涼やかな風が空を翔け、木の葉がさざなみのようにかすかにざわめく。  
 木陰に敷かれたビニールシートの上に座るその女性は、ふと頭上を見上げた。  
 生い茂る青葉の合間から、雲一つない青空が見える。  
「いい天気ね」  
 穏やかな笑みを浮かべるその女性は、二十歳前後ほどだろう。ロングスカートの白いワンピース  
の上に薄水色のカーディガンを羽織る姿は、見た目の年齢以上に落ち着いているようにも見えた。  
流れるような長いストレートの黒髪が風に揺れ、左手でそれを押さえる様は、一枚の絵のような美  
しさだ。  
「来て正解だったかも。そう思わない、アラストール」  
 彼女の胸に揺れる、黒い宝石を交叉する金色のリングで結んだ意匠をこらしたペンダントから、  
短い返答が返ってくる。  
「うむ」  
 低く重い遠雷のような声には、どこか弾んでいるような響きがあった。その様子に、彼女は  
くすりと笑った。  
 そして、ペンダントを通して彼が見ているものに、彼女も目を向ける。  
「こらー! パパ、まちなさーい!」  
「はは、待たないよー」  
 彼女の目の前に広がる草原で、逃げ回る男性と、それを追いかける小さな女の子。  
 男は女性よりも3、4ほど年上に見える。どこにでもいそうな平凡な顔立ちだったが、しかし  
同時に、同年代の男性にはない力強さも感じさせる。  
 少女の方は、一見して女の娘だと分かるほど、彼女に瓜二つだった。歳は5、6程度。長い  
黒髪をツインテールに纏めて、楽しそうに野原を駆け回っている。  
「ふ……『天道宮』にいた頃を思い出すな。覚えているか、おまえも昔はあの子のように遊び回  
っては、ヴィルヘルミナ・カルメルを困らせていたものだ」  
「やだ、もう」  
 女は、恥ずかしげに頬を染めた。わずかに幼さが顔を覗かせる。  
「恥ずかしいこと、思い出させないでよ」  
 
 女が言う間に、男を追いかけていた少女は業を煮やしたのか、その辺に落ちていた小石を拾って、男  
めがけて放り投げた。力こそ弱いものの、少女の狙いは正確で、小石は男の後頭部にこつんと当たった。  
「ぐはっ」  
 と大げさな仕草で草の上に倒れこむ男の上に、少女は嬉しそうに乗りかかる。  
 
「えへへー。つかまーえた」  
「捕まっちゃったなー。ははは」  
 
 楽しそうに笑う二人に釣られて、女も目を細めて、くすくすと笑う。  
「おまえも昔は、あの子のように奴を小突き回して……今の落ち着き様が嘘のようだ」  
「また?」  
 さすがに女が、呆れ顔になる。  
「アラストールってば、さっきから昔の話ばっかり。ジジ臭いよ」  
 少しばかりショックを受けながらも、アラストールは言う。  
「む……しかし、あの子を見ていると本当におまえが変わったことを実感できるので、つい、な」  
 指先でペンダントを玩びながら、女も答えた。  
「そりゃあ、ね。私ももう、母親なんだし。いつまでも子供じゃないわよ」  
 少女を肩車して、男がこちらに歩いてくる。元気よくブンブンと腕を振り回す少女に、女も手を振って返した。  
「それに……」  
 女は振った手をそのまま、自らのお腹に当てて、愛おしそうに撫でる。その表情は、優しさに満ち溢れていた。  
「……?」  
 こういうことに疎いアラストールは、女の仕草が何を意味しているのか、気付かない。  
 
