嵐くんが、死んだ。
花さんは冗談だと思ったのだろう。
いつもの笑みを浮かべたまま、一報をもたらしたハルを振り返った。
その後ろで土砂と血に塗れた蝉丸くんが、肩を震わせて地面に倒れている。
岩清水さんが彼を支えようとしながら、ぼろぼろと涙を零している。
花さんの表情が凍てついた。僕も信じられなかった。
花さんと嵐くんが再会して、ちょうど一週間が経った日だった。
僕たちはすぐさま吹雪と美鶴さんを引き連れ、
土砂に埋まってしまった洞窟の周囲を捜索した。
蝉丸くんの話をもとに、位置を予測し、
名前を呼びかけ、犬たちに匂いを辿らせては、慎重に土砂を掘り返した。
ナツさんは、涙で顔をくしゃくしゃにしていた。
蝉丸君は、怪我の手当てもままならない状態でやってきた。
ハルをはじめ、他の仲間たちも懸命に手を貸してくれた。
それでも、嵐くんはみつからない。
花さんは、ただ黙々と作業に集中していた。
そして、誰とも話そうとしなかった。
事故から5日が経ったとき、ついに捜索の打ち切りが提案された。
蝉丸くんの証言から、崩落時、相当量の土砂が嵐くんの上に降り注いだことがわかっていた。
洞窟が埋まった時点で、既に亡くなっていた可能性が高かった。
さらに、運よくそれを免れたとしても、5日間飲まず食わずで生存するのは難しい。
この世界でそれなりに生きてきた僕たちには、現状の厳しさが痛いほどにわかっている。
捜索の断念が合理的な決断であることは、このコミュニティの全員が理解している。
それでも花さんを思えば、どうしても諦めきれないという感情が僕のなかで込み上げた。
あと、3日、2日、いや1日でもいい。もう少しだけ――。
そう言い掛けた僕の前に、花さんは掌をすっと差し出した。
「花さん…」
「新巻さん、ありがとうございます。でも、いいんです、もう……。」
「皆も、本当にありがとう」
そのまま深々と頭を下げた花さんに、
誰も、声を掛けることはできなかった。
集会はお開きになり、それぞれが沈鬱な面持ちで、
寝床や持ち場へと帰っていった。
ハルと僕だけがその場に残った。否、動けなかった。
3人で旅をした分、他の仲間よりも花さんのことを知っているという
ある意味自分勝手な自負が僕らの胸を突き刺していたからだ。
ハルは、花さんが座っていた辺りの地面をじぃっと見つめ、
そっと掌で撫でた。
「やっぱり」
「え?」
「花、もしかしたらオレたちに頭下げてるとき、見えなかったけど、
泣いてたのかな、なんて思ってたんだけど。」
「……」
ハルの白い指はさらさらと渇いた地肌を撫でた。
花さんが零せなかった涙の音を探るように。
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花さんはいつか僕のことを頑固だと言っていたが、
やはりそうなのかもしれない、と最近自覚し始めている。
「おいっしょぉ」
掻き分けても掻き分けても、嵐くんは見つからない。
嵐くん、どこにいる?心のなかで問いかけても、答えてくれないのは当たり前だ。
黙々と穴を掘り続けながら、僕はきちんと知り合うことのできていなかった
嵐くんのことを考えた。
僕が嵐くんについて実際に知ってることは少ない。
なぜなら、僕にとっての彼は「花さんの恋人」としての印象ばかりが強くて、
「青田嵐」個人について知る機会はあまり得られなかったからだ。
だから、花さんのことばかり考えて、彼を見つけようとしていることが、
本人に対する礼儀を欠いているようで、非常に申し訳なく感じられた。
本当なら、もっと時間をかけてお互いのことを知り合いたかった。
最初に会ったときは僕が怪しい風体をしていたせいで拒絶されてしまった。
けれど彼は再び会ったとき、そのことをひどく申し訳なさそうに謝ってくれた。
彼は水泳部に入っていたそうなので、泳ぎを教えてもらうことができたかもしれないし、
互いにスポーツ選手らしい話題で盛り上がることができたかもしれない。
もっと彼のことを知りたかったと思う。
「うーん、よく見えないなぁ」
月明かりと手持ちのライトだけでは、作業に十分な明るさを保てない。
しかし、火を焚くことで、他の仲間たちに――特に花さんに――
知られてしまうのも避けたかった。
花さんは「もういい」と言ったのだ。
それなのに、嵐くんを探し続けている僕の行為は、
彼女の傷を抉るだけだろう。
「美鶴さん、吹雪、俺、やっぱり間違ってるかな…」
自信が無くなって振り返ったその先、
二人はぶんぶんと闇に向って千切れんばかりに尾を振っていた。
その先には光も足音も気配もない。
なんだろう?
