【キャラクター補足】
ヒガミ…多々里のクラスメイト。多々里イジメのリーダー的存在。
後留古(ゴルゴ)先生…体育教師。外見は某殺し屋にそっくりだが、中身は熱血。
正午を過ぎたころ。天国中学校は、昼休みの真っ最中だ。
その教室やグラウンドは、退屈な授業からしばし解放された生徒達の歓声で沸き返っていた。
「見舞いになんか行く必要ないわよ、多々里!」
そんな賑わいが遠くに聞こえる、比較的静かな校舎内の廊下に、三つ編みおさげの少女、
よし子の強い調子の声が響き渡った。
隣を歩く友人の多々里を、しきりに諌めているようだ。
「で、でも、あたしのせいでケガしちゃったんだし、様子くらい見に行ったほうが……」
よし子の強気な口調にたじたじとなりながらも、多々里は向かう先への歩みを止めようとはしない。
「何言ってんのよ。自業自得じゃない。あのバカがあんたに嫌がらせしようとして、
勝手に階段から落ちたんだから。日頃の行いが悪いからバチが当たったのよ。ホントいい気味だわ。
あんたが責任を感じる必要なんて、少しもないわよ」
「そ、それはそうだけど、大ケガなんかしてたら、大変だし……」
心配そうな多々里の言葉を、よし子は鼻で笑った。
「そしたら少しは懲りるでしょ。あいつ、いっぺん死にかけでもしないと、
あの曲がった性格直りやしないわよ。いいからほっときなさいよ」
「そういうわけにもいかないよぉ……」
多々里はどうしても見舞いに行かなければ気がすまないようだ。
(お人好しにも程があるわよ……)
よし子は半ばあきれ顔でため息をついた。
先程からよし子に『あいつ』、『あのバカ』呼ばわりされているのは、もちろん乃呂井のことだ。
今日の昼、いつものように多々里に嫌がらせをした乃呂井は、いつものように多々里の怒りを買い、
いつものようにたたりの制裁にあった。
そして今回は、たたりを受けてひるんだ乃呂井が、
階段から足を踏み外して転げ落ちてしまうというおまけつきだ。
かくして、いつも以上に痛い目を見るはめになった乃呂井は、保健室に運び込まれて行ったのである。
結局多々里を説得することはかなわず、目的の場所は近づいてきた。
よし子は少し心配そうな顔で、多々里に向き直った。
「多々里、あたし、これから他の子と約束があるから、中まで付き合えないけど……。
いい?ちょっと様子見たらすぐに帰るのよ。あいつ、自分が悪いだけのくせに、
あんたに変なイチャモンつけてくるに決まってるんだから」
そう頼りない親友に言い含めると、よし子は自分の教室へと戻って行った。
「うん。ついて来てくれてありがと……。またね」
多々里はその後ろ姿を、名残惜しげに見送った。
貴重な昼休みの時間、クラスの遠いたった一人の親友と、もっと長く過ごしていたかったけれど、
わがままは言えない。
よし子にはクラスにも仲のいい友達がいるから、多々里だけにかまっていられるわけではないのだ。
それに、よし子は乃呂井のことを毛嫌いしているから、中までついて来てもらったら、
きっとよけいに話がこじれてしまうに違いない。
気を取り直して、多々里は保健室のドアをノックした。
返事はない。
多々里はおずおずと、そのドアを開けてみた。
「失礼します……」
中を覗くと、入り口から一番手前の簡素なベッドの上に、乃呂井はいた。
上体を起こしてベッドの背にもたれかかっていたが、たった今入ってきた多々里の方を見向きもしない。
額に絆創膏を貼ったその顔は仏頂面で、ただでさえ陰気な容貌が、ますます暗く見える。
清潔で明るい保健室の雰囲気には、あまりそぐわない男だ。
多々里が遠慮がちにベッド脇の椅子に腰掛けても、乃呂井はむすっとしたまま黙り込んでいた。
「あ、あの……さっきの、聞こえてた?」
沈黙にいたたまれず、多々里はおそるおそる聞いてみた。
すると乃呂井は、じろりと多々里を睨みつけてがなりたてた。
「聞こえたに決まってるだろ!でかい声で人の悪口言いやがって」
「あ、あはは……」
元気そうな様子に、多々里は少し安心した。ただ、思った以上に機嫌が悪い様子だ。
「えっと……ごめんね、今日は。まさか階段から落ちるとは思わなくって……、その、具合はどう?」
「額の裂傷、足首のねんざ、体中の打ち身。おまけに……」
乃呂井は憎々しげに枕元に目をやった。
「リコーダーも壊れた」
そこにはひび割れて真っぷたつになったリコーダーが横たわっていた。
乃呂井が長年愛用していた呪術道具の成れの果てだ。不機嫌なのも無理はない。
「あ、で、でも、骨折とか、大ケガはしなかったみたいだから、良かったね」
「何がいいんだよ!呪具が壊れたんじゃ、商売上がったりなんだぞ!」
「えっ!?……あの、まさか、呪いでお金儲けまでしてるの?」
多々里の驚いた様子に、乃呂井は何やら得意げになった。
「ふふん、そうさ。最近じゃ俺様の名も裏で知れ渡って、色々と依頼が来るようになったんだぜ」
どうやら近頃は、自分の趣味にとどめるだけでは飽き足らず、代行して人を呪ったり、
呪術グッズを売ったりして、小遣い稼ぎをしているらしい。
(なんだか、どんどん悪い人になっていくなぁ……)
多々里はちょっとあきれた。
「とにかくお前のせいでこうなったんだからな。損した分、弁償しろよ。もちろん治療代もな」
治療代がかかるほどのケガなのかは怪しいところだが、それはともかく、
やはり乃呂井は今回のことも全て、多々里のせいにしているようだ。
この少年の逆恨みの激しさは今に始まったことではない。
乃呂井はその後も、くどくどと多々里に難癖をつけていた。
(ヨッちゃんの言う通りだったなぁ……)
げんなりとそれを聞き流していた多々里は、ふと、本来ならここにいるはずの保健医の姿が、
どこにも見当たらないことに気付いた。
「あ、ねえ、あの、先生はいないの……?」
「用事があるってさっき出て行ったよ。こんなケガ人ほっといて、しばらく戻らないんだとよ」
乃呂井はいらついた調子で答えた。
しかしそっけないその返事に、多々里は一瞬どきりとした。
ということは、今、この部屋は自分と乃呂井の二人っきりだということだ。
ふと乃呂井と目が合う。慌てて目をそらした。
あれから、もう何ヶ月たっただろう。
元々多々里は、乃呂井のことをそれ程嫌いではなかった。
色々と困ったところはあるけれど、根はそんなに悪い人間ではないと思っていたからだ。
けれど、だからと言って、異性として、ましてやあんなことをする相手としてなんて、
考えたこともなかった。
それなのにあの日、たとえ最初は強引な形だったとはいえ、
