本日、ライル達が営むパン屋は朝から休業日になっていた。  
 その理由はというと…、このパン屋の唯一?の職人でもあるライルが、薙刃と共に温泉旅館へと出かけるからであった。  
 一言付け加えておくと、今回は鎮紅たちはついてこない。二人だけの旅行である。  
「ライルくん。しっかり、楽しんできてね」  
「ああ」  
 ふふ…。とライルに微笑みながら、鎮紅は言う。  
「……。お土産」  
「うん! ちゃんと買ってくるよー!!」  
 迅伐の言葉に、薙刃は元気よく答えた。  
 はっきり言えば、元々薙刃自身がお土産(自分用)を買ってくるつもりだろう。  
「ところで、マリエッタ達はどうしたんだ?」  
 ふと気づいたように、ライルが言う。  
 よく見れば、鎮紅と迅伐の姿はあっても、リタやマリエッタの姿は見えない。  
「そういえば、マリエッタちゃんたちなら、朝早くから情報収集に出かけたわよ」  
 鎮紅が、思い出したかのように言った。  
 迅伐も、鎮紅の言葉にコクリと小さく頷いた。  
(相変わらず、仕事熱心なんだな。あいつらは)  
 マリエッタ達が情報収集に出かけることはよくあることなので、ライルは特に何とも思わなかった。  
「じゃあ、そろそろ行ってくる。迅伐、変なものをお客さんに出すなよ」  
「……」  
 迅伐は、うんともすんとも答えない。  
 どうやら、無言の同意……ではないようだ。  
(せめて客がいなくならないことを祈ろう……)  
 ライルは、心の中で小さくため息をついた。  
「ライルくん。そろそろ、時間じゃないの?」  
 鎮紅が、時計を指しながらそう言う。  
 ライルは時計に刻まれた時刻を確認すると、玄関のドアへと手を伸ばした。  
「そうだな。じゃあ、行くぞ。薙刃」  
「うん! 行ってくるねー!!」  
 ライルと薙刃は、玄関のドアを開き、パン屋を出て行った。  
 
「ねえ。迅伐」  
 二人が出て行ってからしばらく経った後、ふと鎮紅が迅伐に話しかける。  
「何? 鎮紅ちゃん」  
 
「あの二人って……、ホントに付き合ってるのかしら……」  
「……」  
 鎮紅が疑問を抱いたのも、迅伐が答えることができなかったのにも共通の理由があった。  
 簡単に言えば、二人は少し前から付き合いだしてはいるのだが……、付き合いだして変わったことが、特に見つからないのが事実だ。  
 唯一あるとすれば、薙刃がライルと一緒にいることが多くなったぐらいで、それ以外のことはあまり変わっていなかった。  
 これでは、恋人同士という関係ではなくて、友達のような関係としか見て取れないような感じだったからだ。  
 現に、マリエッタ達は、ライルが薙刃と付き合っていることを知らないらしい。  
(この温泉旅行で、二人の関係が進めばいいんだけどねぇ……)  
 鎮紅は、そんなことを考えていた。  
 
 はてさて、薙刃とライルの二人は、パン屋を出た後、すぐさま駅へと向かい(っていうか、駅があるのか?)、電車に乗った。  
 窓側に薙刃が座り、ライルがその隣に腰掛けるという状態だった。  
「わぁー! すっごーい!!」  
 窓を開き、外の景色を見ながら、薙刃は無邪気に言う。  
(まったく……。薙刃は、どこに行っても同じだな)  
 ライルにとっては、そんな薙刃が少し面白くて、小さく頬を緩めた。  
 だが、この二人にとってはほのぼのな光景かもしれないが、考えてもみれば、ここは電車の中。  
 前の席などにも、他の乗客がいるわけで……。  
 案の定、そんな二人の様子に、他の乗客の視線が集まっていた。  
 だが、そんなことにまったく気づいていないのか、薙刃はまだ無邪気に外の景色を眺めている。  
 さすがにバツが悪くなったのか、ライルは変わらず景色に見入っている薙刃の肩をポンポンと軽く叩いた。  
「おい。薙刃」  
 肩を叩かれたことに気づき、薙刃はライルへと視線を向ける。  
「何―? ライル」  
「大声を出すの、やめてくれないか?」  
 ライルの言葉を、薙刃が理解すればそれでよかった。  
 だが、相手はあの“薙刃”である。そんなにうまくいくはずがなく……。  
「えぇぇぇぇぇぇぇ!! 何でーー!!」  
 電車内に薙刃の大声が響き渡る。  
 
