「ぃやっ!!」  
気迫のこもった声と共に、放たれた蹴りが朝霧を斬る。  
忍装束の裾が翻り、圓の額から汗の粒が散った。  
まばゆい朝日を浴びた彼女の瞳は、光の加減によって  
濃い金茶から琥珀色へと変化し、長い睫がそれを彩る。  
高く結い上げられた黒髪が時に刃のように鋭く  
時に薄絹のようにたおやかに、彼女の動きをなぞる。  
独りきりの修練は、まるで演舞のように滑らかで、それでいて力強かった。  
 
 
 
煩悶の夜が明け、目覚めの早い鳥たちのさえずりに誘われた圓は  
目をゆっくりと開き、自分がいつの間にか眠っていた事を知った。  
とはいえ、睡眠による爽快感はまるでなく、身も心も泥のように重い。  
ずるずると鈍重に身を起こすと、よれた寝間着が辛うじて肩に引っかかっていた。  
 
薄暗闇の中、ぼんやりと浮かび上がった白い寝間着と躰。  
力無く投げ出されている自らの脚を、霞みがかった瞳が見つめ  
やがてその視線は右の手へと移された。  
指が、紅く染まっている…などという事は無く…  
圓は深い溜息を一つつき、ゆっくりと立ち上がった。  
 
下帯や脚絆を体に締め付け、薄紅梅の忍装束を軽い衣擦れの音と共に纏う。  
手馴れた様子で遺髪の入った筒と苦無を懐に入れた。  
やはりこの衣装は特別な物。きりりと身が引き締まるようだった。  
 
「さて…髪を……」  
昨夜借り受けた鏡箱を両手で引き寄せてみて気付く  
髪を結うのに、この部屋は暗すぎる。  
雨戸に手をかけ…少しばかりの躊躇を払うかのように力を込めて開くと  
部屋の中にも不自由ない程度の光が差し込んだ。  
 
そっと覗いた縁側に人の気配は無い。  
ぺしぺしと軽く頬を叩き、気を取り直した彼女は長い髪を纏め始めた。  
 
どこか作業的な支度が済むと、素足で庭に降り立った。  
その口には、暗い響きの呟きが漏れる。  
「……昨日あった…色々…は………何かの間違いだったんだ…」  
苦虫を噛み潰したかのような顔で、圓は続けた。  
「躰が弱って、気も緩んで…それで何か、妙な気に憑かれたに違いないわ…!  
最近は修練も出来んかったしな。うん…そうだ、そうに違いない」  
拳を握ってじっくりと、噛んで含むように、自分に言い聞かせる。  
 
早朝修練の始まりだった。  
 
 
 
病あけの運動で、体の鈍り具合が痛いほど良く分かる。  
それでも少しづつ以前の調子が戻ってくると、頭も冴え、汗と共に  
惑いや苛立ちも流れ落ちていくようで、清々しい気分になってくる。  
つくづく、躰を動かしていないと駄目なのだな…と、圓の顔に苦笑いが浮かんだ。  
 
それにしても、と思う。  
ほんの少し動くだけで激しく揺れ動く、この乳房。  
今まで、あまり気にならなかったのが不思議なほどに、邪魔で仕方がない。  
装束の上からでも動きが丸分かりだ。そして先端は擦れる。  
こんな様を、今まで大勢に見られていたのだろうか。…無論、天斗にも…。  
 
『――い、いかんいかん!』  
また妙な方向へと思考が持っていかれそうになる。  
動きを止めた圓は無理やり大きく息を吸い、早まった鼓動を整えながら  
これも疾患の一つなのだろうかと、また少し沈鬱な面持ちに帰っていた。  
『こんな事ならサラシを巻くべきか…?窮屈でどうも好かんのだよなぁ…』  
 
憂いながらも、彼女の躰は次の行動を取っていた。  
腕は無意識に上がり、背後へと伸び、そして、手は何もない所を掴む。  
……その空虚さに、圓の心もぽかりと穴があく。  
気を取られていると、すぐに忘れてしまうのだ。  
天斗と二人の旅中でも、幾度も同じ事を繰り返し…  
自身に向け、呪いの言葉を吐きたくなったものだ。  
力無く手を下ろした彼女は、呪いのかわりにある言葉を唱えた。  
『……村正は…自分で決め、置いてきたのだ…』  
 
体術の次は剣術。それが幼い時から繰り返してきた修練の流れ。  
そして父の形見は体の一部のように、背にあるのが普通だった。  
染み付いたそれらはたかだか一年やそこらで忘れられる物ではないようだ。  
あの時…選択を迫られ、佐助を選んだ事に一片の悔いも無い。…が  
それでも、あの刀に対し『申し訳ない』と思う気持ちも止めようがない。  
あれもまた己の愚かしさの犠牲になった。……圓はずっとそう思い続けていた。  
 
立ち尽くし、痛い想いの浮かぶ瞳に、紅い物がふと横切った。  
紅葉が一枚。ひらり、ひらりと舞い落ちてくる。  
近くに赤く色付く木は無く、どこからか風に煽られ飛んできたようだ。  
ぼんやりとそれを見つめていた圓は、なんの前触れも無く正拳を繰り出した。  
迅く鋭い拳の動きとは対照的に、舞い上がった髪は柔らかく膨らみ  
髪が元通り背に付く頃には、彼女はまた突っ立った姿に戻って、拳を見つめていた。  
軽く握られた右手を開くと、折れ曲がる事も無く、紅葉がその独特な姿を現す。  
 
左指で紅葉を摘み、くるくる回して弄んだ。別に意味などは無い。  
「……ふん」  
紅葉を摘んだまま、履き捨てるように呟く。  
体を動かしても、結局何も吹っ切る事は出来なかった。  
脱力感を味わいながら方向転換をする。部屋に戻ろうと思ったのだ。  
俯いていた顔をあげると、そこで大きく、激しく心臓が跳ねあがった。  
「しっ…詩織殿!?」  
縁側には天斗の母…詩織が手ぬぐいを手に立っていた。  
目が合うと、にこりと笑い  
「おはよう、圓さん」と、ゆったりした声が。  
 
「お、おはようございます…」  
動揺しつつも、ぎこちなく会釈をしつつそう返す。  
「朝からご精が出ますね。すっかり元気になられて…本当に良かったわ」  
「はい…お陰様で…。その節は大変お手数をお掛けしまして…」  
「いいのよ、気にしないで」  
さほど大きくない二人の声は、ゆるりと流れる朝の空気の中で交わされ  
そしてそのまま途切れてしまう。それを困ったと感じたのは片方だけではあるが。  
圓は頬を少し掻くと、一番気に掛かった事を思い切って問いてみた。  
「あ…あの……詩織殿。いつから、見ておいでで…?」  
 
おずおずとして、悪戯を咎められた子供のような表情の圓を  
詩織は不思議に思いつつも「かなり前から…。ほとんど全部、かな」と素直に答えた。  
あらいやだ、私ってば八雲みたい……。  
その呟きは、茫然としている圓の耳には届かなかった。  
 
圓は、恥ずかしかった。  
背後に人がいる事に気付けなかった事も汚点だが  
中途半端な修練を見られてしまった事が何よりも恥ずかしく思えた。  
『ああ…駄目じゃあ…オレは…。たるみきっておる…』  
病あけだのなんだのは、なんの言い訳にもならない。  
出来うるなら、全力で走って逃げ出したい気分だった。  
 
縁側の上にいる詩織から、硬い土の露出した地面へと目線を下げていた圓は  
とん、と軽い音を耳にして、思わずそちらへと顔を向けた。  
同じ高さに詩織は居た。見開いた目と優しい眼差しがぴたりと合う。  
たおやかな奥方様然とした詩織が、縁側から裸足で飛び降りた事に圓は驚いていた。  
口が半開きの彼女に詩織は悠然と近づき  
持っていた手ぬぐいを差し出すと、柔らかく微笑んだ。  
 
「汗はきちんと拭かなくてはいけませんよ。はい、どうぞ」  
「…ぁ…、あの……すみません…」  
慌てて圓は手ぬぐいを受け取り、ごしごしと頬を拭う。  
微笑んだまま見つめてくる詩織に、圓はどうしたら良いのかと困惑していた。  
その気配を察したかどうかはわからないが、先に詩織が口を開く。  
「修練をお続けになるのかしら…?」  
「え?あ、はぁ…そうですね、もう少しやろうかと思っておりますが」  
先程は部屋に戻ろうかと考えもしたが、まだ体力に余裕はある。  
甘えた所を見せたくないという気持ちもあっての返答だった。  
 
「そう…圓さんは頑張り屋さんね」  
聞きなれない屋号に、圓はぽかんとして詩織を見つめた。  
「けど、ね。無理はしちゃいけませんよ?体を壊しては元も子もないですからね」  
ゆっくりと、子供に言い聞かせるような仕草。  
それにつられるように、こくこくと頷いて同意をしていたのだった。  
 
「それじゃ、私は朝餉の準備をしてきますから。のんびり待っていて頂戴ね」  
大喰らいが帰ってきたからねぇ…そんな事を呟きながら  
詩織は足の砂を軽く払って、縁側に上がろうとした。  
その様子をぼんやりと突っ立って眺めていた圓は  
「あ…この手ぬぐいは?」と、慌てて処置について尋ねた。  
「そのまま使っていて。後で貰えばいいから」  
着物の裾をつまみ、危なげなく縁側の上へと戻り、詩織は軽く振り返る。  
 
「……あ、あのっ、ありがとうございました!」  
圓は思い切り良くお辞儀をし、思わず左手を突き出していた。  
「…あら、綺麗。ふふっ…ありがとうね」  
突き出された手の先には、先ほどの紅葉。  
それを詩織はそっと摘むと、ひとつ無邪気に微笑みかけて  
ゆっくり歩き去っていった。  
 
 
「……………何やってんだ…オレは…」  
詩織の姿が見えなくなり、一人残された圓の顔は紅葉のように赤い。  
それで赤味が取れるわけでもないが、手ぬぐいで何度か顔を擦った。  
あんなにも優しく、綺麗で上品な方と接するのは初めての事だ。  
どこぞかの姫君と話をしているかのようで、なにやら妙に緊張してしまう。  
一応自分も、姫というものの端くれではあるが…。  
 
それにしても。圓は手ぬぐいを顔に押し付けたまま、首を捻った。  
看病をしてくれた時も、先ほどの裸足で飛び降りもそうだが  
時折、妙に男っぽい立ち振る舞いをなさるのは…何故だろうか。  
おっとりとして、たおやかな外見にそぐわず、驚かされてしまう。  
ただの気のせいだろうか。そういうものなのだろうか。  
 
「……ま、いいか」  
彼女は手ぬぐいを縁側に置くと、もう一度最初から修練を始めた。  
…頑張り屋さん…という、言葉をゆっくりと思い返しながら。  
 
 
 
朝餉を終えた圓は、ひとり自室に戻った。  
自分の荷物をまとめた風呂敷包みを前に  
何をするでもなく、ただただ、ぼんやりと座りこんでいる。  
 
ここに住むもの全員と、初めて食事を共にした緊張がなかなか抜けきらず  
忍装束の上に着こんだ濃紺の着物を少し弄る。  
藍錆色の着物は洗濯され、今ごろ風に揺られているはずだ。  
 
天斗とは顔を合わせたものの、軽い挨拶以外は口を利かなかった。  
利かなかったというべきか…利けなかったというべきか…。  
別に喧嘩をしている訳ではない。話しかけても良い筈なのだが  
なんとなくその気になれず、ほとんど俯いたまま食事を続け  
天斗もそれを察したのか、黙り込んだままだった。  
 
「はぁ…」  
軽く溜息をつき、前のめりにゆっくりと風呂敷包みを引き寄せ、顔を埋めた。  
さらりとした肌触りと、何なのかは分らないが染み込んでいる優しい香り  
それらは彼女の気持ちをほんの少し穏やかにしてくれる。  
 
