「ひーちゃん、きばらな」  
ぐっと握りしめたこぶしを突き出して真顔でそう言った那智だったが、その口元はすぐににまりと歪んだ。  
「那智……にやけとるがな」  
「にやけるなっちゅーんが無理な話や。  
 ひーちゃんの初夜やもんな!」  
那智はがははと笑いながら、バンバンと背中を叩いてきた。  
「いてて……」  
 
確かに今夜これから、自分は薫子との初夜を迎える。  
薫子と寝るのはこれが初めてだが、女と寝るのが初めてという訳ではないから、感慨深いものがある訳でもない。  
ただ、薫子は今までの女とは少し違っているから、いざその段になったら感慨深いと思うのかもしれない。  
聖はそんな事を思いながら、白い寝間着に袖を通した。  
お互いが了承しての結婚ではあるが、この結婚は家同士の結びつきもあるから、こういう事はやけに形式的になる。  
「今時三つ指ついて、しかも薫が『ふつつか者ですが』なんて言う訳ないやろ。  
 アホくさ……」  
しかも、親戚一同、近所の子供から年寄りまでが隣室で様子を窺っているという。  
出来ない訳ではないだろうが、そんな話を聞かされてはその気になれる訳がない。  
薫子は、どんとこいやで、とか言っていたけれど。  
 
……処女、なんやろな。  
ふと、そんな事を思った。  
度胸が据わった女だし、覗かれる事を屁とも思っていないようだから、緊張してなどいないだろう。  
けれど、本当にそうなんだろうか?  
自分だって初めての時は舞い上がっていたような気がする。  
もうずいぶん前のことだから、その時の感情なんて覚えていないけれど、  
自分ならへまなんてしないと思っていたのに、思っていたほどうまくいかなくて焦った記憶はある。  
いくら肝が据わっていたって、いざその時になったら少しくらいは……。  
「男のエゴやな」  
聖は自分の浅はかな期待に思わず苦笑してしまった。  
 
帯を締めれば覚悟が決まるかと思っていたけれど、相変わらずいまいちその気になれないまま、  
聖は寝室に足を向けた。  
足が重い。  
往生際の悪さに、我が事ながら呆れてしまう。  
薫子が嫌いな訳ではない。  
むしろ気に入っているし、夫婦として自分と一生を添い遂げてくれる女は薫子くらいだとさえ思っている。  
では何が嫌なのか。  
隣から覗かれるのが嫌なのか?  
靄のかかった気持ちのまま寝室のふすまを開けると、そこには布団が二枚並べて敷かれており、  
ふすまの前では薫子が両手をついて頭を下げていた。  
「な、なんや」  
彼女がそんな姿勢を取っているなんて思ってもいなかったせいで、聖は思わずそう口走ってしまった。  
「なんやとはなんや」  
そう言いながら顔を上げると、薫子は目を細め袖で口元を隠して、くくっと笑った。  
「……なんや、聖さん、ビビっとるんかいな」  
 
「お前がそんな所でそんな恰好しとるからや」  
聖はそう言いながら、布団に腰をおろした。  
「そんな恰好はないやろ。  
 形式は大事やで」  
隣の布団にちょこんと座り直してもっともらしく言う薫子に、聖は小さく笑った。  
「思ってもいんこと言うなや」  
「ま、じじばば満足させんとな」  
老い先短いんやし、と隣に居るというのに遠慮なく付け加える薫子。  
「それもそうやな」  
相槌を打ってから、聖は改めて薫子を眺めた。  
自分と同じ白い寝間着をきちんと身につけ、姿勢正しく、正座した膝の上に両手を揃え、  
いつもと変わらぬ様子でこちらを見ている。  
緊張している様子などみじんもない。  
当然、頬が染まっているというようなこともない。  
本当に肝の据わった女だ。  
 
やっぱり、初めてやろな。  
聖は改めてそう思った。  
他の女であれば、今の彼女の表情は場慣れていると解釈するような顔だ。  
けれど、目の前にいる女は薫子だ。  
遊びや一時の舞い上がった恋愛感情で気軽に抱ける女だとは思えないし、  
この女に手を出そうという度胸のある男がそんじょそこらにいるとは思えない。  
 
「聖さん……顔が阿呆になっとるで?」  
薫子がやや呆れたようにそう言った。  
「ん?……ああ、ええ女やなあ、て見惚れてたわ」  
「今頃気ぃついたんか」  
期待していた訳ではないけれど、本当に動揺などみじんも見せない女だ。  
この女の頬が紅く染まるところを見てみたい。  
羞恥に困惑した顔が見てみたい。  
快楽に堪えきれなくなって零れてしまった声を聞いてみたい。  
そう思った瞬間、聖は今まで自分の気を重くさせていたものの正体に気がついた。  
なんのことはない、単なる独占欲だ。  
「阿呆やな」  
思わずふっと顔をほころばせて呟くと、薫子が怪訝な顔をした。  
「薫、明かり消すで」  
「なんや、聖さん、見られるんが嫌なんか」  
「当たり前や。見せてたまるか」  
「意外と恥ずかしがり屋さんなんやな」  
そう言って笑う薫子に身体を寄せて、聖は彼女の耳元に囁いた。  
「おまえを見せたないんや」  
薫子の顔に一瞬、困惑の表情がよぎった。  
自分の言葉の意味を計りかねての困惑か、それとも自分の言葉を理解した上での困惑か。  
それは分からないけれど、表情の理由など何だって構わない。  
これからじっくりとたくさんの表情を見せてもらおう。  
傲慢と言われても構わない。  
この女の顔を見ていいのは自分だけ。  
ならば、明かりは月明かりだけで十分だ。  
聖は枕元の明かりを吹き消して、薫子を抱き寄せた。  
 
(了)  
 

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