鬱蒼とした草木の生える林の中、うらぶれた廃屋があった。
暗緑色の葉中へ、ゆるりと溶かされていくかのようなその姿は
どこからが木でどこまでが板なのやら見分けはつかず、気に留める者など誰もいない。
いや、それは林の外の事。外にいる者は気に留めないが
あえてこの状況を善しとし、そこに留まろうとする者もいた。
まともに往けないものは、まともで無い処を好む。
事実その者達も、表通りを堂々とは歩けぬ身であった。
「…すげぇ悪人みたいだな、オレ達」
裂けた木壁から外を伺いつつ、天斗はぼそりと呟いた。
「…なにか、言ったか?」
「いんや。それよりもお前…」
「こっちを向くなっ!!」
ぴしゃりと叩きつけるような声を浴びせられ
天斗は首を竦め、また外に目を向けた。
…九月もそろそろ終わりに近づこうとしている。
ぬるい風に揺れる葉音、盛りを逃した蝉の音が、弱々しく林に響く。
狭く、埃の舞う室内に、汗と血液の臭いがたちこめ
壁の裂け目から流れ込んでくる濃厚な緑の匂いと混じりあった。
声の主……圓は一喝したのち、力無く息を吐いた。
息を吐くたび背中がずくんずくんと脈打つように疼く。
撃たれた傷は浅く、血も止まっている。
なのに、圓はその傷から幾筋も幾筋も…何かが零れ出て行くのを感じていた。
零れ出るたび、力も抜けていくようで。
治療の為、着物を腰までおろした剥き出しの背中が総毛立ち
へたりこんだ足は、凍りついたように動かない。
寒くもないのに歯の根が合わず、かちかちと音を立てた。
………いけない……
薬草を付けて、包帯を…巻かなくては。
傷を塞いで……それで…
………早く…やらなければ……。………。
もう、オレが怪我したからって、手当てしてくれる者は…おらぬのだから。
自分で…せねばならんのだ……。
『おらぬのだから、もう、佐助は…どこに…も……。』
血の気の失せた指先から、包帯が滑り落ちた。
包帯を拾わねば、と思うのと、突っ伏して成るように任せたいと思うのと…
頭の中はめまぐるしく動き、それに反して体はぴくりとも動かなかった。
目も、口も乾き切って、全身の水が失せたような感覚。
少しでも動けば、体がぼろりと崩れ落ちそうで…
ひどく恐ろしく、そのくせそれを望む自身の声も聞いた。
傍らにひっそりと横たわる老爺に視線を向けた。
今は古ぼけたムシロが被せられ、姿を見る事は出来ないが
着物が血でべったりと覆われ、体が萎んだように小さく見えるさまは
圓の瞳にしっかりと焼き付いている。
そんな凄惨な姿に反し、深い皺が刻まれた表情はこの上なく穏やかで…
その穏やかさが圓の胸をぎりぎりと締め付ける。
あの騒乱から離れ、背負った温もりが徐々に失われるにつれ
彼女は身の震える実感と損失感を味わっていた。
『佐助…さすけ……オレは………』
「おい」
突然声を掛けられ、圓の体は大げさな程に反応した。
ぎこちなく振り向くと…いつの間にか、真後ろに立つ天斗を見上げる形となった。
薄暗い室内、逆光で遮られた表情を図る事は出来ない。
まったく気配が感じられなかった事にひどく狼狽し、とっさに胸元を隠して体を縮こませた。
圓の青白い肌が、みるみる血色を取り戻していく。
「こっ、こ…こちらを、見るなと言っ……ごほっ!!…っく、けほ!」
からからに渇いた口を無理やりに開き、また怒鳴るつもりが
埃っぽい空気をさんざ吸いこみ、苦しげに咳込んでしまった。
口を片手で覆い、喉の不快感を押さえようとするも咳は止まらず
唾液のわいて来ない口内に舌が貼り付きそうになる。
止め処なく咳込めば、背中も引きつり痛んだ。
強く瞑られた目にも涙は浮かんで来ず、圓には
体のすべてが自身の罪を責めたてているように思えた。
そんな憔悴しきった体に、そっと暖かいものが触れた。
それは優しく背中をさする…当然傷には触れないように。
息苦しさで思考停止に陥り、辛く苛まれる感覚しか無い中
気遣うような温もりに圓の心もほんの少しだけ軽くなるようだった。
それもあってか、咳は徐々に収まっていった。
「けほ!!けほっ…っは…こほっ!……はぁ…はぁぁ…」
肩で息がつけるくらいに落ち着いてくると、はた、と
背中をさすっているのは大きく武骨な手だと気がついてしまった。
それと同時に、肌に直接触れられている事
そしてそれが出来るのは一人の男だけだと思い立つ。
かぁっと音が立ちそうな程、勢いよく顔が紅潮していった。
無断で背中に触れる手を払いのけてやろうと思い
睨みつけながら顔をあげると、その鼻先にずい、と筒が差し出された。
突然の事に思わずたじろぎ、動きを止めて筒を見つめる事しかできない。
「ほら、水だ…。ゆっくり飲みな」
圓の横にしゃがみこんでいる天斗が、水筒を差し出したのだった。
出鼻をくじかれた圓は、しかめっ面のまま
竹の水筒と天斗の顔を交互に見まわした後
ひったくるように水筒を手に取り、一気に飲み込んだ。
「………っ…けほっ!」
水は適温で甘ささえ感じられ、体中に染み入るようだった。
だが、勢いよく喉に流し込んだ為に少しむせ、また咳込んでしまう。
圓のそんな仕草を黙って見ていた天斗は、やると思った…と
言いたげに苦笑いをし、また彼女の背をさする。
今度は先程より力も入り、荒っぽい動きになっていた。
「大丈夫か?…そんな驚くとは思わなくてな。悪かった」
俯いたまま、はぁはぁと息を荒げる圓の背をさすりながら、天斗は謝罪した。
口端から零れた水を手で拭うと、圓はまたゆっくりと顔を上げる。
その目はもう睨みつける物ではなく、長い睫は伏せられ
度重なる失態に打ちひしがれているのだと分かる。
そっと身を捩りながら「もういい…」と呟くのを聞き
天斗は彼女の背から手を離し、少し身を引いた。
すると彼の動きに合わせ、腐りかけの床が歪んでぎぎぃと音をたてた。
その音に圓の体は軽く慄き、瞳が見開かれた。
『……少し動いただけで…このような音が…』
今になって気がついた事に、愕然とする。
普段ならばどのような些細な音にでも、気がつく自信があるというのに。
こんな大きな音にも気がつけぬほど…今の自分は…。
……きっと天斗が背後に立った時も、大きな音はしていたのだろう。
それなのに、気付けなかった。
『謝られる筋合いなど……無いではないか…』
「…で、なんだ…?オレはこちらを…けほっ!……向くなといった筈…だが」
まだ違和感の残る喉元を押さえ、圓は顔を歪ませながら問う。
この言葉一つを伝えるのに、随分と手間取ってしまった。
正直言えば、今すぐ後ろを向いて欲しい…と思い、胸を覆う腕に力を入れた。
「手当てをな、自分でやれるっつったから待っていたんだが…
いつになっても終わる気配が無いんでな。手伝ってやろうかと」
「…!い、いい!!いらぬ!」
天斗の言葉に圓は激しく動揺し、首を振りながら少し後ずさった。
焦りつつも思い立ち、床に落とした包帯に手を伸ばす
…が、拾い上げるとそれは埃まみれになっており、明らかに使用不能だ。
ぽかんと開いた口はそのままに、彼女の顔に絶望感が漂った。
圓の焦りは手に取るように分かる。本当に分かりやすい娘だ。
天斗は不謹慎と思いつつも笑ってしまいそうになり
拳を口にあて、誤魔化すように一つ咳払いをした。
「背中だからやり辛いのは分かるが…傷を晒したまま放置は良くねぇぜ」
埃だらけの廃屋は、お世辞にも衛生状態が宜しいとは言えない。
そんな事、オレかて分かっておる!…と圓は思うが、口には出さず
佐助の風呂敷包みから新たな包帯を出している天斗を盗み見た。
彼はとっくに自分で治療を終えている。
あれ程の傷を受けておきながら、何事も無かったかのような顔をして
動いているのを見ると、圓の胸にうっすらと不安が広がっていった。
『…ばけもの…だな…』
そんな化物が、名を騙る者を許して、それどころか助けているのは何故なのか。
圓には良く理解できず…理解出来ないから不安を覚える。
かといって…自分一人で、今この状況をどうにか出来るかというと
口惜しいが『否』としか答えの出ぬ身である事は、痛いほど理解していた。
「…手当てした所で…どうせ逃げ切れぬわ……」
「ずいぶん諦めが早いな」
圓の心細さから、つい零れてしまった弱音に天斗はからかい口調で言った。
「…今のオレ達は天下のお尋ね者だぞ………
外には見回りがうろうろしておる…もう江戸からは…出られぬだろうよ……」
