「…やっと寝たか…」  
出海は健やかな寝息を立てる我が子を見つめながら  
盛大な溜息をついた。  
「四六時中、泣いてる気がするな…こいつは」  
 
「赤ちゃんはいっぱい泣いて、いっぱい食べて寝るのが  
お仕事ですから…仕方ないですよ」  
出海の傍らで、少々疲れた顔をしつつも蘭が笑って言った。  
 
二人にとって初めての子供、天兵が生まれたのは三ヶ月ほど前の事。  
幸い産後の経過は良好で母子ともに健康だった。  
その事に安堵する暇もなく、出海は初心者父、蘭は初心者母となり  
出海の両親や近所のおばさん連中に叱咤激励される日々が続いた。  
 
すべてが初めて尽くしで、出海は右往左往するしかない。  
天兵は火がついたかのように激しく泣き叫び  
彼がいくらあやしても、それは止まらない。  
そのくせ蘭が抱っこしてあやせば、次第に泣き止み嬉しげに笑う。  
『…こいつ』  
出海は恨めしそうに息子の顔を覗き込む。そんな毎日だった。  
 
「なかなか眠らないかわりに、一度眠ったら  
そう簡単には起きませんよね…この子」  
「ああ…近くに落雷があっても寝くたれてやがったもんなぁ」  
 
出海はつくづくと天兵の顔を眺めてみた。  
「顔に似合わず、肝は据わってるってこったな」  
「…」  
 
天兵の顔は、まるで女の子のように愛らしい。  
蘭が天兵をつれて初めて近所を散歩した時、すれ違った村人に  
「おっかさんに似てめんこい女子じゃの〜」と声をかけられた。  
それに対し「男の子ですよ」とにこやかに対応した彼女だったが  
会う人会う人に、可愛い女の子だ、別嬪さんだと言われ続け  
困惑した蘭は、散歩の予定を早々に切り上げ  
家に戻ってしまった…なんて事があったのだ。  
 
「眉や口元は凛々しくて、あなた似だと思うのですけどねぇ…」  
ちょっと困り顔で蘭が呟く。  
「大丈夫…ですよね。大きくなれば男らしくなりますよね…」  
 
「陸奥の業を振るうに顔の良し悪しは問題でないからな。  
それにどうせ修行を始めりゃ顔なんか腫れ上が…」  
蘭のじっとりとした視線を感じ、出海は口をつぐんだ。  
 
「そういえば、小さい頃の雷さんに似ているとも言われました」  
蘭は眠る天兵の顔を見つめたまま、ゆったりと話す。  
ああ…と、出海は思った。  
「確かに、あいつも女顔…と言うのか、優しい顔立ちだったからな」  
 
出海が蘭を伴って陸奥の里へ帰った時にはもう、雷はいなかった。  
母が言うには、旅に出た…と言うよりは、ふっといなくなったらしい。  
幼い頃から手先の器用だった雷が、気に入ってよく使っていた  
代々伝わる小太刀だけを持ち、どこかに行ってしまったそうだ。  
 
小太刀は陸奥の継承者が持つ太刀と違い、さほど重要な物ではなく  
持ち出されても気にする者はいなかった。  
雷の事も、母にすれば「お腹が減ったら帰ってくるわ」との考えで、今に至る。  
その言葉に、出海は頭を抱えたくなった。  
 
「オレが十四…くらいの時だったか、いきなり『弟か妹が出来ちゃうわよ』だしよ…」  
親の悪口は言いたくないが…まともじゃない。  
溜息と共に呟かれた言葉に、蘭はくすくすと笑った。  
 
「雷さん、今ごろ何処にいらっしゃるのでしょうね。  
お会いして、ご挨拶したいです。天兵をお見せしたいですし…」  
蘭は出海の顔を見つめ、にっこりと微笑んだ。  
そんな彼女に、彼も軽く微笑み返した。  
 
『オレが女房と子供まで持ったと知ったら…あいつはどんな顔をするだろうな…?』  
ずいぶん前に別れた時の、まだ幼い弟の顔が思い出される。  
どこか物憂げなその表情以外、出海の脳裏に浮かぶ事はなかった。  
 
遠い目をしている良人をしばらく黙って見つめていた蘭は  
そっと視線を天兵に戻した。  
小さな手を軽く握り、眠りつづけている息子。  
優しく頭を撫でてみれば、愛しさが溢れてくる。  
 
…異形の娘と囃し立てられ、忌み嫌われた自分が  
こんな幸せを手に出来るとは思ってもみなかった。  
 
憧れた人が淡雪のように消え、この手をすり抜けた時  
心の中にあるのは闇と憎悪だけだった…。  
だけど、いつからだろうか。  
叩き斬ってやりたかったその背中が、白く大きな道標になっていた。  
 
『不思議よねぇ…。お母さんもまともじゃないのかもよ?ふふっ…』  
心の中で、息子に語りかける。  
指先に暖かさが伝わり、蘭の顔がほころんだ。  
 
いつしかこの手を離れていく、我が子。  
しかもこの家に生まれた以上、その生き様は普通の子供よりずっと辛いものだろう。  
…覚悟は出来ている。  
それでも、この柔らかな暖かさが、幸せな時間が  
少しでも長く続いて欲しいと、蘭は願うのだった。  
 
微笑を浮かべて天兵を見つめる蘭を、出海もまた見つめていた。  
柔らかな呉藍の髪が灯りに透け、陰影を作る。  
我が子の頭を撫でる指は細くしなやかで、とても優しく見えた。  
そんな彼女の仕草を、目を細めて眺めている。  
 
『お前は…本当に綺麗だよな』  
出海は心からそう思っていたが、口には出せないでいた。  
照れくさいのもあったが、陸奥の里に彼女を連れてきて以来  
村の連中が口を揃えて「別嬪さんだー!」だの「綺麗だぁ〜」だの  
天真爛漫かつ無遠慮に言うものだから  
夫である彼がその事を口にする機会を逸していたのだった。  
 
『蘭を見て、ありがたやって拝みだした婆さんもいたっけな・・・』  
妙な事になっているなぁ…と、出海は軽く頭を掻いた。  
それでも、拝みたくなる気持ちは分からんでもないと思う。  
 
友を亡くし、夢を無くした虚無感は彼を飲み込まんとした。  
強敵と戦えども、それは埋まらず…それどころか大きくなっていくかのようで。  
その虚無から彼を引きずり出したのは、彼女のひたむきな瞳だった。  
 
出海は蘭の横顔を見つめながら、軽く柏手を打ち、拝んだ。  
彼のそんな行動にぎょっとして、蘭はしげしげと見つめ返す。  
「…な、なんですか?一体…」  
「…さぁ?」  
戸惑う蘭に、出海はニッと笑って見せた。  
 
怪訝そうな顔を向ける蘭を、出海は何も言わず抱き寄せた。  
口に出せないなら行動で示すまで、と言うのが彼の考えだった。  
 
「ひゃっ!」  
出海の突然の行動に、蘭は小さく声をあげた。  
分厚く暖かい胸板に頭を押さえつけられ、最初は戸惑ったが  
次第に力を抜いて、彼に体を預けた。  
 
夫の行動は読めない事が多い。  
それでも最近、こういう事をする時は  
何かを誤魔化している時…と分かってきた。  
『素直に言ってくださればいいのに…』  
蘭は少々不満に思いながらも、こうして抱きしめられるのは  
嬉しくて気持ちが良いので、まぁいいかな…などと思った。  
 
