――ずっと、ずっと小さい頃から夢の中にあの人は出てきていた。  
 
――優しく微笑んで私の事を抱き締めてくれていた。  
 
――あの人は、誰なんだろう…?  
 
――でも、私はあの人を知らないけれど知っているような気もする。  
 
――あなたは…誰なの…?  
 
 
 
誰かに抱き締められた所で名古屋魚月は目を覚ました。  
起き上がり、瞼を伏せたまま感触が残る自分の体を抱く。  
「…また、あの夢…」  
小さい頃からずっと見てきた夢だった。  
ずっと知らない少年が自分の傍で笑い――夢の中では、  
その少年と自分は恋人同士だった気がする。  
起きてからもまだ残る切なくて甘い想い…魚月は小さく息を吐き、時計の針を見た。  
朝の6時を少し過ぎたばかり――起きるには丁度良い時間だ。  
まだドキドキする胸を抑え、魚月は立ち上がった。  
 
脱衣所の鏡に映った自分の姿を魚月は見つめた。  
服を脱ぎ、ブラを外したまま――鏡に映る自分をじっと見つめる。  
鏡の中に映る自分に違和感を覚えるようになったのはつい最近の事だった。  
鏡の中の自分に、見知らぬ髪の長い天使のような羽根を持った女性が重なるようになった。  
夢の中の少年と同じように知らないはずなのにとても懐かしい感じがした。  
鏡を見ると間違い無くそこには高校に入学したばかりの魚月が映っている。  
それが当たり前の筈なのに――魚月は落ち着かなくなる。  
まだ大きいとは言えない自分の乳房を掴み、鏡を見ながら揉み始める。  
「ふっ…」  
寒さで勃った乳首を摘むと親指と人差し指で挟み、きゅっと指の腹で刺激する。  
「はっ…あぁ…」  
これもつい最近からするようになった。  
落ち着かなくなった時、こうして自慰をする癖が出来た。  
きゅん、切なくなってたまらなくなってくる。  
(まだ…朝なのに…お母さんやお父さんが来るかも知れないのに――)  
家族が使う『脱衣所』で自分の体を弄っている…  
そんな恥ずかしい行為をしていると言うだけでも魚月は興奮してくる。  
「ふっ…あっ…」  
洗面所のへりに手を置き、身を預けるように前屈みになる。  
乳首を弄る手に徐々に力をこめる。  
「ふぅんっ…ん、ぁはっ…」  
懸命に声を押し殺しながら鏡に映る自分を見る。  
とてもいやらしい顔をして、とろんとした目で自分を見ている。  
(いやらしい顔してる…私、こんな顔しているんだ…)  
少し強い力で乳首を摘むと、声が漏れそうになった。  
 
「っっ…ぁあんっ!」  
ぞくぞくと背筋を何かが走る。  
じゅん、と熱くなった自分のあそこから溢れてくるのが判り、  
魚月は最後のパンティも脱いだ。  
パンティを見ると薄っすらと染みが出来ている。  
それが余計にいやらしい気分にさせた。  
乳首を弄っていた手を下へとのばし、自分のあそこを触る。  
少し触れただけなのにぬるぬるとした愛液が指につく。  
「っは…やらしいっ…」  
くっと指で開くだけでくちゅっと音がした。  
「んんっ」  
そろそろ朝の忙しい時間になる。  
今にも誰かがドアを開けて入ってくるかも知れない。  
家族の父か母が自慰に耽る自分を見るかも知れない。  
そう考えるだけで余計にぞくぞくとする。  
(変態なのかな…私…。でも、いいの…)  
指で開いたり閉じたりを繰り返すだけでもイキそうになる。  
(誰でもいいから…見て…)  
「ふぅっ、ぁっ」  
漏れないように唇を閉じ、魚月は浅く指を入れる。  
「っ…!」  
(ああっ…入っちゃった…)  
 
少しの異物感に眉を顰めながら指をもう少し深く埋める。  
「んっ…おま○こにいれちゃってるよぉっ…」  
いやらしい言葉を口走りながらずぷっ…ずぷと音がするほどかき回し、指の出し入れを早める。  
「はっ…ぁっ…ぁぁんっ」  
まだ男性経験の無い魚月だが、雑誌や友人の体験談でセックスがどんなものかは知っていた。  
それに両親がしている最中を何度か見ている。  
母が薄暗い中はしたない言葉を叫び、父に貫かれている姿は衝撃的でもあり  
――同時に、魚月にとっては性に目覚めるきっかけでもあった。  
自慰をしながら考える事は夢の中の少年の事や両親のセックス、  
そして――隣に住む水無月心時の事だった。  
小さい頃一緒にお風呂に入った時相手の性器を見たりしていた。  
あれが雑誌や実際父のを見たりしていると大きくなって今指を入れている場所に入るのだと言う。  
正直指で精一杯だし、入るとは思えなかった。  
だが、こうして指の出し入れを激しくしていると気持ち良くなってきて自分でも良く判らなくなる。  
(オチ○チンって…気持ちいいのかな…)  
友達は最初に痛いけど慣れると気持ちいいと教えてくれた。  
『魚月には心時さんがいるじゃない。  
相手は大学生だし、魚月だってまんざらでもないんでしょ?  
セックスって気持ちいいよ』  
その時はあんな奴なんか嫌だよ、と言ってはぐらかした。  
だけどこうして自慰に耽る時、心時に貫かれる自分を想像してしまう。  
大学でも恐らく女性に人気があるのでは――と思える程、心時は美形だと思う。  
口ではロリコンとか言っているけど本当は――本当は――…。  
「はっ…心時…入れてっ…」  
小さい声で呟き、指のい動きを止める。  
 
想像の中の心時は笑って耳元で囁く。  
『どこに欲しいのかはっきり言ってもらわないとわからないぜ』  
「あ…そこ…あそこに、欲しいのっ…」  
『あそこだけじゃわからないって』  
想像の中だけなのにどんどんと昂ぶっていく。  
実際に言われたら、本当にどうなっていくんだろう…?  
『はっきりいやらしい魚月のおま○こにおち○ちん入れてくださいって言ってみなよ』  
「い、言えないよぉ…」  
『じゃ、無理だな』  
(想像の中で)意地悪く言われ、魚月は泣きそうな小さな声で呟く。  
「い、れて…心時のかたくて太いおち○ちん、魚月のおま○こに入れてッ…!」  
そう言った瞬間、魚月は自分の指を一気に挿し込んだ。  
「はっ、いくっ…わた…し…いっちゃうっ…――っ!!!」  
びくん、びくんと体を震わせて魚月はあはぁっと甘く息を吐く。  
目を伏せ、指で自分の中の蠕動を感じる。  
きゅう、とあそこが締めつけてくるのを感じた。  
「…私って…淫乱、なのかな…」  
 
