『Make allowance for all the way』
季節はもう夏である。
まだ暦の上ではそうじゃないだとか、梅雨が明けるまではとか言われても、ぼくは夏だと言い張る。
そもそも春と秋は単なる過渡期にすぎない。
日本は1年のうち5ヶ月ずつが暑い夏と寒い冬であり、1ヶ月の過渡期を春・秋と呼んでいる。
3ヶ月ずつ均等に分けるなんてとんでもない。
などとひとしきり暑さを忘れるために考え事をしたところで、
気温が下がることも涼しい風が吹くこともない。
不快にさせる暑さを家に帰って冷房の下で忘れようと決意して、ぼくは学校の昇降口を出た。
正門から出るよりも、中庭を通って裏門から帰った方がぼくの家は近い。
陽射しもあたらない幾分涼しい校舎裏を通ろうと、ぼくはつきあたりまで進んで曲がった。
「おまえが吸ったんだろ! さっさと白状しろ!」
急に耳が痛くなるほどの怒号を浴びせられた、のはぼくではなく、
頭の固そうな教師の前で縮こまっている女子生徒だった。
元々、小柄な女子がうつむいていると、ぼくの肩よりも低い位置に頭がある。
「ん? なんだお前は」
ぼくに気づいた教師が目をつりあげたまま振り返る。
「いえ別に。帰りぎわに通りかかったら何事かと思っただけです」
「こいつが隠れてタバコを吸っていたからな。お前には関係ない。さっさと帰れ」
なるほど、教師は確かに吸い口がピンク色に染まったタバコの吸殻をもっている。
「だから、わたしはタバコなんて吸っていません」
小柄な体格だが内面の芯はしっかりとしていそうな声で、女子生徒は嫌疑を否認している。
「嘘を言うな! 俺が来たときにはお前がここにいて、
まだ火がついたコイツが足元にあったじゃないか!」
ふうん、タバコを吸っていたのは、この女子生徒か否か。
ぼくが導き出す答えは、もちろん否。
ぼくはポケットからティッシュを取り出して、
「ねえ、このティッシュで口を拭いてみてよ」
うつむいている女子生徒に渡す。女子生徒は一瞬、意味がわからない顔をしていたが、
ぼくが教師の手を指し示すと、合点がいったようだった。
うん、頭は悪くないなこの娘。
「なんだお前は。早く帰れといっただろう」
「いえいえ、先生はその手にもっているタバコを、
この人が吸ったとおっしゃるんですよね? だけどそんなはずありませんよ」
「どうしてそんなことが言える?」
「だってほら、タバコの吸い口にはリップクリームの色がしっかりと付着していますよね。
だけどこの人の唇には、そんなもの塗っていませんから」
女子生徒の唇を拭いたティッシュには、何色も付着していなかった。
彼女は微笑んでそれを掲げる。
「くっ……」
教師はうなり声をあげてから、ぼくたちにその場から去るように言い渡した。
「災難だったね」
ぼくと女子生徒は一緒に裏門から下校していた。
「わたし、やってないって言っても、あの先生は全く聞いてくれなくて」
「ぼくが指摘しなかったら、職員室に連れていかれたかもしれないね」
「そうだったと思う。ありがとう、小鳩くん」
「あれ、どうして僕の名前を?」
問いかけると女子生徒は顔をゆるませて俯く。
「こ、小鳩くんはね、さっきみたいな謎解きで有名だから」
「ああ、そうか。案外、学校中で知らない人はいないかもしれないな」
自慢じゃないが、ぼくの探偵としての素性は鷹羽中に広まっているはずだ。
「わたし、小佐内ゆき」
小柄な女子生徒が名乗る。小佐内、ゆき?
クラスの誰かが噂をしているのを聞いた気が…。
いや、噂で先入観をもつのは相手に失礼か。
小佐内ゆき。目の前の小柄な女子生徒になんとピッタリした名前だろう。
「小佐内さん、ね。ぼくはもう知っているだろうけど、小鳩常悟郎」
「うん、よろしくね」
満面、といってもいいくらいの笑みを浮かべる小佐内さん。
なぜだろう?
