「貴方は『菊』で、お市は『松』だから」  
 そう言って紫の上に誂えられた白打掛は、菊花と若松の地紋の上に、羽根を広げた比翼の鶴が絹糸で刺繍されている、というものだった。  
 出来上がった打掛を目にした時は、「上さまも、うまいこと言うなあ」などと、自分の大事であるにも関わらず、どこか暢気に構えていたのだが。  
 いざこうして、互いの名に掛けた柄の打掛に袖を通し、夫婦固めの式を数分後に控えて、という状態を迎えると、『妻』という自分に新しく与えられる立場に対して、自覚も覚悟もほとんど持っていなかったことを思い知らされる。  
 「嫁に来い」という言葉だけなら、それこそ、求婚という行為の希少性とありがたみを忘れそうになるほどの回数を耳にしていたというのに──  
「そろそろ嫁に来る気になったか?」  
「昨日も一昨日も、まだだって言ったでしょ」  
「一晩寝て起きたら気が変わるってのは、よくあることだからな」  
「プロポーズって、日課としてするものじゃないと思うんだけど」  
「女冥利に尽きるだろ?」  
「そういう問題じゃないの!」  
「文句の多い奴。お前がとっとと嫁に来れば、万事解決だぞ」  
 そんな会話を毎日のように交わしていたのは、つい先日までのことだ。  
 深く考えれば照れが現れてしまうことを自分でも知っていたから、勢いに任せて憎まれ口と悪態ばかりで応酬していた。  
 軽口を叩き合いながらも次第に惹かれていく自分をどうしようもできずに、相手の不遜な態度と口の悪さに甘えていたのだと思う。  
 自分が必死になって意地を張っているのは、分かっていた。そして多分、相手もそれを見抜いていた。  
 もしかすると、彼の方が菊音自身よりもよく理解していたのかもしれない。  
 だからこそ、あっけらかんとした笑顔で「嫁に来い」などと言い放っては、どこか子供じみた強情を通していた娘が素直に頷くようになるのを待っていたのだろう。  
 
 ──だが、頷きはしたものの。  
 それと、婚儀に臨んでの緊張感とは、全くの別問題である。  
 大きく息を吸い込んで、できるだけゆっくりと吐き出す。それでも、早鐘を打つ心臓は、全くその速度を落としてはいなかった。絹地の上から押さえた胸は、手の平にはっきりと鼓動を伝えている。  
 もう一度、深呼吸。少しは落ち着いたかなと、わざとらしく菊音は呟く。大した変化が生じていないことは分かりきっていたが、この際、冷静な観察は無視した方が賢明だ。  
 たかが、祝言じゃないの。お市さんの横で、大人しくしてればすぐ終わる、そうよね、うん。そうだよ、結婚なんて、誰でもやってることじゃない。  
 そりゃ確かに、終わった後には…えーと、その、しょ、初夜、ってやつが控えてたりもするけど……いや、夜のことは今は考えないようにしよう、とにかく…  
「おーい」  
 不意に、背後から呼びかけられた。びくんと、白絹に包まれた身体が撥ねる。  
「生きてるか?」  
 余りにも場違いで縁起の悪い台詞が、投げかけられる。花嫁に対する台詞としても問題だが、花婿が口にする言葉としてもいささか問題だ。  
 だが声の主は、全く気に留めた様子もなければ、悪びれた気配もない。黒羽二重の羽織の袖を無造作に組んで、部屋の入口に佇んでいる。市松が軽く肩をすくめて見せると、白く染め抜かれた沢瀉の紋が、微かに動いた。  
「返事ぐらいしろよ。何度も呼んだぞ」  
「あ…、そう、だった? ごめん、ちょっとボーっとしてた」  
 何とか応じた自分の声が上ずっていた。こっそりとついた溜息は、僅かに震えを帯びている。相手に、悟られていなければ良いのだが。ちょっと心配になって、そっと目線だけを上げてみる。  
 