埃の溜まった床を見つめ、力無く圓は呟く。
また先程までの脱力感が、じわりと彼女を蝕んでいくかと思われた。
…だがそれは、天斗の一言で収まりを見せた。
「江戸を出られたら、どこに行きたいんだ?」
「…え……」
圓は瞳を二、三度瞬かせ、ゆっくりと天斗の顔を見つめた。
軽く頷き返す天斗から、また視線を床に移し…思案する。
とはいえ、深く考えなくても、彼女の心は一つに占められていたのだが。
…行ける…なら、ば…。
「………大阪…に」
眠る義父を目端で捕らえながら、圓はそろりと口にした。
なにかを恐れるかのように、ぽつりぽつりと語る彼女を
天斗は最後まで口出しせず、じっと見つめていた。
「…ずっと…佐助の心は……親父と共に逝けなかった…あの地に…
あったのだと…思う。じゃから…そこに埋葬してやれたら……いいと…」
「決まりだな。こっからなら…まぁ四日って所か。
普段ならもう少し速かろうが、怪我も勘定に入れりゃあな」
事も無げに、大雑把な計算を口にする天斗に圓はあわてた。
「ちょ、ちょっと待て!何でそんな………っったぁー!!」
「そうと決まればさっさと手当てして備えるぞ」
独特の匂いを放つ液体を布に浸し、天斗は圓の傷に押し当てたのだ。
…消毒の為の酒だった。それは染みた。とても染みた。
「…おま…おまえなぁ〜〜……」
痛みで背筋がぴんと伸び、冷や汗がにじむ額に皺を寄せ、唸った。
「なんだ、酒を口に含んで吹きかける方が良かったか?」
「…そんな事しやがったらぶん殴る」
威勢が戻った圓の言葉に、天斗は喉の奥で笑った。
とんとん、と軽く押し当てられる布に顔をしかめながらも、圓は大人しくしていた。
これは治療……治療なのだから背中を晒していようが
これっぱかしも恥ずかしくなんぞないわ…!と心の中で繰り返しながら。
それでも、時に背筋に触れる天斗の指先と息に、おかしな反応を示しそうになる。
妙に気が焦るのを押さえ、唇をかみしめながら胸を覆う両腕に力を入れるが
押し潰れた膨らみの柔らかさが、やたらと気に掛かって仕方なかった。
一方、天斗の動きは迅速だった。
消毒をし、ついでに流れてこびりついた血を拭い落としてやる。
薬草を貼りつけ包帯を巻き、きっちりと固定…それだけだ。
圓が焦れていた時間はなんだったのだ、と思うほどさっさと終わった。
包帯を巻く時、天斗の両腕が体の前に回され、だ、抱きしめられる!?
……などと焦った事なんか無い!!と圓は強く念じた。
「…どうかしたか?」
「な、なんでもないわっ!」
圓は憮然とした面持ちで、怒鳴るように言いながら少し振り返ると
天斗が佐助の持ち歩いていた薬瓶を見つめているのに気がつく。
「おまえこそ、どうかしたか」
「……ああ、いや。蓋に薬名が彫ってあって便利だと思っただけだ」
「…佐助は…几帳面じゃったから…」
この廃屋を見つけ、事が済んだ後の一時避難場に指定したのは佐助だった。
松平伊豆守の別邸に軟禁されている間、一人抜け出した彼は
御前試合が行われる周辺の偵察や、逃走の道筋確認を怠たらず
目にした物、耳にした事はすべて二人に伝えていた。
更に、薬や保存食などを自分の荷物と共にまとめあげ、廃屋の奥に隠し置いた。
それなのに廃屋内には、長きに渡って誰も立ち入らなかった証である
積もり積もった埃が床を覆い尽くしたままであった。
万が一、何者かが覗いたとしても…汚いあばら家にしか見えなかっただろう。
この床に足跡一つ付けず、そのくせ道具には埃がかぶらないように
……何をどうしたらそんな芸当が出来るのか、想像もつかない。
そしてその答えは、永久に分からないままになってしまった。
御前試合の前日まで、ほぼ毎日のように抜け出す佐助に
「気の小さい事よのぅ…」と嫌味を言えば
「わしの留守間、天斗殿と喧嘩などなされませぬよう願いますぞ」
などと返され…怒鳴りつけるといつもの笑顔を浮かべて出て行った。
本当に言いたかった事は、そんな事ではないのに。
『足…斬られたのだろ?……無理せず休んでおれ』
……喉まで出かかって、押し留めた言葉。
何故こんな簡単な事が言えなかったのか、分からない。
他にももっと…もっと聞きたい事、言いたい事
単純で基本的な言葉が…沢山、たくさんあるのに…
あった筈なのに………。
圓の顔が目に見えて曇っていく。
薬瓶を見る素振りをしながら、彼女の様子を伺った天斗は
軽く一つ息を吐き、手に持っている瓶の中身を取り出した。
俯きかかっていた圓の視線は、目前に差し出された天斗の手に引き止められた。
指先に黒い小粒の丸薬を摘んでいるのだと分かる。
「…なんだ…?」
「痛み止めだ。飲んでおけ」
指先をぼんやりと見つめていた圓は、少し顔を近づけ、自然な動きでそれを口にした。
化粧気の無い桃色の唇が丸薬と天斗の指先を捉える。
思いがけず生じた、しっとりと湿る柔らかな感触に天斗の腕が震え
軽く触れた舌先が離れると、微かに水音が立ち、切れた。
天斗の硬い指先が触れる感覚と、口内にじわりと広がる丸薬の苦味で
圓は今、自分が何をやらかしたかを急速に思い知った。
……単純に、何も考えたくなくて、何も考えずに動いてしまった…。
包帯の巻かれた背中に、じっとりと嫌な汗が浮かぶのを感じられた。
『お……オレはアレか!?餌を差し出された鯉か!!』
この事態をすべて流すがごとく、竹筒に残っていた水で丸薬を飲み込んだ。
目を瞑って一気にあおり、真っ赤な顔で息を吐く。
そしてあたふたと忙しなく着物に腕を突っ込み、衿を正そうとした。
「…あ」
圓の呟きに、しばらく茫然としていた天斗が我に返った。
聞かなくとも何となく察する事は出来た。
なので天斗は首を軽く振り、先程の感覚を追い出した後
また荷物を探り、目当ての物を取り出した。
「ほれ」
圓の肩越しに針と糸を差し出すと、彼女は面食らったような表情を見せた。
そしてしばらく、裁縫道具を見つめていたが…一向に受け取ろうとはしない。
その様子に、もしかして早合点だったか…?と思い、天斗は口を開いた。
「どうした?破れた着物を繕うんじゃないのか?」
「……裁縫なんか、した事…ない」
ふて腐れた圓の一言に、天斗は呆れ顔を表に出さないよう気をつけながら
裁縫道具をひっこめ、頭を軽く掻いた。
『……まぁ、今までの様子からしたら…そうだよなぁ』
大食いで腕っ節が強く、野山を駆け回る…以外は良いとこの我侭姫君と変わらず。
村正より重い物を持った事はございません……てなもんだ。
「……何がおかしい…!!」
「あ?…ああ、笑ってたか。…詫びの変わりに繕ってやるから、こっち向けよ」
浮かんでしまった笑みを引っ込めもせずに言い、軽く手招くと
圓は彼とは対照的な、憮然とした表情を向けた。
それでも裂けた着物の端をしっかりと摘み、胸元を隠しながら
傍らに体を寄せてきたので、藪を突っつく…と思いつつも、からかってしまう。
「お、なんだ?やけに素直じゃねぇか」
「……馬鹿と鋏は使い様だと思っただけだ」
圓の忍装束と同じ色の糸を一本、束から抜き出す。
薄紅梅のそれは、ちっとも忍んでいないよな…と天斗は思った。
小さな針穴に糸をあてがい、迷い無く一度で通してみせると
息を潜めて見つめていた圓も、珍しく素直に感心してみせた。
「なるほど、そういう時に片目瞑ってると便利なわけか」
「……もうちょっと他にも便利な時だってあるぜ…」
いつものように瞑られた天斗の右目を見ながら、圓は妙な納得をし、うんうんと頷く。
そんな彼女の言葉に、天斗は嫌そうな声で付け加えておいた。
「言っておくが、たいして上手くは無いからな…文句言うなよ。
……手をどけてくれ。それじゃ縫えん」
「あ、ああ…」
着物がめくれないよう、右手で裂けた所を摘んでいた圓は
おずおずと、その場所を天斗の左手に明け渡し、困ったように目を逸らした。
しばし互いの間に言葉は無く、圓の耳に届くのは
ときおり天斗の引く縫い糸が布と擦れ立つ音。
…そして、自身の心臓が早鐘を打つ音だった。
至近距離で、いつになく真剣な天斗の顔を見る羽目になり
彼の左指が着物の内側に入っているという、この状態。
気にしまい、気にしまい…と思えば思うほど気になってくる。
…何かの弾みで……指に胸の先端が触れてしまいそうだ。
そうしたら、心臓がおかしいほど早いのに気付かれてしまうかもしれん…!