――天斗とはもう、このままなのだろうかと圓は思った。  
体調は戻ったのだ。そろそろお暇せねばならない。  
こんな状態のまま別れて良いものではないと分かってはいるが。  
それでいて、彼の事を深く考えようとしていない事も自覚していた。  
「………どうした…ものかな…」  
目を瞑り、軽く風呂敷に顔を擦り付ける。  
こんな物に縋り付いている自分が滑稽で、彼女はほんの少しだけ笑った。  
 
 
 
風呂敷の感触と匂い。  
それ以外の何かが……触れる。  
髪に、頬に……そろりと、遠慮がちに。  
 
……なんだかとても気持ちが良かったから……  
……もっと…触れていて……  
そう、言おうとして……  
 
「……う…ん?」  
目が覚めた。  
 
風呂敷包みを枕に、いつの間にか眠り込んでいたようだ。  
夜はほとんど眠れず、早朝から体を動かし、食事をとり…  
どうやらそこで力尽きてしまったらしい。  
おかしな形にへこんでいる風呂敷包みをぼんやりと見ながら、圓は頭を掻いた。  
 
大あくびをし、ぐっと伸びをすると、躰にかかっていた物がずり落ちる。  
目を擦りつつそれを引っ張ってみると、薄桃色の愛らしい着物。  
…詩織から借り受けた着物が被せられていたのだ。  
 
圓の頭は一瞬にして覚めた。  
寝返りを打ち、皺だらけにして、あまつさえ涎など垂らしてはいないかと  
何度か裏返してみたり、ばさばさと振ってみた上で  
これといった問題はないように思え、彼女はようやく胸を撫で下ろした。  
誰だか知らないが、気を使ってくれたのは嬉しいものの…  
心臓に悪い事この上ない。  
お陰で何か夢見ていた気がしたが、跡形もなく吹っ飛んでしまっていた。  
 
薄桃色の着物をたたむと、これは早々に返却しようと思い立った。  
着物を手に襖をそっと開け、薄暗い廊下に顔を出す。  
しんとして、どこに行けば詩織がいるのか見当はつかないが  
とりあえず厨がありそうな方に向け、圓は歩き出した。  
 
 
きし…と、廊下を鳴らし、立ち止まる。  
『オレの勘も…いまいち当てにはならぬなぁ…』  
そこは奥まった行き止まりの部屋。  
日が当たらず、あまり使われていない事だけは雰囲気でわかった。  
一応「すみません…」と声をかけるが  
それは回りの静けさを際立たせただけで、当然の如く返答はない。  
「ふむ」  
ひとつ呟き、戻ろうかと一歩足を踏み出したが…  
何故だかこの人気のない部屋が妙に気にかかり、動きを止めた。  
 
「………」  
人様の家を勝手に暴くなど無礼千万であると承知している。  
が、圓の好奇心は…案外あっさりと、それを振り切ってしまうのだった。  
着物を左腕にぐっと抱き、回りをきょろきょろと見渡す。  
相変わらず人気がないことを確認し、そろりそろりと扉を開いた。  
 
鬼が出るか蛇が出るか……真に鬼の住む家、何が出ようと驚きはせぬ!と  
息を詰めていた圓は、部屋の様子を見て拍子抜けした。  
広くも狭くもなく、これといって汚れている訳でもない部屋だった。  
「なんだ…」  
つくづく、自分の勘は当てにならない。  
やれやれとばかりに肩の力を抜き、扉を閉めようとした手がぴたりと固まる。  
彼女の視線は真っ直ぐ、一点に注がれた。  
床の間に、ひっそりと置かれている物…それはとても見慣れたもののように思えた。  
 
引き寄せられるように近づいてみると、実際は  
とても見慣れた物に、良く似た物なのだと分かる。  
「……これは、短刀…だな」  
天斗がいつも腰に差している刀。あれがそのまま短くなったような形をしている。  
鍔がなく、柄に赤い革紐を巻いている所も同じだった。  
 
そろりと手を伸ばし、指先が柄に触れる寸前で引っ込めた。  
いけない事をしているのだ…とは、思うのだが…  
抱えていた着物を棚の上に置くと、圓は意を決して、両手を短刀に伸ばした。  
ずしりと、心地良い重みが掌に伝わる。  
胸が高鳴り、顔は知らぬ間に綻んでいた。  
 
陸奥の修めるものは無手。  
正直、天斗が刀を持ち歩く必要はあるのだろうかと、部外者ながら思っていた。  
代々受け継がれているらしいが、扱いはぞんざいだし、使い道ときたら包丁代わりで…  
刀に対して思い入れがある身としては、ついやきもきしてしまうのだ。  
なので、短刀とはいえ、二振りもあるのが意外で仕方なく  
もしかしたら中は竹光なのではないか…と思ったのだ。  
しかし、掌から感じる物が『そうではない』と囁く。  
 
真剣の重みを味わいつつ、柄を握る手に力を込め、引き抜くと  
息が詰まり、総毛立つような痺れが走る。  
波打つ刃文や濡れ髪の如く黒光る様は、月夜の海を連想させた。  
これは…とてもいいものだ……圓の唇から感嘆の溜息が零れる。  
咲き誇る花、もしくは愛らしい小動物でも愛でているかのような表情を浮かべ  
圓は一心に見つめ続けた。身じろぎ一つも惜しいと言わんばかりに。  
 
硬質の麗しさに強く強く惹きつけられ、歓喜に震える圓の心は  
やがてその麗しさゆえに、きりきりと痛み始める…。  
短刀の煌きが琥珀色の瞳に映り、ゆらゆらと揺れた。  
 
天斗の持つ刀の美しさが、使われ、手入れされた美しさなら  
この短刀の美しさは、ただ使われなかっただけの美しさだ。  
 
錆びないようにと、手入れだけ施され置物としてあるより  
本来の用途とは違っても、磨り減っていったとしても、それでも  
手元に置かれ、使ってもらえる方が…幸せなのではないか…と、圓は思った。  
 
…もっと触れていて欲しい……と。  
 
短刀をやっとの思いで戻し、後ろ手に扉を閉めた圓は  
着物を強く抱きしめた。鼓動が驚くほど早い。  
思わぬ道草を食ってしまい、本来の目的に移ろうとは思うのだが  
後ろ髪を引かれるとはまさにこの事。  
あの短刀には付喪神でも宿っているのではないだろうかと  
溜息混じりに思うのだった。  
 
 
短刀の事が頭を離れず、ぼんやりと考えながら廊下を進んでいくと  
ようやく人の声が聞こえてきた。  
少しばかり安心した圓の顔は明るくなり、歩みが早まる。  
しかし、近づくにつれ、和やかな空気が襖越しに伝わってくると  
彼女の足は徐々に遅くなり…やがて止まってしまった。  
 
「…よろしくと伝えてくれって言われたからよ」  
「へぇ〜。あの坊主が偉くなったもんだよなぁ。  
団子を奢ってやった事は覚えてんのかな」  
「あら、お団子を奢ったのは私よ?用心棒さん」  
「……はぁ、そりゃ年もとるはずじゃて…」  
 
ころころと、女性の朗らかな笑い声が聞こえてくる。  
詳しくは分らないが、なにやら団子の話で盛り上がっているようだ。  
襖を見つめる圓の顔に、ふっ…と仕方なさげな笑みが浮かぶ。  
足音を忍ばせ、客間へと戻る事に決めた。  
せっかくの家族団欒に水を差したくはなかった。  
 
部屋に戻ると、へこんだままの風呂敷包みが転がっている。  
その横に着物を置き、圓は雨戸を大きく開け放った。  
風が一つに結い上げられた髪を揺らす。  
軽く押さえながら空を見上げれば、見事な秋晴れ。  
どうやら目が覚めてから思ったほど時は過ぎておらず  
かなりの間、あの短刀に魅入っていた気がしていただけに意外だと思えた。  
 
縁側に無造作に腰掛け、脚を二、三度ぶらぶらと振る。  
もう一度、空を見上げ……気がついてしまった。  
……驚くほど何もする事がない、と。  
 
あの短刀の事が気になってはいるが、また忍び込むというのも気が引ける。  
かといって、このままぼんやり座っているのも性に合わない。  
腕組みをして悩みこむ。腕組んで悩むような事だろうかとも思う。  
一年前には、考えられない悩みだった。  
「……いい天気だなぁ…」  
圓の口から見たままの、気の抜けた呟きが発せられた。  
 
 
 
結局、圓は家の外へ向け、裸足のまま歩いていた。  
さほど広い里ではない。戻ろうと思えばすぐ戻れるだろうと踏んだのだった。  
落ち葉をかさこそと踏み鳴らし、木陰の落ちる小道を独り歩く。  
昨日通った坂道にさしかかると、しばらくそちらを見上げていたが  
無表情で背を向けて、逆側へと歩を進めていった。  
 
あぜ道をしばらく行くと、なにやら賑やかな声が耳に届く。  
立ち止まって遠巻きに眺めてみると、果実を付けた木を見上げ  
ああでもないこうでもないと騒ぐ子供の集まりがあった。  
昨日、鞠で遊んでいた子らは、今日はどうやら  
柿を棒で落そうと悪戦苦闘をしているようだ。  
 
『柿の木は折れやすうございますゆえ…登ってはいけませぬぞ、嬢』  
ふと、幼い頃に聞いた言葉が蘇ってくる。  
あの子らも、どうやら同じ忠告を誰かから受け、それを守っているようだ。  
とはいえ圓への忠告は、果実に目がくらんで起こす失態への喚起というより  
むしろ実がついていない時にこそ気をつけろ、というもの。  
『木に登ったら実のなっていない柿の木でした。落ちて敵に見つかりました』  
では、忍びとして話にならない。…その点が、普通の子供とは違うのだった。  
 
そんな事を思いながら、子供達を眺めていたのだが  
高い所にある実に掠りはするが力が足りない。棒の長さが明らかに足りていない。  
惜しかったり、惜しくなかったり…。  
いつしか圓は拳を握り「ああ…もぅ!もう少し右だ、右!」などと呟いていた。  
 
 
痺れを切らせた男の子が、ひとつ石を投げた。  
柿には当たらず、見当違いの方向に飛んでいったが  
一人始めると我も我も…と、あっという間に伝染し、一斉に石が舞い始める。  
赤子を背負った、桜色の着物の娘が慌てて止めようとしたが  
どう見ても多勢に無勢である。  
興が乗り、目的が柿取りから石投げにすり替ってきた時、突如背後から  
「やめぬか!!」と一喝され、彼らは凍りついたように動きを止めた。  
 
圓は固まっている子供達の元にずかずかと歩み寄る。  
「石など投げて、誰かにぶつけでもしたら何とするか!」  
怒気混じりの声に子供達はすっかり縮こまってしまった。  
いきなりこのように怒鳴られて、それは恐かろうなぁ…と  
頭の片隅で知りつつも、ここは仕方なかろうと彼女は思う事にした。  
 
ぐるりと子供達を見渡し、そのまま圓は柿の木を見上げた。  
青い空に、柿色が良く映えている。  
「…お前らがした事がどのような事か、見せてやろう」  
そう言うと、子供達に木から離れるようにと手を振った。  
一人落ち着いている桜色の着物の娘も、それに習って他の子供を導く。  
 
子供達が十分に距離を取った事を確認すると、圓は懐から取り出した物の  
感触を軽く確かめ、思い切り良く頭上へと放り、その場から一歩だけ離れた。  
ぴしり…と枝が裂ける微かな音がした後  
彼女が先程まで立っていた場所に、筆先のような形の柿が一つ落ちた。  
それが軽く弾んだ所へ、上から降ってきた物が、どすりと突き刺さる。  
圓が投げた物…苦無は柿を貫通し、実をぱっくりと裂き  
その硬質の身にだらりと果汁をしたたらせていた。  
 
