「お、降ろして下さい」  
蘭は自分を片手で抱えあげている男に向け  
切羽詰った声で、そう告げた。  
 
「その脚じゃ立つことも出来やしないだろ」  
返った答えも声音も、ひどくそっけない。  
それでも彼女はめげる事なく、訴え続け  
「いえ、違います…!そうではなくて…」  
話しながらも、忙しなく首を巡らせた。  
「…あ!あれ…あの枝が落ちているところに降ろして!」  
身を乗り出し、目的のものに対し指をさすと  
細く柔らかい緋色の髪が、大きく揺れた。  
その仕草は、何かをねだる駄々っ子にも似て  
内心みっともないと思いつつも、構っていられなかった。  
 
必死さが伝わったのか、男は軽く苦笑して  
いわれた通りに動いてくれた。  
地面にゆっくりと降ろされた彼女は  
枝に両の手を伸ばそうとし、そこでようやく気が付いた。  
自分が刀を痛いくらいに握り締めていたことに。  
 
見詰め、少しばかり躊躇して、そっと地面に置く。  
鞘に汗が付いてしまっていることだろう…。  
綺麗に拭かなければと頭をよぎるが  
今はいったん、その思考を中断した。  
 
すぐにさま枝を手に取り  
軽く曲げたり叩いたりして状態を調べる。  
これなら使えそうである。蘭は一つ息をはいた。  
「腕を…折れたところを見せて下さい」  
彼女は身につけていた風呂敷包みを解きながら  
……脚は動かせないので、条件付きではあったが  
てきぱきと働き始めた。  
 
最早、日は落ち  
辛うじて互いの姿が確認できる程度の明るさである。  
焦れた理由はこれだった。暗くては治療も困難になる。  
蘭は逸る心を抑えようと勤めながら  
差し出された左腕を取り、慎重に袖をまくった。  
「……!」  
鳶色の瞳が見開かれ、痛々しげに細められた。  
傷は彼女の予想を超えた酷さだった。  
肉は裂け、白いものが覗いている。  
 
この程度の流血で済んでいること……  
片腕で、あの急流から上がって来れたこと……  
なによりも、一命を取留めたこと……  
何もかもが不気味なほどに不思議だ。  
 
しかし、戸惑いを見せたのはその一瞬だけで。  
普通の女性ならば、目を背けてしまうような傷にも  
冷淡なほどに対応してみせた。  
持ち合わせていた清潔な布で止血をし  
長襦袢の袖を裂き、それに枝を当て、しっかりと巻きつける。  
 
蘭は、長く医師の元で暮らしてきた女性だった。  
幼くして両親をなくし、途方にくれていた彼女を  
その医師は迎え入れた上に教育まで施してくれた。  
先端の西洋医療は彼女の実となり  
それもあって、大切な人の傍仕えを任されたのだ。  
正に…それは蘭の誇りだった。  
しかし、まさか、こんな形で役に立つとは…  
だが今の彼女に、そのような皮肉を思う余裕はなかった。  
 
風呂敷を使って腕を固定することにした。  
もともと、取るものとりあえずといった風体で飛び出し  
大した荷物は持ち合わせていない。  
懐に入るものは持っていけば良し  
邪魔になるものなら、ここに置いていけばいい。  
大雑把に考えをまとめた蘭は、男に  
「頭を少し、下げてもらえますか?」と声をかけた。  
 
両手に掴んだ風呂敷の端を、首の後ろで結べば終わり。  
骨折の、適切な処置を行う為に、両腕を伸ばした。  
そんな彼女の頬に、男の髪が触れ  
そろりと優しく撫でるように揺らめく。  
取り落としそうになった布端を、彼女は辛うじて持ち直した。  
――傍から見れば、男の首に  
女がしがみついている様に見えただろうか。  
 
徐々に光を失う空に追われ、かっかとしていた頭が  
つと……冷えた。  
 
『なに…を…しているの、だろうか……わたしは…。  
………わたしたちは……』  
 
怨嗟に突き動かされていた女を、負傷してまで救った男。  
仇の男を、治療する女。  
互いを覆うのは、突き刺さるような違和感と矛盾。  
だから互いに何の言葉もなかった。  
何か口にしたら、何もかもが狂いそうである。  
 
ただ、治療が終わり、また抱え上げられた彼女は  
「見事な手際だな…」との、囁きを…  
本当に小さな囁きを、耳にしたのだった。  
 
 
山を下ることになった。  
ここまでの道すがら、民家や旅籠を何軒か目にしている。  
何とか辿り着き、一刻も早く休ませねばならない。  
蘭は、医師の娘という立場と責任感が  
自分を駆り立てているのだと、そう思うことにした。  
 
山道は闇に溶け、木々がその色を更に深める。  
もう、どちらに向かっているのかすら、分からない。  
薄気味悪い虫の音が、絶えず背後から追ってくるかのようで  
密かに唾液を飲み込み、強く刀を握り締めた。  
 
それにしても…と思う。  
自分を抱えた男の片腕は逞しく、揺るぎない。  
重いほうではないにしろ、成人女性を  
こうも易々と持ち運んでしまうとは、やはり普通ではない。  
 
――これまでも、そうだった。  
ただただ、置いて行かれることが無いようにと  
必死でその背中を追ってきた。  
いつだって堂々として、乱れることの無い足取り。  
夏の日盛りにも、立ち振る舞いから疲れは見られない。  
腹立たしい程に。  
かわいくない……と思える程に。  
しかも、今までの歩みは、本気の物ではなかったらしい……。  
 
男の肩に添えられた蘭の手が、ぴくりと揺れた。  
『……いけない…』  
白い綿服越しに伝わってくる、汗の感触。  
それに先程から、微かではあるが呼吸の乱れがある。  
足取りも、当然ではあるが……鈍い。  
平素とは明らかに異なる彼の様子に、彼女は躰を強張らせた。  
 
骨を損傷するということは、それだけでも大事ではあるが  
なにより、裂傷から入り込んだ毒が躰を蝕むのが恐ろしいのだった。  
酷い熱が出る。時として耐え切れず死に至る。  
そもそも…彼の傷は、常人ならば痛みでのた打ち回っていても  
おかしくないほど重症なのだ。  
こんな風に人ひとり抱えて歩くなど、正気の沙汰ではない。  
 
それでも。  
蘭はただ、耐えるより他なかった。  
喉まで出かかった言葉……  
『私を置いていって』という、言葉。  
それを必死で飲み込もうと、耐えていた。  
 
口にした所でどうなるか……子供でも分かろうというもの。  
今更置いていく位なら、元より助けたりなどするものか。  
彼女はきつく自分に言い聞かせ、ぐっと唇を縫い縛った。  
 
鳶色の瞳が、闇を幾度も彷徨った。  
……どうか……どうか……  
無意味な言葉を飲み込んだのち、脳裏に木霊すのは  
救いを求める自身の声だった。  
『どうか、誰でもいい、どうか、助けて…!!』  
刀を握る指先が、男の肩に触れる指先が、ひどく熱い。  
彼女はひたすらに、祈り続けた。  
 
