来た道を戻るように、出来るだけ早く町中から離れ  
一度水を汲んだ事のある川まで二人は辿り着いた。  
昼を少し過ぎた時間の気だるさが、辺りに漂っている。  
 
江戸からの強行軍、図らずも様々な河原で休息を取ってきたが  
この川は大きくも小さくも無く、木々に囲まれなんの変哲も無い。  
鳥は暢気にさえずり、水面はきらきらと輝き、平和そのもの…と言った風情だ。  
 
「…はぁ…」  
圓はへたり込むように、木陰の落ちた川縁にしゃがみこむと  
手を擦り合わせてしっかりと土を落とし、その上で一口、水を啜った。  
ほ…、と息を吐くと、肩に入っていた力が指先から抜けていくかのようだ。  
 
手をもう一度水につけながら「天斗…お前も」と声をかける。  
しかし、返答は無く…いぶかしげに振り向いた彼女の目に  
その相手が、担いでいた鍋と荷物の横で  
ばったりと仰向けに倒れこんでいる様が飛び込んで来た。  
 
「お…おい!どうかしたか!?」  
見慣れぬ弱々しい姿に圓は驚き、いそいで傍に近寄り顔を覗き込む。  
そんな彼女に天斗は、目を覆っていた腕を少しずらし  
「…ねみぃ」と一言、返答した。  
 
「ちょっと…寝てもいいか?…ああ…でもこれが願い事になっちまうか…な」  
「ば…馬鹿!オレはそこまで染みったれではないわ!……いいから寝ちまえよ…もぅ」  
「…悪い…」  
 
ほぼ間をおかず、微かな寝息が聞こえ始めた。  
鍛え上げられた胸板がゆっくりと上下するのを見つめていた圓は  
不安感で早まった鼓動をごまかすように、大きく溜息を吐いた。  
 
手を天斗の顔の前で、ひらひらと振ってみた。…これといった反応は、無い。  
『本当に寝おったわ…』  
 
片目はいつも瞑られているが、両目を瞑っている所は見た事がなかったな…と  
ふと思い……そういえばこの数日間、寝ている姿も見ていないと気付く。  
『……まったく寝ていない…って訳では…ないと思うが……』  
それでも、ほとんど眠っていなかったであろう事は確かで。  
無事に目的を達成し、さすがに気が緩んだのであろう。  
 
圓の胸が、ちくちくと痛んだ。  
 
そのまま身じろぎもせず寝顔を見つめていたが  
そんな彼女に背を向けるように、天斗はいきなり寝返りを打った。  
背を丸め、体を縮こませるように眠りつづけている。  
 
それを見て圓は、少し吹きだす。  
『子供のような寝相よの』  
……実際こんな大きな子供がいたら、嫌だが。  
 
ちょうど背中が目前にあり、腰に差し込まれている太刀が寝るには邪魔くさそうに見えた。  
圓はそれを両手で掴むと、ゆっくりと慎重に引き抜く。  
幸い目を覚ます様子は見えず、太刀を持ったまま一歩身を引き座り込んだ。  
 
川の流れる音に身を浸しながら、掴んだ太刀をぼんやりと見つめた。  
ずしりと重い、古ぼけた太刀。  
そういえばこれで猪を捌いていたな、などと思い出す。  
 
「陸奥、か……」  
ほんの小さな呟きが、数ヶ月前の圓自身の呟きと重なった。  
 
 
「陸奥、か……」  
 
 
「なんでも、無手の業をもって数百年不敗だとか」  
「…数百年…!?それはまた随分と長生きな……」  
「……嬢、それでは仙人にござりますれば。一人ではなく、代々受け継がれて…」  
「わ、分かっておるわ!!ちょっとした戯言じゃないか……」  
 
 
「で?その陸奥とやらが何なのだ?」  
「いえ、別に深い意味はござりませぬよ。  
ただ…陸奥圓明流を文字にいたしますと、この通り…」  
「…オレの名と、同じ文字じゃな」  
「ええ、それでふと、思い出してござる」  
 
