早朝、教師が現れるまでの隙間を縫って生徒たちのざわめきが支配する教室
その一画で吉田一美は、持ち主の現れない席を見つめていた。
(どうしたんだろう、坂井君…)
いつもその席で自分に笑顔を見せてくれる同級生の顔を思い浮かべ、そっとため息をつく。
(ふだんならとっくにきているはずなのに…)
「坂井なら休みらしいよ」
「ひゃあっ!」
突然の声にイスの上で硬直しつつ飛び跳ねるという技を披露する一美。
「ごめん、おどかすつもりじゃなかったんだけれど」
「い、池君…」
振り向くといつの間にか背後に立っていた級友が申し訳なさそうな顔を見せていた。
常に如才なく振舞う万能選手の彼だが、あまりにもさりげなさすぎて接近に気づかなかった。
もしそれを本人に告げたらおそらくひっそりと胸中で涙を流すだろう。
そのあたりの彼の複雑な感情に一美は気づいていないが。
「季節外れの風邪らしいよ。あいつも運が悪いというかなんというか」
「そうなんだ…」
一美の胸に少し不安がよぎる。
(大丈夫かな。夏風邪はしつこいって言うし)
悠二の心配をしていた彼女だったが、ふと名案を思いつく。
(そうだ、学校が終わったらお見舞いに行こう)
それなら堂々と坂井家を訪れて悠二と話すことができる。
いろいろと差をつけられている平井ゆかりとの距離を縮めるチャンスかもしれない。
そう思うとやる気と勇気がわいてきた。
「教えてくれてありがとう、でもよく坂井君が風邪だってわかったね」
「ん、ああ、まあ、ね…」
彼にしては珍しく歯切れの悪い返事が返ってくる。
「?」
彼が向けた視線の先にいたのは――
(ゆかりちゃん!?)
おそらくこのクラスで最も耳の早い池よりも先に彼女が悠二の病欠を知っていた。
それが意味するものはまさか――
膨らんでいた気持ちがしぼんでいく。
(!! ダメダメ、坂井君に言うって決めたんだから! 負けないんだから!)
気合を入れなおす一美。
だが思考に気をとられていた彼女は、自分の背後ににじり寄る影に気づいていなかった。
「そりゃ!」
「き、きゃっ!」
突如わきの下から伸びた腕が、一美の胸をわしづかみにした。
突然の出来事に混乱する彼女をよそに、腕の持ち主が叫ぶ。
「緒方キョーカン! 大変であります! これはおそらくDはあります!」
「D!? ま、まさかそれほどのものだったとは…」
「侮れないわね吉田さん」
「くぉら男子! じろじろ見るなっ! 散った散った!」
いつの間にか女子の大群が周りを囲んでいた。思わずなみだ目になりながら中心にいる女子に抗議の
視線を向ける。
「お、緒方さん…なんで……」
「あーごめんごめん、謝るから泣かないでほら。いやね、今日みんなで水着を買いに行こうって約束
してたでしょ。そしたらなんか吉田さんの胸のサイズがどのぐらいかって話になっちゃってさ、つい」
そんな理由で…と言おうとして首をかしげた。
「水着…?」
「あーっ! 忘れてるよこの裏切りモノ! 先週行こうって約束したじゃない」
「あ……」
「もーっ、放課後依田デパ−トに集合。今度は忘れないでね」
「え、えっと、私――」
今日はちょっと都合がと言いかけたところで、間の悪いことに始業の鐘がなった。
「じゃあ待ってるから!」
答える間もなく、女子たちは席に戻っていく。
結局その後も断りの返事を切り出せず、吉田一美の放課後はクラスの女子たちとの買い物と相成った。
「ミステスでも風邪ひくんだなー…」
「たるんでるからよ」
そっけない返事。ある程度予想していたこととはいえ、やはり少し暗鬱な気分になる。天井を眺めながら
坂井悠二はため息をついた。
体調はかなり悪い。関節の痛みやら熱やらで思うように体が動かせない。
(考えてみれば死んだ後でさらに病気になるって理不尽な話だよな……)
その理不尽な状況に対して、となりにいるフレイムヘイズからはいたわりの言葉もない。
アラストールが携帯電話に擬装していて、追い討ちがかからなかったことが唯一の救いか。
それでも一応こうやって放課後に自分の部屋まで来てくれるのは心配してくれている証拠
……だと信じたい。
と、階下から千草の声が聞こえた。
「シャナちゃーん、ちょっといいかしら」
「ん、すぐ行く」
さっさと立ち上がって出て行ってしまう。
きっと心配してくれている……はずだ。
一階では千草がなにやらぱたぱたと身支度を整えていた。
「あ、シャナちゃん。もうしばらくしたら私はお買い物に出かけようと思うんだけれど、その間お留守番をお願いできないかしら」