しばらくそのまま、淡い色の赤毛や背中を撫で  
その柔らかさを楽しんでいた出海だったが、腕の中の蘭が  
もぞもぞと動くので力をすこし抜いた。  
すると蘭は顔をあげ、出海を見つめながら労わるように言った。  
「あなた…今日もいろいろとお疲れ様です…  
もう夜も更けてきましたから、私達も寝ましょうか」  
 
「そうだな…そうするか」  
出海はそう言って頷くと、そのまま背に回した手で  
蘭の寝巻きの帯をほどき、引き抜いた後で無造作に放り投げた。  
 
あまりに手馴れた素早い動きに、蘭はしばらくきょとんとしていたが  
自身の寝巻きがはだけてきたのを感じて、慌てて前を隠した。  
 
「な、なにをするんですか!?」  
焦りで声が上ずり、顔が赤らむのを感じながら  
しっかりと寝巻きの衿を掴んで後ずさろうとしたが  
出海の腕が絡みついて思ったようにならなった。  
 
「なにって…寝るんだろ?だから脱がしてやろうと思ってな」  
「違いますっ!!もう休みましょって意味ですよぅ…」  
朝になれば、大変な子育てと雑務が二人を待っている。  
だから体を休めようと提案したのに…。  
そう言っている間にも、出海の手は無遠慮に蘭の寝巻きを引っ張っていた。  
 
「いっ…出海さんは…!ほんとに人の話を聞かないんですからっ」  
普段は出海の事を『あなた』と呼ぶ蘭だったが、怒ると婚前のように  
名前で呼ぶようになる。どうも彼女はその事に気がついていないようだった。  
出海はそんな蘭が可愛いなと思い、少しだけ笑った。  
 
「笑って誤魔化そうたって無駄ですから!だいたいいつも…っ」  
文句を言い、拒み続ける妻の唇を出海は自身の口で塞ぐ。  
何を言ったって無駄だから止めとけと言わんばかりの強引さだった。  
 
驚き、瞳を見開いた蘭は、すぐにぎゅっと目を瞑った。  
彼女の右手は寝巻きを掴んだままだったが、左手は  
抗議をするように、ぽこぽこと出海の胸を叩く。  
それも次第に力を無くして行き、やがて夫の肩に添えられた。  
 
上顎を出海の舌先が撫でると、蘭の肩がぴくぴくと揺れる。  
頬の内側を擦り、突付かれ、二人の唾液が彼女の唇から垂れ落ちた。  
 
「んっ…んぁ…っ!ふっ…う…」  
蘭は耳まで赤く染め上げ、顔を逸らそうとするが  
出海の大きな手が頭に添えられており、逃れられない。  
 
縮こまっている蘭の舌を出海の舌が舐めあげる。  
何度かそれを繰り返していると、彼女の舌がおずおずと舐め返してきた。  
互いの舌をねっとりと擦り合わせて、強く絡みつかせ、吸い付く。  
そのたび口膣から水音がたち、じわじわと背筋に立ち上る快感を味わっていた。  
 
やがて出海はそっと顔を離し、蘭の顔を覗き込んだ。  
頬を染めた彼女は、瞳を潤ませ荒く息をつく。  
寝巻きの胸元を掴んだ手がかたかたと揺れていた。  
 
しばらくして、蘭はふーっと大きく息をつき  
拗ねたような目で出海を睨みつけながら  
「…お髭が痛かったです」と一言だけ告げ、ツンとそっぽを向いてしまった。  
 
「そんな顔で凄まれても…ちっとも怖かねぇぞ」  
その言葉に、蘭はますますむくれてしまう。  
彼女のそんな仕草に苦笑し、出海は頭を掻いた。  
「見たところ、お前の体調も戻っているようだし  
三月近く触れてないんでなぁ…。何がそんなに不満なんだ?」  
単刀直入に聞けば、蘭の顔が申し訳無さそうに変わった。  
 
「不満…がある訳ではないのですが…  
その、天兵が目を覚ましてしまうんじゃないかなと…」  
「一度寝たら、そう簡単には起きんと言ったのはお前じゃないか?」  
目をそらし、もじもじしながら言う蘭に、出海はあっさりと反論した。  
 
出海が天兵の様子を伺うと、相変わらず安らかな寝息を立てている。  
 
「そ、それは…そうなのですけど…」  
蘭の言葉はなんとも歯切れが悪く、視線もさまよっている。  
しばらく迷っていたが、まっすぐ自分を見つめてくる出海と顔を合わすと  
このまま隠していてはなんとも悪いような気分になってきた。  
 
「あの、ですね。体が…ちょっと変でして」  
「どこか悪いのかっ!?」  
できる限りのさり気なさで言ったつもりの蘭は、予想外の  
出海の勢いに驚き、飛び上がりそうになってしまった。  
 
「馬鹿!どっか悪いんならもっと早く言え!!  
医者を呼ぶか!?いや、オレがおぶって行ったほうが早いか…」  
立ち上がり真剣な顔で思案する彼を、しばらく口をあけて見ていた蘭は  
はっと正気に戻り、焦って手をぶんぶん振りながら否定をした。  
「ちが、違います違いますっ!!何処か悪い訳ではないんです!」  
 
「…病気じゃ、ないのか?」  
そう問われ、勢いよくこくこくと何度も頷いて見せた。  
出海はしばらくばつが悪そうに、軽く睨んでいたが  
やがて大きな溜息をついて脱力した。  
「驚かすんじゃねぇよ…」  
「…ご…ごめんなさい…」  
 
二人はそのまま困ったように、微妙な顔で見つめあい  
黙りこくっていたが、先に沈黙を破ったのは出海だった。  
「…で?何がどう変なんだ?」  
「あ…はい。…胸が張って恥ずかしいんです」  
蘭は顔を真っ赤にさせながらも、はっきりした口調で言った。  
 
こんな事を夫に言わねばならない事態も恥ずかしい。  
それでも、先程真剣に自分の身を案じてくれた出海に  
これ以上の心配をかけてはいけないと思ったのだった。  
それに正直いうと、内心とても嬉しかったりもしたので…  
赤らんで緩みそうになる頬をぴたぴたと軽く叩いた。  
 
「…なんだ、そんな事かよ」  
出海は呆れたように言った。  
「乳がたくさん出るってこったろ?結構な事じゃないか」  
 
「それはそうなのですが…お見せするにはちょっと…  
みっともなくって…」  
苦笑いを浮かべながら、蘭は小首をかしげた。  
そんな訳なので、諦めてくださいね…と、顔が語っている。  
 
「それじゃなにか、お前の乳が出なくなるまで  
オレは我慢しとけって事か?」  
どれほど先の事なんだ、それは。  
出海は露骨にしかめっ面をし、それを見た蘭は困ったように笑った。  
「それに…別にみっともなくは無いと思うがなぁ」  
 
出海の言葉に、蘭の表情が曇った。  
…そういえば、先程手を振った時に、寝巻きを離したような…。  
出海の視線の先を追えば、思った通り寝巻きははだけて  
豊かな乳房が露になってしまっていた。  
 
蘭はうつむき、無言で素早く衿をあわせた。  
「やはり馬鹿だな…お前」  
出海にそう言われ、まったくもって同意だったので  
蘭は何の言葉も返さず、一度だけ頷いた。  
 
「…ともかく今日の所は寝ましょうよ、ね?」  
聞き分けの無い子供を諭すように、蘭は優しく言った。  
「嫌だ」  
こちらは聞き分けの無い子供そのものだった。  
 
「みっともないから嫌なんだろ?オレはみっともないとは思わん。  
だから何の問題もなしだ」「……」  
出海の勢いに押され、蘭は少しだけ口元を引きつらせた。  
『…な、なんだか…必死ですね、出海さん…』  
 
