マンションの一室で、くぐもった声が聞こえる。  
 
「ん・・・。はぁっ・・・」  
声の主はベッドに横たわり、はだけたパジャマの襟元を噛んで、  
必死に声を殺している。  
 
左手でシーツを掴み、右手は自分の秘所にあてがわれている。  
綺麗に切りそろえられた黒髪が、淫らにシーツの上で  
広がっている。  
 
目じりに浮かぶ涙は、何を思ってか。  
やるせない表情とは裏腹に、右手の動きはだんだん速度を増していく。  
蜜壷を指が出入りする度に、水音がくちゅくちゅと部屋に響く。  
 
「あ・・・あはぁ・・・っ・・・。もう・・・イっちゃ・・・」  
快楽の頂点の先に見えるのは只一人の人。  
「イっちゃ・・・。稚空ぃ・・・!」  
愛しい相手を思い浮かべ、荒い息をあげるのは、  
東大寺 都。その人であった。  
 
「私・・・なんていやらしいんだろう・・・」  
指に絡まった蜜をふき取りながら、都はため息を落とす。  
いつもそうだ。最中は相手を必死に追い求め、その後で後悔するのだ。  
 
稚空を好きになって、最初は「付き合いたい」とか「キスしたい」とかの  
可愛らしい想像をしていたのだが・・・。  
 
「そうよ・・・。まろんが悪いんだから」  
都は知っている。自分には言わないが、まろんと稚空が既に「そういう」関係  
なのを。マンションの壁越しに、まろんと稚空が何をしているのかを。  
まろんも稚空も自分には大切な人。その二人が恋人になることを祝ったのも自分。  
 
でも、まだ未練はある。そう簡単に断ち切れるものではない。  
さらに、マンションの壁越しに聞こえるまろんの嬌声が都に「あれがもし自分だっ  
たら」という妄想をかきたてさせるのである。  
 
「あーあ。私、このままでいいのかな・・・」  
いっその事、稚空に抱いてほしいと言ってみようか。  
一度だけ、それで忘れられるのなら。  
 
 
マンションの下で、まろん達と待ち合わせるのが毎日の習慣になっている。  
「おはよう!都」明るい栗色の髪。幸せに満ち溢れた笑顔。  
「・・・おはよう」まろんとは打って変わって、都の表情は冴えない。  
「どうしたんだ?都。体調悪いのか?」稚空が都の顔を覗き込む。  
自分の事を構ってくれるのが嬉しくて、でも切なくて。  
「・・・なんでもないわよ」つい意地を張ってしまう。  
しかも都には「自分の自慰の対象」にしてしまった、後ろめたさもあって、  
なおのこと、稚空の方を向くことが出来ない。  
 
だから、都は目を他にそむけてしまう。  
「あ、おはよう、委員長!」ぎこちない笑顔を向けた先は、先日“自分を好きだ”  
といってくれた水無月だった。水無月は、同じマンションの住人ではないが、  
毎朝ここに来るのだ。  
(彼は私を切なくさせない。優しくしてくれる。だから、つい・・・)  
 
それは、完全なる「逃げ」と解っていながら、水無月に申し訳ないと思いながら、  
都は水無月の隣に並ぶのだった。まろんと稚空の間に割って入るのが、  
辛いから。  
 
水無月は、都に告白して以降、ムリに気持ちを押し付けようとはしなかった。  
都の心変わりを待つよという感じで、たださりげなく、都を気遣う。  
都の目がついまろんと稚空を追い、「見てられない」と目を伏せると、  
水無月はいつの間にか傍にいて、何も言わずに寄り添っている。  
 
水無月にははっきり言った事がある。  
「私は稚空が好き。だから・・・ごめんなさい」と。  
でも、彼は「気にしない」と言わんばかりに、傍にいてくれるのだ。  
 
 
その夜。  
「あ〜あ。このままじゃダメだよね。私・・・」  
家族が皆外出していて、一人ぼっちのリビングで、都は一人、ため息をついた。  
「はぁ・・・。勉強しなくちゃ」コップに麦茶を注ぎ、自室に戻ると・・・。  
 