 ヘッドホンから音漏れをするほど、大きな音で聞いていた人間も、聞こえるようなそんな大声だった。  
 当然、ライルたちに視線が集まってくる。  
「って、言ってるそばから大声を出すなーーー!!」  
 と、生まれつきのツッコミぐせが入り、注意するライル。  
 だが、ライルの声も薙刃に負けず劣らずの大声だったことは言うまでもなく……。  
 寝ていた乗客は不機嫌そうに、ライルたちへと視線を向けた。  
 現在、ライルたちの置かれた状況は、四面楚歌。または、孤立無援が一番似合っている。  
 思わずライルは、うっ…。と押し黙った。  
「ライルだって、大声出してるじゃん!!」  
 そんな状況をまったく読めていない薙刃は、再び大声を上げる。  
(こ、こいつは……)  
 大声を上げてはいけない。それは分かりきっていることだ。  
 だが、だが……、その原因が目の前の薙刃のせいであることは明確だ。  
「って、お前のせいだーーーーー!!」  
 気づいたときには、ライルは再び大声を上げてしまっていた。  
「えぇぇぇぇ!! 何でーーー!!」  
 再び振り出し状態へと戻る二人であった。  
 旅行の出だしから、こんなアクシデント続きの二人であった。  
 
 
 そんなこんなで温泉旅館へとたどり着いた二人。  
 今回は、のんびりと温泉旅館で休息するつもりだったはずなのに……。  
 温泉旅館に着いたときには、ライルの表情からは疲れの色が見えていた。  
「どうかしたの? ライル」  
 そして、その疲れの元凶。薙刃が今まで何事もなかったかのように話しかける。  
「いや、何でもない」  
 思わず、お前のせいだ! と言いたくもなったが、今は温泉旅館に着いたばかりだ。  
 ライルとしても、今この場の雰囲気を悪くはしたくなかった。  
 しばらくすると、この旅館の従業員がライルたちに近づいてくる。  
「薙刃。そろそろ行くぞ」  
「うん! わかった!」  
 薙刃はすぐに納得すると、自分の荷物を持って従業員の後を着いて行った。  
 ライルも遅れずに、薙刃の隣を歩く。  
 
 それから事件はすぐに起きた。それは自分たちへの部屋へと向かうときのこと。  
 
「お二人はどういう関係なので?」  
 従業員のこの一言だった。  
 その一言を聞いて、思わずライルは吹き出しそうになった。  
「それはねー、恋……。むぐっ!?」  
 恋人同士。と言いかけた薙刃の口を、ライルは慌てて手で押さえた。  
 だが、ちゃんと従業員の耳には、薙刃の言った恋という言葉はちゃんと聞こえていたようだった。  
「そうですか……。それでは、お布団は一組でよろしいですね?」  
 従業員はさらりと言ったが、ライルは思わず吹き出した。  
 思わず薙刃の口から自分の手を離すと、薙刃がぷはっと息を吐く。  
「なっ、何でそうなる!!」  
「一組にすれば、料金も安くなりますよ?」  
 確かに費用が安くなるのならば、いつものような選択肢ならばそちらを必ず選ぶだろう。  
 だが、今回は状況がそれらとはまったく違う。  
 布団が一組ということは、薙刃とはすぐ近くで寝るわけで……。  
「安くなるなら、そっちのほうが……。むぐっ!?」  
 再び、薙刃が言いかけると、ライルは手で薙刃の口を覆った。  
「ふ、二組用意しておいてくれ!」  
 ライルは思わず、従業員にそう言った。  
 