どうしたものかと口に手をあて考えかけた蘭は  
その手を出海に掴まれ、あっと思う暇も無く引っ張られた。  
驚く彼女の手のひらに、なにやら固いものの感触が伝わってくる…。  
自分の手の先に出海の股間があるのだと、目視で確認した蘭は  
口をぱくぱくさせて硬直してしまった。  
「これはお前の仕業だ。…どうしてくれる」  
頭上から、状況に反した冷静な声が降ってくる。  
 
…はぁぁ〜〜  
長く溜息を吐き出し、蘭は顔をあげ出海と視線を合わせた。  
一度覚悟を決めれば彼女の行動は早い。  
「…わかりました。でも、久しぶりですから…優しくしてくださいよ?」  
頬を染め唇を尖らせながら言い、顔を伺うと  
出海は満足そうに笑って「おう」と答えた。  
 
「本当にお願いですからね!約束ですからね!」  
「へいへい」  
何度も釘を刺されるのを軽く流しながら、出海は蘭を抱き寄せ  
寝巻きの衿元から手を差し入れ、するりと落とした。  
 
一糸纏わぬ姿で褥に横たわらされた蘭は  
腕で胸を覆い、腰を捻って秘所を隠している。  
 
「確かに、かなり大きくはなっているかもな」  
「…あまり見ないでください…」  
蘭は眉根を寄せて、出海から目を逸らしながら呟いた。  
 
異人の血も引いているせいか、蘭の胸は元から大きかったが  
出産をし、更に一回りほど膨れ上がって見えた。  
細く柔らかい呉藍の髪が白磁器のような肌に絡む。  
滑らかな曲線を描く腰に、細くすらりとした脚。  
産後の崩れは一切見られない見事な体躯…それどころか  
前にもまして女の色香が漂っているかのようだった。  
 
それらをしみじみと眺めて、出海は感嘆の溜息をついた。  
「こうして着物を取っ払ってみると…  
日本人の血も流れているように見えねぇよなぁ」  
出海の言葉に、蘭はぷっと吹きだした。  
「あなたったら、前も同じ事を言いましたよ」  
「ん…そうだったか?」  
 
初めてそう言われた時、やはり自分の体は変なのかと  
不安な気持ちになった蘭だったが、今では  
『ただ思った事をそのまま口にしているだけ』という事を知っていた。  
 
「そんなに日本人と違って見えますか…?」  
「…そうだなぁ…日本人がどうこうより、人間離れしてるのかもな」  
「まぁっ!」  
 
蘭は少し意地悪な笑顔を浮かべて  
右手の人差し指を出海の唇にちょんと付けながら言った。  
「あなたに言われたくありませんよ?鬼のお方」  
「…違いない」  
二人は顔を見合わせて、くすくすとおかしそうに笑った。  
 
ひとしきり笑った後、出海は蘭の瞳を覗き込んだ。  
鳶色の濡れた眼差しが見つめ返してくる。  
吸いこまれるような感覚がして、そのまま顔を近づけていくと  
蘭は素直に瞳を閉じ、二人は唇を重ねあった。  
 
日本には鬼の伝説が数あるが、その中には  
長身で赤い髪の異人を鬼と見た物もあるようだ。  
となれば、やはりこの女も眷属なのだろう…。  
出海はぼんやりとそんな事を考えながら、舌先に少し力を入れた。  
 
唇を離した出海が、蘭の頬に軽く口をつけると  
ふふっとくすぐったそうに彼女は笑った。  
そのまま首筋に移動しようとしたが、蘭の手が軽く押し止めた。  
また『髭が痛い』などと言い出すのかと思っていると  
出海の寝間着に手をかけ、そっと脱がし始めた。  
 
寝間着を肌蹴させると、逞しく鍛え上げられた体が露になる。  
左肩に、大きな刀傷。  
これはもちろん蘭がつけたものではないが  
彼女はこの傷と同じ場所に斬りつけた事があった。  
その事による傷は跡形もなく消えうせていても  
この大きな刀傷を見るたびに、彼女の胸に様々な想いが去来し  
ちくりと痛むのだった。  
 
蘭は傷にそっと唇をつけ、下から上へと舌を這わせた。  
裂けて変形した皮膚の感覚が舌先に伝わってくる…。  
舐めた所で傷は消えないし、過去も消えない。  
それでも出海と初めて肌を合わせたときから、蘭は必ずこうして来た。  
そしてそんな彼女を出海が止める事はなかった。  
 
柔らかく生暖かな感触に出海の肩が少しだけ揺れる。  
鳶色の瞳を細めて傷跡を舐めあげる蘭の姿は  
小動物のように愛らしく、獣じみて淫猥だった。  
 
出海は蘭の肩を軽く掴み、そっと離すと  
彼女の唇から銀糸が引かれた。  
頬を染めている蘭の唇に出海は親指で触れる。  
ふにふにと柔らかく、紅も引いていないのに鮮やかに赤い。  
この感触も好きだが他の柔らかさも愉しみたいと彼は思った。  
 
「次はオレの番な」  
「…あ」  
出海は蘭の鎖骨に唇をつけ、軽く吸った。  
ぴくんと彼女の身体が跳ね、反応するのを感じながら  
下へと移動しようとしたが…すぐに蘭の腕に阻まれてしまった。  
しっかりと両腕で胸が覆われている。  
 
顔をあげ、蘭の表情を伺うと『やっぱり恥ずかしいんですよぅ…』と  
言いたげに眉根を寄せていた。  
そんな様子の彼女に、出海は少々意地悪く目を細めて見せた。  
 
蘭にも分かっていた。  
自分が出海に抵抗するすべなど持ちあわせていない事に。  
こんなささやかな抵抗など…さして力も入れずに取り払われる。  
そう思って目を瞑り身を硬くしていると、やはり手首を掴まれ、くいと引っ張られた。  
 
「…!」  
指先が暖かくぬかるんだ物に包まれ、驚いた蘭は目を見開いた。  
出海は彼女の右手を掴み、細い指に舌を這わせていた。  
関節や指の付け根を舌先で突付き、舐めあげて唾液で覆っていく。  
神経の多く通った敏感な指先はくすぐったいのか  
気持ち良いのか分からず、蘭は微妙な感覚に震えた。  
 
「…ひゃ…あんっ…」  
自らの口から漏れる奇妙な声に照れ、蘭は無意識に左手で口元を覆った。  
身を捩るたびに、二つの豊かな膨らみがたゆんと揺れる。  
彼女の指を咥えながら、そんな姿を見下ろして  
出海は楽しそうに口元を歪ませた。  
 
ちゅぽっと音をたて指を離され、蘭がホッと息をつく暇もなく  
出海はそのまま唾液で濡れた手を胸元に戻してやった。  
軽く力をこめ、下から揉み上げるように。  
 
出海の唾液で濡れた蘭の手が、蘭自身の胸に押し込まれ、乳首を擦り上げた。  
「やっ!ああんっ!!」  
思いもよらない事に、彼女の肢体は瞬時に仰け反る。  
その刺激で突起した先端から乳が吹き出してしまい、蘭の手と出海の腕を濡らした。  
腕にかかった乳白液に、出海は少々面食らったようだ。  
 
蘭は今にも泣き出しそうな顔で、必死にもがいている。  
出海のほうは彼女のそんな様子に意も解さず、押さえつけた片腕はびくともしない。  
「いっ…いやぁぁっ!!はな、離して下さいっ!!」  
「すげーな。こんなに吹き出たぞ…」  
「感心してないで離してぇー!!」  
 