圓は混乱のあまり見当違いな心配をし、身を硬くしていた。
体は動かさないが視線は一所に定まらない。
圓がそんな状態で固まっていると、天斗の体がほんの少し揺れた。
何事かと思い、手元を見てみると…どうやら針を指先に刺してしまったようだ。
しかし動揺を見せたのはほんの一瞬で、すぐに裁縫を再開している。
だが、その一瞬の動きのおかげで、圓にも少々余裕が出来たのだった。
「痛いか?」
「痛ぇよ」
「……嘘だな」
「嘘だと思うんなら聞くな」
軽口を叩いて、ふっと息を吐く。
そして圓は、先程から気にしていた事柄を切り出す事にした。
「…本当に…江戸から出られるのか…?」
「嘘だと思うんなら聞くなって」
「そういう訳ではないが……何か、策でもあるのかと…」
真剣な目で答えを求めてくる圓を、ちらと見た天斗は
裁縫する手を止める事無く口を開いた。
「策なんか無い…が、あちらさんはそこまでやる気じゃねぇとは思っている」
「…はぁ?」
訳がわからず、圓は間の抜けた声を出してしまった。
「追っ手を差し向けないとでも…?そんな馬鹿な」
事実、町中には見回りが居るではないかと、非難じみた視線を向けると
「まったく追っ手が無いとは言わねぇよ…。ただ、多くも無いと思うんでな」
そっけない程の返事に、圓はますます混乱した。
「な…なんで…」
顔を上げなくとも圓の表情が分かるようで、天斗は口端を上げた。
また指に針を刺さないよう、気をつけながら手を動かしつつ
のんびりとした口調で語りかけた。
「…まず一つ…。思い出してみろよ、家光の様子を。
天下のお殿さんが失禁した上に失神だぜ…。
さらにあれだけの手練れが居たにもかかわらず、賊を取り逃がしちまった。
…お前、こんな事が町の連中、ひいては諸大名の耳に入ったらどうなると思う?」
「……それは………」
さぞや奴等にとって困った事になるだろうとは思うが、それとこれと
今の自分達にどう直結するのか圓にはいまいち飲み込めない。
「今回の件…御前試合自体が、無かった事になるだろうよ」
「な…!?」
「決して他言しないよう、あの場にいた者達に言い渡される。
となりゃ、あれ以上の人数は増えないって訳だ」
「………人の口に、戸は立てられぬ」
「まぁな。でも立てちまうのがあいつらだ」
権力で押さえるか、金の力か…もしくは。
天斗は針を持つ手で、首を掻き切るような仕草をみせた。
その様子に圓はひどく顔をしかめ、目を逸らす。
「ま…まぁ、実際にそうなったとしよう…。
だが、それなら益々オレ達を口封じしようと躍起になるのではないか…?
あの場にいた者は、まだ大勢おったぞ!…そいつらが全員追って来ないとも限らん…」
「二つ目は」
矢継ぎ早の問いかけを封じるかのように、天斗は低い声で言う。
「オレを追わねばならない……って事だ」
その言葉を聞き、圓は背に冷たい物が流れ落ちていくのを感じた。
また体が強張りかけるのを、拳を握って抑えこみ
ぎこちなく視線を天斗の手元に落とした。
針を持つ手も、着物を摘む手も、皮が剥けて生々しい傷を晒している。
それはそうだろう…。真剣ならば、刃毀れで使い物にならなくなるであろう
人数相手に、その拳を振るって来たのだから。
むしろこの程度で済んでいるという事実のほうが、圓には恐ろしく思えた。
「それに、あの場にいた武士が全員追っ手として動くなど、ちょいとありえねぇよ。
そんな事した日にゃ目立ちすぎる。…目立てばその訳も露見するだろ?」
「…………」
「…とは言えこれらはオレの予想に過ぎん。
どうなるかはその時次第だが…まぁ、何とかしてやるさ」
気楽に発せられた天斗の言葉に、圓は否定も肯定も出来ず
ただ彼の手を見つめ続けるしかなかった。
何の前触れもなく天斗は顔を上げ、陰りの落ちた圓の目線とあわせた。
唐突に、息が触れそうな程の距離で見つめられ
彼女はたじろぎ眉根を寄せたが…視線を外す事は無かった。
「不安か?」
「!……べ、別に…そんな事」
自分がいかに情けない顔をしているのかを圓は自覚し、あわてて表情を引き締め
いつもの挑むような瞳で天斗の目を見据えた。
「……ただ、分からんだけだ。…お前が何故ここまでオレに付き合うのか」
「佐助に頼まれたからな」
「…………」
「ま、裁縫よりは上手くやれる自信はあるぜ」
存外に暢気な様子で言うのを見て、圓の顔に
呆れたような、困ったような複雑な表情が浮かぶ。
「信じられんか」
その言葉には軽く首を振り、否定の形を取った。
ゆっくりと目線が、また天斗の手元に落ち…呟かれた声は何処となく寂しげだった。
「……陸奥の力…疑ってなどおらぬ。……ただ…」
「…ただ?」
「天斗は、嘘つきじゃから…」
廃屋に、重苦しい沈黙が広がった。
今までの自分の言動を思えば、こう言われても
何の反論もできんな…と素直に認め、天斗は黙り込んだ。
頭を掻こうと手を上げかけるが、針を持っていてはそれもままならない。
「やばくなっても、お前を置いて逃げたりはしないが」
「!!…そ、そのような事は思ってなどおらぬ!
お前は嘘はついても裏切りはしな………いと、分かっては…おる…ぞ…」
苦笑交じりで呟かれた天斗の言葉に、圓は弾かれたように顔を上げ
勢いよく首を振りながら否定の意を表した。
彼女が動くたび、高く結い上げた髪も激しく左右に揺れる。
しかし途中で自分の必死さに気づいてしまい、どんどん言葉は弱く
どんどん顔は赤くなっていき…終いには俯いてしまった。
「まったく信用が無いって訳じゃねぇんだな」
笑いながら俯いた顔を覗き込んで来たので、圓は黙って顔を逆に向けた。
不機嫌そうな顔をしながらも、圓は思っていた。
偶然に出会ってから、それほど長い日々を共にしたと言うわけではない。
本当の姓を今日になって知るなど、目前の男は分からない事だらけだ。
色々と嘘をつかれ、無神経な事を言われ、態度も偉そうで腹立たしい所は多い。
それでも…信用に足りえる人物だという事だけは、分かっている。
それは何よりも、天斗の拳の傷が雄弁に語っていた。
しかし、理屈で分かっていても、心の奥底の不可解な不安が拭い切れない。
「……嘘つきなのは、オレもだけど……でも…」
圓は顔をそむけたまま、か細く呟いた。
「嘘つき同士、手打ちって事では……納得いかないか?」
「………」
そっぽを向いている圓は、何の反応も示さず
一つにまとめられた烏羽色の髪だけがさらりと落ち、細いうなじを晒す。
「…………。なら、こんなのはどうだ」
真剣みを帯びた天斗の声に少しだけ顔を上げ、続く言葉を待った。
「オレはお前らを大阪に連れて行く為に力を尽くす。
それを無事に終えたら、お前はオレの言う事を一つ聞く」
「……え、ええ…??」
「とりあえず、分かりやすいだろ」
天斗は、圓が天海と取り交わした約定を思い出していた。
取り決めと平等さを示したほうが、安心する性質なのかもしれん…と思ったのだ。
そして、読み通りだったのか、振り向いた圓の険は少し薄れていた。
「…言う事って、どんな」
「そりゃ、この件が済んだら考えるかな」
「……本当に…ひとつでよいのだな?」
「おう」
しばらくの間、埃で白くなっている床を睨むように見つめ、唸っていた圓は
思い切ったような表情で背筋を正し、力強く頷いてみせた。
「分かった、約束しよう。……後で数を増やしても聞かんからな」