 真っ直ぐに──相手の視線が、注がれていた。  
 市松は先程と同じ位置に立ったまま、じっと菊音を見つめていた。右手に持った白扇を手の中に弄びながら、ほんの少し小首を傾げるような姿勢で。  
 含みのあるような目でもなければ、良からぬことを企んでいるといった体でもない。ただ無心に、敢えて言うなれば、僅かな驚きを宿した表情で、目の前の少女に眼差しのほとんどを預けている。  
「な……、なに?」  
 向けられた視線にどう反応して良いか分からず、戸惑った疑問の声が漏れた。  
 それでなくとも、緊張に全身を強張らせた状態で、まともな思考はあまり残っていない。いっそのこと、いつものように明るく笑い飛ばすなり冗談で雑(ま)ぜっ返すなりしてくれれば、こちらも相応に言い返せるものを。  
 半ば八つ当たりじみたことを考えていると、ようやく市松が口を開いた。どこか、まだちょっと意外だとでも言わんばかりの様子で。  
「お前、結構美人だったんだな」  
「………へ?」  
 我ながら、間の抜けた反応だとは思った。投げかけられた言葉が、咄嗟に受け入れられない。  
「驚いたなー。可愛いとは思ってたけど」  
 ぽかんとする菊音をまっすぐに見据えたまま、しみじみと市松は頷いている。辛うじて残っていた理性が、ようやく、おぼろげながらも相手の言葉を飲み込み始めた。連れて、顔に朱が昇っていく。  
「…え…っと、あ、あのっ…」  
「うん、やっぱ美人だ。すっげえ綺麗」  
 そう言って、破顔一笑。  
 とどめの一言と心底嬉しそうな笑みに、「お世辞なんか言ってどうするの」と用意した憎まれ口が、跡形もなく焼き尽くされた。  
「…あ……、ありがと…」  
 気恥ずかしさが──そして、認めたくないけれど、ほんの少しの嬉しさが──、震える声を掠れさせた。  
 美辞麗句や巧言令色とは無縁の男だと知っているからこそ、直截な誉め言葉に照れてしまう。花嫁衣裳の内側で、全身が茹だっているような気分だった。  
 
 不意に、火照った頬を両手に包まれた。驚いて目を見張る。上がりそうになった小さな悲鳴は、喉の奥に吐息ごと飲み込んだ。  
「ちょ…っと! な、何してるの!」  
「何って。この状況で、やることは一つだろ?」  
 小さく笑いながら市松が、菊音の顎に指を掛ける。軽く上を向かされた顔と相手との距離がさらに縮まった。  
「わ、待ってってば!」  
「………嫌、か?」  
 男の囁きと一緒に、吐息が零れる。唇に落とされたその熱さと、低い囁き声の穏やかな調子に、菊音は肩をびくりと竦めた。  
 卑怯だと思う。そんなにも優しい声音で囁かれたら、こんなにも距離を詰めて問われたら、嫌だなどと言えるわけがない。  
「…紅が、落ちる、から…」  
 嫌じゃないとは、言わない。言えない。素直に言ってなんかやりたくない。  
「じゃ、尚更暴れるな。手元が狂うだろ?」  
 俺は、多少狂っても良いけどな。皮肉っぽく付け加えられたのが悔しくて、上目遣いに市松を睨む。余裕たっぷりの視線と余裕の欠片もない視線がぶつかって、絡み合った。  
 爪の背で、頬を撫でられる。くすぐったいのか気持ち良いのか恥ずかしいのか、自分でももう、よく分からない。  
 軽く息を吸い込んで、それを止める。瞳をぎゅっと伏せると、意を決して菊音は顔を上げた。  
 白衣と黒衣を伝わる体温、耳に心地良い低い声、屈託のない笑顔。何もかもが、腹立たしい。腹立たしくて、そして──  
「紅が落ちるようなやつは…夜に、な」  
 どこか淫猥な口調で囁かれて、思わず目を見開いた瞬間。  
 そっと、唇が重ねられた。  
 
 

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