最終的には受け入れてしまったという事実への、後ろめたさが多々里にはあった。
しかし一方、乃呂井はと言うと、相変わらず冷たくて、意地悪で、まるで何事もなかったみたいだ。
そんな乃呂井の態度もあいまって、初めはどうしていいか分からなかったけれど、
結局、多々里もそのことについては、触れないように、思い出さないようにすることにした。
あの日、自分の身に起こったことは、確かに現実なのだけど、
それはまだ中学生である自分が、していいことでは、決してなかったのだから。
「じゃ、じゃああたし、教室に帰るね。お大事に……」
二人でいるのが気まずくなって、多々里は席を立った。
「おい待てよ!人にこれだけケガさせといて、もう出て行く気かよ!」
乃呂井はそそくさと出て行こうとした多々里を、しつこく引き止めた。
執念深さも今に始まったことではない。
(そんなに言うほどのケガかなぁ……)
だが、それを言ったところで火に油を注ぐだけだということは、乃呂井の性格からすれば明らかだ。
多々里は別の言い訳を探した。
「でも、早く帰るようにって……、ヨッちゃんからも言われてるし……」
多々里としては、何の気なしによし子の名前を出したつもりだった。
しかしその名を聞いた途端、乃呂井の顔つきが、目に見えてずっと険しくなった。
よし子が乃呂井を毛嫌いしているのと同様に、乃呂井もよし子の存在が、かなり気に食わないのだ。
「……いちいちあの女の名前出しやがって。今まであいつにも相当イジメられてきたくせに、
よくあんなベタベタ出来るよな」
さっきよりもずっと冷たい乃呂井の言い方に、多々里は少し戸惑った。
「向こうもいい神経してるぜ。今までイジメてきた奴に、平然と友達面できるんだからな」
乃呂井は、表情をしだいにこわばらせていく多々里に構わず、吐き捨てるように続けた。
「そんな調子のいい女、お前を裏切るのも時間の問題だな」
「ヨ……ッ、ヨッちゃんの悪口言わないで!」
思わずカッとなって、多々里は乃呂井に言い返した。
自分のことをどんなに悪く言われても我慢できるけれど、大事な友達の悪口を言われるのは許せなかった。
しかしそれがかえって、乃呂井の神経を逆撫でしたようだ。
「あんな奴、俺様がちょっと呪いで脅してやれば、すぐにお前の友達なんかやめるだろうぜ」
多々里は今までにないほど厳しい目付きで、きっと乃呂井を睨みつけた。
「ヨッちゃんにまで呪いをかけたりしたら、あたし、許さないから……」
「……ふん、たたりでも使う気か?そこまでしてかばう相手かよ。お前が今まで何度、
人から裏切られてきたか、よーく考えてみな。友達だと思ってるのは、お前だけかもしれないぜ」
その言葉が、多々里の胸に突き刺さった。
今まで気付かないふりをしてきた不安感を、無理やり引きずり出されたような感じがした。
よし子には、多々里以外にも仲のいい友達がクラスにいる。
だけど、多々里にはよし子が、たった一人の友達だ。クラスでは相変わらずイジメられて、一人きりだ。
寂しくないと言えば嘘になる。でも、それだけならまだいい。
自分と友達でいて、よし子までイジメられてしまうかもしれない。何よりもそれが怖かった。
本当はそんな自分より、他の子達と一緒にいた方が、よし子もずっと楽しいのかもしれない。
初めてできた大切な友達に、いつか嫌われてしまって、また一人ぼっちになるかもしれない。
心の奥に積み重なっていた、そんな不安や寂しさが、徐々にこみ上げてくる。
それと同時に、目からじわりと涙が溢れてくるのが、多々里には分かった。
けれど、泣くわけにはいかない。
泣いたって、バカにされて、よけいに面白がられるだけなのだから。
今までずっと、そうだったのだから。
そう自分に言い聞かせたけれど、視界はみるみるうちにぼやけていく。
そしてひとしずく、涙が頬を伝った。
「なっ、なに泣いてんだよ!!?」
驚いたのは乃呂井だ。
言いたい放題に言って、てっきりたたりを受けると思って身構えていたのに、予想外の事態だ。
下を向いて、ひと筋、またひと筋と涙を流し始めた多々里に、
乃呂井のさっきまでの苛立ちは一瞬で吹き飛んだ。
慌ててベッドから降りて多々里に近寄ってみたが、やはり見間違いではない。
今までどんなに悪態をついても、いくら嫌な目に遭わせても、涙ひとつ見せたことはなかったのに。
人を傷つけることなど厭わない、冷酷非情な悪党を自称しているはずの乃呂井だったが、
肩を小さく震わせ、泣き声を必死で押し殺している多々里を前に、言いようのない罪悪感が、
じわじわと胸を突き上げてくる。
とにかく、この状況を何とかしたい。けれどどうすればいいのか、全く見当がつかない。
女の子の慰め方なんて、今まで読んだどの呪術書にも載っていなかったからだ。
何かないかと、学ランのポケットの中を探ってみたけれど、中にはロウソクだの、薬草だの、お札だのと、
やはり呪術用の小物ばかりだ。
しかしあちこち探っていると、ようやくズボンのポケットの奥の方に、
皺くちゃに押しつぶされたハンカチを発見した。
いつから入れっぱなしなのか不明の、あまり清潔とは言えない代物だが、ないよりましだ。
ものは試しに、乃呂井はそのハンカチでおそるおそる、多々里の頬を伝う涙をぬぐい、
そして、言葉をかけた。
「泣くなよ……」
濡れた瞳が、少し驚いた面持ちとともに乃呂井に向けられた。
一瞬涙が止まったように、乃呂井には見えた。
だが、ほっとしたのも束の間、またその目から、みるみる涙が溢れ出てきた。
かと思うと、堰を切ったようにこぼれ落ちる。さっきまでは押し殺していた声が、嗚咽に変わった。
「おっ……おい……」
前よりもずっとひどくなった泣き方を前に、乃呂井は途方に暮れた。
泣きついてくるまでイジメてやろうと、以前、心に決めたことがあった。
けれど、実際に泣かれることが、こんなに辛いとは思いもしなかった。
「泣くなって……」
これ以上泣き顔を見ていられなくなって、乃呂井はそっと、多々里の小さく震える肩を抱き寄せた。
制服越しからでも分かる、細身のくせに柔らかい、頼りなげな女の子の体。
もう随分前に一度だけ、感じたことがある。
忘れるつもりだった。
でないと、とてもライバルとして、本気で多々里に向き合えそうもなかったからだ。
多々里は乃呂井の胸にすがりついて、いまだに啜り泣いている。
乃呂井は何も言わず、ただただ、頭を撫で続けた。
こんなに泣くほどまで、あの友達が大事なのか。
妬ましさを覚え、抱きしめた腕に、少し力が入った。
多々里は乃呂井の腕の中で、しだいに落ち着きを取り戻していた。
