夜半を過ぎると、圓の熱はまた高くなり  
支離滅裂な悪夢にじっとりと脂汗を浮かべ、幾度も目を覚ました。  
目を開けば、そこには蛍か詩織…時には二人で、傍らに座って顔を覗き込み  
それを見た圓はなんとなく安心して、また浅い眠りに落ちていく。  
何度それを繰り返したのか分からなかったが、彼女は徐々に体調を取り戻していった。  
 
 
 
ちいちい、ついついと、賑やかな鳥の声が聞こえている。  
きっと天気は良いのだろうが、閉めきられた部屋に光は薄くしか届いてこない。  
そんな薄暗い部屋の中で一人、寝具に寝転んだままぼんやりと天井を見つめていた。  
 
熱はすっかり下がり、少々だるいとはいえ食欲も出てきた。  
そんな圓の様子に蛍と詩織は安堵して、しばらくは一人でゆっくりした方が  
気も休まるのでは…と判断し、部屋を後にしたのだった。  
 
『…だいたい…四日…いや五日…か?…うーん……』  
圓はごろりと寝返りを打つと、指折り数えて考えてみた。  
寝ては起きての繰り返しで、ここに来て何日経過しているのか、はっきりとは分からなくなっている。  
なんにせよ、こんなにも寝てばかりいるのは過去にも数えるほどしかなく、飽きていた。  
しかし、あれだけ心配をしてくれた二人の事を思うと  
起き出すのも気がひけて、こうして惰眠を貪るしかない。  
 
寝返りを打った視線の先には、底の浅い箱が置かれており  
中には風呂敷包み、綺麗にたたまれた藍錆色の着物  
その上に佐助の遺髪の入った筒が置かれているのを見て取れる。  
すぐ横には鍋もあり、部屋に転がっている様はなにやら変だと思った。  
 
「ふぁぁ〜…」  
気の抜けた欠伸が出る。  
涙のたまった目を細め、うねくる景色をそのままに、またぼんやりと思考を繋ぐ。  
熱にうなされている間、一人ぼっちだった事こそ無かったが  
そこに天斗がいた事も無かったと思う。  
『…ほったらかし、かよ。…別にいいけど』  
 
妙な苛立ちを押さえつつ逆向きに寝返りを打つと、たまっていた涙が零れて寝具に染みた。  
めんどくさそうに片手で拭うと、溜息も零れる。  
『そりゃまぁ、オレ達はもう無関係だよ。それにしたって家族に看病押し付けて…  
無責任って云うか…。ったく!どこほっつき歩いてんだあの馬鹿はよ!』  
胸中でぶちぶちと悪態をつき、『ほっつき歩く』のあたりではたと止まる。  
圓の脳裏に、いやぁな想像が湧き出してきた。  
 
 
…里に着いて、これで約定は果たされたな。  
幕府の目も結構ゆるいと分かったし、オレはまたつわもの探しに行くとするか。  
じゃ、あとはよろしく。  
 
 
「……あ……ありえない話ではないぞ……!!」  
圓はいてもたっても居られなくなり、がばと勢いよく体を起こした。  
そこに突然、襖の向こう側から声が掛けられたのだった。  
「…圓、起きておるかの?入ってもよろしいか?」  
のんびりとした蛍の声に、慌てて姿勢を整えると「ど、どうぞ」と返答をした。  
 
桶を持って部屋に入ってきた蛍は、少々驚いたようであった。  
寝具の上に座り込んで、なんとも曖昧な表情を浮かべた圓と目が合ったからだ。  
 
「…起き上がっても大丈夫かね?」  
「あ、は、はい。もうほとんど本調子…ですので」  
慣れない敬語でぎこちなく返すと、蛍は親しげに微笑み返す。  
そしてゆっくりと、手にしていた桶を床に下ろした。  
 
「これは…」  
桶の中を覗きこめば、暖かな湯気を立ちのぼらせた水面に手ぬぐいが揺れ  
蛍がその手ぬぐいを絞るのを、圓はぼんやりと見つめ続けた。  
「汗をたくさんかいて、気持ち悪かろ?  
せめて顔や腕だけでも拭けばさっぱりするかと思うてな。  
その様子なら背中なども大丈夫のようじゃが。…今日はさほど寒くもないし、の」  
 
言われて、それは確かにありがたいな…と圓は思った。  
肌はべたつき、寝間着がくっついてひどく不快である。  
なので彼女は素直に礼を言い、手ぬぐいを受けとろうとしたのだが…。  
「それは…どうも、ありがとうございます。では…」  
「ん。じゃ、早うお脱ぎなされ」  
 
一瞬、圓は何を言われているのか理解しきれず、きょとんとして動きを止めた。  
そんな彼女に事も無げに「背中は拭き辛かろ?脱いでこちらに向けなされよ」と蛍は言う。  
 
圓は思わずつんのめるように蛍から離れていた。  
顔をほのかに赤らめ、首を左右に振りつつ拒否をする。  
「い…いや!あの、そこまでして頂かずとも結構ですのでっ!!」  
「ほほ、若いおなごが婆に遠慮などするものではありませぬぞ」  
 
ささやかな拒否はあっさりと退けられ、彼女が二の句を継ぐ前に  
蛍は何の躊躇も無く帯を解き、さっさと寝間着を剥ぎ取ってしまった。  
何か言おうにも口はぱくぱくと空回って音を紡がず  
そうしている間にゆるい冷気に素肌を撫でられ、身を縮こませた。  
こうなってしまっては、しぶしぶながらも従うしかない。  
 
誰が解いたのか、今は結われていない髪は長く、背中や尻を覆い隠している。  
「髪をどけて貰えるかの」そう言われた圓は手で束ね、胸の前まで持っていった。  
ちくちくとしてくすぐったかったが、胸を覆うようにし、上からしっかりと押さえつけた。  
 
やがてゆっくりと、暖かな手ぬぐいが背中につけられ  
強張らせていた背中を徐々に弛緩させ、圓は軽く息を吐いた。  
照れ臭さは相変わらずだったが、柔らかく、優しい感覚は素直に気持ちの良い物だった。  
『……えらく強引な婆さんだが…』  
一度だけ背後をちらりと伺い、姿勢を正した圓はゆっくりと目を瞑った。  
『ま、悪い人では…無いのだろうな…』  
 
その強引さは、なんとなく天斗に似ているな…と彼女は思う。  
いや、この場合は、この人に天斗が似ていると思うべきなのだろうか。  
 
今まで、圓に何かと世話を焼いたのは二人。どちらも男だった。  
このように同性から手厚い保護を受けるなど、彼女の記憶には無い事で  
ひどく戸惑って気恥ずかしい半面、ほのかな嬉しさも感じていた。  
 
しばらくそのまま、目を瞑り身を任せていた圓だったが  
ふと、後ろにいる人の様子が少々おかしい事に気がついた。  
いつの間にか、動きが止まってしまっている。  
少し遠慮がちに「あの…」と声をかけると、蛍の手がぴくりと揺れ動いた。  
 
「…どうか…なされましたか?」  
「ああ、いや…。少々ぼーっとしていたようじゃ。…すまぬのぅ」  
蛍は誤魔化すように笑うと、桶の湯に手ぬぐいをつけ、また硬く絞った。  
背に手を伸ばしかけると、気遣わしげな表情で振り返っている圓と視線が合う。  
少し困ったような笑みを浮かべ、蛍はゆっくりと口を開いた。  
 
「つかぬ事を聞くが…この…背の傷は、銃で撃たれたもの…かの」  
「!……あ…はい…。そうですが…」  
「そうか…そうじゃな……」  
 
そのまま蛍は何も言わず、促された圓は前を向いた。  
何事も無かったかのように、ゆっくりと背中を拭かれながらも  
ほんの一瞬ではあったが、それでも確実に目にしてしまった  
蛍の深く、悲しいとも切ないとも取れる表情が気にかかって仕方が無かった。  
 
鏡などを使って背中を見たことは無く、傷痕がどのような物なのかを彼女は知らない。  
『そういえば…天斗も気にしていたような…』  
そう思うと、圓の中にじわりと焦りが募ってくる。  
…これは、人をそこまで不快にさせるほどの傷痕なのだろうか…?  
 
「あ、あの……。そんな大した怪我じゃなかったん…ですよ!  
直接喰らったわけでも……なくて…。自分で玉を取り出せたほどですし」  
居たたまれなさに、圓は思いつくまま口にしていた。  
 
「…ほぉ。自分で玉を…」  
「少しばかり膿みはしましたが、熱も出ませんでした。  
それなのに風邪ひいて熱出してりゃ世話ないっす……けど。  
えと、ともかく、そんな大した事じゃないんで…!」  
そこまで一気に言い、圓は少し俯いて、口に指先をつけながら呟いた。  
「あの……だから、その……気にしないで……」  
 
蛍は手を止め、必死でまくし立てている圓の後姿をしみじみと眺めた。  
ほっそりした首と耳は赤く染まり、落ち着きなく揺れている。  
ここからでは見る事のできない顔はもっと赤いのだろう。  
そんな彼女の様子に、蛍はふっと相貌を崩した。  
 
「…お前様は優しい娘御だのぅ」  
「へっ?……え、いや……そんな……」  
先程から、自分がおかしいくらい焦っていると分かってはいたが  
これでまた更に顔が熱くなったのを圓は感じていた。  
今まで『強い娘』や『おっかない女』などとはよく言われて来たのだが  
優しいなどと賞された事は無く、どのような態度に出たものやら分からない。  
 
縮こまってしまった圓に、蛍は変わらない調子で語りかけた。  
「すまぬのぉ、お前様が気に病むことではありませぬのじゃ。  
ちょっと昔を懐かしんでしまっての…。ほほ、年を取るとこれだからいかぬ。  
ほんに申し訳ないのぅ。許してくだされよ」  
蛍の率直な謝罪に圓は逆に恐縮して、かくかくと首を縦に振るしか出来なかった。  
 
