朱理と更紗の二人が日本を離れて既に数年が経つ。
彼等は黄帝国から海路、欧州を目指し、そして今再び黄帝国へと戻ってきた。
港に降りると、更紗たちの船より一足先に入港した船があったのだろう、船着場で男達が
荷を降ろしたり、がやがやと忙しげに動き回っている。
「この前来た時よりもずいぶん港が賑やかだね、朱理」
「キリンもなかなか上手く国を治めているらしいな」
「帝、元気かなぁ」
他愛もない話しを朱理としながら、港をぶらぶらと見て回る更紗の耳にふと懐かしい言葉
が飛び込んできた。
「朱理、あの人達がしゃべってるの、日本語だよ!」
更紗は久方振りに聞く日本語に興奮して朱理の服の裾にしがみついた。
朱理が船を指差す。
「見ろ、堺屋だ」
見ると、風にはためく帆布に堺屋の屋号。
「うわぁ・・・懐かしい」
と、がやがやと作業する男衆の一人がびっくりしたような顔をして、駆け寄ってきた。
「あっ、赤の王!ちごた、朱理さん!」
「あっ、お前、堺屋の次男!」
朱理は驚いて、思わず大声を出す。
「朱理さん、よかったー!茶々さんから、あんたらがこの国に来はる大体の日付は聞いて
んやけど、こんなに簡単に会えるとは思うてませんでしたわ。菊音さんから新しい義手も
預かってますねん。いやあ、ほんま、奇遇ですな」
「茶々から聞いたの?私からの手紙、ちゃんと届いてたんだ」
更紗は懐かしい名前を聞いて、思わず破顔した。
「・・・日本は、今、どうなんだ?」
朱理が堺屋に尋ねる。堺屋は真剣な朱理の瞳を受けて、ふっ、と微笑んで答えた。
「まあ、何やごたごたしてますけど、商いの場はご覧の通り広がりましてん。ほんま、私
らはあんたらに足向けて眠れませんわ。そや、ここで立ち話も何やから、ゆっくり酒でも
呑みながら話でもしますか?」
「更紗、お前も来るか?」
「ううん、私、この辺、ぶらぶらしてる。後で、顔を出すね」
更紗は腰を落ち着けるより、まずは久しぶりに踏んだ揺れない大地を歩き回りたかった。
石造りの欧州の都に砂漠育ちの更紗は少々辟易していたので、砂漠や草原が恋しくてたまらない。
「そうか、判った。あまり遠くまで行くなよ」
朱理は更紗の胸中を計ったようににこりと笑うと、堺屋に連れられて酒屋へと向かった。
歩き出した二人の背中を見つめる更紗の肩をとんとんと叩く者がいる。振り返ると、自分
よりも一回り背丈の小さい少年が更紗を見上げている。
「更紗さん、ですよね?」
「うん、そうだけど・・・あなたは?」
「僕、蘇芳の都の者です」
「蘇芳の人がどうしてここに?」
にこにこと少年が微笑んだ。
「これからの時代は商人の時代だ、って僕の両親が。だから堺屋さんに頼み込んで働かせ
て貰ってるんです。って言ってもまだ使い走りみたいな事しか出来ないけど・・・」
「そうなんだ、偉いのね」
「そんな事ないです。こんな風に自由に職業を選べるのも、更紗さん達のお陰です」
ぺこりと少年が頭を下げる。
更紗はまだ幼さが残っている、けれど真剣な少年の顔を見つめると、微笑んだ。
少年も嬉しそうに微笑み返す。
すると、「あっ、そうだ」、と言って少年が船に戻る仕草を見せた。
「僕ったら肝心な事を忘れてました!更紗さんに、茶々さんから預かっているものがある
んです。船から取ってきますから待っていてくれますか?」
少年は船へと駆け出した。
程なくして息を切らした少年が戻ってくると、彼は風呂敷に包まれた、両手にすっぽり
収まるくらいの小さな荷物を更紗に差し出した。
「何かな、これ?」
少年が小首を傾げる。
「僕も知らないんです。でも、茶々さんが更紗さんに絶対に絶対に渡すように、って・・・」
「そっか、有難う」
更紗は少年に判れを言うと、小箱を肩から下げた袋に入れ、ゆっくりと歩きだした。
