―1―  
日付が変わってからたった時間はそう少なくもない、深夜。  
薄暗いリビングを慣れた足取りで進み  
冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、渇いた喉に流し込んで  
一息ついたところで薄暗い中での自分への視線に気がついた。  
「アクセス、起きてるのか」  
「ああ」  
そう返事をしたのは、ともに暮らしている天使で  
今はこのリビングの片隅を寝床にしている。  
その彼から、さっき見回りから帰ってきたところだ、と付け加えられた。  
「どうだった?」  
「今のところはいないと思う。少なくともこのあたりには」  
「へえ」  
夜、特に日付をはさんでの深夜は、悪魔の力が少し増大するから  
普段見落としがちな弱いそれらでも見つけ易くなるらしく、  
だから『見回り』はこのような時間帯に行われている。  
「まぁ、この前一匹封印したばかりだからな」  
天使のその言葉を最後に、二人の間には沈黙が姿を現した。  
互いに相手を見ることなく、ぼんやりと闇に目を向けている。  
黒髪の天使は、その空気に耐えられなくなり思わず、稚空、と相棒の名前を呼んだ。  
ひどく面倒そうな様子で彼はこちらに視線を向ける。  
「…まろんは?」  
少しだけ声が掠れた。  
それに気付いたのかどうか分からないが、寝てるよ、と彼はそれだけ答えた。  
もう話を続ける気がなくなったのか、稚空はまた薄闇の中、寝室へと引き返していった。  
それを見送った天使の口から溜息が漏れたことには気付かなかっただろう。  
 
寝室の扉を開けると、ベッドサイドの仄かな明かりに恋人の寝顔が照らされていた。  
ベッドに腰掛け、規則正しく上下する肩にそっと手を添え  
しばらくその安らかな寝顔に見入る。  
起きている時の彼女がこんな顔をすることは最近ではめったにない。  
彼女が、パートナーであったフィンに裏切られてから。  
そのまま顔を近づけ、柔らかな唇にそっと自分のそれを重ねる。  
ちゅ、ちゅ、と何度か触れるだけのキスを繰り返したあと、  
彼女の顎に指を添えて唇を開かせ、深く重ね合わせる。  
「ん…稚空…?」  
唇を重ねたまま、うっすらと覚醒した彼女と目が合った。  
無視して、さらに舌を絡ませあい、互いの唾液が混ざり合う。  
最後に彼女の下唇を甘く噛んでから顔を離した。  
そのまま濡れた唇を彼女の耳に移し、舌でその形をゆっくりとなぞる。  
「ねぇ…稚空…」  
拒否を匂わすような声色でまろんが稚空の肩をやんわりと押し、身体を離そうと試みる。  
それに気付かない振りをし愛撫を続けたまま、何?と囁くと、  
耳にかかる息に震えながらも彼女が、お願い、今日はもう無理…と呟いたのが聞こえた。  
そうだろう。さっきまであれだけ泣きながら快楽を受け入れていた身体だ。  
今だってやっと眠りについたばかりだったんだろう。  
だけど、そんな顔をするからさらに気持ちが高まってしまうことを彼女は知らない。  
「…それが、何?」  
その言葉にまろんは戸惑ったように、何って…、と消え入るような声を出した。  
 
その柔らかな頬を両手で包み、自分と目を合わさせる。  
「ねぇ、嫌なの?」  
硬質なその声に、まろんの顔が強張る。  
続けて泣きそうな顔でふるふると首を振った。手で固定されているから許される範囲で。  
その様子に稚空は歪んだ笑みを作ると、柔らかな口調でこう続けた。  
「俺が抱かなかったら、誰がまろんを抱いてくれるの? 」  
身体だけって奴なら腐るほどいるんだろうけど。  
「もしかしてまだわからないの?」  
まろんの眼が、それ以上言わないで、と訴えかけてくる。  
それを無視して甘く甘く、愛の言葉のように囁いてやろう。  
「まろんは誰からも愛されてないんだよ?」  
その言葉を聴いた瞬間、まろんの顔が辛そうに歪んだ。  
そして彼の腕の中、諦めたように体の力が抜けていった。  
 
 
―2―  
それは2ヶ月ほど前のことだった。  
稚空がまろんに、フィンは魔王の手先だと伝えた日。  
まろんが自分のせいで両親は悪魔に操られていたと知った日。  
出て行くフィンにまろんが泣き縋った日。  
稚空とまろんの関係が綻びを見せはじめた日。  
 
