「…はぁ、はぁ、急がなくちゃまた那須乃さんに怒られちゃうよ…!」  
 
そうぼやきながら、夕方の校庭を走る青年が一人。那須乃美紗紀の露払いを務める若林誠だ。  
彼はただいま書物を借りるため、全力疾走で学校内にある書院に向かっている。その理由はふたつ。  
もう少しで書院の閲覧時間が終わること。  
まあ、それだけならまた明日行けばいいだけなのだがそうにもいかない。  
もう一つの理由、その那須乃に書物を借りてくるように頼まれており(どちらかと言えば命令だが)、  
今日中にその頼まれごとを果たさなくてはいけないのだ。  
なぜそうしなければならないのか。普段の若林と那須乃の様子を知るものなら誰でも理解できるだろう。  
さしずめその状態は、女王様と下僕。下僕が女王の命令を破る道理などない。  
 
「はぁ、はぁ…っ! 良かった…まだ開いてた。 ええと…確か頼まれてたのは…」  
 息を切らせながらガランとした書院内をゆっくりと歩く若林。元々この書院はあまり人の出入りが少ない。  
 古典や専門書などまあそういうお堅いものばかりしかここにはないのだ。  
 以前、彼のクラスメイトである一之瀬 伽月もつまらないなどと言っていた。  
 あまり普段若林も此処の書物などは読まないのだが、ここ自体に流れる独特の静かな空気…とでも言えばいいのか。  
 それは彼にとって好ましいものであった。  
「確かこの辺りだったと思うけど…あれ、鳳翔さん?」  
「え……あ、わ、若林か!? な、なんだ? もうすぐ閉館時間だぞ?」  
 急に声をかけられて振り向く女性。そこには本を読みふけっている鳳翔凛の姿があった。  
 鳳翔凛。月詠学院の生徒であるが、現在その月詠学院が混乱に陥ってしまっているため、一時此方で身を預かっていることになっている。  
 彼女自身については、その名が現すように凛とした人物だと言えよう。いつも毅然とした態度で振る舞い、己が信念を曲げることなくその刀を振るう。  
 その姿は男の若林から見ても、カッコイイと思えるほどである。いや、いつも情けない彼だからこそ余計にそう思えてしまうのか。  
 また、その腕も確かで、まさに男顔負けといったところだろう。  
 
「あ、僕は少し那須乃さんに頼まれごとをされてまして。 …で、鳳翔さんこそ、一体何の本を読んでいるんですか?」  
 若林が興味津々と言わんばかりにその本に手を伸ばすが、彼女は咄嗟にその本を後ろに隠し明らかに動揺した様子で首を振った。  
「な、なななんでもない!」  
「…そう言われると気になります。えいっ!」  
「あ、何をするんだ! や、やめろッ!」  
 こう見えても、男、若林。抵抗する彼女の手首を少し力を込めて握り、その本を取り上げペラペラとめくった。  
 だが、同時に彼の顔もどんどん赤く染まっていく。  
「これって……官能小説?」  
 若林はふたつの疑念にとらわれた。  
 一つはどうしてこんなものが此処にあるのか。まあ、何かしらの手違いであることは間違いなさそうだが。  
 もう一つはどうしてこんなものをこの人が読んでいるのか。  
 彼は再び彼女に目を戻した。彼女は若林以上に顔を真っ赤にさせ、そっぽを向いている。  
「あ、あの……なんだか、すみません…」  
「わ、分かっている…侮蔑したのだろう。こんな本を読んで、私は……ッ!」  
 すると堪えきれなくなった涙がこぼれ、次第に泣きじゃくりはじめ、今度は若林が慌てる番となった。  
「あ、ちょ、その…! とりあえず、場所を変えましょう! ね?」  
 いくらひとけが少ないとはいえ、人がいないというわけではない。  
 こんなところを目撃されれば、どう考えても若林が凛を泣かしているようにしか見えない。  
 
 そんなわけで場所を変えた若林たち。夕日も沈み、彼らは昇竜の滝へと来ていた。  
 昇竜の滝。龍神の住む滝として有名であり、今なお修験者たちが滝に打たれる姿も見られる。  
 が、そんな話は日中の話で、流石に夜にはその姿も見えるはずもなく、  
 滝が落ちる音以外、辺りは静かだった。  
 でそこにいるふたりもなかなか話すきっかけが見出せず、困っていた。  
 とりあえず、と若林は紙袋の中からジャンクフードの類を取り出す。  
「えーっと、その、お腹が空きません?  
 奥津小路の店で買ってきました。……どうぞ」  
「………」  
 凛は無言でそれを受け取るが、受け取るだけで食べようともしない。  
 そしてまた降りる沈黙。  
 