さっきまで教師に濡れ衣をきせられていたことを思うと、
少し落ち込んでいてもおかしくないのに。
「ねえ、小鳩くん。実はわたしね…」
小佐内さんは笑ったまま、
「校舎裏でタバコを吸っていた犯人を、目撃していたの」
「え……、どうしてそのことをさっき言わなかったんだい」
「ダメよ。きっとわたしが言い逃れをしているとしか思わなかったはず」
それは、たしかにそうだろう。
あの教師は小佐内さんが犯人だと決め付けていたし。
「だったらこれから小佐内さんはどうするつもり?」
「小鳩くんはどうしたらいいと思う?」
質問に質問を返してくるのは嫌いだが。
「それは、難しい問題だね。目撃した犯人を突き止めるとする。
本人にタバコをやめるように言うなんて無意味だろう。
かといってさっきの教師に伝えるのもまたしかり。
嫌なことは忘れてしまうのも1つの方法だ。
結局は小佐内さんがどうしたいかによると思う」
「そうなの。小鳩くんは、やっぱり頭がいい人なのね」
なんだかその言い回しがひっかかる。
ほめるどころか嘲りを受けたような感覚。
「わたしはこっちだから。小鳩くん、さっきは本当にありがとう」
狭い分かれ道に入った小佐内さんとは、そこで別れた。
なんだろう。妙に引っかかる。
ぼくが小佐内さんの立場になって、濡れ衣をきせられそうになっていたとしても、
それを他の人から助けられていたとしても、明日になれば気を取り直して忘れると思う。
だけど小佐内さんの様子は、このままでは終わらない気がしていた。
次の日、何かが起こることをぼくは『期待』しながら学校に行き、授業を受けた。
だが昼休みになっても騒ぎになるようなことは起こらず、
校舎をめぐって全てのクラスをのぞいてみても、変わったことを見聞きすることはなかった。
不思議なこと、目新しいことはなく、期末テストまで1週間を切っていたので、
そろそろ本格的に勉強をする必要に僕は迫られていた。
期末テストの前日、勉強の追い込みで寝不足のぼくは、始業時間ギリギリに登校していた。
早足で昇降口まで来ると、なぜだか大勢の生徒たちで溢れていた。
彼らは壁に貼られているものに注目している。
人ごみを掻き分け、背伸びをしてようやく何があるのかが見えた。
それはプリントアウトされた写真のようで、
一枚はここ鷹羽中の制服を着た女子生徒が喫煙をしている姿を正面からとらえたもの。
もう1つはスーツ姿の男性が女子高生らしき人(少なくともこの周辺の制服ではない)と、
不謹慎な宿泊施設の入り口に立っているもの。
しかしこちらの方は後姿なので誰かはっきりしない。
この場にじっと立っているだけで、周囲から様々な情報が入ってくる。
漏れ聞く会話を信じるならば、
喫煙している女子は同学年で日頃から素行の悪さを知られていたらしい。
そして男性の方は歴史の教師に似ているようだ。
ぼくは授業を受けたことがないからあまりピンとこなかったが。
そこまで聞いたところでぼくはあることを考えてしまった。
誰がこの写真をこんな人目につく場所に貼ったのかを。
そしてそれは推理も調査もするまでもなく明白だと思った。
放課後、ぼくは学校の裏門である人物を待っていた。
テストの前日だということで、普段は騒がしい運動部のかけ声もない。
まばらに生徒が下校するなか、ぼくの探していた人もゆるやかに歩いて裏門にやってきた。
「やあ小佐内さん。少し話があるんだけど、いいかな」
ぼくを見てキョトンとした顔をした小佐内さんが、
次の瞬間には少し口元をあげたように思えた。
「いいよ小鳩くん。わたし、この前のお礼をしたいと思ってたの」
場所を変えたいという小佐内さんの希望で、ぼくは彼女のあとについていく。
先日、小佐内さんと別れた場所から小道に入って少し進んだところに、こじんまりとした店があった。
看板には『プチ・プリンス』とある。洋菓子店のようだった。
店内のスペースはほとんどが商品の陳列で埋められていたが、
奥に1セットだけテーブルとイスが設置されていて、
そこで買ったものを召し上がれることになっていた。
小佐内さんがティラミスを2つ購入してテーブルに進む。
ぼくたちは向かい合わせに座った。
「ティラミスだったらここのお店がダントツなの」
棚の中から紙皿とフォークを取り出して、慣れた手つきでティラミスをのせる。
甘い物は好きでないしどちらかというと苦手だが、小佐内さんの好意は断るほどではない。
フォークに刺して口に運ぶ。
「ん、たしかに普通とは違うね。口の中ですぐに溶けて、
クリームの甘さとチョコレートのほろ苦さが絶妙に混ざっているよ」
ぼくの感想を聞きながら嬉々として小山内さんもティラミスを食べる。
「これも美味しいけど、この店にはもう1種類ティラミスがあるの」
「へえ。これとどう違うのかな」
「使われている材料が全く段違いよ。
厳選された砂糖、生クリーム、カカオ、ココパウダーで混合してつくっているの。
配合比は企業秘密みたい。
だけどこのティラミス、年末期間の夜間しか販売されないの」
さて、このまま女の子とテーブルを挟んで談笑するのも悪くない。
が、ぼくはそのために小佐内さんと話しているわけではない。
「随分と甘い物には詳しいようだね。今度、機会があったら話そう。
ぼくがわざわざ小佐内さんを裏門で待っていたのはね、
今朝の学校であった騒ぎについてなんだ」
すっ、と小佐内さんの笑みが消え、口元を引き締める。
「朝からその話題ばっかりで、もう飽き飽き」
「まあそう言わずに。今から噂や憶測では耳にしないことを聞かせられると思うから」
ここで一呼吸。小佐内さんは口をつぐんでいる。
だがその様子は、獲物が不用意な動きをしたら飛び掛ってのど笛を噛みちぎろうとする狼のようだ。
「あの写真が貼り出されたことで最も痛い目にあったのは、
喫煙の事実が学校側に知られた女子生徒だ」
「同情の余地がないことだわ」
「その通りだね。年が明けたら高校受験も間近だというのに。
だけど一体、誰があの女子生徒の喫煙現場を写真に収めて、
わざわざ昇降口に置いていったんだろう」
「そうね……、ああいう人はいろんな方面と敵対していてもおかしくないと思う。
品行方正でないと許せない人や、仲間内の不良グループからも。
あ、そういえば以前、補導された人たちがいたじゃない?
