春。それは草木が生い茂り、優しい風が吹き抜ける季節。  
今は四月の半ばであり、ここ尾張の国にも、春が訪れた。  
 
厚く白い雲が浮かぶ青空の下、小高い土手を一組の男女が歩いている。  
 
道の脇には雑草がまばらに生えており、暖かな陽気が辺り一面を包んでいる。  
 
…春だなぁ。  
男がぼうっとしながらそんな事を考えて、曲がりくねった道を歩いていると、  
突然、華柄の着物を着た女の声が響く。  
「あのぅ…陸奥様…」  
後ろから聞こえてくるその柔らかな声に、  
ばつが悪そうに頭を掻きながら、男は振り向いて答える。  
「…その呼び方、なぁ……どうにかならんのか?…琥珀さんよ」  
 
 
――何でこんな事になっちまったんだろうなぁ  
 
琥珀が辰巳の嫁となったのは、つい数分前の事であった。  
悪い気はしない。  
しないのだが…あまりにも唐突過ぎる。  
俺はただ…腹が減ってただけなんだがな…。  
……ま、握り飯も付いてきた訳だし…それも良いか。  
辰巳の楽観的な性格も手伝ってか、そんな悩みは吹き抜ける風と共にすぐに飛んでいった。  
 
 
再び、女の声がする。  
「あ…は、はい…申し訳ありません…」  
こほん、と意味あり気な咳をしながら、こう続ける。  
「では…た、辰巳さん…」  
名前で呼ぶのが少し恥ずかしいのか、琥珀は抱えていた風呂敷を左手で持ち直し、  
ほんのりと赤らんだ頬に右手を添え、小さな声で呟く。  
彼女としても、今日突然夫が出来るとは思っても見なかった。  
…自分からそれを望んだとしてもだ。  
恥ずかしいものは、恥ずかしい。  
 
そんな初な反応を示す彼女を可愛らしく感じた辰巳は、  
「はいよ」と、ニッと微笑みながら返事を返す。  
 
「…これからどうなさるのですか?」  
 
空に浮かぶ雲が、ゆっくりと流れる。  
風は穏やかのようだ。  
その雲を眺めながら、辰巳は「ん…そう、だなぁ。とりあえず里に帰るさ」と、琥珀に返す。  
「里に…ですか。それはやはり、奥州…ですか?」  
「あぁ、そうだ。こっからじゃ、ちょっと遠いけどな」  
辰巳の笑い声が耳に入る。  
……何かがおかしい。  
奥州って……ちょっとどころじゃない。遠い。  
 
…旅の支度は、何もしていない。  
琥珀は決してその事を口には出さなかった。  
『ついてこれたらな』という、つい数分前の辰巳の言葉が鮮明に浮かび上がってくる。  
つまりそれは、迷惑を掛けるな、ということ。  
そんな事を言えば、きっと彼に置いて行かれてしまうに違いない。  
それだけは…嫌…と、自分に言い聞かせたのである。  
 
…しかし、どうもそれだけが理由という訳ではないようだ。  
 
何を隠そう、琥珀は生まれてから一度も国を出たことが無いのである。  
武家の娘として、来る日も来る日も、  
家事だとか、世の中の情勢や長刀の扱い方を学んだり、…そして舞踊の稽古に明け暮れる日々が続き、  
たまに兄の為に握り飯を作って持っていく…そんな事ばかりであった。  
…まぁ、舞踊と兄様は嫌いではないけど…  
そんな思いが、頭のどこかに残っているようだが…。  
 
とにかく、まともに外に出たことがないのは紛れも無い事実であった。  
そんな自分に、何も持たずに二人で旅をするという機会を与えてくれた辰巳が、その中でどんなものを見せ、どんな経験をさせてくれるのだろうか。  
彼女はそれが楽しみでしょうがなかった。  
 
要するに、琥珀の頭の中は不安と、それよりも大きな好奇心でいっぱいであったのだ。  
 
風は、やはり穏やかである。  
小鳥の囀りが頭上を通り抜ける。  
暖かい春風に吹かれながらふと横に目を向ければ、そこは見渡す限りの山、森、草原、そして田園風景。  
近くの川で子供達が魚でも採っているのだろうか。  
せせらぎの音に混じって、無邪気な声が響き渡る。  
…戦乱の世にも、これほど平穏な地があるのだなぁ…と、辰巳は染々と感じた。  
 
緩やかな上り坂に差し掛かったところで、辰巳が琥珀に問う。  
「それにしても」  
「…はい?」  
「お前さんは何でまた俺に連れてけだの言ったんだ?」  
突然の突き刺さるような問い掛けに、少し戸惑ったような顔をして、琥珀は茶を濁したような返事を返す。  
「は、はぁ…何故、と言われましても…」  
そんな様子に、辰巳は眉をひそめて少し残念そうに  
「…兄貴の件…俺はそんなに信用出来なかったか?」と言う。  
「そ、そんなことありません!」と、琥珀の高い声。  
それを聞いた辰巳は足を止め、  
「じゃあ何で」と、その声がした方を向いてぽつりと呟く。  
 
