行き先は決まったものの、江戸を抜けていく道は使えない。  
遠回りにはなるが、京に出て大きく迂回していく事を二人は決めた。  
 
 
日を追うごとに濃くなる秋の気配がつくづくと感じられる。  
涼やかな風は心地よく、虫の音はどこまでも雅だ。  
もうしばらくすれば、見事な紅葉が目を楽しませてくれる事だろう。  
 
天斗は自分が風情あるものを愛でるような性格ではないと分かっており  
実際、腹の足しにもならない事に興味は無かった。  
それでも、肌を突き刺すような夏の陽射しが影を潜め  
静かに落ち着き姿を変える…そんな初秋は嫌いではなかった。  
 
咥えた小枝の先についた葉が秋風に揺れ、彼の髪も揺らす。  
そんな様子で一人佇んでいると、背後からばさばさと布の擦れあう  
賑やかな音が近づき「用意できたぞ!」との声が掛けられた。  
 
のんびりと振り返った彼の目に飛び込んできたのは  
上から下までずんと落ちた闇の色。  
まるでそこだけ夜にでもなってしまったかのような染まり具合で  
いつもの薄紅梅は見られなかった。  
 
水浸しの体験を教訓に、古着を購入した圓は早々に着替えて来たのだった。  
天斗を前に、彼女は袖を少し引っ張りつつ「どうよ?」と澄ました顔を作ってみせる。  
しかし、感想を求められた天斗の顔には苦笑いしか浮かんでこない。  
 
「…どうよ…と聞かれてもなぁ……」  
歯切れの悪い天斗の言葉に、圓は少々顔をしかめた。  
 
「なんだよ…こういう時には世辞でも誉めておく物だぞ!気の効かん奴め」  
「そりゃまぁ、そうかも知れねぇけどよ…。流石にその着物はなぁ…」  
 
圓の購入した着物は、暗い藍錆色の中にささやかな柄がかろうじて入っている  
全体的に古ぼけた、おおよそ華やかさとは無縁の代物であった。  
適当な古着屋で、適当に目に付いた物を引っ掴んで買おうとし  
店の者が心配して他の物を薦めて来たほどの物だった。  
 
「忍装束の方が派手だってのはどういうこった?」  
用途と色味がちぐはぐな圓の着物を思い浮かべながら、天斗はからかい口調で言う。  
先程から不満げな彼女は、その赤い唇を尖らせた。  
 
「…あれは……特殊だから。目立つ事と動きやすさに重きを置いていたのでな…。  
…しかしこれからは隠密行動!地味な色は当然であろうが!!」  
「隠密行動ねぇ……」  
 
あの河原で『自分達はお尋ね者』『目立つ行動は出来ないから故郷へ帰る』  
そう言ってお前を誘ったのはオレだけどよ……と、天斗は胸の内で呟いた。  
それにしても、隠密行動とはまた大げさな話である。  
 
その大げさっぷりは、彼女がわざわざ買い求めた  
『夜になったら闇に紛れる色』の着物が大いに語っている。  
なんというか、地味すぎて逆に目立ってしまうのではないかと思えるほどに地味だ。  
極端な女だなと、彼は思う。  
 
「変装と防寒も兼ねての選択よ。一石二鳥!」  
しみじみと考える天斗をよそに、圓は腰に手を当て、ぐっと胸を張った。  
その顔はとても得意そうに見える。  
少ない労力で大きな効果を得る事に、喜びを見出す性質なのかもしれない。  
 
ふんぞり返る彼女をつくづくと眺めた後、天斗は何となく自分の着物に視線を落とした。  
いつもと何ら変化の無い、血染みのついた破れ着物…。  
『オレの格好は何ら変わっちゃいない訳だが。それは問題じゃないのか…?』  
そんな疑問も湧き出てくる。  
 
天斗は少し口を開きかけたが、問題を拡大しても面倒なだけな気がして  
そのまま口をつぐんでしまった。  
とはいえ、声にしなくとも引っ掛かりは多少顔に出てしまっていたらしい。  
「なんか文句ありそうだな」と圓は見咎め、少し強い調子で言い切った。  
 
「…いいんだよ、これで!オレみたいに綺麗で若けりゃ、どんな着物でも似合うのだからな!」  
「ああ、それはそうだな」  
「!!」  
 
微妙に噛み合わない会話ながらも、天斗は率直に答えを返した。  
彼にしてみれば、正直、忍装束の色のほうが好みではあった。  
しかし自分の好みを押し付けようとする気もなく  
暗い色も、言われてみれば似合わない訳でもなく…  
こいつが納得してるんだから、まぁ良いか…などと納得しかけた時  
先程から圓がぴくりとも動かない事に気がついたのだった。  
 
自分で言っておきながら、即答で肯定された圓の体は硬直していた。  
顔はまるで茹であがった蛸。暗い色の着物に、実によく映えている。  
 
きょとんとした天斗の左眼と、見開かれている圓の瞳が合わさった、その瞬間  
 
「…………世辞などいらぬわっ!馬鹿!!」  
 
腹の底から突き抜けるような声量で怒鳴りつけると、不意を突かれて  
耳を押さえた天斗を置き去りに、彼女はずんずんと勢い良く歩み去ってしまった。  
 
とはいえ、足を覆い尽くす着物では大股で歩けず  
本人の気持ちとは裏腹に、二人の距離はちっとも伸びてはいない。  
大きく振られた腕に焦る気持ちが現れ、袖がばっさばっさと大きな音を立てている。  
その姿からは『隠密行動』の『お』の字も見受けられない。  
 
そんな彼女の後姿を見つめ、耳鳴りの響く耳を押さえつつ  
天斗は「…どっちだよ」と呟くしかなかった。  
 
 
 
必要最小限の買い物を終えると、市場を後にして  
昼下がりの長閑な風景の中を二人はのんびりと歩き出した。  
とはいえ、別に好き好んでのんびり歩いている訳ではなく  
むしろ圓にとってみれば、長閑さなど感じる余裕などこれっぽっちも無かった。  
 
普通の、何の変哲も無い、女物の着物…  
それはこんなにも動きづらい物であっただろうか?  
圓の胸中は、そんな疑問でいっぱいだった。  
 
足が開かないゆえに早く歩けない、足を開こうとすれば着物ごと大きく開く。  
……ものすごく…ものすごくうっとおしい。  
落ち着かず、その気は無くとも俯き加減になってしまっていた。  
今すぐ脱ぎ捨てて、忍装束に着替えたい気持ちに支配されそうになる…が  
せめて江戸の近くを抜けるまでは、用心の為に変装をしていなくては…と思い直した。  
 
顔を上げると、並んで歩いていた筈の天斗が一歩ほど前にいた。  
袖の無い着物に先の絞られた袴。  
戦う事を前提として作られているのだから、動き辛いはずもない。  
…圓には彼の軽装が羨ましかった。  
距離を詰めようとしてもなかなか上手くはいかず、ふと置いていかれる焦燥感に囚われる。  
 
気がつくと、天斗の手首を掴んでいた。  
その事に一番驚いているのは彼女自身。呆然と伸ばした手の先を見つめた。  
彼が立ち止まり、振り向くより早く手を離すと、勢い良く一歩飛び退る。  
…あ、この着物でも結構動けるなぁオレ…などと、妙な感心が頭をよぎっていた。  
 
「は、早すぎだ。歩くの……。本当に気の効かん奴だな…」  
本当はこちらが遅いだけだがな…と分かっていつつも、圓は悪態をついた。  
それはきっと天斗も分かっているだろうと予想はついたが  
あっさりと「すまんな」と言われ、彼女はばつが悪そうに目を逸らした。  
なので、少し休むかとの天斗からの提案に、反発する事なく頷いたのだった。  
 
天斗の手首を掴むなど、前にも一度、握り飯を取り合った時にしている事。  
なのに今、何故このように動揺してしまうのか…得心が行かず、首をかしげた。  
 
 
 
道の外れは軽い斜面になっており、踵の辺りまで伸びた草が風に揺らいでいる。  
足を滑らせないように中程まで降り、圓はその場にしゃがんで足を伸ばした。  
距離としてはさほど多くは歩いていない。  
しかし、もつれる足に負担はかかっていたようで、じんわりと痛みだす。  
早々にこれでは先が思いやられ、自然に溜息がついて出た。  
 