「ママー」  
 肩から下ろされた少女が、一目散に母へと駆け寄り、終いには飛び込むようにして抱きついた。  
 女は娘を柔らかく抱き止めると、そのまま優しい声音で少女を嗜める。  
「さっきの見てたわよ。駄目でしょ、石なんか投げたら。危ないじゃない」  
 大好きな母に怒られて、少女はしょんぼりとする。  
「まあまあ」  
 遅れてきた男が、女を宥める。  
「いいじゃないか、これくらい」  
「そうだぞ。元気があるのはいいことだ」  
 娘には砂糖を吐くほど甘い夫と魔神、双方にジトッとした視線を向けつつ、女はあくまでも引き  
下がらない。  
「駄目なものは駄目なの。投げるなら、ほら、これ」  
 女は傍らに置いてあったバスケットの中から、ゴムボールを少女に手渡す。  
「投げ方はとっても上手だったわよ」  
 女が少女の頭を優しく撫でながら言うと、途端に少女は顔を綻ばせる。  
「ほんと?」  
「本当よ。後でパパとキャッチボールでもしてきなさい」  
「うんっ!」  
「まあ、キャッチボールはいいんだけど」  
 妻の隣に腰を下ろして、男は言った。  
「そろそろ、お昼にしないか? こんな運動したの久しぶりだから、お腹空いちゃってさ」  
 ちょっと子供と遊んだくらいで、と昔から変わらない夫の情けなさに辟易して、しかし女は笑った。  
「まったく……明日からまた毎朝鍛錬する?」  
「はは。それもいいかな」  
 談笑する二人を他所に、少女だけが顔を微妙に引き攣らせていた。  
「ねえ、パパ、ママ。今日のお弁当つくってきたの、どっち?」  
「私よ」  
 少女は、その幼さで知っているとは思えないほどの絶望をその愛らしい顔に浮かべ、ガクッ、と  
崩れ落ちた。  
「ちょ、ちょっと。どうしたの?」  
(……まあ、気持ちは分からないでもないけど……我が娘よ、さすがにそれは失礼なんじゃないかな)  
 彼からしてみれば、妻の料理の腕は昔に比べて格段に向上している。味は普通に食べられるレベルだ  
し、そもそも愛情という最高の調味料が加えられた彼女の料理は、彼にとっては世界一なのである。し  
かし、まあ……見た目が相変わらず『黒焦げの何か』なのは、問題かもしれない。  
 少女も母の料理が決して食べられない味ではないことは知っているが、やはりあの見た目では食欲を  
そそられないらしい。やけに切羽詰った様子で母に詰め寄って言う。  
「じゃ、じゃあ、おかしは? メロンパンは?」  
「駄目よ」  
 母は、無情だった。  
「甘いものばかり食べてたら、いつまで経っても大きくなれないわよ?」  
「それってママのことじゃひはひひはひ!?」  
「生意気なことを言うのはこの口かしらぁ……!?」  
「ふぁふぁー、はふへへー!」  
 目だけは笑っていない笑顔で娘の頬を引っ張る妻と、涙目で助けを求めてくる娘。そんな微笑ましい  
光景を苦笑しながら眺める彼はふと、こういうのを幸せだって言うんだろうなぁ、と思った。  
 
 
 少女にとっては辛い昼食を終え、約束通り娘とキャッチボールをして遊んだ父親は、ヘ  
トヘトになって妻のいる木陰へと戻ってきた。  
「情けない……やっぱり明日から鍛錬ね」  
「しょ、しょうがないだろ。あの子、キツいコースばかり狙って投げてくるんだから……  
ほんとに5歳か?」  
「ふふ。私の娘だからね」  
「ははは、じゃあ将来有望だな」  
 笑い合う二人のもとに、彼らの愛の結晶たる少女が、疲れも見せずに駆け寄ってくる。  
「ママー、おじーちゃん貸してー」  
 少女の言う「おじーちゃん」たるアラストールが、ペンダントの中から若干不満げな声  
を上げる。  
「むう。何度も言うが、その『おじーちゃん』というのはどうにかならんのか」  
「えー。だって、おじーちゃんはおじーちゃんでしょ? ねー、ママ」  
 同意を求められた女は、おかしそうに笑いながら、ペンダントを首から外す。  
「そうね、アラストールはおじーちゃんよね」  
「お、おまえまで……」  
 アラストールの抗議は無視して、女はペンダントを娘の首にかけた。  
「はい。あんまりおじーちゃんに悪戯しちゃ駄目よ」  
「はーい。行こ、おじーちゃん」  
「まま待て、ふりふり振り回さないでくれえええ」  
 言われたそばからペンダントを振り回しながら、少女は再び草原へと駆けていった。ア  
ラストールの悲痛な叫びに、男は少しばかり同情した。  
「我が娘ながら、元気だなぁ。はは、あんな振り回しちゃって。アラストールも大変だ」  
「あれでも楽しんでるのよ、アラストール。『おじーちゃん』って呼ばれるのもね、本当  
は嬉しいの」  
「あー、わかるわかる。爺馬鹿って言うんだろうね、ああいうの」  
 やっと子離れ出来たと思ったら今度は孫か、と男は愉快気に笑う。その笑顔はまるで、  
少年のようだった。  
「あ、おじーちゃんっていえば」  
 隣に座る妻も、笑う。やはり、少女のような笑顔。  
 
