それは、ある日のことだった。  
 
「あの、この前はすみませんでした」  
 今にも降り出してきそうな帰り道の中、僕は唐突に目の前の女の子に頭を下げられた。  
 見た目は小柄で無機質で繊細な容貌を持つ少女。近衛史菜さんに。  
「え‥‥何だい、突然?」  
 急に頭を下げられて、僕は慌ててしまった。  
 ひょっとしたら彼女に気を使わせてしまうような、至らない点があったのだろうかと  
困惑していると、近衛さんは顔を上げて申し訳なさそうに続きを話してくれた。  
「緒方さんに聞いたんです。お店の代金を、支払ってくれたんですよね」  
「あぁ‥‥」  
 そういえば、開店したばかりの『デカ盛り天国』とかいう料理店で食事したんだっけ。  
 あの時に近衛さんが急にいなくなって、捜しに行くとき外に出なきゃなんないから、  
とりあえず立て替えておいたんだった。  
 今まですっかり忘れてたな。  
「あの時は迷惑ばかりかけてしまって‥‥‥」  
「そんなに気にしなくてもいいよ」  
 まぁ、確かにふらふら出歩いたのはシャナの言うとおり感心できないけど、近衛さんだって  
悪気はなかったわけだし、鳥の雛を助けようとしていたんだから、ただ否定するわけにはいかない。  
 僕もお世話係を任せられたのに目を離していたわけだしね。  
「あの‥‥、いくら弁償すればいいでしょうか?」  
 そう言いながらサイフに手を入れるのを見て、僕は心底焦った。  
「ま、待って! お金はいいよ!」  
 そりゃあ、あんな規格外なラーメンとかパフェとか出す店なんだから、  
出費とかも、他の店より高くついたけど、近衛さんの分は吉田さんと緒方さんの割りカンだったから  
そんなに掛からなかったし、第一、弁償ですって一万円とか五千円とかポンポン出されたら逆に困る。  
 普通の学生ならそんなに出さないだろうけど、近衛さんは出してしまいそうな気がする。  
「でも‥‥」  
 悲しそうにする彼女をなんとか説得して、ようやくその話はお流れになった。  
しかし、ほっとしたのも束の間、  
「じゃあ、せめて今夜は家でご馳走させてください」  
 今度は、説得できそうになかった。  
 
 
 そんなわけで、近衛さんの家の前まで来たわけだけど、  
「ここが私のおうちです」  
「‥‥‥‥」  
 絶句しかできない。  
 でかい。本当にでかい。下手すると旧家とか言われている佐藤のとこよりでかいんじゃないか。  
 いや、送り迎えをしていた時に遠目で見ていたんだけど、柵の距離が結構あったからなぁ。  
 呆然としている僕だったが、扉をノックする音で我に返った。  
 見れば近衛さんが扉に付いている取っ手のようなものを持っていた。  
 呼び鈴の代わりだろうか? 随分とクラシックな造りだ。  
 それからしばらく経たないうちに、扉が開かれた。  
「‥これはお嬢様、お帰りなさいませ」  
 中から出てきたのはとても人柄のよさそうな執事の人だった。  
 黒いズボンに、白いシャツ、蝶ネクタイに袖の無い黒いベストと、これまたクラシックな姿だ。  
 歳は‥‥六十代くらいだろうか。左右に口ひげをたくわえ、白髪が交じった髪を後ろで纏めている。  
「そちらのお方は?」  
「坂井さんです」  
「おぉ、ではこのお方がお嬢様の‥‥」  
 執事の人は驚いたような顔をすると、家から一歩進み出て、礼儀正しく挨拶をしてきた。  
「初めまして、わたくしはお嬢様にお仕えしている執事でございます。学校ではお嬢様の  
お世話係をしてくださっているとか。わたくしからもお礼を言わせてください」  
 そこまで言って、深々と頭を下げる。  
「お嬢様をご助力してくださり、ありがとうございます」  
「そ、そんな! 頭を上げてください!」  
 今日で二度目の礼である。  
 なんとか頭を上げてもらって、僕はしどろもどろになりながらも話し始めた。  
「えっと、その、別に礼を言われるようなことじゃないですよ。友達だから‥‥当たり前、です」  
 友達って言ってもいい‥‥よね。  
 そんな僕の言葉を聞いて、執事の人は好意的な笑みを浮かべていた。  
 近衛さんも嬉しそうにしている、ように見える。  
「じいや、今日は坂井さんを家でご馳走しようと思ってるんです」  
「おぉ、それは素晴らしいですね。さっそく準備しましょう」  
 そう言って執事のじいやさんはこちらに向かって恭しく扉を開けた。  
「では、どうぞ中へお入りください」  
 近衛さんが僕の服を掴んでくいくいと引っ張る。  
その、ちょっと照れくさそうな顔を見て、僕も自然と頬が緩むのを感じた。  
 
