坂井家、悠二の部屋。  
 部屋の主である坂井悠二は、頭を抱えていた。なぜこんなことになってしまったのか、皆目見当もつかない。  
「みい」  
 悠二の膝の上で丸くなっている子猫が、可愛らしい声(CV:釘宮理恵)で鳴いた。  
 ただしこの子猫、子猫と言うには……いや、猫と言うには身体が大きすぎる。身長は141cm(公式サイトより)くらいだろう。  
 要するにこの子猫、フレイムヘイズ『炎髪灼眼の討ち手』、シャナなのであった。  
 特殊なプレイの真っ最中というわけではない。  
 ぶっちゃけて言えば、シャナが猫になってしまったのである。外見とかじゃなく、中身が。猫の霊でも乗り移ったかのような、パーフェクトな猫っぷりであった。  
 なぜこんなことになってしまったのかは、あえて説明しない。言っておくが、考えるのが面倒くさいだなんて、ゾウリムシの繊毛ほども思ってはいない。  
読者諸氏の豊かな想像、いや妄想力に、私は期待している。というわけで、脳内補完よろしく。  
 今重要なのは、過程などではなく、これからの展開である。  
 
「みい……みい、にゃん」  
 悠二の膝の上で、シャナは完全に子猫と化していた。手で悠二の髪や服を引っ張り、  
 身体を擦り付けて構って欲しいと訴える。その上平気で頬ずりしたりするのだから、悠二としてはたまったものではない。  
 普段のシャナなら絶対に見せない甘えた仕草もさることながら、綺麗で長い黒髪からほんのり香るシャンプーの香りも、  
 悠二をドギマギさせる。  
(誰かあああ、助けてくれえええ、このままじゃあああ、僕はあああ、ダメになってしまううう!)  
 心の中で助けを呼ぶ悠二だが、そんなものは例え声に出していても来るはずが  
「悠ちゃん、入るわよ〜」  
 奇跡が、起こった。  
 ガチャっと音を立て、ドアが開く。入ってきたのは、悠二の母、坂井千草だった。  
「か、母さん! シャナが、シャナが子猫に!」  
 悠二の視線が自分から外れたことが気に入らないのか、シャナはぷうと頬を膨らませて、悠二の顔を両手でペチペチ叩く。  
 当然、痛くも痒くもない。シャナはとにかく、悠二に構って欲しいのだった。  
 そんな様子を見た千草は、微笑みながら呑気に言う。  
「ふふ、大丈夫よ、悠ちゃん。私はぜぇんぶ分かってますから」  
 さすがは最強の主婦・坂井千草である。事情の説明もなしに、すでに事態を把握しているらしい。  
 悠二はそんな母を、頼もしく思い、彼女がどんな解決策を用意してきたのか、期待しながら待つ。  
「はい。これが欲しかったのよね?」  
 千草が悠二に手渡したのは、ネコ耳付きのカチューシャと、小さな鈴が付いた赤い首輪だった。  
「………………えーと。あの、母さん?」  
「ふふ、懐かしいわねぇ。昔はコレで、貫太郎さんと……うふふ」  
「………………いや、そうじゃなくてですね」  
「あら悠ちゃん、せっかく持って来てあげたのに、シャナちゃんに着けてあげないの? なら私がやっちゃうわよ?」  
「………………」  
 悠二は、今になって悟った。千草が救世主でもなんでもないどころか、敵の援軍であることに。  
 悠二が呆然としている間に、千草によって、ネコ耳と首輪がシャナに装着された。肝心のシャナ本人は、嫌がるどころか、  
 喉を撫でられてごろごろと目を細めている。  
「わあ、似合う似合う。シャナちゃん、とっても可愛いわ」  
「みゃあ」  
 千草は名残惜しげに立ち上がり、  
「じゃあ悠ちゃん、シャナちゃん。後は二人でどうぞごゆっくり」  
 と言い残して、部屋を出て行った。ドアが閉まる時のバタンという音が、虚しく響く。  
(……孤立無援、か……)  
 この狭い室内に子猫モードシャナと二人っきりで、いったい何をどうしろというのか。  
   