その夜、アクセスからフィンが魔王の手先となったことの顛末を聞いた後、  
まろんは稚空にしがみ付きながら、気を失うように眠った。  
真夜中に眼が覚めたとき、たくさん泣いたせいで頭が痛かった。  
身体はそう示しているのに、それでもまだ涙が溢れてくる。  
フィンの「大嫌い」という言葉がいつまでたっても耳に残り、胸を抉るような痛みに  
まろんは吐き気を覚えてトイレに駆け込んだ。  
「けほっ…はっ…」  
嘔吐しながら、どうか今日のつらい記憶も吐き出せますようにと願った。  
しかし願い虚しく、どれだけ吐いてもその記憶はまろんの内側に残ったままだった。  
 
口をゆすぎ、トイレから出てふらふらと歩く。  
ひどく身体が軽いような気がした。何か暖かく大切なものを失った分だけ。  
そのことが悲しくて悲しくて、まろんは廊下に座り込んで涙を流した。  
「まろん」  
不意に背後から声が掛けられ、まろんの身体が抱き上げられた。  
「ここじゃ冷えるよ。ベッドに戻ろう」  
優しく囁かれた言葉に、からっぽになった身体にほんの少しだけ  
暖かさがともり、まろん自身はそのことに酷く安心した。  
「…ちあき」  
そっとベッドに下ろされて、自分の身体から離れていく手が寂しくて  
まろんは彼の名前を呼んだ。  
「ちあき」  
震える声でもう一度名前を呼ぶと、稚空は柔らかく笑ってベッドに腰掛ける。  
「どうしたの」  
それが、まろんが夜中に廊下に座り込んでいたことへの疑問なのか  
もしくは呼びかけられたことへの応答なのかは分からないけれど  
低くて、暖かい彼の声が身体に沁みていくようで、まろんの眼から更に涙が溢れた。  
瞬間、まろんの顔は稚空の胸に埋められていた。  
背中にまわされた腕が温かい。  
 
「大丈夫、まろん。俺がついてる」  
声を押し殺して泣くまろんに稚空が語りかけた。  
どうしてまろんは自分の前でも声を出して泣かないんだろう。  
どうしてこんなにぼろぼろなのに、それでもまだ一人で抱え込もうとするんだろう。  
どうしてまろんはあと一歩自分に歩み寄ってくれないんだろう。  
弱々しく震える彼女に、もっと頼ってほしかった。  
彼女が失くした大事なものを、出来ることなら自分が埋めていきたかった。  
そんな思いを抱きながら、稚空は更にまろんを抱きしめる腕に力を込めた。  
 
「ち、あき…」  
きつく抱きしめられて息が苦しい。  
しかし、その息苦しさがかえってまろんに安心をもたらした。  
そろりそろりと自らも稚空に腕を回して抱きつく。  
「フィンが…言ってた、わたし、なんて……大嫌いだって」  
ようやく口にできた言葉は、ひどく情けなく、震えていたものだった。  
「みんな、わたしを嫌いかもしれないって思ったら、怖くて…ぅ、く」  
胸のうちを言葉にしたら、頭の奥がじんと熱くなった。  
「寂しくて寂しくておかしくなりそう…」  
その言葉を最後に、まろんは嗚咽を漏らしながら泣き続けた。  
 
「…そんなに怖いなら、今夜ずっと抱いててやる」  
まろんの髪をなでていた稚空が、不意につぶやいた。  
まろんの泣き声に掻き消され、聞こえるか聞こえないかくらいの声。  
聞こえなかったならそれでもいいと思った。  
ただ稚空には、愛を失くしてうろたえているまろんの心を埋める方法が  
それしか分からなかった。  
言葉で何千回言ったところで、今のまろんにはきっと届かない。だから。  
「ぇ…」  
遅れて、その言葉の意味を理解したまろんが不安げに稚空を見つめた。  
「そしたらきっと怖くない。でも、決めるのはまろんだ。…どうしたい?」  
稚空に瞳に、困惑を隠せない様子のまろんが映る。  
一方まろんは熱くなった頭に稚空の言葉が何度も反芻していた。  
思いもしなかった選択だった。  
稚空の言葉が抱きしめる事だけを表わしている訳じゃないことくらい  
まろんにも容易に理解できた。  
だけど、理解とはまた違う場所に、さまざまな怯えや不安も存在した。  
拒んだら、嫌われるんだろうか。嫌と言ったら稚空も離れていくんだろうか。  
今日みたいに。フィンみたいに。フィン。フィン。行かないで。そばにいて。  
嫌いなんて言わないで。お願い。好きでいて。稚空。稚空。  
まろんの頭の中で冷たく笑うフィンと柔らかく微笑む稚空の顔が、現れては消えた。  
 
「…まろん」  
耳元で稚空が呟く。まろんの返事を待つ囁き。  
怖かった。だけど今稚空まで去って行ったら、今度こそ私はからっぽになるだろう。  
からっぽになったら、きっと私は死んでしまうだろう。  
私一人でなんてこの夜を乗り越えられない。  
そう思った瞬間、まろんは押し潰されそうな恐怖の中で口を開く。  
「私、稚空が好きだよ…寂しさ、埋めて…」  
それがはじまり。  
 