バカにされると思い込んでいた矢先の、乃呂井のぎこちない慰めが、思いがけなくて、でも嬉しくて、
これまでに幾度となく経験してきた、そしてその度に耐えてきた、辛さ、悲しさまでが、
全て涙になって溢れてきた気がする。
そして、たった一人の友人に対する不安も、それとともに洗い流されてしまったみたいだ。
よし子は、たとえ他に友達ができることがあっても、自分を一番の友達だと言ってくれた。
そしてそのためにイジメられても、平気だと言ってくれた。
(信じなきゃ、ダメだよね……)
もう、涙は出て来ない。
それでも乃呂井は抱きしめたまま、頭を撫でてくれている。
さっきまで意地悪なことを言って、自分を泣かせた張本人のはずなのだけれど。
つくづく、何を考えているのかよく分からない。
でも、久しぶりの腕の中は、やっぱりあたたかくて、心地いい。
(あの時も、こんな風に、優しかったな……)
ふと、かつての出来事を思い出しかけていることに気付いて、多々里は自分を戒めた。
恋人でもない彼を、受け入れてしまった罪悪感がある。
そしてそれに流され、心を奪われてしまった背徳感もある。
けれど何よりも忘れたかったのは、あの時の、嘘みたいな乃呂井の優しさだ。
真意の見えない彼の優しさに期待して、すがってしまって、傷つくのが、何よりも怖い。
だから、あの日のことは、忘れなければならないのだ。
名残惜しさを覚えつつ、多々里は乃呂井から体を離した。
「ごめんね。なんだか、気が緩んじゃって……。あたし、戻るね」
泣きはらした、少し寂しげな瞳が乃呂井に向けられる。
(なんでお前が謝るんだよ……)
ドアに向かうその後ろ姿に、胸が痛む。
たった今まで、頼りなげに泣いていたくせに。
お前の居場所なんか、あの教室に、ありはしないのに。
乃呂井は離れていく多々里の手を、思わず掴んだ。
その手を引き寄せて、そのまま後ろから抱きすくめる。多々里が、息を呑んだのが分かった。
離したくなかった。
心の奥に押し込めていた想いが、再びこみ上げてきていた。
初めて抱いた、あの時と同じように。
そしてこの想いは、よし子の多々里に対する友情なんて気持ちよりもずっと、強いはずなのだ。
「あ、あたし……次の時間体育だから……、あたしトロくて、準備に時間がかかっちゃうから……、
もう、戻らなきゃ……」
多々里は胸の高鳴りを感じながらも、乃呂井から離れようとした。
けれど乃呂井は、全く意に介さない。
「……女子はソフトだったな。足手まといになって、イジメのネタが増えるだけだろ。やるだけ無駄だな」
そして多々里の体を捕らえた手に、ぎゅっと力が込められる。
大きくて力強い、男の子の手。
この手があの日、自分の体を、すみずみまで愛してくれたのだ。
いつも人から乱暴に扱われ、痛めつけられることしかなかった体を。
多々里の動悸が、痛いほど激しくなってくる。
「でも……でも、あたし、皆の分のボールとかグローブとかも、用意しなくちゃいけなくて……、
だから行かなきゃ……」
「どうせ他の奴が、お前に仕事を押し付けてるだけだろ?」
図星を指され、言葉に詰まった多々里の耳元に、乃呂井は口を寄せて、言った。
「お前が行く必要は、ない」
そして、そのまま多々里の耳の付け根に、スッと舌を這わせた。
「……ッ!!」
生温かい濡れた感触が、多々里の身を大きくビクリと震わせる。
あまりにも素直な反応を示す、自分の体が恨めしかった。
その間にも、腰に回っていた乃呂井の右手が、上の方へとじわじわ這っていく。
制服越しのわずかなふくらみが捕らえられ、押し付けられながら、ゆっくりと、
手の平で撫でまわされていった。
「や、やだ……、やめ……っ」
「……イヤじゃなかったって、言ってたよな」
「…………っ!」
そう。あの時も、そして今も、本当はイヤじゃない。そんな自分が嫌だった。
胸をまさぐられるのに加えて、もう一方の手が、太腿を伝う。
真っ赤になっているはずの耳元に、後ろから息を吹きかけられる。
体が熱くて、力が入らない。
このままだと、また自分を失ってしまいそうで、怖くなる。
いい子でいたいのに。一時の欲に身を任せてしまうような、悪い子にだけは、なりたくないのに。
「ね、ねえ……っ、先生が、帰ってきちゃうよぉ……っ。ほ、他の人だって……」
多々里の必死の言葉に、乃呂井は手を止めた。そしてしばらくしたのち、多々里から体を離す。
多々里はほっと胸をなでおろした。しかし、それも束の間、乃呂井は学ランのポケットの中から、
何やら紋様が施されている一枚の紙切れを取り出した。
「結界を張る呪符だよ」
そう言ってドアに貼り付ける。
呪術の実験を、なにかと器具や薬品の揃った学校の中でこっそりしたい時がある。
そんな時、誰にも邪魔されないために、乃呂井がいつも使う手だった。
この呪符を貼ることによって、その場所は誰にも存在すら気付かれなくなるのだ。
乃呂井は多々里の方に向き直ると、意地悪そうに聞いた。
「……誰も入ってこなけりゃ、いいんだよな?」
「そっ、そういうことじゃな……っ」
言い終わらないうちに、強引にあごを掴み上げられ、唇を押し付けられた。
驚きと、戸惑いと、それでもなぜか恐怖感も嫌悪感もなかった、かつての感覚が、
ありありと呼び起こされる。あの日の乃呂井の息遣いや、指遣い、肌の感触さえも。
生まれて初めてと言っていいほど満たされて、幸せになれた気持ちも。
千々に乱された心の奥に、迷いが生まれてきた。
「どうして……」
しばらくして唇が離れると、多々里はすがるように問いかけた。
「どうして、こんなことするの?」
その答えしだいでは、このまま身を任せてしまっても、いいかもしれない。そう思った。
乃呂井は一度、何かを言いかけたようだった。
しかし躊躇して、少しの間押し黙る。
そして、ようやく口を開いた。
「そんなの、自分で考えろよ……」
押しつぶされそうな気持ちで待った挙句の、その答えになっていない答え。
(ずるいよ……)
分からないから、聞いているのに。
そう問い詰めたかったけれど、また口をふさがれ、黙らされた。
「…………ん……っ」
柔らかな舌が、しだいに口の中へ入り込み、多々里の舌を絡め取っていく。
迷いを打ち消せる答えを何一つ得られないまま、それを受け入れている自分に気付いた。
たとえ乃呂井が、片手で頭を、離れないように押さえつけていなくても、もう一方の手で腰を、
痛いほど抱きとめていなくても、この深い口付けから逃げようとは、多分思わない。
「は……っ」
互いの唾液が十分に混じり合ったころ、乃呂井の唇がゆっくりと離れた。
