空が暗い。  
先程まで青い部分と白い部分が半々、といった程度だったのに、  
何処から流れてきたのだろうか…薄墨色の雲が一面を覆っていた。  
肌に感じられる風も随分と湿っぽい。  
辺りの木々が、ざぁ…という音を立てて揺らめいている。  
…山の天気は変わりやすい。  
 
 
こりゃあ一雨来そうだな…何処か雨宿り出来そうな所…  
自分だけであれば、きっとそんな事は思わないのであろう。  
ずぶ濡れになりながら適当な木を見付けて、  
その下に寝転がるのだが…今は違う。  
雨の中、十七の娘を歩かせるのは流石に気が引けたようだ。  
 
「…走るか」  
「え…何か言いましたか?……きゃっ!……た、辰巳さん!?」  
彼女は突然、宙に浮くような感覚を受け、  
驚きのあまり声が裏返ってしまった。  
琥珀は背中と脚に手を回され、ひょいと抱きかかえられていた。  
何よりも、すぐ目の前に辰巳の顔があった事に驚きの色を隠せず、  
彼女の顔は再び赤みを刺していた。  
 
「ちょっと飛ばすからな…しっかり掴まってろよ」  
そう言うと辰巳は、走り出す。  
琥珀は辰巳の首に手を回し、  
振り落とされないようにぎゅっと抱き締めた。  
 
琥珀の頬に、一粒の水滴が当たった。  
「きゃっ…!」  
「ん?どうした?」  
「あ、いえ…降ってきたみたいですよ」  
「…そうらしいな」  
彼の走る速度が更に増す。  
 
それにしても、この人の脚力には驚かされる。  
何しろ、自分を抱えたまま、馬のような速さで駆け抜けるのである。  
『この人の祖先は、実は馬なんじゃないか』  
そう思ってしまうほどだ。  
 
この人は、何だかよく分からない…  
でも、とても…あったかい…  
そんなことを考えながら、彼女は厚い胸板に顔を埋めていた。  
 
 
 
屋根から不規則にぱらぱらと、音が聞こえてくる。  
「何とか間に合ったか…」  
雨粒が屋根に当たる間隔は確実に早まっており、  
次第にその音は激しさを増していった。  
 
雨が本降りになる前に何とか小さな空き家を見つけた彼等は、  
そこで雨宿りをさせてもらう事にしたのであった。  
 
「わ…すごい雨ですねぇ…」  
窓からひょこ、と顔を出して琥珀が呟く。  
窓の外には、色とりどりの朝顔が花を揺らして喜んでいる。  
左の方へ目をやると、小さな井戸が、雨の中ひっそりと佇んでいる。  
…まだ使えるのかな。  
明日朝早く起きて、もし使えたら髪を清めよう…  
そんな事を考えながら朝顔の葉をぴん、と指で弾いていると、  
手ぬぐいで少し濡れた髪をがしがしと拭きながら、  
「すまんな、いきなり抱きかかえたりして」  
と、辰巳が何気無く言った。  
その言葉を聞いた琥珀は、窓をそっと閉じ、  
ゆっくりと彼の側に近寄って正座すると  
「いえ…もしああして下さらなかったら、ずぶ濡れになってましたから…。  
…ありがとうございました」  
と、ふふっと笑いながら言った。  
 
「そう言ってくれると助かる。……あ、握り飯はまだあるかい?」  
彼は、腰に差していた刀を外し、壁に立て掛けた。  
 
辰巳がろうそくに火を灯す。  
すると、暗かった部屋が、ゆらゆらとした光に照らされて、  
ぼんやりと浮かび上がってきた。  
ひとまず、部屋を見渡す。  
鹿の角だの剥製だのが、大層御立派に飾られている。  
…目が光ってて、少し怖い。  
壁には弓が掛けてあり、部屋の隅には布団が二組置かれている。  
 
どうやら、この辺りの山で猟をする時の拠点として、  
狩人達が使っている小屋のようだ。  
 
ふと、壁に立て掛けられた彼の刀に目が留まる。  
確か…昼間に一度預かった刀だ。  
それは何だか、とても…重みのある物だった。  
昼間の情景が琥珀に蘇る。  
 
額に汗を噴き出し、心の底から震え上がった兄。  
今まで琥珀は、仏罰すら恐れぬ彼が、何かに脅える…  
そのような姿を見たことは無かった。  
兄が唯一恐れた、陸奥…。  
 
