カブキ団十郎が「三日」と読み、極楽太郎が「五日」と張ったのは白銀城崩壊直後の事である。一体何の賭けかというと、「戦国卍丸と絹がいつそういう仲になるか」という当人達にかなり失礼な代物だ。
この時から二日を経た今、卍丸達は秋芳洞を脱出する為の途上にある。
秋芳洞での戦いは意外過ぎるほどに呆気のない物だった。
この地で待ち受けていた根の将軍には目を見張るしぶとさがあったが、それでも魔城の主に比べれば強かさ(狡さ、でもある)に欠け、到底現在の卍丸達の敵とはならなかった。
暗黒ラン撃破後に三博士によって洞窟の通路のあちこちが封鎖されもした。しかしこれも今卍丸の目の前を歩いている百々地三太夫のお陰で突破に成功している。
早い話が卍丸は物足りないのだった。今一どころではない根の将軍に腑抜けた事後策(何も通路を封鎖などと手緩い事をせずに爆破してしまえばよかったのだ)ではそう思ってもある程度は仕方が無い。
これが根の一族の最後の抵抗と考えると、今までの方が余程気合が入っていたろう。三博士に余裕があった点への違和感も、そうした疑問に拍車をかけていた。
……三博士ではなく自分こそがもっとも緩んでいたのだと、ほんのすぐ後に卍丸は思い知る事になる。あの時三博士を即座に斬り殺していればああいう光景が現れるに至らなかったのではないか、と。
ぼんやりと物思いに耽りながら歩いている卍丸の背に何とも嫌な感じの視線が突き刺さっている。
今彼の目の前を絹と百々地三太夫がきゃいきゃいと談笑しながら先を行っているのだから、その正体は勿論カブキと極楽であった。いわくありげな視線の意味にも察しはつく。
百々地三太夫の長姉、花火。彼女と卍丸の関係はカブキ、極楽、絹の三人の仲間にも周知の事であった。勿論、この二人が何度となく体を重ねあっている事も。
絹と花火の仲はこれまで悪くはなかったのだが、それも白銀城を経た今では随分と趣を変える。この時から絹の卍丸への好意は熱烈な物へと変じたからだ。
そう、要は卍丸が女性関係で苦しむ所をカブキと極楽は楽しみにしているのである。カブキは当然のこと、極楽も中々に卍丸をからかう資格は無いのだが。
不思議な事に卍丸の目の前で話し込んでいる絹と花火の間にぎくしゃくしたものは一切無い。むしろ絹が明るくなる以前より格段に仲が良くなっているのではないかとすら見えた。
この事は卍丸の読み違いではなく、カブキ達にも確かにそう映っている。流石に事態が全く読めない卍丸とは違ってある程度の察しがついているが、それを教えてやるつもりは無い様だった。
前門の不可解な女達。後門の不親切な男達。戦国卍丸にはまだまだ世の中の事は欠片ほども分からない。
何にせよ、彼ら七人が人がましい瞬間を過ごせたのは秋芳洞までの事である。この後、戦国卍丸の時間は真の修羅道へと至る。
地獄とは正にこういった物だと確信させる光景が卍丸達の前に広がっていた。
鋼鉄城の窓から下を眺めやる。だが、そこに有る筈の王城、京の都の美しい景観が一変していた。
そこが都であった事を示すのは外周を囲う所々が崩れた防壁だけで、それ以外には何も無い。いや、在ってはならない物ならば、そこには満ち溢れていたのだが。
防壁の内側の中心部には、瓦礫を積み上げて出来上がったのであろうか、かなりの大きさの山が禍々しい迫力と共に聳えている。その頂上に、卍丸達をこの旅でもっとも驚愕させた存在が我が物顔で蠢いていた。
暗黒ラン、である。八本目が今こうして目の前に存在している事自体が混乱を誘うが、これまでの比ではないその巨大さ、また蠢動の激しさが否応無く事実を示している。
「ああ、これが本体なのだな」と何も言われずとも、言わずとも卍丸達は理解した。聖剣が存在しない今、何をもって対抗すれば良いというのだろうか。
だが、はっきり言ってしまえば都の町並みが無くなった事も、新たな暗黒ランが出現した事も、次の一事に比べればまったく以って些細な事であったろう。
実際、歴戦の戦士である戦国卍丸達を確実に絶望させたのは上記の事象ではないのだ。「それ」が無ければ、或いは闘志の沸き様もあっただろう。
京であった場所全てを浸すように、池が生まれていた。その池を浸す液は、紅い。
その液体の正体が何なのか、生死を掻い潜ってきた卍丸達が理解出来ない筈も無い。空中にある鋼鉄城にまで噎せ返るような臭いが上ってきているのだから。
血。眼下の京はその朱色に染まっていた。
不思議と怒りも哀しみも涌いてこず、訪れるのは只管の虚無だった。
立っているのも億劫になるくらい、今の卍丸達の心には確かな重さをもって絶望感が圧しかかっている。これまで連戦連勝を重ねてきた卍丸に、初めて根の一族は反撃に成功したのだと言えた。
勿論、ここで追撃を許すような優しい敵ではない。
血の京が現れてから、卍丸達の間に笑みなどの人間らしい温かみに満ちた感情が殆ど消えた。蜘蛛の糸の様にか細い光明を信じて、ただただ斬り進むだけの日々、だった。