 やがて、用意された部屋の前に着くと、従業員の女性は微笑みながら、会釈をする。  
「ごゆっくりと」  
 そういうと、女性は去っていった。  
 残されたのは、ライルと薙刃の二人だけ。  
 いつもだったら、薙刃が自然と喋りだすはずだった。  
 だが、薙刃は何か思いつめているようで、ライルの顔すら見ようとしない。  
(どうしたんだ? 薙刃のやつ……)  
 いつもと違う薙刃の様子に、ライルは少なからず疑問を抱いた。  
 そんな沈黙を破ったのは、意外にも黙っていた薙刃だった。  
「ねえ。ライル」  
 いつもとは違った面持ちで、薙刃はライルに話しかける。  
 ライルも、いつもとどこか違う薙刃に少しばかり緊張感を抱く。  
「何だ?」  
「……。ひょっとして、ライル。私と恋人同士って嫌?」  
 薙刃にしては、珍しい不安を抱いたような言葉をライルへと向ける。  
「なっ!? な、何でそうなるんだ!!」  
 
 思わぬ質問だったせいか、ライルも同様を隠せないようであった。  
「だって、さっき、あの人が「どういう関係なんですか?」って聞いてきたから、恋人同士って答えようとしたら、ライルってば慌てて私の口を押さえたでしょー。それで、嫌なのかなー。って思ったの」  
「それは……」  
 思わずライルは返答に困った。  
 確かに、薙刃の言うとおり、ライルはあの時とっさに薙刃の口を押さえた。  
 だが、本人からしてみれば、それはただ恥ずかしかったからだけであって、嫌だというわけではない。  
 だが、そんな自分の行動が返って、薙刃に勘違いを与えたと考えれば、少しばかり気分が悪くなった。  
 そんなライルの悩みに気づいていないのか、薙刃は言葉を続ける。  
「ライルが嫌だったら、別にいいんだよ? 今からだったら、私だけで帰れ……」  
「違う!!」  
 薙刃の言葉に、思わずライルは怒気を含めた大声を張り上げていた。  
 思わず薙刃は、ビクッと身体を震わせて沈黙した。  
「俺が、あんなことをしたのは……、は、恥ずかしかったからだ!! な、薙刃と恋人同士ってことが、い、嫌なわけじゃない!!」  
 最初は真剣に話し出したかと思ったライルだったが、最後には顔を赤くしながら恥ずかしそうに言った。  
 しばらくライルを見つめていた薙刃だったが、そんなライルの様子を見ているうちに、プッと笑いを堪えきれなくなったのか、笑い始めた。  
 薙刃が笑い出したのが、余計にライルの恥ずかしさを増幅させたようだった。  
 しばらくすると、薙刃は笑うのをゆっくりと止め、嬉しそうに微笑んだ。  
「ありがとう。ライル。勘違いしてて、ごめんね」  
 ライルもそんな薙刃の表情を見て、フッと笑った。  
 
 
 座布団に正座しながら、お茶を飲んだ。  
 温泉旅館の料理も満喫して、食べることができた。  
 薙刃にあーんで食べさせられたのは、言うまでもない。  
 
 
 さて、ライルの目的はあと一つになった。  
 それは……温泉である。  
 現に、ライルは手に自分の着替え(浴衣)を持ちながら、温泉に向かおうとしていた。  
「薙刃。お前はどうする?」  
 一応、ライルは薙刃に確認を取る。  
 当然、彼女の答えは一つしかない。  
「ライルと一緒に行くーー!!」  
 薙刃はそう答えると、自らも着替え(浴衣)を取り出し、行く用意をした。  
「じゃあ、行くか」  
「うん!!」  
 薙刃はライルに寄り添いながら、部屋を出た。  
 目指すは、この旅館の大浴場、露天風呂。その二つのみ。  
 