あの時兄が言った言葉はとても印象的だったので、  
はっきりと記憶に残っている。  
 
…鬼の子孫かよ  
 
あの言葉には…どういう意味が込められていたのだろうか。  
陸奥って、何だろう。  
 
一度気になったら、それが頭から離れない。  
いても立ってもいられなくなった琥珀は、辰巳にこう呟く。  
「辰巳さん…いくつか聞いても良いでしょうか?」  
最後の握り飯を頬張りながら、辰巳は「む…」と、返事を返す。  
琥珀は続ける。  
「陸奥って…何なんですか?」  
口の中を空っぽにしてから、辰巳が淡々と語りだした。  
「俺の一族…陸奥ってのはな、まぁ一言で言えば…  
無手で強くなることしか頭にない、馬鹿者どもの集まりさ」  
「…なんか、やけにすごい一族なんですねぇ…」  
それは褒めてんだか、馬鹿にしてんだか…。  
 
琥珀の質問は続く。  
「それと、あの時、兄様は貴方の事を『鬼』と…。  
あれは、一体…?」  
「…あぁ、そういやそんな事言ってたな。  
自分で言うのも何だが、陸奥の一族ってのは、  
考え方も身体的にもかなり…人間離れしてるからな。  
周りからすれば、そんな酔狂な奴は鬼の生まれ変わりか何かのように  
感じられちまうんだろう。  
…ま、そんな俺に付いて来たお前さんも中々酔狂だと思うけどな」  
そう言って、辰巳は少し意地悪そうに笑った。  
「あら…。それは嫁ぐ前に教えて頂きたかったものです」  
と、琥珀がちょっと拗ねたように言う。  
しかしそれは、暖かみを帯びた声で、  
少しだけ目の前の男の事が分かった、  
ということに対する安堵感の表れでもあった。  
「はは…そうだな」  
二人から自然と笑い声が溢れる。  
 
「そう…鬼の化身…ですか」  
辰巳を見つめながら、琥珀がしみじみと言う。  
「…不満か?」  
「いえ、私は…辰巳さんは……水神か何かの化身ではないかと…」  
「水神…?俺が?」  
「辰巳さんの、辰……龍は、水神……」  
「水神、か……それも悪くないな」  
琥珀の天然ぶりは続く。  
「それに、春先にこんな雨は中々降りません……  
でも、辰巳さんが山に入ったら、雨が降りましたよ」  
「馬鹿、そりゃ雨男だ」  
またもや、二人の笑い声が溢れる。  
 
 
――琥珀  
突然、辰巳が彼女の名を呼ぶ。  
…外では、一段と強くなった雨が相変わらず屋根を叩いている。  
琥珀は、ただ目を丸くするばかりだ。  
 
「だから、さ…お前さんには色々と迷惑掛けるとは思うが、ま、宜しく頼む」  
辰巳は、ニッと笑ってそう言った。  
それを聞いた琥珀は、少し間を置いて、口を開く。  
「…こちらこそ、宜しくお願い致します」  
崩していた両足を直した後、ぺこりと小さくお辞儀をし、  
彼女も嬉しそうに微笑み返すのであった。  
 
「じゃ…ちょっと早いけど、そろそろ寝るか」  
「へっ!?あ…は、はい…」  
不自然に声が裏返った。  
『ど、どうしよう…こんな所で、突然…。  
それに…いくら夫婦になったからって…その日にする事なのかなぁ…』  
そんな琥珀の思いをよそに、辰巳はすっと立ち上がると、  
二組の布団をそそくさと敷き始めた。  
 
布団を敷き終わり、琥珀の方を向くと、  
彼女は口をぱくぱくさせながらこちらを凝視している。  
「…どうした?」  
「きゃっ!?…い、いえ…何でも、あ、ありません!」  
彼の何気無い言葉にも、過剰に反応してしまう。  
『いや、何かあるだろ…それ…』  
辰巳は口を開きかけたが、  
どうせ返ってくる答えは同じなんだろうなと思い、口をつぐんだ。  
 