秋晴れに、無数の赤とんぼが好き勝手に飛び交っている。  
それらと斜面の下に広がる野原を眺めていると、のんびり後をついて来た天斗が  
担いでいた荷物を降ろし、彼女の横にごろりと寝転がった。  
 
すいすいと赤とんぼが圓の鼻先を掠めるように飛び  
彼女は戯れに、それを捕まえてやろうと両手を差し出した。  
お椀型に丸めた手を素早く合わせると、ぽふっと軽い音がたつ。  
…が、空を切った感覚しかなく、手をそっと開いてみても何も無い。  
元々真剣に狙った訳でもなく、軽く息を吐き肩をすくめた。  
 
そんな彼女に横から何か差し出された。  
見れば天斗の指先が、赤とんぼを摘んでいる。  
 
「……いいから、逃がしてやれ」  
呆れの混じる口調で言うと、天斗の手から逃れた赤とんぼは戸惑ったように飛び  
すぐに他のものに紛れて分からなくなった。  
 
赤とんぼにも飽きた圓は軽く欠伸をすると、投げ出していた足を抱えた。  
すると胸元が押され、硬質の感覚に彼女の動きが止まる。  
そこに収まった物の存在が思い出されたのだ。  
 
着物の他に、圓が購入した物がもう一つあった。  
小さく、硬く丈夫な木筒。簡素に見えて、きめ細かな意匠が施された逸品である。  
即決だった着物と違い、じっくりと時間をかけて選び抜いたそれに  
油紙で包んだ佐助の遺髪を入れ、胸元に収めたのだった。  
 
藍錆色の着物に包まれて、今それを目にする事は出来ないが  
圓は胸元に視線を落とし続けながら、ぽつりと呟いた。  
 
「……変装など…本当は必要無いのかもしれぬがな………」  
 
少し昏い響きを持つ圓の言葉に、天斗は何も答えず  
ただ咥えた小枝だけが微かに揺れ動いた。  
 
買物をした時や、昼に立ち寄った茶屋などで、二人は様々な噂話を耳にしてきた。  
 
それの多くは『幕府は伴天連追放を強化するらしい』という物。  
異教徒に対する迫害は、これまでも凄惨を極めており  
火あぶり、磔は当たり前……竹で作られたノコギリで首を擦らせたり  
体を紐できつく締め付け、逆さ吊りにした上で血を抜き、じわりじわりと追い込む…  
そんな人でなしの所業を、より強くしようと言うのだ。  
人々は震え上がり、家光公は鬼であるか…?と囁きあった。  
 
時に、御前試合の噂を聞かないでもなかった。  
しかしそれは、つわものが集まって試合をしたらしい…  
試合はしたものの、結果はどうなったのか良く分からない…  
と云うか、本当にそんな事が行われたのか?…などという、ひどく薄暈けた物であった。  
 
試合に負けて途中で帰った者もいた。噂が流れるのは当然と言えよう。  
それでも、真実は薄墨のごとく霞み、より衝撃の強い噂話にかき消されていた。  
 
「本当の家光は腰抜けの小便垂れ、などと触れ回った所で…いまさら誰も信じぬのだろうな」  
「やめとけよ…」  
「言われずとも!…そのような馬鹿な真似はせぬ……けどな…」  
 
命を賭して挑んだあの日は、殆ど無かった事にされてしまった。  
そして皮肉にも、それにより自分達の身は思いのほか安全かもしれないと圓は思った。  
自分達を探し回るお触れや人相書きはまったく見かける事が無く  
そんな噂話しか、流れていなかったからであった。  
 
こちらの状況は圧倒的に不利ではあるが、あちらにしてみても  
触れば只で済まない陸奥と、これ以上の関わりを持ちたくはないのだろう。  
こちらが大人しくさえしていれば、相互不干渉にて手打ち…そう言われている気がした。  
 
口惜しかった。  
口惜しかったが、それに歯向かうには痛い目にあいすぎていた。  
胸元を抱くように着物の上から触れ、圓は不快感をぐっと飲み込んだ。  
 
「結局…全てお前の言う通り…か」  
「ん?」  
「……なんでもない…」  
 
考え込んだ所で彼女の状況は変わらず、気持ちは落ち込むばかりであったが  
もう一つ、陰鬱な気分に陥った事柄について口を開く事にした。  
 
「…何故…そこまでするのだろうな……?」  
「…?」  
「宗教を……拷問してまで捨てさせたり…死しても信じたり…  
何故そこまでするのか?…目に見えぬものに、何故そこまで……」  
 
感情を押し殺した声は逆に怯えるような音で紡がれた。  
それに気付きつつも、圓は胸元を抱いたまま言葉を繋ぐ。  
秋風に細められた目に、飛び交う赤とんぼが滲んで見え  
それはまるで青い布に広がる血染みに思えた。  
 
「天斗……織田信長って知っておるか…?」  
「!…………ん…まぁな」  
「オレが幼い頃…佐助がな、昔話みたく色々と聞かせてくれたのだが…  
以前にもこういった…厳しい宗教弾圧があったのだって………。  
オレの親父が……身を寄せていた、大阪城のあった場所な  
昔は石山本願寺と言うて………ええと……い、いっきょう……?」  
 
ぽつりぽつりと、一つづつ確認するかのようにそこまで言い  
圓は曖昧な記憶に慌てて首をひねる。  
そこに、寝転がって空を見上げたままの天斗から、妙に冷静な声が掛かった。  
 
「一向宗」  
「………ん……そう、言ったかな?……  
その一向宗とかいう宗教の本山だったそうだな……。  
で、それの門徒が……信長により焼き討たれたのだ。二百人だか大勢…」  
 
赤とんぼの飛び交う空から、天斗は圓に視線を移した。  
彼の知識の中では、焼き殺されたのは二万人。まったく桁が違っている。  
しかし、縮こまっている彼女の背に向け、その間違いを叩きつける気は起きなかった。  
 
「切支丹狩りといい…何故にそこまで…」  
「…さぁな。こればっかはオレにもさっぱり…だ。  
ついでに分からん事と言や、何でそんな事をお前が言い出したか、だな。  
一向門徒や切支丹が可哀想に思えたか?」  
「……え、いや…そんな……」  
 
ずばりと突っ込んできた天斗の言葉に、圓は動揺を隠せずうろたえた。  
可哀想などと奇麗事を思っていた訳ではなく…むしろ  
その思いの純粋さ、深さが『恐ろしい』とは感じていた。  
…恐ろしいが…、勝手に信じているのだから、それはそれで良いと彼女は思う。  
 
圓が真に引っ掛かりを覚えていたのは、信者たちの事ではなかった。  
 
「……そうではない…。そうでなくて…ただ、考えていたのじゃ…」  
彼女は中空を見つめ、自身が耳にしてきた事が間違いではなかったか  
もう一度ゆっくりと思い返し……思い切ったように口を開いた。  
 
「確か……信長と家光は…血の繋がりがあった筈」  
 
「……………だった筈…だが?」  
「ああ。そうだ」  
 
天斗は少し苦笑いを浮かべながら、はっきりと肯定した。  
更に、ぼそりと「…忘れてたけどな…」と呟かれたのだが  
それは圓に届いてはおらず、彼女は独り言のように続けた。  
 
「やっている事がよう似ておる…と思ってな。容赦がなくて、非道で…  
これはあれか、血の為せる業ってやつなのかのぅ…」  
「そうだろうな」  
「……え?」  
 
思わず圓は聞き返していた。  
宗教弾圧がどうのと真面目ぶった事を言いつつも  
実の所『これってただの愚痴だよな…』などと思いかけていた所だったのだ。  
天斗からの答えも、深く求めていたわけでなく…  
そこまではっきり言い切られると、少々体裁が悪い。  
 
「人でなしの血は人でなしに、鬼の子は鬼に。そう言うもんだろ」  
「い…いや…まぁ、そうなのかもしれぬがなぁ……うーん…  
信長は勇猛だったと聞くが、家光は腰抜けだったわけだし………」  
「なんだよお前、さっきと言ってる事が違うんじゃねぇか?」  
 
痛い所を指摘された圓は息を詰まらせ、苦い顔を天斗の方へと向けた。  
見れば彼は、何がそんなに可笑しいのか…人の悪い笑みを浮かべている。  
その態度にかちんと来ながらも、彼女ははっきりと言い切れない理由を述べた。  
 