「あん・・・っ!」  
 
(・・・またなの?)  
正直、恥ずかしがるより何より、最初に思ったのはこれだった。  
 
壁越しに、甘い声が聞こえる。  
声の主は、勿論まろんであり、声を出させているのは稚空である。  
 
(もう・・・!やめてよ・・・!)  
ベッドのきしむ音と、だんだんトーンが上がるまろんの声。  
いつもなら、いたたまれなくなってリビングに逃げ出すのだが、  
正直今日は腹が立った。  
私の気持ちも知らないで!  
私はこんなに悩んでるのに、あんたたちはいいわよね!  
 
「そんなに聞かせたいのなら聞きに行ってやるわよ!」言って、  
隣に気づかれないように、ベランダに躍り出た。  
 
ベランダに出ると、少し冷たい空気が肌に触れた。  
都たちの住むマンションのベランダは、各個が独立しているタイプのもので、  
(つまり隣と板で繋がっていないタイプ)隣を覗き込もうとすればできない  
わけではない。 ベランダには風通しのためにランダムに空洞になっている。  
が、さすがにそこまではできないと思ったらしく、ベランダの壁を背もたれに  
して、座り込んだ。  
 
視線を少し上げれば、まろんの部屋の掃きだしになってるガラスが見える。  
どうやらガラスは半分開いているようで、中の声が幾分か聞きやすくなった。  
 
かすかに聞こえる声。  
「あっ・・・稚空ぃ・・・そんなにキツくしちゃダメ・・・」  
「ふぅん?まろんはじっくり長時間攻められる方が好きなんだね?  
ゆっくりいっぱいして欲しいんだ」  
「ちが・・・っ」  
「じゃ、こう?」  
「ひ・・・。やあああああん!」  
 
いつもよりトーンの低い、サディスティックに攻める稚空。  
そんな稚空に攻められて、あらぬ声を上げるまろん。  
 
かぁ・・・っ、と全身が熱くなった。  
 
怒りに任せて外に出たものの、壁越しではない実際の「声」を聞いただけで、  
おろおろしてしまう。  
都にできることは、両手で顔を押さえ、耳まで真っ赤にして隣の痴態を  
盗み聞く事だけだった。  
実際、外に出て何をするか考えていたわけじゃない。  
 
・・・が、次第に。  
 
(・・・やだ、私・・・)  
都は、自分の体の変化に気づいた。  
体の中心が疼く。中心の疼きは、蜜となって外にあふれ出す。  
(ここが・・・熱くなって・・・)  
万が一、誰かに見られても言い訳が立つように、スカートの横ファスナーを  
下ろし、下着の上から秘部に触れてみる。  
そこは、既にあふれた蜜で濡れ始めていた。  
細い指で、下着の上から突起をつまみ、さする都。  
 
(あ・・・はぅ・・・)  
声をかみ殺す都と、  
 
「ああん・・・!壊れちゃうよ・・・!」  
細い声を張り上げるまろん。  
 
さほど離れていない距離で、二人の幼馴染が快楽にふける。  
愛する人との営みにおぼれるまろんと、  
愛する人を思って自らを慰める都。  
その心の中は正反対であった。  
 
かすかに聞こえる声。ゆっくり靄のかかる意識。  
ブラウスの裾から左手を入れ、乳房を揉みしだく都。  
右手は蜜をすくい取っては、自らの突起にまぶしつける。  
乳首を軽く指ではじく度に、一番感じやすい部分をきゅっとつまむ度に、  
びくっと小さい肩を震わせて、ただ快楽を感じ取る。  
 
ショーツはすでにスカートのポケットにしまわれている。  
外気にさらされた敏感な部分からは、とろとろと蜜があふれ、独特の匂いが  
風に乗って流れている。  
 
隣からの声は、いつものように都の頭の中で微妙に書き換えられている。  
"嬌声をあげているのは私。  
私をのぼり詰めさせるのはあなた。"  
 