とりあえず害をなす相手ではなさそうだと検討をつけ、
再び眼をこらそうとして――
心臓が、凍った。
あの日のあの寒さが、悲しみが、一瞬で蘇った。
青白く、美しい、その姿は見間違いようもなかった。
15年かけても風化しなかった彼女の存在が、今そのまま目の前にある。
――美鶴さん!!
絶叫は喉の奥で詰まり、その代わり体中に砕け散った。
けれどそれを聞き届けたかのように、美鶴さんはこちらを見て微笑み、
そうして長い黒髪を揺らしてそっと僕たちの居住地区の方向を指差した。
「え、あっち?」
美鶴さんは、そう、と頷くと、かつてよくしていたように、
僕を抱き締めてくれた。
そこには感触もぬくもりもなかったけれど、懐かしい優しい匂いがした。
瞬きの間に美鶴さんは消えた。
これは夢?幻か?そう惑う間もなく、美鶴さんの指差した方向から
別の人影がこちらに近づいてくるのが分かった。
今度は足音もする、気配もある、人間だ。
僕は咄嗟にライトを当てようとした。
けれど駆け寄ってきたその人影は、そんな間すら与えず体当たりしてきた。
やはり、というべきか、その人影は花さんだった。
「あ、嵐、嵐、嵐!!生きてたの?!」
体当たりされたことよりも、その言葉に衝撃を受けて、僕は一瞬眩暈を覚えた。
ああ、美鶴さん、吹雪。僕はどうすればいい。
抱き締める腕の力は、僕の腰骨も折らんばかりに強かった。
僕には、その腕を引き離すことも、ましてや抱き締め返すこともできなかった。
ただ残酷と知りつつも、もう一度、彼女の名前を呼んだ。
「花さん…」
「!」
自分が抱きついている相手が彼でないことに気づくと、
彼女はゆっくりと体を離して、恐る恐る僕の顔を見上げた。
表情のないまま首を振り、彼女の腕が離れていく。
離れていく体温に、月の光に照らされた青白い顔、
ああ、デジャヴだ。
手を離せば、また失ってしまうかもしれない。失いたくない。
使命感と恐怖が入り混じった感情に突き動かされて、
僕は彼女を手放すまいとした。
ぼんやりと俺を見つめる眼がやがて滲み、鼻頭が赤く染まっていく。
そうして、瞳から先走った一滴が伝い落ちてようやく、
花さんはくしゃりと顔を歪めた。
「あ…あ、新巻さん……」
それは、最初に出会ったときの表情にも似ていた。
『抱き締めて』
遠くか、近くか、不思議な距離で声が聴こえた。
ああ、美鶴さんの声だ、と思った。
さっき美鶴さんがしてくれたように、やさしく抱き締めてあげたかった。
でも、溢れる感情をコントロールできず、僕はぐい、と半ば強引に抱き締めた。
やがて、胸元から嗚咽が漏れ始めた。
熱く濡らす涙も、しゃくりあげる振動も、彼の名前を呼び続ける声も、
彼女の全てが、今はかなしかった。
大切な人を失う悲しみを、僕は知っていた。
彼らがいなくなっても尚、何故、自分は生き続けなければならないのか。
祈るように、呪うように、ずっと己に問い続けてきた。
だからこそ、「わかるよ」などとは口が裂けても言えない。
痛みはそのひとだけのものだ。
僕は彼女が泣き疲れて眠ってしまうまで、ずっと彼女を抱き締めていた。
頬に流れる無数の涙の跡に、嵐くんの存在の重さを実感していた。
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「吹雪、美鶴さん、帰ろうか……ん?」
彼女を抱きかかえたところで、靴に硬い何かが当たった。…本?