その中で、戦国卍丸は花火を喪った。
「……極楽さん、何をしてるの?」
問いかけたのは絹である。今、彼女達は都を見下ろせる位置にある高野山山門近くの宿にて最後の休息をとっていた。
この日の日中、戦国卍丸は聖剣を完成させた。
八本目の暗黒ランが本物なら、こちらも正に本物の聖剣であり、恐らくは如何に抵抗が強大であろうと撃破には成功するだろう。だが、このままではどんなに事が上手く運んでも不本意な結果になる。
何故なら、花火が死んだ瞬間卍丸の目から輝きが消えた。今の彼は、最強ではあるかもしれないが、ただ敵を切るだけの剣士に過ぎない。
ジパング一のガキ大将という目標を、戦国卍丸は捨て去っていた。
自分を守って女が死んだ。しかも、それは心底惚れた相手である。この瞬間をもって戦国卍丸の少年時代は終わりに入った。
花火とは体から始まった関係である。惚れていたかどうかに結局生前の間に確信には至れなかった事が卍丸に深い傷を生んだ。失くしてから気付いた、などというのは不甲斐無さの極みであろう。
目前で花火が死んだ時、二番目に戦国卍丸の異変に気が付いたのは極楽太郎だった。
少年の体から何かが抜けていったのを感じたのである。「また俺は守れなかったのか、代わりになってやれなかったのか」と、深く自身を責めた。
最後に気付いたのはカブキ団十郎である。
吐き出すように自らの怒りを口にして思わず卍丸の胸倉を掴んだ次の瞬間、冷や水を浴びせられた様な感覚を覚えた。「オレのせいでこいつは怒る切欠を失ってしまった」と更なる悔恨に身を浸した。
絹は勿論真っ先に気付いていた。惚れた相手の事なのだから。ただ、卍丸の顔を見るのも、その心を推し量るのも、全てが怖かった。この時から、今ここに至るまで卍丸を正面から見据えていない。
夜が明ければ彼ら火の勇者は血の京へと攻め入る。何が起こるかなんて分かりはしない、いや、何が起こっても不思議は無いのだ。そのあらゆる可能性の中で、死という結果は当然大部分を占めるだろう。
そう思うと絹は居ても立ってもいられなくなった。自分には何も出来ないかもしれないけれど、せめて卍丸の顔をきちんと見てから明日に臨みたい、とそう思ったのである。
優れた異能者である彼女が、この時はその力に頼っていない。全てが無心のなせる業であった。
「おお、絹か。いやなに、珍しく良い月が出てたんでな。こいつと酒を飲んどった」
庭に無造作に座り込んでいる極楽がぽんぽんとある物を叩く。そこに在るのは地面に突き立てられた巨大な刀だった。
その刀は正に極楽太郎の相棒と呼ぶに相応しい極めて無骨な造りである。刀剣としての美しさなど微塵も感じさせないが、強靭さに関しては疑うべくも無い迫力があった。
極楽太郎は巨体である為に長らく十全に力を振るい得る武具を備える事が出来なかった。
防具はまだ良い。如何に巨躯であろうと彼に合わせた物を作るのは容易だったし、そもそもの頑健さがさして防具を必要としないからだ。その筋肉は正に鋼と呼ぶに相応しい。
やはり困るのは武器の方で、彼の怪力で振るわれると呆気ないほどに脆く敵ごと破壊されてしまう。下手な刀剣の類よりも日用具やまるで鬼が振るうような鉄棒等の方が武器としての体をなした。
つまりは極楽太郎は恵まれた体躯と膂力を持ちながら、ごく最近まで精々が七割といったところの戦闘能力しか持ち得ていなかったのである。
そんな彼がほんの一月ほど前に真の力を取り戻した。千年前に用いていた極楽の武具が倉敷に眠っており、しかも一切の損傷無く現存していたのだ。
巨大な刀も、体を覆う防具も、どれもが極楽が装着すると自然に見えた。在るべき形を取り戻した極楽の活躍については記す必要も無いだろう。
余談ではあるが、この日火の都にて極楽は自分の相棒を上回る刀を発見したのだが、これを持ち出していない。
「良い刀だ。だが、すまねえな。わしの相棒はこいつだけなんだよ」と優しく刀を撫でながら語りかける様子は、絹にはなぜか美しく見えた。
これは更に余談となるがカブキも絹もそれぞれに見合った武具を発見したものの、やはり都に置いたままにした。
出来に関しては疑うべくも無い(永い時間を水中に在りながら損ないが無いのだから、尋常ではない)のだが、最後くらいはこれまで共にした武具と共に在りたい、と思ったのであろうか。
「月? ……ほんとうに、綺麗」
見上げれば確かにそこに月が出ている。京の空はあの時からずっと暗雲に塞がれていたというのに、まるでそんな事など知らぬと言わんばかりのように気ままに、見事に照り輝いている。
そういえば空を見上げた事自体いつ以来だろう、と絹は思う。両親の死から白銀城で吹っ切れるまでにはそんな余裕は無かったし、悪夢が覚めてからも目まぐるしい日々であった。
ひょっとしたら何ヶ月ぶりかもしれない月の光は美しく、絹の決意を優しく祝福してくれているかのようである。
「そういえば、カブキさんはどうしてるの?」
ある程度素晴らしい月を堪能した絹はそうした疑問に気付いた。
