「・・・ここ・・・何処だろう?」
どれくらい走り続けたのだろう。まだこの異国の地の事情に暗い更紗の目にも、その界隈
はいかがわしく、危険に見えた。暗い路地の片隅で、いかにも堅気の人間には見えない
男たちがじっとりと湿気を含んだ暗い眼で更紗を見つめる。
更紗は少しでも日の差す路地を目指して早足で歩き出した。
(日本では命を狙われた事だって何回もあるのに・・・!何て私はやわになったんだろう・・・
ああ、ナギ、揚羽・・・浅――)
諍いの始まりがどんなだったか更紗には思い出せない。
確か、すれ違った美しい女性を振り返ってひゅう、と口笛を吹いた朱理を見て、ちくりと
嫌味を言った事だったか。どこか揚羽に似ている透明な瞳を持つ男性を見て、思わず更紗
が立ち止まってしまった事か。
お互い、慣れぬ異国の地での生活に疲労困憊していた。差別で泊まるところを探すのにも
苦労する程。思いとおりに行かない旅に疲れ果て、いつもだったら口に出さないような言
葉が朱理の口から、更紗の口から飛び出す。
「そうだよね、朱理は私と会う前にも綺麗な女の子といっぱい遊んでたんだよね」
始めこそ我慢した様子で適当に更紗をなだめていた朱理だったが、その嫌味ったらしい
更紗の口調にイライラとした様子を隠さず、すたすたと早足で歩き出した。
「聞いてるの?私だって日本に居た時は――」
「しつこいぞ、更紗!」
高ぶったその声に更紗は黙り込む。
「過去の女たちが一体どうだと言うんだ!お前が初めての女でじゃなきゃ我慢ならぬの
か!?それともお前が日本に居た時は揚羽やら浅葱やらに愛されてそれは幸せだったと
言いたいか!?」
「そんな事を話してるんじゃあないでしょ!?」
更紗があきれたように叫ぶ。
「じゃあ、何だと言うんだ!口を開けば日本の事ばかり。そんなに帰りたければ――」
「もう、いいよ!聞きたくない!」
更紗はどん、と朱理を突き飛ばすと涙を拭って背を向けた。
「更紗!!」
咄嗟に朱理が引きとめようと手を更紗に伸ばしたが、それを邪険に振り払って更紗は
駆け出す。
背後に朱理の声を聞きながら、更紗は息を切らして走りつづけた。
更紗はぐるぐると迷路のような暗い小路を歩いた。何度も同じ場所に出てしまい、
そのたびににやにやと笑う男たちがじりじりと近づいてくる気がする。
「娘さんや」
「ひっ」
手首をいきなりつかまれ、更紗はその手を払った。
「おー、乱暴な事じゃの。久方ぶりに同郷の人間に会えたかと思ったらこんなに無礼な
娘とはの」
手をさすり、上目遣いに更紗を見つめている老婆がにやりと笑った。
「あ・・・ごめん、なさい。てっきり物盗りか何かだと」
更紗ははっ、と気付いたように目を見開いた。
「お、日本語!!おばあちゃん、日本人なの!?」
「そんな悠長な事を話している場合かの。お前さん、あやつらの手に握られているのが
何か判ってるのかい?」
はっとして更紗が男たちに目を向けると、彼らはこれ見よがしに鋭い光を放つナイフを
くるくると掌で玩んでいる。
「おばあさん、お願い。どうやったらこの小路を抜けられるの?さっきからぐるぐる
同じところばかりまわっている気がするの。教えてくれる?」
「タダでは教えられんの」
にやにやと老婆が笑う。はたと老婆が更紗の耳に光るピアスに目をつける。
「おーおー、久方ぶりの上物だ。この国にはサファイアを好むご婦人達が多くての。
それと引き換えになら教えてやらん事もないな」
更紗は自分の耳にぐいと伸ばされた手をばっ、と払った。
「これは――あげられない」
ふぉっふぉっ、と老婆が笑う。
「ならば、切り刻まれるか。それとも穴が開くまでその細い体を嬲(なぶ)られ――」
更紗は老婆なぞいないかのようにきっと男たちを睨みつけ、その人数と、強さを測った。
そして周りに武器になりそうなものはないかとあたりに目を走らす。
「4・・・5人。あれだけウエイトがあれば、動きも鈍いはず・・・」
更紗は唯一武器になりそうな木切れを手にすると、はっしと男たちに対峙した。
(ナギ、揚羽、浅――、私に力を頂戴!!)