「…だって、そんなこと言ったら……稀代の軍略家だの、日本一の兵だのと  
佐助が褒め称えていた親父とオレとじゃ…全然違うじゃないか…」  
 
惨めな言い分であったが、自分自身に嘘はつけなかった。  
 
 
幼い頃から佐助に聞かされてきた、昔々の話。  
名将であった顔も知らぬ父と、その仇の話。  
繰りかえされたそれらは、いつしか圓の業前を磨く糧の一つとなっていた。  
 
父が為し得なかった事を、自分が果たしてやりたい……  
そしてその仇は、かつて魔王と呼ばれた者のように  
討つに値する者である……寧ろそうであって欲しい…と、思い込んでしまっていた。  
それはまるで、想い歪んだ片恋のように。  
 
しかし…それもこれも、身勝手な夢想でしかなく  
その代償に何もかも取り上げられてしまったのだが…。  
 
 
膝を両手で強く抱えなおし、そこに顔を埋め、重く溜息をついた。  
只の愚痴のはずが、気付けば自分の首を絞めている。  
口を開けば己の馬鹿さ加減を露呈するばかりな気がして  
もうこのまま、目的地に着くまで口を縫い縛っておくか…などと、いじけ気味に思う。  
 
すると前触れなく、横に寝ていた天斗が体を起こす気配を感じ、圓の肩がぴくりと揺れた。  
……いいかげんな事を口走ったのを咎められるか…嗤われるか…  
分からなかったが、顔をあげる事も出来ず、そのまま固まったかのように動けずにいた。  
 
すると突然、頭の上に何かが乗せられた。  
最初は何なのか良く分からず、俯いたまま瞳を二、三度瞬かせた。  
藍錆色の着物に包まれた視界は暗く、それだけに感覚が良く伝わってくる。  
 
一つに結われた髪の流れに沿うように、頭の前方から後ろへと滑るような…  
少し、くすぐったいような…そんな感覚と、適度な重みに不思議な安心感。  
強く押さえつけられている訳ではなく、寧ろ優しく、労わるような暖かさがあった。  
 
そこでようやく、大きな手にゆっくりと頭を撫でられているのだと彼女は自覚した。  
顔全体に、ぱぁっと勢いよく熱が広がる。  
激しい動揺にうろたえ、顔をあげる事も出来ないまま  
心臓と脳だけは激しく動き、この状況をどう動かした物かと思案する。  
 
子供扱いするな!と、払いのけようかと心をよぎるが…考えてみれば  
その子供扱いを、佐助から受けた事は無かったな…と、昂揚した気持ちが少し沈む。  
誉められた事や注意された事は幾度もあったが  
それはいつだって、かしずくような態度だった。  
 
自分と同年代の子供が、父母に頭を撫でられていた。  
それを見て、別に羨ましいなどと思った事は無いが…  
ただ、あれはどのような感覚なのだろう…とは、思っていた。  
 
そして今、あえて感想を述べるなら『結構気恥ずかしい』  
それゆえに彼女はじっとして、天斗が変わらず頭を撫でながら話し掛けてきても  
されるがままになるしかなかった。  
 
「ま…確かに、お前は軍略家には向いてねぇかもな」  
「………」  
「策を練るには、お前の根は真っ直ぐすぎる。真面目な程に…な。  
けど、別にそれは悪い事じゃないぜ」  
 
……圓は、自分の心臓が大きく跳ね上がるような感覚も味わっていた。  
穏やかな声に、暖かな手。それに波打つ鼓動。  
暗い色の着物を掴む指先から、少しづつ力が抜けていく。  
慰めなど普段なら不快にしか感じないが、なぜか今は心地が良かった。  
 
ふと…今だからではなく…この男だからか…?と、思いかけた時  
「とはいえ、真っ直ぐすぎる根っこはすぐ抜けちまうけどな」  
などと無神経な言葉を耳にし…  
いっぺんに正気へと立ち戻り、口元をひくりと引き攣らせた。  
 
頭に乗っかった手を無理やり首の力だけで持ち上げると、片目の天斗に対し  
圓は半目で睨みつけ、腹の底から響くような、低い、低い声で呟いた。  
 
「…お前なぁ……誉めるか貶すか…どちらかにしとけよ……」  
「そうか。だったら次からは片方だけにしておくかな」  
「次は無いわ!……馬鹿者が…!!」  
 
その視線と声に、要らん事言いの天斗に対する恨みと  
弱っていたとはいえ、甘い事を一瞬でも考えてしまった自身に対する恨みを  
呪いでも掛けんばかりの勢いで込め、圓はぶつけた。  
しかし天斗は変わらない様子で、恨みがましい視線に対し微笑み返す。  
 
「…お、なんだ。泣いていた訳じゃないんだな。偉い偉い」  
「ばっ…!!……童じゃないんだ!いつまでもめそめそしてなどおらぬ!!」  
 
圓が睨みつけている間、怒鳴りつけている間も、変わらず天斗の手は頭を撫でる。  
まるでそうする事で、彼女の溢れる悪意を受け流しているかのようだ。  
その証拠に、怒りにまかせて喚いている筈の圓の口元が、少しひくひくと動き  
可笑しそうに、馬鹿馬鹿しそうに歪んでいく。  
 
思い起せば頭を撫でられていた子供は皆、嬉しそうな顔を見せていた。  
人の頭には、撫でられると強制的に和んだ気分になってしまうツボでもあるのだろうか…  
圓はそんな事を考えつつも、くすぐったさに身を捩り、ついには哀願し始めてしまった。  
 
「…もう良い!もう怒らぬから止せ……もう本当に…いいんだってば!!」  
もしもこれが勝負なら、分り易いほどに勝敗はついていた。  
 
目的地に着くまで、ずっと口を縫い縛っておく…などという考えは早々に捨てた。  
下手に落ち込んだ所を見せたら、また頭が削れんばかりに撫でられ倒されるに違いない。  
 
なんとか逃げるかのように立ち上がり、おぼつかない足取りで道に戻った圓は  
まだ少しむずむずする頭を、髪を直す振りに見せながら撫でつけ、溜息まじりに口を開いた。  
「…お前の故郷って…どれくらいで着くんだよ…?」  
「なに、すぐだよ、すぐ」  
「……なら、その間…おかしな愚痴は二度と言わぬ…」  
 
自分でも滑稽に思えるほど不機嫌に、かつぶっきらぼうに宣言する。  
「だからもう、その……二度とオレの頭に触るなよ」  
 
しかし、その願いに対し返って来た答えは一言「なんで?」という物。  
分からないと言いたげな天斗の顔を、圓は半口開けたまま睨つけた。  
…この野郎……普段は分からなくて良い所まで察する事ができるくせに  
なんでこういう時だけ…と、苦渋が顔に浮かぶ。  
 
「な…なんでじゃなかろう!!…じ、人体における急所だからだっ!!ここは!」  
「別にオレは急所を攻めているつもりは無かったんだがなぁ…」  
 
顔を真っ赤にして、真剣に怒って見せる圓に  
天斗は「へいへい」と気の無い返事をするに留まったのだった。  
 
 
…二人の耳には届いていないが、裏の世で口端に上るものがあった。  
『真田の姫が密かに生き延び、その者には鬼が憑いている』という  
不吉で、どことなく淫靡な響きを持つ噂。  
それはあくまで内密に…そのくせ尾ひれをつけて面白おかしく語られたのだった。  
しかし秋晴れの下、じゃれあうように歩く二人の姿からは  
そのような噂の主であると感じさせる物は、微塵も存在しなかった。  
 
 
……こんな調子で、旅は続いていった。  
天斗が最初に願った通り『つまらない旅』には程遠い道中。  
からかわれ続ける圓にとってみれば、たまった物では無かったのだが。  
 
腹立ちを隠しもせず「まだ着かんのか…」と呟き  
簡単な約定に安堵した事が恐ろしく昔の事に思え、うんざりと溜息をついた。  
そんな彼女の様子に彼は笑い、また彼女はむきになって怒る。  
そんな他愛の無い事の繰り返しが、のんびりと続いていく。  
 
 
 