――けれども…どうだろうか。  
距離があるとはいえ、いまは戦の最中だ。  
はたして門戸を開いてくれる者など、いるのだろうか?  
『それに……ほら』  
必死に祈り続ける蘭に、ひどく冷酷な蘭が  
まるで他人事のように囁きかける。  
『私がいたら…きっとまた、駄目になるんじゃない…?』  
 
血流のように赤い髪、瞳はまた、鳥翼に似た赤茶に透け  
ただそこに居るだけで、忌みものとして見られてきた。  
自分の存在は……何度も良くない結末を招いてきた……。  
「…っ…く…」  
拳に掴んだ泥のように、食い縛った口元から、呻きが漏れる。  
かちかちり、と、歯が鳴った。  
 
………息が詰まる………。  
 
「大丈夫か?」  
突然聞こえた人の声に、彼女はびくりと躰を震わせ  
弾かれたように顔を上げた。  
ほんの間近に、自分を抱きかかえる男の顔。  
無精髭を生やしていても、どこか童顔に見える、その顔。  
目が合い…彼は微かに、疲れの滲む笑みを浮かべた。  
 
――ああ、初めてだ。  
初めてこの人の顔を見た。  
 
蘭はまず、そう思った。……そして  
『大丈夫でないのは、そちらのほうでしょう!?』  
そう怒鳴りつけてやりたいと、溶岩のような感情が迫り上ってきた。  
 
俯いた彼女は、耐えた。……耐え続けていた。  
 
ぼやりと、浮かぶ光は狐火のようで。  
それを目にした初めは、何かの見間違いかと蘭は思った。  
だが、凝視をしても滲む光は消えもせず、たしかに存在している。  
「あ…明かり…ですよね…?」  
「…のようだな」  
男は立ち止まり、じっと光を見据えている。  
自然、彼女の視線もその先に釘付けになった。  
 
明かりを見つけた高揚感が次第にしぼんでいく。  
見詰める先は随分と山深く、高い草が茂っており  
日中であったなら、存在にすら気付かなかっただろうと思われた。  
不用意に近づいていいものか…蘭には判断がつかない。  
「ま、行くだけでも行ってみるか」  
なので、彼がそう呟いて歩を進めても  
彼女はなんの答えも返せずにいたのだった。  
 
 
近づくにつれ、その建物の有様が分かってくると  
彼女はただ素直に驚き、目を丸くしていた。  
「…大きな…お屋敷…ですね……」  
「……でかいな…」  
間の抜けたやり取りの後、二人は黙ってそれを見上げた。  
敷地の広さもなかなかではあるが、それよりも  
周りを取り囲む、高い塀に目を奪われる。  
そして、これまた大きく立派な門がそびえ立つ。  
…こんな山奥に、なんと物々しい…。  
どなたか要人の別宅か何かだろうか。  
蘭は塀の間から漏れ出ている光を見詰め、溜息をついた。  
 
とても相手にして貰えるとは思えなかった。  
ここは諦めようと提案すべく、彼女は口を開きかけたが  
それより早く、一歩前に出た男の行動に息を呑む。  
ごすん!……と鈍い音。  
何を思ったか、門に一撃、蹴りを喰らわせたのだった。  
「……なっ…」  
まるで自分が殴られでもしたかのように  
その音は、彼女の鼓膜を揺らし続けていた。  
 
「………なな……なにをするんですかっ!?」  
蘭の声は、ほとんど悲鳴に近い。  
それに対し、男は『耳元で叫ぶな』といいたげな顔を見せ  
悪びれもせず、問いに答えた。  
「呼んでも聞こえんと思うしな。こうすりゃ誰か気付くだろ」  
また一発、がつんと大きな音を立て、門に蹴りが入る。  
「ちょっ…!やめ、やめてっ!駄目ですよ!!」  
「仕方ないだろ、両手とも塞がってんだから」  
 
――なんなの!?この人は!!  
ものすごく図太いのか、それとも只の考えなしか。  
これでは、助けを請うているというより  
喧嘩でも押し売りに来たかのようだ。  
「…なんだいなんだい…?全くすごい音だねぇ」  
必死で彼の綿服を掴み、狼藉をやめさせようとした蘭は  
門の開く音とともに聞こえた声に、ぎくりと躰を震わせた。  
 
年の頃は四十に近い、恰幅の良い女性だった。  
『肝っ玉の据わったお袋さん』という  
形容辞がぴたりと当てはまるような外見である。  
そしてその背後には、獲物を手にした若い衆…。  
蘭の背筋に、冷たいものが流れていった。  
 
「あれま、あんたら二人だけ?  
なんか木槌でぶっ叩いてるような音がしてたんだけど」  
その中年女はゆるりと首を巡らせ、周りを確認したのち  
二人をまっすぐ見詰めながら歩み寄ってきた。  
「…お、女将さん!そんな近づいたらあきませんて!!」  
控えていた若者の一人が、焦った声を上げた。  
先頭立って出て来たところといい  
どうやら外見だけでなく、本当に女傑のようである。  
 
「ちょいと兄さん、門を壊す気だったのかい?」  
「ああ…その手もあったな」  
女将さんと呼ばれた中年女と、蘭を抱える男のやり取りは  
剣呑な内容とは裏腹に、どこかのんびりしたものだった。  
「あはは、やんちゃだねぇ」  
屈託のない女主人の笑い声に、男もニッと笑ってみせる。  
 
唖然と成り行きを見守る若衆とは違い  
蘭一人だけは、冷や水を被ったような状態であった。  
慌てて男の襟元を引っ張ると  
『…あ、あなたは黙っていて!』と、耳元で鋭く囁き  
きょとんとした顔を見せた女将に対し、勢いよく頭を下げた。  
 
「夜分遅くに突然のお騒がせ、大変申し訳ございません。  
私共は、旅の者にございます…。  
先の道で怪我を負い、難儀をいたしておりました。  
焦るあまりの非礼、なにとぞご容赦下さいませ」  
丁重な謝罪を述べたつもりの蘭であったが  
抱え上げられたままなので  
いささか誠意の感じられない姿だったかもしれない。  
ともかく『なんとか角を立てずにこの場を後にしたい』という  
気持ちだけでも伝われば……と、強い願いは篭められていた。  
 
ゆっくり頭を上げると、すぐ目の前に女将の顔。  
たじろぐ蘭は思わず男にしがみついてしまった。  
「…あっ、あのっ……」  
「へぇ〜…」  
じろじろと、無遠慮に見上げる先は  
白い髪飾りで括られている、緋色の髪。  
 
蘭の顔が、あからさまに凍りついた。  
女将だけでなく、控える者たちもまた、物珍しげな視線を注ぐ。  
それは千本の針であるかのように感じられた。  
…考えすぎなのかもしれない。…勘違いかもしれない。  
しかし、心身共に疲労しきっている彼女には  
ひどく重く、堪えるものであった。  
動揺は表面に現れ始め、刀を掴む指先が、かたかたと震えた。  
 