声も無い子供達を、またぐるりと見渡し  
圓は苦無の刺さった柿の傍にしゃがむと、静かな声で続けた。  
「見よ。…このような物が頭上に降ってきたら嫌であろう?  
なんの気無しにやらかした事で、取り返しのつかぬ事になる時もあるのじゃ…。  
親類縁者をこのような目にあわせたくはあるまい」  
 
山深い里の中、他所者は自分一人であろうと仮定して  
親しい者の姿を想像するように圓は促し  
子供達の顔に浮かんだ苦い表情から、それは伝わったのだと感じ取った。  
 
「もう、しないな?」  
「………うん…」  
「おねえちゃん、ごめんなさい…」  
すっかり気落ちしてしまった子供達は、ぽつりぽつりと謝罪を口にし  
しゃがんだまま彼らの顔を覗き込んでいた圓は、少し照れたような笑みを浮かべた。  
 
――偉そうに言っているが…  
……オレも昔、同じような事をして…こっぴどく叱られたものだから…。  
 
そうとは口に出さず、かわりに最初に石を投げた男の子の頭をぽんぽんと叩き  
「謝るのなら、オレではなく柿の木にするが良い。  
罰が当たって次から実を付けてくれぬかもしれんぞ?」  
そう、少しばかりからかい口調で言ってやった。  
子供達には効果覿面。悲痛な表情で木に向け謝る姿を見て、圓はまた少し笑い  
地面に刺さった苦無を手に立ち上がり、汁の垂れる柿を一口かじった。  
 
「………ぶはっ!…な゛…こり゛ゃ…!?」  
口中が麻痺したかのような、強烈な渋みに一瞬硬直した後  
圓は慌てて口の中のものを吐き出した。  
あまりの慌てぶりに、先ほどまでの悲壮感はどこへやら  
子供達は彼女を囲んでおおっぴらに笑い出した。  
 
「おねえちゃん、それ渋柿〜」  
「干さなきゃ食べらんないんだよぅ」  
口々に言われ、圓は痺れる舌を指先で触り、少し涙を浮かべつつ  
「もまいら…もっちょはよう…いへよ…」と唸った。  
それがまた可笑しかったのか、よりいっそう笑われてしまうのだが。  
きのう目にした大人しい子供達の姿は、猫かぶりだったようだ。  
『…罰が当たったのはオレのほうかよ…。まったく締まらんのぅ…』  
圓はこれ以上ないという位に渋い顔を見せ、溜息をついた。  
 
舌先を人差し指で突付いていると、ようやく子供達の笑い声もおさまって来た。  
しかし、やれやれ…と思う間もなく  
「おねえちゃんって天斗にいちゃんと一緒に来たんでしょ?」  
「え゛…」  
幼子の口から飛び出した名前に、思わず圓はたじろいだ。  
そんな彼女の様子を気にもせず、子供達はめいめい勝手に喋り始める。  
ただ一人、桜色の着物の娘は黙っていたが  
にこにこと笑うばかりで助け舟を出してくれる雰囲気ではなかった。  
 
「あのね、あのね!うちの父ちゃんがね  
陸奥さまがかえってきたぞーて言ってたの!」  
「けど兄ちゃん家からぜんぜん出てこないからさー」  
「たびのおはなし、きかせてもらうの〜!」  
身振り手振りを交えての熱弁を振るう子供達に押される圓に出来たのは  
舌を口に収め、引きつった笑顔を見せつつうんうんと頷く事だけだった。  
たとえ口が痺れていなくても、何も言えなかったのではなかろうか。  
 
彼女は額に浮かんだ嫌な汗をさり気なく拭いながら  
『あいつ…子供に慕われているのは何よりだが…』と思った。  
娯楽の少ない里だと聞いていたので、それもあるのかもしれないが。  
 
天斗が家から出てこなかったのは自分のせいではある。  
その点は申し訳ないと思うのだが、それはともかく  
『旅の話』となると、嫌でも自分がしでかした事も出てきてしまう訳で…。  
あんなことや、こんなことやらが、子供達に伝わってしまうのは  
心から勘弁してほしいと圓は思うのだった。  
 
『とりあえず……要らん事は話すなと釘を刺しておくか…』  
そうする事に、どれだけの効果があるかは分らないが  
しておかないよりましなのは確かだった。  
――それに、これで…天斗と話すきっかけが出来て………  
「…で、おねえちゃんはいつ天斗にいちゃんのお嫁さんになるの?」  
 
圓は…微かに、ほんのりと…心が軽くなる事柄を見つけた矢先  
かっつりと冷えた水を頭からぶっかけられたかのような衝撃を受け、卒倒しそうだった。  
 
 
「………………」  
子供達が怪訝そうな顔を見せているが、圓は何の返答も出来ない。  
苦無を握り締める手に力が篭り、渋柿の汁がぬめつく。  
口内の痺れが増したような気がしていた。  
 
「あっ!そーだ!!」  
本当に唐突に、今まで黙って成り行きを見ていた桜色の着物の娘が叫んだ。  
「あんたたち…早くおヨネばーちゃんのとこに柿持っていかなきゃ!  
あんまり待たすとばーちゃん寝ちゃうよ!」  
いかにもまずい、と言わんばかりの仕草で娘は子供達を急かした。  
それにつられた子供達の興味は、一気に圓から柿へと移る。  
「ばーちゃん寝てるとこ起こすと恐いからなぁ…」  
そんな事を喚きながら、あわてて地面に落ちている戦利品を籠に入れて行く。  
 
「干し柿できたらあげるからね!」  
去り際に言われた子供達の好意にも、圓は何も返答できなかった。  
例え口が痺れていなくても…。  
 
「…あのぅ…」  
嵐の去った木の下、残されたのは地面にへたり込んでいる圓  
それに、赤子を背負った娘だけ。  
「すぐそばに井戸があります…ご案内いたしましょうか?」  
 
 
冷たい井戸水で圓は何度も口を濯ぎ、苦無の汚れも落とした。  
まだ少し痺れてはいるものの、話すのに支障無い程度には回復していた。  
戸惑いを隠せない表情の彼女に、同じく戸惑っている娘がおずおずと  
「あの、すみませんでした…」と謝罪の言葉を掛けた。  
 
圓は軽く首を振り「いや…気にする事はない…」と返す。  
「…いや、しかし……先程あの子らが言った事は……」  
声が低く落ち、瞳に暗い影が落ちた。  
「天斗が…言ったわけではないのだよな…」  
 
「あ、は、はい。誰が言い出したって訳でもないのです。その…」  
娘は慌てた様子で、手を振りながら弁解した。  
「ええとですね……」  
そこで娘は少し間を置き、神妙な顔で一つ二つと指を折り、続けた。  
「実は…先代の陸奥様…天斗兄ちゃんのお父上様ですが……、も  
先々代様も、そのまた更に前のお方も、旅先で見初めた女性を  
お連れになられましてですね…その…ご結婚なされているのです。  
それで、今回もそうかなぁ〜なーんて……」  
 
口をぽかんと開けて顔色のない圓に、娘は恐る恐る尋ねた。  
「…天斗兄ちゃんから…聞いていませんでしたか…?」  
「知らん!!そのような話は初耳じゃ!!」  
白かった顔を真っ赤に染め上げ、圓は詰問口調で二の句を継ぐ。  
「それは、あの家の慣わしなのか!?」  
「い、いえっ…!そういう訳ではないらしいのですけども  
私達はなんとなく伝統として考えておりましたので…。  
陸奥様は旅に出ておられる事の方が多いですし」  
 
そこまで聞いて、圓は唐突に黙り込む。  
そのまま頭を抱えて地面に突っ伏したい気持ちを必死で堪えていた。  
『あ、あ、あいつは…!馬鹿だ馬鹿だと思ってはいたが…  
ここまで大馬鹿だったとは!!』  
 
この里に住む者にとって、陸奥がおなごを連れ帰ってきたら  
それは妻になる立場の者だと……幼子にまで浸透している。  
なのにこの状況!そりゃあ勘違いもされるわ!!  
…煮えくり返る胸の内、変なところで暢気な男の事を呪いに呪った。  
 
「では…その、あなた様は…違うのですか…?」  
落胆を隠し切れない声に、圓の胸は一突きにされ、痛んだ。  
それでも真っ直ぐ娘の瞳を見詰め、絞り出すような声で、答える。  
「…ああ……違う。  
だって…オレは……天斗にとって、一時の慰みにすぎぬのだから」  
 
この言に対し、目前の娘は、「ぅ…えぇっ!?」とひっくり返った声を発し  
いっぺんに顔を赤らめ、少しばかり後ずさった。  
「いっ…いえ、…あの…ちょっ……そ、それって…」  
妙な反応を返され、いささか圓はとまどいつつも、口を開く。  
 
「オレは、天……陸奥殿に、ひとかたならぬ恩義があるのじゃ。  
それで何か礼がしたいと申し出た」  
「…は、はい……」  
娘は、動揺により少しずり落ちた赤子をおぶい直すと、真剣な表情で頷いた。  
 
「したら陸奥殿は、里へ帰るに一人では退屈だと…  
オレに供をせよと、そう言われたのだ」  
「………」  
「…陸奥殿が自由に旅を続けられなくなったのは…オレのせいだし…な。  
だから、二人でここまで来た訳だ。  
こうして無事に辿り着いて、ようやくオレはお役御免よ」  
少しばかり自嘲気味に言い切って、圓は軽く息を吐いた。  
「…………え…、えと…それで…?」  
「?…それだけ…だが」  
「――っ。あ、ああ!そ、そういうこと…ですかっ」  
耳まで赤く染め、娘は照れ笑いを浮かべつつ何度何度も頷く。  
ますます奇妙な反応に、圓は怪訝そうに首をかしげるのだった。  
 
 
井戸端は日陰で、突っ立っていると足元から冷えてくる。  
二人はどちらともなく日当たりの良い方に向け、歩き始めた。  
 
 
「…圓明流と同じ字なのですね!」  
桜色の着物の娘が興奮気味に言うのに対し、圓は  
「まぁ、そのようじゃのぅ…」とあいまいに答える。  
石と土が硬く積み上がり、段差になっている場所に二人は腰掛け  
話の流れで、自己紹介をしあった時の反応だ。  
 
「………それはそうと、そうして弟の世話をしながら  
他の子供らの面倒もみるとは、感心な事だな」  
いつの間にか目を覚ましたのか、括りつけられたおぶい紐の中で  
もぞもぞと動いている赤子を見やり、圓は言った。  
会話の内容を変える意図はあったが、素直な意見でもあった。  
 
「そんな事ないですよ。年長が小さい子の面倒を見るのは当たり前ですしね。  
母さんの体が、あまり丈夫でないのもありますし…」  
そう言いつつも、誉められた嬉しさを娘は隠さなかった。  
「そうなのか。母上が…。大変だな…」  
「里のみんなが家族みたいなもんですし、大丈夫ですよ。  
それに、天斗兄ちゃんも帰って来ると、すごく気に掛けてくれるんです」  
「………そう…か」  
そう呟いて、圓はばつが悪そうに目を逸らし  
石と石の間から伸びている雑草をぷちぷちと引き抜いた。  
 
「……」  
「……」  
話したくなくて、黙り込んでいるわけではなかった。  
かといって、これといって話す内容も思い浮かばない。  
 
「あの、圓様」  
遠慮気味に沈黙は破られた。  
それでも圓の心臓は跳ね、草が膝にはらりと落ちる。  
「……様はよしてくれ。圓でよいぞ」  
「え、あ…。では、圓…さん。  
私もお聞きしたい事がございますが、宜しいでしょうか?」  
膝に落ちた草と、背中に感じる強張りで  
自分自身がこの娘との会話に、思ったより緊張している事を知った。  
 
「このような事をお聞きして、不躾とは思いますが…  
圓さんはこの後、どうなさるおつもりなのでしょうか…?」  
――やはり、そう来るか。  
ふっと一つ息をはき、ゆっくりと口を開いた。  
「それは…里の者を混乱させた落とし前だろうか?」  
「い、いえ!滅相もございません!!それはむしろ、こちらの落ち度ですっ」  
娘は思った通り、面白いほど慌てふためいた。  
わかっていて意地の悪い事を言った事に圓は少し反省した。  
 
