去っていく背を見る内に、私は笑う声を止めた。  
 何をしているのだろう?柿人への求めを平然と踏みつけられた。去れと命じたから、平然と去られている。  
 憎い、憎い、憎い。私がどんな仕打ちをしても受け止め続ける。何を命じてもその通りにする。それでいて、私がずっと望んでいる事はいつも叶えようとしない。  
 その裏に嫌悪や侮蔑があれば私も同じものを返せるのに、ただ側に居続けるだけの男だ。  
 その男に、自分が思っている通りの事を与えられずにいる、私は。  
 このまま感情を全て閉じ込めて、本当に言いたい事を忘れてしまって、何も言えなくなるのか。  
 それはいや。  
 閉じていく扉の方へ手を伸ばしたけれど、届くはずもない。それでも腕を伸ばして、布の端を掴んで、そちらへ体を引きずっていく。脚が動かないのも忘れてそうしてしまった事に気付いた時、体が宙に放られ、床に転げ落ちた。  
「何をなさっているのです……!」  
 痛い。顔から落ちなかった事は幸いだった、でも進まないといけない。そう思って這い進もうと床に手をあてていると、まだ聞くはずのない扉の音に続いて、ここにあるはずのない腕が頭上から抱えて、体を起こそうとしてくる。  
 温かなその腕と戻ってきたその匂いに、気付けば腕を回してしがみついた。私とは違う、動き、歩く事の出来る、しっかりと肉のある両脚だ。  
 しようと思えば、この男は自分で歩いて、私から永久に離れる事が出来るのに、必ず戻ってきた。何度も、何度でも、私が何を言おうと、帰ってくる。これからもきっとこの脚で帰ってくる。  
 いつか、倒れてしまわぬ限りは。  
 考えは一度浮かび上がってくると、まさに今、それが現実になったかのように恐ろしさで体を震わせた。柿人は動かない。その脚に傷つける為でなく、爪を立てた。そうでもしなければ、また自分が笑い出してしまいそうだった。  
「愚か者がどこかへ行こうとしているから、それを引き止めたのよ」  
 しがみつく力を強める。  
 そうすれば、この男が倒れて起き上がるのを、私がいつまでも待つ幻を見ないで済む。  
「どこかへ行ってしまうなんて、私は許さないわ……」  
 男が勝手に決めている事だ。倒れるまでのほんの一時を、私が言うままに生きる。そして永久に、去る。  
 
 分かっているのだろうか。その時、私には何も残されていない事になる。私は今も何もないのに、そう思う。  
 今度は傷つける為にさらに爪を立てて、離す。  
「寝かせて」  
 言うと抱えようとする姿が目に入る事になる。柿人の抱え上げ方がもっとも心地よい。私の体は揺らぐ事のない確かな腕と、表情を澱の下に沈めた眼差しの中で元通りに寝かされる。身体に異常のない事を確かめようとした手の袖を掴む。  
 私のどこにそのような力があったのだろう。むしった服は、遠くに放り捨てた。後には柿人の体が残る。  
 もう機能を果たさない事は、見ただけでは分からなかった。けれど医師でもある柿人が言うからには、嘘ではないのだろう。  
「もっと、傷をつける気になったわ」  
 まだ掴んでいた腕を引くままに側へ寄ってきたので、腰に手を回し、口をつける事は容易かった。  
 かつてそうしたように、ゆっくりと舐めた。味はよく分からない。でも、これも傷だ。  
「このような事をしては」  
 柿人の声は欲情とはほど遠く、沈んだままでいる。  
「黙って」  
 かつて手にこうした時と同じだとは、言わないままにした。  
 柔らかい。男の体がこんなに柔らかくなるとは知らなかった。私にとって男とは、恐ろしくて強くて、爪を立てる事でしか私には抵抗する術がないものだった。  
 その中でももっとも恐ろしいと思っていて、先程まで、入ってきて引き裂いてくれれば、私は何もかもを踏みつけられるようになると思っていた箇所は、何の力もない。  
 体の傷が力を奪ってしまう。それは柿人もだったのか。  
 口から離すと、唾にまみれたまま元通り垂れ下がる。見ていると、胸の辺りに何かが湧いてきた。  
「背を向けて」  
 言う通り、柿人は背を向けた。  
 広い背の一面にある火傷の跡に、血の筋が重なっている。私が先程までつけ続けた傷だ。  
 この傷があるから、この男は私の側から離れない、そう思っていた。  
「この傷が治って欲しいとは思わないわ……」  
 掌をあてて言った。  
 