シャワーを浴び終わると再び魚月は自分の体を鏡で見た。  
「…私は、誰なの――?」  
不安定な自分に対して魚月は確かめるように聞く。  
「私は、本当に…名古屋魚月なの?」  
鏡の中の自分は不安そうな目で見つめるだけで何も言葉を返さない。  
馬鹿げた話ではあるが魚月は自分に違和感を感じる。  
別に周囲に不満がある訳でもない。  
ただ――足元が不安定で、ぐらぐらするような――そんな感覚がずっと続いている。  
生理が来る度にそれは余計に強くなっていた。  
(近い…のかな…?)  
魚月は鏡から目を逸らし、体を拭き始めた。  
 
 
制服に着替え、食卓へと急ぐ。  
自慰に耽っていたせいで時間が思ったよりも無くなっていた。  
きっと両親は魚月が自慰をしていた事も知らずに洗面所使ったりするのだろう。  
それを考え、魚月は心の中でごめんなさいと謝った。  
 
 
 
――そろそろ、だな。 
 
ちら、と横目で時計を見ると心時は立ち上がった。 
まだ食べかけのパンを牛乳で一気に流しこむ。 
「んひゃ、ひってふるはら(んじゃ、行ってくるから)」 
まだ新聞を読んでいる父と忙しげに弁当を作っている母に告げると玄関へと向かう。 
「気をつけるのよ」 
母の言葉に笑ってわかってるってと答える。 
本当は大学へ行くにはまだ早い時間帯だった。 
だがこの時間に出なければ隣の名古屋魚月と一緒に歩いたり出来ないのだ。 
「じゃ、行ってくるから」 
鼻歌混じりに靴を履きながら上機嫌で家を出る。 
ガチャ、と隣のドアも一緒に開いた。 
「行ってきまーす」 
元気の良い魚月の声が響く。 
「よ、魚月。おまえもこれから学校だろ。 
――なんなら今日も一緒に行かないか?」 
心時が魚月に向かって笑いかける。 
毎朝こうして魚月と偶然に会った振り(多分、魚月にはバレバレ)をして学校まで送り届けている。 
魚月に変な虫がつかないように。 
いつもならここで軽口の一つでも叩いてくるのだが――今日は違った。 
「!」 
ボッと火がついたかのように魚月の顔が真っ赤になる。 
「…魚月?」 
ドアを閉めると急に心時から顔をそらす。 
「また今日も朝から大学に行くの?」 
心なしか声が震えているような気がする。 
様子のおかしい魚月の肩に心時が手をのばすと、慌てて離れる。 
「やぁっ…」 
「な、なんだよっ」 
心時もつられて手を戻した。 
朝の爽やかな空気の中、きまずい雰囲気になってくる。 
明らかに魚月の様子がおかしい。 
「どうしたんだよ?」 
「ご、ごめんっ…なんでもないからっ…今日は友達と行くからっ…いいっ」 
鞄を小脇に抱えて魚月が走って心時の傍を駆け抜けて行く。 
魚月の後姿を見ながら心時は頭をかいた。 
「――俺、なんかしたかなぁ…?」 
(まだ、何もしてないんだけどなぁ) 
――まだ、何も…。 
考えたら魚月が産まれた時から傍に居るのに、 
二人はまだ「幼馴染」の枠から外れる事が出来ていなかった。 
心時の気持ちには魚月は多分気付いてくれている筈だ。 
(魚月は俺の事をどう思ってるんだろう…) 
ふ、と心時は自分の手を見る。  
 
(俺はフィンより4年早く生まれ変わる事が出来た。 
目の前で死んでから…いつか生まれ変わって出会えると信じていた) 
どう見ても人間の『男』の手にしか見えない。 
だが――心時には水無月心時として生を受ける前の記憶があった。 
その時の名は、アクセス。天使だった。 
誰よりも愛したフィンと言う恋人が居た。 
前世の恋の終わりは決して幸せと言えるものでは無かった。 
目の前でフィンが――愛する人の命が消えていく感覚――何も出来なくて、助ける力さえなくて。 
絶望と、悲しみと、憤りと。全てが無い混ぜになって押し寄せてきて――。 
生まれ変わった今でも鮮明に思い出せるほど悲しくて――癒される事のない傷となっている。 
それでも立ち直る事が出来たのは、まろんがフィンに『自分の力』を与えてくれたからだ。 
フィンがいつか生まれ変われるようにと――希望を与えてくれたからこそ、 
自分も天界での厳しい修行にも耐えて人間に生まれ変わる事が出来たのだ。 
『アクセスのことはずっと好きだよ…』 
死の間際にフィンがそう言ってくれなかったら、今ここに水無月心時は居なかったかも知れない。 
いつか、きっといつか必ず再び出会えると――そう信じていたからこそ耐える事が出来た。 
実際フィンは今――名古屋魚月として生を受けた。 
二人は再会する事が出来たのだが…。 
(参ったよなぁ…魚月は記憶が一切無いんだから) 
ぎゅ、と自分の拳を握る。 
だけど、それで良かったのかも知れない。 
前世の記憶があれば苦しむだけだろう。  
 
心時も魚月くらいの頃、自分が『アクセス』なのか『水無月心時』なのか判らなくっていた。 
前世の記憶と自分の『今』の記憶が混ざり、現実感が乏しかった。 
自分が好きなのは、魚月なのかフィンなのか、それすらも混ざって――辛かった。 
そんな時救ってくれたのは魚月の笑顔だった。 
傍に居てくれているのは、魚月であってフィンではない。 
そして自分もアクセスではなく『水無月心時』だと――そう、思えるようになった。 
さっきの魚月の反応を思い出し、心時ははっとした。 
「魚月も、もしかしてあの頃の俺のように――不安定に…?」 
もう既に魚月の姿は無いが、心時はその方向をじっと見つめた。 
「…考え過ぎかな」 
自分の思い過ごしだと――そう思いたくて呟く。 
あの時期の事は思い出しても辛い事ばかりだった。 
「あ」 
心時ははっとして気付いた。 
魚月をそのまま行かせたけど今日は何も大学に用事は無い。 
いや、部活しに行ってもいいのだがそんな気分にはなれない。 
魚月が気になる。 
少し考えた後、心時は魚月の去った方へと歩き始めた。  
 