男たちに挑みかかろうとした瞬間、今迄ただの壁だと思っていた空間に扉が現れ、更紗はそこに
手を引かれて連れ込まれた。
「全く――強情っぱりな」
吐く言葉とは裏腹に、どこか面白げな口調で老婆は思いがけぬ早足で更紗の腕を引いて
すいすいと暗闇を進んでいった。
「お、おばあさん!どこへ――イタッ!!」
天井からぶらさがる何かぶにょぶにょとした物体にぶつかり更紗は小さく悲鳴を漏らした。
(嗚呼――、思い出す・・・私、こんなトンネルを昔くぐった・・・そしてそこから
始まったんだ・・・あの刀、ちゃんとハヤトは大事にしてるなかなぁ?)
更紗はどこか心地よいデジャヴに捕われて、暗闇を老婆の手に引かれるまま進んだ。
ふと気付くと大きな木作りの頑丈そうな扉の前だった。
「茶でも飲んでいけ。同郷の若い女よ」
ギイイ、と鈍い音を立てて扉が開くと、思いがけない陽光の射す温かな部屋が現れた。
「あっ、この薬草、ナギが使ってた!これも、これも!ねえ、おばーちゃん、これって
火傷にすっごい効くんだよね?」
ふぉふぉっ、と老婆は笑った。
「ただのお馬鹿な観光客かと思いきや・・・御前さん、なかなか興味深い御仁だの」
ぐつぐつと甘ったるい香りを放ち煮えたぎる鍋から、一すくい柄杓で取って液体を茶碗
にあけると、老婆はそれを更紗にすすめた。
訝しげにその液体を見つめる更紗の腕を軽く叩くと老女はくっくっと笑う。
「お前さんを見殺しにする事ならあの時出来たであろう?人を信頼する事も
忘れたかえ?」
ぴりぴりと過ごしてきた、ここ数ヶ月の出来事を反芻して、更紗はうつむいて老婆に
謝罪した。
「そう・・・だよね。ごめんなさい。そして、有難う。これ、頂きます」
ずずず、と更紗はそのどろりとした液体を啜る。
「あまーい・・・」
ふわりと身体が軽くなるような気がする。
「これ・・・何?すごく、落ち着く・・・」
老婆は懐から鈍い光を内側から放つ、水晶に似た珠を取り出すと更紗の前にかかげた。
「少し、横になりなされ。ほれ、これが見えるかの?この珠を見つめて御覧。御前さんが
今、一番会いたい人の顔が見える筈だぞえ・・・」
老婆の言葉は最後まで聞こえなかった。
その柔らかな不思議な光を放つ珠を見つめていると、更紗はとろりと眠くなり、腰が
ぐずぐずと重くなり、座っているソファに身が崩れていくのを感じた。同時に意識がどこ
か心地よいところに連れて行かれる。
意識の遠いところで如何にも面白そうな老婆の声がうっすらと聴こえる。
「御前さんの会いたい人は――ふぉっふぉっ、こやつは既に三途の川を渡っておるのう。
女子と見まがう程の美形。片目だけというのが更に色気を放っている。次は――御前さん
はずいぶんと面食いと見えるわの。ははぁーん、こやつは気高い生まれ。我と同じ匂い
を感じるの。預言者・・・なる程。面白い。盲しいているが、誰よりも眼が開いている。
ふんふん・・・だが、お前さんが一番会いたいのはこやつ等ではないの。ほれ、心を開い
てみ・・・お前が今恋焦がれているは誰ぞ・・・?ほほー、なるほどなるほど。くくくっ。
やはりタダで逢わせてやる訳にはいかんのう。ほれ、そのサファイアを頂くとするかいな・・・」
「やめ・・・」
(やめ・・・て。そのピアスは・・・・がくれたのよ!私が会いたいのは・・・朱・・・。
違・・・う・・・あ・・あさ・・・)
「浅・・・」
はらりと更紗は涙を流した。
「道理で・・・」
ぐったりソファに横たわる更紗を見つめ、老婆は呟く。
「そのピアスを渡さないはずじゃの。だが、取引成立だ。貰うぞ、その愛しい人間の
よすがを――」
(「止めてーーー、あ・・・ぎ。あ・・・浅・・・」)