分かった分かったと言いたげに、掴んだ手を胸から離した。  
蘭の両目には涙がたまっている。よほど恥ずかしかったようだ。  
「出海さんの馬鹿!!だから嫌だって言いましたのに…」  
「ああ、ほんとに悪かった。もったいない事をしちまったな」  
 
蘭は一瞬安堵しかかったが、すぐに顔を引き締めた。  
…もったいないってどう言う事です?  
口には出さなくても、引きつった顔がそう告げている。  
流石は己の子供を産んでくれた女、察しがいいよなぁと出海は笑った。  
 
握ったままの右手を布団に磔るようにして押さえつけ  
さきほどとは逆の胸に顔をうずめ、乳首に吸い付いた。  
口内に母乳の味が広がる…。妙な味だった。  
『赤ん坊の好みってのは変わってんだな』などと思いつつ  
蘭の胸から口を離す事はなく、舌を擦り付けた。  
片胸に指を這わせ、軽く捏ねると新たに乳が零れ落ちてくる。  
ぬるりとして暖かいそれを指に絡ませながら乳房を揉みあげた。  
胸は出海の大きな手にも余り、彼はその重量感を愉しんでいた。  
 
「あっあ…ぅああ…ひっ…ん!いず…み…さん…いやぁぁ…」  
羞恥と快楽が混ざりあった声が、出海の脳髄に響くようだった。  
語尾が涙声だ。きっと本当に涙を流しているのだろう。  
 
…少し可哀想だとは思う。意地悪な事をしていると分かっている。  
朝になれば口をきいてくれないだろうし、きっとお袋に  
『あんたまた蘭ちゃんを苛めたの!?』なんてお小言を喰らうだろう。  
 
それでも出海は止められないでいた……楽しかったから。  
『オレは生まれつきこういう性質だからなぁ…ま、諦めろ』  
彼は勝手にそう結論付けて、行為に没頭していった。  
 
一方、蘭は荒く息を吐き、なんとか目を開けた。  
胸を捏ね回される刺激に身体は勝手に反応しつづけている。  
『…もぅ…本当に大きい赤ちゃんみたい……困った方…』  
恥ずかしくてどうにかなりそうな反面、辛うじて冷静な自分もいる。  
そろそろ止めないと、本当に困った事になりそうだと感じていた。  
 
「…い、出海さん……はぁ…っもう…その位にして…  
あっ…お願い…それ以上は…その…」  
 
その…天兵にあげる分が…。  
 
傍らで眠っているとはいえ、夫婦の睦み事に  
子供の名前を出すのはなんだか恥ずかしい。  
蘭ははっきりと伝える事が出来ず、潤む瞳で出海の頭を見つめた。  
 
すると、胸を弄るのに夢中で話など聞いていなさそうだった出海が  
突然顔をあげ、そのまま蘭の唇を奪ったのだった。  
「…んぐっ!?」  
目を白黒させた彼女は、自分の口腔に彼の舌と  
奇妙な味の液体が流し込まれるのを感じた。  
 
あらかた液体が移し変えられると、しかめっ面をしながら  
唾液でその液体を薄め、何とか飲み干す。  
察してくれたのは有り難かったが、これは勘弁して欲しいと蘭は思う。  
彼女は口元を押さえつつ、涙目で出海を睨みつけた。  
 
「……いずみさん…」  
「確かにちょっと絞りすぎたかもしれん。だから返してやった」  
悪びれる事もなくサラリと言い、出海は満面の笑みを浮かべた。  
 
「……」  
その言葉と笑顔で、蘭は怒る気力が急速に失せて行くのを感じ、脱力した。  
ほんとは怒ったほうが良いのかも知れないと思いつつ…  
「もぅ…次からは、やめて下さい…ね…?」  
「はいよ」  
蘭の言葉に、出海は素直に頷いて見せた。  
 
蘭の胸は速い呼吸に合わせ上下し、乳と唾液でべっとりと濡れている。  
『じゃあ、こっちはどんなもんかね…』  
出海は手の平を彼女の胸元から細腰へと、撫でるように降ろしていった。  
それにより蘭は体を揺らし、出海の肩にしがみついたが  
抵抗する事無く身をゆだねていた。  
 
出海の指先に、さりさりとした物が触れた。  
『…下の毛も赤いんだもんな…すげぇよな…』  
初めて見た時の衝撃が思い出される。  
あと、その事を言い、たいそう怒られた事も。  
…こいつには幾度も驚かされ、何度も怒られているなと出海は思う。  
きっと、これからもそうなのだろう。  
 
「…っ…あぁ…」  
思ったとおり、そこはじっとりと熱く濡れていた。  
蘭は恥じるように腕に力を入れ、よりしっかりと抱きつき  
無意識か意図的か、脚のほうまできつく閉じてしまった。  
出海の指が柔らかく汗ばんだ太ももに挟み込まれる。  
 
「蘭…脚を開けよ…」  
「あっ!……は、はい…」  
その言葉に、はっと気付いたように蘭は頷き  
瞳を伏せ、そろりそろりと両足を開いていった。  
ねとりと熱を持った場所が外気に触れ、彼女の身体は自然に震えた。  
 
今回は出海も意地悪を言っているわけではなかった。  
蘭が脚に力を入れたところで、出海の力ならすぐに開けるだろうが  
勢い余って彼女の秘所を傷つけてしまっては大事だ。  
指先まで凶器なのだから…気をつけるに越した事は無い。  
となると、自然に蘭の協力が必要になるという訳だった。  
 
…などという理由があるものの、恥らいながら自ら脚を開く蘭を  
見るというのも、出海の楽しみになってはいたが。  
 
とりあえず、自由に動かせる程度の空間ができたので  
そっと秘裂をなぞるように指を滑らせた。  
するとまた蘭の脚が閉じかけ、出海の腕に太ももが当たってしまった。  
 
「おい」  
「………だって…」  
わざとではないんですよ…と呟き、蘭はばつが悪そうな顔をした。  
久しぶりの快感に、躰が防御策を取ってしまうようだ。  
そんな蘭の様子に出海は少し考えてから、口を開いた。  
 
「勝手に閉じちまうんなら、手で押さえておいたらどうだ?」  
「え…!……」  
 
蘭の顔に戸惑いの色が広がった…が、彼女は  
その表情に反して出海の言った事を従順に行った。  
彼の首にすがりついていた腕を名残惜しげに外し、ゆっくりと  
膝を曲げた片脚を胸のほうへと引き上げ、自らの手で押さえつけたのだった。  
 
まるで進んで自分の恥ずかしい所を見せ付けているような姿と  
片手が使えないので、出海に抱きつく事も出来ない心もとなさは  
蘭の想像以上の物だった。  
それでも…口にこそ出さなかったが、じらすように秘所に添えられた  
指のせいで、彼女の我慢も限界に来ていたのだ。  
その証拠に出海の指には、白くねばつく物が糸を引いていた。  
 
脚を大きく開いた事で秘所も自然と開き、にちゃっと音をたてた。  
充血して赤らんだ内壁は粘液で潤い  
襞がくにくにと柔らかく動いて、出海の指をねだっている。  
 
蘭は心臓が激しく高鳴っている事に気がついた。  
脚を抱える手の平に、しっとりと汗が浮かぶ。  
出海の視線を感じるが…動いてはくれない。  
 
…まだ…、まだです…か…?  
 