足早に歩きながら魚月は前で鞄を抱えていた。 
(…どうしちゃったんだろう…私、変だ) 
先程心時に会った瞬間、夢の中の少年と姿が重なって見えた。 
(年齢的に違うはずなのに――今日、さっき会って…気付いちゃった…) 
心時と夢の中の少年は雰囲気が同じ、なのだ。 
似ているのではなく全く同じ――だった。 
そう感じた瞬間、魚月の中で心時が『幼馴染』から違う存在へと変化しているのに気付いた。 
『幼馴染』から『男』へと――。 
まだ、胸がドキドキしている。 
『友達と行く』と嘘をついて走ってきたせいだけでは無い。 
確実に、これは――魚月自身が一番認めたくない感情だった。 
(…やだ、なんで心時が彼に似ているの?なんでこんなにドキドキするの――?) 
落ち着かなくなってきて、魚月は再び走り始めた。  
 
 
結局魚月は教室まで走っていった。 
汗だくになって来た魚月に友人達は驚いていた。 
「魚月どしたの?その汗」 
「なんでもないよー」 
笑ってなんとかごまかしたが、魚月はまだドキドキが止まらないでいた。 
 
心時と夢の少年と――雰囲気が全く同じ、の意味に困惑していた。 
 
魚月は生まれた時、小さなピアスを握り締めていた、と両親が話してくれた。 
ピアスの持ち主は誰なんだろう?と思っていたがすぐにその謎は解けた。 
成長するに従い、夢の中に一人の少年が出てくるようになった。 
天使のような格好の少年と抱き合い…時には語り合う――幸せで切ない夢だった。 
そしてその少年は魚月が握っていたピアスをしていた。 
 
――いつからだろう。 
 
名前も知らない少年に恋をしている事に気付いたのは。 
夢の中でしか会えない切なさに泣いた夜もあった。 
彼は魚月の中で大きな存在になっていた。 
それが――不意に、気付いてしまった。 
心時と彼が似ているという事に。 
 
(どうしよう…私…もしかして……心時の事が?) 
きゅ、と制服を掴む。 
毎日出会っては言い争いをしているのに? 
(あんなロリコンな奴…好きなんかじゃないって思ってたのに) 
落ち着かなくなってくる。 
まだ授業が始まるまで時間があった。 
「トイレ」 
側で楽しそうに話している友人達に告げると足早に魚月はトイレへと向かった。  
 
しっかりと鍵を締めると魚月は制服の上から自分の乳房を揉み始める。 
今までは家の中でしかした事がなかったのに――と思いながら片手で乳房を、 
もう一つの手はスカートの中へともぐり込ませる。 
乳房全体を包むように揉んだかと思うと、今度は布地越しに乳首を探る。 
まだ勃起していないそれを指で軽く摘み、くりくりと刺激を与える。 
「っ!」 
指の腹で乳首が勃起する感触を味わいながら、 
汚れないように下着を膝までずり下げるとまだ薄い恥毛を撫でる。 
「――…ふっ」 
それだけで甘い息が漏れた。 
朝の授業が始まるまでの時間――ドア一枚隔てた向こうから、 
廊下やトイレで話す声が聞こえてくる。 
まるで――別世界の音のようだった。 
意識が自分の体にだけ集中してくる。 
体を狭い個室の壁に押しつけると勃った乳首がこすれるように動く。 
「やだーなにそれー」「アハハハ」 
外の話し声に興奮しながら魚月が自分の秘裂を両手で広げた。 
トイレのムッとした空気と匂いに混ざって魚月の牝の香りが広がる。 
(ああ、こんなの…誰かに、もし誰かに見つかったら――) 
学校でこんな事はいけない――そう思いつつ指が理性の訴えとは逆の事をする。 
こうして自分で慰めている間だけ落ち着いてくる。 
誰にも聞こえないように口の中で小さく呟く。 
「ね…いじめて、魚月のこと…」 
剥き出しの秘裂を自分で広げながらくちゅくちゅと音をさせる。 
(ああっ…誰かに、誰かに聞かれちゃう――…だめぇっ…こんなのっ…) 
『キーンコーン…カーンコーン』 
予鈴が鳴り響くとトイレから去っていく足音がする。 
(私も早くいかなきゃ…) 
早くこんな事は止めていかなければ――心の隅でそう思いながら指で秘裂を広げ、 
ドアノブに押しつける。冷たい金属の感触が大きな刺激となり、思わず声をあげさせてしまった。 
「ああっ、んっ…」 
ぐちゅ、と音とキィキィとノブが回る音がした。 
(あ、やだ…汚いのに…どうして止まらないの?!) 
太腿を愛液が伝っていくのが判る。 
(淫乱だ、私って…淫乱なんだっ…)  
 
自分の体を触り、快楽を貪るときだけ本当の自分なんじゃないかと魚月は思う。 
いつも誰かに見られたい…いじめられたい…そう考えてオナニーをするのは、 
もしかしたら魚月自身が誰かにしっかりとその存在を認めてもらいたい心の裏返しなのかも知れない。 
別段家族にも、環境にも、友人にも不満など何一つ無い筈の中で――どうしてそう考えてしまうんだろうか。 
後ろを向いてドアノブにグイグイと押し当てる。 
グチュ、グチュッと耳を塞ぎたくなるような音と、学校でこんな事をしていると言う事実がどんどんと昂ぶらせていく。 
(…私…ほんとうは誰かに見つけて欲しいのかな…) 
こんな事をしている自分を。 
一番誰にも見せたくない姿になっている自分を。 
(必要として…お願い…) 
「あっん、ん、んううっ…」 
腰を振り、乳首を摘みながらビクビクと震える。 
シーンと静まり返った中にもしかしたらこの声が――響いてるのかも知れない。 
「おま○こいいっ…いいのぉっ…」 
(私が必要だって言って…) 
時折母親が自分をフィンと言う名前で呼ぶ事がある。 
誰か知り合いなの?と聞いても両親は答えてくれなかった。 
――フィンって誰?私は…私は名古屋魚月だよっ… 
他の人の名前で呼ばれる時、魚月はどうしようもない無力感に襲われる。 
まるで自分なんか要らないといわれているようで悲しかった。 
「ふ、うっ、うっ」 
切なさからなのか――快楽からなのか。 
魚月は涙を流しながら激しく腰を動かす。 
全て、辛いのを忘れられるのは快楽に身を任せている一時だけ―― 
それが、現実逃避にしか過ぎなくても。 
魚月にはこの行為が必要だった。 
――自分が壊れてしまわない為に。 
 
――自分の存在を確認する為に。  
 
秘裂を広げた指をクリトリスへ伸ばし、キュっと強く摘んだ。 
「――ふっ、ひっ…ふ、ふ、ふぅぅぅっ!」 
ビク、ビクと体を仰け反らせて――魚月は達した。 
プシャアアアアーッと愛液と尿が混ざり床へと落ちていく。 
恍惚とした表情で魚月は壁にもたれかかった。 
 
――私、居ても、いいんだよね――? 
 