 問うべきは、何をしているのだろう、ではなかった。  
 私は、周りを本当に見ていたのだろうか?例えば、この男の傷は?  
 掌から温かさが伝わってくる。失った人と過去を思い出す。彼らの為に、火傷の痛みを、傷の痛みをこの男が忘れないでいるように、と願った。  
 それで十分だった。  
 腕を柿人の肩に回して、背後から抱きついた。  
「役立たずだからどうだというの、技だけだから……それが何」  
 怪物を、私の可愛くも疎ましい浅葱を、迷宮に閉じ込めたと思ってきた。  
 何の事はない、ここがもう迷宮だ。いつからかは分からない、でも全てがこの奈落の中にある。  
 すがりつきたくない、私はこの男に夫を殺され、そしてその夫が何を言ってくれたのかもおぼろになってしまった。許したくない。  
「おまえであればそれでいいのが分からないの」  
 去っていかないで。  
 回していた手に、手が重ねられたのを感じた。  
「よろしいのですね、銀子様」  
 そう言ってやっとこちらを向いた顔に、手で触れた。  
「泣いているの?」  
「いえ」  
 その言葉通り、その目から涙をこぼした柿人の姿は一度も見ていない。今もその顔は乾いている。  
 柿人の手がゆっくりと私の髪に触れ、頬に触れた。頬を指で撫でられて初めて、私は自分がずっと涙を流していたのを知った。  
 私は。罵られ、蔑まれて奈落に居続けよう。  
 それでも、この男を失いたくない。  
 だから、許して。私を。  
 この男の傷のように、私の体に重くのしかかってくる陰に、心の中で囁いて、そして今だけ消した。  
 やっと、私は柿人の腕の中にいた。唇が私の髪をまさぐる。柿人の呼吸と背でうごめく掌も感じる。私が大切なだけの存在ではないという印に、耳の後ろから首筋にかけて、跡をつけられていく。  
「あ……はぁ……」  
 あげる声は細く、答えるように跡は肩に降りてきて、腕を滑り伝っていく。  
 
 手を握られて思わずそこへ目を向けた。こんな風に柿人の手を握って来なかった。指の一本一本が、手の形と力とを教えてくれる。握られたまま手首を唇で擦られて、それでもっと触れたくなってしまう。  
 指を絡ませようとして柿人の手を握ろうとすると、その手は変わらずされるままでいて、こちらの指が固い指と絡み合った時、思いかけず強く握られた。  
 そうなるのが当然だったかのように、絡みあっている手を引き寄せると、手の甲に唇を持ってきて、軽く触れた。  
「……っ」  
 けれどその直後に私も喉からその下の骨の辺りをくすぐられて、どちらが息を止めたのか分からなくなった。そんなところに骨がある事も、くすぐったいという感覚も忘れていた。  
 柿人はどうなのだろう。腕や肩を、髪を私が手で撫でさする事が、くすぐったく感じているだろうか。  
 胸の脇を指の腹で撫でられながら、脇の下に近いところから腹にかけてを蹂躙される。手がもうすぐ脚の間に至るところで、逸れ、膝頭に置かれる。  
「柿人……もっと……触れるのよ……」  
 その体が熱くて、全身を触れられたらどうなるか分からない。  
 それなのにもうすぐ、というところで指が体を避ける。私が忘れていたぐらい体を熱くしておいて、求めているようには触れず、まれに触れたとしてもすぐに離れる。それで余計に熱くなる。  
「早く……ん……」  
「まだです」  
 耳を噛んできておいて、そんな事を言う。  
「まだ、足りない」  
 胸を爪の先で輪郭をなぞられてから、手で胸を包んでくる。  
「はぁ!ああ、あ……」  
 そうしながら、時折、背も何度も撫でられ、引き寄せられる。  
 髪に差し入れていた指で頭をとらえる。  
「は……なら……せめて……吸って……」  
 引き寄せると、胸を吸われた。意外な形で。  
「……あ……」  
 それは舌遣いも何もなかった。手が背に回されたまま動かない。口に含まれているだけのようなそのやり方は、何かを思い出させた。引き寄せていた髪を撫でる。  
 