『……私が居たのでは…どこに行ったとて…同じ事…』  
凍えるような絶望感が、五臓に染み入っていく。  
この冷たさを、彼女は今まで幾度も味わってきた。  
『やはり……私に出来ることといったら……』  
ふっと弱い息をはき、すぐに強く息を飲み込む。  
心のどこかで固めていた覚悟を、形に表すこととなった。  
 
何の前ぶれもなく、男の襟元を掴んでいた手に力を入れた。  
不意をつき、強く……突き飛ばす形で。  
片腕一本で支えられていた躰は  
風に煽られた紅葉のように、均等を崩していった。  
 
地に落ちた彼女は、糸の切れた繰り人形のごとく  
がくり…と、膝をつく。  
しかしそれは、脚の痛みに屈したのではなく  
自身の意思によるものであった。  
ぎょっとして、後ずさった女主人に対し  
顔色を変えずに姿勢を整えた蘭は、大切な刀を脇に置き  
つと三つ指をついて、深々と頭を下げた。  
「ちょ…っと、あんた…」  
「お頼み申し上げます」  
よどみなく滑らかな声には一本芯が通っている。  
覚悟を決めた彼女の行動は、いつだって速かった。  
 
「立て続けのご無礼を、どうぞお許し下さい。  
どうか、この人だけでも、お助け願えませんでしょうか」  
「おい…!」  
背後から、怒気混じりの声が聞こえてくる。  
それは分かっていたが、彼女は構わず二の句を告いだ。  
「平然と見せてはおりますが…実のところ  
腕の骨が折れ、危険な状態でございます。  
お手数とは思いますが…どうか、お力添えを…!」  
 
先の、男と女将のやり取りを見た限り  
彼に対して、さほど悪印象は無いように思えた。  
ならば、願いは通じるかもしれない…。  
 
地べたに額を擦るようにして懇願する。  
このような事をするのは、生まれて初めてだった。  
だが、恥ずかしいとは思わない。  
屈辱だとも思わない。  
ただ……助かれば良いと思ったのだ。  
この、仇の男が。  
 
 
「……まぁ、とりあえず…お顔を上げなさいな」  
優しく、なだめるように語りかけられ  
一呼吸置いたのち、静かに顔を上げた。  
すると女将の顔が真正面にあり、思わず息を呑む。  
土下座の蘭に対し、しゃがみこんで目線を合わせている。  
相手の懐深いしぐさに、彼女は目を見開いた。  
 
「この先の峠で戦があったって事くらい、分かってんだよね?  
あんたみたいなお嬢さん一人で、どうしようってんのさ」  
「…それは…」  
当然のことながら、上策があろう筈はなかった。  
戦から逃れた者が、我を忘れて襲いかかって来たとしても  
身を守る術などなにもない。  
それどころか、歩くことすら覚束ない。  
だが、こうする他に、出来ることも思い浮かばない。  
 
「見たところ、あんたも怪我してるようだし…。  
なにより、旦那さんが納得してないみたいだけど?」  
一瞬……呆気に取られた。  
蘭は他の人間と同じく、頭の後ろに目は付いていない。  
なので背後に立つ男の表情を、知るよしも無かった。  
しかし、どのような顔をしているのかは  
なんとなく想像が付くような気は、する。  
「そうさねぇ…。  
こんな健気な奥さん放り出しちゃ、名折れかね。  
いいよ、二人とも…お入んなさいな。」  
「……え」  
思いもかけない言葉に、蘭の口から  
気の抜けた呟きが零れ落ちた。  
 
――何ということだろうか。  
どうやら、人の良さそうな女主人には  
夫の身を案じる貞淑な妻の姿と映ったらしい。  
…こんな外見の女を娶る物好きなど  
普通は居ないと思うのだが…。  
 
故意ではないにしろ、虚実で善意を得たことに  
蘭の胸はきりきりと痛んだ。  
しかし……あえて、否定はしない。  
脇に置いていた刀を、しっかりと握り締める。  
なりふりなど構っていられなかった。  
 
「ちょいと誰か!ひとっ走りして先生呼んどいで!!」  
女主人の命令に、周りから「こんな時に!?」と泣き言が上がるが  
眼光一閃、震え上がった若造が四人ほど  
慌てて武器を掴んだまま走り去っていった。  
蘭はその後姿に向け、心の中でそっと謝罪を述べた。  
 
「きゃっ…」  
突然乱暴に抱え上げられ、小さな悲鳴をあげた。  
間近でかち合う男の視線は、思った通り冷たく  
怒っていることは痛いほどに明らかだった。  
矜持を傷つけてしまったのかもしれない…し  
勝手に夫婦と決め付けられて、腹を立てているのかもしれない。  
 
『……だからって、そんなに…睨むこと無いじゃない…』  
それでも蘭は、先の行動が間違ったものではないと信じた。  
『誰のために…苦労したと思ってるのよ…』  
俯き、胸のうちで不満の言葉を呟き続ける。  
それが実際に口から出ることは無かったし  
しょげかえった気持ちが、癒えることも無かったわけだが…。  
 
屋敷は、蘭が想像した以上に立派なものだった。  
年若い女中に案内をされ、長い廊下を進み  
通されたのは奥まった部屋。  
綺麗に整えられた中庭に面した客間であった。  
人形のように動かず押し黙っていた彼女だったが  
内心は子供のようにおろおろと、動揺し続けている。  
そしてその動揺は、開いた襖の先を見て、頂点に達した。  
 
仲良く敷かれた二組の寝具が、淡い明かりに照らされている。  
彼女は自分の口元がひくつくのを押さえられなかった。  
恐る恐る盗み見た男の表情も、どこか微妙なものに思える。  
「あ、あの…なにか不手際がございましたでしょうか…?」  
「…いいえ。どうもありがとうございます」  
入り口で固まる二人に、女中がおずおずと声をかけ  
焦りを極力抑えつつ、蘭は極上の愛想笑いを浮かべてみせた。  
 
『………………夫婦って云ったら、夫婦って云ったら  
それは、そうなんですけども。当たり前なんですけども。  
でも……うわぁ、すごくご立派なお布団。とっても高そう。  
ああっ、私、着物が砂まみれなんですけども……。  
どうしよう。汚れてしまう。こんなの弁償できないですよ。  
着物、脱がなきゃ駄目なのかしら……  
………………………………………………えっ、脱ぐの!?』  
 
蘭の頭の中で、たくさんの彼女が一斉にさえずる。  
 
女中が一礼をし、そっと襖を閉めた後も  
しばらく布団を見詰め、突っ立ったままだった。  
 
「……どっちを使う…?」  
「はひっ!?」  
唐突に話しかけられ、蘭の口から一段階高い、変な声が出た。  
「二つ…あるだろ。どっちを使いたいんだ…?」  
「…は、はぁ…。……じゃ、あ……奥のほうを…」  
妙なやりとりだった。  
そして彼女は、しまった!と強く後悔した。  
『入り口側のほうが良かったのでは!?……なんとなく…』  
……そう思い立ったのだが、今更取り消しづらかった。  
 