誰に言うとも無く魚月は呟いた。 
自分の中の『誰か』がいつか『魚月』を消してしまいそうで怖い。 
そんな事を考えては頭がおかしくなったのかと自問自答する。 
誰かに支えて欲しいと思った。 
血の繋がりがある人ではない、誰か。 
「…心時…たすけて…こわいよ……こわいよ……」 
涙を流しながら、魚月は震えた。  
 
「お願い…言って…いてもいいんだよって…言って…」 
時間が過ぎる度に不安が押し寄せてくる。 
夢の中の彼のように、抱き締めて安心させて欲しい。 
両親ではなく、彼なら、心時ならばきっと不確かな明日を照らしてくれる――そんな気がする。 
どうしてかは判らないけど魚月はそう感じていた。 
「…こわいよ…アクセス…たすけて…」 
魚月は我知らず呟き、アクセスって誰?と震えた。 
確実に自分の中に在る別の誰か。 
魚月は悲鳴をあげそうになり、必死に自分の体を抱いた。 
 
 
 
1時間目が終わるまで、魚月は教室に戻らなかった。 
自慰の後始末と――なんとなくの気不味さを感じて。 
休み時間に戻ってきた魚月を友人達は心配そうに見つめたが魚月はなんでもないよと笑って答えた。  
 
 
 
心時は取り敢えず魚月の学校へ来たものの、  
卒業生でも無い自分が中に入れないのに気付きどうするべきか考え込んでいた。  
(こうしてても始まらないしなぁ)  
ここ数日魚月の様子がおかしかったのが気になる。  
まるで夢を見ているかのようにぼーっとしている事が多くなってきた。  
――心時は学校に着くまでの間、ずっと魚月の事を考えていた。  
 
今まで見せた事の無い表情と、ここ最近の魚月の不安定さ。  
魚月にはまだ話していなかったが、心時は魚月の両親とは既知の仲だった。  
二人から度々魚月の事で相談を受けたりもしている。  
どうやら両親は二人とも魚月の様子がおかしい事に気付いているようだった。  
昨夜、魚月の母――まろんから相談の電話があった。  
元気な振りをしているけれどあれは空元気なのではないか、と。  
それだけだと心時も魚月の体調が悪いだけだよ、と笑い飛ばせた。  
しかし――まろんが言ったのだ。  
『魚月を起こしに行った時にね、あのこ…私の事お母さんじゃなくて  
おはようまろんって――フィンの時のように、呼んだのよ…』  
思わずその時まろんは魚月をフィンと呼んでしまったようだが  
すぐにその場でごまかしたらしい。  
その話を聞いて以来、心時はもしかしたら――と思い始めてはいた。  
だがその度に思い過ごしだよと自分を、まろんを納得させていた。  
でももし――魚月が、フィンとしての記憶を思い出したら?  
その時は今居る『魚月』は、そして『フィン』はどうなるのだろう?  
 
前世、天使の身でありながら神を裏切り――一度、まろんを裏切った。  
そんな辛い記憶を取り戻して魚月は耐えられるのだろうか?  
元から記憶があった心時とは違い急激に自分の中の別の記憶を得たとしたら――?  
想像するだけでも寒気がする。  
 
「とりあえず…魚月に会わないと…」  
会ってどうするか――なんてのは判っていない。  
ただ、心配で魚月に早く会いたいだけだ。  
腕時計を見るとそろそろ授業が始まる頃かもしれない。  
心時は周りを見た。  
「うーん…」  
塀を越えれそうなものは無い。  
自分の身長よりもやや高い塀としっかり閉められた門が恨めしい。  
授業中だったらあまり人がいないだろうから容易に入れそうなのだが。  
「お、そうだ」  
心時はぽん、と手を叩いた。  
確か一箇所、どこかに入れる場所があったはず。  
以前魚月の様子を見に侵入した時使った覚えがあった。  
(その後魚月に見つかり散々怒られた)  
「早速行くか」  
心時は足早に歩き始めた。  
 
魚月は頭を抱えていた。  
トイレで口から出たアクセスという名前を考えるだけで痛みが走る。  
(アクセスなんて名前知らない…でも、でも)  
確実に自分はその人を知っている。  
知らないのに、知っている。  
その現実が魚月を苦しめていた。  
そんな魚月の様子を見かねた友人が教師に魚月の具合が悪そうなので――と  
保健室に連れて行ったのもある意味自然な事だった。  
端から見ても魚月の顔色は悪く、今にも倒れそうに見えた。  
 
保健室に着くとまずベッドに寝かせられた。  
スカートも緩め、出来るだけ楽にさせられ――体温も計られた。  
「魚月、魚月、大丈夫?」  
幸い熱は微熱程度だったが、大事を取って休まされる事になった。  
「一時間寝て、少し様子を見ましょう。あ、付き添いのあなたは帰っていいからね」  
「はーい。じゃ、魚月…戻るけど、頑張ってね」  
こく、と青い顔で無言で頷く。  
健康優良児の魚月はこんな経験は初めてだった。  
(まさか学校の保健室で休むなんて――)  
布団を掛けてもらっているのにちっとも温かくない。  
むしろ、時間が経てば経つほど寒さと頭痛は増していくようだった。  
目を閉じていれば、眠れるだろうかと目を閉じた時だった。  
「――名古屋さん」  
不意に名前を呼ばれ、魚月がはい、と元気無く返事をする。  
「先生、ちょっとこれからここを空けるけど…一人で大丈夫?  
二時間目が終わるまでには戻って来れると思うけど」  
「…だいじょうぶ、だと思います」  
魚月が元気無く返事をする。  
「どうしてもはずせないから―――ごめんなさいね」  
「いいえ――大丈夫ですから」  
先程よりは幾分かはっきりした声で言うと魚月は目を閉じた。  
扉を閉める音が聞こえ――途端に部屋が静かになった。  
 
シーンとした中に、遠くの教室の声が聞こえる。  
こんなに授業中って声が響くんだーと魚月は思った。  
急に訪れた静けさが孤独を感じさせた。  
校医が出ていった今、完全に誰も居ない。  
(さみしいな…)  
布団の中で震えながら魚月が丸まった。  
こんな時、誰かが居てくれたらと思う。  
誰か――そう、心時のような…――  
「ってなんで…あいつがっ…」  
魚月が自分の考えに驚いて声を上げた時だった。  
 
――コンコン  
 
(……?)  
窓を叩く音が聞こえたような気がする。  
ここは一階かだら有り得ない訳ではないけれど、ちょっと怖い。  
 
――コンコンコン  
 
確かに、聞こえている。  
(何?何なの?)  
 