圓にとって、このような旅は初めての経験で。  
 
今までも一所に腰を落ち着けず、あちらこちらを転々とする生活ではあったが  
待っていれば佐助が食事を作り、洗濯された着物が出てくる…  
そんな状態が当たり前で、これといった苦労も知らないで生きてきた。  
しかし、今となってはそれも望めない。  
自分で自分の為に、乏しい知識と慣れない腕前を振るおうと覚悟を決めていた。  
 
覚悟だけでどうこうなるほど、日々の雑務は甘い物ではないのだと  
彼女が悟るのも、そう時間は掛からなかったが…。  
 
特にそう悟るきっかけとなったのは、圓が考え無しに取ってきた茸を  
これまた考え無しに、出来上がりかかっていた鍋につっこんでしまった時だった。  
 
「暗殺がしたいんなら、もう少しばれないようにやんな。  
そうでないなら、まずオレに聞け。…聞くだけならタダだからよ」  
 
掘った穴へと、異様な匂いを放つ鍋の中身を捨てながら言う天斗に対し  
空きっ腹を抱えた圓は素直に頷くしか出来なかった。  
 
とはいえ、生来の意地っ張りな性格に加えて、他人に物を請う事に慣れておらず  
しかも相手はどこまでが本気か分からない大嘘つき。  
最初の頃は、まさに渋々ながらと言った趣で、意思の疎通も効率も悪いものだった。  
 
だが、料理や裁縫、洗濯の仕方など…  
意外なほどに懇切丁寧な天斗の説明を聞き、一つづつ手立てを覚えて行くうちに  
何事も二人でやっていくのが自然となっていった。  
 
物事を覚えると、その苦労も分かるようになる。  
亡き養父の並々ならぬ労力に、伝えたいのにままならない、感謝の気持ちと悔恨がよぎる。  
遺髪の納まる胸元はきりりと締め付けられ、彼女の瞳はまた遠くを見つめる。  
 
すると「馬の尻尾みたいだよな」などと言いながら髪を引っ張られたり  
口端を左右に引っ張られたりなどして…意識も現実に引っ張り戻された。  
 
その度に『…頭に触るな…とは確かに言ったが…こんの大馬鹿は…』と思い  
だんだん考える事自体が馬鹿馬鹿しくなってくるのだった。  
 
 
 
圓もそんな他愛の無さに、良くも悪くも慣れ始めて来た頃  
歩みと共に寒さも増し、北へと向かう旅路はしんしんと冷え込んで来たのだった。  
 
山中の廃屋と化した神社を今夜の宿に決め、板の間に立つと底冷えが体を振るわせた。  
普通の着物の下に忍装束を着込んでみても、寒いものは寒い。  
彼女は両腕で自身を抱きしめながら、寒さを紛らわすために室内を歩き回った。  
 
どうやらこの神社、他にも旅の者達が休憩する場として利用しているらしい。  
親切心で置いていったか、それとも捨てて行っただけなのかは分からないが  
ボロ布やらゴザやら、他にも様々な物が無造作に置かれており  
それらはささやかな生活臭を醸し出している。  
神社としての様相は外面以外留めていない。  
これでは奉られていた神様も荷物を纏めて出て行った事だろう。  
 
ぎいぎいと喧しい床を踏みしめながら、横目で連れに視線を向けた。  
誰が持ち込んだ物やら、端のかけた火鉢が一つ  
天斗はそれに火をつけようと背を向けている。  
 
その姿はどう見ても自分より薄着にしか見えなかった。  
それなのに、何故にああも平然としていられるのか…。  
予想していた事とはいえ圓は呆れ、気温とは別の薄ら寒さを感じていた。  
 
さほど大きくも無い神社の中は、歩けばすぐに壁へと行き当たる。  
彼女は方向転換をすると、また彼の背を見つめて歩き出す。  
 
『寒いとか……痛いとか…そう言うのを感じる所が麻痺でもしておるのか…?』  
眉間に皺を寄せ、考える。  
『……それとも…人より体が熱い、とか…?』  
 
火打石を擦り、燃え出した付け木を放り込めば、火鉢の中身がじんわりと揺らめき始めた。  
破れ神社は隙間風が入り込み、これだけでは大して暖は取れないだろう。  
それでも無いよりはましと思い、火に軽く息を吹きかけ、勢いを増した。  
…ふと、そこで天斗はようやく気がついたのだった。  
あれほど賑やかだった足音が止んでいる。そして、真後ろに立つ人の気配を。  
 
寒さに待ち切れなくなったのだろうか。  
彼は後ろを振り向きかけ…突然背中に軽い衝撃を受ける事になった。  
…衝撃というには柔らかく、暖かい感触に少々面食らう。  
 
首を捻って振り向くと目前に黒く長い髪があり、それが鼻先に触れた。  
背中に背中を付け、もたれかかって来た訳か…と、即座に状況を判断し  
時々こうして繰り出される、圓の読めない行動に苦笑いがこぼれた。  
 
 
…気になりだすと、どうにも止められない自分の性格を何とかすべきだなぁ…  
広い背中にもたれかかりながら、圓は喉の奥で軽く唸っていた。  
別にここまでしなくとも、手をくっつけるなりすれば済む筈の事ではある。  
だが、白い着物の背を見つめていると……背中には背中でなくては  
駄目なのではないか?などという考えが浮かび、その考えを捨てられなかった。  
 
彼女なりの紆余曲折を経て、背中を実験台とし導き出した結論は  
「…あんがい、普通…」という物で、ついその思いを声にしてしまっていた。  
 
「何が普通だか知らんが…期待外れだったか?」  
「う。…い、いや。別に……そのような事は…無いぞ。…うん」  
頭の真後ろ、とても耳に近い所から聞こえてくる声に  
圓は少々焦りながら、たどたどしく答えを返した。  
 
結局『人より体が熱い』などと言う事は無かった。  
だが、人並みの…人肌は温かく、鍛え上げられた背筋の感触は  
なかなかに心地よく…寒さと相まって、何となく離れ難い気持ちにさせられた。  
 
背の温もりを感じつつ、それに反して少しばかり冷静になってみれば  
初めて出会ったあの日…裸で猪鍋を食い終わった天斗がくしゃみをし  
『冷えてきた』だの何だの言っていた事が思い出されてくる。  
思わず圓は頬を掻き、低く乾いた笑いが口から漏れ出るのを止められなかった。  
 
『…そういや…そうか…。となると麻痺って訳でも無し、か…』  
それに今まで何度か抱きしめられたりして来た訳だが  
これといって気になるほど熱いと思った事も………  
 
…そこまで考えて、頭の奥底に封印していた様々な記憶が呼び起こされそうになり  
圓は慌てて首を左右に振り、天斗は怪訝そうな顔をしたのだった。  
 
くだらない事をしてしまった物だと圓は思う。  
それもこれも寒い所で寒がらないコイツが悪いのだと、勝手に責任転嫁をし  
さてこの状況、どう誤魔化して切り抜けたものやら…と頭を捻ろうとした。  
 
すると突然支える物が無くなる気配を感じ、無意識に両手を床につけ、体を支えた。  
遠慮気味に振り向けば、天斗の体は前方へと傾き、背が離れてしまっている。  
 
『……………。邪魔……だったか……な……』  
彼女の背中に、すっ…と凍えるような空気が入り込んできた。  
ちょうどゴザのない所に手をついたため、床は指先から染み込むような冷たさで  
それよりもよほど、きりきりと冷たく、心が痛んだのだった。  
 
後悔に眉根を寄せ、うなだれて身を引こうとした彼女の背後で  
何やら動いたかと思うと、木の床がごとりと鳴った。  
つられるようにそちらを見た圓の目に飛び込んできたのは  
天斗がいつも腰にさしている、古めかしい太刀。  
それが床に置かれていた。  
 
「………」  
「これがあっちゃ邪魔だよな。……どうした?寒ぃから早く来いよ」  
 
先程の姿勢に戻った天斗は指先で招く。  
ぽかんとして太刀を見つめていた圓は、その言葉で視線を指先に移すと  
『そ…そんな本腰入れてくれんでも…』などとごにょごにょと一人ごちた。  
 
「今度はオレがもたれていいってんなら、そうさせて貰うが」  
「…ばっ、馬鹿…いくらオレでも支えられる訳なかろう!息が詰まってしまうわ…。  
……………ちょっと待っておれ…」  
 