体中が火照り、蘭は喘ぐように息をついた。  
胸元の汗が母乳で白く濁り、流れていく。  
そんな彼女を凝視し微動だにしない出海だったが  
冷静に事を運んでいる訳ではなく…むしろ逆だった。  
 
指なんかより別の物を突っ込んで無茶苦茶にしてやろうか…。  
 
乱暴で物騒な欲求が頭をもたげてくる。  
それを何とか理性が押し留めるまで、動けないだけだった。  
しばらくして、出海は蘭と同じく一つ息を吐いた。  
 
出海の指が、ほんの少しだけ動き  
その些細な動きに蘭の躰は激しく揺れ動く。  
そのままゆっくりと指を二本、膣内に埋もれさせていった  
 
「はっあ…!あぁ…んっ……!」  
熱を持ち、じんじんと苛まれる体内は  
出海の指が蠢くのを感じ取り、きゅうっと締め付けた。  
最初はごつく太い指を二本も入れられ、苦しさを感じたが  
程なく馴染んでいった。  
 
襞を掻き分けるように指をねじ入れ  
ざらつく膣壁を軽く引っかくようにしながら引き抜くと  
奥底から掻き出されるように愛液が溢れ出した。  
蘭の口からたまらず嬌声があがる。  
彼女は声の大きさを気にしてか、口を縫い縛ろうと試みたものの  
上手くは行かず、出海の動きに翻弄されるばかりだった。  
 
指を開いて押し開き、円を描くように膣口を刺激し  
ぷっくりと起ち上がっている花芯を親指で突付く。  
しどとに濡れた秘所からは、動かすたびに水音が立ち  
二人の欲情を煽っていった。  
 
「あっあっ…ああっ…あはぁぁっ!!あん……いず…みさんっ…!」  
「…これが…いいのか?」  
「あ…あぁ…っ!は…っ、はい…っ!」  
出海の言葉に、蘭は夢中で頷く。  
 
膣内に埋もれた指先は、こりこりと硬い場所を探り当てた。  
「ひぅっ!!」  
蘭の白い喉が反り、瞳が見開かれる。  
彼女の激しい反応を見、出海はその場所を重点的に攻めたてた。  
 
「や…ああっ!!だめ、だめぇっ…そこ…っ…いっ…あああ!!」  
蘭の哀願に耳を貸さず、出海はぐりぐりと指で抽送を続けた。  
躰の奥底から何かがあふれ出そうな焦燥感に首を左右に振り  
必死で堪えようとした蘭だったが、汗ばんだ手がずるりと滑った。  
抱えあげていた脚が落ち、その衝撃で出海の指がめり込む。  
その瞬間、蘭の中で何かが断ち切れた。  
 
「ひっ…ああああああああぁぁ――――!!」  
蘭の秘裂から勢いよく液体が噴出した。  
それはびしゃっと激しい音を立てて出海の腕に当たり  
彼の太い腕を伝い落ち、布団に染みていった。  
もう一度擦り上げると、びゅくっと軽く吹き出し、蘭は全身で慄く。  
指を飲み込んだままの膣内はうねるように収縮した。  
 
出海は少しづつ、余韻を残すように指を引き抜くと  
蘭の肢体はびくびくと大きく痙攣し  
つま先まで突っ張っていた脚から、次第に力が抜けていった。  
しばらくすると、強く瞑られていた瞳がうっすらと開かれた。  
焦点は合わさっておらず、宙を彷徨っている。  
 
「は…はぁ…はぁ……っ…はぁ…ん…っ」  
ぐったりと重い躰を動かす事も出来ず、ただただ肩で息をつく。  
白く靄がかった頭が、少しづつ正常に戻っていく。  
そんな蘭の耳に、ぴちゃ…と粘っこい水音が響いた。  
その音が気になり、うつろな瞳のままゆっくりとそちらに顔を向けると  
出海が自身の指を舐っているのだと分かった。  
ねっとりと、彼の指に絡み付いた愛液を舌で掬い上げている。  
 
「…っ…!!」  
体中が沸騰するかのようだった。  
目を逸らしたいのに体は金縛ったように動かず、出海を凝視し続ける。  
呆けたような視線に気付いた出海は蘭を見詰め返し  
指に添えた口端を上げ、薄く笑ってみせた。  
 
出海の口から指が離れると、つっと糸が引かれ、切れた。  
それを目にした蘭も、己の体を金縛る何かが切れるのを感じた。  
 
「…っ!!」  
とっさに顔を両手で覆うと、額や手の平に浮かぶ玉のような汗に気付く。  
躰のすべてが熱を持っている…その熱は一番奥から湧き出し  
じくじくと自身を苛み続けている。  
 
その熱を押さえつけようと、蘭は小刻みに震える脚を閉ざそうとした。  
が、ぬるりと濡れた大きな手に膝を掴まれ  
「まだ閉じるには早いんじゃねぇか…?」という呟きを聞いた。  
そろり…と、顔を覆ったまま指だけ開いてみると  
目前に出海の顔があるのに気付き、息を飲んだ。  
 
脚を割り、出海の厳つい体が蘭に圧し掛かる。  
柔らかく張りのある胸に、厚い胸板がめり込むかのように重ねられる。  
「く…は…っ」  
息苦しさと熱さで、蘭は首を反らせて息を吐きだした。  
 
それでも蘭の手は出海を拒絶する動きは見せず  
むしろ彼が離れないよう、首へと回された。  
「ん?」  
出海は何かを問うように、しがみ付く彼女を伺うと  
「……ん…」  
蘭は小さく一度だけ、頷いた。  
 
上半身を重ね合わせたまま、出海は蘭の片足を抱え上げ  
濡れそぼる秘所へ己の昂ぶりを押し付けた。  
先端が溶かされそうに柔らかく、暖かな場所に触れる。  
 
蘭の腕がしっかりと首に絡みついているため、出海は下腹部を見られず  
収まるべき場所を感覚で探った。  
愛液で滑りなかなか当りが付けづらく、男根は秘裂を二度三度となぞる。  
その度に蘭の躰は跳ねあがり、また目的の場所から外れてしまった。  
「あ…ああ…ん!」  
「…く…」  
焦れる二人の躰が同時に震えた。  
 
出海は一つ息を吐き、急く自身を押さえると  
ゆっくり、じわりじわりと腰を押し進めた。  
すると蘭の躰は少しづつ、きつい入り口を広げていった。  
 
「ふっ…あああ…っ……ひ…うぅ…っ」  
凶悪な程の圧力を持つ物を押し込まれ、蘭の唇から搾り出すような声が漏れる。  
強く瞑られた目頭から涙が一粒零れ落ちていった。  
幾度となく肌を重ねても、恐怖と悦楽に支配されるこの瞬間に慣れる事はない。  
力を抜くために大きく長い息を吐き  
恐ろしさを薄めるために、出海を強く抱きしめた。  
 
中程の狭く抵抗のある場所へ、変わらずじっくりと押し入れていく。  
くにくにと動き、優しく包み込んでくる襞と  
咥え込んできつく強く締め付ける壁…二つの感覚に  
食い縛った出海の口元がわずかに上がり、笑いの形をとっていた。  
その口端に汗が伝い落ちていく。  
 
伝い落ちた汗は蘭の顔に当たり、それに身じろぎ目を薄く開ける。  
目前にある夫の顔を伺い、後頭部に回されていた手を  
ゆっくりと頬に沿えながら、喘ぎの漏れる口を開いた。  
「あっ…はぁ…ぁ……ど…して…?笑って…いるの…?」  
「…笑って…?…っく…ああ、そうだな…」  
出海は蘭の耳元に顔を埋めた。…もっと近くに添いたいと願うように。  
彼の荒い息が蘭の耳にかかり、彼女は首を竦ませた。  
 