 これは怪物ではない。私と同じ、脚の間に虚ろになった存在を抱える男だ。  
 そしてかつて赤子だった。なら、怪物もいつか。  
 「もっと、吸って……はああん!」  
 舌先で転がされ、吸い方も赤子のものではなくなっていく。  
 手が腹の下を撫で始める。不意に離れて両の腿へ飛ぶ。腿から、隠そうとしているふっくらとした肉付きに少し触れたのに、尻に移って掌で撫でてくる。  
「どうして、やめ……て……」  
 柿人の手に合わせて、いいように自分の体が踊っている。好きなようにされていて、屈辱は感じなかった。体が心に傷を刻みつけるのではない、体と心が溶け合わさっていく気分を、ずっと味わいたかった。  
 柿人には何の益もないというのに。  
 胸から顔を離させたところで、どうにか身を曲げて唇を重ねようとする。うまくいかず、軽く擦れるだけに終わる。もう一度身を寄せ、上唇をはさみ、唇の端に触れ、再び擦ってからようやく重なった。  
 こんな事をしたのは、この男にだけだ。ただ、私が口の中で感じたいと思ったのも、この男だけだ。  
「柿人……まだなの……?」  
 指はまだ体をさまよっている。  
 焦れる。女は弱いから嫌い。乞わなければ何も手に入らない。でも男の持つ力が好きという事でもない。  
「……いや……いやよ……柿人……かき……ひと……お……」  
 もう、何でも構わない。肩にすがりつくと、柿人の指が、隠れていた先を摘み、分かれ目を弄る。  
「ああっ、あ、あああああ!……ああー!」  
 柿人。  
 心の中で何度もそう叫ぶ。  
 柿人は指の戯れを止めようとしない。ぬるみを擦りつけ、音を立てさせる。いつまでも弄られていたかった。でも、それだけではいけない。  
 腕を掴んで、戯れを止めさせた。柿人の体が覆い被さってきて、私を抱き締めた。私もそれに応える。  
「よろしいのですね」  
 私の目を見て、そう言った。そうして欲しかったなど一言も言わなかったのに、してくれた。  
 重みを感じるけれど重くない柿人の体が、注意深そうに自分で位置を変え、私の体も位置を変えられる。  
 体が擦り合わさる。  
「あ……」  
 
「何か、傷めましたか」  
 余程、呆けた顔をしていたのか、そう声をかけてくる。首を振った。  
「違うわ」  
 怖くない。男の体が頭上にあるのも、体を重ね合わせる事も。  
「続けて……ん……はぁん……ああ……」  
 体が引き裂かれない。擦られ続ける内に、奇妙な感覚がこみ上げてくる。  
 こみ上げて来るまま、もう一度来ようとするのを感じる中で、それは言葉になった。  
「あ!あ……あ、好き、……よ……柿人……」  
「許していただけるなら……私もです」  
 柿人の動きが早くなって、私からまた言葉を奪おうとする。  
「やっと聞けた……!」  
 それだけは、言えた。  
 
 風の音が聞こえる。木々の音も。  
 たったこれだけの事で、奈落が今までとは違って聞こえる。  
「……私の望みはあなたに生きてもらう事でした。その為に何をしても構わないと」  
 私が離そうとしないので、抱き合ったまま、柿人は言葉を口にする。  
「ですが、その傲慢をもっとも押しつけてしまったのは、他でもないあなたでした。それにもっと早く気付けば」  
「いいのよ。私の願いの一つは今、叶ったもの。遅すぎることはないわ、形は少し変わったかもしれないけれど、同じよ」  
 その背をさすりながら考える。明日はもう少し、明るい所へ出てみよう。柿人の手を借りなくとも、雨が降ってしまっても、そこへ行く方法を考える事は出来る。私の別の願いを、柿人はきっと叶えないままにするだろうから、考える時間だけは私に残される事になる。  
 そうして、光の射す所で全てを見回せば、全てが違って見えるかもしれない。  
 怪物も、赤子になってくれるかもしれない。  
「明日、連れていってくれるかしら、外へ」  
「……はい。なら、明日は庭へ」  
「そうね、庭へ行きましょう」  
 そして無花果の樹を見よう。  
 花を咲かさずについた実かもしれない。  
 けれど地に落ち、闇に沈んだ罪の果実は、やがて芽をふき、未来に連なる樹となる。  
 
 終  
 

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