 どうしたものか、と困り果てた若林だったが、ようやく意を決し彼は潔く彼女に謝った。  
「僕…馬鹿なコトをして…本当にごめんなさい!」  
 すると、凛は驚いた様子で目を見開き、彼をしげしげと眺めた。  
「…どうして、あなたが謝る必要がある?」  
「そ、それは…僕が無理やり貴方から本を奪わなかったら、こんな…」  
 しょぼくれた顔を地に向けて、自己嫌悪にさいなまれる若林。  
 しばらくまた沈黙が続いたが、ようやく凛がぽつりぽつりと告白しはじめた。  
「…あの本を手にとったのは偶然なんだ。最初は私もすぐにそれを閉じようとしたんだ。  
 けれど、私は…このようなことに免疫がなくて、だな…。  
 これが伊織ならば、笑うのだろうが…その、恥ずかしい話、のめりこんでしまって……」  
 それ以上は言葉にすることはできなかった。凛の顔は羞恥で真っ赤になってしまっている。  
 そんな彼女の顔を見て若林は、初めて可愛いと思った。  
 今まではどこか敬いの念もあり、女というよりもそういう性別を超えた存在として見ていたのだが、  
 これほど彼女が愛しく思えたこともなかった。  
 と、同時に自分のしでかした罪の重さもとてつもなく感じていた。  
 
「…本当に、ごめんなさい」  
「………」  
 しばらく黙っていた凛だが、どこか意を決したような顔をすると真正面から若林の顔を覗き込み、口を開いた。  
「…なら、一つ頼まれごとをしてくれないか?」  
「えっ? あ、は、はい!」  
 何を頼まれるのかは分からないが、それで許して貰えるのなら安いものだ。若林は思わず返事をしてしまう。  
「男子に二言はないな?」  
「は、はい…」  
 どこか切羽詰ったような迫力ある顔で確認する凛に、若林は少しおずおずとなるが頷く。  
「な、なら…わ、私の体の火照りを…鎮めてくれ!」  
「え……あの、それって…」  
 彼女の言葉にピシッと麻痺したかのように体が固まってしまう若林。  
 
「う、うるさい! うるさい! 私とてこのようなことを頼むのは恥ずかしい!  
 だが、このようなモノを読んでいたら、どうしようもなくカラダが切なくなるんだ!  
 それに男子に二言はないのだろう!? あの本には異性にしてもらうのがいいと表現されていた!」  
 激しく首を振り、どこかやけっぱちの彼女の言葉に若林は困惑するが二言はないと言った手前断るわけにもいかない。  
 それに、据え膳を喰わねばなんとやらだ。  
「…分かりました。本当にいいんですね?  
 僕も一応男ですから…途中で終わらせることができるかどうか、保障できませんけど…」  
「あ…あなたの方こそいいのか? 頼んだ私が言うのも変だが…」  
 もじもじと指先と指先をくっつけ、俯きながらもそう訊ねてくる凛。この仕草にまた若林の心はやられてしまう。  
 今日はどうしたものか、彼女の新しい魅力ばかり見つけてしまう。  
 若林はそっと凛の頬に手を添えて、真っすぐ彼女の瞳を覗き込んだ。  
「…貴女みたいな可愛い人に、そう頼まれたら断れるわけ、ないじゃないですか」  
「か、可愛い!?」  
 思いがけない若林の言葉に思わず声が裏返ってしまう。  
 今まで綺麗だとか言われたことはあるものの、それは下級生の女の子だけであり、  
 男子からは近寄りがたい雰囲気でも出ているのか、そう言う言葉はかけられたことはなかった。  
 もちろん、あの御神なんかには言われたことはあるものの、こうして真剣に言われたのは初めてだった。  
「はい…」  
 もうそれ以上は言葉いらないと言わんばかりに、若林はゆっくりと凛の唇に自分のそれを落とした。  
 
 が、すぐに彼は唇を離す。何事かと凛は顔をあげると若林はとても驚いたような表情をしていた。  
「ど、どうしたんだ?」  
 何か自分に不手際でもあったのだろうか。すると、彼は照れた様子で答えた。  
「い、いえ…その、女の子の唇が…こんなに柔らかいものとは…思ってなくて」  
 その言葉を聞いて今度は凛が驚いた表情を見せる。  
「まさか…これが初めて、なのか?」  
「は、はい…お恥ずかしながら……すみません」  
 しょぼくれた顔を見せる若林に、凛はくすりと笑みを浮かべた。  
「いいや、私も初めてなんだ…その、接吻は」  
 彼女も初めてということに、若林は安堵したのか照れながら笑みを浮かべる。  
「…お互い初めて…ってこと、ですね。あの、不束者ですが宜しくお願いします」  
「そ、それは私の台詞だ。……その、頼む」  
 しどろもどろに言う凛に対する肯定の代わりに、彼はもう一度彼女に口付けた。  
 彼女もそれに応える。  
 最初は緊張のためか、ゆっくりとした緩慢な動きだったが、何度もキスを重ねていくうちに、啄ばむようにお互いの唇を求め合った。  
(……!?)  
 それを繰り返していくうちに、突如凛の舌が若林の唇を割って口内に入ってきた。  
 多少驚きはしたものの、すぐさま若林もそれに応え舌を動かした。  
 

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