それから、二人の間に含みのある沈黙が流れつづけた。  
外界と時の流れが違うかのような薄暗い部屋の中に、時おり鳥の鳴き声が響いてくる。  
 
汗を拭ってもらうために背中を晒している筈なのに  
また更なる汗が滲んできそうで、圓は戸惑っていた。  
蛍は普段通りのような顔をしているが、妙に空気が重いような気がする…。  
『……なんだか、前にもこんな事が…あったような気がするな…』  
圓は眉間に皺を寄せ、この状況を打破しようと思いを巡らせたのだった。  
 
「……あの、天斗はどこにいるんですか?」  
ぽそりと口を突いて出た言葉に、圓は即座に『しまった!!』と後悔した。  
恐る恐る背後を振り返ると、蛍のなんとも不敵な笑みがそこにあり  
会話の選択が完全に誤りであった事を痛感させられた。  
「いっ、いやっ、別にオレには全然関係ないのだが!!  
ただ…ただちょっと見かけんなーと気になっただけでっその…」  
 
あたふたと取り繕う圓の横に、背後からただゆっくりと指が伸びた。  
指先が示すのは、閉めきられた雨戸。  
それらを交互に見比べた圓は、不思議げに少し首を傾けた。  
「外は縁側になっておるのじゃが、ずっとそこに座っておる」  
「………え…」  
声を押さえ気味に語られた事柄に、圓は息を詰まらせた。  
 
「看病は私らが引き受けたので、好きにしていて良いとは言うたのじゃがなぁ…  
あんなでかい図体で座り込まれていても邪魔なだけだしの。  
でも、他所に行こうとしないのじゃ。…困ったものよのぅ」  
そう言いつつも、蛍の顔も声も困ってはおらず  
むしろ楽しそうに、嬉しそうに笑いかけてきたのだった。  
その顔を見ていると、自分の思いもよらない事まで見透かされているようで  
圓の視線は彷徨い、よっぽどこちらの方が困り顔になっていた。  
 
蛍は随分とぬるくなってしまった湯に手ぬぐいを入れ  
先程と同じく絞ったそれを圓の手に置くと  
「背中はもうお終い。残りはご自分でおやりなされ。  
その間に私は着替えを持ってきますゆえ…」  
そう言って彼女が着ていた寝間着を持ち、ゆっくりと部屋を出て行ってしまった。  
 
薄暗い部屋の中、また圓は一人きり、ぽつんと布団に座り込んでいる。  
蛍の出て行った襖をしばらく見つめ、所在なさげに手ぬぐいを握りなおすと  
見ても仕方ないと知りつつも、引き寄せられるように雨戸へと視線が行く。  
 
『……ほんとに…お前、ずっとそこに……?』  
おそるおそる、手が雨戸に触れようと伸ばされた時  
柔らかな髪が腕や背中をさらさらと伝い下り、彼女は弾かれるように手を引っ込めた。  
薄闇に白く浮かび上がる肢体をとっさに両腕で隠すと  
意味はなくとも雨戸に背を向け、冷めた手ぬぐいで躰を乱暴に擦り上げた。  
 
結局、本当に居るのか居ないのか、気になりながらも確認する事は出来ず  
食後に飲んだ薬の作用か、いつしか圓は眠り、気付いた時には夜が明けていた。  
 
布団の上で胡座を組み、更に腕組までして雨戸を睨みつけてみても  
頑丈そうな戸の向こうから聞こえてくるのは鳥の鳴き声ばかり。  
薄暗い部屋の中、刻々と過ぎる時間についに焦れ、ゆっくりと息を吸い込む。  
…いつまでもこうしていても、埒があかない。  
覚悟を決め、その割りには『別に、居ようと居まいと…どっちでもいいのだが…』  
などと何に向けてか言い訳しつつ、四つん這いでじりじりと雨戸に近づいていった。  
 
戸に両手を添え、そろりそろりと開き、ちょっとだけ顔を覗かせてみた。  
入り込んできた日の光と秋風に細まった目が慣れると、痛いほどに心臓が高鳴った。  
 
『…………ほ…ほんとにいた……』  
縁側の端、圓が顔を覗かせている所から、少し離れた場所に天斗は背を向け座っていた。  
口に咥えた木の枝、その先の葉がゆらゆらと風に揺れている。  
白の綿服に紺藍の袴は相変わらず破れ放題。腰には白帯に古い太刀。  
そんな彼の姿を、圓は呆けたように見つめ続けていた。  
 
そこで突然、気配を感じたのか天斗が振り返った。  
互いの目が合い……ごつん、と鈍い音が立つ。  
驚きのあまり動揺した圓は、雨戸にしたたか腕をぶつけ  
痛みに唸りつつも素早く戸を閉めてしまったのだった。  
 
また薄暗くなった部屋の中、ぶつけてじんじん痛む場所を撫で擦っていると  
あっさりと雨戸が開かれ、天斗が顔を覗かせた。  
「なんかすげぇ音がしたけどよ」  
「…う、うるさいな。大した事ないわ!」  
いままで通り片目を瞑り、枝を器用に咥えたまま話しかけてくる天斗の顔。  
何故かとても久しぶりな気がして、まともに見ることが出来ず  
ぶつけた所を隠すようにしながらそっぽを向いた。  
 
倒れる前と同じ調子の彼女に、天斗は少し顔を綻ばせた。  
「その様子だと、随分良くなったようだな」  
「随分と云うか…もう本調子だ。あのお二人のお陰で…な。  
そろそろ体が動かしたいわ。いいかげん鈍っていかん」  
そんな事を言いながら、圓は座ったまま腰をぐいぐいと捻ってみた。  
関節が悲鳴をあげ、体のそこかしこが細まってしまったように感じられた。  
 
「おいおい、無理すんなって。…本当に大丈夫なのか?」  
今にも無茶な事をやらかしそうな圓を見おろし、天斗の顔も少々真剣みを帯びる。  
顔色は悪くないようだが、熱は本当に下がっているのだろうかと、彼女の額に手を伸ばした。  
指先が、丸い額にほんの少し触れ…次の瞬間、まるで真剣白刃取りでもするかの如く  
両手で天斗の手を捕らえた圓は、病あけとは思えない素早さでそれを引っぺがした。  
 
「あ…頭に触るなって言ったろ!」  
頬を赤らめ、必死の形相で抗議する圓に、天斗は苦笑する。  
「これもその内なのかよ」  
「あたりまえだろ!ば、ばーか!!」  
両手で握っている天斗の手を慌てて放り投げるように離し、憮然とした顔を横に向けた。  
そのまま横を向いてはいたが、ずっと天斗が黙って見つめ続けてくるのが気になって  
居心地悪さを感じた圓は「…なんだよ」と呟き、彼を上目で睨みつける。  
 
「髪下ろしてんの、初めて見たと思ってな」  
何の気ない一言に、彼女は面白いほど反応して見せた。  
今さら隠しても無駄なのに、あわてて頭を両手で覆ったのだった。  
その様に吹き出しそうになるのをぐっと堪え、天斗は片手をひらつかせながら言った。  
「別に隠さんでも。どうせお袋たちが勝手にやったんだろ?」  
「まぁ…そうだけど……」  
 
唇を尖らせ、変わらず両手で頭を隠しつづけている。  
そんな彼女を、縁側の上に腰を下ろした天斗は視線を合わせて無遠慮に見つめた。  
圓の動揺はますます深まりを見せる。少し腰が引けていた。  
「…その髪だと、お前…すごく…」  
「なっ………なん……」  
「動き辛そうだな」  
 
とりあえず、圓は両手で思い切りよく雨戸を閉めた。  
それを天斗は片手で止める。  
 
「お、お前の知ったこっちゃないわ!!」  
「いや、別に悪いとは言っちゃいないぜ」  
「やかましい!!この…っ手を離さんか…っ!」  
渾身の力を込めた圓の両腕はぷるぷると震えるほどだったが  
それ以上はびくともせず、ますますムキになっていった。  
…が、逆に思い切りよく扉を開けられ、彼女の体は反動で傾いてしまった。  
 
「これ以上やったら雨戸が壊れる」  
「……」  
「まぁ、そんだけ元気なら大丈夫か…。行くか?」  
 
傾いた体を恨めしく起こした圓は、天斗の言に不審な顔を向けた。  
「行くって…?」  
「散歩にでもさ。この辺ちょっと歩くくらいなら動き辛くても構わんだろ」  
「え………外に出てもいいのか!?」  
 
不機嫌な顔がいっぺんに綻ぶ。それにつられて天斗も笑いそうになってしまった。  
この単純なほどの素直さは自分には無い物だな…と思いつつ  
今にも飛び出していきそうな彼女の肩を掴んで止めた。  
 
「その格好で出て行くとか言わんでくれよ」  
「!……」  
圓は一呼吸置いて、そろりと自身の姿を眺めてみた。  
そして、また両手で覆い隠した。…今度は胸元を。  
彼女の姿は白い寝間着を纏っただけだった。  
寝間着とは、その名の通り寝るためにつける着物。  
外に出て行ったり、異性に会う時には向いていないのだ。…若い女性は、特に。  
 
「オレはなんか履くもの取ってくるわ。その間にしっかり着ておけよ」  
天斗はそう言い残し、縁側を降りてさっさと行ってしまった。  
紅潮した顔でその後姿を見送った圓は、今度こそ勢いよく雨戸を閉めた。  
 
無造作に、藍錆色の着物に手を伸ばし  
…それでも佐助の遺髪の入った筒は、そっと風呂敷の上に置いてから  
あたふたと寝間着の上に袖を通した。  
 
 
 