「そうではございません…。お役御免となられ、今後いかがなされるのかと…」  
「ああ…そうだな…」  
膝の草を圓は摘み上げ、あえて強気の顔をしてみせた。  
「まぁ、しばらくは風任せでぶらついてみるさ。  
こう見えて腕は立つほうだと自負しておる。なんとかなるだろ」  
 
しばらくの間があり、娘は目を伏せて口を開いた。  
「行く先…決まっておられないのですか…。これから雪も降ろうといいますのに…」  
心から悲しげな声に、圓はうっと呻いた。  
「………また容赦なく痛いところを突く奴だな」  
「あ、す、すみません…」  
 
少しふて腐れた顔の圓にめげず、娘は思い切って続けた。  
「天斗兄ちゃんのお嫁さんになるというのは、本当に駄目なのでしょうか…!?」  
「!!」  
あまりに率直で勢い余った物言いに、圓はたじろいだ。  
「だ、駄目じゃろう…それは…」  
「なぜ駄目なのでしょう…!?そうなったら手っ取り早…いえ  
丸く収まると云うか、良い按配だと思うのですが…」  
「お前……」  
 
丁重な口調に騙されそうだが、どうやらこの娘  
かなり大雑把な性格なのではないかと圓は気付き始めた。  
 
「…オレはもう二十一だ。いまさら結婚など…」  
二十を過ぎれば年増と呼ばれるこの時代、更に圓は戦国の世の思想を  
色濃く残した養父の教えにより、諦めている節もあった。  
「そのような…天斗兄ちゃんと二つ三つしか変わらないですよ」  
「オレは年の差を気にしておるのではない…」  
 
「でも…」  
なおも追いすがろうとする娘に、圓はやけくそ気味に叫んだ。  
「そこまで陸奥の事が気にかかるなら、お前が嫁になってやれば良い!  
別に決まりは無いのであろう!?」  
言い切って、顔を逸らし、歯噛みする。  
自分自身が発した言葉に彼女は酷く傷つけられていた。  
救いを求めるように、着物の上から胸元の筒に手をかけていた。  
それはまるで、不快なものが溢れ出ないよう押さえつけているかのようだ。  
 
「……うーん、確かにそう言われますと…  
天斗兄ちゃんの事は尊敬していますし好きなんですけども〜  
殿方としては…ちょっと違いますかねぇ……」  
うめき苦しむ圓を知ってか知らずか、娘は間延びした声で言う。  
圓の口が、ぽかんと開いた。  
 
「確かにお強いですし、頼りになりますけど  
変な所で怒りっぽかったり、大人げなかったりしますもんねぇ」  
「え…ぁ……いや…」  
「すぐにどうでもいい嘘つきますし…。お腹が減ると見境ないし…  
こうして考えてみると旦那様としてはどうなのかなぁ……」  
口に手を当て、神妙な顔をして品定めをしだした娘に、圓は茫然とする。  
 
――あいつ本当に、尊敬されているのか?  
圓の胸に、情けなさと憐憫がじわりと沸き、慌てふためいた。  
「…ま、まぁ、そのように答えを急ぐのは早計じゃぞ  
妙な奴だし大馬鹿者ではあるが、あれでなかなか良い所も…  
……それなりにあるのだから…。  
確かに食い意地ははっているがな、本当に喰う物が少ない時など  
オレに多いほうをくれたりもしてだなぁ…」  
「……へぇ…」  
「それにな、口は悪いが親身になってくれる…のは、お前も知っておろう?  
いざって時に機転も利く。少々、心配性と思えるほど人の身を案じたり…  
意外と指先も器用で…オレの着物を繕ってくれた事もあって…  
物の教え方も上手い。あ、あと洗濯も。……そんなに悪いものではないぞ」  
 
あっちを見たり、こっちを見たり、忙しく目線をかえながら  
時に手振りを交えて圓は語った。  
相槌だけうち聞き入っていた娘は、目を丸くして呟く。  
「……いいですねぇ」  
「…だろう?だから…」  
「ええ、そこまで天斗兄ちゃんのことを分かっていらっしゃるなんて…  
いいですね、兄ちゃんは幸せ者です」  
「んなっ!!」  
恐る恐る娘の顔を見ると、満面の笑みが帰ってきた。  
 
……嵌められた!!  
この場合、どちらかと言えば『墓穴を掘った』とするべきだろうが  
ともかく圓は嵌められたと思い、口元を引きつらせたのだった。  
 
「えへへ…。私も本当に天斗兄ちゃんの事は尊敬してるんですよ。  
でも私は、なんといいますか………見目麗しいお方が…」  
そんな呟きを聞いているのかいないのか、柳眉を曇らせ  
そっぽを向いている圓を娘はこっそりと盗み見て、ほんのりと頬を染めた。  
 
一方、こちらは明確に顔を赤らめ、言葉にならない言葉を呟いている。  
何の策もないが、ともかくこの娘の誤解を解かねばと、圓は決然と顔をあげ  
「…っひゃあ!?」  
脳天から出たようなおかしな声を上げてしまったのだった。  
 
 
「い、いかがなされましたか!?」  
「………」  
娘は、今の声に驚いてぐずり始めた弟をあやしながら尋ねると  
釈然としない顔の圓が指差す物を見た。  
「…あ、サト」  
そこには、少しずんぐりとした体格をもつ縞柄の猫が。  
叫び声にも、ぐずる声にも動じず、体を圓の右腕に擦りつけていた。  
 
「いきなり手に…生暖かくて…もさっとした物が触れたから……  
ああもぅ!いつまでやっておるのじゃ!」  
圓は苛ついた声をあげ、右腕を猫から離した。  
「あは…気に入られたようですね」  
「別に嬉しゅうないわ」  
刺々しい言い方は、この程度の事で叫び声を上げてしまった事への照れ隠しだった。  
 
「この猫は、お前が飼っておるのか?」  
「いえ…。みんなの家を好きに渡り歩いているんですよ」  
 
「あ……おい」  
擦り寄る右腕をなくしても、猫はめげず  
圓の膝に脚をかけ、そのままどっこいしょ…とばかりに乗る。  
胸元に顔をぐいぐいと擦りつけ、嬉しげに喉を鳴らした。  
目を丸くする彼女を放って、終いには大儀そうに香箱を作ってしまった。  
「ず…ずぅずぅしい奴だな…」  
あきれた口調で圓は呟くが、膝上の猫をむりやり排除しようとはせず  
ぴくぴく動く耳や、丸まっちい尻尾を見下ろすだけだった。  
そんな様子を娘は微笑ましげに見つめ、くすりと笑った。  
 
「すみません、圓さん…。とてもお名残惜しいのですが  
そろそろ弟のお乳の時間でして…私はこの辺で失礼いたします」  
突如現れた猫により、話の腰をばっきりと折られ  
また蒸し返すのもなんだと思った圓は素直に頷いた。  
「あ、陸奥様のお屋敷にお戻りになられるのでしたら、途中まででもお見送りを」  
「いや、気を使わずとも良い。それよりも早う弟を連れて行ってやれ。  
……オレはこの猫重石のせいで、しばらく動けそうにないしの」  
そう言って、手をひらひらと振った。  
 
深々と礼をして去っていく娘を見送ると、驚くほど静かな秋の空気に包まれる。  
ごろごろ…と猫が喉を鳴らす音がよく聞こえた。  
程よい重みと暖かさで、先程までのくさくさした気持ちが解けていく。  
ふと、先ほどから握り続けている雑草を猫の鼻先で振ってみたが  
ぴくりと耳を揺らしただけで、興味を引く事は出来なかった。  
草を捨て、濃い灰色と黒縞の、ふさふさした背中をそっと撫た。  
「うわ。お前…抜け毛がすごいな。着物が毛だらけになってしまうぞ…」  
そんな事を言いつつも、額をくすぐったり  
弾力のある肉球を指で押してみたりして、ちょっかいをかける。  
やはり、これといって反応は無い。年寄り猫らしく、この程度では動じないらしい。  
 
圓の手は、何度も猫の背を滑りつづける。  
喉を鳴らす振動が手の平に伝わってくる。  
 
……行く先…決まっておられないのですか…。  
これから雪も降ろうといいますのに…。  
 
娘の声が耳の奥に蘇った。  
幼い者に心配をかけ、憐れまれ、圓は自分が情けなかった。  
 
本当の事を指摘されるのは辛いものだ。  
人付き合いをさほど好まない圓は、佐助と二人でいた頃に  
時折世話になった者たちの顔をほとんど覚えていなかった。  
それにもし、記憶を頼りに行ってみたとして……  
自分自身が『真田圓』だとどうやって証明すればいいのか見当もつかない。  
唯一、証になりそうであった父の形見…村正はもう帰っては来ない。  
なにより、行けば面倒事を持ち込むはめになる。  
 
かといって、他所の土地に居場所を求めるのは、危険が大きすぎる。  
幕府の追求は思ったより薄かったものの、やらかした事が消え去った訳ではない。  
覚えている者、恨んでいる者は必ずどこかにいる。  
となれば、圓に出来る事は唯一つ。  
一所に留まらず、ずっと逃げ続ける…それだけだった。  
 
「そうだよな…」  
圓はぽつりと呟いた。  
「今までやってきた事と変わらぬではないか…独りになったというだけで……」  
猫の暖かさが手の中に篭る。  
実の所、以前からこの考えは圓の中で固まっていた。  
ただ単に深く考えた所で、これ以上の進展は望めないので  
結論を出さずに置いておいただけだった。  
 
「う…」  
……まずい、と圓は思った。  
このままでは泣きそうだ。  
 
泣いた所で事態は好転せず、躰が疲弊するだけで良い事など無い。  
しかもこれは自業自得……泣くなどお門違いも甚だしい。  
あわてて手を口につけ、ぐっと歯を食いしばろうとし  
「…っくしゅん!!」  
手についた猫毛を思いきり吸い込んでしまった。  
膝の上でくつろいでいた猫が、流石にびくりと反応した。  
 
「何やってんだろ…オレ…」  
「本当に何やってるんだ?」  
馬鹿くさくて、鼻を擦りながらこぼした呟きに  
猫が返事をしたのだと思った圓は、血相をかえ仰け反った。  
が、当然そのような事はなく…  
半泣きの瞳に写ったのは、あきれて苦笑いを浮かべる天斗の姿だった。  
 
 
猫が暢気に大あくびをした。  
「な…」  
頬が熱を帯びてくるのを止められず、圓は口元にあった手を天斗に向け、指差す。  
「なんでお前がここにいる!!」  
「なんでって…そりゃオレの故郷だからなぁ」  
からかっているのか本気なのか、天斗はのんびりした口調で答えた。  
「こっちで猫が日向ぼっこしてるって聞いたんでな」  
「…そ…そうか…」  
 
さり気なく目頭の水滴を袖で拭った圓は、まどろんでいる猫に目線を向けた。  
すると、天斗が猫の首筋を掴み、片手で抱き上げたしまった。  
暖かかった膝が急速に冷えだすと、少しばかりがっかりした気分になる。  
そして案の定、着物は猫の毛でいっぱいだった。  
 
猫は天斗の腕の中でも喉を鳴らし、懐かしそうに匂いを嗅いでいる。  
「お前…まだくたばってなかったか。そろそろ尻尾が二股になるんじゃねぇか?」  
見上げる圓からは、ちょうど尻尾が見えていたが  
丸い尻尾が二つに分かれている所を想像して、それは変だろうな…と思った。  
 
「その猫サトっていうんだろ…お前が名づけたのか?」  
なんの気なしに聞くと、天斗は首を振って否定した。  
「いんや。オレの爺ちゃんがつけた。  
こう…丸まってるのを後ろから見ると、皮剥く前の里芋みたいだからって」  
「さ、里芋…」  
「見えん事もないよな」  
爺ちゃん……その方も、陸奥だったのかと圓は思う。  
 