憮然と…赤らむ顔で前へ向き直ると、足に力を入れ体を後ろにずらす。  
するとすぐに背中が当たり、またじんわりと暖かさが戻ってきた。  
確かに先程とは違い、間を遮る刀が無くなった分だけ、より心地良い。  
…より心地良くなった分、圓の腹の中は居心地悪さでいっぱいになったのだが。  
誤魔化すように、必要以上に背中に体重をかけ、ごつごつと軽い頭突きを喰らわせた。  
 
「やめろって…ほらよ」  
ずず…と重たげな音と共に、天斗は片手で火鉢を移動させた。  
増えた暖房器具を見て、圓は背後への嫌がらせを素直に止めると  
冷えた指先を火鉢にかざして暖めた。  
肩越しに彼女の指先をちらと見て、ふっと息をつくかのように天斗は笑い、口を開く。  
 
「なんか『おしくらまんじゅう』みたいだな。ガキの頃にダチとよくやった。  
この年になって、またやるとは思わんかったぜ」  
「……まぁ…言われてみれば……。…オレも混ぜてもらった事がある…」  
 
薄いものながら、圓にもそんな記憶があった。  
遊んでいる子供達を遠巻きに眺めていると、声を掛けられ手を引っ張られた。  
隣り合った子供と腕を組み、円の中から押し出せれぬよう力をいれて…。  
どこでそうしたのか、どんな子供達だったかも思い出せない昔の話。  
ただ、佐助にその話をすると、嬉しそうだったという事は、はっきりと覚えていた。  
 
ぼんやりと火鉢に視線を落とすと、ふと思い立ち  
ふところから苦無を一本取り出して、それを火箸代わりにそっと中身を突っついた。  
思考の半分は回想に占められたまま、なんとなく言葉を発する。  
 
「ふぅん…そうか…。天斗にも友人がいるのか……」  
「……お前、さり気なくひでえ事言うのな」  
 
少々低く、不満げになった声にはっとする。  
その気は無くとも嫌味に聞こえる言い方をしてしまった事に  
彼女は慌て、取り繕うように手を振りながら後ろを伺った。  
 
「い、いやいや、違う…。ただちょっと驚いただけだ。  
小さい頃など、今のお前からは想像もつかぬから……」  
 
そこまで口にして、改めて本当に想像がつかないな…と圓は気が付いた。  
友人の件もそうだが、体が小さく、強くない…そんな姿など、どうにも考える事が出来ず  
薄墨色をした天斗の左眼を、思わずしげしげと見つめてしまう。  
見つめた所で、過去が見られる訳でもないのだが…。  
そんな圓の仕草に、その目がふっと細められ、口端が上がった。  
…苛めっ子の顔つきだった。  
 
「お前のガキの頃は、何となく想像がつくけどな」  
「……どういう意味だよ…それ…」  
 
今度は圓の声が低く不満げになったが、天斗はそれに構う事なく姿勢を戻した。  
苦い顔をしながら、圓も彼の背にもたれ直す。  
また火鉢に苦無を突っ込むと、いささか力が入りすぎたのか  
灰がほわりと舞い上がり、暗い色味の袖をまだらに彩った。  
 
「ま、それはともかく。その様子だと背中の傷も良さそうだな」  
袖の灰を叩き落としていた圓は、言われてしばし考えた後  
背中をくっつけたまま、もぞもぞと動いてみた。  
撃たれたとはいえ、自力で玉が取り出せる程度の傷。順調に回復へと向かっている。  
…順調すぎて、怪我に効くという温泉に入る前に  
完治してしまうのではないか?…と思う程に。  
 
「そりゃまぁ、わざわざ痛い真似などせぬ。…少々むず痒いくらいか。  
最近は包帯も使わなくて済むようになったし……」  
「ああ…そうだな。お陰でオレの楽しみが一つ減っちまったけど」  
 
ごすっ  
 
「……お前の傷も塞がって来ておるようで、何よりだ」  
 
刀傷のある天斗の左脇腹に向け、容赦なく肘鉄を食らわせると  
冬の隙間風にも負けないような冷たい声で言い放ち、ふんと鼻を鳴らす。  
 
一撃入れた後、澄まし顔で姿勢を戻す圓の指先に、こつりと硬い物が触れた。  
床に置かれた太刀…その鞘も、とても冷たくなっている。  
指先をつけたまま、しばらくそれを見下ろしていたが  
ゆっくり離すと火鉢に指をかざし、暖めてから自身の足に手をかけた。  
 
こうして座り込んでいると、今日一日、寒空の下を歩き続けた疲れをいたく実感する。  
重く痛む足を撫で、膝から指三本ほど下にあるツボを探り、押さえると  
疼痛が、じぃんと響くように感じられた。  
その足の痛みと共に、ふとまた、いつとも知れぬ過去の記憶が彼女の胸をついた。  
 
今ほど体力も無かった頃…歩き疲れて思わずへたり込んだ事があった。  
その時、佐助がこのツボを指圧すると、嘘のように疲れが取れ  
『これは何の忍術じゃ!?』と驚きの声を上げていた。  
 
『このツボは足三里と言いまして、その名の通り  
押せば三里の道をも行ける…などと言われておりますのじゃ。  
…由来の真偽は分かりませぬが、効果の程は…ほれこの通り』  
 
指圧を終えると両手を開き、まるで本当に忍術でも使ったかの如く見せ  
おどけた口調で微笑みかけてくれたのだった。  
そして、足の痛みも忘れてころころと笑っていた自分…。  
 
優しい記憶を想い起こしながら足を揉んでいると  
足の重みの変わりにまぶたが重くなって来た。  
軽く首を振って睡魔を払うも、すぐにまた視界が狭くなる。  
 
外はすっかりと暗く、強くなった風が神社の戸板をかたかたと揺らす。  
森の木々が揺さぶられる音は、いかにも寒々としているが  
今夜はこの火鉢と、脇腹押さえて少々傾いている背中のお陰で  
凍える事は無さそうだと思うと…気が抜けて、力も抜けた。  
 
足を掴んでいた手からも力が抜け、すとんと落ちると  
また天斗の太刀が指先に触れた。  
 
目を瞑ると心に過ぎる。  
 
ずっと背負っていた父の形見。あれは今…どうなってしまったのだろう…と。  
そして背中の痛みと共に、その重みまでも忘れかけていた自分は  
とんでもない薄情者だな……と…。  
 
そんな思いが一瞬浮かびつつも、急速に眠りの淵へと引き寄せられたのだった。  
 
脇腹の痛みが治まると、天斗は一つ大きく息をついた。  
ついつい気を抜きすぎていたらしい…。それなりに、効いた。  
「お前なぁ、手加減しろとあれほど…」などと口にしながら  
傾いていた体を起こそうとすると、返事が無い代わりに圓の体がぐらりと傾いた。  
 
瞬間、素早く体を捻って片手で支えると、慌てて顔を覗き込む。  
そこにはこの上なく平和な寝顔を晒している圓の姿。  
かくりと首が傾き、長い髪が天斗の腕をくすぐるようになぞり、落ちていく。  
 
唖然としながら見つめていたが、しばらくすると  
彼の表情は呆れの混じった物へと変わっていった。  
「勝手に暴れて勝手に寝るのかよ…」  
頭を掻きながらそう呟いてみても、腕中の様子は変わらなかった。  
 
腰を捻って片手で支えているという姿勢は、少々無理がある。  
彼女が倒れないように頭を肩にもたれさせ、腰に手を回し  
流石に目を覚ますか…?と思いつつ、身をずらして姿勢を整えた。  
今の姿はこれまでの背中合わせと大きく変わり、圓の体は天斗の胸元に納まった。  
 
ここまでしても、圓の目が覚める事は無かった。  
天斗の動きに無駄が無かった事もあるが、少し身じろいだだけで  
相変わらず安らかな寝息を立てている。  
 
見様によっては、その寝姿は豪胆。  
どのような状況においても、眠けりゃ寝るんだという根性の表れとも取れる。  
…が、天斗には分かっていた。  
 
「ただ単にガキなんだよな…お前はよ」  
起きている時に口にすれば、本気で噛み付かんばかりに文句を言ってくるであろう  
暴言にも、圓の穏やかな表情は変わらない…。  
 