 
 近衛さんの家は純西洋の屋敷のようなところだった。  
 中央から左右に広がっていく階段、壁には芸術館で見るような壁画が等間隔で配置されている。  
「では、これより食事の支度をして参ります」  
 大広間から食卓まで移動したところで、  
 にこやかに礼をしてから、丁寧な動作でその場を後にするじいやさん。  
 その華麗とも言える物腰を見て、僕は感心するように唸った。  
「どうしたんですか?」  
「いや、人によってこうも違いが出るんだなぁって思って」  
 近衛さんにはよく意味が分からなかったらしい。不思議そうに首をちょこんと傾げていた。  
 ついつい同じ仕える者だから、じいやさんとシャナの親代わりのあの人を比べてみてしまったが、  
はっきり言ってたち振る舞いに天と地ほど違いがあるな。いや、月とスッポンと言ったほうが正しいかもしれない。  
 まぁ、あの人はフレイムヘイズなわけだし、本職の人と比べること自体、失礼な行為なのかもしれないけど。  
 それに、もしもあんなのがメイドとして仕えていたら、他のメイドの人たち、やってらんないだろうしなぁ。  
 僕は、テーブルに両手を付いて天井のほうに視線を移した。  
 
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 坂井悠二が非常に不謹慎なことを考えていた同時刻。  
「今なにか、とてつもなく不愉快な気配を感じたであります」  
 いつも通りの仏頂面をしたメイド服のフレイムヘイズ。ヴィルヘルミナ・カルメルが、  
御崎市から遠く離れた場所で、長椅子に座っていた。  
 どこかの建物の中らしいそこは、慌しく人が行き交っている。  
(本当は今日も、あのミステスの鍛錬を行うつもりだったのでありますが‥‥)  
(救援優先)  
 脳裏によぎる雑念を長年の相棒であるティアマトーがたしなめてくる。  
(わかっているであります)  
 彼女がここに来たのは外界宿(アウトロー) からすぐに来て欲しいと火急の呼び出しを受けたからであった。  
今は特にかかずらわっている紅世関連の事件はなかったし、断る理由もなかったので、明朝一番からすぐにここまで  
来たのだが、彼女はどこか力なく視線を落としていた。  
(あのお方も最近元気のないご様子‥‥いったい何が起こったのか)  
(孤影悄然)  
(まぁ、おおかたあのミステスのせいでありましょうが‥‥次の鍛錬でとっちめるであります)  
(賛成)  
 そうやって静かに闘志をメラメラ燃えさせていたところで、呼び出しの声が掛かった。  
 機械的な動作で椅子から立ち上がって、ふと彼女は窓の外を見る。  
(‥‥帰ってきたら、少し間を置いて、あのお方に接触してみるでありますか)  
(対話対談)  
(了解、まずは目の前の仕事をきっちりこなすであります)  
 決意を新たに、彼女はキビキビとその場を後にした。  
 