「ああ、約束だ」
「…本当に、大丈夫なのだな?」
「陸奥に敗北の二字は、今んとこ聞いた事がねぇよ。ま、大船に乗った気でいな」
「泥舟でない事を祈るぞ」
二人は互いの目を真っ直ぐに見つめ、軽口交じりに命賭けの約定を交わした。
圓は、ぼやけていた道筋がはっきりとしたような気がして
幾分かすっきりとした気分になっていた。
が、もうすぐ終わる裁縫を続けている天斗の顔が、なんとなく妙に嬉しそうで
『…もしかして、早まった?』と、別の不安を感じてしまうのだった。
……漆黒の深淵から、突然肩を揺すられ引きずり戻され
圓は重い瞼を持ち上げると、気だるげに首を巡らせた。
すると、頭上に天斗の顔があるのだと、ぼやけた目が捉え
徐々に逞しい上半身に下がり…彼が着物を身に着けていないのだと気づく。
「そろそろ起きてくれよ」
「………う、うわぁっ!?」
飛び跳ねるように身を起こし、一気に覚醒した圓は
どうやら自分は天斗の足を枕に寝こけていたのだと悟った。
「え…な、何でいつの間に!?オレ寝てたのか?」
「痛み止めの丸薬に睡眠作用があったのかもな。
いいんじゃねぇか?少しでも眠れたなら体も休まったろうし」
「そ、それはともかく…!何でお前は脱いでおるのだっ!!」
「裁縫。ついでにオレのも直しておこうかと思ってな」
そう言って天斗は血のついた上着に腕を通した。
見れば確かに、すっぱりと斬られていた腹の部分が繕われている。
しかしそれは随分と大雑把な縫い方に見えた。
『オレのとでは…全然縫い方が違うんだな…』
圓は自分の胸元に、そっと視線を落とした。
線はがたがたで、お世辞にも達者とは言い難いが
目は細かく頑丈な仕上がりだった。
「袴も切れているんだが…お前が頭を乗っけていて直せなかった」
「…それは大阪についた後で、勝手にやるが良い」
照れ隠しに、圓はつっけんどんに言い
こっそりと口元を触って涎を垂らしていないか確認した。
『…裁縫が終わって…まだ少し時間があると聞いたんだったか…。
それで膝を抱えて目を瞑った…所までは覚えておるぞ。……ああ、くそ』
薬のせいとは言え、自身の不覚を呪い、頬をぴしぴしと叩く。
周りを見渡すと、日は落ちかけ薄暗くなっていた。
それほど長くは眠っていなかったようではあるが。
ほんの近くで、くぁーくぁーと薄気味悪い烏の鳴き声が響き
風に揺れる木々の擦れ合う音が、大きくも、静かにも聞こえた。
「もうすぐ完全に日が落ちる……そうしたら出るぞ」
天斗の低く落ち着いた声で、圓の全身に氷のような緊張が走りぬける。
そしてもう一度、頬をぴしり、と叩いた。
保存食を水で無理やり流し込み、腹を満たすと
圓は立ち上がり、しなやかな肢体を大きく伸ばした。
背中が引き攣れて痛んだが、納得行くまで筋をほぐす。
烏の鳴き声はもう聞こえず、代わって虫の涼やかな音で溢れていた。
佐助の体をムシロに包んだまま背に担ぎ上げ、しっかりと紐で括りつけた。
風呂敷包みと鍋を担いでいる天斗を一瞥した後、首を背後に傾け
口に出す事無く佐助に語りかけた。
『しばしの辛抱じゃ…佐助。必ず、お主をかの地へ連れて行くからな…』
傾きかかった戸を開けると、やかましい程だった虫の音がぴたりと止み
圓はぎくりと体を震わせたが、天斗が気にも留めず外に出たのを見て、慌てて後を追った。
室内の埃っぽい空気から開放され、緑の匂いと共に肺いっぱいに吸い込み
ゆっくりと吐き出せば、全身に冴え冴えとした感覚が蘇ってくる。
でこぼこした地面に足を取られぬよう注意しながら歩き
林の出口付近に身を屈め、周囲に目を凝らした。
遠くにぽつりぽつりと、揺れる提灯の明かりが見えた。
さして多くも見えず、表面上は普段通り…と言った所か。
圓は、びっしりうようよと見張りの者が居ると想像していただけに、少し拍子抜けした。
天斗の読み通り、様々な恐怖が染み入った結果がこれなのだろう。
そして、その恐怖に飲まれ、自分も被害妄想に陥っていた事を知り……圓は恥じた。
「あまり多くは無いだろ?」
耳元で囁かれ、自分の思いが見透かされたようで、少し苛立つ。
「……まぁ、な。…だが見つかって仲間を呼ばれでもしたら…」
「呼べないようにすりゃ済む事だ」
林を抜け、闇に乗じて二人は歩き出した。
まったく光の届かない新月を圓は幸運だと思う事にした。
走り出しそうになるのを堪え、佐助に教わった事を反芻する。
急いては事を仕損じる……。
なんにせよ老爺を担いでいる圓は、素早く動こうにも動けない状態なのだが
それでも急く気持ちを押さえ、じっくりと歩を進めていった。
見回りや、事情を知らない暢気な酔っぱらいが行き来するのを見極めながら進む。
まるで先に進んでいないような…いつまでも終わりが見えないような…
そんな気の遠くなるような感覚に、圓は歯を食いしばった。
十字路を横切ろうとした時、天斗に軽く腕を掴まれ
踏み出しそうになっていた足を引っ込めた。
彼の目線の先に、うっすらと光の帯が見える。
圓は舌打ちを一つすると、物陰に身を潜めてやり過ごす事にした。
その見回りの者はおぼつかない足取りで、落ち着き無く周りを見渡していた。
提灯に照らされた顔は、若いが引きつっており
未熟者と言って差し障りない雰囲気を醸している。
これではどちらが追われる身なのか、錯覚を起こしそうだった。
昼間の恐怖が、その身の髄まで染み入っているのだろう…
圓にその姿を嘲笑う気持ちは湧いてこなかった。
仕事を放棄していないだけでも、誉めてやるべきなのかもしれない。
ぎこちなく歩み去る彼の後姿を見送った後、天斗は
「あれなら枯れ尾花も幽霊に見えるかもな」と冗談めかして言った。
圓はただ一言「馬鹿」とだけ返事をしておいた。
どれほどの時間が経っただろうか。
少しづつ進められていた歩は実を結び、民家や人の気配が次第に薄れてゆく。
この道を抜ければ、以前連れ去られる羽目になった、あの河原に出られる。
嫌な思い出が胸を突くが、それよりも終わりが見えてきた事に圓は喜んでいた。
しかし、この河原は…やはり彼女にとって鬼門なのだろうか。
少々早まった足は、完全に死角となっていた路地を前に止まることは無く
突然横顔に眩しさを感じ、心臓を鷲掴まれたような衝撃で息を飲む。
『しまっ…!!』
しかし、息を飲んだのは見回りも同じで。
薄明かりの提灯一つでは、何が起こったのか
圓にも、見回り自身にも見えなかった。
かといって、日の下であっても全てが見えたかどうかは確証が持てないが。
ごぎ…と、何かがひしゃげる音が圓の耳に届く。
初めて聞くその音は、それより先に起きた、人が倒れ地面に打ちつけられる音
…こちらは時に圓も耳にしている音…よりも、はっきりと聞こえた。
地に倒れぴくりとも動かない見回りから、天斗がゆっくりと体を起こすと
硬直していた圓の体もようやく動きを取り戻した。…いささか動きすぎな程に。
心は、やめておけ…と囁くが、体が止まってくれない。
壊れたからくり人形のようなぎこちない動きで、倒れているものに目を向けた。
提灯の灯りで照らされた顔に、影がゆらゆらと揺れ映る。
目は軽く驚いているように見え、潰れた鼻や口元からは
だらりと血が溢れ、舌が垂れ下がり、顔の上と下とが、噛みあっていない。
そして……喉元が不自然にめり込んでいた。
なんっ…だ……これ…!!…………何…!?
