「案外、たいしたことなかったね」  
 幾つか深呼吸を繰り返して、涼の胸をつき起き上がった虹子の一言に、涼は危うく崩れ落ちるところだった。  
 今の言葉と、冬の空気と、声を抑えようとした行為の結果、唇が切れそうだ。  
「……そうか?」  
 一方の虹子は緩慢な動作ながらも、淡々とベッドを降り、タオルを発見して身体を拭いていく。  
 ほとんど汗をかいていない。  
 涼の方は伸ばし続けている髪が汗で背中に張り付いてうっとうしいことこの上なかった。  
「うん。でも、未来で初めてはやっぱり避けて正解ね。疲れたわ」  
 そういう意味での、たいしたことなかった、か。  
 それなら涼も同感だ。紛らわしい言い方をするから、一瞬本気で落ち込みかけた。  
 未来に行ったら当然考えられるのが生殖のことで、一度くらいは経験しておくべきことだと思った。  
 家と一人部屋とベッドと布団が保障されている今のうちにだ。  
 それに虹子があっさりのってきたのは意外といえば意外ではあった。  
 女の最初はこだわりをもってなされるものらしいという認識は涼でも持ち合わせていたのだが。  
 
「涼? 聞いてる?」  
 どうやら、お互いにとって特別な体験とはならずに済んだようだ。  
 今や他の誰よりも見慣れた顔がいつもより綺麗に見えたりはしなかったので、安堵する。  
「シーツはどうしようか」  
 破瓜の血や諸々で汚れたシーツを、洗濯には出せないだろうということだ。  
 それは今、涼に蹴られて下の方で丸まっている。   
「今夜にでも燃やして、新しいの取ってくるさ」  
 そういう恥ずかしいものを洗濯する当番が、男女別に密かに結成されているらしいのだが、それに出す気はない。  
 その部分を切って洗って引き裂いて、もしものときにストックしておくのもいいかもしれない。  
「悪いわね」  
「ま、俺のだからな……で、どうだったよ?」  
 虹子がベッドに座り直し、髪を手櫛で直す。  
「何が?」  
「行為自体じゃなくて中身の方」  
 我ながら陳腐な問いに思え、虹子もまた肩をすくめる。  
「わかるはずないでしょう。痛いだけ」  
「そういうもんか」  
「そのようね。涼、この年で風邪引いて脱落するつもり?」  
 タオルが涼の顔に投げつけられる。  
 
 汗を拭き下だけはいて、時間を確認しようとカーテンの隙間から月の位置を確認する。  
 シャワー室がまだ使えない時間だし、外での水浴びは避けたい季節だ。  
 虹子を帰すにも半端で、それに皆は涼と虹子の間柄はそういうものだと誤解しているから、  
直接卯浪にでも見咎められなければ朝帰りに問題はないはずだった。  
 しかし、起床時間まで三時間弱。寝ない方がましな時間帯だ。  
 ふと思いついて、パジャマまで着込んだ虹子の、襟の部分を引っ張った。  
「虹子、ためしにヨくなるまでしてみねえ?」  
「ご冗談」  
 こういうときばかり、虹子は笑う。  
「……ちぇっ」  
 だから、涼も笑う。  
 ここで頷くような女ならば、溺れるような女ならば、一緒にはいない。いられない。  
 恋も友情も、尊敬も憐憫も、甘っちょろい感情は安居たちに任せればいい。  
「朝まで、一眠りするか」  
「そうね」  
 虹子は涼の差し出した手をとらず、自ら涼の隣に寝転がった。  
 彼女のパジャマ越しの体温は、温かすぎず冷たすぎず、ちょうどよい具合に涼を眠りに誘う。  
 向かい合う唇を舐めると、どちらのものかわからない、血の味がした。  
 
 完  
 
 
 

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