呼吸が整わないまま頭をかき抱かれ、多々里は乃呂井の肩に顔をうずめた。
髪の毛をくしゃりと撫ぜられる。
恋人同士なんかじゃ、決してないけれど。
乃呂井が自分のことをどう思っているのか、自分が乃呂井のことをどう思っているのかさえ、
よく分からないけれど。
ただ、いけないことをしている。それだけは分かっている。
それでも、再び得たこのぬくもりを、拒めるほどの強さは、多々里にはなかった。
ためらいながらも、乃呂井の背中にそろそろと手をまわし、抱擁に応えていく。
それが意外なものだったのか、乃呂井の多々里を抱く腕の力が、一瞬緩んだ。
しかしその後すぐに、さっきよりもずっと強く、きつく、抱きしめ返される。
あたたかさと、少しの息苦しさが、かえって心地いい。
「いいんだな……?」
乃呂井の問いに、多々里は何も答えなかった。ただ、うつむいたまま小さく、こくりとうなずいた。
悪意や敵意に強くなった分だけ、優しさには、どうしようもなく弱い自分を、思い知りながら。
午後の授業の開始を知らせるチャイムが、保健室に響き渡る。
その音は、二人分の重さできしむベッドの音をかき消していった。
柔らかいベッドの上に組み伏せられ、上から見つめられる。
かつてと同じように、その眼差しは多々里の動悸を高まらせ、甘く胸をしめつけてくる。
不意に乃呂井の唇が頬に触れ、そのまま濡れた舌がゆっくりと、目元まで這っていった。
先程の涙の跡に伝わせているのだと、何度目かの往復の後に気付いた。
そしてその舌が、今度は唇を潤していく。
多々里は少しだけ口を開けて、乃呂井を迎え入れた。
優しさに応えたくて、そっと割り入ってくる舌に、こわごわと自分の舌先を差し出した。
「ん……っ、んっ、……んっ」
激しい水音だけが、耳に響く。
そのキスは今までにないほど、深く荒々しいものだった。
「はぁ……っ」
存分に口内を犯したのち、乃呂井は自分の舌をゆっくりと抜き取った。
思ったよりもずっと激しい口付けだったのか、多々里は荒く息をつきながら、
少し困惑した目を乃呂井に向ける。
それにかまいもせず、乃呂井は多々里の制服に手を掛けた。
ブレザーを脱がせ、ベッド脇の椅子の上にぱさりと投げ置く。
次に赤いリボンタイを解き、真っ白なブラウスのボタンをはずしていった。
そしてブラウスをはだけると、下着に守られた、色白の胸元があらわになる。
相変わらず子供っぽさは残っているけれど、それでもなだらかな起伏を描いている体は、
十分に女らしさを感じさせる。
乃呂井はその胸元を、指先で軽く、するりと撫でやった。
「……っ」
すると多々里はびくりと、その身をすくめた。けれど、けして前のように逃げようとはしない。
そのままブラウスを取り去り、下着を残したまま、わずかに震える肩に頬を寄せた。
急に外気に晒されたからか、少し冷たい素肌。そのなめらかで柔らかい感触は、
忘れたつもりで、けれど忘れられなかったあの時のものと、少しも変わっていない。
首筋から鎖骨へと、ゆっくり唇を伝わせる。細身の体が、わずかに身じろいだ。
もう一度、今度は下から上へ、舌を首筋に伝わせていく。
途中、軽く吸いついてみた。
「あっ」
びくりと肩をすくませ、今までかたくなに閉じていた口から、声が漏れた。
そのまま同じ場所をより強く吸い、舌先で重点的に舐め上げる。
加えて両手で、下着の上から優しく、小ぶりな胸を揉みしだいてやった。
「やっ、……っ」
熱を帯びていく体が、少しずつ高まっている彼女の興奮を伝えている。
それを指先だけでなく、やはり自分の体で、直に感じたくなる。
乃呂井は動きを止め、体を離した。
「あ……」
急にぬくもりを失って、多々里は心細げな眼差しを乃呂井に向けた。
しかし乃呂井が自分の服を脱ぎにかかっているのを見ると、安堵した表情を浮かべた。
「今のうちにこれでも飲んでな」
乃呂井は脱いだ学ランのポケットから小瓶を取り出すと、
その中に半分ほど入っている錠剤のようなものを一つ、多々里に差し出した。
多々里は身を起こしてそれを受け取ると、不思議そうに聞いた。
「これ……なに?」
「子供なんか出来ないようにする、呪薬だよ。……後で面倒に巻き込まれるのは、御免だからな」
「あ……、そ、そうなんだ……」
乃呂井の言葉に、多々里は顔を赤らめた。
これから乃呂井とどういうことをするのかを、今更ながら認識したからだ。
心臓がドキドキと高鳴ってくる。
黙り込んで、手の平の上の小さな薬を見つめた。
(そっか……これから、乃呂井と……)
しかしその沈黙を、乃呂井は別の方向に解釈したようだ。
「おい、言っとくけどな、この薬はいつもはただの売り物だからな。欲しいって奴が結構いて、
いい金になるんだ。俺様が自分で、どこかその辺の女相手に使ってるわけじゃないからな。
準備がいいからって、変な勘違いはするなよ!」
乃呂井のあせった様子に、多々里はわけが分からずぽかんとしていた。
根っから初心な多々里に、そこまで考えが回るわけがないのだ。
いらない心配だったと気付いた乃呂井は、まるでお前に操を立てているとでも言いたげな、
さっきの台詞が無性に恥ずかしくなった。
「いいからさっさと飲めよ!」
乃呂井の怒鳴り声に、多々里は慌てて薬を飲み込んだ。なんとも言えない、奇妙な味がした。
上に着ていたものを脱ぎ去った乃呂井は、ベッドの上に座り込んでいた多々里に手を伸ばし、
あらためて抱きしめた。
ホイッスルの甲高い音が、遠くから聞こえる。
窓の向こうのグラウンドからだろう。体育教師の叱咤激励らしき声もかすかに耳に入る。
午後の授業中。本来なら多々里も今、あの遠い場所にいるはずなのだ。
けれど現実にはここにいて、その肌のあたたかさを、直に感じている。
乃呂井は多々里の下着の留め具をはずすと、そっと抜き取り、
そして手の平を、座ったまま抱き合った体の間に忍び込ませた。
遮るもののなくなった幼いふくらみが、柔らかく包み込まれていく。
乃呂井はそれを、淡く撫でさすった。
「はっ……」
直に触れてやると、こうも反応が違うものなのか。多々里は腕の中で身をよじらせ、荒く息を吐いた。
そのまま指先に力を込め、ゆっくりと、張りつめた小ぶりな胸をときほぐしていく。
「ん……っ、ぁ……っ」
心の奥底で恋い焦がれていた、手の中でとろけるような、その触感。
再び手に入れることができた、その繊細な柔らかさにふけりつつ、
乃呂井は多々里の耳に、熱い息を吹きかけた。
「や……っ!」
不意打ちに身をすくめ、多々里は自分を抱く乃呂井の腕に取りすがった。
あどけなさが残る体も、不規則な吐息も、ますます熱を帯びてきている。