「稚空・・・大好き。もっと・・・もっとして?」  
ここも、舐めて。舌で転がして。私の体を、あなたの好きにして。  
聞こえるのはあなたと、あなたを思う私の声だけ。  
「そろそろ・・・イきそう?」  
うん。もう・・・だめ。  
「俺も・・・もうすぐ・・・一緒にイこう・・・!」  
都の中には、中指が突き立てられ、抜き差しされている。  
空いた片手は、クリトリスに添えられ、深い快楽を得ようと動いている。  
都にとって、にちゅにちゅといやらしい音を立てさせるのは、自分ではなく愛する人。  
今私は、大好きな稚空と繋がっているんだ。  
 
「じゃ・・・イくよ・・・!」  
あ!私も・・・!大好きだよ、稚空・・・!  
 
その瞬間、都の意識ははじけた。  
ひとすじ、頬を伝った涙とともに。  
 
少し、時間が流れた。  
息が整うにつれて、都の中にはいつもと同じ、罪悪感と空しさが沸いてくる。  
 
シャワーを浴びよう。どろどろの体と心を綺麗にしよう、と腰を上げた瞬間、  
「稚空!そんなのいやぁっ!」  
「いいから来いってば!」  
 
「!!」  
都は盗み聞きがバレないように、その場にしゃがみこむしかなかった。  
が、部屋に戻れなかったことを後悔することになる。  
「こんなの恥ずかしいよ・・・誰かが見たらどうするの?」  
「よく言うよ。賭けに負けたまろんが悪いんだろ?今晩は何でもするって約束じゃないか」  
言いながら、何と二人がベランダに出てきてしまったのである。  
都は二人からの死角に隠れてじっとするしかない。見つかるわけにはいかない。  
向こうを覗く訳には行かないので、会話と声の遠さから状況を推測するしかない。  
 
どうやら稚空は、ベランダの中央あたりに腰を下ろしたらしい。  
「待ってよ稚空・・・。お願い、こんなのやめようよ?」  
「ふぅん?一人だけ気持ちよくなって終わるんだ?俺のコレ、?どうしてくれるんだ?」  
「さっき一緒に・・・その・・・良くなったじゃない・・・?だからアレで終わりでしょう?  
 どうして全然・・・衰えないの?」  
声からすると、まろんは困り果てていて、稚空の傍に立ち尽くしているらしい。  
「あれくらいで果てるような俺じゃないって知ってるくせに。大体俺『今晩』って言ったよな?」  
「意地悪!」  
「大きな声出すと、誰かに聞かれるぞ?」  
都の鼓動は、この一連の会話に、一気に早まる。嫌な予感がして、胸がざわざわする。  
どういう意味?まさか・・・  
そして、稚空はこともなげに言い放った。  
 
「さ、俺の上に乗って、自分で入れるんだ。まろん」  
 
心臓が早鐘を打つ。自分の鼓動が、相手に聞こえそうなくらい響く感じ。  
 
「稚空・・・そんなことできないよ」  
「座って向き合ってするの好き、ってこの前言ってたじゃないか。好きだったら、自分で入れて、  
自分で動いてみろよ。それとも、『日下部さんは、賭けに負けたのに約束を破る女』なんだ?」  
「解ったわよ!意地悪!」  
 
会話だけでしか向こうの様子は解らない、が、なんとなく読めてしまう。  
でも、都には解らないままの方が良かった。  
 
「さ、自分でオレのを持ってあてがうんだ」  
「ん・・・」  
「そ・・・そのまま沈み込んで・・・」  
「っ!・・・あぁ・・・っ!」  
「まろんの体はいやらしいな。こんなにすっぽりとオレのをくわえ込んで、締め付けてくる」  
「やらしい事言わないで・・・よっ!」  
「動くよ」  
「ああんっ!だめぇ・・・」  
 
