を静寂が支配する。  
身体中にクラウスの視線を感じる。顔が熱くてたまらなかった。  
自分の発した言葉が、見られていることが、手を握られたままでいることが、ひどく恥ずかしく感じる。  
いっそこの手を振りほどいて、部屋まで逃げ帰れれば良いのに、とも思う。  
けれども口も身体も動かない。何を言っていいかもわからない。  
緊張感に耐えかねて、もう何でもいいから何か言わなくちゃ、と  
思った瞬間、マウナの耳に彼の言葉が滑り込んできた。  
 
「……くち」  
「え?」  
何を言われたのかが分からず、ふっと顔を上げてしまった。  
思っていたよりもずっと近くで視線がぶつかる。真剣な眼差しがマウナの目を奪う。  
「唇、傷ついちゃいましたね」  
クラウスの手のひらがマウナの頬に添えられ、噛み締めた唇の傷痕を親指がなぞった。  
手を伸ばせば身体に届くほどに近づかれたことに気づかなかった。それほどに緊張しきっていたのだ。  
言葉を探して探して探して、マウナが選んだ言葉は――  
「……誰のせいですか」  
「すいません」  
上目遣いににらんだ彼女に、クラウスは苦笑する。  
笑みが戻ったことに緊張は緩み、マウナもわずかに微笑を返した。  
クラウスはぎゅっと握った手に力をこめる。  
その触れ方には、先ほどまでの激しさはない。  
ようやく普段どおりの彼に戻ったことに安堵し、ほんの少しだけ、勿体なくも感じた。  
(ああもうあたしったら……)  
あのまま奪われても良かったのかもしれない、なんて、一瞬でも思ってしまったことを恥じる。  
結婚するまでお預けなんては思ってはいないけれど、やはりこういうことは段階を踏んでからがいい。  
「それじゃあ、責任とって俺が、手当てさせてもらってもいいですか?」  
冗談めいた声に、マウナ怒った振りをしてみせる。  
「そういうことする前に、はっきり言っておいてもらいたいことがあるんですけどね」  
笑みを含んだ言葉に、クラウスは笑い返す。  
「そうですね。――でもそれは、もうちょっとあとから言わせて貰います」  
クラウスはマウナの背に手を回し、彼女も彼の胸元に両手を添える。  
両腕を首に回してやるのはちゃんと告白を貰ってからだ。  
目を閉じ、穏やかで甘い空気に身体を預ける。  
――がしゃんがしゃん  
「マウナさん……」  
耳をすべる彼の言葉が心地よい。背に回された手に力がこもり、身体が引き寄せられる。  
――がしゃんがしゃんがしゃん  
頬に添えられた手に促されるまま上向いて、その時を待った。  
そうして、二人の唇が合わせられる瞬間――  
がしゃんがしゃんがしゃんがしゃドゴばたーん!!  
「マウナああああっ! 芋の皮剥きの特訓させて!!」  
厨房直結の裏口の扉がぶち破られた。  
 
「もう何度やってもヒース兄さんみたいにうまくできないし何でだか芋つぶれちゃうしで  
コツを教えてもらいたくてって………あれ?」  
扉をぶち破った張本人――イリーナがそこで目にしたものは、  
「どうしてまたクラウスさんも厨房に?」  
「いやははははちょっと片付けの手伝いを」  
しっかり2mは距離を取って、床にへたり込んでるマウナとクラウスの姿だった。  
「なんか疲れきってるみたいだけど……そんなに今日は大変だったんですか?」  
「ほほほそーねーええもう疲れましたともこの瞬間」  
疲れきっている…というよりも、脱力している、と評した方が正しかっただろうが、  
その辺の違いがイリーナにはわからない。  
「それじゃ……俺は失礼しますんで………」  
「はい………お疲れ様でした」  
クラウスは散らばった芋の皮を片付けると、よろよろと厨房を出てゆく。  
マウナも引き止めることなくそれを見送った。  
イリーナはそんな2人の姿に交互に視線を飛ばす。軽く頬を染めて嬉しそうに、  
「マウナ……こんな時間までクラウスさんと一緒だなんてっ」  
「いっときますけどイリーナが期待してるような報告なんかないわよ」  
ええもう寸止めでしたから。邪魔してくれたのはあなたですから。  
「ええー………残念」  
それはこっちの台詞、と頭の中で一瞬考えてしまい、あわててその考えを振り払う。  
照れ隠しに乱暴に言葉を張り上げた。  
「それでっ? 芋の皮剥き、ねえ……」  
まあ……いくら大切な仲間とはいえ、ちょっとくらい報復させてもらったって良いわよね?  
「コツって言っても……やっぱり基本は数こなすこと。まあ、これだけやれば巧くなるんじゃない?」  
「え……」  
どん、と目の前に積まれた芋の山にイリーナは引きつった笑みを向けた。  
「……………こんなに?」  
どんなにきつい鍛錬にもねをあげたことのない彼女の額に汗がにじむ。  
そんなイリーナに、マウナはにっこりと極上の笑顔を見せてやった。  
 
 
 
その晩のイリーナが、半泣きになりながら朝まで芋を剥き続けたのは言うまでもない――。  
「ああっ、もうにわとりが鳴いてるよう………」  
 
 

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