既に西日も沈み、藍と橙の綾模様が織り成す空の下。
シャナと悠二はある建物の前にいた。
天を突くような長い煙突。そこから立ち上る黒煙。
懐古感を思わせる瓦付きの平屋と、それを囲う白塗りの塀。
そして、『ゆ』とだけ書かれた濃紺の暖簾。
「ここが銭湯…」
シャナがどこか感慨深げに呟いた。
そもそもの経緯は、凡そ一時間前。
「お風呂が壊れた?」
学校での一日も終わり、いつものように坂井家を訪れたシャナは千草からその言葉を聞き、落胆した。
「ええ、昨日からどうもガスボイラーの調子がおかしくて…」
今日の昼に調べてみたところ、あっさり壊れた、というのだ。
既に坂井家での入浴が慣例且つお気に入りとなっているシャナにとって、それは死活問題だった。
「千草、なんとかならないの?」
「ごめんなさいね…明日になれば業者の方を呼んで直してもらえるんだけど…」
千草の無情な答えにシャナはあからさまにしょんぼりと肩を落とす。
「…………」
そんなシャナの様子を見かねたのか、暫しの間をおいて、
「…シャナちゃん、銭湯って、行った事ある?」
千草が頬に手を当てて微笑み、問掛けた。
そして現状に至る。
「で、何で僕も」
「いいじゃない、ほら行くわよ」
「観念しろ」
常にシャナの味方であるアラストールと、先程とは打って変わって喜色満面なシャナに内心苦笑しながら、悠二は暖簾をくぐった。
「ふう…」
悠二はまだ優に十数人は入れるだろう浴槽で一人、独占感を満喫していた。
他に客の姿はない。
今日だけたまたま客がいなかったのか、それとも極端な穴場なのか。
なんであれ、見事なくらいにさっぱりとしていた。
誰もいない静かな一人だけの空間。
(たまにはこういうのもいいかな…)
そんな事を考えながら、悠二は体を深く湯船に沈めた。
と、不意にガララ、と入り口のガラス戸が開いた音が聞こえてきた。
(誰かお客さんが来たのかな)
悠二は少し残念に思いながら、気を遣い隅に移動しようと立ち上がる。
が、湯煙を割り入ってきた人物を視認するなり、悠二は目を疑った。
「シ、シャナ!?」
目の前にバスタオルで体を隠し、長い黒髪をタオルでまとめたシャナが立っていた。
悠二はザバン、と逃げるように湯船に潜り込む。
「ななな、なななな」
赤く染まる頬、仄かに色付く肌、そして浮かぶ感情は…緊張。
「悠二…」
何でシャナがここに?ここ男湯だろ?いやそれよりも…
悠二の脳裏に様々な思考が浮かんでは消え、混迷の様相を高めていく。
そして、いつしか悠二の視線はバスタオルに隠された部分へと。
「っ」
それに勘付いたのか、微妙に眉をひそめるシャナ。
だが、意外な事それ以上は何もなく、ただ黙って悠二の浸っている浴槽に近付いていく。
そして、目の前に。
『………』
無言の時間。
そして唐突にシャナはバスタオルの結び目を解いた。
「っ!」
悠二は二律背反の感情に苛まれながらも、辛うじて理性を優先させて顔を伏せようとする。
だが一瞬遅く、バスタオルはフワリと浴槽の中に落ちていた。
「っ〜〜〜〜〜」
シャナは"学校指定の水着姿"で肩を震わせ、必死に感情の露呈を抑えていた。
片や頭を洗っている悠二はむす、とした表情で、
「そんなに笑う事はないだろ」
とぼやく。
タオルの下から現れたのは肌色ではなく、紺色。水着の肩紐だけずらし、その上にバスタオルを巻いていたのだ。
ペテンにかけられた。
赤面の数秒後、それにようやく気付き唖然とする悠二をシャナはしてやったりの笑顔で見つめていた。
「だっておかしいったらない、あの時の悠二の顔……っ」
再度その様子を思い出したのか、またも肩を震わせるシャナ。
その様子にばつの悪さを感じた悠二は、シャナが落ち着いたタイミングを見計らって、苦し紛れの反撃を試みる。
「…でも別にシャナのない胸を見ても嬉しくなうごっ!?」
が、全てを言う前に飛んできた洗面器に残りの言葉を封殺された。
「いてて…でも何でいきなりこんな事を?」
「こんな事って?」
素の反応。
「僕のこと騙した事だよ!」