すっかり弛緩しきった彼女の体はぽやぽやと暖かい。  
普段は凛々しく上った眉も今は下がり、時に長い睫をぴくんと揺らす。  
胸板につけられた頬は柔らかく、血色良く染まっている。  
そこに前髪が淡い紫の影を落す。  
 
…いつの間にか、穴が開きそうなほど寝顔を見つめている事に気付く。  
天斗は視線を無理やり引き剥がすように外すと、誤魔化すように首を振り  
先程、圓に対して言った『お前のガキの頃は、何となく想像がつくけどな』という  
自分自身の言葉を思い起していた。  
 
今までも圓の寝つきはとても良く、意図はせずとも寝顔を拝む事は多くあった。  
旅をはじめて間もない頃は、怪我の痛みか悪い夢か  
眉根を寄せて苦悩しているような表情を見せていた。  
しかし最近は、このように無邪気で穏やかになって来ている。  
その顔を見て『体を縮めりゃ、まんま子供だな』と思ったのだ。  
あの言葉はここから来ていたが、そんな事は圓自身に分かる筈も無い。  
 
『それに…』  
胸中でぼそり一言呟くと、室内の隅に目を向け、更に思い起す。  
 
この旅中、様々な事を圓は質問していた。  
それに自分はそれなりに答えて来た、と天斗は思う。  
そしてある日、小さな村を通りかかった時の事  
転げまわって遊ぶ子供らを見ながら、彼女は一言呟いたのだった。  
『なんで家によって子供の数が違うのだろうな』と。  
 
最初、天斗にその意図は掴めなかった。  
少々戸惑いを滲ませながら『…そりゃ、その家それぞれの都合ってもんだろ…』と答えると  
圓もまた『都合…で、子供の数が変えられる…ものなのか?』と戸惑った顔を見せた。  
 
家の都合…養子縁組やら、それこそ口減らしやら…別段聞かない話ではない。  
しかし圓の口調は、それらの事を指しているのではないように思えた。  
もっとこう、根本的な事が分かっていない、そんな雰囲気を感じる。  
『子宝の湯』の時の反応といい…。  
 
そこで天斗は何となく察する事ができた。  
こいつはもしかして、いや、もしかしなくとも…  
子を成す手立てという物を分かっていないんじゃあないか……と。  
 
そこまで考えて、長く深い溜息をついた。  
 
目線の先…狭い神社の隅は、火鉢によるほんの薄明かりで影が濃くなっている。  
そこからまた目線を戻し、胸にもたれる無邪気な顔をそっと覗き込んだ。  
信頼されたもんだよな…と、天斗は呟く。  
…それは、無知だからこそできる顔だと思うと  
彼の胸になんとも複雑な思いが湧いてくるのだった。  
 
『それがしは忍びの技しか知らぬ男でござる』  
静かで、どことなく愁いを帯びた佐助の言葉が蘇る。  
『…それにしたってもよ、爺さん…』  
呼吸に合わせてゆっくりと動き、藍錆色の着物を柔らかく持ち上げている圓の胸元  
遺髪の収まっているそこに目を落しながら、ここにはいない者へと思いを馳せた。  
 
腕の中の圓がまたもそもそと揺れ動いた。  
軽く眉根を寄せ、胸に頬擦りするように顔が動き  
穏やかな顔つきに戻ると、薄く開いた唇から規則正しい寝息が漏れる。  
 
抱える腕に、胸元に…彼女が培ってきた身体のしなやかさと  
二十歳の盛りと誇る、女性特有の柔らかさが擦り切れた古着越しでも伝わってくる。  
……それでいて中身はてんでお子様とは。  
 
「ちょいと卑怯じゃねぇのかよ…ったく」  
圓に向けてではなく、彼女の養父に向けた恨み言が口を突く。  
 
とはいえ、佐助だけを責めるのも酷なような気がしないでもない。  
ここに至るまで、洗濯やら食事の作り方やら、圓に問われるままに天斗は教え  
今ではかなり手際も良く、彼女の物覚えの良さに正直驚いたほどだった。  
興味を持った事柄に関しては見事に吸収してみせるようだ。  
そうして忍の技を己の物とし、ここまで成長してきたのだろう。  
 
…しかし、得てしてこういう性質の者は、興味のない事にはまるで見向きもしなかったりする。  
佐助が年相応の知識をつけようとした所で、右耳から入って左耳を抜ける…か  
『つまらん』の一言で一蹴、などと容易に想像がつく。  
恥らうようになる前の行動がどんな物であったのか、天斗はあまり考えたくなかった。  
 
「……どうしたもんかね…」  
夜風に揺れる木々のざわめきに、彼の呟きはかき消されていった。  
 
 
 
夜も白々と明け、外から聞こえる鳥のさえずりは喧しい程。  
圓はボロ布に包まりゴザに寝転んだ姿で目を覚ました。  
寝転がったまま、ぼんやりとさえずりに身を浸していると  
夜に強く吹いていた風は止んだのか…と、頭が働き始めた。  
起き上がろうとすると、布の隙間に冷気が入り込み  
彼女はぶるりと体を振るわせ、身を縮こませた。  
 
一つ大きな欠伸をし、目を二、三度擦った所でふと足りないものに気が付く。  
壁の隙間から漏れる光に反射した、舞い散る埃が輝く室内に首を巡らせ  
「…天斗?」  
小さな声で名を呼んでも返事は無く、布を肩にかけたまま、ゆっくりと立ち上がった。  
 
神社の扉を開けて外を覗くと、そこには探し人が鍋を前に背を向けていた。  
注ぐ陽射しは白い着物を透かし、影になった体の線が映って見える。  
ほっ…と軽く息を吐き、しばらく背中をぼんやりと見ながら  
昨夜の事を思い起してみたものの、いつの間に寝入ってしまったのか分からなかった。  
 
「おはよう」  
考えている所に突然声を掛けられ、驚いた拍子に布を落しそうになった圓は  
いつの間にやら振り返っていた天斗にたじろぎながらも  
「…はよ……」と返答し、頬を軽く掻いた。  
 
「よく眠れたか?」  
今朝も変わらず、片目を閉じて飄々とした表情を見せている。  
そして、やはり変わっていない天斗の全身をすっと流し見て口を開く。  
「まぁ……うん…。寒くは無かったし…」  
寝付く前の事は思い出せないが、凍えて目をさました覚えも無いと思う。  
今はこんなに寒いのだが。朝方は冷えるから仕方ないのか?…と、なんとなく納得した。  
 
朝日の中、ぽつりぽつりと会話する二人の息は白い。  
 
「そう言うお前はどうなんだよ…」  
なんの気ない質問返しではあったが、どことなくその口調と目つきには  
遠まわしに天斗の薄着を咎めるものが宿っている。  
しかし、返って来たのは「オレは熱いくらいだったから」などという  
信じられない言葉と軽い笑顔であった。  
 
「…変なやつ」  
呆れかえって呟き、背を向けて神社に引っ込んでしまった圓には  
天斗の言葉の意図が分かろう筈も無かった。  
 
支度を済ませ神社を出る際、火鉢の傍らに置かれた苦無を手にとり  
灰を払って懐に仕舞おうかと思った圓は  
それをしばし見つめ、そっと火鉢の中に立てかけ置いた。  
ここには火鉢はあっても火箸は見当たらない。  
次に訪れた旅人が代わりに使えば良いと彼女は思う。  
 
ほんのささやかな、一晩の宿に対する礼…  
そんな気持ちを抱いた者達が、今の自分のように何かを少しづつ置いていって  
あのように物がたくさん置かれている状況が出来上がったのだろうかと  
朝日を受ける破れ神社を少しだけ振り返り、考えたのだった。  
 
 
 
二人の思惑など気にもとめず、季節は刻々と移り行く。  
雪混じりの向かい風は、花弁を乗せた追い風に変わる。  
花はあっという間に散り、緑萌ゆる季節を迎えた頃、圓の着物が一枚増えた。  
しかし色は藍錆色に負けず劣らず暗い物…。  
忍装束に袖を通さないのは、せっかく様になった足さばきが  
また衰えるのを嫌っての事だった。  
 
五月雨に走り、照りつける日に辟易し、くだらない話に笑い  
時に理由も思い出せないような些事で激しい口喧嘩をする。  
それでも離れる事なく、二人の歩みは進められて行く。  
 