その素直な反応が、乃呂井の劣情をより募らせた。
耳たぶを舐り、時にその舌を耳の中へと滑り込ませる。
大きくのけ反るその体をしっかりと抱きとめ、胸を責め立てる手の動きを、更に激しくしていく。
「あっ、あ……っ」
なめらかな肌が、しだいに汗ばんでくる。乃呂井の腕にすがりついた手に、より力が込められる。
羞恥と興奮から、真っ赤に上気していく柔らかな頬が、乃呂井の肩に擦り付けられた。
たとえまだ経験の浅い、ぎこちなさの残る愛撫であっても、
虐げられることに慣らされたその体にとっては、十分すぎるほど甘美なものなのかもしれない。
それほどまでに多々里の体は、与えられるひとつひとつの刺激に、敏感な反応を見せていた。
衝動にまかせて、乃呂井はそのまま多々里を押し倒した。
身に付けたままだったスカートを剥ぎ取り、熱くなった多々里の体を荒っぽく撫で上げていく。
そして、乱れる呼吸で上下している胸まで到達すると、その先端を、指先でつまんだ。
「……っ!あっ!」
突然の刺激に、多々里の体はビクンと震えた。
乃呂井は先端をいじる指の動きを止めず、もう一方の手を太腿に這わせた。
汗ばんだ柔肌を軽く揉むようにしながら、少しずつ足の付け根へと手の平を移動させていく。
さらに細い首筋に口を寄せ、喰らいつくように舐った。
「あぁっ、ん……っ!」
しだいに荒くなっていく、切なげな吐息が扇情的で、
力弱くも精一杯、自分にしがみついてくる細い腕がいじらしくて、乃呂井の気持ちをますます逸らせる。
内股を這っていた左手がついに、中心部に達した。
下着の上からそこを、押し付けるようになぞり上げる。
「やっ、やだ……ぁっ!」
熱い体が、乃呂井の胸の中で跳ね上がった。
薄い下着が、確かに湿り気を帯びていることを、乃呂井は指先で覚知した。
自分の首に絡みついた多々里の腕をほどき、その下着を抜き取る。
そして、すでに十分に潤んだ奥へ、ゆっくりと、人差し指をうずめていった。
「んん……っ!」
その中は熱く、きつく、乃呂井の指を締めつけた。
そんな内部に逆らうように、指先を蠢かせながら抜き取り、そしてまた、挿し入れていく。
「……っ、ん……っ、ふ……っ」
多々里は眉根を寄せ、漏れ出ようとする声を懸命に押し殺しているようだった。
二度目とはいえ、そこで感じていると知られるのは、
やはり彼女にとって恥ずかしいことなのかもしれない。
けれど今まで以上の快感に襲われているということは、しだいに恍惚とした色を見せていく瞳から、
確かに見て取れる。
乃呂井は中への刺激を繰り返しつつ、わずかに震える胸の先端に、そっと口付けた。
「ん……っ!」
びくりと背中が反り返る。
そのまま固くなったそれを口の中に含み、舌先で転がす。時に唇で扱き、軽く甘噛みする。
加えて指の動きに、より激しさを加えていった。
「ふっ、く……っ、んん……っ」
肌を仄赤く染め上げつつ、汗に滲む体をよじらせながら、それでも多々里はあくまで歯をくいしばって、
増幅していく快感に耐えようとしていた。
その恥じらう姿を健気にすら感じるが、乃呂井の中ではそれ以上に、乱れさせたいという嗜虐心が勝る。
熱くうずもれた小さなつぼみを親指で探り当て、そして、力を入れながら擦り付けてやった。
「っ!ひぁっ!!」
予想もしなかった事態に、ついに多々里は荒い喘ぎを漏らした。
さらに乃呂井は、人差し指だけでも十分に狭い多々里の内側に、もう一本、中指をねじ込んだ。
「やっ、いやぁっ!」
間断なく加えられる責めに、多々里はその目にかすかな怯えすら浮かべた。
しかし乃呂井はそのまま、より窮屈になった多々里の内部を、二本の指で入念に掻き乱していった。
「やだ……っ、やぁ……っ、んん……っ!」
多々里は頭を振って、体をよじって嫌がって見せる。
けれど、指の奥からますますあふれてくる熱い蜜が、本当はそれを求めていることを教えてくれていた。
だから、けしてやめない。指先が、より執拗さを増していく。
「はぁ……っ、あ……っ、あぁっ!」
柔らかな胸を舌で、濡れそぼった秘部を指で犯す音が、周りに響く。
艶めきを増していく多々里の喘ぎが、乃呂井の情欲を突き上げていく。
頃合いを見計らって、胸にうずめていた顔を上げ、多々里の顔を見やった。
休むことなく、思うがままにその鋭敏な体をなぶられて、頬は紅潮しきり、瞳はうつろで、
かすかに潤んでいた。
それでも乃呂井は、ますます熱くなっていく内部の、より奥へと指を進め、激しい抜き差しを繰り返した。
「あっ、あ……っ!!」
もはや抑えることもできず、感じるままに、甘く切ない声を上げる。
自分を見失うまいとしながら、堪えられない快楽に心を奪われ、溺れてゆく姿態を存分に堪能したのち、
乃呂井はようやく、指を抜き取った。
「……っ、はぁっ、はぁ……っ」
甘い責め苦からようやく解放され、多々里はただ荒く息をついていた。
散々に自分の体を弄んだ乃呂井に、恨めしげな瞳を向ける。
しかし乃呂井は、そんな多々里に見せ付けるかのように、したたるほどにぬらついた指を、
入念に舐め上げていった。
赤みが引こうとしていた多々里の顔が、再びカアッと真っ赤になる。
先程の激しく、強引な愛撫にさえ、悦んでいた確かな証拠。
今更どんなに責める素振りを見せても、向こうにはお見通しなのだ。
「い……、いじわる……」
咎めるようなその言葉に、乃呂井はくすりと笑った。
「なんだよ……知らなかったのか?」
そう言って、少し乱れた多々里の髪の毛を撫で付けると、包み込むように力強く、
その体を抱きしめた。
「……あたし……、分かんないよ……」
あたたかさに包まれ、多々里は泣きたくなるような想いでつぶやいた。
どうして、こんなに気持ちいいのか。
乃呂井は、本当に意地が悪いのか、それともすごく、優しいのか。
自分にとって、乃呂井は何なのか。
何も分からない。
ただ、このぬくもりをもっと近くに感じていたくて、抱きしめてくれる熱い体に腕を回し、
ぎゅっと力を込めた。
「分からなくて、いい……」
そう答えながら、乃呂井は多々里に、何度目かの口付けを交わした。
互いの舌が、深く絡まり合っていく。
今、この口付けに応えてくれているのは、いくら嫌な目に合わせても、けして自分に従おうとしない女で、
どんなに頑張っても、未だに全く敵わないでいる女で。
本当に憎んでも憎みきれない女のはずなのに、そのくせ、バカみたいに素直で、純粋で、お人好しで。
――――――――本当は、好きで好きで仕方がない、たった一人の、大切な女の子。
だからよけいに憎らしくて、かまいたいけれど他に方法を知らなくて、いつもイジメてしまうのだ。