男は手前の布団を遠慮なく踏みつけて奥へと進み  
今までのようにゆっくりと、腰をかがめた。  
蘭は、足の裏に寝具の柔らかな感触を覚える。  
彼女のこれまでの人生において  
異性に布団へ寝かされるなどという体験は、一度も無い。  
これはそんな事じゃない、変なことを考えるんじゃない…と  
自分を叱責してみても、心臓は飛び出そうなほどに高鳴ってしまう。  
それだけはどうしても悟られたくはないと思い  
能面のように無表情…を装ったつもりだった。  
 
「…っ」  
「えっ?」  
男が息を呑み、蘭が何かと伺おうとした瞬間  
「うくっ…!」  
彼女は胸元を強く突かれ、息を詰まらせた。  
あまりの唐突さに身構える余裕もなく  
弾みで後頭部を叩きつけられたが、布団のおかげで痛みはない。  
 
しばらく呻き、うっすらと開いた鳶色の瞳に映るのは  
太く立派な梁が渡る高い天井。  
そこから下へと視線をずらすと、男の総髪が見えた。  
……息苦しいはずだ。  
彼は、彼女の胸元に顔を埋めるような形でつっぷしていた。  
豊満な乳房は押さえつけられ、藤色の着物の下で形を変えている。  
「――――!!!」  
息がうまく出来ないおかげで  
悲鳴をあげずにすんだのは、なによりだった。  
 
「……な、なん、なん…で…!」  
耳まで真っ赤に染め上げた蘭が、最初に起こした行動は  
大切な刀を倒れた男の下から避難させることだった。  
腕を伸ばせるだけ遠くに刀を離して置き  
自由になった両手で彼を退かそうと力を入れた。  
しかし、筋肉の塊のような躰はとても重く  
彼女の細腕ではびくともしない。  
そして肩を掴んだ蘭の手が、ぴたりと止まり…  
すぐにさま、首に移り、彼の額に移動する。  
 
「…これ…は」  
彼女の表情が、一瞬にして変わった。  
指先を通じ、尋常でなく高い熱が伝わってきたのだった。  
 
『…やっぱり……やっぱり、こんな無理して…!』  
感情の起伏のせいか、自然と目頭が熱くなる。  
蘭は歯噛みをし、男の額に滲む汗を指でぬぐった。  
すると、彼の頭がぴくりと動き、彼女は慌てて手を離す。  
「………わ、るい…。姿勢を、崩しちまって…」  
「しゃ、喋らないで!」  
意識が戻ったことを知り、蘭はほっと息をはいた。  
 
「ともかく、ちゃんとお布団に…」  
「……ああ…」  
「い、いいですから、喋らないで下さい…」  
とりあえず、胸に顔をくっつけたまま話されても困る。  
彼女は頬を染めながら、男の躰が離れるのを待った。  
しかし……一向にその時は訪れない。  
もしかして、また気絶したのでは…と肝を冷やしたが  
はたと気付けば、男の右腕が  
自分の尻の下に敷かれていることに思い当たる。  
抱えられた状態で倒れこんだのだから、仕方が無いのだが。  
 
『……や、やだ…』  
右腕にまで怪我を負わせては大事だ。  
蘭は慌てて身を捩って躰をずらそうとした。  
しかし、捻挫をした足首がずきずきと痛み  
力が入らず、上手くいかない。  
もぞもぞと動いた分だけ、着物の裾が捲くれあがっただけだ。  
『もう少し、頭を上げてもらえると嬉しいのだけど…』  
とはいえ…ぐったりとして辛そうな相手にいうのも気が引けて  
彼女は困り果て、眉を曇らせた。  
 
「おまえ……」  
また唐突に胸元で声を発せられ、蘭はびくりと震えた。  
「な、なんです?」  
「……すごい…な」  
「…はい?」  
思い当たる節もなく、彼女は少しだけ首を捻った。  
「……心臓…の音…が…。ものすごく…早い…」  
「は?……はぁ…」  
「もう少し……落ち着け…よ」  
 
彼女の口元は、ぽかん…と音でもしそうな風に開いた。  
まさに正しく、呆気に取られるという形に。  
しばし自分の胸の上にある、男の頭を見詰めていたが  
時がたつにつれ、ふつふつと、怒りが沸きあがってきた。  
 
『――だっ、誰のせいだと……!』  
怒りに任せて突き飛ばしてしまいたかった。  
…無理であることは、重々分かっているのだが。  
ともかく彼女は、離れろといわんばかりに男の肩を掴む。  
そして……  
「失礼するよ。具合はどう……」  
何の前触れもなく、勢いよく襖を開けて入ってきた女将と  
嫌になってしまうほど、がっつりと目が合ってしまったのだ。  
女主人の後ろで、水の入った手桶を持っていた女中が  
小さく声を上げて、慌てて視線を逸らした。  
 
今、自分たちの姿を客観的に見てみたら……  
彼女は全身全霊をもって、それ以上の想像を打ち切った。  
 
「…お医者さん、もうすぐいらっしゃるんだけど……」  
女将が、どことなく明後日の方向を見詰めながら、ゆっくりと話す。  
「もしかして…お邪魔だったかい?」  
「…………滅相もございません」  
蘭には、それだけいうのが精一杯だった。  
 
 
 
やってきたのは、たっぷりとした白い髭を蓄えた  
温和な眼差しの老医師だった。  
仰向けに横たわっている男の隣で、痛んだ足を庇っていた蘭は  
ぎこちなくも深々と頭を下げた。  
 
「ええよええよ…楽にしちょって」  
いまいち出自のはっきりしない口調で老医師は話し  
彼女の髪や瞳を見ても、何の動揺も見せない。  
ただただ、のほほんと笑っていた。  
 
「うん…うん…。お兄ちゃんは…腕で…  
お嬢ちゃんは、あんよ…とね」  
二人の様子をざっと見渡し、医師は薬箱から  
様々なものを取り出しながら、独り言のように呟いた。  
「……んーじゃあ、先に…」  
「「そっちから」」  
男は女を、彼女は彼を、手で示しながら  
ほとんど同時に声を発する。  
「……ぷふっ…!」  
傍に座って事の成り行きをみていた女将が  
堪えきれずに吹き出し、慌てて横を向いた。  
 
「…あの、先生。  
どうぞ、この人から先にお願いいたします。  
このとおり骨を折り、熱も高いのです」  
「ふむ」  
蘭は自分の頬が熱いのを感じながらも  
はっきりとした口調で訴えた。  
その姿を微笑ましげに見ていた老医師は  
言を受け、頷きながら男に視線を移す。  
 