普段カブキと極楽はしょっちゅう喧嘩をしているが、そのくせこういう酒を飲むのに絶好の機会の時には数十年来の友人もかくやと言わんばかりの気の合いようを見せる。
「……ん、カブキか。興が乗ったとか言って、帳面片手にどっかに行っちまったな」
ああ成る程と絹は合点がいった。カブキ団十郎はその密かな趣味に興じる事を選んだのだろう。
カブキ団十郎はこの旅の合間合間に日記を書く事を趣味としている。無論過酷な日々を送っているのだから執筆できる機会はごく稀であったが。
何度か絹はカブキが日記を書いている所を見た事がある。当時の彼女は感情の起伏に乏しかった為にカブキの姿に何も思う所が無かったが、今にして思えばそれは随分と奇妙な物であった。
なんと書きながらカブキはくすくすと笑い、或いは鼻をすすったりしていた。過日の事を思いだしては感情が高まっているのであろう事は疑いが無い。カブキ団十郎とはそうした人物だった。
縁側に腰を下ろし、しばらくの時間を極楽と共に月見を楽しむ。それはそれで充分に素晴らしい事ではあったが、今夜ばかりは他にしなければならない事がある。
「……わたし、そろそろ行きますね」
立ち上がって極楽に呼び掛けると、その表情の真剣さに絹は驚いた。卍丸やカブキと比べれば彼の精神的余裕は大した物で、常に悠然と人生を楽しむ態度を崩す事がない。
この一ヶ月ほどの殺伐とした日々の中で絹達がぎりぎりで人らしさを保てたのは間違いなく極楽太郎のおかげだった。
それ程の男の今この瞬間の深刻な表情。絹がこれからどこへ向かい、何を為そうとしているか察したのであろう。
「すまねえが、頼んだぞ」
という言葉に含まれる重さに極楽の切実さがはっきりと感じられるようだった。
極楽太郎は、卍丸が絹を救った様をその目でしかと見ている。少年への更なる敬意と共に、やはりこの二人は対となるべき男女なのだと確信した。なれば今、卍丸を救うのはやはり絹しかいない。
無論花火の事は承知しているし、卍丸の為に命を落とした事を思うと申し訳がないと思う心はある。しかし、だ。恐らくは花火も絹であれば許したのではないかと、そうも思えるのだった。
「はい、任せてください。わたしは卍丸の妻なんですもの、きっと大丈夫です」
かなり大袈裟な言葉を口にしているが、にっこりと笑んだ絹の表情に冗談の気配など微塵もなく、清々しいまでの自信だけがそこにある。
戦国卍丸がジパング一のガキ大将になると決めているように、カブキ団十郎がジパング一の伊達男であると宣言するように、絹の「卍丸の妻である」という自負は若さゆえの夢であろう。
しかし、往々にして幼稚な夢ほど純粋で強い。この三者の夢への姿勢の在り方は、枯れ切った(と自身では思っている)極楽にはひどく眩しく、ひどく羨ましかった。
夢に殉じた若者を極楽は何人も知っている。中には、或いは自分が関われば救えたかもしれない者も何人かいた。その悔恨は彼の巨躯をも押し潰さんばかりに大きく、重い。
ならばこそ、今この時を共にしている卍丸、カブキ、絹の三人だけは守りきりたいと思う。例えその事で千年間彼を支え続けた誓いが折れようとも。
ちなみに、絹は卍丸の前で自分が彼の妻であると宣言した事は無い。いやそもそも、それ以外の他人に対してもこうして口にしたのは初めてであった。
要は認識しているのは絹本人だけなのだが、宣告する意味も必要性も感じていない。そうした行為が他人にどう映るか、幼少から異能者として他人の反応を気にせざるを得なかった絹は充分承知しているからだ。
女のしたたかな計算と言ってしまえば確かにそうであろうが、反面、絹は仮に自分以外の誰かが卍丸の妻となろうとも、見捨てられようとも、騒ぎ立てるような事はしないとこれも固く決めている。
戦国卍丸に選ばれる。この事で生きる意味を取り戻した絹である。その卍丸が選んだ女であるなら、文句など言う事も無く納得してしまうだろう。
更に余談であるが、絹は卍丸との未来を異能で見知ろうとした事もない。
それはこれまで根との戦いに対しての暗い結果を示した予知を悉く卍丸が覆してきたからという事もあるが、やはり夢に対しての自負ゆえだった。
今の絹に卍丸と初めて会った時の今にもふっと消えそうな儚さはなく、日の光を受けて力強く輝く瑞々しさがある。
極楽に軽く挨拶をしてから卍丸の居る部屋へと向かう。ただ恋に恋する少女であったならその胸は早鐘を打っていただろうが、絹の心は本人も驚くほどに澄み切っていた。
妻であるならば、夫の前に座してその顔をしっかと見つめれば何もかもを理解するはずである。つまりは鏡のようでなければなるまい。
自身の心の平静に吉兆を感じ、それまでにも増して絹は自信に満ちて卍丸への元へと歩を進めた。
宿に入って以来食事すらもとらず、戦国卍丸は愛剣を目の前に掲げてひたすら一心に自身の剣法の完成形を案じ続けていた。
その姿は紛れもなく当代一の剣士としての気迫に満ち溢れている。しかし卍丸を知る者が今の彼の姿を見れば目を疑うほどに、らしくない。