途中、宿屋の軒先の酒屋で堺屋と飲んでいる朱理を見つけて手を振る。朱理が更紗に、
あんまり遠くへ行くなよ、と再び声を掛ける。更紗は笑って頷くと、そのまま歩を進めた。
街の外れまで歩くと、まだ広い草原が残っている。更紗は爽やかな風を思い切り吸い込んだ。
小高い丘の上に大きな木を見つけると、更紗はそこまで歩いていって木陰に腰を下ろした。
袋から少年から貰った荷物を取り出し、風呂敷の結び目を解いた。
きっちりと封をされた小箱の上に、茶々の字で「タタラへ」と書かれた封筒が載っている。
「相変わらず『タタラ』って呼ぶんだから」
更紗はくすくすと笑い、茶々の手紙を読み始めた。
タタラ、おっと、今は更紗だったね。ごめんごめん。
いつも手紙、有難う。皆、あんたが元気にやってるのを嬉しく思ってるよ。
赤の王も―――まあ、元気なんだろうね。
もしも今、朱理が傍に居るなら、この手紙は一人で読んで欲しいから封筒に戻しておくれ。
意地悪で言ってるんじゃないよ。多分、これを読んだらあんたは馬鹿みたいに素直だから、
感情がすぐ顔に出ちゃうだろ―――この手紙は揚羽についてだから。
「揚羽!?」
思いがけない名前を目にし、更紗は思わず目を見開く。
更紗は一縷の望みを抱いて、茶々からの手紙に目を戻した。
京の、王城跡を掘り起こしてたんだよ。放っておく訳にも行かないからね、とりあえず更
地に戻さないと。それに、揚羽があんな冷たい土の中で眠ってて良い訳はないからね。
サカキが連れてきたシファカって言うのは使えるね。ずいぶん土木の技術が黄帝国では
進んでるもんだ。作業も順調に進んだよ。―――って言っても、今迄掛かったけどね。
城が崩れてかなりの土砂が流れ込んだから、正直言って揚羽の事は諦めてたんだ。
座木なんて「あいつの事だから、絶対ふらっと戻ってくる。無駄だ」って言ってたしね。
でも、やっぱり揚羽は居たよ。
揚羽の装束と眼帯が見つかったんだ。
奇跡だね。いや、正直、複雑な気分だよ。
揚羽の遺骨は焼いて灰にして砂漠に戻してやった。城の下で眠るよりずっと揚羽らしいだろ?
あんたを誰より可愛がってた揚羽だ。灰の半分と、眼帯をあんたに送る。
持っていても良いし、空に還してやってもいい。好きにしておくれ。
―――正直、これを送るのは迷った。でも、今は間違ってないと思ってる。
いつ日本に戻るんだい?みんな、楽しみに待ってるよ。私もそろそろ海が恋しい。もしか
したら、どこかの海で会うかもね。
また手紙を書くよ。変なもん食って腹壊すんじゃないよ。
茶々
(揚羽――――――)
更紗は手紙を握り締め、魔法にでもかかったように動けない。
膝の上の小さな箱。
更紗はゆるゆると視線を下ろすと、魅入られたかのように箱を凝視した。
どれだけの時をそうしていたのだろう。更紗はゆっくりと腕を動かし、その箱に触れた。
更紗は深く深呼吸をすると、思い切ってその箱を開けた。
白い、砂のような灰。
更紗はそっと、その灰に触れる。
見つめる更紗の瞳から涙が一滴零れ、それが灰の中にぽとんと落ちた。
更紗は蓋を静かに閉じ、箱を抱き締めると、瞼を閉じた。
(「必ず守るから、安心してろ」)
揚羽。
(「何をしてほしいか言え。なんでも聞いてやる。動いてやるから」)
揚羽。
(「おまえは新しい国のために生きろ」)
揚羽。
(「――――借りはもう、返してもらったよ」)
「あ、揚羽ぁ――――・・・っ!!」
兄のように、父のように、母のように、友のように――――その全てであった人。
揚羽、揚羽、と更紗は叫び、箱を抱き締め、体を折って慟哭する。
「どうして、どうして、こんな・・・!嫌だ嫌だ嫌だーーーーーっ!!」
風が、更紗の髪を揺らす。