………喉を潰せば、そりゃ仲間は呼べんよなぁ…。
恐慌状態の自分と、異様なほどに冷静な自分が、同時に感想を述べる。
乾いた喉奥に虫が這いずるような、ぞわぞわしたものを感じ
無理やり息を吸えば、ひゅうと細い音を起てた。
視線を感じるが…そちらに顔を向けるのはとてつもない苦労に思え
佐助の足を抱える手に、じっとりとねばつく汗が浮かんだ。
倒れたものを挟んで、鬼が彼女を見つめていた。
その左眼はなんの感慨も無く、ただ『早くこちらへ来い』とだけ語っている。
圓は喘ぐように息をつき、小さな咳を一つした。
『……おまえ…なんなんだ。……どっち、なんだ…?』
咳込む自分の背をさすってくれたのと、この者の喉を潰したのと。
喉の奥が、ひゅぅ、ひゅぅと鳴きつづけている。
声にならない問いかけの返答を求めるよう、眉根を寄せ
ぎこちなく見つめると、鬼が口元を歪ませ、ニィ…と嗤った。
瞬間、圓は頭に勢いよく血が上って行くのを自覚する。
『……なに…………何が可笑しいってんだ!!畜生!』
柳眉を吊り上げ、奥歯をぎりりと噛締め、射抜くような瞳で睨み返し
根が張ったように重く動かなかった足を踏み出した。
倒れたものに最早一瞥もくれず、その脇をすり抜けていった。
江戸を抜けても、当然気は抜けない。むしろこの先が長いと言える。
微量ながら町の明かりが届く場所で、佐助の持っていた小さな照明器具に火を灯す。
それすらも圓の気を焦らせたが、ここからは月の光も期待できぬ夜
しかも山道になると聞き、不承不承頷いた。
ほんの先も見えず、石や木の根が出っ張った道は、町中に比べ随分と歩きづらい。
それでも町中のように遠慮する事が無くなると、彼女は精一杯の速さで
…何かに追い立てられるかのように歩を進めた。
「おい…そんなに飛ばすな。後がもたねぇぞ」
圓の背後を追うように歩く天斗の耳にも、彼女の荒れた呼吸音が届いている。
小さな体で老爺を抱える姿は、今にも押し潰れそうに見えた。
しかし振り向きもせず、速度も落とそうとしないので
腕を掴もうとしたが…体全体を揺するように振り払われてしまった。
天斗は軽く溜息を吐き、しばらく思い通りにさせる事に決めた。
それほど待つ事無く、圓の足取りは心許ない物へと変化していった。
引きずりこそしないが、ほとんど上がってもいない。
それでも、歩みを止めようとだけはせず、真っ直ぐ暗闇の先を睨みつけている。
「…っあ」
自身の両足をもつれさせ、圓の体がぐらりと大きく揺れた。
両手はおぶった足を抱えているために、姿勢を上手く保てず倒れかける。
そこを、天斗は危なげなく抱き支えた。
頬に体温を感じて、圓の心臓は疲労以外でも大きく跳ね上がった。
立ち止まると、足の裏と筋に感じていた鉛のように重い痛みが一層強くなる。
なので天斗の体を押しのけ、また歩き出したいと思ったが
一向に彼は自分を解放しようとはせず…徐々に焦りと苛立ちを覚えだした。
「は…離せ…」
「圓、聞こえるか?」
自分の言は無視され、いきなりそう問い掛けられても、圓には何の事だか見当もつかず
とりあえず耳を済ませてみたが、聞こえるのは虫の音と天斗の鼓動だけだった。
「水の流れる音だ。…休憩するぞ」
「や、休んでなど……わっ、んぐっ!?」
腰に腕を回され、ぐいと力が篭められると
地面からほんの少し圓の足が浮きあがった。
その勢いで彼女の唇が天斗の鎖骨に押し付けられ、慌てて首を捻って避けた。
無理やり引き摺られ気味に連れて行かれても、両手がふさがっている以上抵抗も出来ない。
天斗の左手には照明器具が握られている。片手で、二人も支えている訳だ。
『……とんでもない、膂力だな………化物め』
地面にゆっくりとしゃがまされ、そのまま天斗が佐助の体を支えているのを見て
圓は反抗するのも面倒に思え、体を締め付けている紐を外した。
拘束による息苦しさから開放され、息を吐くと全身に脱力感を覚えた。
すると背中がずきんと痛み、損傷を激しく主張し始める。
天斗は佐助を横たわらせると「ふぅ…やれやれ」などと呟きつつ
右手を軽く振りながら、水を汲みに行った。
夜が明けると二人は元の道を外れ、細い獣道に分け入った。
夜中に歩いた道は多少荒れているとはいえ街道に違いなく
獣道に比べれば、断然歩きやすい物だった。
それでも街道では追っ手に見つかりやすい事
そして、こちらなら少しばかり近道だという事で
圓は断固として譲らず、天斗の助言に耳を貸さなかった。
天斗の懸念通り、険しい道は圓の体力を容赦なく奪っていった。
ごつごつした石ころは足を傷つけ、露に濡れた草はすべる。
好き放題に伸びた枝に頬を打たれると、赤い筋が浮かび上がった。
先導する天斗は何度か彼女を振り返り、同じ問いかけを口にした。
「…佐助を…変わるか?」
「…………いい…」
圓の答えも同じ調子で呟かれた。
ずり落ちかけた佐助の体を背負い直すと、傷が擦れるのに歯を食いしばり耐える。
ぎちぎちと食い込んでくる紐は、体を捩って微妙にずらすが、すぐにそこも痛みだす。
あれから包帯を替えたものの、痛み止めは口にしていなかった。
眠くなる事を恐れての事だったが
その代わり痛みは絶え間なく、脂汗が圓の額に浮かんでいた。
町中では、ぴんと張られた糸のような緊張感を絶えず感じていたが
ここではそれも少々緩み、良くない結果を生んでいた。
…それでも、決して弱事を言わず、歩みを止めようとはしない。
前しか見ていない瞳は虚ろで、憑かれた者の色を湛え始めていた。
泥の中を歩いているような重みを両足に感じながらも、一歩、また一歩と進む。
『…もう少し…もう少しじゃからな………』
背負った老爺に語るようで、実の所、自分自身を鼓舞していた。
ぽた
肩に何か、生暖かいものが触れた気がして
首を少しだけ後ろへと向けた。
目の前に、口から大量の血と、舌を垂れ下げた男の顔があった。
喉元が大きく落ち窪み…音にならない怨嗟の声を発する。
ぽたぽた…ぽたぽた……肩に、胸元に、どす黒い血が流れ落ちてくる。
青白く氷のような手が、絡み付いてくる。
それはひどく恐ろしい力で喉を締め上げて………
「………ひぃっ…やぁああああ――!!!」
びくんと痙攣するように、一つ体を震わせ…圓は目を覚ました。
激しい鼓動と、べたつく汗が急速に冷えていくのが感じ取れる。
足先に、細かな石の感触。
一定で、絶え間ない流水音。
肺に冷たい空気が流れ込み…無意識の内に、喉元に添えられた手が震え
ああ、息ができる……と、心から安堵した。
「大丈夫か…?」
傍らに天斗がしゃがみ、顔を覗き込んでいる。
問題ない事を示す為に起き上がろうとするが、背中が激しく痛み、呻きながら体を震わせた。
「無理して起きなくてもいいぞ」
「…いや…大丈夫だ…」
起きなくていいと言われても、圓はもう目を瞑る気にはなれず
ゆっくりと、気をつけながら上半身を起き上がらせた。
ふと見れば、腕に鳥肌が立っており…それをそっと撫でさすった。
周りを見渡すと、夕刻の朱に照らされた河原。
獣道を何とか抜け、山間に流れるこの川までたどり着き
気を失うように眠り込んだらしい。
少し離れた所で、焚き火の上に乗せられた鍋がぐつぐつと音を立て
傍には大量の枯れ枝が山を作っている。…いささか多すぎやしないだろうか。
『夢を見て叫ぶなど……不覚。……ふん、まるで童だな』
圓はわざと強く自嘲げに思い、まだ肌に残る薄ら寒さを追い出そうとした。
揺れる炎を凝視していると、天斗が湯気の立つ椀を差し出してきた。
受け取ると、中身は乾し飯を湯で戻した物。
両手で包んだ椀を通して、じんわりとした熱が伝わってくる。