「嬉しいのさ。…またこうする事が出来て…な」  
「あ…!…うれし…っです…か…?」  
耳元で囁かれる言葉と吐息に、蘭の頭はとろりと融けるように白くなる。  
 
「そりゃぁ…こんな別嬪の嫁とやれて…。お前はどう思うよ?」  
「!!…ぅ…くぅ…!」  
背筋を突き上がるような快感を生じ、蘭の躰は悶え震えた。  
 
この里に来て、村人から幾度となく掛けられた言葉が  
出海の口から発せられるだけで、こんなにも  
自身に影響を与えるのだと蘭は全身で思い知った。  
 
出海の素直な言葉に蘭の躰も素直に答え  
膣内は無意識に蠢き、陰茎を締め付ける。  
奥底へと引き摺り込まれるような快感を、出海は拳を握り凌いだ。  
 
しばしそうしていると蘭の躰が少し弛緩し  
出海も汗の浮かぶ拳を緩める事が出来た。  
耳元に顔を寄せたまま、横目で蘭を見ながら言う。  
「…正直者」  
「……ば…馬鹿ぁ…」  
 
出海が開放された上半身を起こすと  
二人の躰の間で滴っていた汗が小さく音を立てた。  
 
更に膣内に押し込むと亀頭に圧迫を感じ、もうこれ以上先へは往けないと悟る。  
そのまま最奥に二度三度、ぐり…と擦りつけると  
「ひぃ…っいぁ…ん」と絞り出すような声を上げ、蘭の身が縮こまった。  
 
内部は動かすのに支障なく広がり、ねっとりと出海の動きを待っているようだった。  
それでも彼は急く事無く、腰をゆっくりと引き抜く。  
押し広げられた肉壁と深い襞が出海の男根を捕らえ引っかかり  
くちゅ…じゅぷ…と、止めようにも止められない水音が零れた。  
 
「あっ、あっ…!ああ…な、なか…が…っ…」  
「中、が?」  
じりじりと動きつつも止める事はなく、自分を見下ろす出海に問われ  
蘭はふるふると首を振り、咄嗟に口をつぐんだ。  
彼女の動きに合わせ、しっとりとした呉藍の髪も揺れ動く。  
 
『…中…なか…が…あぅっ…!ぅ…き、気持ちい…い…』  
無意識に口走ってしまいそうになるのを、何とか堪えたが  
引きずり擦りあげられ、蕩けてしまいそうな快感に抗い  
ぎりぎりの所で照れや見栄に縛られる自分を恨めしく思った。  
…そしてもう一つ、恨めしく思うものがある。  
 
先程からの、虫がとまるのではないかと思えるような鈍重な動き。  
蘭の中へと押し込む時、引き抜く時には  
知り尽くされた弱い場所を的確に突いているのだが  
遅々とした動きに決定打が無い、と言った具合だった。  
蘭にはどうしようもなく、悶えに唇をかんで耐えるしかない。  
これなら動かずにいてくれる方がまし…とすら思えてきた。  
 
じんじんと熱く、まるで甘く溶けるような快感が蘭の躰を這いずる。  
だがそれも緩急が無く、延々と続けば拷問と同じだった。  
 
「ひっ…ああ!あぁん…あ…や…だめ…っ!や…だぁ…っ!!」  
がくがくと躰を震わせる様は、壊れたからくり玩具を思わせる。  
うわごとのように漏れる蘭の哀願にも、出海の態度は変わらず  
長く糸を引くような、粘っこい音が部屋に響く。  
 
『…ど…して……分かってるくせ…に……わかって…っ…ばかぁ…!!』  
蘭は心の中で悪態を吐いた。  
 
このままでは、お互い達する事は出来ないと経験上分かっていて  
自分を組み敷く夫は、早く動こうと思えばいくらでも出来ると分かっていて  
そんな事は彼も承知の上だろうと分かっていて  
…分かっていても、どうにもできない。  
 
最早蘭の躰も脳内も、ぐちゃぐちゃだった。  
そしてぐちゃぐちゃの思考の中、唐突に一つの思いに突き当たってしまった。  
瞑っていた瞳を開くと、紅潮したすべらかな頬に涙が一筋こぼれ落ち  
切なげに潤む瞳を出海に向けながら呟いた。  
 
「いず……出海さんは……あっ…き、気持ちよく…ないのですか…?」  
「……は?」  
蘭のいきなりの言葉に、さすがに出海の動きも止まる。  
 
「何だ?いきなり…」  
「…っく…だって…さ、さっきから……ぁ…  
良くない…から、面倒くさく…なってしまったのか、と…」  
 
悲しげな蘭の顔をしばし見詰めていた出海は  
苦笑いを浮かべ「体が交換できりゃあなぁ」と言った。  
 
「お前の躰で良くないとこなんか無い…し、んな失礼な事するか馬鹿」  
オレを何だと思ってんだ…と、言いたげな口調でまくしたてる。  
その言葉で蘭の顔が少しだけ明るくなったが、納得は出来ないままだった。  
「…でも…でも、それじゃ何で…」  
「お前はもう少し自信を持つべきだな…それと言った事に対する責任も」  
 
「いった…こと…?」  
「優しくするように約束させられたんだがな、オレは」  
「………あ」  
呆けていた蘭の脳裏に、数十分前の言葉が一気に蘇ってくる。  
久しぶりなので優しくしてくださいと…何度も、何度も、確かに言った。  
 
髪に同化しそうなほど顔を赤く染め、声も無い蘭に  
出海はにこやかに追い討ちをかけた。  
「…お前もよかったろ?」  
「!!…なっ……なん…」  
「動いてたぜ、お前の腰。…ずっとな」  
 
とんだ失態に蘭の全身から更なる汗が吹き出してきた。  
無意識とはいえ、なんてはしたない…いや無意識だからこそ  
率直な欲情をさらけ出していた事が堪らなく恥ずかしかった。  
 
出海にしてみても、ずっと同じ調子で行為を続けるのは  
なかなかにしんどい事ではある。  
それでも、ゆっくりと捏ねるように揺らめく蘭に合わせて動き  
その姿を堪能するのに、悪い気はしなかった。  
 
「だが…どうも期待に添えられなかったようだしなぁ…」  
出海は手早く蘭の両脚を抱え上げ、ぐいと腰に体重をかけながら  
息を詰め、眉根を寄せている彼女に語りかけた。  
 
「…優しくは、やめでいいか…?」  
「あ…!ああ…っんああ…あぁ…!!」  
甘く震える喘ぎが肯定の証だった。  
 
最奥から膣口へ、大きく反り返ったものが勢いよく引かれ  
また奥底へと突き込まれる。  
「ひゃぅっ…!あ、ああっあああんんーっ!!」  
膣内が擦り取られるかのような衝撃に仰け反り  
蘭の顔を透き通った涙と唾液が流れ落ちていった。  
豊かな乳房は突かれるたびに激しく揺れ動き、汗が飛び散る。  
 
「ああーっあっ!ああんっ…ひああっ!ああ!!」  
躰同士のぶつかり合う音に、愛液の滴り落ちる音  
身を捩れば擦れる褥。鳴き続ける蘭と出海の荒い呼吸…  
小さな灯りが一つ燈るだけの薄暗い部屋に、生々しく淫猥な音が響き渡った。  
 
引きつけたようにびくびくと躰を震わす蘭は  
微量の羞恥と怯えの中、いかに自分が出海を欲しがっていたかを知る。  
自分の事なのに、自分では分からない事もあるのだと…。  
『ああ…出海さんっ…!もっ…もっとぉっ…もっと教えて下さいっ…!!』  
突き動かされる想いが、意味を為さない嬌声となって蘭の口から溢れ出た。  
 