 
「……陸奥圓…か。…よし、それでいこう」  
「嬢……」  
「なんにせよ、偽名を使わねばならんしな。一石二鳥だ」  
 
 
「…圓様、やはり、なりませぬ」  
「様をつけて呼ぶな!……何を今さら怖気づいておる。  
御前試合など、この上ない好機ではないか」  
「…御前試合もそうでございますが……陸奥を名乗るなど…。  
その業は、ただただ、人を殺めるだけの物と伝え聞いておりまする…」  
 
 
「……何が違う。オレとて人殺しの業しか教わってはおらぬぞ」  
 
 
………あの時の、佐助の顔…。  
息を詰まらせた、苦しみとも悲しみとも取れる、あの顔……。  
 
 
指先が白くなるほど強く、太刀を握り締めた。  
口元がぶるぶると震え、目頭は溶け落ちそうなほどに、熱い。  
 
『……佐助、佐助の言う通り……何もかもが違ったよ…。  
オレは何も出来なかった。むしろ只の足手纏いだった。  
今はもう何も無い。村正すら無く、背も両手もからっぽだ。  
お主の事も、天斗の事も……共に居る者の様子にすら気付けない……  
自分の事しか考えてない、甘ったれの……大馬鹿者なんだ!!』  
 
それでも、圓の口からは慟哭も、瞳からは一筋の雫もこぼれる事は無かった。  
震えを体内に押し込めるかのように、硬く息を潜める。  
ひんやりとしていた太刀の柄に、震える圓の熱が伝わっていた。  
 
 
 
 
半刻ほどが経ち、天斗は行過ぎる秋風と  
それに揺れる草が頬を撫でる感触で目を覚ました。  
のそり…と鈍い動作で起き上がり、軽く首を振る。  
多少霞みがかった脳裏を正常にするため、息を一つ吸い、ふと気が付く。  
腰の辺りが妙に軽い…。体を捩ってみると、太刀が無くなっていた。  
そして、いつもならすぐに目に飛び込んでくる薄紅梅が、どこにもない。  
天斗の背にすっと寒い物が走り、全身が活性した。  
 
「…圓!!」  
「は?なんだ??」  
 
河原に響く大声は、流れる水音に吸い込まれるように消えていった。  
 
岩陰にいた圓は、ものすごい勢いで名前を呼ばれ、面食らった。  
足を滑らせないように気をつけながら立ち上がり返事をすると  
何故だか切羽詰った様子で立ち上がっている天斗と目が合った。  
 
「なに、お前…もう起きたのか?別にまだ寝ていても良いぞ」  
「……………完全に目は覚めた」  
 
ぶっきらぼうに呟き、誤魔化すように頭を掻いた後  
着物についている砂を叩き落とす。  
彼の様子に圓は少しだけ首をかしげ、ああ、と思い立った。  
「お前の刀、鍋の横に置いてあるからな」  
 
見れば確かに、大きな鍋の横に鎮座ましましているのは、代々伝わる刀。  
勝手に引き抜かれても気付かないほど熟睡していたのかと、溜息が漏れる。  
そして、鍋の中の風呂敷が開いているのにも目が止まった。  
 
「お前は何やってたんだ…?」  
言いながら、天斗は岩陰から顔だけ出している圓に近づく。  
「う、い、いや…その…」  
すると彼女は困ったような表情を見せ、口篭もりながら顔も引っ込めてしまった。  
岩陰に隠れた姿を追うように、ゆっくりと覗き込む。  
 
汚れた包帯が置かれている横で、圓はばつの悪い顔を向けていた。  
手にも白い布。…ただそれは、大きく裂けてはいたが。  
 
「…もう、使える包帯なくなるだろ…だから、その、洗濯……」  
「そうか…感心だな」  
「………二枚破れたけど…」  
「破いたんだな」  
「…もう一枚……さっき名前を呼ばれた時に流された…」  
 