「やけどすんなよ」
その言葉に、余計なお世話だと言わんばかりに軽く睨み
何度も息を吹きかけて、慎重に口へと運んだ。
……五臓六腑に染み渡るとは、この事だろうか。
自分がいかに空腹で、そしてそれに気付かないほど疲れ切っていた事に、今さら気が付く。
圓の青白かった頬に、ほんわりと赤みがさしたのを見て
天斗は微かに安堵の息を吐き…自分も椀に口をつけたのだった。
川の水で椀を濯ぎ、風呂敷に収めると、天斗は山に足を向けた。
「……どこに行くんだ?」
「焚き木を拾ってくる。お前はそこで待ってな」
「?……こんなにあるというに……まだ必要なのか?」
天斗の声は低く…それでいて、反論を許さぬ力強さがあった。
「ああ………佐助を、荼毘に付すからな」
足元の小石をじゃりと音立て、一歩踏み出す。
その刹那、圓は紺藍の袴を両手で掴み、取り縋っていた。
ひどく冷静で、冷徹な一つ目が彼女を見下ろす。
「荼毘にって…佐助を…?」
「ああ」
「佐助を………燃やすって、言うのか…!?」
「そうだ」
袴を掴む手が小刻みに揺れ、彼女の涼やかな目元も赤く揺れていた。
「い…」
「圓」
名を呼ばれ、彼女の体がびくりと震え上がった。
「圓、よく見ろ。そこに佐助はもう居ねぇんだ」
袴を掴んだまま、首をゆっくりと巡らせ…佐助を見た。
古ぼけたムシロに包まれた体は、静かに、力無く横たわっている。
それは、わざわざ口に出されなくとも、分かっていた。
それでも…自分にとって、大阪まで…せめて大阪までは共にあるのだと
それだけが願いで、支えだと言うのに。
背負った重みを感じ、少し振り向けばそこに居る。
血まみれで舌を垂らした者なんかじゃなく、佐助がそこに居るのだと。
……ずっと、思っていたかったと言うのに。
圓の中で何かが弾け、袴を引き裂かんばかりの勢いで掴みあげ、吼えた。
「…お、おまえが……お前が勝手に決めるな!!そのような権利も無いくせに!」
「無いな、権利は。…だが」
天斗は腰を屈めると圓に目線を合わせ、その両肩を強く掴んだ。
「約定はある。オレはお前らを連れて行く為に力を尽くす。
そん中でも最重要なのはお前の身。…そうだろ?でなきゃ約束は果たされねぇ」
「そ…それなら…そんな約定はもう……」
それ以上、圓は二の句を継げなかった。
…ここまでつきあわせておいて、何を今さら……。
言いよどんで、口をつぐんで…肯定も否定も出来ない状況に体を震わせる。
そんな圓に天斗の言葉は、まるで追い討ちにしか聞こえなかった。
「背中の傷…見せてみろ」
「っ!…………や……嫌だ…」
圓の口が閉じきる前に、彼女の細い肩を掴んでいた両手が降りた。
その手と共に薄紅梅の着物が腰まで引きずり下ろされ
柔らかな膨らみをふるりと揺らし、冷汗で湿った肌を秋風に晒した。
首の後ろに回された大きな手により、圓の顔は天斗の胸に押し付けられ
身動きが取れない間に包帯が剥ぎ取られる。
傷にべったりと貼り付いていた薬草が剥がれ、肌の引きつる痛みに息を飲んだ。
…あまりの速さに、悲鳴一つあげる間が無かった。
痛みと、羞恥と、怒りを内包した涙が一筋、彼女の頬を伝い落ちていく。
せめてもの反抗で、天斗の胸に震える爪をめり込ませたが
彼はそんな事を意にも介さず、握った包帯を突きつけた。
「見な」
命令口調に憤慨する心とは裏腹に、圓の目は包帯に吸い寄せられた。
変色した薬草と、白い布地に付着した血液。それに、どろりとした黄染み…。
それらは異様な臭いを放ち、こんな物が体に貼りついていたなど考えたくもなかった。
「傷が広がって、膿んでやがる…。これ以上無理したら……死ぬかもな」
「!!………な…」
何を大げさな…と、笑い飛ばしてやりたかった。
が、天斗の目は冗談を挟み込めるような物ではない。
「それに、この痣…」
天斗が圓の肩に視線をおとし、首を押さえつけていた手を軽く滑らせると
響くような痛みに強く目を瞑り、体を硬直させくぐもった呻きを漏らした。
そこには紐による締めつけで出来た、赤黒い痣がくっきりと付いていた。
「気が済めば…と思っていたが、もうこれ以上は駄目だ」
「…で、でも……し…死ぬと決まったわけでは……」
天斗の胸に突き立てた指先から、次第に力が抜け、震えだけが残った。
言い訳じみた事を口にする圓自身、背中の異様な痛みは尋常でないと感じている。
それでも……納得は出来なかったから。
そんな彼女に対し天斗の口を突いて出たのは、抑揚も、容赦もない言葉だった。
「そうかよ。体が腐れるまで締めつけて…もしかして償いのつもりか…?
そりゃ殊勝なこった。だがな、そんなもん佐助を弔うのに何の足しにもならんぜ」
胸を抉るような言葉に頭がぐらりと揺れる。
引きつるような痛みがはらわたを撫で、血反吐が溢れ出そうだった。
…こんなにも痛いのは、それが寸分違いなく的を射て
嫌になるくらい、自分自身わかりきっていた事だから…なのだが
「……お前が……天斗が背負うのも、駄目か…?」
それでも圓は哀願し続ける。…まるで命乞いだと、冷静な声が頭によぎった。
「………お前がどうしてもと言うんなら、そうしてやるさ…。
…だがな、どうあっても大坂に着く前には荼毘に付してやらなきゃならねぇ。
佐助のためにも……な」
「佐助の……ため………?」
「ああ…」
天斗の声がほんの少し緩み、どことなく子供をあやす風に変わっていた。
秋風がなるべく圓の体に触れないよう、気にしながら。
「佐助の体をそのまま埋葬するとなると、大穴を掘らにゃならんよな?
そうなると人目につきやすい……。大阪のような町では、特に」
「……………」
「…それに、もう一つ」
天斗の声が下がる。
その声に圓はほんの少しだけ顔を上げ、面前の男を伺った。
目が合うと、一瞬辛そうな苦い表情が浮かぶ。
「…そのまま埋めて、野犬などに掘り返されては……嫌だよな…」
「!!」
「埋めた後、ずっとそこに居られるわけじゃない。
墓守はいないんだ…そういう事が、起こらんとも限らん」
…墓を掘り返される………
圓の脳裏にその様が閃くように映し出され
あまりの昏さ、物悲しさに、おもわず自らの口と胸元を押さえこんだ。
唇は冷え、心臓は中から叩きつけるように鳴っている。
自らの体の柔らか味に触れた後、圓はじわり…と身を引き、天斗の腕から抜け出た。
秋風が剥き出しの上半身を弄り、長い髪を揺らす。
「…それでも…オレ……オレ…は…………嫌だぁっ!!」
天斗に背を向け、圓は崩れ落ちるように佐助の体に取り縋った。
熱い涙が落ち、古ぼけたムシロの表面に付いた埃を巻き込む。
ささくれた藁が体の柔らかい所を擦り、傷つけても
構わず佐助の上半身を起こすかのように抱きしめた。
「圓…」
「うっ…うう……っく……。も、もう……ほって……おいて…」
それでも…背中の激痛はいかんともしがたい。
支える腕に上手く力が入らず、佐助の体はずるり…と傾く。
圓は焦り、急いで抱きかかえ直した。
じゃりん
「…………え…?」
傾いた佐助の胸元から、なにかが抜け落ちた。
上品な杜若色の布で包まれたそれは、とてもとても、大切な物のように見えた。
水音の響く河原の小石が、それらを遠くに飛び散らす事を抑えてくれた。
「銭…が………六枚……」
「……六文銭…か」
六文銭は、六道銭。
三途の川を船で渡る際の御代……そしてそれは、真田の旗印。
圓はそれを、震えの収まらない手で、ゆっくりと拾い上げた。
何の変哲も無い、銭六枚……。
布の紫中、鈍く光るそれに水滴が落ちた。
「…こんな…もの…を……佐助………お前、用意して………
……ずっと………ずっと持っていたのかよ……!?