きっちりと着込み、天斗の持ってきた草履をはいて縁側を降りる。  
普段は裸足で歩き回っている圓には、履物など不要であったが  
病み上がりに地面は冷たいから念のため…と言う彼の言葉に  
大げさだと思いつつも反論はしなかった。  
反論はしなかったが、この草履はあきらかに誰かが普段使いをしている物で  
勝手に持ってきて良いのだろうか…と、少々気にはかかっていた。  
 
空気を吸い込むと、胸に染み入るような清涼感を感じ  
生き返ったような心地に圓は目を細めた。  
昼過ぎの陽射しの下、思いっきり伸びをすれば、痛気持ちよさに唸りが漏れる。  
一気に力を抜くと少々頭がくらつく。  
「大丈夫か?」  
「ああ…平気平気。さて、行くとするぞ」  
圓は見知らぬ景色の中を、天斗より先に歩き始めた。  
 
久々の外出に浮き足立ってはいるが、いささかその歩みはぎこちない。  
下ろした長い髪は動くと大きく揺れ、履きなれない草履はすっぽ抜けそうになる。  
そして何より、下帯をつけていない下半身はたいへん心許なく  
やはり少し待たせてでも着けてくるべきだったか…と少々後悔していた。  
それを気取られないように、彼女はあえて胸を張った。  
 
「今年の冬は結構暖かいのかもしれねぇな…」  
背後から聞こえてきた呟きに、圓は歩きながら振り向く。  
「そうなのか?」  
「昨日、今日とあまり寒くないんでな。そう思っただけだ」  
「ふぅん…」  
 
日陰を作っている家の壁を、ぺたぺた触りながら歩く後姿を見て  
「雪が降ると、お前が触ってる所より上まで積もるぜ」と天斗が言うと  
圓はぎょっとして、顔の横あたりにあった手を壁から離した。  
 
「こんなにも…積もるのか…?」  
「ああ。屋根にも積もって、雪下ろしが面倒なんだよ。これが」  
少々うんざりした響きのある言葉に圓は立ち止まると  
しばらくの間、眉根を寄せて屋根を眺め、そしてまた壁に手をくっつけた。  
 
「…そんなの、アレで落せない物なのか?前にお前が言っていた技…。  
コクウハとか何とか言うやつ。振動で雪を落せそうじゃないか」  
無空波と虎砲をごっちゃにして覚えているらしい圓にあえて訂正せず  
「ずっと昔にやってみたさ」と事も無げに言ってのけた。  
 
「屋根の上の雪が全部落ちてきやがった。頭の上にな…。死ぬかと思った」  
「そ、それは…。重みで?」  
「いんや。婆ちゃんの説教で」  
「んくっ!」  
圓は思わず吹き出しかかったのを手で押さえて堪え、横を向いた。  
肩をぷるぷると振るわせる彼女に、天斗も  
「お前も同じ事思いついたんだから笑うんじゃねぇよ」と少し意地悪く笑った。  
 
しかし圓が笑ったのは、そこではなかった。  
馬鹿な事をやらかして、蛍に説教される天斗を想像するのも笑えたが  
それよりも『婆ちゃん』などという子供っぽい呼び方が妙に可笑しかったからであった。  
 
 
玄関の前まで出ると、圓はいったん歩を止め、今出てきた家をぐるりと見回してみた。  
「こうして見ると…お前の家って…」  
「古いだろ」  
「ん…まぁ、それもあるが…」  
古くて、でかくて、やたら頑丈そうな家。それが圓の感想だった。  
 
「ま、うちは昔っから代々続いてるんでなぁ…  
補強したり建て増したりしている内にこうなったらしいが」  
「ははぁ…なるほど…」  
数百年間、やたら力の有り余っている者達が生まれ育ってきた家。  
脆かったらやってられんわな…と圓は思い、刻の流れを感じる佇まいをもう一度見回した。  
 
「座敷童子でも居そうだ…」  
「ああ、そいつとならガキの頃会ったぜ」  
「…で?」  
「無論、オレが勝った」  
「………座敷童子も難儀な事よの…」  
 
圓は重苦しく息を吐きながら、嫌そうに返答をした。  
すると横から、神妙な顔をした天斗の手が額に伸びてきて  
彼女は慌てて一歩後ろへと避けた。  
「なっ、なんだよ!」  
「お前が素直にオレの話を聞くなんてよ。やはりまだ熱があるんじゃないか?」  
「無いわ!ただ単にいちいち問うのが面倒だっただけだ!  
だいたいなぁ、お前が平然と虚実混ぜ合わせてしゃべるから…」  
 
そこで圓は唐突に口をつぐみ、言葉の代わりに軽く睨みつけた後  
「…まぁ良いわ」とだけ言って、また天斗に背を向け歩き始めた。  
柔らかな風に揺れる葉音と鳥の声くらいしか聞こえない、静かな里。  
そこに自分の怒鳴り声が響き渡って、場違いな気持ちに陥ったのだった。  
 
木陰の落ちる小道は、少し行くと左右に別れるようだった。  
右側には他人の家や畑があり、左側は山に通じるらしき坂道になっている。  
圓は歩きながらそれらを見比べ、あまり迷う事もなく坂道を選択した。  
「そっちは…」  
後ろから呟きが届き、圓が足を止め振り返ると  
天斗は軽く手を振って『行っていいぞ』と意思を示した。  
足元に気を使いながら登って行く後姿を見ながら、彼は軽く頭を掻いた。  
 
きょろきょろと周りを見渡しながら登りきり、長い髪をばさりと払うと  
首筋に軽く浮いた汗に秋風が触れ、彼女は軽く息を一つ吐いた。  
辿り着いたそこは、切り開かれてはいるものの、これといって何もなく  
地面は硬く土が剥き出し、草の一本も生えていない空地だった。  
空地の中程までゆっくりと歩き、この地を取り囲むように鬱蒼と生える草木に目を凝らし  
ここから先への道は無い事を知ると、圓は少しつまらなさそうな顔をした。  
 
「なんだ、これで行き止まり…か。」  
それで先程、天斗が止めようとしたのかと思い返す。  
引き返そうと踵をかえしたその瞳に、木々の間から溢れる色彩が飛び込んできた。  
その色に吸い寄せられるまま、彼女は天斗の横をゆっくりとすり抜けて行った。  
 
人が腰掛けるのに良さそうな岩が一つある先は崖になっており  
この小高い丘から、眼下の里が見渡せるのだと圓は知った。  
小さいながらにしっかりとした造りの家々や畑の間、仕事に精を出す人の姿が見え  
遊んでいるのだろうか、子供達の集団から発せられる楽しげな声がうっすらと耳に届く。  
「……あの人たちは…普通の人たちなんだな…」  
「住人総出で鍛えているとでも思っていたか?」  
「…ま、少しは」  
正直、殺伐とした場所を想像していた圓は軽く苦笑した。  
そんな彼女の横に立ち、のんびりとした口調で天斗は言う。  
「数百年もこんな事を続けている馬鹿者はうちにしかいねぇよ。  
まぁ、そんなオレん家に昔っから付き合っているあいつ等も酔狂だとは思うが」  
 
日々の暮らしに惜しげもなく彩りを添える、秋の息吹。  
目に鮮やかな紅葉、光を受ける山吹、冴え冴えと澄んだ青空…。  
互いが互いの色を引き立てあっているかのようだった。  
自分たちの頭上にも紅葉はある。しかしこうして遠くから見ないと  
まるで色を変える一条の帯のような風雅に気付けないでいた事だろう。  
 
ただなんとなく、知らない人に出会うであろう方向を避け、山に登る事を選んだだけだった。  
それなのに、この思いもよらない景色…。素直に溜息が零れる。  
 
「ここな、オレん家の修行場なんだ」  
「え…?そうなのか…」  
「正確に言えば、修行場の一つだけどな」  
陸奥であれば、どのような場所でも修練の場に違いなく  
天斗もこれといってこの地に拘りがある訳でもなかった。  
 
「それは……勝手に入っては、いけなかったのでは…?」  
圓の声に、少しの強張りが生じる。  
「いや、構わんよ。そもそもオレがついて来てんだしな。ただ…」  
「ただ?」  
「ここにゃ子供は入れちゃいかんって決まりがあるのさ」  
言われて、圓は得心いかない顔で「はぁ…」と首をかしげた。  
そんな彼女を放っておいたまま、天斗は淡々と話し続ける。  
 
「もちろん、うちに産まれた子供は別だぜ。オレもガキの頃からここで修練したし…な。  
だが、あいつらには…ここに近づくと神様の罰が当たると脅してある」  
ずっと遠くに、ただでさえ小さいであろう体を更に小さく見せて  
それでも元気よく遊んでいるのだと分かる、里の子供達を眺め見た。  
 
「神様って……どんな」  
「さぁ?」  
「…さぁ?って……お前……」  
余りにいいかげんな言葉に、からかわれている様な気がして圓の声が刺々しくなる。  
対して天斗は笑いながら、いかにも仕方なさそうに言った。  
「言っとくが、オレが作った決まりじゃねぇからな。神様なんざ詭弁だ。  
…修練してる所を普通の子供に見せると、ま…色々とよろしくない訳よ」  
「……はぁ」  
 
それはなんとなく圓にも分かる気がした。  
激しく、厳しく、尋常でないであろう修練。  
何も知らない普通の子供が見た日には、夢見の悪い事になりそうではある。  
「…まぁ、それは分かったが…それがオレと何の関係があるんだよ」  
圓は話を聞き終えても、理解が出来なかった事柄を探るように目線を向けた。  
坂道に足を踏み入れた時、天斗が何か言いたげだった事に関わりがあるのだろうか。  
「オレは大人だし…止められる理由は無いと思うが…」  
「さぁ?」  
「…………」  
 