怪我や病気とは無縁そうにみえる、逞しい肢体。  
白い綿服に、足首で絞られた風変わりな紺藍の袴。  
そして…脇に置かれている、赤い革紐の巻かれた古ぼけた刀。  
 
――何かが引っかかるのか、深い皺の刻まれた目元が、ぴくと動いた。  
 
考える風に、じっと見おろす老医師をちらと見返し  
男は額の上でぬるまった手ぬぐいを、少しずらした。  
「…いや…。こいつから先に、診てやってくれないか…」  
「ちょっ…と…!」  
堂々巡りの感が強い。  
非難が込められた彼女の声を制し、彼は続けた。  
「見ての通り…オレの方が、こいつよりは重症…だ…。  
そのぶん治療の手間も…かかるって…もんだろ…。  
だから……そっちから先に、診てやって…欲しいんだ」  
意地もなく、無理もない  
ただそれが当たり前だとでもいいたげな、淡々とした声だった。  
 
蘭は呆然として、何もいい返せなかった。  
彼女が今まで教わって来たこととして  
――いや、そうでなくても、常識中の常識として  
重症の者から先に診るのは当然のことだ。  
悠長なことをいって、手遅れにでもなったらどうするのか。  
 
「……ま、それは、そうかもしれんわな」  
「せ、先生っ!?」  
若輩者の自分などより、多くの患者を診てきたであろう  
老医師の言葉に、彼女は上ずった声をあげた。  
「……言い争っちょる時間が惜しいし…」  
途方にくれた顔の彼女をやんわりと諌め  
患部を出すように促しつつ、医師はのんびりと零す。  
「れでぇーふぁーすちょ……っちゅーヤツじゃなぁ」  
 
 
なにやら怪しげな臭いが立ち上る、塗り薬。  
それが足首にたっぷりと塗られていった。  
見立てとしては、重度の捻挫で  
完治までに少なくとも一月ほどは要る…とのことだった。  
「ひ、一月も……ですか!?」  
顔色をなくした蘭は、愕然として聞き返す。  
「安静にしといて、早くても一月…な。  
無理して悪化させたら、わしゃあ知らんよ」  
老医師は治療の手を止めることなく、あっさりと告げた。  
 
蘭は腫れ上がった右足を、恐る恐る見おろした。  
いままで他ごとに気を取られていたせいか  
まさかそこまで悪いとは、思っていなかった。  
急に痛み出したように感じられ、脂汗が滲む。  
 
「ほいほい、塗れたぁよ…っと。  
しばらくこの上から患部を温めておくこと」  
年を感じさせない軽快な手さばきで薬瓶を戻し  
今後の手立てを医師は告げる。  
しかし、茫然自失の彼女の耳は  
その声を半分ほどしか受け止めていなかった。  
 
「ま、そんな訳じゃがね……女将さん?」  
「わかってますよ…。ここまできたら乗りかかった船さ。  
二人とも完全に治るまで、のんびりしておいきよ」  
確認を取るように顔を向けた老医師に、女主人は  
さばさばとした口調で答える。  
はたと我に返った蘭は、急いで顔を上げた。  
「……あの、申しわけございません…」  
「気にするこたぁないよ。困ったときにはお互い様…ってね。  
にしてもあんた、運がいいよ」  
「は、はい。本当に何から何まで、お蔭様で」  
確かにこれほどの幸運はあるものではない。  
彼女はまた礼を述べようとしたが、女将は  
『そうじゃない』と笑いながら、ひらひらと手を振った。  
 
「この辺りはね、温泉がたーくさん湧いてんのさ」  
「温泉…ですか」  
たしかに、近辺には湯屋らしき建物があり  
湯気が上がっていたことを、薄ぼんやりと思い返した。  
「そ。ここいらのお山は活きがいいからね。  
それで温めりゃ、捻挫なんかあっというまに治っちまうよ」  
女主人は豪快に、そしてどこか自慢げにいってのける。  
 
「……海が無いのに熱海と云うのも…伊達ではない…か…」  
寝転んだまま、じっとしていた男が突然口を開き  
いささか驚かされた。  
「そう云うこと。不治の病に侵された姫君を全快させた…  
なーんて伝説もあるんだ。霊験あらたか、だよ」  
女将は元気よく語る。蘭は曖昧に微笑み返した。  
 
それにしても、一月以上も歩けないとは……。  
彼女は一瞬だけ、横たわる男のほうに目を向けた。  
はっきりと顔を見ることは、怖くて出来なかった。  
 
 
いつの間に言いつけられたのか、湯気をくゆらす桶を手に  
女中がしずしずと蘭の元へ歩み寄った。  
真新しい手ぬぐいを湯に浸し、固く絞る。  
包帯が巻かれた患部に乗せると、穏やかな暖かさが広がり  
無意識のうちに入っていた肩の力が、ふ…と抜けていった。  
 
女中に軽く会釈をし、さりげなく男の方へと目を向けた。  
彼は彼女に背を向けて座り、黙って診察を受けている。  
傍に置かれた風呂敷と、包帯代わりに使った長襦袢の袖が  
なんとなく、気恥ずかしい。  
 
「……応急処置をしてやったんは、お嬢ちゃんかね?」  
「…え!?…あ、はいっ」  
ぼんやりと、大きな背中を見詰めていた蘭は  
その向こう側にいて顔も見えない老医師から話しかけられ  
心臓を飛び上がらせつつも、返事をした。  
 
「あ…あのっ…なにかおかしい所でも…?」  
「ん、いんやいんや、逆じゃよ。上手いもんだと思ってなぁ。  
これならくっついた後、もっと頑丈になるだろよ」  
医師はなぜか、とても楽しげにいう。  
「それは…いいな…」  
男が、ぽつりと呟いた。  
 
「もしかして、お嬢ちゃん  
医療の心得がありなさるかな?」  
「……あ…、……はい…」  
医師の問いに、蘭は少しばかり口篭り  
それからゆっくりと、遠慮ぎみに続けた。  
「養父が、医師をしておりまして…。  
それでその……真似事などを…少々…」  
「ほうほう、女医さんかね」  
女将が目を丸くして、大きな躰を揺らして驚き  
女中は目を輝かせ、尊敬を込めた視線を送る。  
そのすべてに慌てふためき、顔を真っ赤にして否定した。  
「い、いえ、とんでもございません!  
養父の補佐をしたり、薬を煎じたりが常でして  
そのようにご大層なものでは、決して…」  
 
事実、そうであった。  
ただただ、尊敬する養父の指示に従い、働けるならそれで良くて。  
知識はあっても実技が伴わず  
この外見のこともあり、進んで人を診たこともない。  
……そう、深く関わった患者と云うならば、一人だけ…。  
癒せなかった、大切な人が……ひとりだけ……。  
 
行灯の薄明かりで透ける紅瞳に  
伏せた睫が、昏く濃い影を成した。  
 
 
 