 悠二が思い悩んでいると、いつの間にかシャナが、彼の顔を見つめていた。  
 髪と同じように、黒くて綺麗な瞳。そこに、言葉を失った悠二の姿が映る。  
「……みい……」  
『……ねえ、悠二……これ、似合ってる……?』  
「っ!?」  
(違う違う違う、幻聴だ、これは幻聴なんだよ、坂井悠二!  
 事態を自分の都合がいいように解釈しようとするバカな男の妄想だ。  
 そもそもだ、よく考えてみろ。僕の知ってるシャナは、こんな甘ったるい声で、  
 普通の女の子みたいなこと聞いてこないだろう!? なあ、そうだろう!?)  
 シャナは、首をかしげて悠二を見つめる。応えを求めるように、顔を近付ける。  
「……みう……」  
『……どう? 私、可愛い……?』  
「う、あ」  
(違う違う違う、夢だ幻だ妄想だっ! ああ、似合ってるさ可愛いさ!  
 でもこれはシャナの言葉じゃないんだ、聞きたい言葉が聞こえるだけだっ!  
 気を確かに持て、さかいゆうじぃぃぃっ!!)  
 前髪と前髪が触れ合う距離。吐息が吐息に重なり合う。  
 シャナは悠二を見上げるように見つめ、悠二は顔を真っ赤にしたままシャナと視線を合わせようとしない。  
 シャナが甘えるように鼻を鳴らすが、悠二はそれにも応えようとしない。  
 どこか得意気だったシャナの表情が戸惑い、そして不安げなものに変わる。  
 悲しげに眉尻が下がり、瞳が潤む。  
 目は口ほどに物を言うとは、よく言ったものだった。途端に、悠二は猛烈な罪悪感に襲われる。  
(うう、シャナぁ……そんな目で見ないでくれよぉ……)  
「……みゅう……」  
『……似合わないの……? 私、可愛くないの……? 悠二、私のこと、嫌いなの……?』  
「う、ああ、うあ」  
(違う違う違う、違うんだよ、シャナ! 似合ってるよ、可愛いよ、大好きだよ!!  
 でも、でも、でも……!)  
 視線を上げると、目の前に今にも泣き出しそうなシャナの顔があった。  
「!!」  
 もう、何もかもどうでもよくなった。ただ、シャナの涙なんて、見たくない、それだけだった。  
「……みゃ……?」  
 悠二はシャナを、思いっきり抱きしめた。  
 一瞬、驚きに目を見開いたシャナだが、やがて幸せそうに目を閉じて、悠二の抱擁に全てを委ねた。  
 
 
「……なんだかなぁ……」  
 自室の床の上に座り込んで、悠二は軽くため息をついた。  
 その原因であるネコ耳シャナは、悠二のベッドの上で跳ねたり転がったり、  
さらには枕に顔を押し付けたりして遊んでいた。シャナが動く度、首の鈴が  
ちりんちりんと鳴る。悠二の匂いが染み付いた(なんだか嫌な表現である)  
ベッドの上は、子猫シャナにとっては桃源郷のようなものらしい。  
 ネコ耳シャナの魅力と誘惑に半ば自分から惑わされた後、すでに二時間ほどが  
経過している。その間シャナはずっとこの調子なのだから、よっぽど楽しいようだ。  
「みい。みゅ」  
 その光景に口元がほころんでしまうのが、楽しいやら情けないやら。  
 今日も学校があったので、シャナの服装は夏服の制服のままだ。そこにネコ耳と首輪、  
なんともマニアックな装いである。ちなみに、無邪気に過ぎる子猫シャナは、  
ベッドの上で戯れることによって捲くれるスカートや、そのためにチラチラと見えてしまう  
白くて小さな布の存在にまったく気を留めておらず、さっきから悠二の視線は泳ぎっぱなしであった。  
 坂井悠二、16歳。秘宝『零時迷子』の“ミステス”であるが、それ以前にお年頃の少年である。  
 対するフレイムヘイズ、シャナ。肉体年齢、たぶん12歳くらい。まあ、“紅世”が絡まなければ  
中身も12歳くらいな気がする。とにかく、肉体的には紛れもない『少女』。  
大人とは言えないが、子供であるとはそれ以上に言えない。  
 