――コンコンコン  
「おーい、せんせ、入れてくれ〜」  
(この声――もしかして)  
 
魚月はベッドから置きあがると恐る恐る窓の方を見た。  
そこには窓を叩いている心時の姿があった。  
(なんでここにいるの?)  
心時は叩く手を止め、何事か考えるとおもむろに保健室の窓をガタガタと動かし始めた。  
すると――簡単に鍵が開いてしまった。  
(これでいいのかしら、この学校…)  
窓を開け、心時が入ってくる。  
「うーん、前に来た時は先生が居たからなぁ…  
あん時は次来ていないときはこうすれば開くよって言われたけど、  
まさか本当に開くとは思わなかったなー」  
ぼりぼりと頭を掻いて心時が窓を内側から閉め、鍵をする。  
魚月は何も見なかった事にし、ベッドに戻った。  
(なんで先生と知り合いなの?)  
 
心時は靴を脱ぐと魚月の居るベッドへと歩いくる。  
(げっ…なんでこっちにくるのよぅ)  
布団の中に慌てて入りながら胸を抑える。  
ドクッドクッといつもよりも鼓動が早く聞こえる。  
かあっと頬が紅潮するのを感じた。  
(やだっ…なんでこんなに…胸が熱いの?)  
自分の感情を否定したくて魚月はシーツを強く握る。  
(こんなの気のせいなんだから…気の、せいなんだからっ!)  
そんな魚月に気付かずに心時は考え事をしていた。  
(あー、らしくない)  
ベッドと部屋を仕切るカーテンに心時が手をかけた。  
(魚月が心配でこんな事までしちまうなんて――)  
心時の頭の中から魚月の顔が離れない。  
「あーくそっ…」  
ブツブツと何やらひとりごとを言いながらカーテンを開けた。  
シャッと音がし――心時は二つあるベッドの内一つが使われているのに気付いた。  
(あ、やべっ…先客が居たのか?)  
足元から、枕元へと視線を移す。  
相手は心時に気付いてるのか、気付いてないのか。  
頭からすっぽりと布団をかぶっていた。  
(寝てるのかな?)  
もし知り合いでなかったら学校へ不法侵入した事の言い訳が出来ない。  
心時はそろそろと足音を立てないように回れ右をした。  
「――何しにきたの、ロリコン」  
背中越しに声を掛けられ、心時は振りかえった。  
 
(この声――)  
「魚月っ!?」  
慌ててベッドの方を向くと、魚月が顔だけを出して心時を見ていた。  
ロリコン、と口に出してはいるがいつもの気丈な様子は見られない。  
何処か具合が悪いのか――顔色は悪かった。  
「な、つき…どうしたんだ?こんなとこで休んでるなんて」  
今まで――魚月は健康体そのものだった。  
心時の記憶では病気らしい病気もしてないし、命に関わるような怪我だってした事がない。  
――そんな魚月が授業中に何故保健室で…?  
心時の驚きの表情に魚月は何故か申し訳無さを感じた。  
慌てて心時が魚月の側に寄る。  
「どうしたんだよ、魚月――顔色変だぞ」  
心配そうに心時が魚月の顔を見る。なんだか魚月はおかしかった。  
自分を心配している心時の方が顔色が悪くなってきてるように見えるから。  
「別に、これぐらい――悪寒と頭痛だけだし。それに、ロリコンは何しに来たの?」  
「あ――っと…ほら、ここの先生方と親睦を深めに」  
「卒業生でも無いのに?」  
「うっ…」  
心時が言葉に詰まる。その様子を見て魚月はくすっと笑った。  
 
何もかも魚月に見透かされているのではないか――  
そんな気がして、心時は頭を掻いた。  
「――魚月が、心配だったんだよ」  
照れながら心時が魚月を見る。  
「しん…ぱい?」  
「ああ」  
心時は頷くとそっと魚月の顔に触れる。  
「…なんか、いつもと違ったからさ。  
急に赤くなって逃げてくから――気になるじゃないか」  
(ただそれだけで…?)  
魚月が心時を不思議そうに見る。  
どうしてそれだけで不法侵入してまで様子を見に来たんだろう。  
確かに魚月は心時の想いに気付いていた。  
今までは自分は心時を幼馴染以上に見れなかったから意識していなかった。  
それに――魚月は、本当の恋を知らない。  
だから心時が普段と少し違うと言う理由だけで学校まで来たのが良く判らなかった。  
今一つしっくりきてない様子の魚月に、心時は少しむっとした。  
魚月が生まれてから、ずっと魚月を見守ってきた。  
いつか、魚月が自分を男として見てくれるまで待っているつもりでいた。  
他の女とは手も握らず、キスもせず、セックスだって魚月とだけ、と決めていた。  
だが――そろそろ、限界は近かった。時々思う。  
――いつまで待ち続ければ良いのかと。  
フィンが魚月となって生まれ変わるった今でもずっと待っている。  
いつか、いつの日か魚月が本当の恋に目覚めるのを――その相手が自分になる日を。  
本当の望みはこうして幼馴染として傍にいるのではなく、一人の男として傍に居たい。  
いつも自分の想いに気付いてははぐらかす魚月に聞きたくなる。  
俺のことはどう想ってるんだ?、と。  
もしかしていつまでも繰り返しなのだろうか。  
そう思った時、たまらなく辛くなって――気付けば、魚月の上に乗っていた。  
「し、んじ…?」  
 
突然の事に魚月も、心時も混乱した。  
しかし――心時は魚月の頬を撫で、顔を近付ける。  
ここまで顔を近付けるのも、距離を詰めるのも初めてだった。  
「やっ…」  
魚月が恐怖に震えながら、顔を動かそうとする。  
心時はしっかりと魚月の顔を固定し、話しかける。  
「――俺は魚月が好きだ」  
――何をしようとしているんだろう、俺は。  
妙に何処か冷めたまま心時は考える。  
「俺は――ずっと、待っていた。魚月がいつか俺を見てくれるのを。  
幼馴染の水無月心時としてじゃなくて、一人の男として見てくれるのを、  
ずっと待っていたんだ――」  
魚月が生まれてきてくれたあの日から――ずっと、ずっとそれだけを。  
今まで見た事の無い真剣な表情に、魚月は今まで通りかわす事は出来ないと思った。  
曖昧な事を言ってははぐらかし続けてきた。  
今の幼馴染としての関係を壊したくなくて――。  
「わた…しは…」  
――私は、夢の中のあの人と心時と、どっちが好きなんだろう。  
答えに詰まる魚月の唇を奪うような形で心時が唇を重ねた。  
「ん…」  
抵抗しようと手を動かそうとするが心時がそれを押さえる。  
「んー!んー!」  
(こんな、こんな心時知らない――)  
重なった柔らかな唇を割り込むように心時が舌をもぐり込ませる。  
「んっ、んっ・んぅっ!」  
必死に抵抗しようとするが心時の力の方が強い。  
ぬるっとした舌が魚月の舌にねっとりと絡みついてくる。  
――やだ、こんなのっ…やだっ…  
心時は魚月の両手首を掴むと動かせないように片手で固定すると、  
魚月の乳房を制服の上から揉み始める。  
「んぅっ!」  
ゆっくりと手の平で包み込むように優しく揉み始める。  
 