琥珀と辰巳の目が合う。  
いつの間にか風は止み、少し恐ろしい程の静けさが辺り一面を包み込んでいる。  
そのせいか、己の鼓動がやけに大きく聞こえてくる。  
もしかして、彼に聞こえてしまっているのでは…と思ってしまう程、彼女の心臓は高鳴っていた。  
…気まずい雰囲気。どうにかしなくては。  
琥珀は思考を巡らす。  
そして、「…せ、先刻にも申し上げたように、辰巳さんは…『女の意思』とおっしゃいましたね…。  
兄様でも…そのような事を口にすることは…ありませんでした」  
と、途切れ途切れに言った。  
それに対し、「そりゃあ、尾張のうつけ殿にそんな言葉は似合わんさ」という辰巳の鋭い指摘が飛ぶ。  
琥珀は内心、どきっとした。  
何故なら、否定できないから。  
確かに、兄のそれには納得である。  
 
…確かにそうだ。  
だが、兄どころか、誰一人としてそんな事を言う者はいなかった。  
母も死ぬ間際には、『夫に尽せ』だの何だの言うだけだった。  
母が亡くなった事より、そんな事しか言ってくれなかった、母そのものが悲しかった。  
女に生まれてきたのを、少しだけ呪った事もある。  
 
しかし彼女は今日、ついに出会ってしまったのだ。  
風のようにふっと目の前に現れ、最も強い男として尊敬していた兄を、赤子同然に扱う程強く、逞しい彼に。  
…そして、誰も言う筈の無い言葉をさらっと言う、優しい彼に。  
 
――そう、あれは…一目惚れだった  
 
 
「確かにそう、なのですが…」  
彼女は続ける。  
「それで…その一言で、貴方に惹かれました…。」  
「俺に…ねぇ」  
「はい…この方なら、きっと私を大切に、幸せにしてくださる、と…」  
恥ずかしがり屋の琥珀は辰巳の顔を直視出来ずに、  
下を向きながらはそう言った。  
『幸せ……幸せねぇ…。  
俺は…強い奴と仕合って、腹が減らなきゃそれで十分幸せなんだがな』  
琥珀の言う『幸せ』が一体どのようなものか、そんな考えの辰巳にはよく分からない。  
「幸せ、か……。ま、陸奥の女はそんくらい怖…じゃなかった。力強いってこった」  
口から出かけた本心を飲み込んで、そう言い直した。  
しまった、と思い、辰巳は琥珀から目を反らし、歩き始める。  
彼の後を追うようにして彼女も歩き出した。  
後ろをちら…と振り返ると、特に気にしている様子ではないようだ。  
彼は内心、ほっと溜め息を吐いた。  
 
「それに…」と、琥珀の小さな声が耳に届く。  
「何だ、まだあるのか?」  
辰巳の視線がもう一度彼女に向けられる。  
すると、琥珀は手に持っていた風呂敷をきゅっと抱き締め、  
それに桜色の顔を押し当ててぽつりと呟く。  
「その……辰巳さんには…見られてしまいましたから……」  
その言葉を聞いた辰巳の肩ががく、と落ちた。  
「お、お前さんは本当に一途と言うか…。あのな、あんなこと本気にすることも無かろうに。  
…それにこうも言ったはずだが?『そんなことは無い』…とな」  
辰巳は少し呆れた顔で言う。  
「も、申し訳ありません…」  
琥珀の顔は風呂敷ですっぽりと隠されてしまった。  
…  
ぽかんとした顔で、辰巳は言い放つ。  
「ん…そんなの謝ることか?ま、何でもいいさ」  
「はい、申し訳ありません…」  
…言ってる側から謝りやがるとは…  
…彼女はひょっとして、中々の天然なんだなぁ。  
そんな事を考えてたら、辰巳は腹が減ってきた。  
…腹が減ってきたので思い出した。  
そういえば、何かついでに貰ったよな…。  
「あ、そうだ」  
思い出した。  
「はい?」  
「とりあえず俺は腹が減った。それ、貰おうか」  
「……あ…は、はい!…どうぞ」  
突然の要望に、琥珀は慌てて風呂敷を顔から離して開き、握り飯を一つ手渡す。  
彼女は辰巳の真横に並び、不安そうに彼を覗き込む。  
その視線を気にすることもなく、彼はそれを一口で消化する。  
「…どうですか?」と、琥珀の声。  
その質問に「ん…美味いな」と、米粒の付いた親指を舐めながら辰巳がぼそ…と答えた。  
「ふふ…良かった」  
そんな、やけに子供っぽい彼を何だか可愛らしく感じた琥珀は、  
口元にそっと手を当てくすくすと笑った。  
 
少しだけ、風が吹いた。  
二人の髪は、その風向きに沿ってゆらゆらと揺れていた。  
風向きは、東……。  
追い風、か。  
 
 
子供達は、魚を採れたのかな…?  
そんな事を思いながら、二人は厚い雲の下、山道へと入っていった。  
 

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