―10―  
あれはいつだったかな。  
フィンがいなくなった夏の日から、  
随分と後のことのような気もするし、それほど経っていない気もするんだけど。  
どちらかといえば成り行きで、稚空と身体を重ねるようになったころ。  
稚空はわたしを慰めるためにその行為を提案したし、わたしは一人きりになることを恐れて、それを受け入れた。  
初めは肌を合わせることで一人じゃないことを実感できたけど、身体的にはどちらかといえば苦痛で、  
だけどわたしは稚空に傍にいて欲しいから嫌じゃなかった。  
それからしばらくして、ようやくその行為に身体的な快楽を見出すことに慣れたころ。  
同じように、最中に稚空から「愛されてない」と言われるのにも慣れ始めたころ。  
わたしに、「誰にも愛されてない」と囁いたのと同じ唇から  
今度は「あいしてる」という言葉が漏れた。  
ねぇ稚空、どうしてそんなこというの?わたしは誰にも愛されてないんでしょ?  
毎晩このベッドの上で、稚空の腕の中で、あなたがそういったんでしょ?  
ああ、そっか。あいしてるなんてたぶん嘘。でも、もしかしたら本当、かな?  
でもそんなこと知らなくていい。  
嘘ってわかっちゃうくらいなら本当かどうかなんて知りたくないの。  
でも、たとえ嘘でも嬉しいよ?  
だってわたしはあなたが好きなの。  
好きな人からあいしてるって言われたら嬉しいの。それが嘘だとしてもね。  
でも眼を瞑って聞いててもいい?  
そうしてたら、本当にあなたに愛されてるように錯覚できるから。  
眼を開けて聞いたら、嘘ってわかっちゃうから、ね。  
 
 
―11―  
ん、と小さくうめき、稚空の寝室の大きなベッドの上でまろんの意識が覚醒した。  
部屋の中は暗い。  
ここはどこだろ、わたしは何してたんだっけ。  
まだ半開きの眼で闇を見つめると、すぐ近くに稚空の閉じた瞼があった。  
規則正しい寝息が聞こえる。  
意識がなくなる前後の記憶がないことと、身体に残る倦怠感から察するに  
きっとまた行為の途中で過ぎる快楽に気を失うように眠ってしまったんだろう。  
まろんは最近、いつもそのパターンで眠ってしまう。  
だが、夜中にこうして起きてしまったのは初めてだ。  
喉が渇いたが、腰がずしりと重く、ベッドから出る気にもなれない。  
今夜もあれだけ鳴かされたのだ、声もきっと嗄れてしまっているだろう。  
毎晩、快楽に快楽を重ねられ、もう気持ちがいいのか苦しいのかわからないように抱かれる。  
そんなふうに自分を責め立てる稚空は、今眼の前で眠る彼とは別人のようだ。  
瞳を閉じて眠る様子は、こんな関係になる前の稚空のそれで  
まろんに、久しぶりに会ったような感覚を呼び起こさせた。  
それはあながち間違いでなく、いつもまろんは  
夜毎の行為に疲れきってしまい、起きるのは昼前。  
目覚めても稚空はすでに出掛けていていないので、こうして安らかな表情の稚空を見るのは  
フィンがいなくなる日以前ぶりだ。  
そう思うと、無意識にその頃の自分たちを思い出してしまう。  
身体を繋げることによる喜びは知らなかったが、それでも幸せだった。  
認めたくはないが、少なくとも今よりは。  
手をつないで、指を絡めるだけで溢れ出すお互いの温もりが伝わりあった日々。  
今は、こんなに全身で触れ合ってもあの頃と同じ温もりはない。  
 
そう思ってしまった瞬間、  
失くすべきではない、大切なものを見失ったような喪失感がまろんを貫く。  
でも、これでいい。これでいいんだ。  
まろんはそう自分に言い聞かせる。  
稚空を、大事な人を、フィンのようにいつか無くすなら  
偽物でもいいから今だけは幸福の中に身をおかせて。  
本当のあいしてるじゃなくても、稚空のその言葉がわたしは欲しいの。  
それさえあれば、独りになった後の夜も乗り越えていけそうな気がするから。  
 
――だけど。  
こんなこと考えちゃいけないけど。  
それを望むことは諦めようと決めたのに。  
一度思い出してしまうと、次々に思いが溢れてしまう。  
本当はちゃんと愛されたい。  
稚空の顔を見て、愛してると囁かれたい。  
稚空を抱きしめて、自分の想いを、愛してることを伝えたい。  
もう一度、心まで近くに寄り添いたい。  
身体を繋げる前の、陽のあたる場所でじゃれあうようなあのころの自分たちの関係が愛しい。  
微笑みあって、ついばむ様なキスをして、心を見せあって。  
「…っ」  
溢れてくる嗚咽をまろんは押し殺した。  
気付けば涙が頬を伝って枕を濡らしている。  
今だけでも稚空が傍にいてくれればいいと割り切っていても、  
誰にも愛されてないと言われれば苦しいし  
今更愛してると囁かれても鵜呑みにすることなんて出来なくて  
繰り返されるほどまろんの傷を深くしていく。  
もどりたいもどりたいもどりたい。  
愛を囁かれれば、心に灯りがともるような、暖かい毛布で包まれたような幸福感を得られたあの頃に。  
まろんは顔を枕に埋め、隣で眠る稚空を起こさないよう声を殺して泣いた。  
 
