殺そうと思えば簡単に殺せる。そんな無防備な背中だった。だからこそ、タラは獅子王を
殺すことができないでいた。
王の妃として城に留まることになってから三日目、タラは城から少し離れた所にある離宮
に連れていかれた。派手好みの獅子王の趣味なのか、豪奢な装飾の施された輿に乗せられる。
タラはこの離宮で、自分が殺されるのだと思った。
昨日、タラは王の目の前で文官を一人刺し殺し、三人に斬りかかり、ほどなくして取り押さえられた。
そうした理由は簡単だった。そいつらは玄象たちのことを貶した。名前は出さなかったが、すぐわかった。
気付いた時には身体が動いており、手が血に濡れていた。手袋をしていないと柄が滑る。
取り押さえられたのは、血で刀を取り落とした時だった。
それから座敷牢に入れられ、今に至る。何故か刀は取り上げられなかった。最初から獅子王は
タラが刀を持つことを許していた。というよりも関心がなく、ただ「好きにしろ」とだけ言った。
離宮に着き、侍女に案内されるままについていくと、寝室に通された。異国から取り寄せられた
と思しき天蓋つきの大きな寝台が置かれている。その他には調度品らしきものが数点飾られているだけだ。
「来たか」
何の抑揚もない声が背後から投げかけられる。振り返らずとも誰なのかわかった。
「あたしを、殺すの?」
タラは背を向けたまま尋ねる。
「何故そう思う」
「昨日、斬りつけたから」
「ああ、あのことか。あれは久方ぶりに面白かったぞ」
くつくつと軽薄そうに笑い、獅子王はタラに近づいた。腕を掴んで引き寄せ、髪を引っ張って
強引に上を向かせる。
「まだ殺しはせん。早く阿呆を産み、俺を愉しませろ。それがお前のいる意味だ」
獅子王は有無を言わせずタラの身体を抱き上げ、そのまま寝台に向かって乱暴に放り投げる。
束の間の無重力の後、タラは自分の身体がどこまでも沈みこんでいくような感覚を受けた。
思わず「わっ」という短く情けない悲鳴を上げてしまう。
物心ついた時にはすでに、牢屋の固い地面に藁で編んだ筵を引いただけの所に眠っていたし、
玄象達と共に行動するようになってからは、板の間に布団を敷いて皆で眠った。寝台の柔らかさは、
タラが今までに感じたことのないものだった。
そういえば、とタラは思い出す。玄象達に助けられてすぐ、熱いお風呂の入り方がわからなくて
溺れかけた時と少し似ている。そんなに昔のことではないのに、あの時がひどく懐かしい。
タラの顔に表れたわずかな郷愁に目ざとく気付いた獅子王は、それを壊すべく荒々しく口付けた。
舌を差し入れ、口腔を蹂躙するが、タラは抗いも応じもしない。ただそこにあるだけだった。
獅子王は自分が木偶を抱いているような気分に陥り、ふっと醒めた。
「何故、何もしない」
自分の身体の下にいるタラに向って尋ねる。
女といえば、今まで二種類しかいなかった。残虐無比な獅子王に恐れおののく者か、
媚びへつらう者か。どちらも退屈で面白みがなく、行為の後、しばしば戯れに首を切り
落としてみたりなどした。
よくよく考えてみれば女だけでなく、男も同じ二種類しかいない。即位当初は若人だと甘く見て
あれやこれやと具申してくる者はいたが、先王の代からの重臣を不敬罪で切り捨てて以降、
ふつりといなくなった。
「あたしに、何かしてほしいの?」
タラは静かに問い返した。獅子王を見据える瞳は生気こそないが何か念のようなものが
宿っている。
獅子王は微かに心が沸くのを感じた。
「そうだな……」
手の甲に顎を乗せ、暫し獅子王は思案する。目の前の女を昂ぶらせ、牙を剥かせる術を欲した。
敢えて逆らってくる者を捻じ伏せることに歓びを見出す性癖――ありていに言えば嗜虐趣味だった。
獅子王の目に赤黒い傷跡が止まる。それはゆるく握られたタラの両の手のひらにあった。
よくよくみれば甲の方にも小さいが同じような跡がある。何かで手を貫かれたようだった。
「これは何だ」
細く骨っぽいタラの手首を掴み、親指で傷跡をえぐるようにしながら獅子王は尋ねる。
返答に大した期待はしない。僅かでも痛みが顔色に表れれば良いと思った。
タラは奥歯をぎりっと噛み締め、ほんの少し眉を寄せたが、一瞬きの後、綺麗に消えうせる。
美しい表情だった。薄く開いた唇の間からは獣の牙が見え、瞳孔が開いた金茶の眼からは
纏わりつく闇が見える。より強く爪を立てても、もう眉の一つも動かさない。
獅子王は何か得体の知れない情動に突き動かされ、タラの纏う衣を剥ぐ。帯はそのままで、
上半身だけが剥き出しにされる。淡い桜色の差した肌だった。獅子を屠り、数多の者を殺してきた