治療は滞りなく進み、男の腕は白い三角巾で覆われた。  
額に負った切り傷、細かな擦り傷に薬を塗り  
「あくまで、安静に」…と、老医師は釘をさした。  
 
「腕はよし。あとはこの熱さましを飲みんさい。  
そんで…とことん眠って、養生するこったよ」  
差し出されたのは、薄黄の紙包みに入っている粉薬。  
受け取りはしたものの、なぜか動きを止めた男を  
蘭は不審に思い、そのまま注意深く見守った。  
「薬飲むの…苦手なんだよな……」  
まるで子供のような訴えに、彼女はかくんと肩を落とした。  
 
「そ…そのような我侭、云うものではありません…!」  
彼女は妙な恥ずかしさを覚えて  
思わず、いくばくか棘付きの口調で諌めていた。  
彼はちらと後ろを振り返り、首を竦める。  
二人の間には、十に近い年齢差があるのだろうが  
これではどちらが上だか…分からない。  
そんなやり取りに、女将はまた派手に吹き出し  
女中は口元を覆って、必死に耐え忍んでいた。  
 
「…医師が二人もいては…分が悪い…か」  
男は観念したのか、さっさと薬をあおり  
慌てて水差しを引き寄せた。  
 
診察を終え、慣れた手つきで薬箱を纏めた医師に続き  
どっこいしょ…と、女将は重々しく立ち上がる。  
「先生も泊まってってくださいな。物騒だし」との提案に  
おっとりと「いやぁ…物騒だからこそ、帰るわ」と笑う。  
気楽に話す恩人達に向け、蘭は出来る限り深々と頭を下げた。  
「本当にありがとうございました…!  
……あっ!あの、お名前を……」  
いいかけて、よくよく考えてみれば  
自分自身が名乗っていないことに気が付く。  
慌てて口を開きかけた……が  
「忘れてもうた」  
老医師は、しれっ…と、そういい切ったのだった。  
 
「え、あ…あの…?」  
目をまん丸にして、聞き違いかと戸惑った。  
「あっはは!…そんじゃーあたしも忘れちゃったなぁ〜」  
聞き違いでは、なかったらしい。  
女主人までもが豪快に笑って、調子を合わせ始めたのだ。  
その様を、開きかけた口はそのままに、呆然と見上げ続ける。  
「ぁ…」  
「それじゃあ、お二人さん。隣にこの子を置いとくから  
何か用があったら遠慮なくいってやって。  
ゆっくり休むんだよ。……今日くらいは…ね」  
たっぷりした含み笑いを浮かべ  
一人で三人分ほどの存在感を示す女将を前に  
蘭の声は、強風に煽られる木の葉よりも、弱かった。  
 
女中が襖を閉めるのと同調するように  
中空で止まっていた手が、ぱたり…と落ちる。  
 
狐につままれた様な気分だった。  
あまりにとんとん拍子で…不可思議で…。  
まるで化かされているかのようだ。  
朝起きて、枯れ草に埋もれていても、おかしくないほど…。  
 
蘭はあわてて首を振り、おっかない考えを振り払う。  
その様を、男が怪訝そうに見詰めていた。  
 
 
 
――夜も更け、そろそろ日の変わる時刻であろうか。  
とても静かな夜だった。  
戦場から離れているから、静かなのか  
戦だからこそ、静かなのか  
それともただ単純に、夜半であるからなのか…  
戦争というものをよく知らない蘭には、分からないことだった。  
 
聞こえるのは、男のたてる苦しげな寝息だけ。  
熱が上がって辛そうではあるが、薬のおかげでよく眠っている。  
彼女はその顔を見おろして、小さく溜息をついた。  
 
彼は何を思ってか、横になってもなかなか目を瞑ろうとはせず  
彼女をやきもきさせたのだった。  
……その前に、用意された寝間着を身につけるにあたって  
一苦労があったのだが……  
その件については、早々に忘れる努力をしようと、強く心に決めていた。  
 
そんなことよりも。…彼女は静かに思い起こす。  
 
彼の着替えを嫌々ながらも手伝おうとしたとき  
よれた紙切れが一枚、白い綿服の胸元から、はらりと落ちた。  
内容までは分からなかったが、それは写真のように思えた。  
彼女も昔、新しいものに躊躇の無い養父に連れられ  
この上なくぎこちない表情で写真に納まったことがあったのだ。  
 
裏返しで床に落ちた写真を、彼女は拾おうとしたが  
それより早く、彼の手が伸びた。  
…ほとんどひったくられるような形で…。  
 
彼がその写真をどこに隠したかは分からない。  
別に知りたいとも思わないが。  
知りたいとは思わない…が  
……きっと、いや、間違いなく、確実に……  
この男にとって、とてもとても大切な人が  
写っているのだろう、とは…分かったのだった。  
 
蘭はそっ…と、男の額から熱を含んだ手ぬぐいを取り  
傍らに置かれた桶に、深く浸した。  
徐々に力を入れて絞る。ぼたぼた……ぼたぼた……。  
 
濡れた布で顔を覆えば、息の根を止められるかしら?  
 
ぽたり、と最後の一滴が水面を揺らし  
また折り目正しく形を整えた彼女は  
ゆっくりと、額の上に戻す。  
 
 
「………奥様、失礼いたします。  
新しい水をお持ちいたしました…」  
襖の向こうから、声がする。あの年若い女中だった。  
頼まずとも甲斐甲斐しく、水や湯の換え  
行灯の油などを持ってきてくれる。  
顔を合わせると、純朴な笑顔を覗かせて  
なんとも愛嬌のある娘であった。  
「――ありがとうございます、遅くまでごめんなさいね…」  
蘭は鳶色の目を細め、優雅な仕草で微笑み返した。  
 
 
 
女中の手を借りながら、看病は続けられた。  
幾度か睡魔に襲われ、軽い頭痛に眉をしかめるが  
「あの、奥様もお休みになられては…」との提案には  
優しく…かつ丁重に断りを入れる。  
そうしている内に、いつしか夜も明けた。  
 
徹夜明けの目を擦り、瞬きを何度か繰り返す。  
光を取り込む障子がぼやりとした灰色に見えるのは  
しとしと…と、小雨が降っているから。  
夜中から降っていたらしいが、気付いていなかった。  
本当に……運の良いことだと思う。  
彼女はのろのろと、男に視線を移した。  
 
寝入りばなに比べれば、随分と落ちついている様に見える。  
『……少し、熱を計ってみようかな…』  
蘭はそろりと、彼の額に手を伸ばそうとした…が  
襖の向こうの廊下から、どすどすと賑やかな足音が聞こえ  
慌てて指を引っ込めた。  
 
「おはよ」  
「おはようございます」  
彼女と女将の間で、囁くような挨拶が交わされた。  
「旦那さん、よく眠ってるね」  
「……ええ…お蔭様で…」  
疲れの浮かぶ顔ながら、微笑む蘭に女主人は肩をすくめた。  
ふと見れば、女将の立派な体躯に隠れ気付かなかったが  
一晩面倒を見てくれた女中とは、違う娘が後ろに控えている。  
どうやら朝餉を運んできたようだ。  
「いつ起きるか分からないし、先にお上がんなさい」  
「…あ…、あの、すみません……」  
「なに、遠慮するこたないよ」  
そういって女将は、つと目を細めた。  
 