「浅葱ぃい!!」
「おい!!」
誰かが自分の肩を揺さぶる。
「おいってば、タタラ!」
ゆっくりと瞼を開けると、そこには髪をさらさらと揺らして、意地悪気な表情で自分を
見下ろしている端正な顔。
「いつまで寝てるんだよ、タタラ。こんな外で寝てたら、春だっていったって風邪
引くだろ」
自分の身体には男物の上着が掛けられている。
「浅・・・葱?」
「起きたなら、それ返してよ。寒いんだから、実際」
浅葱は更紗の上に掛かっていた自分の上着を剥ぎ取る。しかし、その唇は紫色で、
ずいぶん長く更紗がその上着の下で安らかに眠っていたかを物語っている。
「浅葱」
「何だよ、阿呆みたいに僕の名前を繰り返しちゃって。さ、帰るよ。昼寝も済んだだろ?」
「帰る・・・?」
はあ、と浅葱が溜息をつく。
「い・え・に帰るよ。判る?家に帰るよ、タタラ。ぼ・く・た・ち・の・い・え。
僕達の家。わかる?すぐそこ、見えるよね?」
真っ直ぐに指差す向こうにはどこか見たような平屋の家。
ぽんぽん、と土を払って浅葱が立ち上がる。そして、更紗に手を差し出した。
「タタラ――本当にどうしたの?寝ぼけた?」
ふっ、と浅葱が笑う。
「帰ろ。家に」
更紗はその差し出された手を握り締めた。
「あー・・・最近群竹サボってるなぁ。見てよ、タタラ。この洗いものの山」
炊事場にどっさりと汚れた食器が山積みになっている。
ふふふっ、と更紗は笑った。
「いいよ、私が洗うから。浅葱は休んでて。ほら、身体が冷えたでしょ?お風呂に
でも行ってきたら?私、洗うから」
かちゃかちゃと洗い出す更紗の横に立って浅葱が憮然とつぶやく。
「いいよ。一緒に、片してあげるよ。あんた、不器用だから絶対茶碗の一枚くらい割るし」
ツンとした横顔で、懸命にごしごしと食器を洗う浅葱を見て、更紗はコツンと自分の
額を浅葱の肩にぶつける。
つまらなそうに、だが頬を赤らめて、ふん、と呟く浅葱の様子。
と、けほん、けほん、と苦しそう咳込む浅葱を見て更紗は思わず声を上げた。
「ほら!風邪引いた!昼寝してる私なんて放っておけば良いのに!」
だって、と浅葱はうつむく。
「一応、お母さんだし・・・さ、タタラ」
更紗は驚きに目を見開く。
「え・・・?」
「止(や)めろよ、ウザったいから、そういうの!何回聞けば良い訳?」
赤面して浅葱が口を尖らす。
「え・・・?」
更紗が呆けたように浅葱をぽかんと、見詰める。
ふう、と浅葱が深く溜息を吐くと更紗を睨みつけた。
「だーかーら!あんたはね、妊娠してるの。だから、長い時間立ってたり、良くないん
だよ!わかる?だから、あっち行っててよ。腹減ってるなら何か作ってあげるからさ!!」
全く妊婦は扱いづらいよ、何で群竹はこんな時に熊野に行ってるんだよ・・・とぶつぶつ
呟く浅葱を炊事場に残して更紗はふらふらと居間へと向かった。
(「あんたはね、妊娠してるの――」)
照れたような、その甘い言葉を聞きながら更紗はぺたんと床に膝をついた。
(更紗。思い出せ、思い出せ!あんたは異国の地にいた。それで朱理と、そう、朱理と
喧嘩して、怪しい路地に出て――そして、あのおばーちゃんに会って・・・そうよ、あの
おばあちゃん!『一番会いたい人』にどうたらこうたら・・・それでそれで・・・)
「タタラ」
涼やかな声がして更紗ははっと振り向く。
「固形は無理なんだよね?スープ、作ったから・・・」
片耳にきらきらと輝くピアス。更紗は、眩しげに浅葱を見つめた。そして片手は無意識に
自分の片耳にあてられる――何があっても外そうとはしなかった、ピアスがそこには無い。
「スープだったら、大丈夫だろ?ほら、あの・・・ご飯、食べるよ」