しばらくこめかみを押さえた後、不毛な会話を断ち切るかのように  
圓は軽やかな動きで岩の上に飛び乗った。  
一段と高くなった視点で、更に遠くの景色まで見わたせた。  
「おい…そんな所に乗るな。あぶねぇだろ」  
忠告を鼻で笑って一蹴し、圓は天斗を見おろした。  
いつもは見上げる立場にあるので、これはなかなか気分のいい物だった。  
 
「天斗って、オレが何かするたび文句つけるよな」  
「……」  
「お前……実は、ものすごい心配性だったりするのか?  
それとも、オレが何をしようと信用できないって訳なのか?」  
腰に手を当て、嫌味交じりの笑顔を向けながら圓は問う。  
「…ま、どっちであろうと、どうでもいい事だがな」  
 
答えが返る前にさっさと会話を打ち切って、なんとなく独り言を呟いている気分になる。  
何か言いたげな天斗から目を離し、また遠くの山々を見渡すと  
黒髪が風に煽られ、一瞬彩り豊かな景色を覆い隠した。  
手で髪を押さえつけると、藍錆色の袖も彼女の視界に入ってきて  
頭から踝まで、黒っぽくて――  
なんだか自分は、一滴だけ落ちた墨汁染みのようだと感じたのだった。  
 
ここに至る旅の間、それよりももっと前にでも、こういった秋の景色は目にしてきた。  
山村もここに限らず幾らでもあったし、世話になった事もしばしばあった。  
それなのに、ここから見る景色はどこよりも鮮やかで、何故か胸がちくつく。  
『これは……これは、多分……』  
多分、ここが天斗の故郷だからだろうな。…そう圓は結論付けた。  
 
根無し草の生活を続け、養父も亡くした彼女に、未だ行く当ては思いついていない。  
そんな自分に比べ、優しい肉親が家におり、数百年続く家業を温かく見守る人達がいる  
豊かな故郷を持つ天斗に、随分恵まれている事よなぁ…と  
少々妬ましい気持ちを抱かずにはいられなかった。  
 
そんな気持ちを抱く自分は、正直小さい人間だとは思うが  
この地を『退屈で何もない所』と言い捨てて、仕方なく帰ってきた天斗もどうかと思う。  
えらく我侭で傲慢ではないか…!?……元々偉そうな性格ではあるが。  
……そんな事を、圓はちくちく痛む胸で考えたのだった。  
 
気付けば、佐助の遺髪を収めた胸元に手が行っている。  
もうすっかりと癖になっていた。  
 
「……罰が当たるぞ」  
「?」  
「良いところ、ではないか…。……もっと大切にせねば罰が当たるという物じゃ」  
圓は首だけ天斗のほうに向けると、少し照れを滲ませながら呟いた。  
その声に天斗はまた彼女を見上げ、ふっと軽く笑う。  
「婆ちゃんにも言われたな、今の」  
「…それだけお前が薄情だってことだ」  
 
ぴし!と、圓は里に向かって指をさす。  
「ほれ、良い機会だからきちんと見ておくように!」  
「…はぁ」  
「しっかり拝めばありがたさも分かろうて。…両目でだぞ!両目で」  
上段からの命令口調。ちょっと八つ当たりが入っているのは圓も重々承知だった。  
 
とても偉そうにしおらしいことを言っている、おかしな様子の圓から視線を外すと  
天斗は言われた通り、ゆっくりと右目を開き、眼下に広がる景色を見渡した。  
『……前に見た時と、ちっとも変わってねぇ』  
彼の感想は、ただそれだけ。  
物心つく頃から、当たり前にやってきた修練と、当たり前に見てきた景色。  
それはあまりにも普通の事で、それ以上でも以下でもなかった。  
 
一応、もう一度ざっと見渡した後、天斗はゆっくりと圓を仰ぎ見た。  
彼女は軽く胸元に手を置いて、ずっと遠くを見つめている。  
物憂げな横顔は病のせいか少し華奢になってしまったようだ。  
ときおり風に揺れる髪を押さえ、梳くように動く指がなにやら艶かしい。  
よほど景色よりも長く真剣に眺めているのに気付き、天斗は下を向きつつ頭を掻いた。  
 
「…綺麗だ」  
「ほらっ、やっぱりそう思うだろ!」  
圓はぱっと振り向いて、朗らかに笑ってみせた。  
「ちゃーんと両目でじっくり見れば、こうして良さに気付けるものよ。  
反省して、これからはきちんと孝行するように…な」  
にこにこ笑って声を弾ませる圓は、彼に自分の考えが通じた事が嬉しいようだ。  
実際は全然通じていないのだが、そんな事はおくびにも出さず、天斗も笑い返した。  
 
ここに来た理由が、この話をする為だったかのような気になりながら  
圓は「では帰るとするか」と足を一歩踏み出した。  
彼女の立つそこは、座れはしても、立つには不向きな岩の上。  
普段の彼女なら、それでも地面と差異なく動けたのかもしれないが  
いつもとは違う事柄が複数個ある事を、もう少し気にして動くべきだったのかもしれない。  
 
風をはらんだ長い黒髪は視界を覆い、履きなれない草履は足元を滑らせた。  
片方だけなら、さして焦らず対応できても、同時に起きてはその限りではない。  
一瞬どちらが地面で崖なのか、判断力の鈍った圓に惑いが走った。  
 
体が宙に投げ出されるような感覚と、黒い目隠しのようだった髪が  
するりと後ろへ流れていく感覚を、なぜだかとてもゆっくり感じ取る事ができた。  
視界が開けると、天斗が両手を差し出している。  
なので圓もそれを習って、両手を差し出した。  
夢中で彼の首を抱きしめた瞬間、軽い衝撃が彼女の体に響いたのだった。  
 
膝に土のひんやりとした感触を覚え、どうやら地面に腰を下ろせたのだと悟る。  
心臓が早鐘を打ち、背筋に一筋、冷たい汗が流れ落ち  
惨事になってもおかしくなかっただけに、荒い息を何度もはきだした。  
やがて握り締めていた両手から少しづつ力が抜け、指先に布の引っかかりを覚えた。  
 
急速に落ち着いていく自身を感じながら、硬く瞑っていた瞳を少しづつ開いた。  
腕に何かこそばゆい物を感じ、背中に圧力を感じ…  
「……う、うわぁっ!!」  
足を踏み外しても悲鳴をあげなかった圓が、上ずった声を上げた。  
 
天斗の頭が腕の中にあるのが信じられなかった。  
先程からこそばゆいのは、彼の髪が腕に触れているからで  
頬が触れそうなほどの至近距離、呆れたような笑顔を向けられ  
せっかく落ち着いて来ていた所がまた恐慌状態に陥りかかってしまった。  
 
両腕を首から急いで離すと、天斗の肩を掴み、引き離しにかかったが  
彼女の動きは背中に回っていた彼の腕にあっさり阻まれた。  
「おっ、おい…!ちょっとなんで…っ……離さぬか!!」  
密着のあまり胸が押し潰れて息苦しい。遺髪の入った筒がめり込んで痛い。  
じたばたと身を捩りつつ、圓は抗議した。  
対して天斗は非常に落ち着いた様子で、なだめるように声をかける。  
「まあ、とりあえず…。後ろを見な、後ろを」  
 
背中が固定されているせいで、体を捻る事は上手く出来ないが  
何とか背後を確認する事が出来た。  
先程まで自分が乗っかっていた岩がそこにはあった。  
もし勢いよく後ずさっていたら、頭か背中を強打していた事だろう。  
圓は唾を飲み込んで、ゆっくりと顔を正面に戻した。  
 
「危なかっただろ?」  
「……まぁ…な」  
圓は素直に頷くと、しゅんとして俯いてしまった。  
反省のあまりか、くてりと力を抜いた彼女を眺めながら  
『ま…だからと言って、ここまで拘束する必要もないんだけどな』  
小さな背中にまわした両腕から力を抜く事なく、天斗は心の中で舌を出した。  
 
 
一度後ろを振り向いたため姿勢が変わり、先程までと比べれば  
あまり息苦しくなくなった事に圓は安堵していた。  
抱きしめられたまま俯いていると、密着した所から彼の鼓動が聞こえる。  
これまでも何度か聞いてきたこの音は、本当にいつも一定で  
とても落ち着いていて、少々腹立たしいくらいだった。  
…腹は立つが、この冷静さに今まで何度も救われて来たのだとも分かっていた。  
 
俯いているため、目線は当然下へと向いている。  
少し離れた所に先程まで天斗が咥えていた木の枝が転がっていた。  
それから目を離すと、視線は自分の膝のあたりを彷徨う。  
藍錆色の着物がめくれて、そこから妙に生っ白い足が剥き出しになっている。  
一年近く、体を動かす時以外は女物の着物をつけていたせいか、随分白っぽくなったようだ。  
もしくは自分の着物の色が黒っぽいからそう見えるだけなのかもしれない。  
その白い両足は、天斗の右足を跨ぐようにして乗っかってしまっている。  
彼の袴も紺藍で、結構暗い色だから、自分の足も白く見えるのかもしれない。  
 
『……などと落ち着いて見ておる場合か!!』  
一応、彼女なりに冷静に今の状況を受け入れようと努力はしたものの、無理だったようだ。  
 
あえて地面に座ることで、受け止めた時の衝撃を緩めたのだという事は分かる。  
あの時は夢中で、彼のどこでもいいからしがみ付こうとした自分も良くないと分かる。  
それでもこの格好は酷いと圓は思った。もう少し何とかならなかったのだろうか。  
 
正座を崩したような形になっているので、膝から甲にかけて冷たい地面の感触がある。  
それを感じると、嫌でも他の場所の感触まで伝わってきてしまった。  
気にしないでおこうと思えば思うほど気になってしまう  
そんな彼女の性質は以前と同様、変わってはいなかった。  
 