ぐるりと陰茎を膣壁全体に擦り付け、恥骨を押し付けると  
泣き濡れて髪を振り乱す蘭に、何もかも溶かされそうな感覚が襲ってくる。  
固唾を飲み、息を整えようにも落ち着かず、限界が近いと悟った。  
 
「蘭…っ……く…期待には…添えれた…かよ…?」  
「あああっ!あん!!あぅ、ぃ…はっ…い!はいぃ…っああーっ!!」  
「…なら、いく…ぞ…」  
 
出海は蘭の細腰を両手でしっかりと掴み、今まで以上に激しく速く打ち付けた。  
二人の音は更に大きく響く。大きくなるほど二人の耳から遠ざかる。  
ただただ互いの躰の熱さを感じて、貪りあう。  
 
「ああ、ああっ…いずっ…いずみさんっ…!……っ…す…き…好きぃ…っ…  
っく、ひっ……あ、あ、ああああああああああぁぁ―――――――!!」  
蘭の躰はつま先までぴんと張られ、悲鳴のように長い声と涙を散せた。  
 
びくんびくんと大きく跳ね上がる腰を、がっしり掴み上げたまま  
出海は強く絡みつく内部から昂ぶりを勢いよく引きずりだし  
獣のような唸りあげながら白濁液をぶちまけた。  
どろりとした大量の液体は、蘭の腹部や胸にかかり  
力なく横たわる彼女の躰の線にあわせて垂れ落ちていった。  
 
「……、…ん、蘭…おい、大丈夫か…?」  
 
…低く通る声…それは彼女の好きな声。  
遠く響いて、あまりよく聞こえなくて  
耳を澄まそうと意識をし…  
その声は、本当はとても近くから聞こえているのだと気付くと  
蘭の意識は急速に引き戻されていった。  
 
「……あ…、あなた…おはよう、ございます…」  
「…まだ夜は明けてねぇよ」  
息が整い切っていない出海の、苦笑交じりの言葉を聞いて  
蘭はゆっくりと彼を見た後、自分の体に視線を移した。  
「……わぁ〜…すごい状態ですねぇ…」  
 
蘭の意識が飛んでいたのはそう長い間ではなかった。  
久しぶりの行為にかかわらず、その程度で済んだのは  
出海の『中に出すのは駄目だ』という思いが抑止力となったからだった。  
まぁ、そのおかげで蘭の体は『すごい状態』としか  
言い様の無いありさまになっている訳だが…。  
 
「二人目は…しばらく作らないって…決めましたものね…」  
「まぁな」  
まだぼんやりしているのか、少し間延びした声で  
言うのに出海が答えると、彼女は手を差し出す。  
出海は蘭の背を片手で支え、抱えるようにゆっくりと起こした。  
 
懐紙では埒があかず、手ぬぐいで体を拭いながら  
「二人分の修行を見るのは…きっと大変ですし…」と呟いた。  
出海はそれには答えず、黙ったままだった。  
 
「あなた?」  
「…まぁ…うん。…それもあるが…な」  
含みのある言い方をした後、腕の中の蘭から目を離し  
変わらず眠り続ける天兵へと目を逸らしてしまった。  
 
彼のそんな横顔をしばらく不思議そうに見つめていた蘭は  
ふと得心がゆき、いたずらっぽい笑顔を浮かべ  
そっぽを向いている出海の頭を優しく撫でまわした。  
少々癖のある硬い黒髪が、しなやかな指に絡む。  
自分の赤く細い髪とはやっぱり全然違うなと思った。  
 
突然の柔らかな感覚に出海は目を丸くし、振り向いた。  
「おい、な…」  
「甘えん坊さんですねぇ」  
「…………」  
 
ものすごく反論したいが、なんと言えばいいやら分からん…  
といった表情を浮かべている出海に  
「天兵ばかり構って、寂しい思いさせてごめんなさい」と微笑んでみせた。  
 
先程まで、さんざんっぱら泣かされた仕返しなのか  
にこにこ笑う蘭の顔は本当に楽しそうだ。  
実の所、はっきり言えば図星なので  
出海の敗北は目に見えて明らかだった。  
 
「私…天兵も出海さんも同じくらい大好きですから」  
「……………天兵のが先かよ」  
拗ねたような出海の言葉に、ついに蘭は吹きだしてしまった。  
 
肩を揺すって笑っている蘭を渋い顔で睨みつけ  
もう一度、押し倒してやろうか…と思いかけた時  
彼女は出海の頭を二、三度くしゃくしゃと撫でた後  
するりと腕を離れ、寝間着を持って立ち上がってしまった。  
まだ足に上手く力が入らず、少しよろめき柱に手をついた。  
 
思いがけず逃げられ、少々落胆しつつも  
蘭の不安定な姿を出海は気にかけた。  
「おい、無理するなよ…どこ行くんだ?」  
「今からお風呂は入れませんし…手ぬぐいを濡らして持ってきます」  
「それくらいオレが行ってやんのに…」  
 
気遣う出海に蘭は優しく微笑みかけて、しっかりと寝間着の帯を締めつつ  
「ありがとうございます。…天兵を見ていて下さい」  
と礼を言い、ゆっくりと背を向け部屋を出ようとした。  
そんな、ふすまを開けようとする蘭の手がぴたりと止まる。  
 
「すぐ戻りますから、寂しがらないで下さいね」と出海を振り返り  
含み笑いを漏らしながら、今度こそ部屋を出て行った。  
 
「馬鹿が……ったく…」  
遠ざかる足音に呟き、頭をがしがしと掻いた。  
それでも、への字だった出海の口元がうっすらと綻ぶ。  
悔しいと言えば悔しいが…悪くは無くて、ひどく可笑しかった。  
本当に、つくづく…自分達は馬鹿な夫婦で  
それは少々困るくらい、心地良い物だと出海は実感したのだった。  
 
出海はよれた寝間着をたぐり寄せ、適当に皺を伸ばした。  
今日の所は蘭を許して大人しく寝る気になったようだ。  
袖を通そうとすると、目端にもぞもぞと動く物を捉え  
首を巡らせそちらに視線を向けると……天兵がぱっかり目を開いた。  
 
「……」  
父と息子の視線が、しっかりと合う。  
そしてすぐに、天兵の目はとろりと細まり  
おくるみの端を咥えて眠りに落ちていった。  
 
出海は、そのまま天兵の顔を凝視しつづけた。  
たかだか産まれて三月の赤子…自分の思い過ごしだと思う。  
思うのだが…  
『…今こいつ、すげぇ冷たい目で見やがらなかったか…!?』  
 
濡れた手ぬぐいを持ち、寝室に戻った蘭の目に  
眠る天兵と、それを睨みつけるように見つめている出海の姿が映る。  
『見ていてください、とは言ったけど…  
なにもそこまで見ていなくても良いですのに…』と  
困惑しきった顔で立ち尽くしてしまった。  
 
 
傍らに立つ木の枝から、鳥の羽ばたきを耳にして  
出海は思考の深淵から戻った。  
腰掛けた岩に揺れる木陰が複雑に形作る。  
顔をあげれば澄んだ青空が目に飛び込んできた。  
陸奥の里を見渡せる高台に、初秋の気配が漂い始めている。  
 
ずいぶん昔の事を思い出したもんだ…と、一つ息を吐く。  
空を見るのをやめ、彼がこのような場所で座っている理由に目をくれる。  
視線の先には、地面にぽたぽたと汗を滴らせ、天兵が片手腕立てを続けていた。  
その背にはご大層な重しも乗せられ、しかめっ面だ。  
風情ある里の風景にまるでそぐわない。  
 
