御崎市は、閑寂たる世界だった。  
耳鳴りがきいんとする程に音のない、張り詰めた空気が流れていた。  
夜なのに電灯は一つもついていない。  
モノクロ灰色が、視界の際涯まで拡がっている。  
 
一人の少女が、劫火を身に纏っている。  
彼女のいるそこだけが、焔のめらめらした彩りを創り出していた。  
「わたしを殺せるとおもうのか? 浅薄なる貴様にか」  
口の端から一筋の赤血がほたり零れでた。  
 
彼女の視線は、目の前のマネキンに向けられていた。  
顔をのばせば、すぐにでもキスができそうなほどの距離から、少女を突き刺していた。  
デパートの婦人服コーナーに置いてあるような女性型のマネキンが、  
体の一部を変換させ、肌色の鋭い刃物を作り出していたのだ。  
 
肌だった刃物は、小柄な少女の下腹部に突き刺さっていた。  
またマネキンの髪の毛が、少女の体をきつく拘束している。  
模製人形は、口の端を醜く歪ませて、笑ったような表情を見せた。  
 
 
刃物は、少女の下半身の中で暴れている。  
生体器官を、血管を、脂肪を、リンパ腺を、  
ずぶりずぶりとぐりぐりと痛々しくくり抜くのだ。  
常人ならば、あまりの痛みと凄惨な光景にショック死してしまうだろう。  
 
そのときだった。少女の背中が、ぱちりぱちり爆ぜた音を立て始めた。  
「身の程を知れ――」その娘は鋭く叫んだ。  
「この紅世の燐子がっ!!」  
蝶が羽を広げるように、炎が空へぶわりと伸びていく。  
そのまま天を套い、大きな大きな紅蓮の双翼を形作る。  
背中の烽火は、まるで天上の月まで伸びていくかのようだ。  
炎の翼を、ゆっくりと、ひと羽ばたきだけ舞わせた。  
 
そして、二つの劫火の揺らぎを、  
マネキンにじゅわじゅわ熱く巻き付けた。  
「――っつっぅぅっ――っっぅ――ぁぃぁぃっっつっっ」  
あまりの熱さに、吠えて泣き叫び身もだえする模製人形。  
 
しかしその羽は外れない。  
マネキンの肌という肌から炎が入り込み、内側から燃焼させるのだ。  
ゴムの焼けるむせかえる臭いと白い煙が、  
人形の体中からごうごう吹き出した。  
 
人形の髪の毛が焼け落ちた。  
拘束から解放された少女は、腰の鞘に手を当てた。  
ゆっくりと抜き放つのは、巻き付く焔を従わせた、青く白く瀝る刀だった。  
認識する「存在」を根本から立つ刃、  
世界の秩序を守る者たる証しの刃、「贄殿遮那」という名の刀だった。  
そして彼女は鈴の鳴るような美しい声で、焼け落ちる模製人形に告げた。  
 
「焼き切れろ熾り尽くせよ煙り滅せよ――そのまま、きえて」  
 
マネキンに贄殿遮那を、ぐさり突き刺した。  
体内の炎が外へ解放された。マネキンは跡を残さず焼け焦げた。  
断末魔の叫びは、声にすらならないほどに一瞬の出来事だった。  
消し炭となったそれは、さらさらと宙へ舞い消えていった。  
 
女の子は、ため息をついた。そして狼狽を含んだ声を上げた。  
「悠二、悠二はどこ? あたしの悠二」  
そして周囲を見回した。崩れたビルの瓦礫の下から、  
少年の足が伸びていた。  
先ほどの戦闘で巻き添えになっていたのだ。  
瓦礫を持ち上げ、少年を助け出した。  
 
少女は正座して、自分の膝に彼の頭を載せた。  
顔をのぞき、胸を見た。  
少年の体には、青白い光がともっていた。「零時迷子」は機能しているようだった。  
「よかった……生きてる」  
女の子は心から安堵した。目の端が、滴の瞬きをはなった。  
頬を真っ赤に染めて、笑顔になった。  
 
稚幼たる表情をあどけない顔にし、  
鋭い眉薫をほころばせ、焔の姫君を妬殺する。  
 
少女の膝に乗っているその少年は、  
尽きることのない因果存在の源たることを他律され、  
同じ時を繰り返す恒久不変の体に縛られた存在。  
宝具「零時迷子」の転移者、坂井悠二だった。  
 
「あれ……シャナ? 僕はいったい」  
彼は目をゆっくりと開けた。  
シャナと呼ばれた女の子はうつ向いた。  
まるでいま自分の表情を、彼に見せたくないかのように。  
 
そして彼に目を合わせた。嬉しいのに怒っている顔だった。  
「ゆーじのばかばかばかっ、なに戦わないで気絶してんのよ。信じらんない」  
「しょうがないだろ。いきなり駅ビルを粉々にするんだもの、  
よけられないよ。僕は一対一の訓練しかしてないし」  
「身をかわす特訓してんでしょ? 応用を利かせなさいよ」  
「そんな無茶な」  
 
かるく咳をした。  
「まあいいわ。街を元に戻すから手伝ってよね」  
周囲を見回した。駅ビルは粉々に崩れており、  
百貨店は天井が無くなり、街路樹や花壇はすでに燃え尽きていた。  
「零時迷子があれば余裕でしょ? 一瞬よ」  
「……けど、君の治療の方が先かな。ぼろぼろだよ、その服」  
シャナは戦闘で、体中傷だらけであった。  
服はローライズパンツ一枚にまでなっていた。それすらも破れそうだった。  
「馬鹿っ。何見てんのよ、あんた変態じゃないの? 今すぐ死になさいよっ」  
「ごめん。謝るから、贄殿遮那で頭を殴るのは止めてよ。  
僕まで存在の力がゼロになりそう」  
 