心時は心の何処かで必死にこれはいけない、傷つけるだけだと自分に言い聞かせようとしていた。  
しかし、魚月の柔らかな体にもっと触れていたいと――そう本心は訴える。  
(ああ、こんなのいや――…)  
心時は戸惑い、脅える魚月を今度は安心させるようにキスをする。  
同時に乳房全体を揉んでいた手で今度は乳首をいじりはじめた。  
ぴくん、と魚月が震える。  
(やだぁっ…やだよ、こんなの――)  
コロコロと指の腹で刺激しながら、唇を離し耳元で囁く。  
「ずっと、魚月だけにこうしたいって考えてたんだ――」  
「やめて…ロリコン…ここ、学校なんだよ…こんなこと、しちゃダメなんだよ」  
もうすでに涙声になりながらも魚月が訴える。  
「ロリコンでもなんでもいい。好きな人だからこうしたいって思うのはいけないのかよ」  
「でも、私の気持ちは何処にあるの?!こんなの…違う、間違ってる!」  
キッと魚月が心時を睨む。  
「こんなの、ただ心時の自己満足だよ…。  
私…私、心時にまだ自分の気持ち言ってないのに!」  
「――魚月」  
睨みつける魚月の目から涙が零れ落ちる。  
「こんなこと、する人嫌い――」  
押さえつけられている手首からキリキリとした痛みがする。  
「嫌い、か…」  
小さく呟くと心時は乳房を愛撫していた手を離す。  
「でも俺は魚月が好きだよ。誰よりも」  
切なげに言うと心時はシーツ越しに魚月の太腿を撫でる。  
「魚月は、俺のことはどう想ってるんだ?  
それぐらいは、教えて欲しいんだ――」  
「心時…」  
魚月の太腿を撫でる手が、徐々に上がっていく。  
「やめて……」  
「俺の事をどう想っているか言ってくれたら止めるよ」  
(嫌いって言われても、きっと諦められないんだろうけど)  
「…私、は…」  
シーツ越しの愛撫に腰ががくがくとしてくる。  
「ずっと――」  
小さい時から魚月を守ってくれてきたのは――誰だったろう?  
「…が、好きだったよ」  
自然に、出てきた名前に心時が――言った魚月本人が凍りついた。  
 
『私、は…ずっと――アクセスが、好きだったよ…』  
 
水無月心時ではない名前。  
思わず心時は魚月の肩を抱いて叫んだ。  
「思い出したのか?!魚月っ…」  
「――え?」  
――思い、出す……?  
キィン…と魚月の頭に痛みが走り、一瞬何かの映像が頭を駆け巡る。  
…兄と共に病弱な体を押しながら神に奉仕していた日々。  
悪魔に憑かれた兄に殺され――天使へとなった後、出会った人達のこと。  
そして――ずっと好きだった人――アクセスのこと――。  
 
 
――何、今の…  
 
――今のは――何なの――?  
 
――私は…私は――  
 
――私は、誰なの?  
 
 
混乱し始めた魚月を見て心時は後悔した。  
ただ偶然に魚月の口から出ただけかも知れなかった名前に必要以上に反応し、  
その結果――魚月は記憶の混乱が始まっている。  
ガクガクと震え、魚月が心時を見上げた。  
 
「――アクセス…なの?」  
小さい時から見てきた夢は前世の記憶だったのだ。  
生まれた時握っていたピアスは『フィンとして』死んだ時にアクセスが握らせたもの。  
「…心時が、アクセスだったんだ…」  
「魚月…思い、だしたんだな…」  
良く見ればアクセスの時の雰囲気そのままだ。  
あの時よりも少し大人で、落ち着いているように見えただけで。  
記憶の混乱が自然と静まってきた。  
(ああ、そっか…)  
途端に、魚月の瞳に悲しみの色が広がる。  
(小さい頃から優しかったのも好きだと言ってくれたのも全部、  
前世の恋人だったから――フィンを好きだったからなんだ。  
『名古屋魚月』を…私を好きな訳じゃなかったんだ)  
「違うっ!」  
魚月の心境を悟ったように心時が叫ぶ。  
「違う、違うんだ魚月っ!」  
ぎゅう、と魚月の体を強く抱き締め心時が泣きそうな声で首を振る。  
「違うんだ――魚月…」  
「アクセス…?」  
「違う、俺はアクセスじゃない。俺は水無月心時だ。  
お前も、フィン・フィッシュじゃない。名古屋魚月だ」  
何を言ってるの、と魚月が心時の顔を見る。  
「違うよ、心時はアクセスだよ。そして私は――フィン・フィッシュ。  
一度神様を裏切って魔王の手下となった女…」  
「違う、お前は名古屋魚月だ」  
「どうしてそんなこと言うの?私にはフィンとしての記憶がある。  
これで何故お母さんが私のことフィンって呼んでたのかわかったよ…。  
私の名前が魚月なのも――わかったよ。  
お母さん達は知り合いの名前からつけたって言ってたけど…  
フィンの前世が『久ヶ原魚月』だったから、私の名前も魚月になったんだ。  
私は、フィンとしての身代わりでしかないの?  
私自身がフィンじゃなかったら、要らない存在なの?」  
魚月から、悲しみの色が消えない。  
心時は髪を撫でながら魚月に話し始める。  
「それは――違うよ魚月。俺は魚月が好きだ。  
でも、それは前世が恋人だったからとかそんなんじゃない。  
俺にとって魚月はフィンじゃなく、名古屋魚月でしかないんだ」  
「し…んじ…」  
魚月が目を大きく見開いて心時を見る。  
 