赤い夕陽が更紗を紅に染める―――
「おう、更紗!」
店先でまだ飲んでいる朱理が戻ってきた更紗を見つけて、声を掛ける。
「更紗はん!朱理さん、ザルですわ。ここの酒屋の酒、呑み尽くしたんとちゃいますか?」
「更紗、ここの宿屋はなかなか気が利いてるぞ、こんな飲み屋があるくらいだからな。
今日は遅いし、ここで休むぞ」
「・・・うん、判った。先に部屋に行ってていい?朱理はまだ飲み足りないみたいだし」
ようやく顔に微笑みを作って、更紗は今が薄暗くて良かった、と思いながら足早に宿屋の
中に入った。
灯りも点す事もせず、薄暗い部屋の中、更紗はぺたんと床に座り込む。
理解していたはずなのに。
―――――揚羽はもうこの世には居ないのだと。
判りきっていた事なのに。
―――――もう、あの笑顔を見る事はないのだと。
あの暖かい胸に抱きしめられ、自分を癒してくれる事はない。
あの広い背中で自分を守ってくれる事はない。
あの優しく厳しい声を聞く事も、もう、ない―――――永遠に。
更紗は止めなく流れる涙で濡れる両目を手で塞ぎ、嗚咽を堪えるように体を折った。
(揚羽――――――)
「揚羽、揚羽」
更紗は泣き疲れ、力尽きると床へと崩れ落ちた。
カタリと扉が開く音がした。
窓を開け放して眠ってしまったのだろうか、風がここまで爽やかに吹き込む。
体の上に日が差しているかのように暖かい。更紗は心地よさに再び眠りに戻ろうとする。
乾いた風が、更紗の髪をさらりと揺らした。閉じた更紗の瞼を風がくすぐる。
柔らかい風に乗せて、人の気配が更紗に近いてきた。
「タタラ」
呼ばれて更紗は、顔をゆっくりと声の主の方に向ける。
柔らかな光りがあたりを照らしている。更紗は急に目に飛び込んだ光の眩しさに目を細め
つつも、人影に視線を凝らす。
青い装束に身を包んだ「その人」が微笑みを浮かべ更紗を見つめている。
更紗は光を背にしたその懐かしい姿へと手を伸ばす。
彼はその手を掴むと、暖かく、たくましい胸の中に更紗の体を抱き寄せた。
「揚羽・・・」
更紗は涙を流しながら、その体にすがった。
「すごく、すごく、会いたかった」
「・・・相変わらず、泣いてばかりだな、タタラ」
低く涼やかな声。
誰とも違う、その柔らかな声音。
更紗は、揚羽に抱きつき、ただ揚羽の名を呼び続けた。
熱く乾いた風が頬を撫ぜる。
目を見開くと眩しい陽光が更紗の目に刺さる。それよりも眩しい揚羽の笑顔。
更紗はいつの間にか草原に身を横たえていた。
そして、その華奢な体は既に生まれたままの姿となって揚羽の体に包み込まれている。
揚羽の腕はあくまで優しく、だが力強く更紗の体を抱き締めている。
更紗は恐る恐る顔を上げる。昔と変わらない、美しい瞳が―――両眼が―――自分を見
つめている。微笑んでいるその揚羽の顔を見て、更紗は再び涙を流す。
涙に濡れた瞼に、柔らかな揚羽の唇が落ちる。瞼に、額に、頬に、唇に揚羽の口づけが
繰り返し落とされる。更紗はくすくすと笑った。
「どうした、タタラ?」
「揚羽の睫毛が顔にあたって・・・くすぐったい」
揚羽はきょとんとしたように目を見開いたが、再び微笑みを浮かべて、その唇を更紗に
押し付けた。
大きな掌はすっぽりと更紗の小さな乳房を包み込み、唇は更紗の陽に焼けた肌を彷徨った。
更紗はうっとりと揚羽の動きに身を任せる。暖かな大きな体が更紗をくるみこみ、更紗は
隙間一つ作りたくないかのように揚羽に身を寄せる。
「・・・洗濯物」
更紗が呟くと揚羽は怪訝な顔をした。
「あったかい太陽の下で風に吹かれてる洗濯物の気分、今の私。太陽と風が、揚羽」
「お前が洗濯物か」
ふっと笑うと揚羽は更紗の乳房に口づけた。更紗は甘い痺れに体をよじらせた。
「ひゃ・・・ん」