 ガラス越しに見える僅かな星の瞬きが、静かに夜空で輝いていた‥‥。  
 
 
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「どうしたんですか?」  
「いや、なんか急に寒気が‥‥」  
 はは、きっと気のせいだよ気のせいと笑ったが、何となく窓の外とか後ろの辺りの気配を探ってしまう。  
 そうだよな‥‥‥今朝、外界宿(アウトロー)に行くって言ってたし、うん。  
「‥‥あれ?」  
 いつの間にか近衛さんが消えている。  
 首を振って辺りを見渡したが、どこにもその姿が見えない。  
「トイレかな」  
 まぁ、ここは彼女の家の中なわけだし、  
 いくらなんでも自分の家で遭難とか、そういう危険なことはないだろう。  
 そう結論してから、椅子に座って待つことにした。  
 だが、十分、三十分と過ぎて、一時間もしたあたりから、だんだん焦燥感に駆られ始めてきた。  
 まさか本当になにかあったんじゃ。  
「坂井様、お食事の支度が整いました」  
 椅子から腰を浮かしかけたところで、  
 執事のじいやさんが、沢山の料理を積んだトレーを押しながら、食卓にやってきた。  
「あ、あの、近衛さんがいなくなっちゃって。何か心当たりはありませんか?」  
「‥‥? お嬢様ならこちらにいらっしゃいますよ」  
 え? と首を捻った僕だが、じいやさんのすぐ後ろにいつの間にか近衛さんがいた。  
「どうかしましたか?」  
 ううぅ‥。取り越し苦労だったのがわかって安心したけれど、これで彼女を見失うのは三度目だ。  
 正直、お世話係などと称している自分が恥ずかしくなってくる。  
 これからは近衛さんの動向をしっかりと見て、今度こそ見失わないようにしよう!  
 
 近衛さんの家の晩餐は、それは豪華なものだった。  
 並べられる料理の品数に驚いたが、一品一品の量が抑えられており、  
 一度の食事で沢山の味が楽しめるようになっている。  
 それぞれの料理の完成度も見事で、メインディッシュであろうスペアリブという料理は、  
 口に入れるだけで溶けていってしまいそうな程トロトロに作られていた。  
 食事を終えてから、近衛さんがおずおずと口を開いた。  
「あの‥‥、どの料理が一番おいしかったですか?」  
 僕は顎に手を置いて考えたが、ここで嘘を言ったってしょうがないし、正直に答えることにした。  
「このスープが、一番よかったかな」  
 僕の答えに近衛さんは息を呑んでいるようだった。顔を上げて目線を交わすようにこちらを見る。  
瞳が『どうしてそう思ったんですか?』と語ってきているような気がしたので、僕は慎重に言葉を紡いだ。  
「確かに、他の料理もすごくおいしかったけど、このスープはとても優しい味がしたんだ。  
飽きが来ないっていうか、何杯でも飲みたいって気がして‥‥‥」  
 まずい、彼女の頬にだんだん赤みが増してきている、怒ってるのかもしれない。  
 ちょっと言い過ぎただろうか、なにかフォローしたほうがいいのだろうか。  
「‥‥スープ、私が作ったんです」  
「え?」  
 その答えで、僕はようやく、近衛さんがいなくなった理由がわかった。  
「そっか、食事の準備をしていたんだね」  
「はい、ご馳走するって言いましたから」  
 自分も何か作らなきゃ、って思ったんだろうな。  
 一生懸命に作っている姿が目に浮かんでくるようだった。  
「‥‥嬉しいです‥‥」  
 