更紗はいっそ泣きたい気分で浅葱に抱きついた。
「満腹ぅ」
更紗が、うーっと腹をかかえて牀榻に横たわる。
「妊婦ってエイリアンだよね・・・」
浅葱は深い溜息を吐く。
「ちょーーーーーっと、浅葱!その言い方はないでしょ!?このお腹の中にはあんたと
私の・・・」
はっ、と更紗が言いよどむ。
大体、更紗には今日一日の記憶しかないのだから仕方ないと言えば仕方ない。
だが、思いがけなくスラスラと出た『あんたと私の』、という言葉にとまどったような表情
を見せている更紗を見詰め、浅葱がふっ、と微笑えんだ
「タタラ」
甘やかな口付けを更紗におろす。頬に、首筋に、そして唇に。深く、強く。
うっとりとその接吻に更紗が酔い、そして更紗は太腿に熱い、堅い物を感じた。
更紗はそのいきどおったものに手を伸ばす。
浅葱は更紗の額に口づけた。
「駄目だよ。妊婦さん。まあ・・・僕だって、我慢する事ぐらいは知ってるんだから」
更紗は自分を愛をしくを見つめる浅葱の瞳を見つめると、思わず涙を流した。
「タタラ、タタラ」
腹立たし気な、それでいて愛情に溢れる口調で浅葱が呟く。
「止めてよ、そういうの。タタラに泣かれるとどうしていいのか判んないよ」
浅葱のひやりとした指が更紗の乳房を覆った。
「あ・・・」
「駄目だよ、って言ってるのに・・・そういう、声」
浅葱の細い指が更紗の背中をつつ、と這う。
「ね、タタラ・・・」
浅葱が熱い吐息を更紗の耳に吹きかけながら言う。
「子供が産まれたら、僕たちとは――今の時代とは全然関係ない名前を付けよう」
浅葱がそのまっすぐな瞳を更紗に向ける。
「『あゆむ』ってどう?歩んで行くんだ.。道を真っ直ぐ」
浅葱の唇が更紗の髪に埋もれた。
更紗はそのしなやかさに思わず背をそらせ、己の小じんまりとした乳房を浅葱の顔に
突きつける姿勢になる。まだ青く張ったその乳房に柔らかな浅葱の唇がそっ、と這う。
くるりくるりと舌先で転がされ、更紗の乳房は、耐えられないようにその頂点をつん、と
浅葱の前に立たせた。
「タタラ・・・」
ゆるりと、その頂きをなぶられ、更紗は乳房から腰のずんと奥まで熱い火柱が自分を焦がすのを感じ、
今度は恥ずかしげもなく腰を浅葱に突き出した。
「浅葱、浅葱・・・」
「駄目だよ、タタラ・・・だって、タタラのお腹の中には・・・」
「ゆっくりだったら、大丈夫」
更紗は堅く張った浅葱のそれを自分の濡れそぼったそれにあてがうと、ぐい、と腰を打ち
つけた。
「ねえ、浅葱・・・」
「な・・・に?」
浅葱が息を荒くして応える。
更紗も心がふうっと空中に放り出されたような快感に見舞われて、言葉がそれ以上
出せない。
無我夢中で、だが、決して激しくはならずに浅葱が己のいきりだったそれを更紗の
腰深くに打ち付ける。
くくく、と更紗の中で大きい浅葱のそれが自分の敏感になった天井を打ち据えた時、
更紗は思わず絶叫した。
「浅葱、浅葱――!!」
熱く放たれた液体で自身を満たされた時、更紗は気を失いそうな快感の中でその涼やかな
美しい男性(ひと)の声を聞いた。
「タタラ・・・僕の・・僕の――」
(「愛しい人―――」)
はっ、と気付くとタタラはにやにやと笑っている老女の前に身を投げ出していた。
「おばあちゃん、あなた一体・・・」
更紗が思い通りにならない身体を懸命に起こそうとする。
「黙っておいで」
キラキラと輝く珠を老女は懐にしまった。
「ああ、久しぶりにこの珠も栄養が行き渡って・・・私も生き返るようじゃの」
ふぉふぉっ、と笑う老婆の腕に更紗はようやくの思いで、手を伸ばして触れた。
「浅葱・・・は?何処?」
老女が思いがけなく悲しげな瞳で更紗を見詰めた。