卍丸、と呼び掛けて室内に一歩踏み入っただけで絹は泣きたくなった。こんなのは卍丸じゃない。
振り返って優しく微笑んだ卍丸を見て更に泣きたくなる。こんなのは断じて卍丸じゃない。
決壊しそうな感情を必死で我慢して、端座している卍丸の前に腰を下ろし、姿勢よく正座する。そうして、一月程ぶりに惚れた男の顔を真正面からしっかりと見据えた。
そこには何も無かった。絹の目の前には確かに戦国卍丸がいるというのに。
目の前の青年には一人の人間としての完成された風格が漂っていた。しかし絹が好きになったのは、カブキや極楽とふざけあっては笑い、彼女にぎこちないながらも真摯に接してきた少年である。
哀しかった。だがそれ以上に、奇妙にも絹は感動を覚えていた。戦国卍丸をここまで変貌させた百々地花火に対してである。
愚かにも「自分が死んでも卍丸はこうなっただろうか」などという考えがよぎるほどに、死んだ花火への強い感情が絹の中に溢れてくる。それは妬心等では決してなく、本当に純粋な憧憬だった。
やがて絹の瞳に涙が満ち、すーっと一筋を描いて流れ出す。嗚咽もなく、ただただ涙は静かに溢れ続けた。
ぐらりと卍丸の体が揺れる。この一月、彼の心を抑え続けていた固い岩壁にひびが入ったような、そんな錯覚を彼は感じていた。
「どうして……泣いてるの?」
こう問うた瞬間、卍丸は少年の日々へと再びその身を戻したと言えるだろう。他者、それも生者への興味を再び抱いた事がその証拠である。
急速に何かが卍丸の中で湧き上がってきていたが、それを自覚する事も忘れて泣き続けている絹の顔をじっと見るしか出来なかった。
「泣きたいから泣いている」
と言うような事を途切れ途切れに泣きながら絹が口にする。この頃にはさすがに泣き声が伴っていた。
もう駄目だった。
涌きあがってくる感情を抑えつける事はぎりぎりで可能だったかもしれない。そうすれば、卍丸はまた一つ大人へと近づけたであろう。
だがそもそも、卍丸に冷静な思考能力は無くなっていた。
気が付けば卍丸は泣いていた。顔をくしゃくしゃにして、洟さえも垂らしながら。絹と二人して幼児のようにわんわんと泣く中で、花火の死を初めて悼み悲しんだ。
涙が枯れ果てた荒野の様だった卍丸の心に潤いを取り戻し、元の生命の輝きに満ちた草原の様な心へと戻していく。
潤った心と反するように涙はやがて枯れるかの如く引いていき、それと同時に二人ともゆっくりと落ち着いてきた。
いくら貸し切り状態の宿といっても主人が顔を出しそうなほどに泣き声を上げていた筈なのだが、今に至るも声をかけてきたり足音さえも無い。
随分と心得た主や従業員であったのか、それとも極楽あたりが手を回したのであろうか。絹は何となく後者だろうなと思った。
「……ふふ、随分泣いちゃったね」
照れてはにかみながら、そんな事を口にする。卍丸もやはり恥ずかしいのか鼻の頭を掻いていた。
「うん。……こんなに泣いたの、おれ、久しぶりだよ」
二人とも既に満足したような、本当に心地良い状態にある。だから、いつもの様に部屋を別にしてそれぞれで就寝すればいいわけなのだが、今この瞬間がどうにも得難く思えて、少しでも一緒に居たかった。
卍丸にとって絹とは常に高嶺の花であった。彼女は少数の異民族のとはいえ歴とした高貴の身であり、片や卍丸は山村生まれの山猿に過ぎないのだから、この認識は至極当然であろう。
白銀城で少しその距離が縮まりはしたが距離の変化がむしろ彼には怖く、出来れば一定の距離を保ち続けたいとすら考えていた。まさに恋ゆえの逡巡なのだが、花火がいた事でこれを自覚するには至っていない。
しかし、今は確実に二人の距離は零である。今まで抱いていた恐怖が馬鹿馬鹿しくなるほどに、絹への愛しさが募っていく。
「そろそろ寝ようか。明日は、その……最後の戦いになるだろうし、しっかりと寝ておかないと」
どうにか絹から顔を背けて理性を口にするが、それが本能とは極めて離れている事に卍丸自身驚いていた。とてもではないが本心を口にしたとは言えない。
ただ、本心とは性欲であるかと言えば、実はそればかりでもなかった。では他に何が含まれるというのかと問われれば卍丸にも不明瞭であったが。
とにかく、ただそばに居るだけで酔ったような気分(ちなみに、卍丸は酒を殆ど飲んだ事がない)になっている。
絹を抱きたい。強くそう思う。しかし同時に、手折りたくないとも思っている。この矛盾めいた感情。
それが吹っ切れたのは、名残惜しさに負けて絹の顔を今一度だけと振り返った時だった。
変わらず自分を見続けている絹を見た、たったそれだけの事で、卍丸の理性は決壊した。
押し倒すような勢いで絹の唇へと自身のそれを押し当てる。自然二人とも身を横たえ、逃さないとばかりに絹を抱きしめる卍丸の腕に力が篭った。
少しでも拒む素振りを絹が見せたなら、その瞬間卍丸は飛び退いただろう。そして、恐らくはその後の生涯で決して彼女を抱こうとしなかったに違いない。