さっきまで火照っていた体は既に冷めた。  
(こんな現実の見せ方ってある?ひどいよ、酷い・・・)  
都は両手で耳をふさぎ、隣の声を聞くまいと、顔を立てた膝に押し付ける。  
(もうやめてよ・・・!お願い、こんなの聞きたくないよ!)  
部屋に戻りたくても、物音を立てれば隣に気づかれてしまう。それだけは、避けなくてはならない。  
だが、この場に留まるという事は隣で起きている事を延々と聞かなくてはならない。  
心に、毒が広がるような感じを、都は覚えていた。  
 
「対面っていいよな。空いた手まろんの胸を触れるから」  
「ひゃうんっ!あ、あぁ・・・」  
「まろん、先っちょと下とどっちが気持ちいい?教えてよ」  
「・・・・・・そんなの、解んないよ・・・ふ・・・っ・・・」  
「ふぅん、どっちも気持ちいいんだ。日下部さんは淫乱だなぁ。淫乱な子にはこうだ」  
「きゃああああん!」  
 
ひときわ高いまろんの声。  
まろんを攻める、稚空の声。  
部屋越しに聴いたことはあったが、こんなに近くで、息遣いまで聞こえる距離で直接聞いたことは勿論ない。  
(私、みじめなだけじゃない!こんな見せ付け方ってないよ!)  
二人とも自分の大好きな人で、二人を祝福したのは自分で。二人に幸せになって貰いたいと思ったのも  
本当のこと。でも、そんな簡単に気持ちに整理はつけられなかった。  
稚空にはまろんがいる。そんなのは解っている。でも、自分の想像の中だけは、私の稚空だった。  
最初に隣から聞こえた声に、正直ムカついた。だけど、いつのまにかそれを自分と稚空間での情事に置き換えてまで、  
『稚空に愛されている私』を求めた。  
 
(もうやめてよ・・・お願いだから、何も聞かせないでよ・・・)  
都には、酷な時間だった。永遠に続くのかと思わせる、隣の嬌声。粘液がこすれる音。  
まろんが高い声を上げるたび、都はぎゅっと目を閉じ、耳をふさぐ。  
抵抗する術は、他には何もなかったから。  
 
「まろんのココ、すごくトロトロだ。ほら、動くたびくちゅくちゅいってる。聞こえるだろ?」  
「んやぁ・・・。恥ずかしいからやめてよ・・・」  
「恥ずかしい方が感じるだろ?まろんは少しマゾだからな」  
「そんな事・・ないわ・・・よ!・・・あ、も・・・だめぇ・・・またイっちゃ・・・」  
「そろそろ俺も限界かな。一緒にイこう、まろん。最後はバックがいいな」  
隣が動く気配をみせた。  
二人がどうなっているか。目を閉じ、耳をふさいでも、どうしても解ってしまう。  
 
「!やぁあああんっ!あっ・・・は・・・」  
ぱんぱんと、肌がぶつかる音がする。  
「も・・・だめ・・・死んじゃ・・・あぁっ」  
「好きだよ、まろん」  
「ちあ・・・き、・・・私も・・・っ!」  
少し遅れて、ひときわ高いまろんの声がして、隣の音は消えた。  
 
(終わった・・・の?)  
「まろん、おい、起きろよ、おーい」  
ぺちぺちぺち。  
「・・・ダメだ。イってそのまま意識が飛んじゃったか。仕方ない、とりあえず部屋に運ぶかな」  
(やっと、開放されたの、私・・・)  
 
そのとき、ありえない事が起こった。  
「まろん、結構いい声出してたけど、隣聞こえてないよな?」  
ひょい。っと、稚空がベランダから身を乗り出したのだ。  
そして、  
「都!」  
「・・・!!」  
ベランダの、隣からの死角に身を縮めていた都に、稚空が気づいてしまったのである。  
「都・・・まさ・・・」  
まさか、今の聞いてたのか?  
と続くであろう言葉を最後まで聞かず、都は部屋に逃げ込んだ。  
目は勿論あわせることもなく、文字通り、逃げ込んだのだ・・・。  
 