もちろんシャナに断る理由はなく快諾する。が、もうひとつの頼みは少々戸惑った。
「それで万が一のときのためにシャナちゃんの携帯電話を貸してほしいんだけど…」
もともと電話としての機能をなしていないものを貸すべきかどうか、もしばれたら説明がややこしくなる。
それに中にはコキュートスが入っている。
「もし何かあったら私にかけてきてほしいの。私はかけ方がよくわからないし…」
「…うん、わかった」
やっぱり千草の頼みは断りにくい。もし千草が電話を使ったら「使い方がおかしかった」とごまかそう。
望めばコキュートスはいつでももどってくるし。
それに、悠二と二人っきりという状況に心惹かれるものがあったのも事実だ。
(ごめんねアラストール)
心の中で紅世の王に謝る。
二人になったら何をしよう。おかゆでも作って食べさせてあげるのもいいかもしれない。
(でも自分から作るのはなんかまるで私が作りたくてしょうがなかったみたいだし…)
何とか悠二のほうから切り出させる方法はないかと考えていると、玄関のチャイムが鳴った。
「シャナちゃん、悪いんだけどちょっと出てくれる?」
それより少し前
買い物を済ませた吉田一美は,坂井家への道を急いでいた。
(ちょっと遅くなっちゃった…)
胸には買ったばかりの水着が入った袋と、見舞い用の果物を抱えている。
(それにしても…この水着は大胆すぎるかなぁ…)
今年の夏は思い切って大胆な自分を演出しようと思って選んだのだが、レジへ持っていったときに後ろに
並んでいた緒方が
「吉田さんそれホントに着るの……?」
と顔をやや引きつらせていたのを覚えている。
(で、でもこういうのが男の人はすきだって聞いたし…坂井君いいって言ってくれるかな…)
悠二の前で水着姿を披露する自分の姿を思い浮かべる。
(……………………やっぱり別のにすればよかったかも)
それ以前にまだ一緒に海なりプールなりに行く約束もしていない。ちょっと思考が先走っている。
あれこれ考えているうちに坂井家の前を通過してしまったことに気づき慌てて戻る。
(なにやってるんだろう、しっかりしなきゃ)
息を整え、服装を軽く正してからチャイムを鳴らす。
ドアの向こうからおそらく家族であろう誰かの足音がち被いてくる。
はじめて訪れる悠二の家と家族とのファーストコンタクトに、一美の心臓がばくばくと音を立て始めた。
(だ、第一印象は良くしないと!)
開かれる鍵。
回されるノブ。
そしてドアの向こうから現れたのは――
『――なんでお前/ゆかりちゃんがここにいるの!?』
(な、なにがどうしてこんなことになったんだ……)
部屋の中に漂う不穏な空気に、風邪とは無関係の汗が背中に流れる。
一美は見舞い品を袋から取り出し、シャナはベッドの傍らでメロンパンをかじっている。
一見二人ともくつろいでいるように見えるが、互いに殺しの気配を放っているのが風邪で弱った感覚でもわかった。
壮絶な神経戦の中間で、自分の存在の力が加速度的に削られていく気がする。
帯電すら始まりそうな空気を和らげようと、悠二は一美に声をかけた。
「吉田さん、わざわざ来てくれてありがとう」
「う、ううん、いいの。あの、調子はどう……?」
「さっきよりはだいぶ良くなったよ」
「あ、あの良かったら何か作りましょうか……? おかゆとか……」
グシャ!
シャナの手の中でペットボトルがひしゃげる。
悠二の顔面が蒼白になる。一美も一瞬ひるんだ様子を見せたが、すぐに気を取り直して話を進める。
「あ、あの、果物なんかも持ってきたから、何かほしいものがあったらいってくださいね」
「あ、ありがとう……」
こっそりシャナをみると今にも焔髪灼眼化しそうな勢いでこちらをにらんでいる。
(そこまでおこることないだろ!?)
きっかけさえあれば爆発しそうな状況に戦々恐々としながら、ベッドの中で冷や汗を流す。
そんな緊迫した空気に気づいているのかいないのか、千草がのんびりと入ってきた。
「ごめんなさいね吉田さん。せっかく来てくれたのに何もお構いできなくて」
「い、いいえ! 連絡もしないできた私が悪いんですし……」
「ふふふ、いいのよ、悠ちゃんなんかの為にわざわざ来てくれたんですもの。感謝しなくっちゃ」
「なんか」扱いされたのがひっかかるが、とりあえず場の空気が少し和らいだ。
これなら何事もなく済むかもしれない。
だが悠二の期待はあっけなく裏切られた。
「それじゃあ私はお買い物に行ってくるから、シャナちゃん、後をよろしくね」
(そりゃないだろ母さん!?)
悠二の心の叫びは閉じた部屋のドアにむなしくはじかれた。