 
―3―  
「ん…」  
まろんが眼を覚ますともう日は高々と昇っていた。  
起き上がろうとすると、昨夜の名残か体が重く、けだるさが纏わりついて離れない。  
その原因を作った恋人はすでにベッドの中にはいなくて。  
傍にいないことが不安になって、まろんは急いで寝室を出てリビングに向かった。  
「あ、まろん、起きたのか」  
リビングの扉を開けた彼女に声をかけたのは彼ではなく、もう一人の同居人だった。  
「…アクセス、おはよう」  
そう言いながらも、まろんの眼は黒髪の天使をとらえてはいない。  
その眼が誰の姿を探しているかなんて、一緒に住んでいる彼にとっては一目瞭然だった。  
「…稚空なら出かけたぜ」  
「…どこに?」  
弱々しい彼女の声。今にも消えていきそうだ。  
「実家。なんか取りに行くものがあるんだと」  
その雰囲気を吹き消そうと、アクセスは精一杯明るい声で答えた。  
しかし彼女の眼は先程と変わらず、いや、先程に加えて不安の色が混じっている。  
それこそ俗に言う、『捨てられた子犬の眼』。  
「…まろん。大丈夫、稚空は帰ってくるよ。お前を置いてったりしない」  
その言葉で少しだけでもまろんの心が軽くなればいい。そう思って。  
「…ありがとう。ああ、アクセス、朝ご飯食べた?何か作ろうか」  
朝って言うより昼なのかな。そう言ってキッチンに立つ姿は前となんら変わりないのに。  
まろんのその様子が、かえってアクセスの胸を痛めた。  
「ああ、稚空も食べたみたいだぞ」  
「そう。…稚空、はやく帰ってくるといいね」  
そう口にしたまろんの身体はひどく細い。前よりもずっと。  
もう、見るに耐えなかった。心も、身体も、どんどん弱っていくまろんを。  
 
 
―4―  
そのあと、稚空が帰ってきたのは夕方で、  
ようやくまろんの瞳に光が戻ったことにアクセスは安堵した。  
夕食もほとんど摂らなかったまろんは今はバスルームにいる。  
そして稚空はリビングで雑誌を読んでいた。  
「…稚空、話がある」  
そう口にした天使に、話しかけられた男は、眼だけで何?と先を促した。  
「最近のまろん、変だ」  
重々しげに口にされた言葉に、彼は長い息を吐いた後、そんなの、と付け加えた。  
「フィンに裏切られて、まだ立ち直れてないんだろ?」  
「とぼけるなよ!」  
叫んだ天使と対照的に、彼は冷めた眼で床を見つめた。  
「俺が言ってるのはフィンのことじゃない!その後、お前まろんに何した?!  
今のまろんはお前に依存しきってる…!」  
「…それのどこが悪いんだ?」  
「は…?」  
突き返された言葉への理解が追いつかなくて、  
アクセスの口からは思わず間の抜けた声が出る。  
 
「いいだろ別に。まろんが俺に依存してたところで、何の問題がある?」  
「何言ってるんだよ、お前…」  
問題があるとか無いとか、そういうことじゃないだろ…?  
「ああ、俺がまろんに何したかって聞いたよな?簡単だよ。  
毎晩抱きながら囁いてやったんだ。まろんは誰にも愛されてない、必要とされてない、  
だからフィンだってお前を置いて出て行ったんだ…ってね」  
そんなまろんには、俺くらいしか気に掛けてくれる奴なんていないんじゃないの?って。  
何の感情も見せずにそう口にする稚空に、アクセスは視界が揺れるのを感じた。  
「何で、そんなことするんだよ…なんでそんな、まろんを傷つけるようなこと…」  
「…まろんが俺から離れないようにするためだよ」  
「……まろんはお前を愛してるんだぞ?」  
 
稚空はまろんの気持ちが信じられていない。  
彼は、まろんは自分を愛してくれる人間を拒まないと思ってる。  
それは違う。まろんは稚空を愛しているから稚空に応えているんだ。  
愛し方が分からないから束縛することしかできない稚空。  
愛され方が分からないから依存しきってしまうまろん。  
もういいだろ、と立ち去ろうとする稚空を引きとめる。  
「…お前、本当にまろんを愛してるのか?」  
愛するということ。それは何だ?これもその形のひとつなのだろうか?  
「愛してるよ。まろんは一生俺のものだ」  
アクセスはその歪んだ愛情を目の前にして、辛そうに眼を伏せた。  
窓の外は月も出ていない闇夜。  
 

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