 
―12―  
ちゃぷん。  
ミルクのようなあまやかな匂いを香らせる、それと同じ色をした湯が  
バスタブに身を沈める人物の動きに合わせて小さく波立った。  
その人物のもつすらりと伸びた脚も、いささか細すぎるとは言え、  
なだらかな曲線で形作られている腰も、今は白い湯の中に隠されている。  
ふう、とまろんは息をついて考えをめぐらす。  
 
―――話をしなければ。  
 
今まで目を逸らし続けていたけど、もう自分自身をごまかせない。  
昨夜、溢れ出た思いが本当の自分の気持ちだ。  
このままじゃいけない。  
本当かどうかもわからない愛の言葉を、一時の幸せのために受け入れるのは  
ある意味とても楽だった。  
でも、そういう関係を続けていくうちに、いろんなものが歪んでいった。  
辛いことを見ないようにしているうち、稚空の気持ちまで見えなくなった。  
身体を繋げる悦びを手に入れたかわりに、心が通じ合う喜びを失った。  
どうしてそれでいいなんて考えていたんだろう。  
稚空と出会って、愛の意味を教えてもらったのにどうして忘れてしまったんだろう。  
だけど今は、ちゃんと稚空の気持ちが知りたい。  
「あいしてる」が偽りでも、受け入れなきゃいけないんだ。  
その場限りの愛の言葉より、稚空の本当の思いが欲しい。  
そこまで考えると、まろんは自分自身を奮い立たせるように立ち上がり  
湯気のこもるバスルームをあとにした。  
 
まろんがバスルームから出ると、リビングにはアクセスがいた。  
最近アクセスはずっと浮かない顔をしている。  
優しすぎるこの天使は、共にすむ二人の関係が歪んでいくのを  
ただ見ていることしか出来なかったことに、そんな必要はないというのに責任を感じているのだろう。  
それに加えて先程告げられた、稚空のまろんへの捻じ曲がった愛情にも  
つい溜息をこぼしてしまうほど思い悩んでいる。  
「アクセス、稚空は寝室?」  
まろんが声をかけると、アクセスは力なくまろんのほうを見やった。  
「ああ……なぁ、まろん」  
まろんは、彼の少しの沈黙の後、続けられた言葉の先に  
何を言わんとしているか感じ取りにこりと微笑む。  
「うん、わかってる…ごめんね、アクセス」  
いつもどこか稚空を捜すようなまろんの視線が、久しぶりにしっかりと  
自分を見つめたことにアクセスは眼を見開く。  
「…まろん?」  
寝室へ向かおうとするまろんに呼びかけると  
一度こちらを振り返り、大丈夫だよ、と答えリビングをあとにした。  
残されたアクセスは、以前とまるで変わらないまろんに驚きを隠せないでいた。  
だけど、しっかり自分の姿をとらえたまろんに、大丈夫だよと微笑んだまろんに  
柄にもなく祈ってしまう。  
互いに相手を愛するほどに見えない鎖に囚われ、動けなくなってしまう――そんな二人の関係が  
見ていて苦しかった。以前の二人を知っているから尚更に。  
鎖を絡めたのがあの二人なら、ほどくことが出来るのも彼らだ。  
まろん、稚空を助けてやってくれ。  
あいつには、両腕にも脚にも心にも鎖が何重にも巻き付いてしまって  
もう前にも後ろにも進めなくなってるんだ。  
 
 
―13―  
まろんが寝室のドアを開けると、部屋の中は灯りが落とされていて  
ベッドサイドのランプだけが稚空の輪郭をぼんやりとうつしだしていた。  
電気もつけないでどうしたの、とまろんが言うと  
稚空が立ち上がってまろんの元へと歩み寄ってくる。  
そのまま、大きくて骨ばった手がまろんの肩に触れ、その華奢な身体ごと腕の中へ引き寄せる。  
稚空も男性にしては細身のほうだったが、小柄なまろんはその腕の中にすっぽりと納まってしまう。  
まろんが稚空の背に手を回そうか迷っていると、形のいい唇がまろんの耳元へ近づいてきて  
吐息と言葉の中間のような声色で稚空がまろんの名を呼んだ。  
その熱を孕んだような囁きの質感に、まろんの身体が無意識に竦む。  
話をしようと決めてはいたものの、実際寝室でこうやって稚空に抱きしめられると  
どこか緊張してしまい、なかなか切り出すことが出来ない。  
大人しく腕の中に納まっているまろんを、稚空がベッドへと促そうとしたとき  
ようやくまろんが声を絞り出した。  
「稚空、あの…」  
その小さな小さな声に、稚空は思わず気のせいだろうかと思ったが  
まろんの様子からするとどうやらそうではないらしかった。  
次の言葉を言うかどうか迷っているように見えたから、わざとらしい位穏やかな声で  
なに、と先を促せば、可愛い所有物は話がしたいと、聞いて欲しいことがあるのだという。  
どこかで稚空も予感していたことだった。  
アクセスが稚空に話してきたように、まろんにも話していたって何の不思議もない。  
「いいよ。俺は聞いてるから」  
その言葉に安心したように息を吐くまろんを見て、  
稚空は思わず声をあげて笑い出したくなった。  
紡ぎだされる言葉にはかけらさえ感じられないとはいえ、  
頭では全く別の、今宵の趣向を考えているのになんでまろんはわからないんだろう。  
――ああ、俺を見ていないから、か。  
自答した上での自嘲気味の結論に、稚空の心が暗く渦巻いた  
 