そして何事も、確実に終わりの時は来る物で…。  
 
日を追うごとに濃くなる秋の気配がつくづくと感じられる。  
涼やかな風は心地よく、虫の音はどこまでも雅だ。  
もうしばらくすれば、見事な紅葉が目を楽しませてくれる事だろう。  
 
圓は自分が風情あるものを愛でるような性格ではないと分かっており  
実際、腹の足しにもならない事に興味は無かった。  
それでも、肌を突き刺すような夏の陽射しが影を潜め  
静かに落ち着き姿を変える…そんな初秋は嫌いではなかった。  
 
嫌いでは、なかったが……。  
 
風に前髪が揺れ、少々くすぐったさを感じながらも、それを払う事はしない。  
老木が大きな影を落すその下で、彼女は気だるげに寝転がっていた。  
それだけならば、これといっておかしくはない。  
しかし、地面に伏せて置かれた鍋に頬をくっつけて、まるで人形でも抱くかの如く  
両手で風呂敷包みを抱えているのは如何なものだろう。  
竹筒に水を汲んで戻ってきた天斗にも、その姿は奇妙に映っていた。  
 
「枕にするには硬すぎないか?」  
「……」  
問いに答える事なく、圓は面倒くさそうな表情で彼を見上げ  
これなら文句なかろうと言いたげに、重々しく体を起こそうとした。  
 
「ああ、いいって。そのままでも」  
竹筒を手渡すと、彼は傍らに座り込んだ。  
圓は片手で受け取った後、しばらくそれをぼんやりと見つめていたが  
やがて寝転がったままの姿で口へと運ぶ。  
かなりの行儀悪さだが、天斗は何も言わず自分の水を一口飲んだ。  
 
頭上より、はらりはらりとくすんだ色の葉が舞い落ちる。  
天斗がその様を何気なく見つめていると、小さく「嘘つき」との声がした。  
見下ろせば、鍋に張り付いたままの風変わりな横顔と目線が合う。  
 
「確かお前…『すぐに着く』みたいな事を言っておったよなぁ…。  
オレには、今また秋が来ているように感じられるのだが…?」  
「そうだな…一年なんてぇのはあっという間だなぁ…」  
 
暢気な天斗の言葉に、きつく睨みつけた。  
…つもりだったが、姿勢の為に上目使いの瞳は妙に潤んで見える。  
 
「けどよ、吹雪で足止め喰らったり、増水で足止め喰らったり…  
色々とあった割りにゃ『すぐ』だったと思うぜ、オレは」  
「……数百年も同じ事をしている家に生まれると…  
あれか、時の流れも違って感じるわけか?」  
 
重々しく口にした嫌味は、自身の頭に響いて聞こえていた。  
これは鍋に顔をくっつけているせいだろうかと思った。  
更に圓は口を開く。  
 
「ま…確かに。色々とあったわな…。誰かさんが『つわもの』の噂を  
聞きつける度にそっちへ行きたがってくれたりな」  
 
目立てないからと帰郷を決めたはずなのに、見るだけでもと言って聞かない  
天斗を何とか押し留め、頭を抱えた事が何度かあった。  
なだめすかしたり、彼の白い腰紐を渾身の力で引っ張ったり  
…よく破れなかったものだと、今になって思う。  
 
時として本当に来た道を戻り、噂は噂に過ぎなかった事を二人で確認すると  
圓はこっそりと安堵の溜息を吐いたものだった。  
そして思うのだ、おのれは子供か!!と。  
 
「仕方ねぇだろ。耳に入ったからには、礼儀としてだな…」  
「そんな礼儀は要らん」  
吐き捨てるように一蹴された天斗は、頭をぽりぽりと掻いた。  
見上げたその顔は手に隠れて見えないが、きっとばつの悪いものだろう。  
圓は枯葉が積み重なった地面に目線を移す。  
 
「…どうせオレじゃ、お前の相手は務まらぬ…」  
どこか拗ねたような響きの小さな言葉は、天斗の耳までは届かず  
彼は『何か言ったか』と言いたげに見下ろしてきた。  
しかし、彼女が同じ言葉を繰り返す事は無かった。  
 
「……ふん。まぁ良いわ。どうせこの苦労とももうすぐおさらばじゃ…。  
……お前の故郷にはもう…」  
「ああ、三日もあれば着く」  
「……」  
 
圓は目前の風景がくらりと揺れ、霞んで見えたような気がした。  
何故だか息まで苦しくなってきたようで、かかえた風呂敷包みの上から押さえつける。  
 
「…ならば、さっさと行……」  
「とはいえ、着くにはもう少し日が要るだろうがな」  
二人の言葉はほとんど同時で、圓の言葉が途中で消えた。  
言葉の代わりに細まった瞳が戸惑う気持ちを告げている。  
 
「帰るのは、お前の熱が下がった後でもいいだろ…。  
少し行ったとこに村がある。そこで休ませて貰おうぜ」  
「!!」  
 
圓は咄嗟に竹筒を握ったままの腕を額につけ、慌てて離した。  
熱がある事がばれていた事、そして、あまりの熱さに驚いたのだ。  
朝からだるく、戯れに鍋に触ればひんやりと心地良かった。  
このような体調の変化は、幼い頃しか経験が無く、彼女はひどく戸惑いつつも  
そんな大した事でも無いと思い込もうとしていた。  
 
「べ、別に…この程度。大丈夫…」  
「じゃねぇだろ。とりあえず、その包みを貸してくれ。確か薬があったはず」  
天斗は手を伸ばしかけ、その動きが止まる。  
彼女は包みをきつく抱えると、そこに顔を埋めるようにしてしまったのだ。  
風呂敷越しに、くぐもった声が伝わった。  
 
「オレが大丈夫といったら大丈夫なんだ!薬などいらぬ!!」  
怒鳴り声はそのまま彼女へと跳ね返っていた。  
くわんくわんと響き、痛む頭に顔をしかめつつ、無理やりに体を起こした。  
 
 
もうすぐ…あと五日くらいで着くぜ。良かったな。  
二日前、ほとんど日課となっていた  
『あとどれくらいで着くのだ』と言う問いに返って来た言葉だった。  
その晩から、何故かどれほど疲れていても、なかなか眠りにつく事が出来なくなった。  
 
これでもう、自由になるのに。  
これでもう、からかわれなくて済むのに。  
あれだけ早く着けば良いと願っていた筈なのに…  
薄ぼんやりとした不安が胸を占め、自分がよく分からなかった。  
 
あんな瑣末な一言に、呆れる程の動揺を見せるとは  
まるで手玉に取られているかのようで、彼女は苛立ち、ますます眠りは遠ざかる。  
その蓄積が熱となって噴出してしまったらしい…。  
そしてそれを、見透かされるのは嫌だった。  
 
彼女としては、いつものように座っているつもりでも、勝手に体が傾いていく。  
気付けば背後の老木に取り縋るようにもたれかかっていた。  
木の表面のひやりとした感覚が、熱を吸い取ってくれるかのようだ。  
 
傍らで水の流れて行く音がする。  
見ればいつの間に手から離れたのか、竹筒が落ち、中の物を地面に吸い込ませていた。  
 
「なぁ、薬だけでも飲んでおかないか?」  
流れ行く水を魅了されたかのように見つめていた圓は  
その言葉で我に返り、黙ったまま重苦しい動きで首を横に振る。  
その様子に、天斗は困ったような薄い笑顔を見せた。  
 
「みちのくの秋は足が速いって事を言いそびれていたオレが悪かった。  
けどよ、何もそこまで頑なでなくても良いんじゃねぇか…?」  
「……」  
「圓、オレは…」  
 
「言うなっ!!」  
鋭く悲痛な声が、秋の気配を含んだ空気に響く。  
それと共に彼女は両耳を手で押さえ、顔を伏せた。  
何を言われるのかはまったく分からなかったが  
聞いた所で良い事など一つも無いように思え、闇雲に拒絶していた。  
拗ねきった、だだっ子のような姿になっている事には熱のせいか気付いていない。  
 
両手が離れた風呂敷包みが転げ、水溜りに落ちそうになる寸前で天斗は捉えた。  
迷い無く包みを解きながらも、圓から目を離さない。  
耳を押さえていた手は頭を抱えるようになっており  
きつく瞑られた目と寄せられた眉根、赤くとも健康的に見えない頬の色は  
彼女の苦しみを端的に表している。  
無理に大声を出したせいで、目に見えて症状は悪化していた。  
 