女傑とは思えぬほど華奢で、傷などもほとんど見あたらない。
(鶏がらで洗濯板だな)
獅子王は心中で率直な感想を呟く。肌の質感は好ましいが、もう少し胸にも尻にも肉付きが
ある方が良い。それにこのような身体で丈夫な阿呆が産めるか。次からはもっと肉を食わせよう。
「……抱かないの?」
神妙な顔をしていつまでも身体を仔細に見つめている獅子王に耐えかね、タラは尋ねる。
どうこうされるのには耐性があるが、ただ見られるだけというのには抵抗がある。
「ほう、抱いて欲しいか」
初めて自発的に言葉を発したタラに、獅子王は目を細める。
「好きにすればいい」
「ならば捨て置け。俺の勝手ぞ」
「……落ち着かない」
「これから閨事をするというに落ち着いてどうする」
「やっぱり抱くの?」
「さぁ。このまま落ち着きのないお前を見ているというのもまた一興」
タラはその言葉に露骨に嫌な顔をする。獅子王はそれを無視し、身体の起伏を視線で追った。
猫の舌を思わせる、どこか湿っぽくざらりとした視線だった。視線が身体の上を走るたびに
肌が粟立つ。口を一文字に引き結び表情を出さぬよう努めても、肌に直接現れるそれは隠し
ようがなかった。
獅子王は目を閉じるようにゆったりとまばたきをした後、口の端を吊り上げ悪漢の如くに嗤う。
これくらいにしておいてやろう、タラの耳元に顔を寄せ、聞き取れるかどうかといった小さな声
で言い、獅子王は露にされている部分にふれる。鳥肌立っているためお世辞にも好ましい感触
とは言えなかったが、唇を這わせ、撫ぜていくうちに元のすべらかなさまを取り戻していく。
傲岸不遜な態度を取り続けていた彼にしては恐ろしく丁寧な愛撫だった。
何人かで押さえつけられ、無理矢理身体を開かされた経験しかないタラにとって、獅子王の
行為はある意味不可思議なことであった。そのせいなのか、次第に呼吸も緩やかではあるが
乱れてくる。
獅子王の手が帯を解き、タラの腰から太腿のあたりまでをぴったりと覆っていた黒い布を
ふくらはぎの所まで引きずりおろす。衣の端が身体にかかってはいるが、これで身に纏って
いた物はすべて取り払われた。
タラは抵抗らしい抵抗はしなかった。できなかった、とも言える。原因のわからない動悸に
悩まされ、獅子王のなすがままにされる他なかった。
「そんな顔もできるのか」
驚いたように、嘲るように、獅子王は言う。内太腿に唇をあてがったまま言ったため、言葉は
微妙な振動となってタラの身体に伝わる。
「ぃっ……」
びくり、と誰の目にも明らかなほど痙攣するのを抑えられなかったタラは、上気していた頬を
より染める。表情こそ能面のように硬いが、顔はいっそ憐れなほどに赤い。
「本当に可笑しな女だな」
獅子王は言う。前よりも秘部に顔を近づけ、今度はより意図的に。タラが何に反応を示したのか
見逃す彼ではなかった。
この時、タラの内ではっきりとした嫌悪が生まれる。無関心という殻を破り、自ら這い出てきた。
どうしてここまで執拗に辱めを受けなければならないのか。面白い世継ぎが見たいのであれば
早く仕込めばいい。獣の如くに――それは獅子王というひとりの暴君に対する嫌悪ではなく、
自分を組み伏せ嗤っている男に対する嫌悪だった。
同時に、タラは自分に対しても嫌悪をいだいた。この程度のことで感じてしまった自分が
ひどくみじめで情けなかった。いっそこの場でこの男を殺してしまえたらと思う。
だから――タラがすっかりおとなしくなったのだと油断した獅子王が自らも衣服を脱ぎ、
首のあたりが覗いた時――タラは、がぁっ! と狼の唸り声に似た声をあげ、咽喉元に
喰らいついていた。
が、獅子王が右腕で咽喉をかばう方が一瞬早く、タラは腕に噛みついたままの状態で寝台に
強く押しつけられた。ぐりり、と後頭部が擦れ、熱が生じる。
「面白かった、が、冷めたわ」
と言い、獅子王は強引に腕を引き抜く。タラの牙は鋭く、腕には四箇所赤いものが滲んでいた。
獅子王は腕の痕を舐め、服を適当に羽織る。
「そういえば、名をまだ聞いていなかったな」
部屋を出て行く直前、獅子王は立ち止まり、思い出したかのように言った。振り返り、
寝台の上から動かないでいるタラをうながすように見る。
「……タラ」
「たら? 冴えぬ名だな。まあどうでもいいが。
また来るぞ、タラ」
痕を舐めた時についたのか、そう言って笑った獅子王の口は紅を差したかのように赤かった。
獅子王が去った後、タラは唾を吐き、唇と歯を手の甲で拭った。掠れた朱の線が甲に走る。
血の味はいつまでも口の中に残っていた。
〈終〉