僕はしゃがみながらまじまじとその本をみつめ、題名を読み取ろうとした。
「…ロビンソンクルーソー?」
花さんが持ってきたものだろうか。
もしかしたら、嵐くんとの思い出の本をここに埋めようとしていたとか。
「そうやってさ、」
唐突な呼びかけに顔を上げれば、不機嫌そうな顔をしてハルが立っていた。
「ハル!」
いつからいたんだ、という問には答えず、複雑な表情のままハルは本を拾い上げた。
「どうせ花は、一人で片をつけようとしてたんでしょ」
また、とひとつ付け加えた後に、ハルはぱんぱん、と本についた土を払ってくれた。
この本に詰まった彼との思い出を埋めて、葬って、
みんなに心配をかけないように、とにかく前向きに生きよう。
それが死んでしまった嵐への愛情でもあるし、
心配してくれたみんなへのお礼でもあるし、
これからの自分のためだから。
「…とかなんとかさ。
前向きになろうとしすぎて、
今の自分が全然見えてない。」
ハルの指摘はまさにその通りだった。
まだ誰もが泣いていても赦されるときだ。
それなのに、花さんはまともに「いたむ」ことすらできないまま、
それを跳び越えようとしている。
「花さんらしいね……」
「ホント、馬鹿だよ」
この人は、と、ハルはふにふにと花さんの頬を指でつついている。
いじめちゃ駄目だよ、と笑えば、愛情表現だよ、と真顔で返された。
小瑠璃さんに言いつけてしまいましょうか、ねぇ花さん。
「あのさ、新巻サン」
「なんだい、改まって」
「多分、もうわかってると思うんだけど…悔しいからあんまり言いたくないんだけど…」
「オレは花のこと、新巻サンに任せたい」
「ま、任せるって…」
「勿論、オレには何の権利もないけど、でも、ずっと見てきたからさ。」
花は、誰かに寄りかかったりするの嫌ってるけど、
アンタになら、いいんじゃないかなって。
「ハル……」
「嫌なら、オレがやるけどね」
照れたように視線をそらす年下のこの青年を、
弟のように大切だと思う。
「だから、小瑠璃さんはどうするつもり」
「ほら、こんなご時勢なら、一夫多妻もありじゃない?」
「いやいや……」
帰り道の後半はほとんどたわいも無い話になってしまった。
僕はハルのおかげでようやく、笑うことができた。
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花さんを彼女の寝床に横たえ、寝具をかけてあげた。
ふぅと一息ついて間もなく、自分の手がぎゅっと掴まれたのを感じた。
「あ」
「あーあ」
どうしようか。
男女別の寝所が用意されている今、女性の布団の傍に長居するのは失礼だ。
かといって、無理やり外してしまうのも憚られた。
それに、花さんはあの日からまともに眠っていなかったのだろう。
これまでの間、一度も眼を覚ましていない。このまま自然に待つのがいいだろう。
ハルは、彼女の荷物の傍に本を置くと、やれやれとため息をついた。
「ハル、ありがとう。後はいいよ、君も休んで。」
「んー。あ……花に変なことしないでよね」
疑り深い視線に、しないよ、と笑って返す。
それでも不信そうな表情のハルに、ほらここにはナツさんもいるんだしと
横目で示して、ようやく納得してもらえた。
「オヤスミー」
「おやすみなさい、ハル。」
僕もしばらくしたら戻らなくちゃ、とは思いつつも、
花さんが手を放してくれない限りはどうしようもないだろうとも思う。
そうだ、と思い当たり、小さく口笛を吹いて、ダイとバツを呼び込んだ。
寒冷地でない限り、普段は、犬と人は別々に眠っているけれど、今日ばかりは多めに見てもらってもいいだろう。
美鶴さんが亡くなったとき、吹雪の、もとい、あの母犬の温もりに救われたことを思い出した。
少しでもいいから、貴方の助けになればいい。
子犬たちは眠っている花さんの傍をくるくると回り、
やがて自分の按配のよいところをみつけると、ぺたんと体を伏せた。
仔犬たちに囲まれて、花さんの表情が少しだけ和らいだような気がした。
もしかしたら、ただの願望かもしれないけれど。
いつもは綺麗で可愛らしい花さんの顔が、今晩はたくさん泣いたせいか、
瞼と唇が腫れて、頬と鼻先も赤くなっていた。
――嵐くん、ごめんなさい。
心のなかで謝って、額に口づける。
それは、誓い。そっと触れるだけだったけれど、それでも。
花さん、あなたのために僕は生きよう。
了