案外、その人たちかもしれないわね」
言葉としてはもっともらしいけど、言っている小佐内さん自身が全く信じていないはずだ。
「その可能性もなくはないけど、
ぼくも女子生徒に恨みを抱いている人なら知っているよ」
「……そう、知っているの」
ぼくは息を吸い込んで、言った。
「君のことだよ、小佐内さん」
「わたしが? どうして。
だってわたし、あの人と面識がないのよ。
一緒のクラスになったこともないし」
「だけど小佐内さんは、
その人のせいで『喫煙の疑いをかけられ』そうになっただろ」
「それだけだと理由として弱くないかしら。
さっき言ったように、
あの人を恨んでいる人は他にもいておかしくないのよ。
小鳩くんが言った理由でわたしがその一人だとしても、
わたしがやったという証拠はあるの?」
「証拠は今のところないね。
だけどぼくが小佐内さんを疑ったわけなら言えるよ。
それは貼り出されたもう1つの写真さ。
あれに写っている男性は、うちの中学の歴史教師に似ているともっぱら言われているね。
そしてその人は、あのとき校舎裏で小佐内さんが喫煙していたと疑って詰問していた。
それが元であんな写真をでっち上げたのかもしれない。
間近ではよく見ていないけど、あの写真は合成のようだった」
「さも真実かのように言っているけど、それは全て小鳩くんの推測でしょう?
誰がやったかを特定する証拠は何ひとつない。
だけどそうね、もしあの女子生徒があのとき校舎裏で見かけた人だったら、わたしの溜飲は下がる。
わたしの言い分も聞かずに喫煙をしていたと決め付けた先生が、
小鳩くんの言う合成写真で援助交際をしていたという噂が広まったなら、
あの先生は人を疑うことの意味を知ったと思うわ」
その言葉はもはや自白に等しく、しかし仮定の話だと言ってしまえばそれだけだった。
でもぼくにとっては十分すぎる言葉で、あれは小佐内さんの仕業だとわかればよかった。
「ぼくが思うに、これは片がつかない事だ。
あの写真を貼った人物は周到に準備して細心の注意を払って事に及んでいる。
推論をいくら重ねて調査しても、証拠をつかめそうにない」
小佐内さんはぼくの言葉に一笑して、
「変な小鳩くん。まるで告発者を犯人であるかのように言ってる。
悪いのは中学生の身でありながら、所かまわずに喫煙をしていた人よね」
「喫煙の件に関しては正当性がないとはいえない。
だけど援助交際の件については、根も葉もないことで濡れ衣を着せようとしているだけだ」
あのとき、校舎裏で教師に向けていた表情で、今ぼくをみつめる双眸の中に込められているのは――
「……本当に、濡れ衣だって言い切れる?」
「え?」
「小鳩くんはこう思っているんでしょう。
写真を貼った人物は、喫煙に疑いを不当にかけられたことに対する怒りをはらすためにやったのだと。
そしてそのために女子生徒の喫煙現場を実際にとらえた。
だけど教師に対しては材料が何も無かったから、援助交際を『でっち上げた』んだって、そう思っているのよね?」
「そうだよ。なにかおかしいことはあるかい」
「怒りを感じている相手がいる。
だけどその相手を攻撃するときに、近くにいる相手まで進んで巻き添えを与えようとするほど、
小鳩くんのいう人物は容赦がないと見ているというの」
関与している人物で恨みをおぼえていない……そうか!
援助交際相手!
その人にまで及ばせないために、合成写真を用いたのか。
それだけでも教師に対しては十分な脅しにもなる。
「……もう、わたしは帰るね。小鳩くんは噂通りの人だった。
わたしと出会ってすぐに2回も推理を見せてくれた。
また機会があったら、推理を披露しても良いよ。楽しみにしてるから」
いつの間にか綺麗にティラミスを食べきっていた小佐内さんが、席を立って足音もたてずに出て行く。
終始、笑顔だった。
傍からみると甘い物に満足していると映るであろう満面。
だがそれは標的となる獲物を仕留めた昏い笑み。
ぼくの眼にしっかりと焼きついていた……。
余談であり後日談。
喫煙の事実が知られた女子生徒は期末テストの翌日から停学の処分となり、
そして歴史教師は依願退職という形で学校から去った。