「じゃ、それはオレのせいだな」  
天斗は水に手をつけ、すっかり忘れていた土汚れを落とし  
ざぶざぶと豪快に顔を洗った。  
拭うものは手元に無いので、大きく首を振って水滴を飛ばす。  
 
「洗濯なぞ初めてしたが…あんがい汚れは落ちぬものだなぁ」  
しっかりと絞った布を岩の上に広げ置き  
風で飛ばぬよう小石で固定しつつ、圓は少しくたびれたような口調で言った。  
 
汚れた包帯の最後の一枚を掴み、水につけ  
「血染みなんかは仕方ねぇさ」と手馴れた様子で擦る。  
圓はその様を見下ろしながら、自分より強いくせに何で破れないんだ…と  
なんとなく納得いかない気持ちになっていた。  
手持ち無沙汰になり、傷に触らぬ程度に岩にもたれて流れる水に目を向けた。  
 
落とせるだけの汚れは落とし、いちおう裏も確認し、天斗は軽く布を絞った。  
先程から暇そうに川を見ている圓に布を渡そうと  
顔を上げ声をかけようとしたが…そのどちらも途中で止まってしまった。  
『…おいおい』  
 
洗濯にはコツがいる。下手にやれば水が飛び散り  
どちらが洗濯物か分からなくなってしまう。  
今の圓は、その典型と言えた。  
 
薄紅梅の着物は吸い込んだ水により色を濃くしていた。  
胸元から下腹部にかけて、しっとりと染まり  
ふっくらとした胸の膨らみと、つんと上向く先端の突起までも浮き上がらせていた。  
ぺったりと張り付き、引き締まった太ももの形を露にする裾から  
一筋透明な液体が垂れ落ちている。  
 
煽情的という意味合いでもこの姿は大層問題ではあるが…それ以前に今はもう秋。  
いくら体力があるとはいえ、このままでは体調を崩しかねない。  
背中の傷にも障るだろう。  
 
そして何より……水に濡れた体を秋風に晒していても  
気にもしない、気付いてすらいない…  
透き通る水の、更に遠くを透かし見るような…  
そんな遠い眼差しをしている事の方が、天斗の気に掛かった。  
 
天斗は布を軽く引っ張り、皺を取りながら立ち上がると  
その布を無造作にさし出し、圓の頭上で手を離した。  
 
圓の視界が唐突に白く染まる。  
ぺしゃ、と音立て、頭から鼻にかけて張り付いてきた布を  
「うわっ」と短い声を上げ、慌てて両手で剥ぎ取った。  
いきなりの事で焦りつつも布を落とす事が無いのは流石と言える。  
 
「……な…なにをすんじゃー!!」  
「それも干しとけ。オレは火を熾すから」  
瞬時に激昂する彼女にそっけない一言を残し、天斗は背を向け歩み去った。  
圓のいる岩陰からは、もうその姿を見ることは出来ない。  
彼女は手にした布をしげしげと眺め、むぅ…と軽く唸った。  
 
「包帯は薄いからすぐ乾くだろうが…着物はどれくらい掛かるんだ…?」  
「そんな簡単にゃ乾かねぇよ。……ったく」  
 
水に濡れた圓の着物は、焚き火から少々離れた所にある石の上  
同じく水を含んだ脚絆と共に広げられ、焔色を映し出している。  
破れた手甲と篭手は、江戸を出る時から邪魔なので外し  
風呂敷に突っ込んであったため、今回の難を逃れていた。  
 
更に焚き火の傍らには、捕ったばかりの川魚が立てかけられ  
香ばしい匂いを放ち始めている。  
それにより圓の腹が、ぐぐぅ〜と派手に自己主張をする。  
慌てて両手で抱くように腹を押さえると、火の向こう側に座っている天斗が  
軽く笑った気配を感じ、顔を赤らめ睨みつけながら言った。  
「…し、仕方ないだろ…!こっち見んなよ、もう」  
 