天斗の擦り切れた袴が太股にくっつき、僅かにくすぐったい。  
そして袴越しに感じる、ごつい脚の感触。  
鍛えあげられて、恐ろしい力を秘めていると圓は知っている。  
…それを思いっきり尻に敷いていた。  
これはえらく失敬な格好ではないか!?彼女はそんな焦りに囚われた。  
 
それでも彼女は動く事が出来なかった。  
相変わらず抱きしめられている事もあるが、それよりも  
別の焦りによる本能的な危機感で、ほんの少し身を捩る事すら出来ずにいた。  
 
足の付け根あたりが妙に熱い気がする。  
それはそうだと圓は思おうとした。天斗も自分も生きているのだから。  
生きている者は暖かいのが普通で、それがくっついていれば熱くなるのは当然の事で…。  
だがこれは、ただ単に熱いだけではなくて、奇妙な感覚も付きまとっている。  
熱くて、甘く痺れるような。  
気のせいなのだと思おうにも、直接的に触れている部分だけではなく  
何故かへそのあたりにうねくるような、きゅうと絞られるような  
怪しげな熱が宿り、背筋がさぁっと総毛立つ。  
 
『なん…なんだ、これ…!……やだ…』  
呆けて薄っすらと開きかかる唇をぐっと噛締めて凌ぎ  
動きたくないのに揺らめきそうになる腰にも力を込める。  
『なんで…?下帯…付けてないせい…?……くぅ…』  
腰に力が入り、ますます彼の脚を挟み込んでしまった事にすら気付けないでいた。  
 
ふと、背中の圧迫が軽く緩んだ。  
少しばかりほっとするのと同時に、先程のように胸が押されて苦しかった方が  
今より幾らかましだったのではないかと、ひどく焦れながら考えていた。  
 
 
先程からぴくとも動かなくなってしまった圓を、天斗は懸念していた。  
下を向いて表情は分からないが、先程から息が荒くなっている。  
もしや、また熱が上がってきたのでは…そう思ったのだった。  
 
彼女はどこもかしこも手触り良く出来ているらしい。  
自身の脚の上に乗っている躰を離さないようにしているだけでも楽しく  
事故にかこつけ、それを堪能するのに気を取られていたようだ。  
我ながら少々いじましい。彼は軽く反省していた。  
 
「圓…大丈夫か…立ち上がれるか?」  
声をかけても反応が返ってこない。…これは、予想以上に悪いのだろうか。  
背中に回していた手を彼女の腰を支えるようにゆっくりとずらす。  
あまり辛そうなら、おぶって帰ろうと思いながら。  
すると、脚の上の小さな躰がびくんと揺らめき、長い黒髪がふわりと舞った。  
「…あぁっ!…っく……」  
それは本当に小さく、微かな声。  
それでも確かに、初めて聞く甘い喘ぎだった。  
 
 
圓は肩が勝手にぴくぴくと動くのを、なんとか左手で押し留め  
右手は強く自分の口を押さえつけていた。  
 
『聞こえてない…聞こえていないよな、今の…!』  
すごく小さかったし、堪えたし…。そう自分に言い聞かせた。  
今の変な声がなんであったのか、彼女は上手く考えがまとまらなかった。  
それでも、聞かれては大変にまずい物だったという事は、なんとなく分かる。  
真っ赤な顔に、汗が一筋流れ落ちていく。  
 
…この奇妙な状況をなんとか誤魔化したい。  
もう背中に天斗の腕はなく、立ち上がれるかと聞かれたのだから  
さっさと立ち上がって離れてしまえばいい。  
そう思ってはみても、躰が言う事を聞いてくれないでいた。  
躰の熱は引くどころか、奥底から何かをねだるように湧き上がり  
脚は細かに震え、右手に自分の荒い呼吸を感じる。  
これはもしかして、病気なのかと彼女は思い始めていた。  
 
何かの発作のようなもので、じっとしていれば治るかもしれない…。  
圓はそれを期待し、体と気持ちを落ち着かせようかと考えた。  
しかし、それで自分は良いかも知れないが、天斗はどうなのだろうかとも思う。  
彼の体に乗っている訳なのだから、邪魔だとしたら…  
早くどいて欲しいのかもしれないと、不安な気持ちが湧き上がった。  
 
思いがそのまま形になったかのような表情で、ゆっくりと顔を上げ  
すぐ傍にある天斗の表情、それを恐る恐る伺う。  
するとその顔は、意図を持って逸らされているように見えた。  
何かを考え込んでいるような、何かに耐えているような…  
そんな、顔つきだった。  
 
彼のその表情に、圓は顔をゆがませる。  
『…たち、立ち上がらなくては…』  
天斗の顔は、とても迷惑そうだと圓の目には映っていた。  
『邪魔か?』と問う暇も、そもそも彼女を拘束していたのは  
天斗本人だという事を考える余裕も無くなっていた。  
 
普段なら、支え無しに立ち上がる事など容易い事だったが  
脚にうまく力が入らないので、仕方なく天斗の肩に手をかけ  
そのまま腰を浮かせた。つもりだった。  
その瞬間、今まで堪えて押さえつけていた何かが  
彼女の気持ちを無視して溢れ、その衝撃に頭の中を真っ白に染め上げた。  
「……ひゃ…ああ、あああぁぁんっ!!」  
聞いた事もない甲高い叫びが耳をつんざく。  
それを圓はどこか他人事のように聞いていた。  
 
仰け反った体はがくがくと震え、手は白の綿服を裂きそうな程に握られている。  
無理に立ち上がろうと力の入った脚は、ただ腰を後ろにずらしただけだった。  
秘所から零れ出た蜜で、しっとりと湿り気を帯びた天斗の袴に  
ぷっくりとした花芯が擦りあげられ、じらされ切った躰は素直にその刺激を甘受したのだった。  
 
「はぁ…はぁ…ぁ……」  
ねとりとした口腔に空気が流れ込み、それごと飲み込むように唾液を喉に流し込んだ。  
手が天斗の胸を撫でるように落ちる。ゆっくりと、圓の顔も下を向いていった。  
虚ろな瞳に映る、藍錆色の着物に包まれた自分の躰  
それに一体何が起きたのか、彼女には理解できなかった。  
身も心もぐったりとして、糸の切れた操り人形のような躰が地面に倒れこまないのは  
先程から変わらず彼の手が支え続けているからだ。  
その事に、ぼんやりした頭で圓が気付いたその時、唐突に天斗が動いた。  
 
強い力で押された圓の躰は、簡単に後ろへと倒れこんでいった。  
澄んだ青空と、赤や黄色の葉がくるりと回る。  
「…っ!!」  
瞬間、先程の岩か地面に激突するであろう事を予期し、彼女は息を飲んだ。  
 
黒く長い髪が、茶色い地面にばさりと広がった。  
勢いの割りには、覚悟していたような痛みもなにもなく  
圓はきつく瞑っていた目を開けてみると、天斗の腕が背後に回ったままなのだと知る。  
どうやら、邪魔だから突き飛ばしたとか、そういう事ではないらしい。  
心音は跳ねるようであるが、ともかく安堵した彼女はほっと息をつこうとした。  
が、口から漏れ出たのは、押しつぶれて苦しげな息だけ。  
「た…かと……ちょっ……っく…」  
地面に押し倒され、上から天斗が圧し掛かってきている。  
かなり、重い…。しかし先程まで彼女も彼の上に乗っていたので強く文句は言えなかった。  
 
身を捩っても、躰の上の天斗はどいてくれるどころか動きもせず  
顔のすぐ横にある彼の顔には髪が影を落し、表情を伺う事が出来ない。  
今までも、ときどき子供っぽい悪戯でちょっかいをかけられてきたので  
今回もその類なのかもしれない、とは思うのだが…  
幾らなんでも地べたに押し付けられて良い気分はしなかった。  
 
何のつもりかと脚をばたつかせると、脛にこつりと硬い物が触れた。  
こつん、こつんと二度ほど当て、ようやくそれは天斗の腰にある太刀の鞘なのだと気がついた。  
脛に太刀が当たるのは、彼の躰が脚の間に入りこみ、そのせいで腰が浮き上がった状態だからだ。  
自然、両足は大きく開いてしまっている。  
 
『うう…なんなんだよぉ…もぅ……』  
草履はとっくに脱げて、指先を秋風が撫ぜる。  
天斗と躰を合わせている所だけがやたらと熱く、ひどく落ち着かない。  
そうしていると、脚から着物がずり落ちているのに気がつき  
困惑を顔に浮かべながら、圓は着物の乱れを少しでも直そうと手を伸ばしかけた。  
すると背に回っていた天斗の手が引き抜かれ、彼女の手首を掴みあげた。  
細かな砂が、髪に袖に、ぱらぱらと落ちる。  
圓は手首と共に、心臓も掴み上げられたような思いを味わっていた。  
 
頬を掠めて、天斗がゆっくりと顔をあげ、それにより密着していた躰が少し離れた。  
しかし捕まれた手首に注視していた圓はそれに安堵する事はなく  
不安げな表情のまま、彼の表情をおずおずと覗き見ると  
本当にすぐ傍にある薄墨色の瞳に釘付けられた。  
表情はいつもと変わらないように思えたのだが  
「………どう、して……」  
舌をもつれさせながら、圓は懸命に口を開いた。  
「両目…開けている……?」  
他にも聞きたい事、言ってやりたい事はあったのだが、それだけで精一杯だった。  
 
「お前だろ、両目を開いて見ろといったのは」  
「そ、それは!…景色の話…で……オレの事じゃなくて…」  
言いながら、なんとか首を傾げるように視線を逸らす。  
彼の口調もいつもとさほど変わらない。それなのに何故か、はらわたに穴でも開いたかのような  
ざわざわとした奇妙な薄ら寒さを感じて、圓はほんの少しだけ躰を震わせた。  
 