 
部屋に戻った都は、そのままバスルームに向かった。  
脱いだ服もそのままに、全身にソープの泡を立てる。  
 
ごしごしごし。  
 
まるで、身体にまとわりついた泥を洗い流すかのように、ごしごしと、スポンジをすべらせる。  
細い首筋、柔らかく膨らんだ胸元、形の良いヒップ。そして・・・  
乾きかけた粘液の残る陰部にも、泡を立てていく。  
ソープの香りに包まれて、都の思考は同じところをぐるぐる回る。  
 
私、本当に馬鹿だ。ひとりで馬鹿みたい。  
私は稚空に愛されたかった。稚空の私になりたかった。でも。  
稚空が好きなのはまろん。稚空が抱いているのはまろん。  
私じゃない。  
どんなに思っても、彼にとって私は「まろんの親友」なんだ。脇役なんだ。  
心の中で空想ばかりしていたから、神様が現実を見ろって、思い知らせたんだ。  
 
コックをひねる。  
暖かい湯が、都の全身に降りそそぐ。  
 
「ここで泣けたら、可愛い女なのかなぁ・・・」  
どうしてだろう。苦しいのに、悲しいのに。涙は出てこない。  
頬を滴るのは、涙の代わりの暖かい湯のみ。  
 
「あら、都ちゃん。もうお風呂入ったの?」  
バスルームを出ると、母親が帰宅していた。キッチンに買い込んだものを並べていく。  
今日の夕飯はポトフらしい。  
「うん。なんだか身体がべとべとして気持ち悪かったから」  
「お夕飯できたら呼ぶから、もう少し待っててね。お父さんももうじき帰ってくるからね」  
「ん〜。今お腹空かないから、後で食べてもいい?」  
「いいわよ。じゃ、お腹空いたら温めて食べてね」  
冴えない表情の都に何か聞こうとしたようだが、気づかなかったフリをしてくれたようだ。  
明るく振舞って、ムリに何事かを聞き出そうとしない。  
都にはありがたかった。  
 
 
部屋に戻ると、都は部屋の明かりもつけず、そのまま布団にもぐりこんだ。  
枕もとのラベンダーのキャンドルに火をともし、ほのかな明かりをじっと見つめる。  
そして、また考えをめぐらせる。  
 
稚空が好き。  
まろんも好き。  
二人が幸せになってくれるといい。ここまでは本当。  
自分を見てほしい。稚空に愛されたい。これも本当。  
叶わないのは知ってる。叶わないのは解ってる。  
 
そこで、都はふと思いついた。  
「委員長も、こんな気持ちだったのかな・・・?」  
 
まろんを好きな委員長。幸せなまろんと稚空をどんな気持ちで見ていたんだろう。  
今の私と、似ているだろうか。  
ただ、彼はまろんに告白し、自らの思いに決着をつけた。  
そして。  
 
「今、どんな思いで私を好きだといってくれてるんだろう・・・」  
彼は今、都を好きだと言ってくれている。  
「私、断ったのに・・・」  
それでも、気持ちを押し付けようとせず、ただ悲しいときにその悲しみを少し、  
やわらげてくれる。嬉しいときに、その気持ちを少し、膨らませてくれる。  
彼は静かに、優しく、私を思ってくれている。  
 
「・・・・・・」  
ふっとキャンドルに息をかけ、明かりを消すと、都は目を閉じて眠りについた。  
一つの決意を秘めて。  
 
 
翌朝。  
「そうですか・・・じゃ、都に『お大事に』って伝えてくださいね」  
「いってらっしゃい、まろんちゃん」  
玄関先での会話を、都は自室で聞いていた。  
少し間があって、水の入った洗面器を持った母親が部屋に来た。  
「少し熱があるから、今日はお休みしましょうね」濡れタオルを額にのせられた都は、  
「大丈夫って言ったのに・・・」ちょっとむくれ気味だ。  
「ダメよ。風邪はひき始めが肝心なんだから、今日一日ゆっくりしなさい」  
ひんやりしたタオルが心地よい。  
正直、今朝稚空達に会うのは気まずい。休めるのは正直嬉しい。  
でも、決心が崩れるなぁ・・・。  
などと思いながら、都はうとうとし始めた。  
 