「そういえば、祖父殿はどちらに…?」  
「――ああ、いまはもう墓の下だ」  
「ぁ…」  
圓は猫毛のついた膝に視線を落し「それは…すまぬ事を」と呟く。  
「いや、別に謝る事でもねぇよ。爺ちゃんと婆ちゃんは結構年が離れてんだ。  
それでもオレが陸奥を継ぐまで見届けてくれたし…な」  
猫の背を、軽く叩きながら天斗は言った。  
その言葉に引かれるようにゆっくりと顔を上げると  
普段通り右目を瞑った彼の顔が、猫の耳越しに見えた。  
いつもより穏やかに見えるのは、やはり暖かいものを抱いている為か。  
 
祖父殿が逝ってしまわれた時……天斗も泣いたのだろうか?  
天斗の泣き顔など想像も出来ないが、それでも  
きっと、泣いたんだろうな……と…圓は想い描いた。  
 
「オレの顔になんかついてるか?」  
「え?……あ…」  
圓は自分では気がつかないほど、しげしげと見詰めていた。  
穴が開くほど、と言うやつだ。  
「べっ…別に。またそうやって片目を瞑って…  
よく分らん奴だと思っておっただけだ!」  
いっぺんに表情を不機嫌色に染め、勢いよくそっぽを向いた。  
息巻く端々に焦りが見えているのはご愛嬌。  
「お前の顔にはついてるけどな。口の端に猫の毛が」  
「!!」  
あわてて圓は拳で口を拭う。  
『…く…こいつ…片目でいるくせになんと目ざとい…!!』  
自分を見おろし、不敵に微笑んでいる天斗を思い切り睨みつけた。  
 
「……ふん、もう良いわ」  
圓は両手を段差につけ、弾みをつけて立ち上がった。  
二、三度乱暴に着物の裾を叩き、猫毛を払って歩き出す。  
「なんだ…どこ行くんだよ」  
「…どこでも良かろう」  
「どこでも良いってんなら、ちょっと付き合ってくれないか?」  
つっけんどんな言葉と共に、天斗の横をすり抜けようとしていた圓は  
その提案に興味を引かれて立ち止まった。  
 
「どこ行くんだよ」  
同じ言葉をあえて圓は返した。  
「なに、損はさせねぇよ。…多分な」  
「なんだそりゃ。またいい加減な」  
彼女は呆れ顔をしつつも、口を押さえて少しふきだした。  
その仕草を肯定と受け取り、天斗は左目を少し細め  
猫を抱いている手を地面に向けそっと差し出した。  
老猫はおっとりと降り立つと、しばらく二人の周りをうろついて  
唐突に飽きが来たのか、すたすたと歩き去ってしまった。  
里芋のような後姿を圓はしばし無言で見送った。  
 
「よかった…のか?」  
ぽつりと呟かれた言葉に、天斗は不思議そうな顔をする。  
「何が?」  
「いや、だってお前…猫に用があって来たんじゃなかったか…?」  
どんどん小さくなる後姿を見ながら、この距離なら何とか捕らえられるな…  
などと測りつつ、釈然としない気持ちを告げた。  
 
天斗は白い上着についた猫毛を圓にならって払いながら  
「そりゃもういいんだ」とだけ言い、猫とは逆に歩きだした。  
圓は少し躊躇し、天斗と猫の背を見比べ、慌てて彼の方へ小走りについて行った。  
半歩ほど後ろにつき、同じ速度で歩き始めた彼女をちらりと見やると  
「寝てるかと思ったら…知らん間にどっか行っちまいやがる。  
……気ままなもんだよな」こっそりと、そう呟いた。  
 
民家から、子供の歌声が微かに聞こえ  
水車が規則正しく音を刻む。  
静かなだけだと思っていた里にも、こうして色々な音があると圓は気付く。  
 
耳を傾けながらあぜ道を歩いていると、鍬を手にした里人とすれ違った。  
親しげに声をかけられ、それに天斗が答える。  
圓は軽く会釈し澄まし顔で黙っていたが、内心冷や冷やしっぱなしだった。  
こうしている間にも、どんどん誤解は広がっていくようで…  
かといって『自分達は他人です』などと看板を背負って歩く訳にも行かない。  
 
人里から離れ、山道に差し掛かると、そこでようやく肩の力を抜く事が出来た。  
「どうした……疲れたか?」  
「まさか…。疲労するほど歩いておらぬ」  
ならいいけどな、などと暢気に笑っている天斗の横顔に  
じっとりとした目線を向けると、腹の奥底で  
『人の苦労も知らんで……この能天気男!』と悪態をついた。  
 
しばらく蛇行した道を登っていくと、地面が土から石へと変わり、  
なにやら鼻腔を刺すものがあった。  
「…この臭いは…」  
圓は天斗を追い抜いて、石の転がる道を駆けていった。  
背後から「転ぶぞ」と聞こえたが、返事もせずに。  
 
ささやかな囲いを抜けると、もうもうと立ちこめる白い湯気の向こう  
大きな岩肌の合い間に日の光を反射してきらきらと輝く水面が見えた。  
「温泉だ!」  
圓は子供のようにはしゃいだ声を上げた。  
 
大人が四人ほど入れそうな露天風呂から、溢れた湯が岩を滑るように流れ落ちていく。  
長年湯に触れ続けた岩はすべらかで美しい。  
秋にも色あせない緑にまじり銀杏や紅葉が色を添え、なかなかの絶景だった。  
籠や桶も置いてあり、住人たちの憩いの場である事を伺わせる。  
 
「いかがかな?」  
突っ立って全貌を眺めていた圓は、背後から顔を覗き込まれて激しく動揺した。  
「いっ、いかがもなにも、温泉じゃないか…!」  
「ああ、まぁ、温泉だわな」  
間の抜けたやりとりをしながら、天斗だけは温泉に近付いて行った。  
「これがあの、怪我によく効く温泉なのか?」  
もぅ怪我などとっくに治っているけどな…と含ませながら圓は言う。  
天斗は別の効能もあるという事は口にせず「ああ」と返答した。  
 
「じゃ…せっかく来たんだ、入ろうぜ」  
先程の返答と同じ位あっさりした口調に、圓は初め聞き違いかと思った。  
戻ってきた天斗に手首を軽くつかまれ、そこでようやく我に返る。  
「ぼーっと突っ立ってないで、早く来いよ」  
「……え?いや……ちょっと…!!」  
驚き、慌てふためいて、手を振りほどこうとしても叶わず  
前のめりに引き摺られて行くだけだった。  
 
――共同浴場に見知らぬ者と入った事はある。  
だがそれは、薄暗い中、しかも佐助に言われて湯帷子を着込んでの事。  
しかし、天斗と共に入浴など、一度たりとも無い。  
それがこんなお天道さんの下で、いきなり……!!  
 
圓の風呂にまつわる思い出が、湯船までの短い間  
走馬灯の如く脳裏に浮かんでは消えていった。  
 
「前に入りたいって言ってたもんな…。遠慮すんなよ」  
「………」  
天斗は紺藍の袴を膝までまくって、足だけを湯につけている。  
乾いた岩場に座っている彼の後頭部を、突き刺さりそうな視線で睨みつけた後  
慎重に着物の裾をまくり、ゆっくりとひきあげた。  
雌鹿を思わせるしなやかな脚が外気に晒される。  
「み、見るなよ!」  
「見ねーよ」  
おざなりに明後日の方角を向いた天斗を確認すると  
圓は岩場に腰を下ろし、片足づつそっと湯につけた。  
とぷん…と軽い水音と共に、波紋が幾重にも広がる。  
 
「足湯ってのも悪くないだろ」  
一人分ほど離れて座った圓に声をかけながら、天斗は振り向いた。  
また睨まれるかと思っていたが、見れば彼女は目を瞑り、じっくりと味わっている。  
暗い色の着物から伸びた脚は白く、無防備に投げ出されていた。  
「ん……気持ちいい…」  
囁くような声と共にゆっくりと目を開き、二人の視線が絡むが  
圓は微笑み返しただけだった。よほど嬉しかったらしい。  
なんとなく天斗は目線を外し、誤魔化すように頭を掻いた。  
 
圓は脚を軽く振り上げ、爪先で雫を弾く。  
「足湯は初めてじゃ。なかなか良いぞ…誉めてつかわす」  
「そいつは恐悦至極」  
実際にうやうやしく頭を下げながら天斗は言うが  
脚が湯に浸かっているので、まったく格好はつかない。  
顔を上げニッと笑った彼につられ、彼女も笑ってしまった。  
 
「体にもいいんだ。頭寒足熱ってな」  
「ああ…なるほど…」  
「だが、どうかな。お前はすぐ頭に血が上るからなぁ…」  
その言葉に圓は一瞬にして眉を吊り上げ、立ち上がらんばかりの勢いに…  
はたと気付いて、そのまま怒りを内側に押さえ込んだ。  
「やっぱり」  
「……やかましい」  
赤くなった膨れっ面をからかわれ、彼女はますますむくれて見せた。  
 
それでも……圓は安堵していた。  
いつの間にか今まで通りの会話が出来ている事に。  
短刀の事や、旅話の件など、言いたい事は色々とあるが  
今はこうして馬鹿らしい事で盛り上がって、軽口を叩きあえれば  
それで良いと思うのだった。  
このままなら、いざその時が来ても…後腐れなく別れる事が出来るだろうから。  
 
目を伏せ、今度はゆっくりと脚を動かす。  
湯に浸かった肌は、桃色に染められていた。  
掌を器に湯を掬い取り、ふと、そこで気がついた。  
「……。確か温泉は飲む事も出来るのだったな」  
「ん?そりゃ飲めん事もないが…」  
天斗はこんこんと湧き立つ源泉に目を向けた。  
「飲んでどうする。…腹でも減ってんのかよ?」  
無神経な彼の言葉に、ぴくりとこめかみをひくつかせ  
「違うわ馬鹿者」と声を押さえて圓は言う。  
 
その間も、濡れた手から雫が落ちるのを見詰め続けていた。  
「飲んでも体に良いと聞いた事がある…」  
「そりゃまあ、湯治って言うくらいだ。体の内と外から効くんだろ。  
けど、お前がそんな……」  
軽くあしらおうとした天斗の言葉は、圓の顔に落ちた影に阻まれた。  
 
「……なにか気になる事でもあるのか…?」  
ひどく真剣みを帯びた声に、圓の肩が返答をするように揺れた。  
しかし彼女は、慌ててそれを打ち消そうとする。  
「な、なんでも…なんでもない!…ただ少し…興味があっただけで…」  
「違うだろ」  
ぴしりと、斬って捨てるような一言に圓は口篭もった。  
「まだ体調が悪いんだったら、正直に言えよ…」  
「……っ…」  
苦しさに突き上げられるように圓は顔を上げ、天斗を見た。  
彼の左眼が、揺らぐ事なく見詰めていた。  
 
 
…天斗に助けてほしいと、願っていた。  
この身を内側から灼くような、奇妙な疼きや焦燥感。  
忍装束を纏っても止められなかったこれはなんなのか、教えてほしかった。  
けれど…彼は、いつでも自信に満ちていて  
このような薄ら昏い感情に囚われた事など無いように見える。  
 
そんな彼に、言うのだろうか。  
目前で股ぐらを開いて見せて『この中がおかしいんだ』と。  
 
『へそのあたりが疼いて…落ち着かないんだ……。  
ここ…を指で開いてみたら……なにかぬるぬるした水がいっぱいで…  
すごく熱くて……触れば触るほど変になっていって……』  
 
――言える筈がない。  
そのような事を口走ったら、きっと気がふれたと思われる。  
いや、むしろもはや、おかしいのかもしれない。  
病なのか…呪いなのか……。  
そんな自分を、知られたくない。知られないまま別れたい。  
 
