「もう、いいじゃーん。なあ、菊音ー。いい加減、新婚旅行に行こうぜー」  
「お市さん、しつこいっ!  
行かないっつってんでしょ!  
だいたい、あたしたち、結婚なんてしてないしっ!」  
なにかあると……いや、何もなくともすぐこれだ。  
市松のことは嫌いじゃない。  
むしろ、本当は好きだ。  
けれど意地を張り通してきてしまった手前、今更素直になれない。  
市松の執拗な追跡から逃げているうちに、近くを流れる川まで来てしまった菊音は、  
大きなため息をついて川原の石をこん、と蹴った。  
「あいたっ!」  
「へっ!?」  
人の気配なんて感じていなかったせいで、必要以上に驚いて、菊音は声のした方を見た。  
 
「痛いのだす」  
声の主は釣竿を片手に、石が当たったらしい膝をさすり、口を尖らせていた。  
「あっ!多聞さん!」  
「だす」  
「こんな所にまで……」  
この人の行動範囲は一体どうなっているのだろう。  
そんな事を考えながら、多聞の傍まで行くと、菊音は後ろで手を組んで足元に置かれた桶を覗き込んだ。  
多聞は竿を引き、糸を手繰った。  
魚が桶に追加される。  
「相変わらず、釣りの名手なのね」  
「違うのだす。みんな、寄ってきて欲しい欲しいと思うから、魚が逃げてしまうのだす。  
腕は関係ないのだす」  
その言葉に菊音は市松の顔を思い浮かべ、また深くため息をついてしまった。  
「ホント……誰かさんにも聞いてほしいわぁ。その台詞」  
「……だども、逃げようとする魚がいれば、追いたくなる人が居るのも仕方がないことなのだす」  
自分が逃げなくなったら、市松は追ってこなくなるのだろうか?  
分からない。  
分からないけれど、そうなったら、きっと寂しくなってしまう。  
菊音はしゃがみこんで、多聞が針に餌を付ける様子を眺めた。  
「でもね、つかまった後を考えると怖いから、逃げるのよ」  
釣り人が竿をしならせ、錘がぽちゃんと水面に落ちる。  
「んだども、うまい魚は何度も何度も食いたくなるものなのだす」  
魚は食べられたらそれっきり。  
この人は分かって言っているのかな、頭の端ではそう思ったけれど、菊音はにじんでくる涙を隠して、抱えていた膝に額を擦りつけた。  
 
「菊音、菊音。新婚旅行はどこに行く?」  
「だから、結婚してないでしょっ!」  
口をわざとらしく突き出して、顔を寄せてくる市松から逃走しようとする身体を必死に抑え、菊音は彼を睨んだ。  
「じゃぁ、結婚しようぜ。嫁に来いって前から言ってるじゃん」  
「お市さん。お市さんはいつもそう言うけど、私の気持ちは考えて、くれてるの?」  
いつもと違う対応をした菊音に驚いたのか、市松はすぐには口を開かなかった。  
ただ、きょとんとして、まじまじと菊音を見つめている。  
菊音は菊音で、逃げずにその場に居るのが精一杯だった。  
「菊音は俺のことが好きなんだろう?」  
「はあ?」  
当たっているとはいえ、どうしてそういう結論になるのか。  
唐突な回答に菊音はめまいがした。  
「何を根拠に……」  
「本当に嫌なら、どんな手段でもあるだろう?菊音なら」  
確かにそうだ。  
発明品を使ったことはあっても、怪我を負わせるようなものは使ったことがない。  
本当に嫌なら、夜、逃げ出すことだって十分に出来るのだ。  
そんな事、考えもしなかった。  
そう思ったら、力が抜けてきて、菊音はいつの間にか笑っていた。  
それを見ていた市松も満足そうに笑みを作った。  
「よし笑ったな。じゃぁ、さっそく祝言を……」  
「だっかっらっ!どうしてそこに飛ぶの、お市さんはっ!」  
「じゃあ、結納を……」  
「そういうことじゃなくて」  
「じゃあ、どういうことだ?」  
いざ聞かれると、自分がどうしたいのか分からない。  
菊音は先よりずっと手に持っていた螺旋回しを手の先で弄びながら、思いついた答えを口にした。  
 
「少しは、こ……、こっ、こっ、恋人同士っぽいことを……」  
「なるほど」  
もっともだ、と頷く市松を見て、菊音は自分の言った事に今更顔を赤くした。  
が、それもつかの間、市松が言葉を続けた。  
「じゃぁ、菊音。目を瞑れ」  
「ええっ!?」  
せいぜい手を繋ぐとか、その程度しか考えていなかったため、菊音は照れるより先に驚いてしまった。  
「『ええっ!?』じゃなくて。恋人らしいことをするんだろう?」  
「おっ、お、お市さん……それって、こ、……恋人っぽいことなの?」  
「じゃぁ、恋人っぽいことってどんななんだ?」  
「う……」  
そう言われてしまうと、手を繋ぐぐらいは更紗とだってしていたことだから、違う気もしてきた。  
かといって、混乱し始めている頭では正常な回答を導き出せない。  
菊音は言葉に詰まってしまった。  
 
「菊音……」  
「お市さん?」  
声に顔を上げると目の前に市松の鼻があり、次の瞬間、頬に何かが触れた。  
「っ……」  
以前、別れ際に額に落とされたキスとは違って、悲しくなかった。  
悲しくないのに、何故だか目頭が熱くなって涙がにじんだ。  
「あ、あれぇ?」  
慌てて手の甲で目をこすると、市松は何も言わずに大きな手で頬を包み込んできた。  
先ほどとは反対の頬に唇が落ちてきて、菊音は目を固く瞑った。  
肩が強張っているのが自分でよく分かる。  
鼻の頭や瞼や額。  
市松の柔らかい口付けをいくつもいくつも受けるうちに、菊音の身体は弛緩していく。  
なんだか、くすぐったくて恥ずかしいのに、すごく心地よくて、菊音はいつまでもこうしていたい気持ちになってきて、いつの間にか詰めてしまっていた息をほう、と小さく吐き出した。  
その唇を市松の唇が塞いだ。  
それは今まで顔中に降らされていたキスの雨と同じように、柔らかくて、特別なもののようには感じられなかったが、口付けはそこで終わってしまった。  
市松の顔がゆっくりと離れていく気配がする。  
親指で頬を撫でられて、菊音がようやく目を開けると、市松は傷痕だらけの顔で優しい笑みを浮かべてくれていた。  
照れくさいながらもつられて微笑む。  
女の子で良かった。  
菊音はまたそう思った。  
(了)  
 

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