 まずは露天風呂へと向かったライルたち。  
 軽く会話をすると、二人は別々の入り口へと入っていった。  
 だが、露天風呂の中には誰一人気配を感じることが出来ない。  
 だが、露天風呂に入ることを目前にして急ぎ足だっているライルは、そんなことにはまったく気づかなかった。  
 ライルは、衣服を脱ぎ終わると、愛用?の晩酌セットを持ちながら、露天風呂へと繋がるドアを勢いよく開けた。  
「あっ! ライルー!!」  
 案の定だった。思わず、ライルは立ち尽くしながら沈黙する。  
 だが、はっ。とライルは気を取り戻すと、思わず叫んだ。  
「なっ、何でここにお前がいるんだーー!?」  
 すっかり取り乱しているライルに対して、薙刃は落ち着いた様子で答える。  
「だって、ここ。混浴なんだもん」  
 以前にも、ライルはこんな経験があったはずだ。  
 しかし、残念ながら彼にとっては教訓にはなっていなかったようだ。  
「ライル? どうかしたの?」  
 入り口で立ったままのライルを疑問に思ったのか、薙刃が声をかける。  
「い、いや、何でもない」  
 言ってから後悔した。こんなことを言えば、薙刃が次に言う言葉は決まっている。  
 そして、薙刃の口から出てきた言葉はライルの予想通りだった。  
「ライル! 一緒に入ろ!」  
 薙刃の言葉に、ライルは回答をどうするべきか、猛烈に悩んだ。  
 以前来たときと同じ立場ならば、「入れるかーーー!!」と言って、すぐに出て行く事だって可能だった。  
 
 だが、今は違う。  
 二人は恋人同士なわけだし、それに……。  
 前みたいに鎮紅たちがいるわけがなく、このままでは一人でいることになる。  
 それに先ほどみたいに、薙刃が勘違いして、落ち込むかもしれない。  
 だが、ライルも一応、男だ。  
 こんな状況で二人きりになっていたら、いつ自分の理性が吹き飛ぶか分からない。  
 とにかくライルは、一人で悩んだ。  
 そして、悩みに悩んだ結果、出した答えは……。  
「……。分かった」  
 薙刃と一緒に、風呂に浸かることだった。  
 
 風呂に浸かり始めたのはいいが、それからはライルにとって緊張の連続だった。  
 薙刃から少し離れたところで、浸かっていると薙刃は自然と近寄ってくるし、それだけにとどまることなく、薙刃はライルに擦り寄って来ようともする。  
 そんな薙刃を必死にかわしながら、何とか温泉に浸かっているライルだった。  
 だが、そんなライルに地獄の言葉が薙刃によってかけられる。  
「ライルー! 背中、洗いっこしよーー!!」  
「ブッ!!」  
 思わず吹き出すライル。  
 今まで、近寄ってくるだけでもライルにとっては緊張の連続だったというのに、直に薙刃の肌に触れるとなれば、これ以上の極限の状況はないだろう。  
 だが、断るわけにいかないのも、また事実である。  
「ライルー!! 早くー!!」  
 薙刃はというと、ライルの心境を知る由もなく、すでに浴槽から上がり、身体を洗う準備を万端にしていた。  
 この状況を理解しているのか……。ライルは小さくため息をつく。  
「……。分かった」  
 ライルは渋々了解した。  
 
「じゃあ、ライルからねー!」  
「……。分かったよ」  
 薙刃の勢いに押されながら、ライルはゆっくりと風呂椅子に腰掛けた。  
 腰掛けると薙刃は石鹸で泡立てておいた自分のタオルを、ライルの背中に擦り付けた。  
 たまに薙刃の肌が背中に触れると、ライルはドクンッと思わず小さく身体を震わせる。  
「ライルの背中って大きいねー」  
 背中を洗う薙刃が、ふとライルにそう言う。  
 
「そ、そうか?」  
「うん!!」  
 嬉しそうに薙刃がそう答えると、思わずライルは、自分に問い詰める。  
(ど、どうすればいいんだ……)  
 喰との戦いでも感じたことのない緊張が、ライルに襲い掛かってくる。  
 そう。まだ、この状態はいいのだ。問題はこれから……。  
「じゃあ、今度は私の番―!!」  
 思わずライルの身体はビクンッと反応する。  
 別に嫌なわけではない……。  
 だが、今は温泉に二人きり。しかもすぐ近くに好きな人物がいる。  
 こんな状況を長時間続けられたら、いくら今まで理性を抑えてきたライルといえども、どうなってしまうか、分からない。  
「どうしたの?」  
 座ったままでまったく動こうとしないライルに、薙刃は声をかける。  
「い、いや……。何でもない」  
 今日はこればかり答えているような気がする。  
 ライルはすっと椅子から立ち上がると、すぐ近くに腰を下ろした。  
「じゃあ、お願いねー!」  
 ライルに代わって椅子に腰掛けた薙刃が、前を向きながら言う。  
 ライルと理性との極限バトルが今始まった……。  
 