叩きつけるように激しく大きな心臓の音と、ひどい頭痛  
暗闇の中、それらをうんざりするほど味わう羽目になった。  
とはいえ、先程まで見ていた歪んだ景色を思うと、目を開ける気にもなれない。  
ふっと気が遠くなり、すぐにまた痛みと共に戻される。  
 
突如、何の前触れも無く、唇に硬い物が触れた。  
驚きつつも目を開けることは無く、口も咄嗟に縫い縛ると  
閉じた合い間にある唾液から、じんわりと独特な苦味が伝わってきた。  
 
『これは…』  
圓の脳裏に、痛みの隙間をついて一年前の出来事が蘇る。  
天斗の指先が、薬を飲ませようと押し付けているのだ。  
それを避けるために、彼女は顔をそむけた。…オレは鯉じゃない!と思いながら。  
 
散々な気分だった。  
この気分の悪さは体調の為だけではなく、自身の不甲斐なさから来る  
自己嫌悪だと理解出来ているというのも辛い物だ。  
あまりの情けなさに、容易に気を失う事も出来はしない。  
溜息のように熱っぽい吐息が漏れ、閉じたまぶたが悲しげに震えた。  
 
そして、これもまた突然の事だった。  
唇にまた何か触れた。諦めの悪い奴だと顔をしかめて避けようとするが  
頬に添えられた手のせいで、大した力も入っていないのに動けない。  
あれ…?と思う間もなく、少し強めに口が塞がれる。  
初めて感じる柔らかさと暖かさに、それは指先ではないと言う事だけは分かった。  
 
『これは……なに……?』  
疑問と共に、一瞬詰まった息で薄く唇が開く。  
対して瞳は更にきつく閉じられた。  
 
頬に添えた手が導くように動き、そっと顔が上げられ  
口腔にほんの少しづつ何かが流れ込んできた。  
少々温んだそれは苦く、じわじわと口いっぱいに広がり彼女はたじろぐ。  
溶けた薬が混じった水は不快でしかなく、今すぐ吐き出したかったが  
逃れようと顔をずらすと、唇に何かが擦れ合い、背筋を寒気ではないものが走る。  
勝手に肩がぴくんと揺れ、その勢いで口にたまった液体を飲み込んでしまった。  
 
更にゆっくりと流れ込んで来るのを、観念した圓はこくんこくんと喉奥で受け止めつづけた。  
息苦しい中思うのは、何を自分はされているんだという物よりも大きく  
何でここまでしてまで薬を飲ませたいんだろう…という疑問だった。  
…ここまで来たら約定が果たされたも同然…放って置けば良いのにと、思う。  
 
最後の雫をひと飲みすると、そろりと唇を圧迫していた何かが離れた。  
一瞬、躊躇するようなその動きは、名残惜しげに感じられたのは気のせいだろうか。  
 
はっ…と、忘れかかっていた呼吸をすると、秋に染まる空気が流れ込む。  
舌を上顎に擦り付け苦味を唾液で薄め、くらつく頭を前方に傾けると額がぶつかった。  
ひんやりとした天斗の胸…押しのける気力も無く、そのまま力無くもたれ続けた。  
 
「…オレは……」  
閉じられ続けている瞳から、一粒零れ落ちたものが頬を濡らす。  
「オレは…いきたくないから…じゃない。…こんなになったんじゃない…!」  
 
「分かってるさ、そんな事…」  
低く優しい声は、溶けた薬と共に染み入るようで。  
ほっと息を吐いた彼女は、瞑ったまぶたから少し力を抜くと  
気付かぬ間に真の闇へと引き込まれていた。  
 
圓が重いまぶたを開けると、一瞬背が高くなったかのような錯覚の後  
広い背中に担がれて、深い森の只中を移動しているのだと気付く。  
……背負うのはオレの役目…なのに…  
そう思って、またすぐに瞳は閉じられた。  
 
 
 
次にぼやける頭が意識を繋いだのは、遠くから人の声を聞いたからだった。  
牛の乳のような、濃密な白い霧。  
その中から聞こえる声が気になって、耳をそばだてる。  
 
「…から……の男どもはおなごの扱いがまるでなっておらぬ!  
…私も塀の高さを放り投げられた時には……」  
「お義母様ったら、またそのお話…ふふっ……あっ」  
「おお、目が覚めたようじゃの」  
 
遠いと思ったその声は、ほんの近くで交わされていた会話だったようだ。  
晴れてゆく霧の中、ぼんやりと見えてきたのが古ぼけた天井で  
圓は不思議な気持ちでそれを見つめていた。  
…さっきまで、森の中にいたような気がしていたというのに…。  
 
「大丈夫?」  
聞きなれない、優しい女性の声。  
答えを返そうと口を開こうとしても上手く行かず、戸惑って圓は相手を見上げた。  
 
声に見合った優しい微笑を湛えて、その人は見つめ返してきた。  
可愛らしくも強く、柔らかな色香のある姿はまるで陽だまりの中の花だ。  
たおやかな奥方様といった風情のその人は、当然圓の記憶の中には無い。  
 
いつまでも見詰めあっているのも変に思えて、圓は慌てて目線を逸らした。  
そしてもう一人の女性に目を向けた。  
 
力強い眉と瞳が印象的だった。  
七十まで行ってはいまい。圓の父が生きていたなら同じ位の年代か。  
顔には皺が刻まれつつも、生命力に満ちている。  
ちゃきちゃきとして何となく頑固そうではあったが  
安堵したような表情が、心配していてくれた事を告げている。  
 
こちらも圓が初めて見る顔…。  
なんとも対照的な二人だなぁ、などとぼんやりと彼女は思う。  
そして、当然の疑問が湧きあがってきた。  
 
「…あ…」  
良かった、声が出せる…と安堵して、次いで言葉を紡ぐ。  
「…あ…の、あんたがた…だれ…?」  
 
すると二人は仲良く同時に顔を見合わせ、軽く笑う。  
 
「ああ、これはすまなんだ。…私は蛍。天斗の祖母じゃ。して、こちらが…」  
「はじめまして、圓さん。私は天斗の母で詩織と言います。  
…あの子がご迷惑をお掛けしたようで、ごめんなさいね」  
 
優しく語られたその事実を、圓の頭が吸収出来たのは、だいたい十秒ほど経った後だった。  
ぼんやりとしていた瞳が、思い切りよく見開かれた。  
 
「………えええっ!!たっ、天斗のっ…!?」  
額に乗っていた濡れ手ぬぐいをふっとばし、今は一つに結われていない  
背を覆う長い髪を揺らし、彼女は勢いよく体を起こす。  
 
…しかし次の瞬間、両肩をつかんだ詩織によって布団に横たわらされていた。  
手弱女にしか見えない彼女の意外な力強さに圓は面食らう。  
そんなにも体が弱っているのだろうか…と、初めて自身の病状を懸念した。  
 
詩織は布団を掛けなおすと、傍らに置かれていた湯飲みに水を注ぎ  
「まだ起きてはいけないわ」そっと手渡しながら言う。  
 
少し戸惑いつつも、素直に圓は湯飲みを受け取り口をつけた。  
一口飲むと、熱を持ち乾いていた体に染み入るようで、一気に飲み干してしまった。  
その様子を見ていた詩織は、くすっと顔を綻ばせた。  
 
ほっとして、またもぞもぞと寝なおせば、蛍が手ぬぐいを水につけ  
硬く絞ると額にそっと乗せてきた。  
遠慮がちに「どうも…」と礼をいい、肩に入っていた力を抜くと  
しっとりとした冷たさが心地よく、熱がまだ高いことを自覚させられる。  
 
子供を寝付かせる時にするように、布団をぽん、ぽんと軽く叩き  
「ここはね、陸奥縁の里よ…。だからもう、なにも心配する事は無いからね。  
もう少ししたら重湯を持ってくるから、それまでお休みなさい…」  
 
子守唄の如く、ゆっくりと囁かれる詩織の声を聞き、軽く頷く。  
頷きつつも、物思いが心を占める。  
 
…なぜ…心配要らないのだろうか…  
…天斗は…どこにいるのだろうか…  
 
声に出せない問いを飲み込んで、圓はゆっくりと瞳を閉じた。  
 

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