圓は天斗がいつも着ている白の上着と帯を借り、身に付けていた。  
彼女の体には随分大きいそれは、膝までを覆い隠しているが  
言ってしまえばその先は何も無い。  
いつもは膝から踝にかけ、脚絆で覆われているので気にならないが  
今は剥き出しの脚を秋風が撫でれば、なんとも心許ない気分になってくる。  
 
しかもこの着物…借りておいて文句を言うのもなんなのだが…あちらこちらと  
裂け目があり、本当に着物として機能しているのか疑問だった。  
思わず手であちこち触れ、首を巡らせ自分の姿を確認しなおしてしまう。  
その目が天斗を捉え、次の瞬間にはすぐに外された。  
 
天斗は下帯しか付けていない姿で、自分の袴を裁縫している。  
 
『……大阪についたら勝手にやれ、とは言ったけどよぉ……はぁ』  
 
お互い、いささか目のやり場に困る格好ではある。  
正面向いて座るのを避けると、自然に体は川の方を向く。  
さぁさぁと変わらぬ流れを見ていると、圓の胸に『自業自得』の四文字と  
数分前の出来事が浮かびあがってきた。  
 
 
天斗が火を熾し「お前は火にあたってろよ」と言われた圓は  
そこで初めて着物が濡れている事に気がついた。  
断る理由も無く素直に従うと、天斗はいきなり着物を脱いで川に入っていった。  
唖然としてその姿を追っていると…それもまた唐突で。  
捉えられない速さで動いたと思った瞬間、手にはぴちぴちと身を捩る  
川魚がつかまれていたのだった。  
 
圓は、真に心から驚愕し…それと同じくらい悔しくもなっていた。  
即座に立ち上がり、せっかく乾きかけていた着物もそのままに  
止める天斗の声も聞かず、ずかずかと川に入って行った。  
 
……結果……魚は逃げ、魚ばりに水に漬かっただけで終わった訳だが。  
 
 
「…だいたい、非常識なんじゃ。泳いでおる魚を素手で捕まえるなど…」  
「お前は考えてる事が顔に出すぎるからなぁ」  
「魚にそんなもん分かるものかよ!!」  
 
むきになって言い返しながらも、圓は両手で頬を押さえそうになっていた。  
だが、そこで左手に握られている物の存在を思い出す。  
不機嫌な顔のままながら手をゆっくりと膝の上に降ろし、左手をそっと開く。  
 
…紐に括られた佐助の遺髪は、ばらける事こそ無かったが、しっとりと濡れてしまっている。  
少し俯く圓の心に、沸き立つ泉のような反省の念が溢れてくるのだった。  
 
紺藍の袴に対して、黒の糸が針に通っている  
そんな相違を天斗は気にもせず、切れ目を縫い合わせていた。  
「…しかし、少々意外だな」  
 
焚き火の向こう側、ぼんやりと左手を見つめていた圓が少し首を傾ける。  
 
「用意周到な佐助が、お前の着替えを準備していないとは」  
「……ああ…まぁ…あるにはあったぞ、前は」  
 
その言葉に天斗は手を止め、圓のほうへ顔を向けた。  
すると目が合い、彼女はちょっと怖い顔を作り、手をしっしっと振る。  
『いーから続きをやれ』と言いたげな仕草に、苦笑しながら袴に視線を戻した。  
 
「普通の女子が着るようなのを持ってはおった。…佐助が作ってくれた。  
でも、今回の件を決めてから…かさばる物はあらかた売りとばしたんだ。  
……また作ってもらえば良いと思っていたのでな」  
「その店は?」  
「……分からん。面倒事は全部、押し付けていたから…」  
 