「この前、あの子と一緒に買い物に行った時なんだけどね。偶然、ヴィルヘルミナと会ったのよ」  
「カルメルさんと?」  
 苦手な人物の名前が出て、男はほんのわずかに、顔をしかめた。二人がこうして一緒になっている以上、  
少しは関係も改善されているわけだが、向こうの方は未だに彼を快く思っていない感がある。事実、会う  
たびに様々な理由にかこつけては無理難題をふっかけられているのである。  
「そう。それでね、あの子ったら……ふふ。ヴィルヘルミナに、おばーちゃん、って。なんか、すごく複雑  
そうな顔してたわ」  
「それは……そうだろうね。子供っていうのは残酷だ」  
 ヴィルヘルミナは今くすくすと笑っている女の母代わりだったのだから、おばーちゃん、というのは間違  
いではない。義娘同様、その娘もまた可愛がっていた彼女は、血の繋がりに関係なくそう呼ばれたことが嬉  
しかったに違いない。しかしまあ、ヴィルヘルミナも女であるわけで。  
男には、どうにもあの鉄面皮が苦悩に歪む様が、想像できない。  
「それと、なんか身震いしてたわね。『壮絶な呪いの波動を感じるのであります』とか『呪怨嫉妬感知』とか  
言ってたけど、なんだったのかな」  
 妻の下手な口真似に笑いながら、男は穏やかに過ぎる視線で、野を駆ける愛娘の姿を見守る。  
「……うん、幸せだ」  
「え? 何か言った?」  
「いや……なんでもないよ。そういえばさ、この前、池が―――」  
 緩やかに吹く風が、二人の間を流れていく。  
 
 
 どれくらい時間が経っただろうか。二人は珍しく思い出話に華を咲かせていたが、やがて  
会話は途切れて、二人の間に沈黙が下りる。ただ、それはとても心地良い沈黙だった。  
 女は身体を傾けて、夫の肩にこてん、と頭を乗せた。男も自然と、妻の肩に手を回す。  
「ねえ」  
「なんだい?」  
 沈黙は、仄かに甘い雰囲気へと変わっていた。  
「あのね……二人目、いるんだって。私のお腹の中」  
「………………へ?」  
 突然の言葉に、男は呆気に取られた。その顔がおかしくて、女は小さく笑みを浮かべる。  
「聞こえなかった? 私のお腹の中に、っきゃあ!?」  
 言いかけた彼女は、夫からいきなりぐいっと引き寄せられて抱き締められ、悲鳴を上げた。  
「本当、に?」  
 触れ合う頬から、背中に回された両腕から、彼の温もりが伝わってくる。たったそれだけの  
ことが、たまらなく嬉しい。  
「本当よ」  
 彼女も、夫の背中に両腕を回して、強く優しく、彼を抱き締め返した。  
 しばらくの間、そうしてお互いの温もりを確かめ合う。  
「そっか……二人目、か。今度はどっちかな」  
「私、男の子がいい」  
「ええ? やっぱり女の子だろ」  
 夫の言葉に、妻は眉根を寄せた。ただし、抱き締めあっているままなので、その顔を相手に  
見られることはない。  
「どうしてよ。女の子はもういるんだから、次は男の子でしょ」  
「いや、男は駄目だ」  
「だから、どうして」  
「え、ええと、それは……」  
男はもごもごと口ごもった後、妻の耳元で、囁くように言う。  
「ああ、その……自分の息子に嫉妬するなんてみっともない真似、したくないんだよ」  
 今度は、女が呆気に取られた。  
「……ふふ……あはは。何よ、その理由。はは、あはは」  
「笑うなよ」  
 妻と入れ替わりに、男が眉根を寄せた。  
「女の子だったらいいんだよ、別に。でもやっぱり、男の子だと、ね……」  
「……不公平よ」  
「え?」  
「私だって、自分の娘に嫉妬しちゃう時、あるのに」  
 数瞬の、沈黙。  
 やがて二人は、同時に笑い出した。  
「ふ、ふふ、ははは、なんだ、お互い、考えること、同じなんだな」  
「はは、あははは、そうね、おんなじだね、ふふ、変なの」  
 一頻り笑い合った後、身を離した二人は、お互いに相手の顔を見つめる。  
「男の子でも、女の子でも……元気な子を、産んでくれよ?」  
「うん」  
 わざわざ確認するまでもないことをあえて言葉にして、より強く確かに、心を通わせる。  
 自然に、二人の唇が重なった。  
 
 
 キスよりもっと凄いことだってたくさんしてるのに、こうして唇を重ねていると、心臓が  
壊れるんじゃないかってくらいドキドキする。いつまで経っても慣れない。  
 愛しい愛しい彼の腕が、私の身体をギュって抱き締める。蕩けてしまいそうな心地良さ。  
ずっとずっと、こうしていたい。  
 彼の唇は少しカサカサしていて、だけど甘い。溺れてしまいそうなほどに、甘い。だから  
私は、いつものように、彼の口付けに溺れる。  
 やがて、彼の舌が私の唇を割って、入ってきた。  
 もう、馬鹿。あの子が見てるかもしれないのに、こんな……まあ、遊ぶのに夢中だろうし。  
いいよね……。  
 
