一枚の肖像画があった。幾年を経てきたのかはわからないが、所々色褪せ、かすれている。  
描かれているのは一組の男女だった。共に豪奢な衣装を身に纏っている。顔の部分のかすれが  
特にひどく表情はわからない。  
 一組の老夫婦がその肖像画の前に佇んでいる。男の方は足が悪いのか、杖をつき、もう一方の  
腕を女の肩にあずけていた。  
 悪いのは足だけはでない。男の顔には死の影が色濃くあらわれている。  
 男は懐から小さく折りたたまれた紙を取り出すと女に手渡した。女は渡された紙と男の顔を  
交互に見、ゆっくりと紙を開く。  
「王家の滅びがお前の望みだったのであろう。好きにするがいい」  
 かつての自分達が描かれた肖像画を見上げ、かつて獅子王と呼ばれた男はしわがれた声で言う。  
 女――タラはゆっくりとまばたきをし、紙をたたむ。引き結ばれた口は何かを言う気配はない。  
 獅子王は視線をタラの方に戻し、口許だけで笑った。  
「今まで言ったことはなかったが……」  
 ――愛して、いたよ。  
 
 
 黒檀の机の上には十数枚もの図面が無雑作に散らばっている。王城を描いたものがほとんどだが、  
その中のいくつかにはあるはずのない城の地下と仕掛けらしきものが書かれていた。数日前までは  
嬉々として進めていた計画であったが今では色褪せてしまっている。城の崩壊などどうでもよくなるほどに  
獅子王は懊悩としていた。無表情、と言っていいほど窓から外を眺める横顔には何の感情もない。  
しかし身の内では何かが荒れ狂っていた。  
 正体はわからない。なぜか不快な気はしないが、己の感情がここまで動くものだと知ったこととに  
少しおののいてもいる。  
 原因は思い起こすまでもない。心当たりなど一つしかなかった。器量が良いわけでも髪が美しいわけでも、  
ましてや艶かしい身体つきをしているわけでもない。よほどのことがないかぎり目もくれることも  
なかったであろうあの女。あれを正妻にしてから何かがおかしかった。いや、もっと正確に言うなれば  
一目見た瞬間からおかしい。なにゆえ「妃となれ」と言っていたのか。子を生ませるだけであれば  
何も妃である必要はない。妾や侍女であってもかまわないはずだ。  
 
 幼少の頃、父によって無理矢理あてがわれた四条の方という貴族の娘が形だけの正室に  
納まっていた。だが獅子王はこれを廃し、タラ――白樺離宮に住んでいるため、獅子王以外  
には白樺の方と呼ばれた――を正妃にしていた。もちろん反対する者は多数あったが一様に  
悲惨な末路を辿り、側近の半分以上の顔ぶれが代わった。側近、と言ってもころころ代わる  
ものなので獅子王は名も顔も覚えていないし、これといった感慨もない。  
 獅子王は目蓋を伏せ、右の腕にしるされた薄桃色の痕に手を当てる。こうするとわずか  
ではあるが心が静まった。  
 
 心地よく冷たい風が頬を撫ぜ、髪を揺らす。  
 馬を走らせ、こうして風を受けている時だけタラの気は晴れた。きらびやかなだけな離宮は  
どうも性に合わない。あんな所に籠っていると腐り果ててしまう。することなど何一つなくただ  
時間だけがある、というのは剣で切りつけられるよりも苦痛だった。止まっていると、洪水の  
ように押し寄せてくる思考にさいなまれ、心の痛みが眩暈と頭痛となってあらわれる。たとえ  
形の上だけであっても駆けていれば痛みも思考も風に溶けていった。  
 遠駆けの話を持ち出したのは獅子王の方からだった。毎日毎日鬱々とした顔で外を眺めていた  
からかもしれない。従者を二人付ければ、という条件付きで許された。護衛か監視かはわからないが  
従者二人どちらも馬の腕は大したことなく、タラが普通に走らせているだけでもすぐに距離がひらく。  
今もまた小さな点に見えるほど後方にいる。  
 タラは仕方なく手綱を引き、二人を待った。以前の彼女であれば、人が隠れるに適した茂みの  
近くで立ち止まることなどなかったであろう。  
 ぶぅんっ、という風を切る音に最初に気付いたのはタラの乗っている馬だった。高くいななき暴れ、  
危機を知らせる。だが。タラは左の肩に矢を受け地に落ちるまで、気付くことはなかった。  
 
「――起きたか」  
 意識を取り戻し、最初にタラの目に入ったのは獅子王の顔だった。声も表情も、  
微かに怒気を孕んでいる。  
 タラはゆっくりとあたりに視線を巡らせる。見覚えのある、しかし慣れることのない華美な内装。  
どうやら自分に宛がわれた部屋に運ばれたらしい。  
 とりあえず上体を起こそうと手をつこうとするがなぜか右の手が動かない。不思議に思い右方に  
目をやると手はそこになく、かたわらに座る獅子王の合わせた手の中にあった。  
 タラは何か言いたげな視線を包まれた手にそそぐが獅子王に気付く気配はない。  
「何だこのザマは」  
 タラが何かを言う前に獅子王は怒声を浴びせる。  
「俺を殺すことも、王家に禍を残すこともなく死ぬつもりであったか」  
 ぎゅうと音がするほど強く、獅子王はさらに手を握り締めた。一体どれほどの時間そうしていたのか、  
骨ばった手は白蝋のように色をなくしている。  
「好きで怪我したわけじゃない」  
「ならばもっと早く目を覚ませ。二日も眠りおって」  
 言われてようやく、タラはあれからかなりの時が過ぎていたことに気付く。気を失った時と  
まわりの明るさが同じだったので今までまったく気付かなかった。  
「……じゃあ、その間、ずっとここに?」  
 タラの問いかけに獅子王はわずかに視線をそらし、  
「昔、熱が出た時など乳母によくこうしてもらった。こうすると、早く良くなる」  
 と呟くように言い、手を握りなおす。重なった手はそれ自体が熱を発しているかのように  
ひどく熱かった。  
 
「タラ」  
 名を呼ばれ、タラは心臓をぎゅうとつかまれたような感覚を覚える。自分のことを「タラ」と  
呼ぶのは、今となっては獅子王しかおらず、また、あまり頻繁に呼ばれるわけでもない。  
そのせいなのか、呼ばれると心がゆれ動いた。  
「俺よりも先に死ぬことは、許さぬ」  
 生まれながらにして人ではなく王であった彼は、労わりの言葉を持たない。今までそうする  
必要などなかったから。命ずるだけですべてが済んだ。命ずることしか知らなかった。  
 獅子王は誓約のごとくに静かなくちづけをする。タラはそれが自然であるかのように  
受け入れていた。互いの唇は二日という時により渇いていたが重なり合うことによって  
すぐに馴染んだ。  
「……おとなしいな」  
 微かに濡れた唇が離れ、その片方が言葉を紡ぐ。  
「また噛みつかれると思ったのだがな」  
 口の両端が吊り上がり笑みを形づくる。瞳には、猫科動物特有のいたずらっぽい光が  
宿っている。  
 嫌な予感にタラは眉をひそめ心持ち後退するが、それですでに覆い被さってきている  
獅子王がどうとなるものでもない。押しとどめるように手を突き出してみるがこれもまた  
意味をなさなかった。  
「肩に傷が……」  
「二日も眠っていたのだ。治っていないはずがない」  
 ――何なら俺が確かめてやろう。  
 この状況下では何を言おうと逆効果になるらしい。獅子王はくつくつと笑い、タラの服に  
手をかけた。  
 

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