心時は困ったような、照れたような笑顔を浮かべながら魚月に唇を重ねた。  
先ほどとは違い、今度は想いも重ねる。  
――俺は、魚月が好きだ。  
それだけは何一つ偽りなど無い。  
唇が離れ、二人が見つめ合う。魚月はゆっくりと心時の背中に手を回した。  
「…もし、俺が前世の記憶を持ってなくて――魚月がフィンじゃなかったとしても。  
俺はそれでもやっぱり魚月が好きになってたと思うんだ」  
そこで言葉を一度切り、深呼吸をする。  
「――俺、焦ってた。  
時間が経つ毎に魚月はどんどん俺を置いて綺麗になっていく。  
本当はいつだって他の男に魚月を連れていかれないか不安だった。  
前世は恋人同士でも、今は違うだろ?  
――ただの幼馴染だ。それ以上でも、それ以下でもない。  
…魚月はいつだって俺の想いに気付いては曖昧に濁すし。  
だから余計に不安と魚月が好きだって気持ちだけ持て余してた」  
でも、と心時の顔が暗い表情になる。  
「こんな事、許されないよな」  
無理やり魚月を犯そうとした。その事実が、重い。  
「…心時…本当に、私が好き?」  
――フィンじゃなくても、好きでいてくれるの?  
魚月のその視線に力強く心時が頷く。  
「俺が好きなのは魚月だけだから」  
「フィンじゃなくても…?」  
「何バカなこと言ってんだよ」  
心時がフィンの手を握り、頬に軽くキスをする。  
「――もう、アクセスとフィンとしての生は終わっているんだ。  
一人の人間として生まれた時から、俺達はアクセスでもフィンでもない。  
この世に一人しかない水無月心時と名古屋魚月でしかないんだよ」  
その言葉に魚月が驚いた顔をし、「…いいの?」と涙を零し始める。  
「私、神様を裏切って、まろんやアクセス達を一度裏切ったのに…。  
許されていいの?幸せになってもいいの?」  
「――本当に、魚月はバカだな」  
心時が優しく微笑むと魚月の頬を撫でる。  
 
「…人間として生まれかわったと言う事は、許されたんだよ…魚月。  
もうお前はフィンじゃないんだから」  
「でも、記憶は…」  
「ああ、記憶はある。でも俺はアクセスじゃない。  
おまえも――フィンじゃない」  
「前世はそうだったのに…?」  
「前世は前世だ。今それを引きずってはいけない。  
お前はフィンフィッシュとしてじゃなく名古屋稚空とまろんの子供として、  
名古屋魚月として生を受けたんだ」  
「――心時…」  
「俺は生まれたときからずっと記憶があった。  
アクセスとしての記憶に丁度魚月くらいの頃苦しめられたよ。  
たぶん魚月も感じていると思うけど自分が自分でないような感覚と、  
自分が好きな相手が魚月なのかフィンなのか分らなくなって辛かった。  
でもその時居てくれたのはフィンじゃなくて魚月だったから――」  
――どうして普通の人間として生まれてこなかったんだろう。  
そう思って迷っていた時も、魚月が横で励ましてくれたりしていたからここに居る。  
「俺にとって魚月は、大切な存在だよ」  
「…私…私…」  
ぽろぽろと溢れる涙を心時は困った顔をしながら拭い、何度も何度も大丈夫、と抱き締める。  
魚月がフィンに捕らわれず名古屋魚月に戻れるように。  
 
(心時…温かい…)  
魚月は、何故両親や親友では駄目か判った気がする。  
心時は前世の記憶を持っていた。  
そして、それがどんなに苦しい事か理解していた。  
――だから、心時でなければ駄目だったんだ。同じ苦しみを知っているから。  
魚月はゆっくりと目を閉じた。心時にもたれかかるように力を抜く。  
「心時…少し、寝てもいい…?」  
「ああ、いいよ」  
言って心時は魚月を抱く手から力を抜く。  
「私、なんか…眠くなってきた…」  
「ゆっくり寝ろよ。授業が終わったら起してやるからさ」  
「うん…ありがとう…」  
魚月は心時に笑いかけた。  
 
――やっと、今まで感じていた重圧が無くなったのがわかる。  
小さい頃から何故か生きている事に罪悪を覚えていた。  
その理由は前世自分がした行いからだと今ようやく理解する事が出来た。  
前世の記憶に無意識に自分は振り回されていたんだ…。  
 
でも――今、心時に抱かれてドキドキしているのは…フィンの心なのかな…  
それとも――私自身なのかな…?  
 
魚月は心時の手を握ったまま眠りへと落ちていった。  
 
 
心時は眠りに就いた魚月の頬を撫でながら苦笑した。  
先ほど魚月を犯そうとしたのに、当の本人はそれを気にする様子も無く眠ってしまった。  
居心地が非常に悪いがここから離れる訳にもいかない。  
「うーん…」  
どうしたもんかと心時は頭を掻いた。  
まあ、暫くはここで魚月が目を覚ますまで見守っていようか。  
目を覚ましたら――まずは何を言おうか。何から話そうか。  
告白の返事でも聞こうか。  
魚月が前世の記憶を取り戻した事を彼女の両親に言うべきだろうか。  
そんな事を心時は一人考え込んだ。  
 
 
――夢を見ていた。  
遥か昔好きだった人と昔の私が手を振る夢を。  
もう終わりにしていいんだよと告げられる夢を。  
終わり…何に?と私が問うと彼女は笑って言った。  
「苦しみに、終わりを」  
彼も一緒に言ってくれた。  
もうおまえはフィンじゃない。魚月なんだよ、と。  
私は本当に良いの?と聞くと彼も彼女――フィンも笑っていた。  
もう、いいんだよと。  
二人は私に手を振りながらゆっくりと遠ざかっていった。  
最後に幸せになってねと残して。  
 
――そこで、夢は終わった。  
 
 
(…ここは…?)  
閉じていた目がゆっくりと開く。  
魚月はまだ頭がぼうっとしている。  
(……保健室?)  
薬の匂いに顔をしかめながら横を見た。  
「魚月、起きたのか?」  
心配そうに魚月の顔を覗きこむ心時の顔。  
まだ、二人の手は繋がれたままだった。  
「…心時…私…」  
体を起そうとした魚月を制止し、心時が微笑む。  
「無理すんな、まだ寝てろ」  
「…心時」  
――眠りに落ちる前、確かに言ってくれたよね?  
『俺にとって魚月は、大切な存在だよ』って。  
魚月は自分の気持ちに素直になろうと思った。  
長い間意地を張って、心時の気持ちも、自分の気持ちもごまかしてきた。  
けど、もう素直になろう。  
心時が握っていてくれる手からは温かいぬくもりと気持ちが伝わってくる。  
そして、それだけで胸もドキドキしているのは――きっと。  
心時が、好きだということに違いないのだから。  
「心時…聞いてくれる?」  
「ん?なんだ、魚月」  
「んとね…」  
もじもじとしながら魚月が心時を見る。  
今までに無い反応に心時もドキドキしてくる。  
「私――本当の恋は、まだ知らないと思う。  
自分の気持ちが…まだ恋かもわからない」  
「なつ…」  
呼びかけようとした心時の声を遮り、魚月が首を振る。  
「でも、心時が私の事を好きって言ってくれると、すごくうれしいの。  
ずっと年をとっても心時が居てくれたらな、って思うの」  
ごくん、と心時が息をのむ。  
「…この気持ちを、恋と呼べるかはわからないけど…  
でも、きっと私…心時のことが好きなんだと思う。  
ううん――好きよ、心時」  
魚月は震える声で言うと、目を閉じた。  
 