「あたしにも……」  
「え?」  
美しい塗りの膳を、緊張しながら見詰めていた蘭は  
女将の微かな呟きを耳にし、思わず聞き返していた。  
「はは…。いや……ね。あたしにも……いたもんだから」  
「……はい…?」  
「うん、まぁ。……旦那がさ」  
初めてみせる歯切れの悪さで、女将は恥ずかしげに囁いた。  
「昨日の…あんたを見ていたら、柄にもなく思い出しちゃって…さ」  
 
……『いたもんだから』  
こくりと一つ息を飲み込んで  
ゆっくりと、慎重に、口を開く。  
「ご亭主様は…その……」  
「うん、数年前に死んじゃったよ」  
驚くほどあっさりと、女将は真実を告げた。  
 
昨夜の行動が、蘭の脳裏に蘇る。  
…夫の身を案じる…貞淑な…妻……  
……に見える、行動を……  
このひとは、自身と、今は亡き良人に重ねたのだろうか。  
 
「……あ…の…」  
「あ〜ごめんごめん、辛気臭い話して。  
ま、そういう訳だから、本当に気にしなくってもいいからね」  
蘭の細い肩をぽんぽんと叩き、女将は朗らかに笑う。  
が、しかし、慌てて口を押さえ、眠っている男を伺う。  
「……へへ。  
ともかく…さ、あんたも…それ食べたら休みなさいよ」  
 
女将と女中が去ったあと、蘭は一人  
湯気の立つ膳を前に、指先一つ動かすことなく、座っていた。  
とても…箸をつける気分になど、なれない。  
 
「…………猫舌か?」  
「!!」  
突如聞こえた背後からの声に  
一つに括った緋色の髪が、ぴょこんと跳ねるほど驚かされた。  
足を庇うように振り返れば、まだ少しばかり眠そうな顔で  
男が上半身を起こそうとしているところだった。  
「冷めんうちに食ったほうが、旨いと思うぜ…」  
「…あ、あなた、いつ起きてっ…!?」  
「ついさっきだよ…。でかい声がして…さ」  
やはり先程の笑い声が原因らしい。  
 
片腕だけで起き上がった彼の額から、手ぬぐいが落ちた。  
それを見た彼女は、ようやく気付く。  
「…起き上がっても…大丈夫なのですか?」  
「ああ、熱はほとんど下がった」  
両手を使って傍に近づき、彼の顔を覗き込むと  
肌の色も、息遣いも安定しており  
これといって具合が悪そうには見えなかった。  
彼女は密かに安堵し、肩の力を抜いた。  
しかし、こうも早く回復してしまうとは。  
薬の効きがよほど良かったのか、彼の躰が変わっているのか…。  
 
「下がってるだろ?ほら」  
「え…、なっ!」  
感心ごとに耽っていた蘭は  
いきなり手首を掴んで引っ張られ、息をのんだ。  
手のひらが、男の額にさわる。  
人肌と、硬い髪の感触が伝わった。  
 
……たしかに熱っぽさは感じられない。  
それが分かって彼女は、男の手を振り払おうとした。  
しかし、払うどころか腕が動かせない。  
別に掴まれて痛いとか、そういうことは無いのだが…。  
 
「お前…寝てないのか…?」  
蘭は、いきなりの指摘に酷くうろたえた。  
もしかしたら、ものすごい隈でも出来ているのかもしれない。  
間近で目が…合ってしまう。  
「そっ!……そう、ですけど。…いけませんか?」  
「…いや…別に」  
そこで、ようやく手が離された。  
片方の手で掴まれた場所をさすり、ほっと息をはく。  
もしも今、体温を計ったならば  
彼女のほうが確実に高かったことだろう。  
 
「……ほ、ほかに、苦しいとか  
気分が悪いとかは……ないのですね?」  
赤い顔でそっぽを向きながら、つっけんどんに確認した。  
「ない…な。腹は減ってるけど」  
「…あ、そうなのですか?」  
とげとげしかった蘭の目に、ぱっと柔和さが宿る。  
「まだ箸はつけていませんので、良かったら…こちらをどうぞ」  
先程の膳を何とか持ち上げ  
こぼさないよう慎重に、彼の横に移動させた。  
 
おひつを開けると、中から真っ白な湯気が上がり  
細い指を水滴が濡らした。  
あまやかで暖かな匂いがたちこめる。  
「…あ、食後にお薬、忘れずに飲んでくださいね」  
しゃもじで飯をよそいながら、昨夜渡された薬の事をいうと  
男は少しばかり目を逸らす。  
「………熱は……下がったんだがなぁ…」  
「飲んでくださいね」  
蘭はもう一度、はっきりと、しっかりと、念を押した。  
 
「けど、これはお前の分だろ?」  
まだ柔らかな湯気を立ち上らせる膳を指し、彼はいう。  
「…そうなのですが……私…あの  
今はまだ、お腹が空いてなくて。  
せっかく用意して頂いたのですが…」  
先刻の話を聞いてからというもの、胸にどす黒い靄が  
じくじくと、広がっていくようで……とても喉を通りそうにない。  
 
正直、男が空腹なのだと聞き、助かったのだ。  
その心情を体言するように、彼女は両手で茶碗を持ち  
彼にそっと、差し出したのだった。  
 
愛らしい花柄の茶碗は、あきらかに女性使いの物であったが  
男は何もいわずそれを受け取った。  
ほっとして、蘭は膳に置かれた箸も渡そうとする。  
しかし…彼の左腕を覆う三角巾の白が目に飛び込み  
彼女はぴたりと動きを止めた。  
やはり、徹夜明けで少しぼやけているのか……。  
顔を赤くして、今渡したばかりの茶碗を受けった。  
 
右手に箸、左手に茶碗…。  
彼女が食事を取るときも、この形である。  
さてこの二つ、どうしたものだろうか。  
もっとも、出来る事といったら  
彼の右手に箸を渡し、茶碗は膳に置く位だろう。  
思い切って、具入りの握り飯にするという手も  
無いわけではないが。  
 
しかしそれらの手立てを蘭は取らなかった。  
茶碗にそっと近づいた、朱に艶やかな箸先が  
しっとりと光る白い飯を摘む。  
食欲をそそる光景ではあるが…。男が不思議そうに見詰めている。  
「……あの、口を…開けてくださいますか?」  
箸を彼に向け、少しばかり遠慮気味に差し出しながら  
それでもはっきりと、彼女は願ったのだった。  
 
「…………え?」  
差し出す箸を真ん中に、時間だけが流れた。  
たっぷりと間を置き、男の口から、抜けた呟きが漏れる。  
あまりにも長かったので、そうしている内に  
飯がすべて冷めるのではと思えるほど。  
しかし怯むことなく、彼女はすました声でいい張った。  
「その腕では大変でしょうから、お手伝いいたします」  
「…………」  
男は表向き平静を保とうとしているが  
動揺していることは手に取るように分かる。  
こんな姿を見られただけでも  
いってみた甲斐があった…と、蘭はしみじみ思った。  
 