しかし今、卍丸の下の絹は、愛しい男の初めて見せた激しい情欲に身を任せ続けている。身を固くせず、震えも起こさず。
健気にも卍丸の背へと腕を回し、きゅっと抱きしめる。これが効いた。奇跡的な按配の冷や水が卍丸にかけられた、といった所であろうか。
要は点ってしまった情欲の炎は、勢いこそ弱まりはしたが、消えてはいない。
「……ごめん、ちょっとがっついちゃった」
これまでの二人の女性との同衾において一度として最初から本能のまま突っ走った事の無い卍丸である。がっついたのはこれが初めてなのだから、本当に「ちょっと」だったのか本人にも疑問だった。
考えれば考えるほどに(ろくに頭は回らないのだが)、既に充分以上に昂ぶっている自分に卍丸は気付く。今初めて女を抱くかのような興奮に包まれていた。
もっとも、弁天の時は雰囲気に流され飲まれたようなものだし、花火の時はやむを得ずという形で始まったようなものだったのだから、自らの本能のままに抱く事になったわけではない。
相手の意思を確かめる事すらせずに、ただ抱きたい。卍丸にそう思わせたのは絹が最初で最後だった。
「ちょっとびっくりしたけれど……だいじょうぶ」
頬に朱色が注して一層その美しさを増した表情の絹。吐息も僅かばかり荒いでいるのか、卍丸を許す言葉に掠れが感じられた。それが、ひどく扇情的である。
「ほんとうに、ごめん」
謝りながら、絹の額にかかった前髪をどけるように優しくそっと撫でる。くすぐったいのか、照れくさいのか、それとも嬉しさを示すためなのか、目の前の少女は見事な笑顔を咲かせた。
「気にしないで。卍丸とこうしてることがわたし、嬉しいの。あなたがわたしを求めてくれるのなら、何だって耐えられるわ。だから、卍丸の好きなように、して」
言葉こそ健気であるが、絹の表情にそれは無い。卍丸への確固たる信頼がそれを纏わせないのだろう。ここまで言わせて退くほど、卍丸は野暮天ではない。
「……わかったよ。今から絹を……抱く」
力強くそう宣言した卍丸の頼もしさ。絹はまさにそこに惚れたのである。少女の心は歓喜の極みに達した。
布団へと移動し、二人衣服を落として生まれたままの姿になった。この時ですら震えを見せない絹の度胸は大したものである。内心そこに感心しながら改めて絹に覆いかぶさり、その裸体をさっと眺めやった。
清楚。その一言に尽きた。女体としての起伏はとてもなだらかで幼さをぎりぎりで脱却している程度のものだ。しかし、胸の膨らみにも腰周りの肉付きにも見る限りには固さはなく、優しげな柔らかみを感じさせる。
秘所上部の陰りもひどく薄く、殆ど無きに等しい。何もかもが絹らしくて、ただただ美しかった。
思わずごくりと卍丸は唾を飲む。見るだけで満足してしまうような絹の裸体に自分はこの先唇を這わせ、掌で覆い、自身を差し入れる事になる。その感動。
どこか使命感にも似た衝動に動かされて、それでもはっきりとした意思の元にゆっくりと絹の唇を奪いに近づいていった。
形良い唇のしっとりとした感触。
(ああ……すごい)
絹の唇と自分の唇が合わさっている。たったそれだけの事で、有頂天に達するようであった。彼女も同じ心境であったのか、唇を話してその顔を見れば、本当に嬉しそうな笑顔を卍丸へと差し向けている。
絹も同じなのだと分かれば何度でも口づけを交わしたくなり、実際数える暇さえ惜しいくらいに合わせ続けた。
舌は入れない。入れてしまえば捕らわれてしまうのが分かりきっていたから。たとえ愛撫が最小限になろうとも、早く絹と繋がってしまいたかった。
穏やかな、しかし若い瑞々しさに溢れた膨らみにそっと手を置く。「あっ」という声と掌に感じる鼓動が絹の初めての心の揺らぎを卍丸へと知らせるようだった。
少しでも安心させたいという卍丸の気持ち通りに、絹の胸を撫で擦る動きはひどく優しい。揉む事さえ躊躇われる。その頂に指を這わせる際にも細心の注意を少年は払った。
「うっ」
絹の乳首は小さいながらも健気にその存在を誇示している。ひどく可愛い。卍丸の小指の先の半分ほどしかないそこが、嬲られるのを待っているように見えた。
喘ぎとも怯えともつかない声が絹の口から吐かれる。それをもっと聞きたくて、固くなった鴇色の尖りを何度も何度も擽ってやった。
いつしか絹の首筋に押し当てられていた唇を胸の丘陵へと下げていく。その柔らかさに酔いながら、ひたすらに頂上へと。時折は舌で乳房をくっと押し、その柔らかさを楽しみながら。
つんと立ったそれの感触を下唇が感じた刹那の後、優しく両の唇で摘む。そうして何度か固さを確かめるように唇だけで甘噛みをしてから、ひたりと舌を押し当てた。
「あ」
微塵たりとも動いていないのに、ただ当てられているだけで絹は心地良さを感じている様子である。この程度で満足してもらっては困るとばかりに、卍丸の舌は捕らえている獲物の蹂躙を始めた。
くりくりと舌で転がせばその度絹の体に震えが走り、優しく吸ってやればその度我慢しきれない悦びの声を少女があげる。楽しいというよりは、堪らなかった。