だけど、言葉がいらない今だけは、ただ素直に愛したい。
今だけでいいから、自分のものにしたかった。
乃呂井は唇を離し、抱擁を解いた。
穿いたままだった制服のズボンに手を掛ける。
できることなら、もっと長く、深く、愛でていたいけれど、もうこれ以上我慢は続かない。
全てを脱ぎ去ると、多々里の足の間に膝を割り込ませていった。
服を脱ぐ、たったそれだけの時間、離れていても寂しかったのか、
抱擁を求めるように、多々里の手がおずおずと、自分の腕に絡みついてくる。
たまらなく愛おしくなって、思い切り抱きしめてやった。
そのまま多々里に自身をあてがい、そして、一気に貫いた。
「……っ!!」
その瞬間、多々里は息苦しくて、それでいてどこか甘い感覚に突き上げられた。
乃呂井の背中に回していた腕に、ぎゅっと力が入る。
少し痛みを感じる。数ヶ月前にたった一度抱かれただけの、大人に満たない体は、
まだ完全に性行為に慣らされたわけではなかったのだ。
けれど体中にじわじわと広がっていく、あたたかいうずきが、しだいに痛みを覆い消していった。
一方で、多々里の体を気遣ってか、それとも中の感覚を味わっているのか、乃呂井はじっと、
多々里に腰を沈めたままだ。
けれど、多々里の肩を掴んでいる指に力がこもり、荒い息を吐いていることで、
彼の体も昂ぶっていることが分かる。
互いを感じ合えていることが、何よりも嬉しかった。
「ん、あっ」
ふいに、交わった部分が擦れ合った。
乃呂井が多々里の肩から手を離し、ベッドに手をついたのだ。
(動くんだ……これから)
期待と同時に、これから自分を襲うだろう快感に、少しだけ怖くなる。
乃呂井の背中に回していた右手を、そろそろと腕に伝わせた。
それに気付いた乃呂井は、その手を取って、指を絡め、優しく握り締めた。
そう、こんな風に、手を握っていて欲しかった。
本当に、どうして今は、こんなに優しいんだろう。
いつもイジメられている自分には、もったいないくらいに。
分からないけれど、乃呂井が言ったように、分からなくてもいいのかもしれない。
今だけでも、この優しさに、ただひたってさえいられれば。
乃呂井の腰が、ゆっくりと動き始めた。
「ぁ……っ、んっ」
腰を引いて、また貫く。
熱く潤んだ彼女の中に迎えられ、呑み込まれるように締めつけられる。
その何物にも代えがたい快感が、乃呂井の理性をしだいに失わせていく。
欲望に衝かれるままに、自身を何度も突き立てた。
「あ、あっ、あ……っ!」
その度に、律動的な多々里の喘ぎは、甘く上ずっていき、そしてその中はますます熱く、
淫らに自身を包み込んでくれた。
昂ぶっていく体と感情が、暴発を突き上げるけれど、それを必死で抑え込む。
出来るだけ長く、この体を貪っていたかった。
それでも、確実に限界は近づいてきている。
握り合った指に、固く力を込めた。そして余った手で、多々里の張りつめた乳房を揉みしだく。
加えて時々繋がった体を揺らしてやり、別の刺激を自分に、多々里に与えてやった。
「やっ、やだっ、もっ、もう……っ」
胸への新たな愛撫に、自らの中に起こる断続的な鋭い快感に、多々里は泣き出しそうに、
苦悶の表情をより濃くした。
もう少しで、導いてやれる。
そう確信して、全身の力を込め、今までにないほど深く、貫くように腰を突き上げた。
「あ、あっ!…………っ!!」
射抜かれるような官能に、体中が襲われたのだろう。
何度目かの深い突き上げののちに、多々里はぐっと首を反らせ、ついに高みへ昇りつめた。
同時に、乃呂井を今までにないほど、きつく締め上げる。
「……っ!!」
気が狂うほどの快感に息がつまり、乃呂井もついに、多々里の中に、自らを放出させた。
全てが出尽くし、受け止められた。
脱力感に襲われ、乃呂井は多々里の横に倒れ込んだ。薄い布団を、互いの体に肩まで被せる。
愛し尽くした満足感に浸りながら、残った力で、まだ息を弾ませている多々里の体を抱き寄せた。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴った。
体の熱が引き、呼吸も整ってきた二人に、忘れていた時間の感覚が戻ってくる。
「あ……えっと……、もう、行かなきゃ……」
ここが昼間の学校であるという現実を、今になって思い出したのか、多々里は布団から出ると、
あせって服を着始めた。
しかしまだ頭がぼんやりしているのか、多少動きがもたついている。
少し後ろめたそうにしているその姿を、乃呂井はなんとなく眺めていた。
受け入れられたからといって、好かれているとは思わない。
いつも人から疎まれている分、求められることに弱いのだろう。
たとえ相手が誰であっても、それが一時のものであっても。
それでも別にかまいはしない。
その間だけでも、自分のものになってくれたのだから。
ベッドから出た多々里は、すでにスカートを穿き終わり、ブラウスを身に付け始めている。
乃呂井は今頃になって、こっちはまだ裸のままだということに気付いた。
急いで体を起こすと、布団の中に埋もれているはずの、自分の服を手で探った。
「あ、あのね……」
ブレザーまで着終わった多々里が、何か言いたげに振り向いた時、乃呂井はベッドの上に立って、
まさにトランクスを穿きかけていた状態だった。
間抜けな姿を見られ、ばつが悪くて多々里を睨みつける。
「なんだよ、見るなよ」
「あ、ご、ごめん」
多々里は顔を赤らめ、慌てて視線を戻した。乃呂井が急いでズボンを穿き、シャツに袖を通している間、
ベッド脇に立ったまま、じっと何かを考え込んでいる様子だ。
そして乃呂井がシャツのボタンをとめ始めた頃、ためらいがちにもう一度、口を開いた。
「あのね……」
乃呂井はベッドの上に座り込み、平然とボタンをとめているふりをしつつ、内心少し緊張して、
多々里の次の言葉を待っていた。
彼女にとっては二度目の過ちだ。
責められるのか、また泣かれるのか、それとも……。
最後のボタンが、上手くとまらない。
「呪いを使って、色んなことするの、もう、やめたほうがいいよ」
乃呂井は少し拍子抜けした。
ほっとしたような、がっかりしたような、妙な気分だ。
何のつもりだか知らないが、そういう話なら答えは決まっている。
「いやだね」
そっけない返事の乃呂井に向き合い、多々里は語気を強めた。
「で、でも、悪いことしてたら、いつか自分に返ってきちゃうよ」
他でもない多々里が言うと、いかにも説得力のある台詞だ。
しかし乃呂井は、あくまで聞く耳を持たない様子で言いやった。