「……まいったなぁ……」  
 そしてシャナは、悠二にとってとても魅力的な少女であった。というか、  
好きなのである。恋している。片想いである。片想いだと思っている。  
片想いであると信じて疑っていないのである。  
 しかし、そんな悠二にとって、今のこの状況は素直に喜べるものではなく、  
むしろ戸惑いの方が大きかった。シャナが正常な状態にないことは明らかだからだ。  
戸惑いを覚えて当然なのである。理性が働いている証拠だ。いや、それとも、  
いかがわしいことを無意識に考えているからこそ、戸惑っているのだろうか……?  
 悠二はふと、手に持っているものを見た。  
 さっき不意に現れた千草から「これを渡すの忘れてたわ。子猫と遊ぶには必須よね♪」  
と言われて押し付けられた猫じゃらしが、右手にしっかりと収まっている。  
「みゃん、みゃあ」  
 目の前には、たまらなく可愛い子猫がいる。そして、右手には柔らかい穂が揺れる猫じゃらし。  
「………………」  
『ねえ、悠二』  
「………………」  
『悠二ってば』  
「………………」  
『悠二、一緒に遊ぼ?』  
「………………まったく。しょうがないなぁ」  
 何がまったく、で何がしょうがない、なのか。どう見ても独り言である。  
関東大震災も真っ青な揺さぶりの前に、悠二の理性は豆腐のごとくぼろぼろに崩れ去った。  
「シャナ」  
「み?」  
「……おいで」  
「みい」  
 子猫シャナは素直にベッドから降りて悠二の所までやって来ると、喉を優しく  
撫でられて、気持ち良さそうに丸まった。  
 
「シャナ〜、ほらほら〜」  
 悠二が右手に持った猫じゃらしを、シャナの前で前後左右に揺らす。  
「みい、みゃあ」  
 ごろりと仰向けに床の上で寝転がっているシャナは、前足ならぬ両手で穂先に  
じゃれついていた。その表情は、とても幸せそうである。  
「ほら、こっちだよ〜」  
 穂先が左右に揺れると、シャナもそれに釣られて右にくるくる左にごろごろ。  
まさに猫である。  
「そおれ、今度はこっちだ」  
「みゃん」  
 悠二は、猫じゃらしの動きを左右運動から上下運動に変えてみた。シャナが  
穂先に触れようとしたところで大きく持ち上げ、空振りしたところで顔のすぐ  
前まで高度を下げる。  
「あれあれ〜、どうしたのかな〜?」  
「みゅう……みい」  
 子猫シャナが、若干真剣な目つきで、膝立ちになる。どうも、シャナらしい  
闘争心も残っているようだ。  
「……みゃん!」  
 子猫シャナはいきなり、悠二に飛び掛った。  
「うわっ!?」  
 体当たりを喰らった悠二は、そのまま後ろに倒れこんだ。  
「みゅう♪」  
 倒れた悠二の上でようやく穂先を捕えた子猫シャナは、満足気な鳴き声を  
上げる。が、悠二はそれどころではなかった。  
(こ、これは……!?)  
 