背中を微かに幽かに撫でていた右手をさっと秘所へと走らせると、そこはもうしっとりと湿りを感じさせている。
「いやぁ……」
卍丸の指は自然に秘所の突起、琴弦に触れそれを優しく擦っていた。その性技で何も知らぬ無垢な少女を乱れさせる悦び。湿りは潤いへと転じていく。
表情、声、身体の震え。ありとあらゆる絹の痴態が卍丸を追い詰め、瞬間、少年の我慢は限界に達した。
「絹……」
音にしてたったの二文字を口にするだけでももどかしい。早く、早く一つになりたいと卍丸の身も心も咆哮をあげていた。
嘗て無いほどに、卍丸のそれは猛っている。獲物を前に涎を垂らす狂犬のようでさえあった。醜悪ではあるが、それ故に強烈に生と性をを感じさせる。
切羽詰った恋人の表情で考えるまでもなく察したのであろう。慎ましげに両の脚をゆっくりと開き、笑顔と共に絹は卍丸へこくりと頷きを返した。
ゆっくりと、決して止まる事無く、卍丸が絹の内部へと侵入していく。途中、一際狭く閉じたような箇所が卍丸を阻んだが、断固とした意思の前にそれも儚く破れた。
「うっ……」
破瓜の瞬間だけ、さすがに絹が呻き声を漏らす。必死に笑顔を崩すまいとしている様がいじらしくて、卍丸は泣けそうになった。
精神的には二度目のようなものだが肉体的には一度目なのだから、絹の痛みは当然だろう。身も心も一つの契機を卍丸によって迎えたという充実感がなければ、泣き叫んでいたかもしれない。
やがて卍丸が絹の奥へと辿り着く。あつらえたようにぴったりと二人の秘部は一致していた。ぐいぐいと自身を絞める絹の動きに、卍丸はきつさと心地良さという相反する二つの感覚を楽しむ。
女を知らないガキでなくて良かった、と卍丸は思う。男を迎え入れる体にぎりぎりで到達している絹である。何も知らぬ頃であったならただ傷付けるだけだっただろうから。
動きたい、貪りたいという気持ちを驚くほど冷静に支配下に置けている。卍丸の背中に回された絹の両腕の健気な力み、破られ押し広げられる痛みを知らせる瞼の震えが消えるまでは、ただただ待ち続ける。
「絹……」
何の意思もなく、いや、ただ愛しくて、自分の下で可憐に震えている少女の名前を呼ぶ。その囁く様な卍丸の声が柔らかく絹の心を打ち、体をすっと伝って中にいる彼を喰い絞めた。
「くっ……」
絹の不意の攻めに、今度は卍丸がたまらず呻き声を漏らす。生娘のこわばりに加えての、天性の締まり。痛みにも似た性感に少年は当然とさせられる。
「絹……」
先程と違ってどこか苦しそうで、けれど心地良さそうな卍丸の声。事ここに至れば絹にも卍丸がどうやら自分で心地良くなっているらしいことに気付く。
嬉しい。と言うより、楽しい。泣き出しそうでさえある卍丸の表情が可愛くて仕方がない。じんじんとした痛みは依然残っていたが、こんな顔を見せられては受け入れてやるしかない。
「動いていいよ、卍丸」
と、はっきりとした声で告げる。瞬間嬉しそうな顔をした卍丸だったが、刹那の後にはきりりと表情を引き締めて神妙な顔付きになった。
「……大丈夫? 絹」
こうした事は何度となくあった。どれほどの回数、絹は卍丸に気遣われたことだろう。礼も謝意も返さなかった当時の自分への不甲斐なさが少女を悔恨で焼く。
今こうして卍丸に抱かれる事で帳消しになるとは思わない。また、帳消しになったとしても卍丸と一緒にいたい。これからもずっと、ずっと。
「私はいいの。卍丸がしたいようにしてくれれば、それが一番嬉しいから」
絹がにっこりと微笑む。彼女のこんな顔を見るようになったのはごく最近だ。出会って以来ずっと卍丸は絹の笑顔をを思い描いていたようなものだったから、何度見ても嬉しくなってくる。
我慢しているし、させてしまうのはわかりきっていたが、もう躊躇はしない。絹との繋がりに、卍丸は溺れ溶け込んでいく。
ゆっくりと押し入れ、ゆっくりと引き抜く。一度の往復でさえ酔い、二度三度となれば更にそれが増す。
──ああ、凄い。
と、卍丸は絹の胎内のあまりの心地良さにただただ陶然としていた。
進む時に迎えてくるのは、柔らかな体温と、しっとりとした締め付け。それらがゆるゆると卍丸を追い詰めていく。一つになれたという絹の歓喜が伝わってくる。
退く時に追いかけてくるのは、烈しい蠢動と、ねっとりとした締め付け。それらがじりじりと卍丸を追い詰めていく。一人にしないでという絹の気持ちが伝わってくる。
卍丸は攻めている、筈であった。しかしその一挙一動は優しく受けとめられ、包み込まれる。無論傷付けないように、痛ませないようにという注意を忘れてはいないが、その必要がない程に馴染んでいるようだった。
ほとんど崇拝の対象ですらあった少女に己の欲望を突き立てる、その達成感と背徳感。初めて女を知ったときを軽く上回る凄絶な快感に卍丸は溺れていた。
絹が感じているのはやはり苦痛ばかりである。その痛みを感じているという点に関してだけは、唯一残念がるような感想を絹は覚えていた。