目を覚ますと、時計は4時を差していた。どうやら家族は皆外出しているらしい。  
軽く伸びをして都はベッドから降り、窓を開けた。風が心地よい。  
そして、ふと下を見た瞬間、どきり、と心臓が強く脈を打った。  
「稚空・・・」  
マンションのエントランスに向かって、見慣れた制服姿が歩いてくる。しかも一人で。  
(稚空、今日に限って一人で帰ってくるなんて・・・)  
そこで、都は稚空が何故一人で帰ってきたのかに思い当たった。  
決着を、つけなければならない。  
都は急いで顔を荒い、服をパジャマから変えると両の頬をぱちんと叩いた。  
(頑張るのよ、私・・・)  
 
約10分後。  
隣の家のインターホンを都は押した。  
『はい・・・』  
「稚空?私よ。話があるの・・・」  
 
稚空に通されたのは、広さ12畳くらいのリビングだった。帰宅直後だったので、稚空は  
まだ制服のカッターを着たままだった。  
同じマンションに住んでいるのだから間取りはほぼ同じなのだが、住む人が違うと、  
雰囲気も違うものだなと、都は思った。  
 
「・・・・・・」  
「・・・・・・」  
気まずい沈黙。座るように勧められたが、足が動かない。  
顔もあげられず、両手でスカートの裾をきゅっと握り締め、足元をじっと見る都。  
緊張で、足ががくがくする。  
どきどきと、早鐘を打つ鼓動が、稚空にも聞こえてしまいそう。  
「あのさ、都。体調は戻ったのか?」  
声をかけたのは、稚空の方だった。稚空も都が何かを伝えに来たのを解っていて、  
その上で、軽く声をかけたようだ。  
とりとめのない話題で会話の糸口を掴もうとしてくれている。  
稚空の気遣いが、都には嬉しくて、悲しかった。  
 
一つ深呼吸をして、都はゆっくりと顔を上げた。  
「稚空・・・私、ずっと貴方のことが好きなの・・・」  
稚空は驚いたように、目を少し見開いた。  
口の中はカラカラで、少しかすれた声だけれども、稚空の目をまっすぐに見て、  
都は想いを口にした。  
「はじめて会ったとき『かっこいい』って、単純に思った。・・・それからずっと稚空のことを  
見続けて、・・・優しいとことか、いつのまにか周りに人が集まるような温かいところに  
気がついて、もっと好きになった」  
(でも、稚空の視線の先にはいつも、まろんがいた)  
「・・・ねぇ・・・どうしてまろんなの?私も、まろんと同じ・・・いえ、それ以上に稚空が好きよ?  
私じゃ、稚空には好きになって貰えないの?」  
両腕で自分をぎゅっと抱き、こらえきれない想いを叫んだ。  
「稚空が好きなの!私の事、まろん以上に愛してよ・・・!」  
 
そこまで言って、都ははっと我に返った。  
「違うの・・・!稚空が、まろんのこと・・・どれだけ大事か、ちゃんと解っているの。  
こんな事まで言いたいんじゃなくて、あの・・・」  
「都・・・」  
「二人を邪魔するつもりはないの。・・・でも、私の想いの行き場がなくて苦しいの。受け入れて  
貰えないのは解っていたの。でも・・・知って欲しかった・・・」  
 
ずっと、二つの気持ちに悩んでいた。  
二人を祝福する気持ちと、稚空を諦められない気持ち。  
自分の思いをそっと伝えて、それで終わりにしようと思っていたのに、まろんに対する醜い想いまで、  
稚空にぶつけてしまったことで、都の胸には苦い気持ちだけが広がっていた。  
 
一通り『告白』を終えてから残ったのは、最初と同じ沈黙。  
(嫌われちゃったよね・・・。『好きです』の一言すら上手く言えないんだもの)  
「ごめん、私、帰るね。返事は・・・聞かなくても解ってるから・・・」  
稚空から背を向けて、玄関に走ろうとした都を  
「待って!」稚空は留めた。  
 