シャナは目を閉じ、ゆっくりと自在法を発動させた。  
物質の存在に干渉し、破壊と修復を自在にコントロールできる業だ。  
いまは街の修復に力のベクトルを向けている。  
 
「悠二、あなたの存在をちょうだい」  
「うん、好きなだけ持って行って。君になら、いくらでも捧げるよ」  
「……ばか。いくら使っても無くならないから、遠慮なく使うわよ」  
シャナの左手が、心臓に伸びていった。  
 
そこに埋め込まれたるは「零時迷子」。  
尽きることのない存在供給の永久機関。  
汲めども汲めどもなお湧き出る力の泉。  
『でも、悠二の心だけは、わたしのもの。永遠にわたしだけのもの』  
 
悠二のとくとく脈打つ心臓音を、手の中で感じている。  
少女は、自分の右手を、自分の小さな胸に当てた。  
心臓のとくんとくん音を、大好きな少年の拍動にあわせた。  
『これが悠二の音。わたしも同じ音……』  
「なにか言った? シャナ」  
「何でもないっ」  
 
二人は街を見上げた。何もかもが元に戻っていた。  
再開発できれいになった御崎駅ビルに、地元資本の百貨店、  
そして手入れの行き届いた街路の緑地だ。  
 
燐子が存在を食いに襲ってきた前の状態に、  
時が逆行したかのように修復されていた。  
 
「あぁ、今日も帰ろうか。おなか空いたね」  
悠二は大きく伸びをした。  
「千草ママ、メロンパンをたくさん買ったって言ってたわ」  
「うん、隣町に美味しいパン屋ができたんだって。お母さん、  
大きな袋を抱えて帰ってきてたよ」  
「わたし、外がカリカリしてて中身がモフモフしてないと食べないって、  
ママ知ってるのかな?」  
「シャナの好物なら、アラストール以上に分かっていると思うよ?   
食いしん坊さんをお腹いっぱいにするって、はりきってたからね」  
「うるさいっ!! もう封絶を解くからっ」  
 
自在式が終わり、幻界の結界「封絶」を解いた。  
駅前の喧騒が戻ってくる、ネオンの色彩が甦り始まる、  
止まった時間が動き出す。  
また世界の日常が始まるのだ――  
 
 
「坂井きゅん、こんばんは」  
二人の目の前に、スタイルの良い、  
制服が似合っている女の子が立っていた。  
学生鞄を両手に抱え、照れくさそうに言った。  
 
「よ、吉田さん? どうして僕たちの目の前にいるの?」  
「塾のかえりだったけど、坂井きゅんの匂いがしたから待っていたの」  
そこにシャナが割り込んできた。  
 
「なによ匂いって、訳わかんない。悠二も悠二なら、あんたもあんたね」  
「ごめんゆかんりちゃん、冗談よ。  
偶然あなたたちの後ろ姿を見たから追ってきたの。  
一瞬立ちくらみがした気がするけど……」  
 
封絶を張ったときだ。隔絶した空間に燐子を追い込んだとき、  
その外にいる空間は、時間の流れが止まっていたのだ。  
「これって、おっぱいが大きいから立ちくらみをしたのかな?   
ゆかりちゃんはどう思う?」  
「胸の大きさなんて関係ないもんっ、ぜんぜん関係ないんだからっ!!」  
 
「あっごめんなさい。ゆかりちゃんの胸は発展途上中だものね」  
「殺す、いま紅蓮の双翼で焼き殺す」  
 
悠二は、少女の間に張り詰めた空気をほぐそうとした。  
「まあまあシャナ、落ち着いてよ。吉田さんもよかったら、一緒に帰らない? 同じ方向だし、最近物騒って聞くし」  
「じゃあお言葉に甘えようかな、わたしも一人じゃ怖いって思ってたから」  
にやあっと、シャナに勝ち誇った顔を向けた吉田さん。それを見て、一人でいきり立つシャナ。  
「悠二の馬鹿っ。あんたなんて嫌い、大っ嫌いよう」  
「え? 何でだよ、そこでどうして怒るんだよシャナ?」  
「そんなの知らないっ」  
 
自動車のエンジン音が流れる、目に映るのは青白い残月。  
シャナは自分の帰るべき所へ帰っていく。  
炎の揺らぎのかなた紅世の住む、冷たく冥なる世界にではない。  
 
「って、なにゆーじにくっついてるのよ? ひとりで帰ったら」  
「帰り道は怖いから、こうしてくっついてるの。  
坂井きゅんの背中、とっても温かいから」  
「吉田さん、胸……密着してるって」  
「御免なさい坂井くん。ゆかりちゃんも、  
バストが大きいと色々大変だと思わない?」  
「当てつけ禁止っ、悠二もデレってしないで!!」  
 
カリカリモフモフなメロンパンがたくさん置いてあり、  
千草ママの温かい微笑みが待っている場所へ帰るのだ。  
 
世界最強のフレイムヘイズは、悠二たちにとって小さい胸の、  
坂井家の可愛い一員なのだから。  
皆と過ごすこの瞬間だけは心安らかに――どうか心安らかに。  
 
 
  終  
 

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