その日も多聞は岩場で釣りをしていた。
成果はまずまず。
けれど、今日の夕食には少し足りない程度だったから、多聞はまだ釣りを続けることにした。
暖かな春の日差し、程よい東風、心地よい波の音。
「絶好の釣り日和なのだす」
誰もいない海辺で、そう呟いて餌を付け、また竿をしならせる。
こんなことを繰り返すうちに、多聞はいつの間にか眠ってしまった。
「……ん。…………もん」
「ん……」
誰かが呼ぶ声で、多聞はようやく目を覚ました。
気づけばあたりはだいぶ薄暗くなっており、太陽は海へと潜り込もうとしているところだった。
「ああ、寝てしまったのだすな」
「こんな所で寝ていては風邪をひくわ」
女の声に、顔をそちらに向けると、髪の長い女が心配そうにこちらを覗き込んでいた。
「おお、あんたが起こしてくれたのだすか。ありがとうなのだす」
女は、安心したようにほっと息を吐くと、にっこりと笑って首を横に振ったが、その拍子に水滴が多聞の顔に飛んだ。
よく見ると女の髪は濡れている。
びしょ濡れというほどではないが、服も濡れて体に張り付いているようだった。
「あんた、濡れているではねえですか。あんたこそ、そのままじゃ、風邪をひいてしまうのだす」
多聞は寝ている間も握っていたらしい釣竿を脇に置くと、上着を脱ぎ、それを女に手渡そうとした。
しかし、女はまた首を振り、口元には笑みをたたえつつも、眼に涙を浮かべてこちらを見ている。
「風邪を……ひいてしまうだすよ?」
相手に上着を受け取る意志がないと判断すると、多聞は上着を女の方に羽織らせてやった。
「…………」
「家はどこだすか?送っていくのだす」
多聞は、太陽がすっかり姿を消し、かろうじて朱を残している水平線を見て立ち上がると、無言で上着を握り締めて俯く女に手を差し伸べた。
「……もん…………」
「……?オラの名前を知っとるのだすか?」
女は多聞の手にすがるようにして立ち上がると、悲しげな目をこちらに向けた。
「沙門……どうして……」
「さもん?オラの名前は多聞だすが……」
女が眉を寄せる。
目から涙が溢れて頬を伝った。
「あんた……誰か、探すてるのだすか?」
「あなたを、……あなたをずっと探していたわ」
「それは、おそらく人違いなのだす」
多聞が冷たい手を引こうとすると、女は多聞の腕にすがり付いて、強く首を振った。
「どうして?どうして、そんなことを言うの?だって、あなたはここに来てくれた。
私が少し場所を間違えてしまったから、あなたを待たせてしまったけれど……」
「それはたまたまなのだす。オラは晩ご飯の魚を釣りに来ただけなのだす」
「ええ……ええ、あなたはいつだって釣り場で私を待っていたわ。だから、今日も……」
「困ったのだす。どう言ったら、分かってもらえるべか」
頭の中からいいアイディアでも見つけ出そうというように、多聞が頭をかくと、女はひんやりとした頬を胸に寄せてきた。
「何も言わないで……。会えたから、それでいいのよ」
「あんたー……ええと……」
女の冷たすぎる身体と言動にさすがの多聞も困惑し、さらには呼ぶ名が見当たらなくて多聞が口ごもると、女はそれを察したのか、胸に寄り添ったまま顔だけを上に向けた。
「吉祥と……いつものように名前を呼んで」
「きちじょうさんだすか。吉祥さん、あんた冷たいでねえか。寒いから、とりあえず、オラたちのところに行くべ」
多聞が女の両肩に手を置くと、女はようやく顔を離した。
そして、また多聞の方を向いて、
「……寒いの?」
と、首を傾げた。
「オラはこのくらい寒のはは平気だすが、あんた、濡れてしまってるでねえか。
このままだと、あんたこそ風邪をひいてしまうのだす」
多聞がそう言うと、女は静かに自分の手にどこか虚ろな視線を向けた。
「寒くは、ないけれど……」
「んだども」
多聞が口を開きかけると、女の冷たい腕が首に巻きついてきた。
「沙門が寒いなら、暖めてあげるわ……」
女の身体が押し付けられる。
服が濡れているせいで、やけに輪郭がはっきりと伝わってくるけれど、体温は人間のものとは思えないほどだった。
「き、吉祥さん、ダメなのだす。風邪をひいてしまうのだす」
多聞は再度そう言ったけれど、女の耳には届いていないようだった。
「暖かい……」
「ま、待つのだす……」
冷たいのにまとわりつくようなねっとりとした息が首を撫で、喉が凍りつくような感触に、多聞は言葉を上手く紡げなくなってきた。
「待てないわ……。ずっと探していたのよ?」
女の手が首から肩へ、肩から背へと滑り落ちてきて、多聞はぞくりと身体を震わせた。
「き、きちじょ……」
「いいのよ、沙門。そのままにしていて……」
月明かりでかろうじて見える女の瞳は、もはやこちらを見ていない。
