執行部室の扉を開けると、西日で逆光になっている女のシルエットが見えた。  
 
夕日の朱が強すぎて、それが一体誰なのか若林誠には分からない。けれどもその人物が誰であるか  
より、先にこの場に居たその人を、いきなり部室に入ってしまったことで動揺させてしまったような――  
その事のほうが、若林には気にかかった。眦を垂れさせた気弱そうな表情のまま、若林はその女に  
おそるおそる話しかけた。  
「…あの、ごめんなさい」  
若林は軽く頭を下げる。しかし、すまなさそうな若林に、目の前の人物はきょとんとしたままである。  
――何か、おかしかっただろうか。あれ、と首を傾げて考え込む少年に、ようやっと女は肩の力を抜き、  
くすりと笑んだ。  
「若林君、どうしたんですか?」  
知っている声だ。そう思い顔を確認しようと目を細めると、薄暗いシルエットからぼんやりとではあるが、  
女の容貌が見えてくる。小作りに整ったその顔が、微笑みで優しく緩められていた。  
「…紫上…さん?」  
女は、紫上結奈だった。  
 
「あの、ええっと…ちょっと此処に忘れ物をしてしまって。古語辞典なんですけど…」  
すぐ帰りますから、と壁に執行部員用にと取り付けてくれている、ロッカーに急いで向かう。そう、若林は  
明日提出する課題の為にここに置いてあった辞典を取りに、執行部室に来たのだった。が。  
 
(…ああ、最悪だ)  
冷静に考えてみれば、別に自分などが部室に入ったからといって、あの物腰を崩すことが無い紫上結奈  
が動揺するはずなどないのだ。それなのに突然謝ったりして、結奈はさぞ自分のことをおかしなやつだと  
思っただろう。だって笑われた、笑われたのだ。先程の自分の失態を思い出し、羞恥で顔が熱くなる。  
古語辞典を探そうとロッカーに顔を近づけるが、思考と行動が食い違い、探せるものも探せなかった。  
早く目的のものを取って、此処から出たい。意識を集中させようと、若林は眉をひそめた。  
――けれども。結奈の視線を、背後に感じる。益々顔を赤く染め、若林は困ったように顔を伏せた。  
 
「…若林君?」  
背後に居ると思った結奈の声が、突然隣から聞こえてきたので、若林は驚いて思わず伏せていた顔を  
上げた。  
「は、はい!!」  
大きな声をあげて突然顔をあげた若林に、結奈は一瞬目をぱちりとはためかせたが、直ぐ微笑み、手元  
にある物を掲げてみせた。  
「はい、古語辞典。私のですけど、良ければ使って下さい。このロッカーには辞典は無いと思うから」  
「…え?」  
どうしてと若林の言葉を訊く前に、結奈は若林のロッカーを指差して、だって、と指の先を見るように促し  
た。  
「さっき…若林君が来る前なんですけど、伽月さんがこのロッカーから古語辞典を取り出してるのを見た  
んです。若林君が探しているのを見るあたり、その、多分…無断借用なんでしょうけど」  
 