脇腹を舐め上げられて、更紗が一層高い声を漏らす。
揚羽は気にせず、更紗の肌に舌を這わせ、その手は柔らかく更紗の尻を揉みしだいた。
後ろ髪を軽くつかまれ、首を揚羽に晒す姿勢になると、更紗の首筋は揚羽に口づけられる。
首筋からゆっくりと舌は耳元へと移動し、吐息をふうっと吹きかけられ、耳朶を甘噛み
される。
くすぐったさに逃げようとする更紗の体はしっかりと右腕で抱きかかえられ、空いたもう
片方の手が更紗の小さな乳房の頂きをつまみ、吐息は熱く耳元へかかる。
揚羽は更紗の体を抱きかかえると、ちょうど母親が赤子を抱くように自分の膝の上に
座らせた。更紗は甘えるように揚羽の体に身を預ける。
更紗の指先は揚羽の口の中で丹念になぶられる。更紗は腰の奥の方が熱くなり、そこから
とろとろと蜜が吐き出されるのを感じた。蜜は揚羽の腿にまで落ち、それを一すくい揚羽
は指で拭うと、更紗の口の中に指を収めた。
更紗は自分の蜜ごと揚羽の指を味わう。
瞼を閉じ、一心に自分の指を味わう更紗の様子に揚羽は面白げに瞳を光らせると、指をそ
ろりと更紗の濡れそぼる場所にあてた。
更紗の背中がぴくん、と反り、反動で揚羽の指をがり、と噛んでしまう。
「あっ、揚羽、ごめん」
揚羽が笑って更紗の頭を自分の胸に押し付ける。
「お前は、黙って大人しくしてろ」
言う先から揚羽の指はするりと更紗の中へと入れられ、ゆっくりと更紗の中を掻き回す。
更紗は思わず声を漏らし、その自分の声に恥ずかしくなり、ぎゅっと唇を噛み締めて揚羽
の胸に顔を押し付ける。
が、すぐに堪らなくなって更紗は噛み締めた唇の隙間から喘ぎ声を漏らす。
揚羽は指を二本に増やして更に攻め立てた。
「ああ・・・ん」
更紗が嫌々をするように首を振る。構わず揚羽は中を掻きまわす。
充分に濡れそぼった更紗の中を指で堪能すると、揚羽はゆっくりと更紗の体を倒した。
頭を抱き、唇をそっと自分の唇で塞ぐ。
更紗は夢見心地で揚羽に問う。
「ねえ・・・揚羽?」
「どうした?」
「揚羽は―――今、何処にいるの?」
「どこにでも。お前が会いたいと思うところに」
「そういうものなの?」
「そういうものだ」
揚羽はにっこりと笑うと、更紗の体を抱き締めた。
揚羽の熱く堅くなったそれが更紗の体を貫く。大きなそれを収めて、更紗は喉元まで貫か
れたような気がして小さく悲鳴を漏らす。
揚羽の体が動くごとに、更紗の悲鳴は嬌声に変わる。浅く、深く、更紗の体の隅々まで
知り尽くしているかのように揚羽の体は動き、更紗に喜びの声を上げさせる。
更紗は流れる水に押し流される小舟のように、どんどん快感の淵へと流される。
体の一つ一つが快感を生み出すスイッチのように、揚羽に触れられる度に、口づけられる
度に、更紗の体は快感を増していき、ほとんど失神しそうになってがくがくと体は揺れた。
更紗の脚は持ち上げられ、揚羽の肩に乗せられた。更紗は自分がとても恥ずかしい姿をし
ているのを頭の奥でぼんやりと理解はしていたが、体は更に快感を求めて揚羽の腕を強く
掴んで引き寄せてしまう。
揚羽は導かれるままに、一層腰を深く更紗の中に熱く張ったそれを差し入れた。
更紗の脚がぴんと張り詰め、きゅうと中が締まる。
揚羽は勢いを増して、深く深く更紗の中を突く。
腰の奥から殆ど痛みにも似た快感が背中へ駆け上り、更紗の頭の中で何かがぱちんと
はじけた。
「揚羽!」
更紗が絶叫した瞬間、揚羽のそれからどっと熱い奔流が流れ出て、更紗の中を満たしつくした。
ゆっくりと更紗は目を見開き、揚羽が微笑んでいるのを見てその顔に手を伸ばした。
髪の毛に触れ、更紗の指は柔らかい揚羽の髪の中を彷徨う。
揚羽が白い小さな花を更紗の髪に飾った。