「で、では…着替えますので…た、辰巳さんは少しの間…  
あちらの方を向いて頂けませんか?」  
「ん…?あ、あぁ…」  
訳が分からん……何でそんなに声が上擦ってんだ…?  
辰巳は渋々壁の方を向いた。  
 
しゅるしゅると、帯を解く音。  
…しばらくして、ぱさ、という布が落ちる音がして、  
「どうぞ…」と言う声が聞こえた。  
後ろを振り向くとそこには、  
襦絆一枚で髪止めを外した琥珀が、  
布団の上でちょこんと正座しながら、  
顔を赤らめてこちらを向いている。  
そして、「で、では…宜しくお願い致します…。」  
と、深々とお辞儀をした。  
「……何だ?その言葉、さっきも聞いたぞ。  
あと、着替えますとか言っといて、上脱いだだけだろ…それ」  
「えっ?あ、あの……殿方と…共に…寝る…のでしょう…?  
ですから、こうして…着物を…」  
琥珀がそんな事を言うものだから、辰巳の開いた口が塞がらない。  
 
――ああ、うつけ殿よ。そなたの言った事は真実であったぞ。…少々度が過ぎる程に。  
 
「…本っ当に一途な娘だな、お前さんは。  
俺は『一緒に』なんて一言も言った覚えはないが…。」  
沈黙。  
琥珀は先程の会話を一言ずつ辿ってゆく。  
…どうやら、その記憶に辿り着いたらしい。  
「……え……あっ、そ、そうですよね!わ、私ったら…何……」  
湯気が上がりそうなほど顔を真っ赤にして、下を向いてしまった。  
「それとも何だ、俺がこんな誰のとも分からん小屋で妻を抱くような…  
そんな男に見えたか?  
ま、お前さんが抱かれたくてしょうがないと言うなら、  
…してやらんことも無いが」  
辰巳が不敵な笑みを浮かべると、  
「もう……あまり、からかわないで下さい……」  
という、琥珀のいつもより低い声が聞こえる。  
『全く…変な所で大胆、というか変なんだよなぁ。  
ま、少し怒った顔も中々可愛いから良しとするか』  
反省もせず、ついそんな事を考えてしまう。  
 
「それに、楽しみは後に取っておくもんだ」  
「そう…ですかねぇ…」  
「そうさ。ま、覚悟を決めるのは…  
里に着いてからでも遅くはないと思うが」  
…俺が耐えられたら、の話だが。  
とりあえず、今はそこまで言わないでおいた。  
 
「…さて、と。今日は色々あって疲れたろ?  
もう休んだほうがいい。  
明日から、山を越えなくてはならんしな。  
ちゃんと休まないと体が持たんぞ?」  
「は、はい……」  
「この布団、ちょっと埃っぽいけどな…」  
布団をぱんぱんと払いながら、辰巳が呟く。  
埃が宙に舞う。…煙い。  
「けほっこほっ……あ…では……けほ……御休みなさい」  
苦しそうな表情の前を手で払いながら、  
琥珀が就寝の挨拶をする。  
そこまで無理に言うことじゃなかろうに…。  
「…ああ、おやすみ」  
大丈夫かなぁ…と思いながらも、辰巳は布団の中に潜り込み、  
頭まですっぽり隠れる。  
それを見届けた琥珀も、ゆっくりと布団に入った。  
 
 
外の雨が、その勢いを弱める事はない。  
戸はがたがたと揺れて、風の強さを物語っている。  
 
…寒い。  
春と言っても、山の中だけあって少し冷える。  
寒さを紛らわせるために、琥珀は試行錯誤を重ねる。  
体を縮めたり、手を擦り合わせたりしてみる。  
が、あまり効果はない。  
とりあえず、話でもして寒さを紛らわそう…。  
そんな考えに至り、  
琥珀は目の前の布団の膨らみに話し掛ける。  
「ねえ…辰巳さん…起きてますか?」  
「あぁ、起きてる。どうした?」と、布団から声がする。…変な光景だ。  
「…ちょっと寒いですね」  
「そう、だなぁ。まぁ雨は降ってるし…  
山の中だ、多少は冷えるだろうさ」  
その声と同時に布団がするすると下がり、辰巳の顔が現れる。  
どうやら、寒かったのは自分だけではないらしい。  
それを知った琥珀に、ちょっとした好奇心が芽生えてくる。  
 