 
湯で濡れた手が、汗を含んでぬるりと滑り、その感覚に圓はぎくりとした。  
慌てて着物でそれを拭う。対して口の中はからからに乾いている。  
目の前はこんな大量の湯だというのに。ひどい皮肉だと思えた。  
「……か…関係ない事だ。お前には…」  
 
激しい飛沫と拡散する湯気が晴れると、二人の間は無くなっていた。  
互いの顔を間近で見詰め、そして互いに驚き固まっていた。  
立ち上がった天斗に圓は肩を掴まれ、すくみ上がって息を詰まらせ  
その怯えの混じった顔を見た天斗もまた、愕然としたのだった。  
 
 
掴まれた肩は痛みこそしないが、とても熱い。  
物言いたげな薄墨色の片目を、彼女の揺れる金茶の瞳が捕らえ  
そして、ほどなくしてきつく瞑られた。  
 
瞼の裏には、修行場で起こった出来事が浮かんでいた。  
また地に縫い付けられ、お前などいつでも喰い殺せると…  
立場の差を思い知らされるのだろうか。  
…それならそれで良いと、彼女はぼうっとする頭で考えていた。  
彼を落胆させ、苛立たせるしか出来ない自分がやたら憎くて、悲しい。  
 
肩を掴む彼の手は、しばらくそのまま動く事は無かった。  
動く事は無いが、何かしらの躊躇は指先から感じられた。  
そんな指がぴくりと動き、そのまま離れていくのかと思われたが  
着物越しに腕を撫でるように上がり、くすぐったさを感じて圓は少し身じろいだ。  
手はそのまま上がり続け、やがては着物のない所に到達する。  
瞼を閉じ鋭利になった感覚は、髪を結い上げている事によって  
露になっているうなじに触れられたのを感じ取るが  
彼女は詰めた息を少し漏らしただけで目を開く事はなかった。  
 
やがて大きな掌が圓の頬を包みこむ。  
武骨でお世辞にも肌触りが良いとはいえない手。  
しかし、足元に感じる揺らめく暖かさにも勝る心地良さがあった。  
この感じは、どこかで感じたもの…と、彼女は思い返した。  
 
ただ流れる水音だけが過ぎていく。  
頬を包んでいた手は指を折り、彼女の肌を撫でるようにして離れ  
ぽん、と軽く肩の上に乗せられた。  
その影響か、まるで眠っているようだった圓の両目が開く。  
 
「すまん。驚かせたか」  
静かな声に対し、圓は首を横に振ることで答えた。  
驚きはしていたのだが…。それよりも昨日味わった事との落差に戸惑っている。  
彼女は彼を見上げ続けているが、目があう事はなかった。  
 
「お前が倒れたのは、オレにも責任があるんでな…。  
温泉も…好きなだけ浸かっていていい。あと腹を壊さん程度に飲んでくれ」  
どことなく事務的な口調でそう言うと  
天斗はもう一度彼女の肩を軽く叩いて、湯から上がった。  
 
圓は、昨日自分が彼を置いていったように  
自分も置き去りにされるのだろうかと思ったが  
「ちょっと涼むな」と背を向けて、天斗は大きな岩に腰を下ろした。  
その背中をしばらく見ていたが、彼に対し何も言う権利はないと悟り  
目線を湯船に落した。水面に歪み動く自分自身の顔。  
それを見ながら、ゆっくりと、自分の頬に手を重ねあわせた。  
 
 
二人はまた静かに家へ戻り、当たり前のように別の部屋へと別れた。  
独り、客間で腰を据えた圓は、昼間そうしたように風呂敷包みを手元に引き寄せ  
今度は枕にする事なく、解いて中の物をあらため始めた。  
 
蓋に『腹』だの『傷』だのと彫られている瓶には丸薬が入っている。  
ここへ至る間、使い、新たに購入し…を繰り返してきて  
どれがどのような効力を発揮するかは、知り尽くしている。  
「…しかし心許ないな」  
瓶を振ると、粒が舞い容器に当たる音。中はかなりの空洞が出来ているようだ。  
自分が思いのほか打たれ弱い事を悟った今、薬売りが居る町までの  
繋ぎを用意するしかないな…と、算段する。  
 
明日の朝は早く起き、薬草を摘ませて貰えないか天斗に聞こう。  
出来れば昼前にここを発つ事が出来ればいい。  
雪が降る前なら野宿でも何とかなる…。  
そう自分に言い聞かせながら、少ない荷造りは淡々と進められた。  
 
――温泉の効能か、その夜はぐっすりと眠る事ができた。  
 
 
しゃくしゃくとした朝日に目を細め、圓は大きく伸びをした。  
きっちりと修練を終え、昨日洗濯され戻ってきていた  
藍錆色の着物を忍装束の上に着込んだ。  
彼女の傍らには、中身を整頓した風呂敷包みと鍋が並べて置かれている。  
 
いままで、様々な朝を迎えてきたが、ここでの朝はこれで最後。  
思ったよりも心は平坦である。  
ただ、この地を去るにあたって、まだ色々と済ませていない事があり  
感傷に耽るには気が早いだけなのかもしれないと圓は思う。  
 
朝餉の時にでも、世話になった礼をきちんと伝えねば…  
それに多分…誤解をさせていたであろう事に謝罪を。  
考えると胸が痛んだが、仕方のない事だと呟く。  
なんと切り出すべきか、ぶつぶつ呟きながら試していると  
胸にどよんとしたものが落ち、全身に毒のように回りだした。  
「う…いかん……」  
慣れない事で頭を使い、緊張で体が強張ってきた。  
やはり、そこまで心は平坦ではなかったようだ。  
 
仕方なく、圓は散歩で気分転換を図る事に決めた。  
今日もよく晴れて、出立には絶好の日和なのが唯一の救いだった。  
 
中庭を抜けて玄関先に出た圓は、まずは我が目を疑った。  
日の光に何度か瞬きをして、きちんと実体がある事を確認する。  
こんな早朝、約束でもしていたように、天斗と鉢合わせたのだ。  
彼はすぐに彼女に気付き、軽く微笑んだ。  
 
「おはよう」  
「…あ、ああ。おはよ……」  
思いもかけず早く顔を見る事になり、圓の胸は平衡感覚を失いかける。  
会ったからには、今日すべき事を打ち明けなくてはならない。  
それは自分自身で決めた事…しかし、口は開けど声がでない。  
先程まで色々と考えていたのにまるで役に立っていない。  
困り果てた彼女から零れた息は白かった。  
 
「ここにいても寒いだけだな。中に入ろうぜ」  
片手を玄関先に向けて天斗が促す。  
しかし、家の中に入ってしまっては  
話がますます切り出し辛くなりそうで、彼女はまごつく。  
焦り顔を上げてみると、彼の体から湯気が立っているのが見えた。  
額から流れ落ちた汗が光を反射し  
ああ、どこかで修練をして来たのだな…と、圓は知る。  
違う場所で、示し合わせもせずに同じ行動を取っていたのだ。  
些細かも知れないが、圓は素直に嬉しいと受けとめる事が出来た。  
その後押しにより、口を開きかけるが……  
「あ、ああ!!天斗ー!丁度ええ〜!!」  
血相を変えて走り込んできた男……昨日、すれ違った里人の声に遮られた。  
 
天斗は少し頭を掻くと、息急き切らしている里人に顔を向けた。  
「おはようさん。どうかしたか?」  
「そ、それが……えーと…」  
酸欠頭がようやく回り始めたのか、里人は圓の事をちらりと見ると  
どうやら自分が大変間の悪い時に来てしまったのだと悟った。  
「……えぇと」  
「良いから。続きを話されよ」  
うろたえる里人に、圓は手振りをつけ先を促した。  
 
「すまんこってす…。ちぃと困った事になりまして。  
天斗の耳にも入れとこうと思って呼びに来たんですわ」  
「なんだ…?今聞くのじゃ駄目なのか」  
「いやぁ…これからの事とか、皆で話したくてなぁ…」  
里人はちらちらと圓に向け、申し訳なさそうな目線を向けた。  
どうも、あまり聞かれたくない話のようだ。  
 
「天斗、行ってやれ」  
「…だが…」  
珍しく歯切れの悪い言葉が彼の口を突く。  
何かを感じ取っているのかとも思うが、あえて圓はつっぱねた。  
「里に帰ったからには、責務を果たされよ。陸奥殿」  
二人の視線が絡み、天斗は仕方がなさそうに笑った。  
「よし、じゃあ行くか。……朝飯は残しといてくれよ」  
先は里人に、後は圓に言うが早いか、天斗は駆け出していた。  
里人も慌てて追って行ったが、背負ってもらった方が早く着きそうな様子だった。  
 
一緒にいられる残り時間は減ってしまったが  
得てしてこういうものだと圓は思った。  
彼女は今しがた起こった事を…主に朝飯を残しておいて貰う事を…  
詩織に伝えるため、玄関の戸を引き開けた。  
 
 
手に持った器に箸をつけようとした手を一旦止め  
圓はちらと襖に視線を送った。  
しかし蛍と目があってしまい、あいまいな笑顔を浮かべて誤魔化した。  
詩織は八雲の湯飲みにお茶をつぐ。…この二人はいつ見ても仲が良い。  
こういうのを、おしどり夫婦というのだろうか。  
あまり見ないように気を使いながら、圓は煮物を口に運んだ。  
四人の食事は、のほほんと過ぎていく。  
 
「……過ぎちゃ駄目だろう、過ぎちゃ…」  
朝餉が済んでも天斗は帰ってこず、圓は独り部屋に引きあげ  
床におでこが付きそうなほど、うなだれていた。  
 
結局のところ、彼らに里を離れようと思っている事どころか  
お礼の一つすら伝えられないままだった。  
まともに言えたといったら『頂きます』『ご馳走様』くらいか。  
 
言い出しづらかったのだ、とても。  
話せば彼らは真剣に聞いてくれるだろう。  
それが感じられて、逆に圓は切り出す事が出来なかった。  
そして、彼らに返せる恩を自分が持ち合わせていない事を痛感させられる。  
 
やはり先に天斗と話をつけなくてはならない。  
…なのに、こういう時に限って刻は遅々として進んではくれぬもの。  
もどかしさに圓は縁側の上を何往復かし、くるりと振り向くと  
一足飛びで庭へと危なげなく降り立つ。  
ともかく顔を合わせて話がしたかった。  
 
勢い勇んで飛び出してはみたものの、この地に詳しい訳ではない。  
見渡してみても、どこにいるのか見当もつかない。  
あの様子だと数人は集まって相談している筈だ。  
それらしい場所はないかと、圓は首をめぐらせながら早歩く。  
「あっ…圓さん〜!」  
突如、背後からかけられた幼い声に振り向くと  
昨日と同じく赤子を背負った娘が大きく手を振っていた。  
 
「おはようございます!お散歩ですか」  
「おはよう。…まぁ、ちょっと探しものがあってな…」  
なんとなくこの娘に向かって『天斗を知らないか』と聞くのは  
抵抗を感じ、圓は茶を濁した。  
「薬草を……探しておる。どこかに生えてはおらぬ物かと」  
遠くの山々を見渡すような素振りをして見せた。  
 
しばし、娘は物言いたげな顔で彼女を見上げていたが、にこりと微笑むと  
「擦り傷によく効くのが先の林にございますよ。ご案内いたしましょうか?」  
小さな指が差す方向を、圓もならって見渡し  
「……ああ、では頼む」好意を甘んじて受ける事にした。  
 
途中で家に寄り、籠を持ってきた娘の傍には、赤子の他にも同行者がいた。  
「このこもお散歩中だったみたいです」  
縞柄のもっさりとした毛皮が圓の足に擦り寄った。猫のサトだ。  
林に向け歩きはじめても、猫はつかず離れずついてくる。  
特に追い払う理由もないので、彼女は気にしない事にした。  
 