 
 その後も僕たちは楽しく談笑していた。  
色んなことを沢山話しているうちに、すっかり夜も遅くしまった。  
「あ‥‥そろそろ帰らなきゃ」  
 そう言うと、近衛さんは明らかに残念そうな表情をした。  
もう少しくらい。と言う声が聞こえてきそうだったが、それを懸命に抑えているようだった。  
 一緒に大広間を通って、玄関まで向かう。  
「それじゃ、近衛さん、今日はご馳走様でした」  
 近衛さんは何も答えなかった。目元を前髪で隠している。  
 泣いているのかもしれない。  
「また明日、学校で会えるから‥‥ね?」  
 彼女は何も、答えない。  
 ‥‥今日はカルメルさんはいない。  
 けど、今日こそシャナが、鍛錬に来てくれるかもしれない。  
 長居するわけには、いかないんだ。  
 心の中で彼女に謝ってから、僕は玄関の扉を開けようとする。  
 くいっ‥‥。  
「んっ?」  
 近衛さんが、僕のシャツを掴んでいた。  
「近衛さん?」  
「‥‥‥」  
 近衛さんは何も言わずに、ぎゅうぅと、シャツを掴んできた。  
 その手は、ほんのわずかに震えている。  
「近衛さん‥」  
 それでも離れようとすると、今度は両手でシャツを掴む。  
 わずかに降りる沈黙。  
 ‥‥彼女が何も言わないのは、きっとわがままを言いたくないんだろうと思う。  
 けど、まだ一緒にいたいっていう気持ちもあって‥‥‥。  
 僕もその気持ちは分かる。  
 子供の頃、初めて出来た友達と一緒に遊んでいた頃、いつも帰りの時間が来るのが寂しかった。  
 ずっと一緒に遊んでいたいと泣いた日も、きっとあった。  
 でも、僕は、  
「どうかしましたか?」  
 言われて視線を後ろに向けると、じいやさんがこちらに歩いてきた。  
 
 僕は‥‥‥‥‥‥  
 
  少しだけ、言うのをためらった。  
⇒ はっきりと帰ることを告げた。  
  母さんのところに帰りたいんだ。  
 
 
「そうですか‥‥」  
 じいやさんの呟きにも残念そうな響きが混じっていたけど、  
 すぐにしゃんと表情を戻して、  
「では、せめてお見送りをさせてください」  
 そう言って、じいやさんは来たとき同様に恭しく扉を開ける。  
 僕は、近衛さんに向き直って、子供を宥めるように話しかけた。  
「今日は、本当に楽しかった」  
 彼女は何も答えない。  
「また、遊びに来てもいいかな?」  
 ここで初めて彼女は顔を上げてくれた。  
 熱いもので潤みきった瞳が、僕の瞳を覗き込む。  
 何か言おうと口を動かしていたが、結局何も言わずにコクンと頷いてくれた。  
「ありがとう、近衛さん」  
 僕はそう言って彼女に向かって微笑む。  
 近衛さんも泣き笑いの表情で微笑んだ。  
 
 
 
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「行ってしまわれましたね」  
 遠くに離れていく坂井悠二の背中を見送って、じいやが語りかける。  
「彼は約束を違えるような人ではないでしょう。また近いうちにいらしてくださいますよ」  
 史菜はその言葉に頷いた。そして屋敷の中へ踵を返す。  
 その頬に一筋の雫が流れていたのを、長年仕えていた執事は見逃さなかった。  
(お嬢様‥‥)  
 彼は、守るべき君主に対して労わりの気持ちでいっぱいになったが、あえて何も言わなかった。  
 自分はあくまでも彼女に仕えるもの。  
 自分の役割は、彼女の望みを叶えることなのだ。  
 彼女の悲しみを癒すのは、自分でない誰かがやるべきことなのだろう。  
 じいやはこれまで通りに彼女の後をしずしずと付いていった。  
 今も、そしてこれからも、彼女を助ける影として。  
 
 
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 辺りは、すっかり夜になっていた。  
 ほっそりとした住宅街を電柱に添えられた街灯が照らしている。  
「近衛さん、寂しそうだったな」  
 ひょっとしたら、もう少しだけ一緒にいてあげるべきだったのかもしれない。  
 でも‥‥‥。  
(何が正しいかなんて、当事者にはわからないんだ。なら僕は、自分が信じた道を選ぶ)  
 それが例え間違いだったとしても。  
 きっと、僕は悲しんで、でも後悔だけはしないように。  
「‥‥さて!」  
 今日こそシャナが待っているかもしれないんだ、  
『遅いわよ、悠二!』なんて怒鳴られたらカッコ悪い。急いで帰ろう!  
 僕は誰もいない暗闇の中を、息せき切って駆け出していった。  
 
 

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