「……い…や、オレは……別に…  
左手でも、箸を使おうと思えば出来るんだが…」  
「今はその左手が使えないでしょう?」  
「……」  
なんだかよく分からない事をいい出した彼に  
蘭は少しばかり首をかしげて、そっと返した。  
「必要ないのであれば、それで…」  
「…………いや。せっかくだし、貰っとくけど…よ」  
 
「――そう、ですか?…じゃあ…どうぞ…」  
いい出しておいて、なんであるが  
正直『いらん』といわれてお終いになるかと思っていた。  
蘭は少しばかり緊張しつつも、彼の口元に箸を差し出し  
男は何もいわず、それを口にした。  
 
「…………」  
「…………」  
なんとも、いいようのない奇妙な沈黙が支配する。  
屋根を伝い落ちる水滴が、微かに二人のところにまで響いていた。  
 
 
「……あの、勘違いなさらないでくださいね」  
小さな……雨音に紛れてしまいそうな声で、呟く。  
 
今までの会話も、普段よりは抑えたものだったが  
それより更に、彼女は声を落とす。  
部屋の外に漏れ聞こえぬよう、注意深く続けた。  
「私は、あなたを許した訳じゃない。…けれど…  
その怪我は、私のせいです。あなたがどう思おうとも」  
痛々しい傷を覆う、白い布。  
蘭はちらりと目をやり、すぐに下を向いた。  
「傷が癒えるまで、お世話させていただきます。  
……借りを作りたく…ありませんので」  
 
「それに……」  
男は、じっと彼女を見詰めながら耳を傾けている。  
その視線に少しばかり躊躇しながらも、二の句を告ぐ。  
「先程、お話を聞いたのです…。  
あの女将さんは…私たちを…その……  
…仲の良い、夫婦なのだと……  
そう、思ったからこそ、助けてくださったのですって…」  
蘭はそこで一呼吸置いた。  
喉が渇く。焦燥感が身を苛む。  
 
それでも……彼女は果敢にも男を見詰め返し、こう告げた。  
「だから、あなたも…。  
………いえ、あなたは、何もしなくていい。  
ただ、このまま……黙っていて欲しいのです」  
 
「…それで、善良な夫婦を装って、騙し遂せたい……か?」  
「――ええ、そうです」  
 
信じられた虚実を守るために嘘を吐き続けること  
信じてくれた者に真実を告げ、傷つけること  
どちらの罪が重いのかは……実のところ、分からない。  
それでも、蘭の瞳は、どこまでも真摯であった。  
 
「つまり、こういうのがお前の理想とする夫婦像…って訳か」  
膳を見おろした男は、どこか、からかうような口調でいう。  
それに対し、彼女はなんの感情も見せず  
ただ静かに相手を見据え、きわめて冷静に言葉を紡いだ。  
「もしも事が露見したときには、私が責を果たします。  
……なので、どうか…」  
「そんときゃオレも一緒に怒られてやるさ」  
彼女の言を断ち切るような、はっきりした宣言に  
蘭は少しばかり目を丸くした。  
「分かった。……お前の思うように、やってくれ…」  
 
「……食事の最中に、すみませんでした」  
そっけなく謝罪しつつ、また茶碗から米を掬う。  
しかし蘭は内心、胸を撫で下ろしていた。  
もっとごねられ、なじられるだろうと覚悟していたが…  
思ったより話の通じる相手なのだと知り、安堵する。  
慎重に差し出した箸に、彼が口をつけた。  
 
「よく噛んでくださいね」  
「ん……」  
男の口元が、ぴたと止まり…やがてまた、もごもごと動いた。  
やはり、すぐに飲み込もうとしていたのか。  
なんとなくばつの悪そうな顔を彼は見せ  
蘭は、箸を握った手で口元を隠し、くすりと笑った。  
 
 
これまで、こんな風に顔を合わせて食事を取ったことなど  
当然ながらありはしない。  
食事中であろうとも、決して見失わないよう  
少し離れた場所で気を張り続ける。  
それは、かなり体力を消耗する行為だった。  
 
しかもこの男、かなり食べるのが早い。  
彼女が一つの握り飯をようやく食べ終える頃  
男の握り飯は三つばかり消えている。  
最初の頃はそれに焦り、あわてて食事を胃に収め  
気分が悪くなったりもした。  
しかし、しばらくすると男が食休みを取るようになり  
蘭にもいくばくかの余裕が出来たのだった。  
 
それを思い出しての『よく噛んで』だった。  
彼女は口元を、軽く微笑ませたまま  
次は茄子の煮付けかな?と、膳に箸を伸ばそうとした。  
「……あ」  
男が突然、何かに驚いたような声を出す。  
それに彼女もまた驚いて、慌てて顔を上げた。  
もしかして、茄子は嫌いなのだろうか。  
 
見れば、男は呆然と…目を丸くして…口元を押さえていた。  
なんなのだろうか。舌でも噛んだのだろうか。  
「……あ、あのっ…。どうかしましたか?」  
「え?…ああ…。……いや…」  
口にあった右手をずらすようにして、軽く頬を掻く。  
誤魔化すような、それでいて  
今になり、ようやく夢から覚めたような…  
不思議と微妙な表情を、彼は浮かべていた。  
「飯ってな…旨いもんだったな…と、思ってさ」  
 
逆に意外というか、思いもよらない発言というか…  
気の抜ける台詞に彼女は少しばかり呆れた。  
「……え、ええ……そうですよね。  
確かにとても上等なお米のようですし…。有難いことです」  
彼女は手元の茶碗をしげしげと見詰めた。  
――それにしたって……。  
まるで、すごく久しぶりに食事を口にしたかのような  
大袈裟な物言いだと、蘭は思った。  
 
「…旨そうだな、その煮物」  
「あ、ええ、ほんとに…。はい…どうぞ」  
照りの入った茄子と色鮮やかないんげんまめを、彼の口元に運ぶ。  
会話は途切れる。しばらく、二人の意識は食事に集中された。  
 
 
 
――こうして、正しく嘘で固めた『おままごと』が始まった。  
 
しかし、蘭の誓いは意外にも早々に破られる。  
昼も過ぎた頃だろうか、彼女は、自分でも驚くほど唐突に…  
精根尽き果て、布団に倒れこんでしまったのだ。  
 
心と躰は、嫌というほどに繋がっている。  
いつ習ったかも忘れてしまったその知識を  
熱が上がって朦朧とする頭で  
ざっと三日間ほど、反芻する羽目になった。  
 
『世話をする』筈が『世話をされる』側になってしまい  
「医師の不養生…ってヤツだな」などと、男が呟くのを耳にしても…  
……何もいい返すことは、出来なかった。  
 

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