ようやく魚月が応えてくれた事に心時は嬉しくて、  
不覚にも泣きそうになっていた。  
「俺だって…」  
ごしごしと袖で涙を拭き、魚月の髪を撫でる。  
「…ずっと、魚月だけを好きだった」  
「心時、私で…いいの?」  
「…ばか。魚月だから…俺は、魚月だから好きなんだ」  
心時はゆっくりと顔を近付け、魚月の唇に自分の唇を重ねた。  
「…ふっ」  
目を閉じ、繋いだ手に微かに力を込める。  
魚月の瞳から一筋の涙が零れた。  
悲しいわけじゃない。  
嬉しくて――涙が溢れてくる。  
「っぷはぁっ…」  
唇を離し、二人が見つめ合う。  
「すきって言って。いっぱい、私のことすきって言って…」  
「ああ、何度でも言うよ。魚月のことが好きだ、大好きだ」  
今度は耳たぶを噛み、耳元で囁く。  
「誰よりも、好きだよ――」  
「嬉しい…嬉しいよ、心時」  
「泣くなよ、魚月」  
親指で涙を拭い、頬にキスをする。  
「…そろそろ、先生が戻ってくるからこれ以上はできないけど。  
また後で続きをするか?」  
軽い冗談のつもりで心時が言った一言に魚月は真っ赤になった。  
心時が予想していた反応とは大違いだった。  
 
てっきり「何いってるの!このロリコン!!」といつもの調子で怒るかと思っていたのに…。  
もじもじと恥ずかしそうに魚月がこくん、と頷いた。  
「私…いいよ…」  
「な、魚月」  
これはその、冗談で…と言う前に魚月が心時を見る。  
「心時になら…いいよ?」  
ボッ  
心時は顔を真っ赤にするとこの予想外の反応にどうすればいいのか、  
良く判らなくなった。  
(や、やばい…ううん、これは、そういうことなのかっ!?魚月は俺との…)  
色々なものが心時の脳裏を過ぎっていく。  
魚月の裸や本で得た知識、そして先ほどの魚月の体の柔らかな感触。  
と、その瞬間――  
「きゃあああああっ!」  
魚月が悲鳴をあげた。  
はっとその声で心時が我に返り、魚月を見ると驚いた表情でこちらを見ている。  
鼻の辺りに違和感を感じ、手をあてるとヌルリとした感触。  
――鼻血だった。  
慌てて魚月が起きあがり、ティッシュを取って来ると心時に渡した。  
(なっさけねー)  
妄想だけで鼻血を出してしまった。  
生まれてから十数年、こんな経験は初めてだった。  
家に帰って両親に話したら爆笑されるだろう。  
自分でも正直情けないと心時は思った。  
大丈夫?大丈夫?と魚月は心配した顔をしている。  
心時は一つ、溜息を吐いた。  
 
結局それ以上の進展も望めず、魚月は早退をし、二人は家路についた。  
ただそれまでとは違った雰囲気の二人に魚月の友人は何か気付いた様だが。  
 
魚月の母は早退の話しを聞き動揺していたが、  
心時が付いていると聞き落ち着いたようだ。  
それだけ心時は魚月の両親からの信頼を置かれている証拠だろう。  
 
二人の会話は少なかった。  
互いにちらちらと見ては顔を赤くし、俯く。  
正直心時も魚月もこう言った場合どうすれば良いか判らなかった。  
心時も外見は遊んでいる様に見えるが女性とは付き合った事はないし、  
魚月は魚月でこう言った経験は一切ない。  
しかも先ほど心時は魚月を犯そうとした事もあって余計に気まずい。  
「あ」  
二人が同時に声を上げた。  
目の前はもう既にマンションだった。  
結局一言も言葉を交わさずにここまできたことになる。  
あとはエレベーターに乗って行くだけ…。  
魚月が心時をちらりと見る。  
何やら凄い緊張しているのが魚月にもわかった。  
(な、なんだろう…今日の心時やっぱり…変)  
でも何か言わなくちゃ、と魚月が言葉を選んでいると突然心時が魚月の肩を掴んだ。  
 
「わぁあっ?!」  
驚く魚月に心時が照れた様子で「魚月ッ」と名前を呼ぶ。  
「は、は、はいぃ?!」  
つられて魚月も返事をする。  
「俺、実は女の子と付き合った事ないからどう言ったりすればいいか、  
本当にわからないんだ…」  
困った様に言いながら心時が魚月をまっすぐに見る。  
「だから、その、こういった時なんて言えばいいかわからないんだ」  
でも、と言葉を続ける。  
「その、なんだ…いつでも、俺に頼って欲しいと思う。  
辛い時も、苦しい時も俺は魚月の支えになりたいんだ」  
言い終わると心時がエレベーターのボタンを押す。  
『辛い時も、苦しい時も俺は魚月の支えになりたいんだ』  
魚月の中に心時の言葉がゆっくりと染み込んで、温かなものになっていく。  
「…うん」  
頷いて、魚月はにっこりと笑う。  
「でもね、私…支えてもらうだけにはならないよ。  
心時も辛いときには…私を頼って欲しいの」  
「おうよ」  
心時もまだ照れながら魚月の手を握る。  
ふふ、と魚月は小さく笑った。  
朝家を出た時はこんなことになると思っていなかった。  
それが今は――手を繋いで、いっしょにいる。  
不思議だと思う。  
けど、凄く満ち足りた気分で居た。  
――ずっと、このままだといいな。  
魚月は心の中で小さく願った。  
このまま、幸せになれますようにと。  
 
エレベーターから降り、魚月は心時を見た。  
「あの……」  
「うん?」  
「家、あがってかない?」  
「あ?ああ…。でもいいのか?」  
深い意味を考えずに心時が応える。  
「うん、いいよ」  
魚月は少し顔を赤らめたまま早足で歩き始めた。  
 
 
 
 
 

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