圓は自嘲気味に目を細め、ちらりと薄紅梅の着物を見やった。  
「いいんだ。…佐助の着物は出来が良かった、もう売れてしまっておろう。  
それにオレにはこの装束がある」  
「………」  
「ま、でも古着の一つも買わんといかんかなぁ。これから冬だしな」  
 
憂鬱そうに彼女は頬杖をつこうとしたが、動くと体に合わない着物が  
肩からずり落ちそうになる。それを引っ張り直した。  
 
「お前は年がら年中、この妙ちくりんな着物なんだろ」  
「妙って言うな。…ま、そうなんだけどよ」  
「いいよなぁ…馬鹿は風邪をひかぬものなぁ……」  
「おい」  
 
さすがに憮然とした顔を見せる天斗を鼻で笑って無視し  
『特にこの馬鹿は鍛え方が違うと来てるしな』と胸中で呟く。  
 
雪が降ろうが春風が吹こうが、きっと変わりなくこの姿で、いつものように笑うのだろう。  
圓はその様を想像し、何故だかおかしくて少し笑いかけ……唐突に表情を変えた。  
 
『……オレは……』  
ずしりと重みを持った鳩尾を、佐助の髪を握り締めたままで押さえつけた。  
『オレは……いつまでこいつと……共にいられると思って……!?』  
 
何を頼まれるのか分かった物ではないが、自分達を繋ぐのは約定が一つだけ。  
事によっては、今日中におさらば、などと言う事も有り得るのだ。  
 
『……それなら、それで…いいじゃないか。これからは独りで…自由気ままに…』  
そうは思ってみても、鳩尾の重みは晴れず、更に大きくなるばかりで。  
自由気ままという言葉から受ける楽しげで明るい印象は、圓には感じ取れなかった。  
 
なので、得体の知れない感情に振り回される彼女の耳には、最初届かなかった。  
だが何かが…炎の向こう側から聞こえた気がして、鳩尾を押さえる手はそのままに  
ゆっくりと顔をそちらに向け、掠れる声で「…え?」と聞き返す。  
 
「……だから、すまなかった…って言ったんだ」  
繕い物を胡座の上に置いた天斗は頭を掻き、少々渋い顔をしている。  
 
耳に届いたからとはいえ、それがいつでも理解できる物とは限らない。  
その一言だけで、圓の混乱は様変わりし、更に分からない物になっていた。  
 
いつでも偉そうで自信に満ちたこの男が、何を詫びようと言うのか。  
 
「………え……なにが……」  
「ここ数日、色々と酷い事を言った。悪かった」  
 
短く簡潔、かつぶっきらぼうに天斗は言い切り  
圓は聞いた事は理解できても、この状況は理解できず目を瞬かせた。  
 
「オレは…ああいう時、女子にどのような言葉を掛けた物やら分からなくてな。  
だがきっと、言い過ぎだったんだろうと思う」  
「………」  
 
どうやら彼は、佐助を荼毘に伏した時の事を言っているようだった。  
圓は、おなご扱いをされた事に妙な気恥ずかしさを覚えながらも  
あわてて首を振り否定の意を表す。  
 
「……あ…あの時は………その、なんか頭が朦朧として……  
あまり良く覚えておらぬ!…だから、その、気にすることは無いぞ」  
「…そうか?……それにもう一つ」  
「……な、なんだよ…」  
 
更にまだ何かある事に驚きを隠せず、考えようにも他に思い当たる節も無く  
圓の目はきょろきょろと落ち着きなく動く。  
焦り続ける圓に対し、天斗の声は低く沈んだ物だった。  
 
「お前の…背の傷。……結構でかい痕になって残っちまう」  
「え…」  
「オレじゃ上手いこと処置しきれなかった。すまん」  
 
圓はその言葉に、少しばかり胸を撫で下ろしていた。  
思っていたほど驚く事でもなく、そもそも謝られるような事でも無い。  
神妙な顔をしている天斗が大げさに思え、圓は気楽な口調で答えた。  
 