まろんは、稚空の表面上は穏やかな表情に安心し  
その暖かな手に導かれるままベッドに腰を降ろした。  
何から話せばいいんだろう。  
出来ることなら、傷つきたくはない。  
だけど、それを恐れていたら何も変わらないと思ったから  
こうやって話し合いを提案したのだ。  
大丈夫、大丈夫と自分に言い聞かせ、まろんは伏せていた顔を稚空に向ける。  
今宵ばかりは稚空の顔を見て話さなくては意味がない。  
「―――」  
やっとの思いで口を開いたのに、まろんには自分の声が聞こえてこなかった。  
覆いかぶさるように塞いでくる熱い唇のせいで。  
しばらくの間まろんは何が起こったか把握することが出来なかった。  
ただ、唇に感じる熱さのみを認識していた。  
その間に稚空の舌がまろんの唇を割っていて、頬も両手で包み込まれていた。  
「ぅ…や、っ」  
ようやく意識が追いついたまろんが、小さな手で抵抗し始めると  
それを嘲笑うかのように、力の差を見せ付けるかのように  
稚空の手がまろんの後頭部を捕らえ逃げ場をなくし  
舌がより深いところまで入り込んで激しさを増す。  
 
なんで。どうして。どうして、稚空は。  
稚空の身勝手な口付けに混濁する思考の片隅で、たくさんの疑問ばかりが湧き上がる。  
どうしてこんなことになるの?  
話を聞いてくれるって言ったのは嘘なの?  
口付けから開放された後、息を整えることも忘れそう稚空に問えば  
聞いているから話せばいいという。  
こんな状態で話せるわけなどないし、そんな話し方を望んでいるわけではないことを  
知っている上で、微笑んでそう言う稚空に思わず唇をかむ。  
その間も稚空の手は止まることなどなく、首にキスされ、  
パジャマのボタンをとられ、胸元を強く吸われる。  
身体全体でもがいても、口で拒絶の言葉を吐いても  
この非力な身体は稚空の手だけで易々とベッドに押さえ込まれてしまう。  
「やめて、い、ぁ…やだ…こんなこと、やめて…っ」  
それでも抵抗を続けると、苛立ったような稚空に  
荒々しく髪を梳きあげられ耳に歯を立てられた。  
「どうして、……やっ」  
「どうして?わかるだろう?」  
その言葉に続けて、稚空の唇が動く。  
まろんの瞳は稚空を捉えたままだ。  
 
 
―――愛してるからだよ、まろん。あいしてる  
 
 
そこから後は、自分の意識があったかどうか、よくわからない。  
身体中から力が抜け、何も考えることが出来なかった。  
ただ、愛してるといった稚空の顔が頭に焼き付いてはなれなかった。  
意識は凍り付いてしまったが、残された身体は  
稚空の手に、指に、舌に敏感に反応し何度も絶頂に導かれた。  
刺激に翻弄され、はしたない声がたくさん漏れた。  
そして、ただただ怖かった。  
行為に終わりが見えないことより、強制的に絶頂に導かれることより、  
今更思いを伝えようと思っても、稚空の心がずっと遠い場所にあって手を伸ばしても届かないことが。  
身体が何度繋がっても、心を繋げるための距離は果てしないことが、怖かった。  
 
そして快楽に熱くなった頭の中で何度も稚空に謝った。  
ごめんね、稚空。ごめんなさい。  
わたしは知らなかったの。  
わたしが弱虫なせいで、あなたの気持ちを知ってしまうことを怖がっていたから。  
自分の気持ちまで誤魔化し続けていたから。  
だから。  
だから、今日まで知らなかった。  
稚空の顔を見るまで、その言葉を聞くまで気付かなかった。  
 
稚空が、「あいしてる」と言うときの眼が、ひどく深い悲しみを湛えていた。  
そして、稚空の「あいしてる」が、「たすけて」に聞こえた。  
 
 
臆病なわたし。  
そうやってわたしが眼を逸らし続けてたから罰が当たったんだ。  
月のない夜に、わたしはわたしの好きな人の苦しみを眼に焼きつけた。  
 

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