雑木林が次第に深くなる細い道を、迷いない足取りで先に行く  
娘の後姿を圓は追いながら、口を開いた。  
「すまぬな。オレの用事につきあわせて」  
「お気遣い痛みいります」軽く振り向いて微笑むと、娘は  
「私も欲しかった所でしたので、丁度良かったんですよ」と繋げた。  
 
思ったほど里から離れていない場所で、小さな案内人は立ち止まった。  
「この辺に…あ、これですよ」  
娘が指差す所に圓は座り、しげしげと見て  
ようやく他の雑草との見分けをつけた。  
 
 
「おい…こら。やめろというに…!」  
また生えて来るように、薬草の根を残しながら慎重に摘んでいると  
しゃがみこんだ膝の上に猫が乗っかろうとして邪魔をする。  
それでも圓は強く追い払えず、効率の悪い事この上なかった。  
 
地面に置いた籠に薬草を入れながら、娘はくすくすと笑い  
そして、ぽつりと言った。  
「この草は…すり潰してから塗ると、本当によく効きますから…」  
傍から見れば猫とじゃれあっているようだった圓は  
それでもきちんと話を聞いて、軽く頷いた。  
 
「……行ってしまわれるのですね」  
「…ああ」  
それ以上、娘からの問いかけはなく、その沈黙は圓にとって  
ありがたいものであったが、残念にもそう長くは続かなかった。  
 
凡庸として気ままだった猫の様子が一転したのだ。  
毛を逆立て、別猫のように低く鋭い唸り声に圓はたじろいだ。  
「どうしたんだ…お前」  
自分に向けられた威嚇ではない。木々の向こうに何かあるようだ。  
目を凝らして……これはまた、何の冗談かと彼女は思った。  
日が登っているというのに、月がある。  
――熊だった。  
 
「ひっ…」  
「しずかに」  
娘の叫びを見越してか、圓は素早く制した。  
すんでの所で口を手で塞ぐ。  
 
「…離れるのじゃ。ゆっくりと……前を向いたまま……」  
声も、動作も、とても静かで落ち着いていたが  
圓の頭の中では、佐助から教わってきた事が高速で巡っていた。  
もっとも、このような状況に出くわしたのは初めてではあるが。  
本来熊という動物は臆病で、こんな人里近い所になど降りてはこない。  
話し声も聞こえていただろうに。  
 
じりじりと後ずさりながら、少しの目の動きで獣の全体を把握する。  
どうやら傷を負っている。自然による物ではないようだ。  
 
『ははぁ……そういう…事かよ……!』  
天斗が帰らなかった訳がわかった。  
女である自分を怯えさせないように、黙っていた里人の気遣いも無駄に終わった。  
あまりの馬鹿馬鹿しさに、このような状況にもかかわらず  
圓の口元は歪み嗤っていた。  
 
熊は明らかに敵意を持って迫って来ている。  
「つつっ圓さんっ…!し、死んだふりを…」  
「馬鹿、してどうする。ほんに喰い殺されるのが落ちじゃ」  
むっと鼻を突く、獣の臭い。  
わかりやすく、純粋な殺意に肌は粟立ち、背中には冷たい汗が流れ落ちる。  
それでも……  
「…逃げている訳ではない…」  
圓の唐突な言葉に、娘は一瞬不思議そうな顔をした。  
 
後退はしているが逃げている訳ではない。  
胸元を引き裂かれ、恥辱と恐怖で後ずさっていたあの時とは違う。  
それに……  
「オレの知る化物は…もっと得体が知れず恐ろしい」  
 
かたかた…と躰に震えを感じたが、それは圓のものではなく  
彼女の着物を掴む娘の手から伝わってきたものだった。  
ちらと見て、圓はその震える小さな手に、ゆっくりと掌を重ねた。  
「なぁお前…ちと頼まれてはくれぬか?」  
娘は重ねられた手の暖かさに驚き、また更に  
このような状況にそぐわない気楽な口調にも驚かされる。  
「オレが合図をしたら、里までひとっ走りして知らせてほしい。  
……よろしくな」  
 
手が離れていく。  
娘は暖かい手をしっかりと掴みたくて腕を伸ばしたが、それは空を切るだけだった。  
圓は走って行ってしまったのだ。獣に向かって、猛然と。  
 
今まで逃げていた筈の獲物が突っ込んでくるのを見て  
獣が動揺を見せた。そこを圓は見逃さない。  
 
暗幕から一転、咲き誇る花が。  
手を伸ばしたまま娘は、幻惑に囚われたかのように立ちつくす。  
どのような手際か、圓の姿は重く暗い藍錆の着物から  
華やかで大胆な薄紅梅の装束へと変化していた。  
娘は恐怖も忘れて見惚れた。『そういう色のほうがいい』…と。  
 
 
圓は左手に握り締めたままの藍錆色の着物で、勢いよく熊の顔を覆い隠し  
間髪いれず、右手に握り締めた物を振りぬいた。  
耳を覆いたくなるような咆哮と、物の潰れる嫌な感触にも彼女は力を緩めない。  
藍錆の着物が、握られた苦無が、熊の目から吹き出る血に染まって行く。  
「行け!!」  
手に流れ落ちる生暖かい物を感じながら、圓は腹の底から叫んだ。  
 
茫然自失の体であった娘はその叫びで我に返ると、ひどくうろたえた。  
このような危機的状況で、自分に何ができる訳ではないが  
彼女を一人置き去りにして良い筈もない。  
「つ、つぶらさんっ……でも…!」  
「早く弟を連れて行けっ!!」  
弟という言葉に、娘は反応を示す。  
おぶい紐の中で自由に動けず、むずがるばかりの赤子。  
それを娘は両手でしっかりと支え、背後から聞こえる獣の叫びと  
生木の裂ける音を振り切り、全力で走り始めた。  
 
痛みで猛り狂った獣は着物で視覚を封じられながらも  
無茶苦茶に両足を振り回し、傍の木々をなぎ倒している。  
 
すんでの所で飛び退いていた圓は、手についた返り血を振り払い  
また一本、苦無を投げつけた。  
しかし暴れまわるのを避けつつ急所を狙うのは困難だった。  
強固な毛皮に阻まれ倒すには至らない。苦無にも限りがある。  
「やっかいな…」呟き、間合いを取る。  
ふと、目端に薬草の入った籠が写った。  
それだけが先程と変わらぬ姿で鎮座しており、なぜだか可笑い。  
 
唐突に、細い悲鳴のような音が響き渡った。  
今となってはどす黒く染まった藍錆の着物が  
分厚い爪により、紙のように引き裂かれていく。  
「……まだ着れたのに、もったいない事よのぅ…」  
だくだくと血を流す凄惨な姿の獣と目を合わせ、圓は皮肉を口にした。  
 
ゆっくりと空気を肺へと送り込む。血の味が感じられそうだった。  
「お前……オレを喰い殺したいか?」  
怒りで何かが振り切れたのか、獣は暴れるのをやめ  
真っ赤に染まった怨嗟の目をびたりと圓に向けている。  
夢で見た、不運な見回りの怨念と重なる。彼女は懐かしさすら覚えた。  
「…ならば捕らえてみせよ。鬼ごっこじゃ」  
 
圓に何か上策がある訳ではない。  
動機は単純な事に、この獣をあの里へ近づけさせたくないだけ。  
たかだか数日世話になっただけの小さな里への想い入れを  
彼女は不思議と素直に受け入れていた。  
 
草と土が抉れ、砂利が舞う。  
同じ場に一時たりとも留まってはいられない。  
里から遠ざかっているか、近づいているのかすらも分らない。  
どす黒い塊のような前脚は、なんと速いのだろう。  
 
圓はその身が吸収してきた事全てを「捕まらないこと」に投じた。  
そうする他にない、どちらの精根が先に尽きるかという勝負だ。  
 
鋭い枝が彼女の腕を掠り、ちょっとしたでっぱりに足を取られかける。  
耳に響く妙な音が自分自身の呼吸音と気付いた時  
どうやら木々や地面はあちらの味方なのだと感じられるようになった。  
手傷を負っているというのに、よく動くではないか。  
こちらの心臓は、もう一息で爆ぜる紙風船の様相だというのに。  
 
せめて何か…対抗しうるものがあれば。  
圓の脳裏に去来するのは、一点の曇りもない白刃。  
父の形見である刀の煌き。  
それは呼吸不足による眩暈だったのかもしれない。  
 
『何も変わらんな…オレは…』  
昔から、様々なものを夢想し、この手に掴みたいと想い願っていた。  
しかし…本当に必要なものほど、手をすり抜けていく。  
後になって本当の価値に気付き臍を噛む。  
そんな事の繰り返し。本当に愚かだ。  
 
唐突に躰が軽く、浮きあがる。  
それは決して彼女を救うものではなかった。  
「…っ…は…!!」  
霞から暗転、そしてすぐに緑深い林の情景が映し出される。  
背中をしたたかに打ちつけ、喉奥の空気は石のように重い。  
ふと目の前に、梅の花がちらついた気がして、本能のまま身を捻り避けた。  
 
獣の前足が先程まで倒れていた場所にめり込んでいる。  
そこに見慣れた色の布切れがはためいているのが不思議でならない。  
無様な四つん這いで――獣ですら二本足で攻撃してきているのに――逃れると  
忍装束の袷に感じる違和感にようやく気がついた。  
左前身頃が大きく引き千切られ、汗ばむ胸が露出していた。  
 
背中や髪から砂がばらばらと落ちる。  
振りぬかれた獣の爪は薄紅梅の忍装束にひっかかり  
圓は横っ飛びに吹き飛ばされていたのだった。  
皮膚が外気を感じるよりも、背筋に走るものの方が冷たい。  
肉ごと持って行かれなかったのが正直、不思議でならない。  
 
重い躰をやっとの思いで転がすと、獣との間に貧相な木が一本。  
それでも一縷の望みをたくし、木に手をかけ立ち上がろうとしたが  
腰から下の糸が切れたかのようにへたれてしまっている。  
血の臭いが、死の臭いがすぐそこにあるというのに。  
 
「…捕まっ…たか…」  
口にすれば手の力も抜け、木の表面をずるずると滑り落ちた。  
かくりと、弱々しくうなだれる。  
 
こんなものか……。まぁ、こんなものなのだろう…。  
 
実力も価値もない小娘が、今まで悪運強く生き延びられただけの事。  
それに、しょせん一度は絶とうと思った命だ。  
こんな矮小で役にも立たない……が、命がけで…守ってもらった…命だ。  
 
「い…やだ……」  
へたり切っていると思われた足が動く。  
砂を掻くようにじわりと後退すると、見上げた獣は小山のように見えた。  
「いやだ……。死にとう…ない…!」  
 
これが本当の最後であるならば…  
圓は心から欲しいものの名を、柔らかな胸の前で拳を硬く握り  
あらんかぎりの力を振り絞って叫んだ。  
 
「……天斗――――ッ!!」  
 
返答のかわりか、鈍く音が一つ、そして二つ。  
圓は、自身がひき裂かれた音なのだろうかと思った。  
しかし、痛みの感じない躰を信じたくもあった。  
 
轟音と共に、大量の砂埃が舞い上がる。  
とっさに顔を覆ってそれを防ぎ、身を縮こませた。  
彼女の真横に熊の巨体が倒れこんできたのだ。  
 
ばらばらと、結構な量の砂埃が躰に降ってくる。  
目や口に入らないように強く瞑り、じっとしていると  
それほど時はかからず収まりをみせた。  
しかし、圓は躰を丸めたまま、動こうとはしなかった。  
団子のようになっている彼女の頭を、何やら軽く突っつく物があった。  
「おい、呼んだか?」  
「……来るのが遅いんじゃ。ばーか…」  
 
 
圓はそろそろと顔を上げると、見慣れた紺藍の袴が目の前にあり  
そして真横に転がる獣を見て、思わず飛び退った。  
先程あれだけ追い詰めて来たものが、ぴくりともしない。  
 