「なんだ、そんな事か。そんなのどうでもいいって事よ」  
「どうでもいい…?」  
「オレは子供の頃から生傷が絶えんかったし。別に何か困るって訳でなし。  
だから、お前も気にするなって」  
 
軽く笑い、手をひらひらと振る。  
それに対し、天斗は一言「そうか」と先程と同じ言葉を口にした。  
しかし、彼がつられて笑ってくれる事は無かった。  
 
そのまま二人は何か言いたげな気配だけを残して黙り込んだ。  
間を遮る焚き火と、目前のせせらぎが、ぱちぱちさぁさぁと音を立てる。  
天斗は無造作に枯れ枝を火に投げ入れた。  
 
 
『……うーむ…』  
圓は冷えた足先をすり合わせたり、魚を何度もひっくり返したりと落ち着きが無かった。  
この沈黙を何とか打破したかったが、気の利いた嫌味の一つも浮かんで来ない。  
彼女はもう一度、心の中で唸りを上げた。  
 
ちらちらと盗み見ても、天斗はただ黙って裁縫をしているだけで  
別段怒っているとか、不機嫌そうといった様子は見受けられない。  
それでも…何故だか妙に空気が重く感じられる。  
 
『……オレ…なんか変な事言ったか…な………』  
「あ……!」  
唸るように胸中で考え、そこまで思って唸りがぴたりと止まる。  
こぼれた呟きと共に、閃くようにあの時の言葉が蘇ってきた。  
 
『約定はある。オレはお前らを連れて行く為に力を尽くす。  
そん中でも最重要なのはお前の身。…そうだろ?でなきゃ約束は果たされねぇ』  
 
 
「……………」  
圓は遺髪を硬く握り締め、その手をごちりと額に押し当てた。  
『……天斗は…ほとんど眠りもせずオレの身を気遣っていてくれたってのに…。  
それをオレは……どうでもいい……などと……』  
 
何故そこまでしてくれるのか、何故そこまで気遣ってくれるのか…正直分からない。  
その姿が本当なのか、あの容赦の無い姿が本当なのかも今だ分からない。  
分からないが、圓は凝り固まった鳩尾の重みが、少しづつ解れていくのを感じていた。  
 
もう一度、握った拳を額に押し当て、ゆっくりと息を吐く。  
いつまで共にいられるかは、分からないが…  
『…いつ別れる事になっても良いように、しておかねばならんよな……佐助…』  
 
 
袴の裂け目は、残り一針二針という所まで塞がった。  
摩擦の多い場所だけに、上着のように大雑把に縫うわけにもいかず  
思ったよりも時間が掛かっちまったと天斗は思う。  
魚もそろそろ…と考えたのと同時に、炎を揺らめかせながら  
唐突に圓が立ち上がり、それにつられて彼も顔を上げたのだった。  
 
「…?」  
声をかける間もなく、つかつかと大股で焚き火を迂回してきた彼女が  
自分の前まで来ると仁王立ちで見下ろしてくる。  
それを天斗は、何も言わず見つめるしかなかった。  
何やら決意を固めたような顔に、口出しは無用だと思ったのだ。  
 
白い着物の衿元を片手で押さえている。  
いつも適当に着ているあの着物は、胸元が勝手に開くような癖がついているせいだろう。  
そこらじゅう破れていて、袖はなく、血が染みついている。  
…そのように見慣れている着物なのに、何故だか今は別物のように思えた。  
 
圓の顔が、すっと下がり、そのまま体も天斗と同じ高さに来る。  
彼女は彼の目前で座り込んだのだった。  
ただ、その姿は今までして来たような男勝りの胡座ではなく、折り目正しい正座。  
そのまましっかりと目を合わせた後、三つ指をつくと深々と頭を下げた。  
とはいえ、左手は握られたままであったが。  
下げられた頭と共に、烏羽色の髪がゆっくりと地面に落ちた。  
 