それ以外は、ただただ嬉しい。
こっそりと目を開けて卍丸を盗み見れば、戦闘中でも見た事のないような真剣な表情で動いている。男の人って大変なんだなと絹は思う。
卍丸は汗までかいて、それが絹の胸の膨らみへとぽたぽたと落ちてきている。この運動量に見合うだけの快楽を自分に感じてくれているのだと思うと嬉しいのだった。
まだ勝手は掴めないが、時折自分のそこが時折蠢いてしまうと卍丸がたまらず呻くのも楽しい。いずれ自在に操る事が出来るようになればもっと楽しくなるのだろうかと、少女らしい純粋な興味が湧いてくる。
感情が肉体を凌駕する、という事はある。絹の身体は歓喜から生じた熱に酔い、次第次第にそれが錯覚ではない確りとした悦楽へと変じつつあった。
不思議なもので、快感が生じてきている事が絹を恐怖させていた。
無論自分は淫らなのだろうかなどというものではなく、こんなに幸せでいいのだろうかという、惚気のような恐怖である。申し訳ない、というようなところもあっただろう。その対象だけは明白であった。
言うまでもなく、百々地花火に対してだ。
白銀城崩壊の日の夜。花火は絹に謝罪に現れた。気が済むのならば刺して頂いても構わないと小刀を前にして、だ。花火が泣く様に演技はなく(絹を誤魔化すのは至難)、真実済まないと思っているようだった。
面食らいはしたが、絹には妬心など微塵も無いので易々と花火の謝意を受け入れた。花火と卍丸の関係は自分と出会う前からなのだから理解も納得もしているからである。
そもそも絹と花火が惚れた相手は戦国卍丸だ。一人や二人の女の想い程度、平気で背負うくらいではないと困る……と絹は思っている。
何も同じ男に惚れた同士、争う事も無いだろう。
大体そんな内容を花火に話した所、最初は唖然としている様子だった。しかし絹が本気らしいと知ると安心したようで、次第に笑顔を見せ始めた。この夜以来、絹と花火は親友になったと言って良い。
その親友が亡くなった事を初めて悼んだ夜に、こうして卍丸に抱かれている。痛みがあったうちは後ろめたさを感じる事はなかったというのに、一旦心地良さを覚えてしまうともう駄目だった。
恐らくは卍丸も同じ気持ちなのだろう。躊躇っているような、苦しんでいるような表情をしている。
不思議なものでお互い花火に対して後ろめたさを覚えていると知った瞬間、面白いように二人の苦悩は晴れた。晴れたというよりも共犯者が見つかったといったような心境だったろうか。
ともあれ、消えかけてさえいた劣情の火は再び灯り、卍丸と絹を酔わせていった。
絹の身体から生娘特有の固さはとれたというのに、尚きつい。つまりは生来のものだという事だろう。自身を絞られる感覚に卍丸は呻く。
卍丸が圧迫感を覚えているということは、絹もより自身を穿つ物を感じているということに他ならない。その逞しさに絹は喘ぐ。
鈍痛はまだ少し残っていたが自分の体内を激しく擦る卍丸がとても気持ちが良くてたまらない。
未知の体験だというのに、絹には一つの高みがすぐそこに迫っていることを自然と理解していた。そこへ卍丸によって導かれる悦び。
卍丸に出会い抱かれた事が嬉しくて、絹はしっかりとその背中に腕を回して抱きついた。
卍丸は、自分は戦国卍丸なのか、それとも絹なのか、そんな事も分からなくなるほどの愉悦に溶けている。
一月ぶりの女体である。手慰みさえしてこなかったのだから、今なお吐精を耐えられているのが不思議ですらあった。まして相手は憧れていた絹だ。自身の忍耐に、子供っぽい誇らしさが卍丸に湧く。
しかしそれもいよいよ限界だった。ますます潤み蠢く絹の絡みの前に、放出の予感で腰が震える。それはもう数瞬ほどの先でしかなかった。
ここぞとばかりに絹を貫く動きを小刻みに加速させる。黙って何かを待つのは我慢ならない性分だからだ。ぎりぎりまで抗い続け、そして突き抜ける。それが戦国卍丸だ。
最後の一突きを絹の体奥に届かせた瞬間、卍丸は弾ける感覚に灼かれた。これまでを遥かに上回る絹の蠢動に捕らわれながら。
絹の絶頂も卍丸と同時であった。自分の中に当たってくる卍丸の体液の勢いと熱に追い上げられながら。
強烈な快感が残す余韻はただただ心地良い。最後の一滴までをも吐き出し終えてぐったりと崩れ落ちた卍丸を抱き締め、絹は今この時を存分に満喫していた。
「……しちゃったんだね、わたしたち」
「……うん、しちゃった」
ぼんやりと二人呟く。別に後悔してのことではない。お互い一つの夢が実現した感慨がそうさせたのだろう。
反応したのは絹の方が先で、ひくりと蠢いたそこに卍丸は危険を感じた。
「うっ……やば」
と急いで絹から自身を引き抜く。様々な体液に塗れていたが、何より目立ったのは赤い色だった。そのことで先程までの行為が思い返され、ますます兆していきそうだった。
「卍丸? その……私はいいよ?」
「ぶっ!」
あまり冗談を言わない絹である。この発言も本気でのものだろう。本当ならば思う存分甘えたい卍丸だったが、今夜ばかりはそうもいかない。