「いつまでも過ぎたことを引っ張るのは男らしくないわよ、悠二」
「…………」
いともあっさり黙らされる。
男の沽券を持ち出すのは何か違うんじゃないか。
半ば憮然とした心持ちで悠二は頭からお湯をかぶり、二度目の洗髪を終えた。
と、
「ねえ、悠二」
先程とは違い、どこか躊躇いがちな様子でシャナが声をかけた。
「なんだよ」
対する悠二は苛立ち混じり。
その様子にシャナはやや戸惑いを見せるがそのまま言葉を繋げる。
「背中流してあげる」
ぴちょん。
一瞬で苛立ちも忘れ、(少なくとも悠二の)世界が止まる。
聞こえたのは蛇口からこぼれる水滴の音だけ。
「…えっと」
何と答えるべきか迷う。
先の失態も手伝い、悠二は真剣な筈のシャナの申し出に疑念を抱いてしまっていた。
無論、そんな悠二の内心など知る由もなく、歯切れの悪い返答にむっと眉を寄せる。
「何よ、いやなの?」
「あ、嫌って言うか…」
「言うか?」
「又騙すんじゃな痛っ!?」
石鹸がクリーンヒット。
「うるさいうるさいうるさい、人の厚意は素直に受け取りなさい」
怒声の中に僅かに混ざる照れの感情。
珍しくその感情の動きに気付いた悠二は、
(…悪かったと思ってるのかな?)
と思う。
事実、口にこそ出さないが、これはシャナの先の悪戯に対するお詫びのようなモノだった。
「わ、わかった、じゃ、頼むよ」
痛む頭を抑えつつ訂正する。
「うん」
シャナは湯船から立ち上がり、悠二の側までいくと、背後に中腰になる。
シャナの背中流しが始まった。
しゃこしゃこ、と泡立ったタオルでシャナが悠二の背中を擦る。
「どう、悠二?」
「うん、気持ちいい」
先のわだかまりも捨て、素直に答える。
もっとも、意外にもシャナの背中流しの技巧はかなりのもので、悠二自身虚偽の感想など思い付きもしなかったが。
疑問に思った悠二はシャナに尋ねる。
「シャナ、人の背中流すの初めてだよね?」
「?うん、どうして?」
「あ、いや、ただ本当に上手いからって思って…」
「…そう」
素っ気ない返事で返すシャナ。
だが内心はと言えば、
(悠二が褒めてくれた)
その思いが反芻されていた。
もっと悠二に喜んでもらいたい。
もっと悠二の嬉しそうな顔が見たい
そんな純粋な想いが浮かび、共鳴し、大きくなり、シャナの心を満たしていく。
そして、気付く。
「悠二、背中大きいね」
「え、そ、そうかな?」
「うん」
いままで気付かなかった少年の大きさ。
それは少女に不思議な気持ちを抱かせた。
昴る気持ち。それは少女を大胆にしていく。
もっと、何かできることは?
シャナは考え、思い出す。
そして、行動へ。
「…悠二、ちょっと暫く後ろ向かないで」
「え?どうして?」
「いいから」
「わ、わかった」
有無を言わせないシャナの口調に、悠二はただ前方だけを凝視する。
背後でシャナが何かしているのが分かったが、断腸の思いで耐えた。
そして数分後。
沈黙にも飽きて、後ろにいるシャナに何か話しかけようか、と思っていた矢先。
「うわっ!?」
柔らかい、ぬめる何かがいきなり背中に触れた感触に、悠二は体を震わせ、反射的に振り向いていた。
「…………」
悠二は言葉を失った。
シャナは裸だった。
いや、正確に言えば水着自体は着ているが、上半身だけが裸だった。
驚いているシャナを尻目に、悠二の視線は自然とそこへ。
ささやかなふくらみ。そしてその両の頂点にある桃色のトップ。
それは芸術と例えても異存など出ないと思わせられるほどに綺麗で美しかった。
そして見ればその胸を覆うようにソープの泡が張り付いている。
それを見て悠二の中で全てが繋がった。
「っ、馬鹿!見ないで!」
「!ご、ごめん!」
一瞬の間の後、我に返ったシャナが叱責を飛ばし、その声で遅れて我に返った悠二も慌てて前を向く。
「…………」
「…………」
幾度目かの沈黙。互いにただ赤面していることにも気付かず、時間が過ぎる。
そして、
「…始めるから」
不意にシャナが沈黙を破壊した。
何を、と悠二が問いかける暇もあらばこそ。