道理で見つからないでしょう?と結奈に苦笑いを向けられ、見つからなかったのは気が散っていた所為  
ではなかったのか、と――一之瀬伽月の悪戯っぽい顔を思い出しつつ――若林は胸中でため息を  
ついた。伽月と若林は同じクラスだ、明日の課題提出の為に若林と同じく古語辞典を必要としたのだろう。  
――無断で借りるのは、良くないけれど。そう考えて、はた、と若林は思う。自分に古語辞典を貸してくれ  
ると言っている、目の前の少女も同じクラスではないか。ということは。  
「い、いけません!駄目です!!」  
叫び、いきなり首を振りはじめた若林に、再び結奈は目をはためかせた。首を傾げじっと見つめる事で  
何故かと問いかける結奈に、その視線に赤面しながらも、こたえる。  
「だ、だって…紫上さんも、課題でそれが必要でしょう?僕なんかに貸しちゃいけません…」  
そう呟いて、俯いてしまった若林を、結奈はしばらく黙って見つめていた。  
(僕なんか気にしなくても良いのに、)  
結奈の視線が酷く居心地悪かった。この場の空気に、どうも耐えられそうに無い。若林は体の横で拳を  
握りしめ、ここから立ち去ろうと膝に力を加えようとした―――が。  
「駄目、借りて下さい」  
駄目、に駄目と返されて、俯いていた顔を思わずあげて結奈の顔をまじまじと見つめてしまった。若林と  
目が合ったのが分かると、結奈は口元を緩める。  
「私のことなら大丈夫。家にもあるし、それで事足りますから」  
だからこれはあなたが使って、と若林の胸元に古語辞典を差し出した。ここまで言われたら、もう受け取  
らざるをえず、あっけに取られた表情のまま、若林は差し出された古語辞典を掴んだ。受け取ったのを  
確認し、結奈は満足した表情になる。「それじゃあ」と立ち上がって、机上にある学生鞄をつかみ、扉に  
歩を進め始める。その場に固まっていた若林だったが、結奈の帰ろうとするその行動を見て、ようやっと  
立ち上がり声を発することが出来た。  
「あ、あの!」  
その声に、扉に向かっていた足を止め、結奈はゆっくりと若林のほうに振り返った。  
「気にしないで使ってください」  
それと、と言葉を区切る。  
「…お願い。僕なんか、なんて言わないで」  
その顔には、優しい微笑みが浮かべられていた。それは、先程西日の中から見えたのと同じ笑みだった。  
それを見て、ああこの人は僕の失敗で笑ってなどいなかったのだ、と考える。  
若林は無意識に、掴んでいた辞典を胸に抱きしめた。  
 
 
シルエットは、昨日のように強い朱ではなく、日の光の所為で柔らかな色になっている。それ故、昨日  
とは違い幾分優しいイメージを抱かせた。  
教室の換気を行うため、結奈は窓を開けていた。開けられた窓から、外で生い茂っている緑の香りと共  
に、朝特有の涼やかな風が流れ込んでくる。それの所為で、結奈の髪とスカートがゆらゆらと揺れる。  
彼女の横で同じく揺れている象牙色のカーテンと相まって、その光景は何か一つの絵画の様だ、と若林  
には思えた。  
 
結奈はしばらく窓からの風に目を細めていたが、教室の扉の方に佇んでいる若林に気づき、こちらの方  
に顔を向ける。  
「あの…おはようございます」  
ぎこちなく頭を縦に動かし挨拶する若林に、結奈は目元を緩める。  
「おはようございます。…今日は、早いんですね」  
「あ、はい。…た、偶々、早く起きてしまったものですから」  
――そんなの、嘘だ。  
心のうちで、今言った言葉を否定した。自分は意図的に、早くに此処に来た。それは、結奈が朝一番に自  
教室に来て執行部の処務などをしていることがある、ということを知っていたからだ。もしかしたら、朝早く  
から結奈に会えるかもしれないと、そう思ったからだ。  
(どうかしてる…)  
そう思う。けれど昨日の結奈の微笑みが頭から離れないのだ。自分でも制御できない気持ちを持て余し  
、軽く唇を噛む。鞄の中にある、結奈の辞典が酷く重く感じた。  
――早く、辞典を返してしまおう。そう思い、辞典を取り出し、結奈のほうに差し出した。  
「あの…こ、これ、ありがとうございました。助かりました」  
なるべく普通に――そう、同級生に借りたものを返すだけのことだ――結奈に笑いかける。うまく笑えてい  
るかどうかは分からないが。若林の手の中にあるものを見て、おや、と結奈は秀麗な眉をあげる。途端、  
「どういたしまして」と綺麗に微笑んだ。それは昨日と同じ――若林の胸のうちに今もある、微笑みだった。  
 
再びその微笑みを見て、かすかな思いが立ち上る。それに、若林は肩を震わせた。  
(そういえば、ここには)  
自分が今こんなことを考えていると知ったら、きっとこの人は嫌がるだろうけど。  
 