何せ、朝になれば最後の暗黒ランへと挑まねばならないのだ。まさか絹を抱き疲れて失敗したなんて事になったら目も当てられない。
この時初めて卍丸は身勝手な怒りを根の一族へと感じていた。義憤に狂うよりは、情けない今の彼の方がよほどそれらしかっただろう。
「そう……残念」
卍丸がどうにか事情を説明し終えた後での絹の返事である。全くもって卍丸と思いを同じくしていた。
とにかくいそいそと身支度を整え、絹を寝室へと帰す。今夜くらいは一緒に寝ても良さそうなものだったが、そうなるとカブキや極楽が寝る場所がない。
意外に聞き分けよく納得してくれた絹が部屋から消えると、心地良い疲れが卍丸を睡魔へと誘う。逆らう暇さえなく、卍丸は布団へと崩れこんで眠りを貪った。
「起きやがれこの馬鹿野郎!」
「いてっ!」
蹴飛ばされた痛みで跳ね起きると、カブキが仁王立ちをして卍丸を見下ろしている。怒っているような笑っているような、妙な表情だった。
その向こうでは極楽がただただニヤニヤしている。ちょっとむかむかする笑みだった。
「痛いなぁ、まったく。何すんだよカブキ」
元々寝起きは良くすぐに頭もはっきりとする卍丸だが、蹴られる理由にはさすがに想像がつかない。最悪の目覚めである。
「うるせぇ。今日はいよいよ決戦だってぇのに、前の日に女としっぽり楽しんでやがる馬鹿ガキをオレ様が起こしてやったんだ。ちったぁ有り難く思いやがれ」
「ぶっ! な、何でそれを」
「ケッ! そいつを教えてやるほど優しかねぇんだよ、オレ様はな。ふん、馬鹿馬鹿しいったらねぇや」
思う存分悪態をつきながらカブキが部屋を出て行った。卍丸とは逆に寝起きは不機嫌な男だが、今日のそれはいささか事情が異なるようだった。卍丸には皆目理由が分からないが。
「何であんなに怒ってるんだろ、カブキ。……極楽は知ってる? 理由」
「おう、知っとるぞ。ありゃあな、妹に男が出来た兄貴の心境ってところだ。ま、アイツは絹を妹と思っとるようだが、絹の方でもカブキを弟と思っとるだろうがな」
どちらかと言えばカブキの方が絹の弟だななどと頻りに頷いている極楽だったが、卍丸にとってはそんな事はどうでもよかった。
「その、あの、二人とも、知ってるの? おれと絹がその」
「おう。寝たんだろ。気付くに決まっとるだろうが」
「い、いや、えーと、それはそうなんだけど。……も、もしかして、聞こえてた、とか?」
「わしもカブキのバカ野郎も戻ってきたのは明け方近くだ。それまでは寄ってすらいねえよ。お前や絹のよがる声聞きたがるほど野次馬じゃねえしな」
「よ、よがるって」
冗談は言うが嘘は言わない極楽であるから、卍丸と絹の痴態を見ても聞いていないというのは事実だろう。ならば何故そういう関係があったのを知ったのか、これがわからない。
「何でってそりゃお前、絹の顔見ればすぐにわかるだろうが」
「へっ? 顔?」
「おう。……ちょうど絹が来たみたいだな。」
すすっと障子を開いて絹が入ってくる。すっかりと身支度は整えられており、朝食は皆でとるという事で来たらしい。いつもの絹である……はずだったが、強烈に印象が違っていた。
出会った頃の儚げな美しさ。悲しみから吹っ切れた後の咲き誇る美しさ。そのどちらをも上回る今の絹の美貌。開いた口を塞ぐ事すら忘れて、卍丸は見入るしかなかった。
成る程、支度中に極楽やカブキは先に絹に出会っていたのだろう。今の絹を見れば何があったのかなんて言われずともわかるというものだ。
惚れた相手と身も心も結ばれるという事が女の美しさをここまで咲かせるとは。花火の時でも体験していたはずなのだが、改めて驚愕する卍丸であった。
「……おい。気持ちはわからんでもないが、突っ立っとらんでまずは座れ」
卍丸と目が合うと、絹が頬をぽっと染めてやや俯く。極楽の注意の声は耳に入っていたが、その程度では卍丸の金縛りは解けない。下手をすれば息さえ忘れてしまいそうである。
「ケッ。ったく、こんなガキに絹をくれてやらなきゃなんねぇとはな。ま、絹が幸せだってんならいいけどよ。おら、どきやがれ」
いつの間にか戻ってきたカブキにまた蹴飛ばされて、卍丸は一瞬だけ冷静さを取り戻した。本当に一時的なものでしかなく、飯の味さえもわからないくらい、やたらと絹に見蕩れ続けたのだが。
「……おやおや、二人して幸せそうな顔しちゃってまぁ。困りますねぇ極楽さん」
「……えぇえぇ、我々はまるっきり邪魔者みたいですねぇ。困りますなぁカブキさん」
「カブキ!」「極楽さん!」
普段はしょっちゅう喧嘩しているくせに、こういう時だけはやけに仲が良いカブキと極楽。卍丸と絹が仲良く二人して突っ込むも、それだけで照れくさかったり嬉しかったりする。
最後の決戦の日だというのに戦国卍丸達四人はいつもの朝を、そして久しぶりの朝を、こうして過ごした。この旅以来、最も過酷で最も長い一日。それを常態で迎えられた今の彼らに敵は無い。