「お前がたたらなきゃいい話だろ……。そもそも今日、俺様がケガをしたのは誰のせいだよ」
「そ、それはそうかもしれないけど……、でも、それだけじゃなくて、呪いは失敗したら、
呪い返しって言って、もっとひどくなって自分に返ってきちゃうんだよ。……下手したら、
死んじゃうことだって……」
多々里は視線を床に落とし、小さな声で続けた。
「あたし……、乃呂井が死んじゃったら…………いやだよ」
その言葉に、乃呂井の脈拍が、どくんと波打った。
多々里は、最近ますます呪術に嵌っていく自分のことを、心配して言っているのだ。
ただ、それでも、呪術をやめる気は、乃呂井にはない。
確かに今まで、呪い返しも含め、何度も危険な目には遭ってきた。
それでも、誰からも認められず、鬱々としていた自分に自信を持たせてくれたのは、他でもない呪術だ。
そして何より、多々里の力に対抗できる、唯一のものでもある。
今のところ負け続きではあるけれど、だからこそ、こんな中途半端なままでやめるわけにはいかない。
ライバルでもある多々里に心配されているようでは、それで気持ちが揺れているようでは駄目なのだ。
「だから、呪いなんて……」
「いやだって言ってるだろ」
訴えかけるような多々里の言葉を、乃呂井は突き放すように遮った。
「お前の方こそ、そろそろ俺様に手を貸す気になったらどうなんだよ。どうせ今のままイイ子ぶってたって、
お前にこれ以上、友達なんか出来やしないぞ」
乃呂井はいまだに、学校を支配するという野望を捨ててはいないらしい。
その言葉に、多々里は悲しげな顔を見せた。いくら諭しても、無駄だと悟ったのかもしれない。
そして静かに、しかしきっぱりと言った。
「……もうこれ以上、友達ができなくても、イジメられっ子のままでも、……あたしは、
悪いことにたたりを利用する気なんか、ないよ」
その返事は、乃呂井にはなんとなく予想できていた。
しかし、こちらにも譲れないものがある。悪の道を生きると、呪いに目覚めた日から決めたのだ。
「……ああそうかよ。だったらやっぱり、俺様とお前は敵同士だな」
「…………」
多々里はうつむいて、何も言わなかった。
これでいい。
優しさも憐れみも、呪術者にとっては、邪魔になるだけなのだ。
呪いに必要なのは闇の力、負の心。恨みや憎しみこそが原動力なのだから。
胸がどこか痛むのは、多分、気のせいだ。
「ねえ……、ひとつだけ、聞いてもいい?」
そんな時、多々里がぽつりと、乃呂井に言葉をかけた。
「……なんだよ」
全て着衣を済ませた乃呂井は、あくまで面倒臭そうに装って、多々里の次の言葉を促した。
「あたしの事、…………嫌いなの?」
それは、今の乃呂井にとって、最も返事に窮する問いだ。
本当の気持ちを、言うわけにはいかない。それは負けを認めたのと同じことだ。
しかし一方で、そんな今更な質問をしてくる多々里の鈍感さに、苛立たしく、切なくもなった。
本当に嫌いになれたなら、こんなジレンマを抱えなくてもすんだはずなのに。
「…………嫌いだったら、さっきみたいな事、するかよ」
乃呂井には、その答えで精一杯だった。
「そっか……」
それでも多々里は、先程まで寂しげだった顔を、嬉しそうに綻ばせた。
人から嫌われてばかりいる彼女にとっては、その言葉だけでも十分だったのかもしれない。
その顔をまともに見ることが出来なくなって、乃呂井は多々里から目をそらした。
もう抱かないし、触れない。
これ以上想いが深まってしまったら、いつまでたっても多々里には勝てない。
それは乃呂井の、呪術者としてと言うより、男としてのプライドが許さなかった。
これからは、今まで以上に呪術に身を入れよう。
誰もが恐れる呪術者になって、多々里を見返してやるのだ。
イジメられっ子である多々里の逃げ道は、自分の所にしかないのだと、気付かせてやる。
その時まで、多々里はただのライバル、正義の味方を気取っている、ただの敵だ。
乃呂井は固く、心に誓った。
そんな矢先だった。
一瞬だけ、なにか柔らかなものが、乃呂井の頬に、軽く触れた。
少し時間をおいて、ようやく、自分の頬に触れたのが、多々里の唇だったと気付いた。
「なっ……」
乃呂井は思わず自分の頬に手を当て、多々里の方を見やった。
多々里から何かをしてきたのは、初めてだ。
「あたしはね……」
多々里は、呆気に取られたままの乃呂井に、はにかみながら語りかけた。
「もし、乃呂井が、呪術をやめてくれたら、悪いことするの、もうやめてくれたら、
……きっと乃呂井のこと、…………大好きに、なると思うな」
「………………は?」
しばらくの間、乃呂井は呆けた顔で固まっていた。
その言葉の意味を、すぐには飲み込めなかった。
しかし理解できた、その途端、全身をめぐっていた血液が、一気に沸騰したような感覚を覚えた。
「な……っ、なっ、なに言って……」
頭が混乱して、二の句が継げない。
火が出るかと思うほど、顔が熱く、真っ赤になっていくのが、自分でも分かる。
それにつられてか、多々里の方も、しだいに頬が赤らんできている。
「あ、へ、変なこと言ってごめんね。じゃあ、あたし、これで……」
あたふたとドアに向かう多々里に、乃呂井ははっと我に返った。
このまま言い逃げされるわけにはいかない。
「いっ、言っとくけどな!俺様は絶対に呪術はやめないからな!!お前なんか足元にも及ばないような、
偉大な呪術者になってやるんだからな!!覚えとけよ!!」
乃呂井はとにかくがむしゃらになって、その後ろ姿に怒鳴りつけた。
しかしその台詞は、本当のところ、自分自身に言い聞かせたものなのかもしれない。
多々里は追われるように保健室から出て行き、ぴしゃりとドアが閉められた。
「くそっ!!」
乃呂井は乱れる気持ちを静めようと、布団をがばりと頭から被った。
ついさっき、呪術はやめないと誓ったばかりなのだ。
なのに、唇の触れた頬が、まだ熱い。
『大好き』という言葉が、頭の中でこだまする。
心臓は鳴り止む気配もないし、体の熱もしばらく引きそうにない。
別にあの言葉が嬉しかったわけでは、決してない。そんなはずはない。絶対にない。
生き甲斐である呪術をやめろといわれたのに、死ぬほど嬉しいなんて、そんな気持ち、
これっぽっちも起こるわけないじゃないか。
そうだ、腹を立てるべきなのだ。
ちっとも言うことを聞かず、それどころかつまらない言動で自分を惑わせようとする、あいつに。
そうでもしないと、今までの呪術者としての努力が、野望が、台無しになってしまいそうだ。
(明日からはまた、徹底的にイジメてやるからな……!!)