頭が地に着くかのように下げられた姿のまま、流れる水音にかき消される事無く  
はっきりと淀みのない、だがどこか緊張した声が紡がれた。  
 
「この身の安全だけでなく、家臣の永きに渡る想いにも応えられました事  
すべて陸奥殿の合力のお陰。御礼の言葉もござりませぬ」  
 
飾り気のない、真っ直ぐな言葉だった。  
思ってもみなかった事態に、天斗は圓の頭を暫く見つめていたが  
頭を軽く掻いた後「いいから…頭上げてくれ」とだけ言うのがやっとだった。  
しかし天斗の言葉にも、圓の頭はなかなか上がらない。  
 
『似合わない事はやめろよ』とでも笑って言ってやれば  
怒ってすぐさま頭も上げるだろうか、と思いはした。  
だが、困った事に…一連の流れるような仕草は、まるで舞のごとく  
擦り切れた着物を身に纏った上でも損傷なく、似合っていたから始末に悪い。  
仕方なく、なだめるような口調でもう一度声をかける。  
「その格好、背中が辛いだろ。…河原で土下座もないんじゃないか?」  
 
ようやく、ゆっくりと圓の頭が上げられた。  
少しむっとして、耳まで鮮やかに赤く染まった顔を逸らす。  
 
「…幼い頃から、口酸っぱく言われておったのじゃ。  
『どなたかの助力を受けたならば、礼を惜しんではなりませぬ』  
ってな。……佐助の教育が悪かったなどと思われてはたまらんからの」  
 
背筋を伸ばし正座を崩さぬまま、憮然とした表情で二の句を告ぐ。  
「そんな訳で……ほれ、言うが良い」  
「ん?」  
「誤魔化さずとも良い。…願い事だよ、願い事!  
どうせ本当はもう決めてるんだろ?オレはまどろっこしいのは嫌いなんだ」  
 
そこまで一気に言うと、圓は尖らした唇の先で呟いた。  
「…だから…機嫌直せよ」  
それに対し、天斗は少し不思議そうな顔を見せ  
「別に、怒っても何もないが」と返した。  
 
天斗の顔を見て、先程までの重い空気はただ単に  
自身の後ろめたさが作り出した物だと悟り、圓は心の中で舌打ちをする。  
そこであえて彼女は胸を逸らせてふんぞり返り、芝居がかった口調を作った。  
「妾が褒美を取らせて進ぜよう。なんでも遠慮のう言うてみい!」  
 
余裕ぶっているが、やたら言葉が多いのは緊張の裏返しなのか  
先程から握られっぱなしの左手が赤くふるふると震えている。  
その手の中にある物の事を思うと、指摘した物かどうか天斗は迷い、苦笑した。  
 
「ま、今度こういう事をする時にゃ、お互いもう少しマシな格好の時に頼む」  
「…願われずとも、もう二度とせぬから安心しろ。……そうじゃないだろ」  
「うーん…」  
 
天斗は繕い物の上で頬杖をつき、軽く笑ったまま圓の顔を眺めた。  
圓の肩が、ぴくりと揺れる。ぐっと息を詰めるのが気配で伝わってきた。  
「それじゃ…そうだな」  
「……」  
「お前、この後どっか行きたい所は無いのか?」  
 
天斗の答えを、衿を押さえる手にも力をこめて待っていた圓は  
突然の質問返しに虚を突かれた。そのまま戸惑いを隠しもせず、口を開く。  
「お…オレの事はどうでも良いだろ…!?それより…」  
「いいから、行きたいとこ」  
「…………」  
 
埒があかないと思い、圓は少々頭を捻るが、すぐにそれも止まる。  
「……ない、な。…オレ達はあまり一所に留まる事はせなんだ。  
基本的に根無し草よ。だからこれと言った思い出も無い。  
それでも…佐助のお陰で不自由な思いをした事も無いが…な」  
 