彼女は、隣の布団を凝視して、その時を待つ。  
そして、辰巳がもぞ…と動き、  
こちらに背を向けた瞬間。  
 
「隙あり!」と突然叫び、琥珀が辰巳の布団に入り込む。  
本人としては、『してやったり』といった感じだろうか。  
しかし、その子供じみた悪戯にびくともせず、  
「…ん?何だ?…抱いてください、ってか?」  
と、ニィと笑いながら、背中にくっついている琥珀をからかう。  
「ち、違いますよ!」  
全くこいつは、分かりやすい反応ばかりする。  
…面白い奴だな。  
 
「あ、いえ…その、少し寒いから……それとも、迷惑ですか?」  
「いーや、別に。俺もちょっと寒かったし、丁度良い」  
琥珀の小さな声に、たまには素直に返してみる。  
「…よかった」  
それを聞いて安心したのか、  
琥珀に再び好奇心が沸いてきたようだ。  
 
目の前に垂れ下がっている髪をぐい、と引っ張ってみる。  
すると、それより前の方から低い声が響いてくる。  
「…おい、俺の髪は引っ張っても何も出んぞ」  
「でも、声は出ました」  
「何だそりゃ」  
二人は同時に吹き出す。  
 
琥珀の好奇心は止まる事を知らない。  
今度は、辰巳の髪を束ねていた紐を取り去ってみる。  
すると、辰巳の髪がぱさ、と音を立てて広がった。  
…鼻にかかって、少し痒い。  
 
「辰巳さんの髪型って…変わってますよねぇ…。  
なんて言うか…女の人みたい」  
さらさらとした髪を引っ張りながら、琥珀は興味津々といったように呟く。  
「…お前さんと似たような髪型を変、とな」  
「あ…そういえばそうですね」  
二人はまたもや、同時に吹き出してしまった。  
 
しばらくして、髪を引っ張る手が止まる。  
「今度は何だ?」  
そんな事を言いながら、後ろの方をちらっと見ると、  
そこには、この上なく穏やかで、  
無邪気な寝顔が横たわっていた。  
黒く長い髪が、頬に無造作に掛かっている。  
 
どうやら、想像してたより随分と疲れが貯まっていたらしい。  
既に、すやすやと寝息を立て始めていた。  
『何だかんだ言って…まだ十七だもんな…  
無理もない、か』  
こうして寝顔を見てみると、やはり子供だ。  
黒い髪をそっと後ろにどかすと、  
血色の良いふくよかな頬が現れた。  
それを指で突っつくと、  
眉をぴく、と動かして…再び元の表情に戻る。  
それを見た辰巳からは、自然と溜め息が漏れる。  
『こいつの悪戯も終わった事だし、俺も寝るか…』  
 
捻っていた首を戻したその時であった。  
突然肩を掴まれたと思ったら、  
得体の知れない二つの何かが、  
背中にぴたりとくっついた。  
 
この感じ――これは、喜びというか、焦りというか…  
 
琥珀が、無意識のうちに辰巳の肩を握りながら  
自分の胸をそっと背中に押し当てていたのである。  
 
 
…年の割に、中々の大きさだ。  
いかん…耐えなくては。  
威勢良くあんな事を言い放っておいて、  
今更『嘘でした』なんて言える筈もない。  
 
……柔らかいな。  
 
『今までの悪戯も、この洒落にらならい悪戯も、  
…仕返しのつもりか?』  
琥珀の安らかな寝顔と共に、  
半刻程前の出来事が頭に浮かんだ。  
…可愛い顔して、やることはえげつない。  
 
 
先程まで少し寒かった位なのに、  
今では全身から汗が吹き出る程熱い。  
『こいつはきっと…あったかい、ぐらいにしか感じてないんだろうな…  
…全く…色香という敵がこれほど手強いとは…』  
そんな事を頭のどこかで思い浮かべながら、  
拷問に近い妻の一途さに耐えた。  
 
 
彼が眠りについたのは、それから一時も後の事である。  
…その間、雨足が弱まる事は無かった。  
 

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