………そん…そんなに………そんなにオレじゃ駄目かぁぁ!!」
圓は握り締めたそれを、地面に叩きつけようとした。
…が、振り上げられた腕が下ろされる事は無く
握られた物は、汗の滲む手の平に食い込まんばかりだった。
夜が明けると、圓の心を写し取ったような陰鬱な曇り空が広がっていた。
骨壷などという気の効いた物がある筈もなく
包帯代わりの布を広げ、そこに拾い集めた骨を包んだ。
そっと胸に抱き、前を行く天斗について歩く姿は、正しく葬列のそれだった。
泣き腫らした目を軽く伏せ、黙って山道を歩いていると
昨夜の事が、思い出す気はなくとも脳裏に垂れ流されていった。
背中の膿を搾り出し、熱湯につけた布を当てる拷問のような治療を終え
無理やり痛み止めを口にねじ込まれた。
それからは全身が鈍く、重く
まるで何かを背負っているかのような感覚が体を支配した。
山間の河原にも闇が落ち、月はほとんど無く
焚き火の光だけが辛うじて辺りを照らしている。
この河原に辿り着くには、あの獣道を通るしかない。
たとえ、酔狂な者が山道を越えて来たとしても
盛大に鳴く虫達が、その事を教えてくれるだろう。
だが……追っ手の事も、虫の音も、月も…何もかもがどうでも良く
淡々と準備を進める天斗を、ただ朦朧とした頭で見つめるだけだった。
支度が整うと、六文銭を佐助の胸元に戻し、髪を一房、切り落とした。
白く、細く………、年老いた人の、弱い…髪だった。
……爪の一欠だろうとオレの元になんぞ居たくはないかもしれんが…
そう思いもしたが、結局それは自分の正した衿にしまい込み
今もこの胸元に、存在している。
火は自分でつけた。
ほんの目前に炎があるというのに、歯の根が合わないほど、寒い。
寒くて…あまりにも寒くて…暖を取りたくて、炎に向け足を一歩踏み出し
……次の瞬間には、後ろに強く引っ張られていた。
太い腕が背後から、体を締め付けるように回され……
暖かさと、恐怖が身体を覆った。
オレは後ろを恐ろしくて振り向けず、大声でわめいた。
…何を言っていたかは、覚えていない。
ただただ、わめいて、わめき散して、終いには大声で泣いて
回された腕に涙がぼたぼた垂れるのも構わず泣きじゃくって…
…何もそれ以上は覚えていない。
ただ、分かっているのは、あれ程までに泣いたのは生まれて初めてで
この先はもう二度と有り得ないだろう…という事だ。
「…そうだ……大丈夫…だ……。もぅ………」
圓は自身を客観的に見返し、そう結論付けて呟いたのだった。
…何が大丈夫なのかは分からないまま。
結局、まったく客観的とは言えない…無意味な思考はそこで閉じた。
そのまま二人は出来る限りの人目を避け、歩き続けた。
二人の事情など関係なく、また日は暮れ、昇る。
幸いにも圓の傷はあれ以上悪化する事はなかった。
元々基礎体力があり、回復も早い。表面上は彼女の思ったとおり「大丈夫」であった。
それもこれも、佐助の教育の賜物…なのだろう。
大阪に近づくにつれ、さすがに人とすれ違う回数も増えてきていた。
急ぎ足の商人、物見遊山の老人、遊び人風の男達、眠そうに目を擦る子供…
天斗らと同じく男女の二人組もいた。
圓はそれらを、ほとんど顔を上げる事無くやり過ごす。
老若男女、様々な人間が居たが、どのような者でも例外なく
腰から下しか見えず、彼女を不安にさせた点では同じだった。
また一人何事もなくすれ違い、圓はほっと息を吐いた。
すると前を歩いていた天斗が突然足を止め、俯き加減でいた圓は気付かないまま
背に担がれた鍋におでこをにぶつける羽目になった。
くわゎん、と間の抜けた音が響く。
「い…いってぇ…!……………急に止まんなよっ」
「前を見ていないのが悪い。にしても…お前、さっきから挙動不審すぎるぜ」
「きょ…!?…な、なんだよ!目立たないようにしてるだけだろ!!」
精一杯の自己防衛をあっさり一蹴され、圓は不愉快そうに語尾を荒げ
…それでも声は落し気味に反論した。
その反論に、天斗はいかにも仕方ない…と言いたげな顔をする。
「馬鹿、こういう所は堂々としておいたほうが逆に目立たねぇんだよ」
「…そうは言っても…顔を見られて、もしかしたら……」
「気持ちは分かるが、それじゃ逆効果だ」
「逆効果…って……?」
「………あのぅ、すみません〜……」
圓が続く言葉を口にしようとした時、突然おっとりとした声が掛けられた。
振り向いた天斗の眼下に、穏やかな顔の老婆が一人、半紙を手に立っている。
圓は条件反射で顔を伏せ、天斗の背に隠れるように身を縮こませてしまった。
「あいすみませんねぇ、お話中に…」
「いや、構わんよ。どうかしたかい?」
「道をお尋ねしたくて…ここに行くにはどうすれば宜しいでしょうかねぇ…?」
老婆は半紙を天斗に見せながら、のんびりと尋ねた。
圓は黙り込み、天斗が立ち止まったせいで面倒に巻き込まれた…と唇を尖らせた。
そんな彼女の思いも知らず、二人の会話は続いている。
「オレ達もこの辺に詳しい訳じゃないが…。
ああ、ここなら……そこを出て真っ直ぐ行きゃ、石の目印が見える筈だ。
それを右に曲がればいい。……これで分かるか?なんなら途中まで案内…」
「……?…どうなされました?」
「あ、いや…。案内は出来ないんだ、悪い…」
半紙を見たり、今まで歩いてきた道の遠くを指差したりしながら
交わされる天斗と老婆の会話を耳にして、圓は目を丸くしていた。
ひどく驚く事が、二つ。
この状況を分かっていながら、天斗が案内役を買って出ようとした事。
そして、口に出した事を引っ込めた事……。
特に後者は、なぜだか圓に奇妙な違和感を抱かせたのだった。
「いえいえ…ご丁寧にありがとうございますねぇ。大体分かりましたゆえ
ご心配には及びませんよ…。御免なさいねぇ、奥様をお待たせして」
先程の違和感がなんなのか頭を捻っていた圓は、突然耳に飛び込んで来た
老婆の言葉の意味合いを飲み込めず、きょとんとした顔をしていた。
「先程からお背中に隠れるように…照れ屋さんですのねぇ。可愛らしい事…」
「ああ、人見知りが激しくてね。そんな訳で婆さん、すまないな」
「いいえぇ…それでは、失礼いたしますねぇ」
会釈をして歩み去る老婆に、軽く手を上げ答えた天斗は
背後で固まっている圓に向け「…な?」と声をかけた。
「な……って…何が…?今の婆さんは目が悪そうだったけど……
…と云うか!お、お前………なにを出鱈目いっておるのだ!?」
「いいじゃねぇか別に。あそこで否定しても説明が面倒だろ」
悪びれもせず言う天斗に、圓は心から呆れかえった。
そして思う。…こいつはやはり、ものすごい大嘘つきだ…と。
もう少し文句を言ってやらないと、なんとなく腹が収まらない。
圓は口を開きかけたが、その刹那、天斗に手首を掴まれていた。
天斗は何も言わず、老婆とは逆の方向へと少々足早に歩きだした。
驚いた顔のまま引っ張られる圓の目に、道から外れ、人気の無い風景が広がる。
「た…天斗…?」
「しっ」
何がなんだか分からず、胸に抱いた包みを持つ手に力がこもる。
不安げな目で周りを見渡すと…突然、伸びっぱなしの草を揺らし
三人の見知らぬ男たちが沸き出てきた。
品も無ければ柄も悪い。とりあえず一見で人に好かれるようには見えない。
あまりにも分かりやすい外面の男たちだった。
町を歩けば、人が勝手に避けてくれて便利と言えば便利かもしれないが…。
その者たちの好奇の目は、自分に注がれているのだと圓は感じ取った。
歩き出したのと同じ唐突さで足を止めた天斗に引っ張られ
気付けば彼の背中に隠されるような格好になっていた。
大きな背に阻まれ、正面を見ることは出来ないが
男たちがにやにやと下卑た笑いを浮かべ、近づいて来ているのは分かった。
「へへ…兄さん、わざわざ人気の無い所に来てくれるやなんて…親切だねぇ」
「そうでもないけどな」
嘲りを含んだ男の言葉に、天斗は軽く笑って答えた。
ちき…と、鍔鳴りの音が響き、威圧するように刀が引き抜かれるのを
天斗は変わらぬ笑顔で見つめている。
「兄さんよぅ…その女、ちょいと貸してくれへんかなぁ」
「左眼も潰されたかぁ無いなら、よぅ」
「…嬢ちゃん、大人しそうな割りに足も腕も剥き出しで…あんたの趣味か?」
…男たちは完全に調子に乗っていた。
恐怖のあまり、笑い顔が貼りついているのだと思い込める程
無防備に突っ立っている若者の顔は穏やかだったから。
そして、身を隠している女子の顔は、恐怖に引き攣って見えたから。
実際は、違う。一片たりとも合わさる所など存在してはいなかったが。
圓の顔は引き攣っていた。
……怒りで。
『…貸して…くれだと…?大人しそう……だって!?