ふと、幼い自分の修練の日々が思い起されたが、すぐにそれを打ち消す。  
自分の答えはここまでと言いたげに口をつぐみ、天斗を伺った。  
 
「そうか…。そんなら、オレの行きたい所について来てくれるか?」  
「……え」  
 
「オレ達がお尋ね者なのは変わっちゃいない。  
つわもの探しも気楽に出来んのではな。…仕方ねぇから故郷に帰るさ。  
だが一人旅ってのも結構つまらん。だからお前も付き合え」  
 
圓はしばらく硬い表情と、姿勢を崩さなかった。  
「駄目か?」と天斗が声をかけるまで、緊張しつづけていたのは  
てっきりその先に続きがあるものと思い込んでいたからだった。  
 
「…………?………続きは?」  
「いや、それだけだが」  
「え…と、それはお前の…故郷についていけばいいって…事か?」  
「ああ」  
 
天斗はあっさりと頷いたが、圓はまだ慎重な姿勢を崩せずにいた。  
硬さの残る口調で確認を続ける。  
「その……故郷についた後は……?」  
「別に。その後はお前の好きにしていいぜ」  
 
そこまで聞き…圓は正座の下の地面へと、全身の力がどっと抜けていくのを感じた。  
どんな無理難題を吹っかけられるのか、悲壮なまでの覚悟で臨んでいただけに  
想像を絶する簡単さに、拍子抜けも極まれりと言った具合だった。  
 
「…そ…そんな事で…いいのかよ……」  
「ん?なんだ、もっと凄い事を頼んでも良かったのか?」  
「いっ!いやいやいや!!」  
激しく首を左右に振り、つられて振られた髪が肩にぴしぴしと当たる。  
ついでに着物もずり落ちそうになり、焦って掴み上げた。  
慌てふためく様を頬杖をついたまま見ていた天斗はくっくと笑い、左目を細めた。  
 
「う……。そ、そうだ!……お前の故郷ってどこにあるんだよ」  
焦りを誤魔化すように、乱れた髪を撫で付けながら肝心な事を思い口にした。  
 
「みちのく」  
「……陸…奥…?」  
天斗の視線が、圓の背後に流れる川へと移された。  
少し遠くを見るようにしながらも、これといった感慨も無く淡々と語りだす。  
 
「…何にもねぇ、退屈な所だよ。見渡す限り山ばっかでな。  
冬になりゃ見渡す限り大雪。そんな所だ。……ああ、でも温泉は悪くねぇか」  
「温泉…」  
「打ち身に切り傷に捻挫、そういうのに良く効く。お前の傷にもいいかもな」  
 
「それはまた、お前の故郷らしい湯だの」  
繰り出された効能に、圓は思わず吹き出した。  
くすくすと笑い続けている彼女に不敵に笑いかけ  
「まぁな。あと子宝の湯って言われてるぜ」などと茶化す。  
 
だが『そんな物オレには関係ないわ!』等の返答を期待していた天斗は  
圓が首をかしげ、不思議そうな顔をしたのを見て、少々戸惑った。  
 
「……ん…まぁ…そういう訳だ。で、いいのか?」  
「えっ?……あ、ああ!別にそれで構わぬぞ。約定じゃ仕方あるまいて……  
うん、仕方ないよな……。…はは…あははっ!」  
かくりと、圓の姿から力が抜け、足が崩された。  
握り締めた左手で腹を押さえ、徐々に肩を揺すぶり笑い始める。  
 
「あははは!なーんだ、あはっ…ははは!!…ふふっ」  
約束の容易さに素直に心から安堵し、怯えきっていた自分を圓は笑い飛ばす。  
可笑しくて可笑しくて、じんわりと涙まで浮かんできた。  
もっと別に何か…とても安心した事があるが、それはあえて考えないでおいた。  
 
「くく……はぁ…。……あ〜、悪いがオレの魚取ってきてくれ。…足が痺れて動けぬわ」  
 

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