 顔面に、固いんだか柔らかいんだかよく分からないものが押し付けられている。  
控えめにその存在を主張している少女の二つの膨らみ。薄い制服越しに伝わって  
くるその感触、その温かさが、悠二の頭に血を上らせる。  
 少女の女の子らしい甘い匂いが鼻腔をくすぐる。すでに崩れ去って炒り豆腐  
みたいになっていた理性が、さらにミキサーにかけられて、豆腐ジュースになった。  
不味そうな豆腐ジュースは台所の流しに捨てられ、綺麗さっぱり消滅した。  
「みゃ?」  
 悠二は子猫シャナの背中にしっかりと両腕を回して、ごろんと転がった。  
二人の位置が逆転して、シャナが下、悠二が上になる。  
「みう、みい」  
 子猫シャナは無邪気に微笑んで、両手で悠二の頬をぺたぺたと触る。  
「……シャナ」  
 悠二は、シャナの顔を見た。その気になれば、すぐにでもその可憐な唇を  
奪える。しかし、本当にやってしまっていいのだろうか……。  
 急場に際して切れると評判の悠二脳は、ここで大胆な仮説を打ち出した。  
 人間が他の動物に対して優れている点、それは理性の存在である。理性がある  
からこそ、人間は法を守り、また我慢もできる。対して、動物はどうだろうか。  
訓練すれば別だろうが、大体において犬も猫も本能に従って生きているのでは  
ないだろうか。そして、今のシャナは子猫である。本能……つまり、己の願望の  
ままに生きているのである。その結果、シャナは悠二に甘えて、じゃれついてくる。  
これはつまり、シャナには悠二に甘えたいという秘めた願望があったのではない  
だろうか? それが、子猫化によって開放されたのではないだろうか? ということは  
つまり、シャナも僕のことが好きなのではないだろうか? キスとかそれ以上のこと  
だって、むしろ望むところなのではないだろうか? うん、きっとそうに違いない。  
 夏である。  
 
「シャナ……僕もシャナのこと、大好きだよ……」  
「みゃあ、みゅ」  
『……嬉しい……私も、悠二のこと、大好き……』  
 “も”とか幻聴の内容とか、悠二の脳ミソはだいぶ変なモノに冒されて  
しまっているのが分かる。  
「シャナ」  
 もう一度小さな声で言って、悠二は顔を寄せた。シャナの唇に、自分の唇を  
近付ける。マナーとして、途中で目を閉じる。  
 
 
 悠二の頬を強烈な衝撃が襲ったのは、その直後だった。  
 
 
「な、ななな、ななななな」  
 強力な平手を喰らって吹き飛ばされた悠二が見たのは、顔を真っ赤にして  
ぷるぷると震える、ネコ耳・首輪装備のシャナだった。  
「なななななにしようとしてんのよ、バカ悠二!!」  
 綺麗な紅葉が浮かぶ頬に手を当てながら、悠二はシャナが「みい」だの  
「みゃあ」だの言っていないことに、ようやく気付いた。  
「シャ、シャナ、元に戻っ」  
「近寄らないで、このバカ! スケベ! ヘンタイ!」  
「い、いや、あの」  
「来るなって言ってるでしょ! アホ! バカ! ロリコン!」  
「えーとこれには山より高く海より深いワケが」  
「うるさいうるさいうるさぁいっ!!」  
「ぐへえっ!?」  
 正拳突きをモロに喰らって、悠二は昏倒した。  
 
「はあっ、はあっ、はあっ」  
 シャナの顔は、まだ真っ赤だった。  
 一体全体、なにがどうなっているのか。気がついたら、悠二の顔が目の前に  
あって、悠二は目を閉じていて、それはつまり……。  
「……!!」  
 元々真っ赤だった顔が、さらに赤くなった。  
「あうう……」  
 その光景を思い出して、シャナは力なくその場にへたり込んだ。両手を頬に  
当てる。信じられないくらい熱い。  
 その時、ちりん、と鈴が鳴った。  
「ふえ?」  
 どこから音がしたのか、と探してみると、自分の首からだった。なぜか、  
赤い首輪が嵌められている。そういえば、頭にも何か……。外してみる。  
「な、なにコレ……」  
 世慣れていないシャナでも、そのカチューシャに付いているものが何なのかは、  
すぐに分かった。  
 獣耳……おそらく、ネコ科の動物の。  
 首輪と、ネコの耳。  
 そして、押し倒され、悠二に唇を奪われそうになっていた自分。  
「わ、わた、私……なな、なにを、してたの……?」  
 すでに、顔どころか全身が真っ赤だった。  
 
 
 
「あらあら……もう効果が切れちゃったか。悠ちゃんも、もっと大胆にならないと  
ダメね。まあ、素直になった可愛いシャナちゃんも見れたし、私としては大成功って  
ところかしら。うふふ……」  
 一人、黒幕だけが満足気に微笑んでいるのであった。  
 

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