更紗はそのビロードのような花弁に触れ、ふくふくとした香りを発する花を見つめると
有難う、と小さく揚羽に呟いた。
瞼が揚羽の唇で塞がれる。
更紗はうっとりと瞼を閉じ、揚羽の甘い口づけに身を任す。
と、覆い被さる揚羽の重さが軽くなっていくのに気付いて更紗は目を開いた。
あたりが白い光に覆われている。揚羽の姿も光に埋もれつつある。
光に絡め取られてしまったように、更紗は自分の体を動かせない。
更紗は懸命に指先に意識を集中させ、逃したくないかのように、震える手をようやく伸ば
すと揚羽の腕を掴んだ。
「嫌だ・・・」
揚羽は涙を流す更紗の頬に口づけた。
「行かないで、揚羽」
更紗は最早目も開ける事が出来ず、かすかに揚羽の唇の感触だけを薄れ行く意識の中で感
じる。視覚と触覚を失いつつある更紗の耳に、揚羽の声が響く。
「前・・・」
(何?聞こえないよ―――揚羽)
「前へ―――」
更紗は風にふわりと包まれて、光の中に投げ出された。更紗の体は重力の戒めを離れて、
風に舞う。
更紗の体は実体を失くし、一片の花びらのように風に揺れる。
更紗は見えない目でくるくると花びらが風と戯れるのを見る。
風は花びらを運ぶ。地に落とさぬように、風が花びらを吹き上げる。
風と花が交わり――――そして花びらはゆっくりと大地へ帰っていく。
(前へ、進め――――タタラ)
「おい、更紗」
揺さぶられて更紗はゆっくりと意識を戻す。
「いつまで寝てるんだ、更紗。もう朝飯の時間だぞ」
「朱理・・・?」
「珍しいな、お前が俺より遅くまで寝てるなんて」
「うん・・・?」
「まだ寝ぼけてるな」
朱理が笑ってくしゃっと更紗の髪の毛をかき回す。
「俺は先に下に下りてるから、顔を洗ったら食堂に来いよ」
朱理は立ち上がると階下へと向かう。と、おお、そうだ、と更紗に振り返って言う。
「いい夢でも見てたのか?お前、寝ながら笑ってたぞ」
早く降りて来いよ、と声を掛けると朱理は軽い足音を立てて階段を下りて行った。
「・・・夢」
更紗は呟き、のろのろと起き上がると布団の上に座り込んだ。
座ると、部屋の隅に置いてある小箱が目に入る。
「揚羽・・・」
更紗はふと、自分の拳が強く握り締められているのに気付いて、それを開いた。
白い、小さな花。
更紗はその花弁に触れる。しっとりとしたビロードの感触。そして、その香り。
(「揚羽は何処にいるの?」)
(「どこにでも、お前が―――」)
「――――私が、会いたいと思うところに」
更紗はもう一度だけその花の香りを嗅ぎ、一筋涙を流して―――微笑んだ。
「遅いぞ、更紗!もう腹がぺこぺこだ」
「朱理、待っててくれたの?」
「お前と食べた方が飯が美味いからな」
朱理は更紗が席につくなり、店員を呼ぶと品書きを指差して、あれこれと注文する。
ぱくぱくと食事をする朱理を見つめて、更紗はにこにこと笑った。
「何だ、お前は食べないのか?今日はキリンのところまで遠出しようと思っているから
今の内に食べておかないと体が持たないぞ」
「今日これから?早速?」
「当たり前だ。動ける内に出来る事はどんどんするぞ。前へ、前へ、だ」
「前へ―――」
更紗は朱理を眩しげに見つめた。
「朱理」
「なんだ?」
口元に飯粒をつけた朱理が顔を上げる。
「大好きだよ、朱理」
「なんだ、急に」
「大好き」
ちらりと照れたような顔を浮かべる朱理の顔を見つめ、更紗は心から湧き上がる幸せに、
顔に大きな笑顔を浮かべた。
サダナさんと会った草原に寄らせてもらおう。
あそこに、揚羽を放とう、いつでも風が吹くあそこに。
風は揚羽をどこに運ぶのだろう。
風は海を渡って、揚羽を日本に運ぶだろうか。
風はいつでも、そこに。
風はいつでも―――ここに。
(前へ、進め。タタラ――――)
<了>