両の二の腕にシャナの指が添えられ、先の感触が背中に触れた。
(…っ)
不慣れでこそばゆく、それでいてどこか拒みがたい感覚に体を震わせる悠二。
背中に押し付けられたそれはゆっくりと上下に動き始め、二人に快感と呼ぶべき感覚を与え始める。
「っ…ふぅ…」
徐々に息が荒くなっていくことを実感するシャナ。
摩擦を緩和するソープの泡がいやらしい音を辺りに響かせ、より二人を昴めていく。
「…悠二…、どう…?」
どこか光惚とした声色でシャナが問いかけ、
「柔ら、かくて…気持ちいい…!」
何かに耐えるような声色で悠二が答える。
「ん…ぅ…」
"満足のいく"悠二の答えにシャナはより昴ぶる。
そして動きも緩急織り混ぜられ、中にある昴ぶりを行動へ変える。
「はぁ…、は…!」
間近で吐きだされるシャナの吐息。
背中で直に感じる少女の胸の柔らかさ。
そして公共の場で行うには余りに大胆な奉仕に、悠二は自らの中で抑えようのない衝動が生まれつつあるのを確かに感じていた。
「あ…」
不意にシャナの動きが止まった。
思わず振り返れば、紅潮したシャナの顔がすぐ側にあり、その視線は一点に注がれている。
その視線を辿り、悠二も今更ながら気づいた。
自らの"男"であるものが腰に巻かれたタオル越しに屹立していることに。
「悠二…これ…」
自分の"モノ"に集中しているシャナの視線。
その視線に、悠二は先の興奮も忘れた。
自分がシャナに欲情している。
そう現状を認識し、同時にその認識を嫌悪する。
シャナ。
フレイムヘイズであり、自分よりも"大きくて"、とても"強い"少女。
そんなシャナに欲情してしまった自分が堪らなく嫌だった。
暗澹たる気持ちで今すぐにでも逃げ出してしまいたい、そう悠二は思う。
だが、次の瞬間悠二に、意外な言葉がかけられた。
「うれしい、悠二」
悠二は一瞬自分の耳を疑う。
今、シャナは確かにうれしい、とそう言った。
その意味を図りかね、
「どうして…?」
振り返らずに呆然と問いかける。
「…だって、悠二が気持ち良くなってくれたってことなんでしょ?」
その答えに悠二は振り返る。
そこには確かにシャナの微笑みがあった。
「だから、うれしい」
シャナは、男性のこの現象が何を示しているのかを知らない。
『天道宮』にいた頃に一通りの教育は受けていたが、ヴィルヘルミナの親心か、単に不要と感じたのか、"その手"の教育は一切行われていなかった。
今の胸を使った奉仕でさえ、先の"自分の胸に対する指摘"を"思いだし"、それを悠二に知らしめるための合理的な行動だった(初めて感じた戦いとは違う昴ぶりに内心は戸惑いこそ覚えていたが)。
だからこそ、シャナは嬉しかった。
悠二の体の部位の明白な変化。それが気持ちいいことの証と理解できた事、またそう確信出来た自分が。
そして何より、悠二が気持ち良くなってくれた事が。
「………」
そんな"小さな少女"の純粋な姿を見て、悠二は自らを激しく悔いる。
悔いて、例えようのない気持ちをシャナに感じた。
今すぐこの少女をぎゅっと抱き締めてあげたい。
抱き締めて、たまらなく甘えたい。そんな気持ちを抱く。
そして、それだからこそ悠二は下手な笑顔を見せ、
「ありがとう…背中ながしたら、もう出ようか?」
そう答えた。
「…うん」
シャナも頷いた。
今の二人の中には暖かい何かが芽生えていた。
満点の星空の下、シャナと悠二は隣り合いながら雑踏の中帰路に就いていた。
二人は自分の中にある、新しく創られた想いを感じながら、歩く。
それは他から見れば瑣末なもの。
けれど、二人にとっては少しだけ大きなもの。
「少し寒いね」
「うん」
「コンビニにでも寄っていく?」
「余り遅くなると千草が心配するわよ」
「メロンパンで何が欲しい?」
「…デラックス」
互いの想いを知りながら、それはまだ形にはならない。
無数にある感情の中から、二人は違う何かを選び、時に淘汰し、時に受け入れ、ゆっくりと近付いていく。
ただ世界は在るべき形で二人の行く末を見つめ続ける。
了