「天兵…あと百、追加」  
「はぁ!?…朝からずっとこんなんばっかで、いい加減飽きたんだけど」  
そっけなく言う出海に素っ頓狂な声を上げ、天兵は抗議した。  
しかめっ面だったのは、疲労や何より退屈だからだ。  
出海にしてみても、そんな事は分かりきっている。  
自分がそうだったから…。だから、自分が父に言われたように言う。  
 
「馬鹿、基礎は大切なんだ。つべこべ言わずとっととやれ」  
「…わかってるよ…ったく。…親父はオレに恨みでもあんのかね…」  
 
………………  
 
「いいや、別に」  
 
……おい、なんだよ…今の間は。  
天兵は聞くに聞けず、二人の間に奇妙な沈黙が広がる。  
 
「本当に逃げようかな…」  
「何か言ったか?」  
「…なんでもねーよ」  
げんなりした口調の息子に、出海は少し笑った。  
 
月日が流れるのは本当にあっという間だと出海は思う。  
天兵は十四になり、最近やたらと反抗的になってきた。  
それでもはっきりとした目的が見えた為か  
そっけなく見せかけて、内心とても燃えているのだと分かる。  
 
『十四か…』  
雷が産まれた時、自分の満年齢も十四だった。  
ずいぶん年の離れた兄弟が出来ると知った時は  
嬉しい反面、反抗的な気持ちになったものだ。  
 
そんな事を考えていたら、次から次へと  
いらん思い出まで蘇ってしまったのだ。  
出海は頭をばりばりと掻き、軽く振った。  
 
結局、子供は天兵一人だけしか作らなかった。  
意図的だったり無意識だったりしつつ、色々やってきたが  
結果としてはこれで収まっている。  
…『色々』の所は、あえて思い出さないようにしつつ、口を開く。  
 
「…なぁ、天兵」  
「なんだ?」  
「お前、弟か妹が出来たって聞いたらどう思う?」  
 
片腕で支えられていた天兵の体が、がくんと勢いよく潰れかけた。  
 
地面への激突を何とか辛うじて踏みとどまり  
腕に血管を浮き上がらせながら体勢を立て直す。  
ものすごい形相のまま、肩で息をついた。  
 
「気を抜くな…骨が砕けるぞ」  
「お、親父がいきなり妙な事…!いや、それより…嘘だろ!?」  
「嘘だ」  
「……………」  
 
呪詛交じりの視線を軽く受け流しながら、やはりこういう  
反応になるよなぁ…と出海は得心して頷く。  
 
やさぐれた雰囲気を漂わせながら修練を続ける天兵を  
しばらく見守っていた出海は、立ち上がり眼下の里を見渡した。  
彼の髪を揺らす風にも、秋の気配は感じられる。  
 
結局、今の今まで雷が帰ってくることは無かった。  
それらしき人物の噂も聞かないし、天兵を連れて旅した時も  
情報収集をしてみたのだが結果は同じだった。  
いつも暢気で元気だった母が、臨終の床で見せた涙が頭をよぎる。  
 
「………」  
陸奥の歴史の中には、血を分けた兄弟の悲話もある。  
…産まれた時から闘うことが運命付けられた双子。  
…妹夫婦にその首を捧げた、兄。  
 
弟と多く共にいたのは、どちらかと言えば父より自分だった。  
もしかしたら、と思う。  
『もしかしたら…あいつを追い詰めてしまったのは…オレなのかもしれん』  
 
そして、己の子を一人しか作らなかったのは  
これらの悲劇が降りかかるのを無意識に恐れたからだろうか。  
 
出海の顔に、深い苦悶の色が浮かぶ。  
 
『…こんなオレが、新たな陸奥を創るなど…』  
「隙あり!」  
こん、と後頭部に軽く手刀が入れられ、自分がどれだけ  
深く思案していたかを出海は知った。  
振り返ると、そこには日に透ける呉藍の髪。  
 
「うふふ…陸奥に無手で一撃加えるなんて、私もやりますでしょ?」  
「ああ、今のは効いた」  
蘭は心から嬉しそうに、ころころと笑う。  
ふっと、肩に入っていた力が抜けて行き、出海は目を細めた。  
 
「お昼が出来たので、下から呼んだのですけど…  
あなたったらぼーっとして、返事もしてくれないんですもの」  
「悪い…」  
「何を考えてたのですか?」  
 
興味深そうに首をかしげて聞いてくる蘭に、出海はニッと笑う。  
そっと彼女の耳元に口を寄せ、囁いた。  
「…若い頃のお前を思い出してた。天兵が生まれて間もない頃の…な」  
「え、あ……も、もぅっ!」  
蘭の顔がほのかに赤く染まった。  
出海と同じく、あの夜の事を思い出してしまったのだろうか。  
 
「どうせ今はもう若くありませんよ…皺も増えましたし」  
「皺ならオレも増えたがな」  
少しだけ拗ねた風に蘭が言うのに、出海は答えた。  
 
「それに…皺が増えようとお前は別嬪だしな」  
「!!……」  
蘭は茹蛸のように赤い頬に手を当て、うつむいてしまった。  
それでもなにやらごにょごにょ言っているので  
出海が耳を近づけると「あなたも…素敵です」と呟いた。  
そんな蘭に、出海は満足そうに微笑む。  
 
年老いると言う点では、圓明流の使い手である出海のほうが  
絶頂期の動きを知っているだけに、より切実に感じていた。  
業の速さも威力も、以前に比べれば随分と衰えてきたと思う。  
 
…それでも、蘭と顔を見合わせていると  
それはそれでまぁ良いか…と思える自分もいた。  
自分の黒い髪も、蘭が今だに気にしている赤い髪も  
揃って白くなっちまえば同じなのだと。  
軽く笑って、出海は何かを吹っ切るように空を仰ぎ見た。  
 
『…その日がくるまで、オレはオレのやれる事を  
やって行くしかねぇか……な、雷…』  
 
「よし…じゃあ蘭、一旦帰るとするか。  
天兵は終わらせてから来い。数を誤魔化すなよ」  
「…あんまり無理しないようにね」  
 
二人は息子に向け、対極の言葉を掛けた。  
夫婦愛の寸劇が繰り広げられている横で、一人黙々と  
腕立て伏せを続けていた天兵は、無言のまま頷いた。  
 
寄り添って歩いていく両親の後姿を横目で見送った後  
天兵は長ーく溜息をついた。  
あの二人の所構わずっぷりは今に始まった事ではないし  
仲睦まじい事は良い事だ、と分かってはいるものの…  
いいかげん胸焼けしそうなのも否めない。  
最近では両親の馴れ初め話も、本当は全部  
嘘っぱちなんじゃないかとさえ思えてきた。  
 
『早く家を出てぇな…』  
どんな形でもいいから、早くそうなりゃいいと彼は思った。  
汗がまた一粒、落ちて地面を濡らす。  
 
しかし、それと同時に…天兵の脳裏には  
『久々に実家に帰ったら、母が弟か妹を抱っこしてお出迎え』  
などという状況が想像され、心からげんなりしてしまった。  
「有り得ない…と言い切れねぇ所が嫌だよな…」  
 
まぁ、そんな先のことを気にしていても仕方ないか…  
天兵は案外あっさりと、その件を脳裏から追い出した。  
それよりも昼のおかずはまだ残っているのだろうかと  
気に掛けながら、腕立ての回数を消化していった。  
 

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