「…も…もう、見るなよっ。それに…」  
「顔を見なきゃいいんだな?」  
「え?……い、いや、ちょっと、それより…」  
どいて欲しい…との言葉が出る前に、また先程までと同じく  
天斗の顔は、圓の顔の横にくっつくように下げられた。  
確かにこれなら、彼の両目に射すくめられる事はないのだが…。  
「……ひぅっ!?」  
至近距離のお見合い状態という、息詰まる状況ではなくなった矢先  
首筋に感じる湿っぽい感触に圓は息を詰まらせた。  
 
ぴちゃ…と微かに届いた音と、熱い息が耳にかかる。  
細い首に蠢く、誤魔化し様のない生暖かな感覚に、彼女は瞳を見開く。  
天斗の舌に舐められている。…圓にはまるで理解し難いものだった。  
「やめ、やめろよっ…!なに、そんな…ぁ……っ!」  
弱々しい反抗に対する返答代わりに、天斗は強く首筋に吸い付く。  
紅く生々しく残った跡に、彼はまた舌を擦り付けた。  
 
一方はしっかりと拘束されている為、片手で彼の躰を押しのけようとするものの  
両手でも対抗できないのだから、効果は無いも同然。  
圧倒的な力の差と天斗の不可解な行動に、震える指先から力が抜けていった。  
 
 
天斗は空いた手で圓の胸元を軽く撫で上げた。  
着物の上からでも指の埋まるような柔らかさが伝わってくる。  
添えるように、そっと触れているだけにもかかわらず  
彼女は躰をぴくんと反応させ、そのつど乳房がゆさりと揺れる。  
それを掌に受けて、彼は堪らない気持ちに陥りかかっていた。  
 
さらに彼女を舌で味わい、もっと柔らかい所に触れ  
またあの痺れるような甘い喘ぎを聞かせて欲しい。  
率直な雄の欲情が、じくじくと躰の奥底から沸いてくる。  
一年近く耐えられた物が、いともあっさりと瓦解する様を  
不思議に…そして何もかもどうでもいいような気持ちで受け入れつつあった。  
 
また紅い跡を残すべく吸い付こうとした首筋に、歯が触れてしまった。  
圓の躰が大きく震え、さほど強くはなかったものの  
もしかしたら痛かったのかもしれないと、天斗は口を離しかけた。  
「……か…?」  
すると、囁きが彼の耳に辛うじて届いた。  
 
顔をあげた天斗の目に映ったのは、諦めと怯えが入り混じった圓の顔。  
ゆらゆらと揺れる瞳からは今にも雫が溢れ落ちそうだった。  
一瞬、息を詰まらせた彼に、彼女は震える声で呟いた。  
「……天斗、お前……オレを、喰い殺すの…か?」  
「…!」  
「怒らせるようなこと、したから…?」  
 
質問口調。…共に旅した一年間、様々な事を聞かれ、それに答え……  
天斗は、呪いのような自制心が自身の中に戻ってくるのを感じていた。  
軽く目を逸らし、口元を自嘲げに歪ませると、ゆっくりと引き剥がすように身を起こした。  
 
 
圓は地面に横たわったまま、しばらく天斗を辛そうな瞳のまま見つめていたが  
彼はどいたのに、自分がいつまでも寝ているのはおかしい事に気付き  
腕に無理やり力を込めて上半身を起き上がらせた。  
起き上がった事で、ぽとりと大粒の雫が零れて着物に染み、あわてて目頭を拭う。  
捲れあがって乱れた着物を素早く直すと、へたり込んだ脚がまだ震えていた。  
恐怖ゆえか、別の理由なのかは判断がつかなかった。  
 
「立てるか?」  
「……立つ…さ…。言われなくとも…」  
脚はまだ震えているが、問われてそう答えてしまった以上、立ち上がるしかない。  
それなのに、ただそんな単純な事がなかなか出来なかった。  
こんな鈍重な自分は今まで知らない。  
自分の躰が思い通りにならない事が、圓はひどく惨めに思えた。  
 
「…っ!」  
突然、脇の下あたりを両手でつかまれ  
力強く持ち上げられると圓の口から驚きの息が漏れた。  
ちょうど大人が子供を『高い高い』などとするのを、天斗は座ったまま行い  
それにより圓は立ち上がることが出来た。  
手を離すと彼女は軽くよろめき、彼の肩に手をつく。  
また瞳から一粒落ちたものが、天斗の髪を濡らした。  
 
多少心許ないながらも、きちんと両足の裏に地面の質感がある。  
自分の力で立っていられる事に情けなくも安堵せずにはいられなかった。  
天斗の肩に手を置いたまま、俯いて軽く息を吐く。すると、彼が顔をあげた。  
 
いつものように右目を瞑って、何事も無かったような顔をしている…。  
それでも、その表情には何か惑いが滲んでいるのを圓は見逃さなかった。  
 
「冗談だ」  
「…じょう、だん……?」  
「冗談だよ。全部…な」  
少し天斗が笑うと、圓もつられて笑う。  
「ああ…なんだ……冗談……。……ああ、そう……」  
笑うとまた一筋、引きつった彼女の頬を伝い落ち、今度は彼の頬を濡らした。  
自分の頬も彼女の頬もぬぐう事なく、天斗は「先に帰ってもいいぞ」とゆっくり言った。  
 
「え…、天斗は?帰らないのか…?」  
圓は彼を見おろし、少し不安そうな声で聞いた。  
それに対し、天斗は頭を掻きながら居心地悪そうな笑顔を作る。  
「…まぁ、あれだ。足が痺れて動けんという事にしといてくれ。  
すぐに収まる。そうしたら帰るんで心配すんな」  
「……あ、ああ…?」  
釈然としなかったが、このまま一緒にいるのも気まずく思えて  
あいまいに圓は頷くと、そっと天斗の肩から手を離した。  
 
来た道へと二、三歩行ったところで圓は突然向きを変え  
何事かと見る天斗と目をあわさずに、脱げ落ちていた草履を拾い上げた。  
もう足の裏は砂にまみれていて、借り物の草履は履けない。  
両手で握るように持つと、彼女は小走りでその場を後にした。  
 
 
坂道を降りながら、自分の顔をごしごしと擦る。  
一歩進むごとに着物のあちこちから細かな砂が落ちた。  
重い足を止め、背中や髪を叩いて砂を払い落とし、乱れた所を直していても  
痛くもないのに両目から次から次へと涙が溢れ落ちてくる。  
視界がぼやけて歩くのも難儀し、圓は仕方なくその場にしゃがみこんだ。  
 
「………」  
銀杏の木の下、寒さでも凌ぐかのように両腕で体を抱き、身を縮こませると  
止まって欲しい気持ちとは裏腹に涙は零れて着物を濡らした。  
何故に、いつから、こんな風に躰と心が噛み合わなくなってしまったのだろうか。  
佐助と二人でいた頃は、こんな事は無かったというのに…。  
圓は躰を憎むべきなのか、心を憎むべきなのか決めあぐねていた。  
 
 
 
ようやく涙も引き、圓は鼻をぐずぐず言わせながら家の傍まで戻ってきた。  
この後どうするか…とりあえず部屋に戻って着替えようかとぼんやり考えながら  
玄関に向け歩いていると、突如「あぶない!」と鋭い叫びが上がった。  
 
圓は半歩身を引くと、叫びの上がった方に視線をやることもなく  
風を切り飛んできた物を草履を持っていない方の手で受け止めた。  
じんわりとした掌の中、見ればそれは使い古された鞠。  
叫びに変わり、驚嘆するような溜息が聞こえていた。  
 
鞠と草履を手にする圓の傍に、子供達がおずおずと近寄ってきた。  
修行場から遊んでいるのが見えた子らか…と、黙って見渡していると  
物心つくか、つかないか位の集団の中で、一人だけ大人びた顔をした  
…とはいえ、かぞえで十三あたりの娘が進み出てきた。  
桜色の着物に藍色のおぶい紐を巻きつけ、乳飲み子を背負っている。  
 
「申し訳ございません…。あの、お怪我はございませんでしょうか?」  
「…ああ、大丈夫だ」  
圓はそう言って鞠を差し出すと、娘はにっこりと微笑んで  
「ありがとうございます」と頭を下げ、両手で受け取った。  
二歩ほど後ろに控えている子供達を振り返り「ほら、あんたたちも」と促す。  
もじもじとしながらも「ごめんなさい」「お姉ちゃんありがとう」と  
口々に言うのを聞き、ふっ…と圓は相貌を崩した。  
 
「気にせずとも良い…次から気をつけることじゃ」  
そう言って、彼女は子供たちに一歩近づいた。  
すると、乳飲み子を背負った娘以外、見事に足並みそろえて一歩後ろに引いたのだ。  
…気まずい空気が、集団の間を支配した。  
 
『…………怖がられてる…?』  
そりゃあ、見も知らずの黒っぽい女が、片手で鞠を受け止めたりしたら怖いかも知れないが…。  
天斗の故郷の子供の割に、人見知りな事だなぁと圓は思い  
『…別に天斗の事など関係なかろうに』  
頭に浮かんだ事柄を瞬時に否定し、顔を少し曇らせた。  
 
元気な人間が揃っていながら、誰も声を発しない。  
奇妙な膠着状態…それを破ったのは、その場で一番の年長者だった。  
少しばかり圓は目を細め、軽く頬を掻いたあと  
「……うん、じゃあ…オレはこれで」そんな呟きと共に、背を向けようとした。  
すると子供たちと、娘に動揺が走る。  
「あ、あの!お待ちくださ……」  
「なにやってんだ?お前たち」  
そこに、とてものんびりとした声が掛けられ、その場にいた全員がそちらを向いた。  
「あ…八雲様!」  
その名前は、圓も聞き覚えのあるものだった。  
 