冷たい風に乗って、かいだことのない奇妙な香りに鼻がくすぐられると思った瞬間、手がさらに下へと降りてきて、尻を撫でられた。
「なっ!なにを……」
なにをするのだすか、と言いたいのに、口が固まって動いてくれない。
首を這う女の舌と、後ろから前へと腰を伝ってくる手の動きに、どうにか女から離れなくては、という多聞の意志とは裏腹に、身体は快感を感じる度合いを強めていく。
「や、やめっ……」
女の肩を掴み、身体から引き剥がそうとしてみても、腕に、身体に力が入らない。
そのくせ、肝心な場所だけが女を強く押し返していた。
「ああ、沙門……嬉しい……」
女がするりと腰の紐をほどいた。
「まっ、つのだ……す……」
潰れそうにかじかむ喉をこじ開けてはみたものの、その声は掠れ、これまで同様、女の耳には全く届かなかったようだった。
女の手が容赦なく身体に触れる。
「あ、うっ……」
冷たく自分を包むそれに身体が粟立った。
それなのに、女の髪から漂ってくる奇妙な香りに当てられてか、多聞の熱は一向に収まらず、多聞は女の身体にしがみつくしかなかった。
「沙門……苦しいの?」
女の指が形をなぞり、敏感場所を撫で上げていく。
「もっ、もう……」
やめてほしいのだす。
その肝心の言葉が出てくれない。
女の手が慰めているかのように、ゆっくりとなめらかに幾度も往復する。
「はっ、あ……く……」
背を伝い、頭まで駆け上がってくる快感に支配されそうになる理性を留めることに多聞は必死になった。
「いいのよ……このまま、いってしまって?」
それを見透かしているかのように、女が囁き、先端の亀裂をぬるぬると指が辿る。
冷たいくせに、ぬるい誘惑を帯びた言葉が多聞を攻め、多聞は頭を左右に振った。
「だ、ダメ……だす……」
「ふふ……やっぱり、あなたは意地っ張りね」
「ちが……あッ!」
女の手に力が入り、耳を噛まれ、多聞はびくりと身体を反らした。
これ以上なにかされたら、本当に限界が来てしまう。
それは分かるのに、抵抗しなくては、とも思うのに、身体はもうどういう反応を示していいか分からなくなっていた。
「き、ちじょ……さんん……」
かろうじてそれだけ言うと、唇が耳に触れた。
「お願い。ここで、私で、いって……」
その声の含んだ物悲しい雰囲気に一瞬気を取られた瞬間、自分を包む力が強まった。
「あ、……ふ、うっ…………ッ、うあぁっ!」
その力と、更なる動きに耐えきれず、多聞は女の手へ向けて熱を放った。
がくがくと身体が震え、身体から熱が引いていくと同時に、脚からも力が抜けていき、多聞は後ろの岩にもたれかかった。
女は恍惚とした表情で白濁に塗れた手を眺めていた。
息がうまく出来ずに喘いでいると、女は恍惚とした表情のまま、多聞の足元へと膝をつき、多聞の膝へと手を伸ばしてきた。
「きちじょ……さん?」
「沙門……私を、愛して……」
寄せられた顔と開かれた口に、多聞はとっさに身体を起こして、今度こそ女の肩を押し返した。
「や、やめるのだす!」
女は悲しげに見上げて、
「どうして?」
と聞いてきた。
多聞は、手早く服を直し、腰紐を付くと、女の前に膝をついて、女の手を取った。
「オラは、あんたの言う、さもんさんではないのだす。だから、そんなことをしてはいかんのだす」
「でも、あなたはここで待っていてくれたわ?」
「たまたまなのだす」
多聞は釣り道具の箱から手ぬぐいを引っ張り出すと、それで女の手を拭いながら言った。
「あんたには、すまんことをしてしまったのだす。だども、これ以上は絶対にいかんのだす」
「どうして?」
「オラはさもんさんじゃないのだす。したら、さもんさんは悲しむべ」
女の目から涙がぽろりと落ちた。
「……沙門は、どこ?」
「分からんのだす。だども、さもんさんは、きっとどっかであんたを待っとるのだす」
手ぬぐいを脇へとやると、多聞は女の手を握り締めた。
女はしばらく、その場で泣いた。
多聞は夜風から女を守るように、彼女の肩を抱いていた。
冷たい風が吹き、月明かりが雲に隠れると、女はゆっくりと身体を起こし、
「行くわ……」
と、言った。
「途中まで送るのだす」
と多聞が立ち上がると、女は小さな笑みを浮かべて顔を横に振った。
「さようなら」
女はそう言うと、波の音のする方へと歩き出し、闇に溶けるように姿を消した。
更にしばらくして雲が切れ、月が再び取り戻した明かりの中、多聞が足元に転がっていた釣り道具を拾い上げ、足場の悪い岩の上を歩き出すと、どこからともなく、
「ごめんなさい。ありがとう」
という声が耳に届いた。
振り返ったが女の姿は見えない。
多聞は月明かりの下で僅かに頬を染めた。
(了)