「……ん……ふぁっ、んむぅ……ちゅ、ん……」  
 
 いつもの優しい彼からは想像できない、荒々しい動きで、彼の舌は私の口内を好き勝手に暴  
れ回る。抵抗しようと伸ばした私の舌も、彼のそれに捕らえられてしまうと、もう、駄目。あ  
まりに気持ちよすぎて、心の底までとろとろになって、もう抵抗する気なんて起きない。され  
るがままになってしまう。  
 彼とのキスは、いつも一方的で、ちょっと悔しい。でも、嬉しい。彼に愛されているのを、  
実感できるから。  
 
「……っ、ふぁ……ちゅ……ふぅっ……んぁ……」  
 
 優しく撫でるように、でも強く、頭を押さえられる。もう逃げられない。最初から、逃げる  
気なんてないのだけれど。  
 繋がった唇を通して、彼の唾液が私の中に流れ込んでくる。味なんてないはずなのに、とっ  
ても甘い。嚥下すると、彼の舌の動きが、より一層激しくなった。  
 彼は、容赦というものを知らない。強く激しく、私を愛してくれる。普段からこのぐらい強  
気だったらいいのに。  
 
「……は、あ……んん……くちゅっ……んぅ……」  
 
 やがて唇が離れると、私と彼の間に、銀色の橋が架かり、すぐに切れた。なんだか、名残惜  
しい。もっとしていたかったな……。  
 いつものことだけど、ボーっとして、力が出ない。キスで弱らせてから私の身体を好き勝手  
に弄ぶのは、彼の常套手段だ。まあ、さすがにこんな所ではやらないだろうけど……もう、や  
っぱり馬鹿。これじゃ私、あの子を寝かしつけるまで、ずっと悶々としてなきゃいけないじゃ  
ない。  
 文句を言おうとして視線を上げたら、彼と目が合った。  
 吸い込まれてしまいそうな、黒い瞳。そんな風に見つめられたら、私、文句なんて言えなく  
なっちゃうじゃない。  
「……シャナ、愛してるよ」  
「私、も……私も愛してる、悠二」  
 また、唇が重なった。  
 
 
 
 坂井悠二の部屋、ベッドの上で、シャナは目を覚ました。  
 隣で横になっている悠二が言った。  
「おはよう、シャナ」  
「……ん」  
 寝起きの頭を必死に回転させて、状況把握に努める。  
(たしか……ええと……そう、昨日も、悠二に押し倒されて……)  
 思い出した途端、シャナは顔を耳まで赤くした。そういえば、自分も悠二も、服を  
着ていない。  
「ねえ、シャナ」  
 悠二が、シャナの細く幼い身体を抱き締めながら、問いかける。  
「ずいぶんと幸せそうな寝顔だったけど……どんな夢、見てたの?」  
 寝顔を見られていたことを恥ずかしく思いつつも、シャナは悠二の胸に顔を埋めて、  
考える。  
(……夢……?)  
 たしかに、何か夢を見ていたような気がする。しかし、どんな夢だったかは、一向に  
思い出せない。ただ、とても幸せな夢だったことだけは確かだ。その余韻が、まだ自分  
の胸に残っている。  
「……あ」  
 いや、一つだけ、たしかに覚えていることがある。  
「ん、何?」  
 穏やかな微笑を浮かべ、自分の頭を優しく撫でてくれている少年を、シャナは上目遣  
いに見上げる。  
「……あのね」  
「うん」  
 次の瞬間、シャナは精一杯に身体を伸ばして、自分の唇を悠二のそれに重ねていた。  
触れ合うだけのキス。シャナはすぐに離れて、面食らっている悠二に、真っ赤な顔で  
言う。  
「こうやって……悠二と、キスしてる夢」  
 あんまり恥ずかしいので、シャナはまた、悠二の意外と厚い胸板に、自分の顔を埋  
める。  
 悠二とこうしていられることが、たまらなく幸せだ。だからこそ、恐くなる。  
「……まだ、夢の中なのかも」  
 自分の身体を包む温もりも、幸せも、全て夢だとしたら。夢の続きだとしたら。  
 悠二は、そんな幸せに怯える少女を、ギュッと抱き締める。  
「悠二……?」  
 自分の腕の中に収まる少女が、たまらなく愛おしい。  
「夢なんかじゃ、ないよ」  
 そう言って、今度は悠二が、シャナの唇を塞いだ。  
 また、すぐに離れる。今の二人には、それで十分だった。  
「……シャナ、愛してるよ」  
「私、も……私も愛してる、悠二」  
 
 
 
おわり  
 
 

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