 
その男性は四十代の前半位、とても…暢気な顔をしていた。  
人の良さそうな親父さんと言った風情で、軽く笑みを浮かべ  
どこまでも飄々として…なんだか掴み所の無さそうな印象を受けた。  
天斗も飄々としてはいるが、この人に比べたらずいぶん威圧感がある。  
『…この方が…天斗の父親。……先代の、陸奥…』  
白帯と太刀こそ無いものの、天斗とよく似た着物を身につけていて  
その名からして間違いないとは思うのだが、とても信じ難いと圓は思った。  
 
…………修羅には見えぬぞ。どう頑張ってみても……。  
彼女は内心、開いた口が塞がらなかった。  
 
 
「あんた…圓さんだね」  
「え、あっ。は、はい!すみません、ご挨拶もせず」  
声を掛けられ、圓は動揺を全身にあらわしながら、慌てて頭を下げた。  
その様子に八雲は軽く笑い、ゆったりと口を開く。  
「天斗がものすごい形相で抱えてきた日にゃ、どうなるかと思ったが…。  
顔色もよくなったな。良かった良かった」  
「…お手数をお掛けいたしまして…」  
圓がぎこちなく言うと、八雲は微笑んだまま首を振った。  
「元気であればそれでいい。無理は駄目だ。……おまえ達もな」  
そう言って八雲が回りの子供たちを見渡すと、彼らは元気な声で返答をしたのだった。  
 
『変わったお人だなぁ…』  
すっかり和やかになった場に、圓の顔にも微笑が浮かぶ。  
『…ものすごい形相だったか…天斗…』  
それを想像すると、微笑が苦笑いに変わっていった。  
複雑な笑顔を浮かべたまま、彼女は子供達の頭をがしがしと撫でている八雲を見た。  
たしかに五十には程遠い外見だと、思わずにはいられなかった。  
 
宮本伊織に嘘を見抜かれ、しどろもどろになったあの日…  
まさか『八雲殿』ご本人に、本当にお目にかかる日が来るとは思いもよらなかった。  
陸奥を騙った自分と、陸奥を知る者と、本物の陸奥が一つの鍋を囲む。  
普通ならばありえない。仕組まれていたかのようだ。  
そう天斗に言うと、あっさりと『そういう運命なんだろうよ』と言われた。  
そんな会話を、圓はずいぶん昔の事のように思い出していた。  
 
「う…」  
うめきが漏れた。横にいた娘が怪訝そうな顔を向ける。  
圓はさりげなく顔を逸らし、もう一度、盗み見るように八雲へと視線を向けた。  
『…どこまで…知っておいでなのか……?』  
首筋に冷汗が垂れる。  
名を、陸奥の名を勝手に騙ったこと。それにより騒ぎを起こしたこと。  
…伝わっていない筈は無いだろう。  
非難されてしかるべきなのに、天斗からも、その家族からも何も言われていない事に気付く。  
 
今になって圓は思う。もし、天斗に会う事なく、名を騙ったまま…敗北していたら。  
陸奥が負けたなどという間違いが広まってしまう所だったかもしれないのだ。  
どこかで天斗がそれを否定しても、幕府が伝える言葉の方が速い。  
嘘が真になってしまう…。手前勝手な行動が、数百年の歴史に泥を塗りかねなかった…。  
圓は自身の愚かさと、やらかした事の恐ろしさに、躰を一つ震わせた。  
 
「……本当に………本当に申し訳ございません…!!」  
勢いよく下げられた頭に、遅れて長い黒髪が舞う。  
乳飲み子を背負った娘は面食らって一歩後ろに引き、子供達はぽかんと口を開けた。  
八雲だけが変わらず、恐縮しきっている圓を見つめていた。  
 
「ほら、みな驚いておるぞ…。顔をあげなよ」  
髪が地面につきそうなほど前屈姿勢の圓に、八雲は手を振りながら言った。  
ゆっくりと暗い顔をあげると、握っていた草履が抜き取られた。  
「良いさ、草履くらい。これは詩織のだが  
どうせ天斗の奴が勝手に持って行ったんだろうって思ってたしな」  
草履をぷらぷらさせながら、八雲は仕方ないなと言いたげな笑顔をみせた。  
それにつられて、回りの子供たちもくすくす笑う。  
天斗兄ちゃんはしかたないねー…などと言う、幼い声を聞きながら  
しばし呆然としていた圓は、握り拳を作って慌てて口を開いた。  
「い、いえ!草履もですが…そうではなくて…っ」  
自分が無断借用したのは、もっともっと大変な物…。  
その事をどう伝え、謝罪するべきか、焦りで上手く考えられなかった。  
 
「あの……っわ!」  
頭に軽い衝撃を感じ、叩かれたのか?と思う間もなく揺すぶられた。  
わしわしと、八雲の手が頭を撫でる。先程子供達がされていたのと同じ豪快さで。  
視界は揺れ動き、無理に話そうとすると舌を噛みそうになった。  
「あ、あのっ、ちょと、わ、わ……」  
「気にするな。…言ったろ、元気であればそれでいいって」  
最後に二度、ぽんぽんと軽く叩いて手は離れ  
ぐしゃぐしゃになった髪を直しもせず、茫然としている圓に  
「ま、これからも天斗と仲良くしてやってくんな」そう言って八雲はニッと笑った。  
 
 
申し訳無さそうに、もう一度頭を下げた圓は小走りで家へと入って行く。  
今までの様子を少し離れた所から見つめていた天斗は、複雑な表情を浮かべていた。  
 
 
 
風呂桶に、長い黒髪が海草のごとく揺らめき  
少し熱めの湯に肌がぴりつく。圓は久々の風呂に脱力しきっていた。  
 
家に入った彼女は詩織とばったり出くわし、慌てて草履の事を謝罪した。  
すると詩織は「いいのよ、気にしないで。…それよりどうしたの?  
体中、砂まみれで…」と、心配そうな顔を見せた。  
「………転びました。怪我などはございませんので…」  
「転んだの!?天斗が一緒にいたのに?…もう、あの子ったら…」  
 
…その天斗に転ばされたんですけど。  
とは口が裂けても言えぬな…と、圓は内心、冷汗を垂らしていた。  
 
そんな訳で、風呂に入るよう言われた圓は  
「家長を差し置いてそんな…」との断りも聞き入れられず、今に至っていた。  
 
佐助に教わってきた礼儀があまり通用しない家だな…と思う。  
…なんというか、大らかすぎる。  
湯気の登る天井を見つめながら、そんなことをぼんやりと考えていると  
「…お湯加減はどうかしら?」  
浴室の外から聞こえてきた声に、圓は我に返った。  
「あ…はい。丁度いいです…」  
「そう、良かった。…着替えの浴衣を置いておきますから、使って頂戴ね」  
「……はい」  
辞退はせず、見えもしないのに律儀に頷きながら返答をした。  
ついでに『下帯を用意しろ』などとも言わなかった。  
 
そのかわり…彼女はおずおずと口を開いた。  
「すみませんが…鏡をお借りしてもよろしいでしょうか…?  
明日の朝で構わないのですが…」  
「あら、そうよね…!ごめんなさい、気がつかなくて。  
あとでお部屋に持っていってあげるわね。それと…このお着物、洗濯しておくから」  
のほほんとした詩織の声に、圓は沈んでいた腰をあげた。  
動揺を表すかのように、水面が激しく乱れる。  
「洗濯など自分でいたします…!」  
「いいからいいから、ついでだから。それじゃ、ごゆっくりね」  
 
足音が遠ざかる。叫んだ所で聞いて貰えそうになかった…。  
圓はずるずると口元まで湯に漬かり、観念したかのように目を瞑った。  
『…やはり、大らかすぎるのではないかなぁ……』  
ぱたりと、天井から水滴が落ち、彼女の頭に当たった。  
 
 
湯上り、夕暮れの日に染まる縁側に立ってみたが、そこには誰の気配も無かった。  
 
 
夜も更け、寝具に横たわった圓はぼんやりとしていた。  
久々の外出や風呂で、さすがに疲労したらしく少々だるい。  
 
室内は暗く、少し離れたところに置かれた物が影になっている。  
借り受けた鏡箱と小さな鏡台。それに、薄桃色の着物。  
名も知らぬ大きな花と白の小花柄が美しく、圓の目から見ても上品で愛らしかった。  
詩織のお下がりだと言うそれを、良ければ使ってと手渡され  
着替えは持っておりますからと丁重に断ったのだが  
『ここに置いておくから、気が向いた時にでもね』と微笑まれたのだった。  
 
「そこまで気を使ってくれずとも良いのにな…」  
とても自分が着れるようなものではないと圓は思う。  
すぐにどこかに引っかけるか、砂だらけにしてしまいそうだ。  
昔、佐助が作ってくれた着物もそうだったし、何より似合うとは到底思えなかった。  
 
砂だらけ…で、思いは自然に一つの方向へと進んでしまう。  
これまで、ずっと考えないように、思い出さないようにしていた事が、押し寄せてくる。  
『……天斗…』  
一年前に味わった恐怖。  
…忘れたように見せかけ、彼女は心の奥底でそれを引きずっていた。  
忘れたようにしていたものが、今日、引きずり出された。  
 
怒らせ、愛想が尽きたなら……打ち捨てられるのだろうか…  
たとえ屍になったとしても、天涯孤独ゆえ誰も困りはしないだろうが。  
『……いや…さすがにそれは…』  
首を振り、絶望的な思いを打ち消す。  
もしも愛想が尽きるなら、当の昔に尽きている気がする。  
わざわざ里に、ものすごい形相で抱えてきた説明がつかないし  
そもそも約定は果たされているのだから、放っておけば良いだけで…。  
「では……何故………」  
…呟きに答えるものは、誰もいない。  
 
冷静に考えれば、命に関わるような事はされていない。  
寧ろ……今までそうだったように、彼は自分を救ってくれた。  
その後、何故だか地面に倒され、首筋を舐められ、胸を触られただけで……。  
 