肩で大きく息をしながら、躰のどこそこが  
平素の状態を取り戻していくのを圓は実感しながらも  
本当に自分は生きているのだろうか?という確証も持てずにいた。  
それほどまでに、今の静けさと先程までの落差は激しかった。  
 
「……お前が怠けていたせいで、オレは貧乏くじを引いたぞ」  
本当はもう少し他の言い方をしたかったが、圓の口から出たのは悪態だった。  
「すまんな。…けど怠けてた訳じゃないぜ。見つけられんかっただけで」  
天斗は事切れている獣に少し目を向け、すぐまた彼女に向き直った。  
「結構大勢で探し回ったんだが…。お前、よほど旨そうに見えたんだな」  
「…まるで嬉しくないぞ」  
 
回る口と、冷えて行く躰がちぐはぐに思えた。  
右指を動かそうとすると、糊のようにべたつき上手くいかず  
見れば赤黒い血の上に砂がまぶされ固まっていた。  
 
忍装束が引き千切れて露な胸元にも、汗っぽい腕や脚も砂まみれで  
じゃりじゃりとした不快感を示し始めている。  
しかし、これだけではまだ、生死を判ずる事は出来ない。  
圓は大量の水が詰まっているかのように重い右腕をなんとか持ち上げ  
赤黒く汚れた指先を、そろりと震わせながら伸ばした。  
すぐに、大きな手が躊躇もなく包み込む。  
しっかりと、確かな感覚が伝わってくる。  
 
「オレは生きて…いるんだよな?」  
「ああ、もちろん。足だって立派についてるぜ」  
所々、細かな擦り傷がついている脚に目をやり、圓はそこでようやく  
握られた手の主と目を合わせることが出来た。  
ほんの少し息が乱れてはいるものの、変わらない余裕に満ちた笑顔。  
それを見て、気が楽になると共に、少しばかりむかっ腹も立つ。  
人が命懸けだったというのに、お前は片目で足りるのかよ!…と。  
 
「大丈夫か?」  
…あまり大丈夫ではないな…と、圓は思った。  
このまま手だけではなく、彼に躰ごとぶつかって行けたら…  
抱きついてしまえば、もっと生きた心地が味わえるだろうか?  
随分と血迷った事を考えてしまっている。  
しかし、今ならそんな無茶も許されるかもしれない。  
甘えた気持ちも湧いてきて、左手を恐る恐る差し出そうとした時  
切羽詰った幼子の叫び声と足音が響き、彼女は咄嗟に手を引っ込めた。  
 
「圓さぁーん!!」  
顔を涙でぐちゃぐちゃにして、娘は圓の首っ玉にかじりついてきた。  
小さく頼りなく、そして暖かな躰が自分の胸を押しつぶし  
彼女はそこでようやく自分の姿を客観的に認めることができ、頬を染めた。  
それでも…生きている実感は、充分に得る事が出来た。  
天斗は何も言いこそしなかったが、右手は握られたままで少し気恥ずかしい。  
 
「つぶ、つぶら…さんっ!…よっ、よか…た……」  
「おいおい…。その様にくっついては、お前の着物も汚れてしまうぞ?」  
娘は首を振り、嗚咽を漏らしながらよりいっそう強く彼女にしがみ付いた。  
仕方がなさそうに一息つくと、圓は娘の小さな頭を左手でぽんぽんと叩き  
「それにしても、ようこの場がわかったなぁ…」  
自分でも可笑しいほど間延びした声で言った。  
「こ、ここまで木…とか、いっぱい…倒れてて……」  
しゃくり上げながら、娘は辛うじてそれだけ言った。  
ああ、なるほどなぁと圓は思う。  
天斗が何故自分を見つけられたかも知ることが出来た。  
 
「ほら…もう泣くでない。  
弟が泣いておらぬのに、姉がその様でなんとする」  
その言葉を聞いて、娘が慌てて涙を拭う。  
圓は目を細めると「この騒ぎの中でも泣かぬとは、ほんに強い男子じゃ」  
そう言い、姉の背で目をぱちくりさせている弟の頭をそっと撫でてやった。  
 
ようやく落ち着いてきたのか、娘は何度も鼻を啜る。  
「それにしても圓さん…これはあまりにも……  
なぜこのような無茶をなさったのですか……」  
「ん?…ああ、すまぬな」  
 
謝らねばならないのはこちらです、との返答を聞きながら  
圓は真っ赤な目を擦っている娘を見、思い返していた。  
 
――年長が小さい子の面倒を見るのは当たり前ですしね。  
 
それはお前がオレに言った台詞だぞ。  
そうとは口にせず、ただ圓は少し笑って見せただけだった。  
 
「もう気にすることもないぞ。ほれ、見ての通り  
熊は陸奥殿が退治してくれたしな」  
「そう…ですか…。……天斗兄ちゃん…これは…」  
娘は恐る恐る熊を見やり、陥没している頭部に顔をしかめた。  
「ああ、斧鉞だ。やはり熊にはマサカリだろ」  
「…なんでそういう所は凝るんですか……」  
まったくこの人はもう…と言いたげな溜息をついた娘を見て  
何を言っているのか理解しきれず圓は首をかしげた。  
 
 
「それはともかく…圓さんのお召し物を何とかいたしませんと…」  
そっと離れた娘が言い、圓は慌てて胸元を片手で隠した。  
胸だけでなく肩や腹まで露出し、左半分着ていないも同然で  
このままでは帰る事すら出来そうにない状態だった。  
「とりあえず、オレのを着ておけよ」  
天斗は自分の上着を脱ぐため、握っていた圓の手を離しかけた。  
しかし突然強く掴み返され、怪訝そうな顔で彼女の顔を伺った。  
ひどく青ざめて、悲痛な面持ちがそこにはあった。  
 
「ない…」  
「?」  
「筒…が……。佐助の髪が…どこにも無い…んだ……」  
圓は声を震わせ、装束が裂けた場所に左手を押さえつけている。  
急に立ち上がろうとしたが、脚に力が入りきらず  
前のめりで倒れかかった所を天斗に支えられた。  
彼の腕に柔らかい膨らみが押し付けられたが、彼女は構いもしなかった。  
 
「さが、探さなくては…!」  
激しく辺りを見渡し、また立ち上がろうとしたが  
肩をつかんだ天斗がそうさせなかった。  
「落ち着け。オレ達で探してやるから、お前はまだ座ってろ」  
「嫌だ!!」  
ひどく取り乱した様子の圓を見て、娘はあわてて  
それらしき物が落ちてはいないかと下を向いて歩く。  
天斗はこれ以上圓を押さえていても無駄だと悟り  
あえて手を支え立ち上がらせた。  
 
鈍痛を脚に覚えたが、歩けない程ではない。  
彼女は天斗の手を離れ、先程地面に倒れ込んだあたりから調べ始めた。  
千切れた布片は熊が爪を立てたすぐ傍に落ちており  
懐に入れっぱなしだった苦無が二本、散らばっていた。  
それらは全て回収したものの、肝心の物が見当たらない。  
眉根を寄せ、ぐるりと首を巡らすが  
散らばっている茶色の木片は全てそう見えてしまう。  
目は見えているのに、見えていないような感覚に囚われた。  
 
背を向けきょろきょろと見渡している圓をちらと見て  
あのままでは、また風邪を引きかねないなと思った天斗は  
上着を脱ごうと衿を引っ張りかけ…ふと手を止めた。  
目端に捕らえた草陰に、なにか違和感を覚えたのだった。  
 
 
「圓、ちょっと来てみろよ」  
焦燥感ばかりが募り、同じ場所を三度目の正直とばかりに  
探し始めていた彼女は、声を掛けられ慌てて顔を上げた。  
苦無が落ちていたところから随分離れた草むらの前で、天斗が呼んでいる。  
彼女は腕で胸元を覆い、急いで彼の元へ走り寄った。  
 
「あったのか!?」  
天斗が指差す草むらを覗いてみると、奇妙な石が転がっていた。  
しかしそれは石ではなく、よくよく見てみると  
「…サト!」暢気に丸まった猫の姿だった。  
 
熊に出くわし、激しく威嚇した後、姿を見ていなかった。  
てっきり逃げ出したかと思っていたが、こんな所にいるとは思わなかった。  
あまりにお気楽な姿に、焦りが少しばかり抜け落ちた圓は  
しゃがみこみ、草を掻き分け手を伸ばす。  
「まったく…。まぁ、無事で何よりだが…」  
もっさりとして、暖かい毛皮が圓の指先を包み  
そして…こつりと、硬い物に触れた。  
「……え?」  
 
香箱を組んでいる前足に手を突っ込み、そっと抱き上げてみると  
その下から見慣れた木筒が転げ落ちた。  
 
圓の躰から、へなへなと全ての力が抜けていった。  
ぺたりと地面に座り込んだため、両手に抱えられていた猫は自然と  
膝の上に落ち着く事になり、これは重畳とばかりに体をすり寄せた。  
 
茫然として、猫重しのせいもあってか動かない圓のかわりに  
草の褥に横たわっている木筒を天斗は拾い上げ、彼女に差し出した。  
「この筒、またたびみたいな匂いでもしてんのかね…」  
「!!……」  
掌の上に乗せられたそれは、大きく裂けていた。  
 
震える指先をなんとか押さえ、圓は筒の蓋を開くと  
入れた時と変わりなく、油紙に包まれた一房の髪が、するりと姿を見せる。  
油紙にすら傷一つついてはいなかった。  
細かな彫り物の施された、ほんの小さな木の筒は  
最後まで忠実に責務を果たしてみせたのだ。  
 
ぽたり…と一粒、耳に落ちてきた水滴に驚いた猫は  
ぶるりと体を震わせ、頭上を仰ぎ見た。  
くりくりとした黒い瞳に写っている、情けない顔の自分を認め  
圓のなかで何かが決壊し、猫をきつく抱きしめた。  
先程、他者に泣くなと言っておきながら…。  
 
次から次へと溢れてくる涙が毛皮を濡らすが  
猫は寛大なのか鈍いのか、じっと身を寄せつづけていた。  
 
 
――夜もふけ、昼間の喧騒は嘘のように静まり返っている。  
とはいえ、この場は里から少しばかり離れているため、元から静かなものだが。  
温泉が流れ落ちる音、焚き火が爆ぜる音、そのくらいしか聞こえる物はない。  
 
天斗は独り湯に浸かり、水面に映る満月をぼんやりと眺めていた。  
 
髪を乱し、血と砂に汚れ、泣きはらした顔の圓は猫を抱きしめて歩き  
それに赤子を背負った娘が心配げにつき添う。  
二人の後ろには、上半身裸の天斗が熊を担いで歩いている。  
普段はやたらと暢気な里の住人も、開いた口が塞がらないといった顔をしていた。  
 
あの熊は、よその村人が鉄砲で仕留めそこなったものだった。  
それが彷徨い出たのだ。迷惑な話だと天斗は思った。  
そもそもこの地には誰よりも恐ろしい現役狩人がいる。  
平素なら、どんな獣も恐れて近づくまい。  
天斗は鉄砲を握った祖母の顔を思い出し、温泉に入っているにもかかわらず  
背筋の凍る思いを味わった。あれこそが鬼に金棒というに相応しい。  
 
ともあれ、熊は鍋となり里の者達に振舞われたが  
ただそこに、圓の姿が見えないのが彼の気がかりであった。  
彼女は猫を抱いたまま、部屋に篭ってそれきり出てこようとはしなかった。  
 
いつもは開いている左眼を意図して瞑り  
天斗はずるずると、口元まで湯に沈んだ。  
 
こうして独りになった時は…  
いや、時には独りでない時も、気付けば一人の女性の事を考えている。  
笑っていたり、悲しんでいたり……そして大抵は怒っている顔を  
柄ではないような気もするが、想ってしまうものは仕方がない。  
 
なのでまた、普段通りに左眼を開くと  
湯気の向こうに見えたものは妄想の産物かと思えた。  
 
闇に白い裸体を惜しげもなく晒し、圓はじっと天斗を見おろしていた。  
 

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