そうだ、邪悪な呪術者らしく、徹底的に卑怯に、狡猾に。
……ただし、泣かせない程度に。
憎むべきライバルに惚れてしまったことが、偉大な呪術者を目指す乃呂井の、
最大の過ちだったのかもしれない。
保健室のドアを閉め、廊下に出た多々里は、ほっとため息をついた。
くすりと笑みがこぼれる。
急に慌て出した乃呂井に、少し可笑しくなったからだ。
あの様子だと、多分明日からはまた、いつもの関係に戻ってしまうのだろう。
乃呂井の考えていることも、やっぱりよく分からない。そして罪悪感も、なくなったわけじゃない。
だけど、あの時、そしてついさっき、優しくしてくれたことを、もう忘れようとは思わない。
ちょっとずつだけれど、気持ちの距離は縮まってきている。そんな気がしていた。
「ああっ、多々里!こんなとこにいたのね!」
突然、聞き覚えのあるヒステリックな声が、多々里の耳をつんざいた。
おそるおそる振り返ると、悪い予感は当たった。
多々里イジメの第一人者、クラスメイトのヒガミが、鬼のような形相でこちらに迫って来ている。
「一体何してたのよ!あんたがさっきの時間さぼってたせいで、
今日はあたしが準備も後片付けもするはめになったんだからね!」
体育委員のヒガミは、自分の仕事を毎回、多々里に押し付けていたのだ。
「あ、ご、ごめんなさい。そ、その、用事があって……」
多々里はあせって言い訳を考えたが、元からヒガミは多々里の弁解など聞く気はないらしい。
「言い訳するんじゃないわよ。あんたはサボリだって、先生に言っといてやったわ。
きっと次は、たっぷりしごいてもらえるわよ」
多々里を脅かしながら、ヒガミは意地の悪い笑みを浮かべた。
「ふふん。もちろん、あたし達にもね。覚悟しときなさいよ」
不吉な捨て台詞を残して、ヒガミは愉快そうに去っていった。
この後、いつも以上にいびられるのは確実だが、何よりも今は、深く追及されずに解放されたことで、
多々里はほっと安堵した。
それも束の間、また後ろから、今度は野太い怒鳴り声が聞こえてきた。
「見つけたぞ神野ぉ!いくらソフトが嫌だからって、ズル休みをするなんて言語道断だ!」
「せっ、先生……!」
誰であろう、体育教師の後留古先生が、ずんずんと大きな体躯を揺らして多々里に近づいてきていた。
叱り飛ばされると思い、とっさに身を縮めた多々里だったが、先生は意外にも、同情的な言葉をかけた。
「まぁ、逃げ出したくなるお前の気持ちも、分からんではないぞ。
確かにお前は、本当にどうしようもなく下手くそだ。……しかしだな、真面目に頑張れば、
誰だってある程度は上手くなれるんだ。さぼるなんて、もってのほかだぞ」
「あ……、は……はい……。すみません……」
先生は、あまりにも運動音痴な多々里が、それを悲観して体育に出なかったと思い込んでいるようだ。
今の多々里には、むしろその方が都合が良かった。
……はずだった。
「そうだ、よし!神野、今日から毎日、放課後居残って特訓だ!!」
「え……、ええっ!!?」
先生の、思いもよらない無茶な提案に、多々里は度肝を抜かれた。
「お前が自信をつけるまで、俺がみっちり鍛えてやるからな!!」
すでにやる気満々の先生に、多々里が断るすべはなかった。
多々里は半ば呆然としながら、後留古先生のはりきった後ろ姿を見送った。
後留古先生は、いつも生徒の限界を考えず、必要以上に厳しい指導をするので、皆から恐れられている。
そんな先生に、これから毎日つきっきりの個人指導を受けるはめになったのだ。
「はあ……」
自分の教室へと足を運びつつ、今から気が滅入って、多々里は重いため息をついた。
毎回日が暮れるまで猛特訓を受け、疲れきってへとへとになっている自分の姿が、ありありと目に浮かぶ。
(放課後に毎日練習があるんじゃ、ヨッちゃんと一緒に、帰れなくなっちゃうなぁ……)
そういえば、見舞いを早く切り上げるようにと、よし子は言っていた。
その言いつけを思い切り破った代償は、思った以上に高くついてしまったみたいだ。
多々里は親友に対して、申し訳ない気持ちになった。
ただ、それでも、今まで乃呂井と過ごしていたことを、後悔する気持ちは、何故か起こらない。
よし子は確かに、大事な友達だ。おそらく今の自分にとって、一番大切な存在だろう。
一方の乃呂井は、どこをどう取っても友達とは言えない。
なのに何故か、乃呂井のことも少しずつ、大事な存在になっていくような予感がする。
よし子に対する『大好き』とは、少し違うけれど、
乃呂井のこともいつか、『大好き』になれる予感がするのだ。
その違いが何なのかは、まだ、よく分からない。
でも、このほのかな気持ちのあたたかさを感じているだけで、ついさっきまで重かった心が、
しだいに前向きになっていく。これからどんな目に遭っても、頑張れそうな気がする。
今はそれだけで、十分だ。
幸薄い日常に戻りながらも、多々里の足取りは軽くなっていた。
一方の乃呂井はベッドの中、いまだ落ち着かない頭で、必死に新たな嫌がらせの計画を練っていた。
純朴で鈍感な少女と、不器用でひねくれた少年の、互いの気持ちが通じ合う日がいつになるのかは、
まだ誰にも分からない。