そこまで思いおこして、圓の顔は火でも吹きそうな勢いで紅潮した。  
『な……なん…なんだと、いうのじゃ!馬鹿、冗談にも程があるぞ…!」  
確かに冗談だとは言われたが、それにしたって悪趣味だと思う。  
冷静になってみて気付いた事により、圓は冷静ではなくなっていた。  
 
天斗の重みと温もり、匂いを思い出すと、今も上に乗られているかのように  
胸が苦しく、顔を覆った両手に速い吐息がかかる。  
首筋に髪が擦れ、こそばゆいような感触に、へその内側がきゅうと締まった。  
 
躰を丸めると、両腕の間に挟みこまれた乳房が形をかえた。  
「……」  
ちょっとした動きでも揺れる、正直邪魔な代物。  
年を取るにつれ、いつしか膨れあがっていたそれを  
圓はそっと、寝間着の上から手で覆ってみた。  
小さな手には余る大きさ。もっと大きな手ならすっぽり納まりそうだった。  
奇妙な思考と行動を、しびれた頭は気がつかない。  
胸を覆った自身の手をずらす。…天斗がそうしていたように。  
「んっ、ふ…」  
自身の躰なのに得体が知れないほど柔らかい。その形をなぞるようにすると  
硬くしこりかけていた先端に指先が引っかかり、びくりと背が弓なりに反った。  
 
空気が薄いかのように、半開きの口は荒く息をする。  
指は無意識に乳房を掴み、頭のどこかでこれは変だと思いながらも手が離せなかった。  
「ぁ…っ……や………」  
声が漏れるのを、とっさに寝間着の袖を噛んで凌ぎ  
撫でるだけだった指の動きは次第に大胆に、艶かしくなっていく。  
指の腹を擦り付けたり、弾いてみたり。  
圓の乳首はいまや寝間着の上からでも分かるほど膨れ、形を主張している。  
少し強めに摘み上げると、躰の全てが反応するかのように跳ね上がる。  
 
触れば触るほど、もっと触れたくなっていく。  
気付けば陥っていた悪循環に怯えもあるが、呆ける躰はそれだけでは押さえられない。  
寝間着の上からの薄い刺激に、酷いじれったさが募ってくる。  
『……少し…少しだけ、なら…』  
そろり、そろりと指を内側に入れていくと、汗で湿った熱さを感じた。  
手の厚みで左前の衿が少し帯から引っ張られ  
突如、その感覚に、ぞわりと大きく寒気が走った。  
 
御前試合で着物を裂かれた時の、あの感覚が一瞬だけ蘇り  
圓は瞬時に胸元から手を離していた。  
大勢の見知らぬ男達の前で胸を曝け出し、とっさにそれを隠すなどという無様な姿  
そして目の前には、突き刺さるような殺気の塊…。  
居たたまれなさと恐ろしさが綯い交ぜになり、叫びだしたい衝動に駆られた。  
 
『……やめよう…もう、ほんとに……。もう…眠らなく…ては……』  
身を縮こませて、目を硬く瞑り、やがて訪れるであろう睡魔を待った。  
しかしそれは火照る躰に阻まれて、一向に訪れない。  
 
圓は無意識に両足を擦り合わせていた。  
躰の中心の、ずっと奥…そこが疼いて、うねっている。  
強く瞑りすぎている両目にうっすらと涙が浮かび  
湿った唇から、咥えていた袖の端がぐっしょりと唾液を含み、糸を引いて落ちた。  
 
へそのあたりを撫でてみた。  
ここの内側がおかしいように思え、少しでも鎮まってくれたらと思うのだが、無駄だった。  
逆にそのせいで、そこよりもっと下の異変にも気付いてしまう。  
脚の付け根に宿る熱。それは、天斗の脚に乗ってしまったあの時に似ている。  
望んで行なったものでは無かったにしろ、一度快楽を味わってしまった躰は  
もっと奥底までそれを望んで、圓自身を苛みつづけていた。  
 
何もかもが真っ白になった、あの後…  
躰はだるかったが、熱が引き、いつもの自分に戻れそうだった事を思い出す。  
『…やはりこれは……病気…?』  
そうだとしたら、なんと厄介な事だろうか。  
場所が場所だけに、誰かに相談する事すら憚られる。  
自分で何とかするほか無い……。圓は悲壮な覚悟に震え上がった。  
 
ごくりと唾を飲み、恐る恐る、寝間着の上から恥丘を擦った。  
「ひっ」  
軽くだったというのに、情けないほど反応してしまう。思ったより重症のようだ。  
胸を触った時、布越しでは駄目だと悟っていたので  
泣き出しそうな顔をしながらも、震える手で裾を掴み、捲り上げる。  
下半身だけ剥き出しの姿を、圓は『なんと無様な』と罵った。  
 
不浄の場と言われるそこを、当然好んで触れたことなど無い。  
圓はしばし逡巡し、彷徨う手は太股のあたりを触れたり触れなかったりしていたが  
それは焦らしの効果しかなく、ますます熱ぼったさが募る。  
なんとか躰の中心に指を添えると、さりり…と陰毛独特の感触を覚えた。  
何ゆえこのような所にこのような物が生えておるのかのぅ、などと  
どうでもよい事をわざと考え、気を紛らわしながら指を進めていった。  
 
そこはとても熱く、ぬかるんでいた。  
「………」  
指先に生じる異様な感覚に、圓は硬直する。  
ぬるりとした粘度のある液体と、層になっている肉は怖いほど柔らかい。  
内心とても気持ちが悪かった…しかし、体は更なる刺激を欲している。  
緊張でぴんと伸びている指を、恐々ながら滑らせるように動かしてみた。  
「ふぁっ…!」  
出したくもないのに出てしまう喘ぎと、ぬちゃ…という音。  
さほど大きくもないこれらの音が、他の部屋と離れているらしいこの場から  
他者に漏れ聞こえる事はないと思うものの、圓の心臓は破裂寸前だった。  
 
しばしそのままの姿で動きを止め、息を詰めていたが  
またゆっくりと、今度は指を曲げ、軽く掻くように蠢かせた。  
『……ぬ…ぬるぬるして……何がなんだか…わからぬ………』  
秘裂に沈む指先が擦れあうたび、粘っこい水音が圓の耳に届く。  
怯えつつも、動きを止める事なく…濡れそぼった襞を探るように掻き分け  
何とかこの熱病を治める方法を捜し求めた。  
 
「っく………んふ…ぁ…あっ…あ……」  
粘液は先程より多くなっているような気がした。  
脚をあまり開いていない為、擦れる指や手を伝った露は太股まで濡らしているが  
両足に手が固定され、入り口の辺りを指先で掻き回すくらいしか出来ていない。  
…脚を開かねば駄目か……。彼女は肺内の重い空気を吐き出した。  
 
ずるずると両足を離すと、今まで閉じていた所がくぱりと開く。  
右中指は蜜の絡まる襞の合い間。左手は口元にある。  
その左手もそっと秘所に添え、親指を使って更に開いた。  
今まで考えもしなかった場所を自ら暴き、外気に触れさせ、圓は肌を桜色に染めた。  
 
ともかく、体内の疼きを何とかしたい一心だった。  
二、三度入り口を掻き回し、沈み込む場所を探り当て  
意を決すると、そこに少しづつ指を押し込んでいく。  
ぬるつく感触は同じだが、なんだかとても窮屈で上手く入らない。  
少し進め、引き抜き……騙し騙し、唇を噛んで耐えながら押し開いていった。  
『治療……だ、これは……っ!』  
羞恥でおかしくなりそうな頭に、治療で恥ずかしい思いをしたのは初めてじゃないと浮かぶ。  
 
天斗に背中の傷を見せた。肌を直に触られた。  
恥ずかしかった…本当はとても恥ずかしかったが、確かに怪我は治った。  
「…たか…とぉ……」  
唇から漏れる名前に躰が激しく反応し、涙が零れる。  
…この病気も治して欲しいと強く思った。  
どんなに恥ずかしくとも、治るのならそれでいい。  
助けて欲しかった。今までのように…。  
 
そんな捨て鉢な思いを抱いても、それが現実になるわけでもなく  
指は圓の意思だけで、じわじわと膣内を潜る。  
じっくり時間をかけていた甲斐があってか、きつい内部も幾分ほぐれてきた。  
爪を引っかけないように気をつけながら更に奥に。  
すると、異様な物が指先に触れた。なにやら粒のような物が沢山、蠢いているような…。  
 
彼女の躰は一気に総毛立った。  
 
「っ……やだぁっ!!」  
得体の知れないものに対する恐怖は頂点を迎え  
膣内にもぐりこませていた中指を一気に引き抜く。  
ぬちゅりと、今までで一番大きく、嫌な音を立て  
開きかかった所から、涎のような銀糸がひとすじ伝う。  
 
もう終わり?おあずけ…?……知らない自分が内部から囁いて、嗤う。  
それを激しく首を振り、祓った。  
 
ぬらつく右指を左手できつく握り締めると、一本の欠けもなく、変わりなく動いた。  
指が溶けて無くなりそうで、恐ろしくて堪らなかった。  
全身に冷たい汗が流れ、ぜえぜえと肩で息をする。  
開きっぱなしの口に塩っ辛い涙の粒が転がり落ちた。  
 
体内はひくつき、奥底の疼きは止まないが、もうこれ以上続けるのは無理だった。  
指の粘着物が赤かったらどうしよう…。しかしそれを確認する勇気はない。  
『……こわい……こわいよぉ……佐助……』  
遺髪は踏みつけるのを恐れ、手の届く場所には置いていない。  
それを取りに行く気力もない…。  
今の圓に出来るのは、ただ石のように身を硬く縮こませ、震える事だけだった。  
 

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