この着物が…天斗の趣味??………この着物は佐助の趣味だ、馬鹿野郎!!』
オレは黒や紺の忍装束で良いと言うたのに…。
『目立つにはこの色が宜しいかと』などとうそぶいて
このような突拍子もない色味にしおって…こんな、いかにも女子の好みそうな…
『………って、今はそのような事を考えている場合ではない、か』
状況に反し、脱線しそうになる思考を圓は軽く首を振って正した。
…男は形状について語っていたのに
色の事を考えているという間違いにも気付かぬままだ。
『にしても貸せってなんだ?…こいつらは、オレに何をしようとしてるんだ…?』
圓は、心から分からないでいた。
それでも…女を物のように言い、暴力により奪おうとして憚らない
下衆共への本能的な嫌悪感は全身を巡り、総毛立たせていた。
そして、分かった事もあった。
天斗が先程、老婆の道案内を言い出しかけ、断った事。
つけられている事に気付き、老婆を巻き込まないようにしたのだろう…と。
出来ない事は元より口にしない…これだったのだ、あの違和感は。
圓は、目前の背中をゆっくりと見つめ、軽く息を吐いた。
そうと分かればこれ以上、この場にいる必要などどこにも無い。
自分たちも、こやつらも。
「…天斗、地味に手早く」
「あいよ」
「な?言っただろ」
「…だから…『な?』と言われても分からぬわ。さっきから」
呼吸一つ乱さず、いつも通りの飄々とした顔をして言うのに
圓は半目で睨み、うんざりした様子で返答した。
二人は何事も無かったかのように街道へと戻り、話しながら歩いている。
鳥の鳴き声が秋風とともに響き、空は蒼く高かった。
「逆効果って事な」
「…うーん……。確かに勘違いはされたが…逆効果ってのはなぁ…?」
圓はいまいち納得いかずに考え込み、首を捻る。
包みを胸に抱いていなければ、きっと腕を組んでいる事だろう。
そんな彼女の様子を横目に、天斗は微かに微笑んでいた。
『……いくら考えたって分からんさ…お前自身には』
自分の顔ばかりは、どう努力した所で見えはしない…。
天斗は視線を前に戻しながら胸中で呟き、数刻前の出来事を脳裏に描いた。
まだ朝靄の残る街道を、天斗は前を見据えて歩いていた。
背後を歩く圓から言葉は発せられず、顔も合わせていない。
それは別段気にするほどの事でもなかった。
しかし、何度も同じ事が起こり、天斗もようやく不審に思った。
道ですれ違う者が、なぜだかこぞって振り返るのだ。
急ぎ足だった商人風の男はぽかんと口を開け、間抜け面を晒し
野菜を担いだ中年の女は、ひどく心配そうに立ち止まった。
長き月日をその顔に刻み、様々なものを目にして来たであろう老人が
しみじみと「早起きは三文の得よな」と呟くのを聞いた。
様々な表情を、様々な人間が見せる。
…出来るだけ目立たぬよう、早朝を狙って歩いている意味がまるで無い。
天斗は表面上は普通の顔をしつつも、この不可解な現象に頭を捻っていた。
目立つ物といえば…精々、着物に付着した血ぐらいなものか。
しかしそれも、ここに至るまでの間
水に浸した布で叩き、薄めてあった。それほど目立つとも思えない。
…だいたい、普通の人間において、それに三文分の価値がある筈も無い。
また一人、すれ違った。
若い男が顔を赤らめ…露骨に見つめる視線の先。
天斗はその男を振り返り、そのまま、背後へと首を巡らせた。
足は止めず……そしてまたゆっくりと、正面に向き直る。
早朝独特の白っぽい風景が、ますますもって白く滲むような感覚だった。
『…なんて……顔してやがる…』
縋るように包みを胸に抱き、それに注がれるように伏せられた漆黒の瞳は
長い睫に縁取られ、ひたむきに、切なげに揺れ動いて見えた。
色をなくした肌にあって、閉じられた唇だけがひどく紅く、濡れている。
けぶる朝靄を纏うその姿はどこまでも儚げで、これに血が通った暖かさはあるのか
そこに間違いなく実在しているのか、触れて確認したい気持ちに囚われた。
それらを全て振り切って前を向くのは、さしもの天斗も骨が折れる行為だった。
そんな『大人しそう』に見える佇まいと、奇妙に大胆な形の着物。
薄紅梅に、揺れ動く緑の黒髪は互いに映えてよく似合っている。
思量という物が不足している者に於いては
不埒な考えを胸に宿すのも、致し方ないのかもしれない。
…もっとも、だからと言って赦される筈はないのだが。
朝靄もすっかり消えうせ、秋独特の真っ直ぐ差し込む日の下で
眉根を寄せつつうんうん唸っている今の姿には、その影も無い。
天斗はもう一度横目で圓を見やり、こっそりと息を吐く。
秋の日が眩く、天斗は目を細め
ふと胸をよぎる思いに注視した。
『…これがもし、正しく姫君として生きていたなら…』
きっとそちらの生に於いても、血が流されたであろう事は、想像に難くなかった。
『もしも』の話など、この上なく無意味だと分かりきっていて
普段は簡単に止められるそれを、なぜか今は押し留められないでいた。
天斗の思考は、じっとりと暗部に落ちていく。
「……おい……どうした…?……おっかない顔をして……」
怪訝そうに、そして少し不安そうな声が耳に届く。
遠くを見ていた目だけでなく顔も向け、真っ直ぐ見上げてくる瞳を覗き込めば
面白くない妄想に真剣になり、顔を歪ませていた自分を知る。
自分の顔ばかりは、どう努力した所で見えはしない…。
天斗は、圓の事をどうこう言えた義理じゃないと、薄く苦笑した。
結局、考えあぐねた所で答えは出ず、天斗も人の悪い笑みを浮かべるばかりで
答えてはくれず、終いに考えるのが面倒くさくなってしまった。
『ようは、下を向いていなければ良いのだろ!…まったく…』
様々な思惑があったものの、結果…圓は父がこの世を去った
かの地へ堂々と、胸を張るかのように前を見て、立ち入る事が出来たのだった。
…そこは、ただただ秋風に身を捩る木々が擦れあう音の響く森。
人気が無く、緑烟るさまに、江戸の廃屋が思い出される。
風に煽られる髪を撫で付け、圓はゆっくりと周りを見渡した。
その瞳には、これといった感慨もない。
「本当にここでいいのか?」
「……ああ…。この辺に…親父の陣があったようだし…」
天斗の問いかけに呟いて、もう一度大きく周りを見渡した後
無造作にしゃがみこむと、傍らにそっと包みを置いた。
そして、地面に向けて両手をつけ、土を掻こうとしたが
予想以上に硬く、少々顔をしかめた。
「ここまで来たら、討たれたという地まで行くのも良いと思うが」
言いつつも、天斗は同意を求めている訳ではない事を示すように
圓と同じくしゃがみこみ、地面に指を立てた。
「……あまりに近うても、佐助の事じゃ、遠慮するであろう…。
……それに…正直言えば…。オレは親父がどこでどう討たれたか、よう知らん」
白く汚れた自身の指先を、ひどく遠い物のように見つめながら呟く。
「いや、聞き及んではおるぞ?神社がどうのとか…な……。
けど……それは、佐助の口から聞かされた話ではないから……オレは………」
少し苦しげに、自嘲気味の笑みを浮かべた。
「…仇を討つと、あれほど息巻いておった割には……な」
独り言のように紡がれる言葉に、天斗はなんの返答もせず
手だけを黙々と動かしている。
ふと圓は『苦無を使えば穴が掘れる…』と思いついたが
手の傷に土が触れるのも構わずに、どんどん掘り進んでいる天斗を見て
その事を口に出すのはやめた。
表面の硬い所を過ぎれば、後は柔らかな茶色の土。
圓は掘るよりも、邪魔な土を脇へどかす事に専念した。
たいした時間も掛からず、かなりの深度を誇る穴が出来上がった。
その穴を覗き込み、これなら掘り返される心配はないな…と思い
一つの懸念を払拭できた安心感に浸りつつも、圓はわざと意地悪い口調で言った。
「これはまた……天斗、お前は鬼だかモグラだかわからん奴だのぉ」
「ああ、たまに右目を開くと眩しいのはそのせいか」
「…ふん」
軽く返され、圓はそれ以上口を開かず、穴から包みへと視線を移した。
とても軽いそれを、そっと両手で包みこむ。
胸の奥底からぐっとこみ上げてくる物があるが…それは唇を噛む事で堪え
丁重に優しく、穴の底へと腕を伸ばし、安置した。
屈みこんだ背中が痛んでも、取りこぼす事はなく
むしろ包みを掴んだ両手を引き離すのに労力を費やした。
ぎこちなく体を起こし、しばらくそのまま俯いていたが
視線を無理やり穴底から外すように、傍らの土の山に手をかける。
両手に盛られた土が、少しづつ穴へと消えてゆく…。
ゆっくりと繰り返されるそれを、天斗は手出しせずに見つめていた。
塞がった地面に適当な石を乗せ、目を瞑り、静かに手を合わせると
言いたかった事は山のようにあった筈なのに
ただ『すまなかった』の一言しか、心に浮かぶものは無かった。
手向ける花も無ければ線香も無い…。
数日もすれば、周りの自然に埋没するであろう景色。
圓はそれを、生涯忘れまいと、強くしっかりと目に焼き付けた。
それが不意にじわりと歪み…あわてて腕で拭い取った。
「……行こう…人が来ぬうちに…」
立ち上がり、震える右手で無意識に
佐助の髪が納まっている胸元を押さえながら、圓は小さく呟いた。
墓に向けた小さな背中を見上げ、天斗も無言のまま立ち上がる。
一度だけ足を止め、振りかえったきり…圓が二度と後ろを見ることは無かった。