「何・・・返事はいらないって言ったでしょ?」  
「都が、気持ちをぶつけてくれたのに、何も言わないなんて卑怯だから、・・・聞いてくれないか?」  
口をきゅっと結んだ、真剣な表情。  
(こんな表情、見たことないよ、稚空・・・)  
「・・・・・・」沈黙を了承ととらえた稚空は、言葉を選びながら、話し始めた。  
 
「都が、俺を想ってくれてるんじゃないか、て事は、勿論気づいてたよ。いつも強引なくらい強気に  
俺に迫ってきていたのに、たまにじっと見つめられたりしてたから『本当に想ってくれてるんだ』って、  
思ってた」  
そこで言葉を切って、稚空は一歩、一歩、都に近づいた。  
あと2、3歩で触れられる距離で、足を止めて言葉を続ける。  
「まろんと俺とが付き合いだした時、都は自分の事のように喜んでくれた。だけど、都はたまに、本当に  
悲しそうな目で、俺たちを見ることがあった・・・。俺が言うと、傲慢かもしれないけど、そんな都に対して  
俺が何かを言うことはできなかったから、まろんを真剣に愛することで、都に応えようと思っていたんだ」  
「稚空・・・」  
「俺の好きなのはまろんだから、その気持ちには応えられない。けど・・・、ありがとう。好きだと言ってくれて」  
 
最初に感じたのは、終わったと、いう事。  
次に感じたのは、気づいてたんだ、という事。けして綺麗な告白ではなかったけれど、自分の気持ちに相手が  
ちゃんと返事をくれたのは、悲しいけど、嬉しかった。  
「私こそ、ありがとう。ちゃんと聞いてくれて」  
都はそこで少し歩み寄り、体重をそのまま稚空にあずけた。  
「みや・・・っ!」  
少し開いていたカッターの鎖骨の下に、都は唇を寄せた。そのまま軽く力を入れる。  
「お願いがあるの」  
唇を離した場所にできた薄い跡を指で押して、言葉を続ける。  
「この跡が消えるまでは、忘れないで・・・?『東大寺 都』ていう女の子が、  
自分の事を好きだと言っていた、という事を」  
 
なんともいえない表情の稚空から、都はすっと離れた。  
「それに、・・・その跡が消えるまでは、まろんに酷いことできないでしょ!私のまろんをいじめないでよね!」  
「・・・!都、おま・・・!」  
「全部聞いちゃったわよ!稚空のサド!今度からああいう事する前には、事前に周りを確認しなさいよね!  
部屋に戻るに戻れなかったんだから、私!」  
目を白黒させる稚空を見ると、なんだか可笑しかった。  
「それじゃあね」  
稚空の返答をまたず、都はそのまま家を出た。  
 
稚空の家の玄関ドアを閉めると、都はそのままへたり込んだ。  
一気に力が抜けたらしい。  
(これでよかったよね・・・。これからも毎日顔をあわせるんだから、  
ああいう終わり方の方が、よかったよね・・・。)  
 
自宅に戻ると、母親がいた。  
「都ちゃん、外の風にあたってたの?クラスの子がお見舞いに来てたけど、あなた居なかったから、  
部屋に頂き物置いといたわよ。学校でちゃんとお礼言いなさいね」  
(誰が来たんだろう?)  
部屋に戻ると、机の上に花が活けてあった。ピンクやオレンジの、暖かい色ばかりを選んである。  
そして、花瓶の脇のメッセージカードを何気に手に取った。  
「・・・来てくれてたんだ・・・」  
何気なく都の体調を気遣うメッセージの差出人は、水無月だった。  
ぽとり、とベージュのカードに水滴が落ちる。  
「あれ・・・?私、なんで今頃・・・?」  
落ちたのは、透明な涙。ぽとりと落ちた涙の粒に、インクの文字が滲み出す。  
流れ出すと止まらなくなって、メッセージカードを握り締めたまま、都は静かに涙を流す。  
その胸中は、いろんな想いが交錯していた・・・。  

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