(僕と、この人。…二人きりだ)  
 
――眩暈がした。  
 
 
 
那須乃美沙紀は非常に機嫌が悪かった。  
今まで遅刻などしたことが無かったのに、今日、"初"遅刻をしてしまったからだ。美沙紀はその尊大な  
態度が目に引くが、実は他人以上に己に厳しい。遅刻などどんな理由があろうとしてはならないと思って  
いたのに、今日してしまうとは…。  
「あなたが悪いのよ!若林!!」  
二年伍組に訪れた途端、机に向かって次の授業の予習をしていた若林に啖呵を切る。  
周囲の生徒たちは、一体何が起こったんだ、と目を丸くしているが、美沙紀の人となりを良く知っている  
ものたちは、何だまたかといった達観した表情を浮かべていた。兎にも角にも周囲の目線を嫌というほど  
受けてはいたが、そんなことを気にするような美沙紀ではない。弓形の眉を吊り上げて、相も変わらず大  
声を上げている。  
 
「今日朝早くに行きたいなら、何故そう言わないの!!黙って先に行ってしまうなんて…。  
私、あなたがいつもの様に迎えに来るのを待っていたんですのよ!それなのに…いつになってもあなた  
が来ないから、とうとう遅刻してしまったじゃない…五分も!!」  
最後の言葉に聞き耳を立てていた数人が、おい、と目を丸くしていたが――それは兎も角、美沙紀は言い  
終わった後胸を反らせて腰に手をやり、おそらく物凄い勢いで謝ってくるだろう若林に目をやる――が。  
 
「あ…すみませんでした…」  
美沙紀に返ってきたのは、気の抜けた若林の謝罪一言のみ、であった。予想していたものと違い、美沙紀  
は一瞬きょとんとする。しかし、自分が遅刻した原因となったのにその謝り方は何なのだ、と再び憤慨し、  
眉を吊り上げた。  
「…わ、若林…!その態度は…」  
何ですの、と言葉を続けようとしたが、若林が予習をしていた手を止め急に立ち上がったので、思わず口  
をつぐんでしまう。  
唇をかみ締め、目の前に立っている若林を睨むが、若林はいつもの様に気弱そうな表情は見せなかった。  
只、黙ってこちらを見ている。それに、思わず美沙紀は怯んで一歩後退してしまった。  
しかし、いつもと違う美沙紀の態度にさして気にした様子も見せず、もう一度「すみませんでした」と呟い  
て、若林は彼女の横を通り過ぎ、教室を出て行く。若林のいつもと違う態度に、教室内の生徒たちは少し  
ざわめくが、それ以上に動揺していたのは美沙紀であった。  
 
――あれは、誰?  
美沙紀は俯いて、拳を握りしめる。  
あれは自分のよく知っている、気弱な少年ではなかった。彼は、己のことをあんな目で見なかった。  
そう――怯んだのは、あの何も感じさせない冷たい視線で身を貫かれたからだ。  
けれど、と美沙紀は顔をあげて己に言い聞かせる。そう、若林にだって、自分に対して怒りを感じることだ  
ってあるだろう。まあ、それは許されることではないが――そう思い、また今度厳しく言ってやらなくては、  
といつもの様に不遜な態度になる。  
「…さて、そろそろ教室に戻ろうかしら」  
艶やかな髪を手で背中に流し、流石だ…といった生徒たちの視線を受け、高らかに靴を鳴らして扉の方  
に足を向ける。  
 
(…何?)  
ふと背後に冷たいものを感じ、そちらの方へ振り返った。  
美沙紀の視線の先に、結奈がいた。結奈はじっと美沙紀のほうを見ている。美沙紀と目が合うと、彼女は  
酷薄そうに目を細める。  
そんな結奈の貌をみるのは初めてだった。あまりの無表情さに、全身が粟立つ。  
しばらく結奈は視線を向けてきたが、飽きたようにふいと逸らせた。美沙紀は思わず息をついた。暑くも  
ないのに、背中がぐっしょりと汗で濡れているのを感じた。  
 
 
(続く)  
 

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