「お嬢さん。この珠は人の心の奥底を見詰めるんじゃよ」
更紗は目を閉じた。その頬に一筋の涙が光る。
「悪意はこの珠の養分となる。遂げられなかった想いはこの珠を肥え太らせる。だが、
それ以上に――」
老婆はふう、と溜め息をついた。
「だがそれ以上に、身を切る程の切ない慕情は――」
ちらりと老婆は更紗を見詰めた。
「時をねじらせる奇跡を起こらせる事もあるとか」
更紗はずうん、と腰の奥に重さを感じて再びソファに崩れた。
「だがな、お前さん、代償を支払わなきゃならんぞ」
どこか辛そうに老女がつぶやく、
「日本、日本――私もどれだけ愛した、憎んだ男が彼の地に居たであろう?私の心は
とうに老いて、己も自分が誰だったかとうに思い出せぬ。だが妖かしとなっても、
この心に残る慕いは何なのだ――」
瞬間、若く美しい、見知った娘の顔を更紗の前に現れた。そしてその甘美な口から
呟きが漏れた。
「私の愛しい・・・」
炎が更紗を包み込んだ。
「ひい・・ら・・」
「おい、おい、更紗」
心配そうに見詰める、男の顔。
「大丈夫・・・か」
浅黒い肌の、きらきらと瞳の下のうっすらとした隈。
「朱理?」
「心配したぞ」
うっすらと汗をかいた額を朱理がぬぐう。
「三日三晩、眠ってたんだ、お前。変なうわ言ばかり」
「・・・」
何て言ってた?貴方以外の男の名前を口にした?
台詞を飲みこんで、更紗は朱理を見詰めた。
「たまたまな、日本語の通じる亜細亜人の産婆がいて・・・これがまた怪しいばーさん
だったんだが。お前が身篭っていると・・・」
しかし、あのばーさん、どっかで見たような気が・・・とぶつぶつ呟く朱理を更紗は茫然
と見詰めた。
自分を見詰めているかと思った朱理が、更紗をたまらず愛しそうに抱き締めた。
「悪かった・・・お前がそんな状態とは知らず・・・」
頬にはきらりと光る涙。
「朱・・理・・・?」
にこりと明るく朱理は笑う。
「男かな、女かな?いや、どちらでもいい。五体満足、元気に生まれ来れば」
晴れやかに笑う朱理を見ながら、更紗は鈍い腹の痛みを抱えて、下腹をさすった。
「ところで、更紗。お前、どうしたんだ。ずっと大事にしてたピアスが・・・」
更紗は耳に手を添えた。
(「そのサファイアを頂くとするか・・・」)
耳の奥に残る、その暗く重い、そしてどこか永遠の悲しみと業をはらんだ声。
「お・・・落としちゃったんじゃあないのかな?」
更紗は思わず涙声になって蒲団をかぶった。
「おい、おい、更紗・・・?」
「ごめん、朱理、ちょっとだけ一人にして」
朱理は妊婦はこんなもんなんだろうか、と思いながらその場を離れた。
あのおばあさんは誰?
どうして私にこんな?
あれは夢だった。
違う、夢じゃない。
あの指の温かさ、熱い吐息。夢であるはずがない。
「浅葱・・・」
更紗は声を殺して嗚咽した。
人は、幾数回も人生の岐路に立つ。
幾千回も選択を迫られる。
そして、幾万回の一つの生のみしか生きられない。
その内の一つをかいま見た私は幸せなのか。それとも、この上もなく不幸なのか。
更紗の耳奥に響く声。
(ひ・・・いら・・・)
愛する男への悲鳴。どこか愉悦を含んだ、叫び声。想いを殺して、死んで行ったあの女性
(ひと)は幸せなのか?末期に愛しい男の名前を呼べたあの女性は?
そしてどうして私に「彼」を会わせてくれたのか――
更紗は腹を抱えて、切なげに顔を顰める。
(私は、誰の、子を生むんだろう――?)
そして愛おしそうに腹をさすった。
瞳を閉じた更紗の瞼には意地悪そうに微笑みを浮かべた、美しい人の微笑。
更紗は眠りに落ちた。
(更紗、いつまで寝てんのさ――)
次に、私の肩を揺らすのは誰?
<了>