 薙刃の背中をタオルで洗い始めてから、ライルはゴクリと喉を鳴らした。  
 いつもは見ることのできない薙刃の白い肌が、目の前に無防備に晒されているのだ。  
 思わずライルの心の中に、触れてみたいという考えがよぎる。  
 だが、ライルはすぐに頭をブンブンと横に振る。  
(だ、ダメだ!! そんなことするわけには!!)  
 だが、視線を戻せば再び、ライルの視界には薙刃の肌が映るわけで……。  
 再びライルはゴクリと喉を鳴らす。  
 理性の限界は刻々と近づいてきていた。  
(でも、ちょっとだけなら……。いいよな?)  
 甘い考えが、ライルの頭に浮かんだ。  
 ライル、哀れにも理性に負ける。  
ライルは、ゆっくりと自らの手を伸ばし、薙刃の背中に直に触れてみる。  
(!?)  
 薙刃の肌のなめらかさに、思わずライルは驚く。  
 だが、薙刃はあまり気にしていないようで、後ろを振り向かなかった。  
 
 ライルに再び、ある考えがよぎる。  
 もっと触れてみたい。と。  
 触れる前ならば、ダメだとすぐに判断することが出来たに違いない。  
 だが、今のライルに自分の感情を抑制するという理性は残っていなかった。  
 ライルはゆっくりと、手を伸ばすと薙刃の背中を通り越して、薙刃の腰元へと手を伸ばした。  
 そしてゆっくりと包み込むようにして、薙刃を抱きしめた。  
「ひゃっ!! ら、ライル?」  
「……」  
 突然、腰元にライルの手が回されたことに薙刃は思わず驚いた。  
 はっきり言えば、こんな場面で抱きしめられたことはないし、いつもだってライルからは滅多に抱きしめたりしてくれないのだ。  
 しかし、決して嫌ではない。むしろ抱きしめてくれていることは、薙刃にとっては嬉しいことだ。  
 薙刃は抵抗することなく、しばらくすると薙刃はライルの腕の上にそっと自分の手を重ねた。  
 だが、薙刃の指がライルの腕に触れた瞬間、ライルはやっと正気を取り戻した。  
(お、俺は……)  
 そして、気がつく。  
 自分が薙刃を後ろから抱きしめているということに。  
「!?」  
 思わずパッと、反射的に手を放すライル。  
「わ、悪い!」  
「えっ?」  
 薙刃には、ライルが謝った理由が分からなかった。  
 頭に?マークを浮かべながら、薙刃はゆっくりとライルの方へと身体を向ける。  
「いや、その……。変なところ触ったか? 俺。」  
「変なところ? それって、どこのこと?」  
 薙刃の様子を見るからに、どうやら僅かながらの理性で、自分は耐え切ったようだ。  
 ほっと安堵のため息をついたライル。  
 だが、ライルが何を言っているか分からない薙刃はそれで納得するわけがない。  
「ライルーー!! 教えてよー!!」  
 薙刃が、意地になってライルに問いただしてくる。  
 だが、ライルが答えられるわけがなく、とりあえずこの場から逃れようとする。  
「薙刃。そろそろ上がるぞ。」  
 再び、理性が切れそうになる前に……。  
 
 ライルは薙刃を待つことなく、男子の更衣室へと戻っていった。  
「あーー!! ずるいよーー!!」  
 逃げられたと分かった薙刃も、急いで女子の更衣室へと戻っていった。  
 
 何とか露天風呂を凌いだライルは、あれからこれといったアクシデントもなく、大浴場へと充分に浸かり部屋に戻った。  
 だが、ここであることに気づく。  
 何と自分たちの部屋には布団がたった一組しか用意されていなかったのだ。  
(なっ!?)  
 口には出さなかったが思わず慌てるライル。  
 そう。これは、あの女従業員の陰謀であった。  
 念のため、押入れを開けて布団があるか、確認してみるが、そこはもぬけのカラだった。  
(やられた……)  
 はぁ……。とため息をつくライル。  
 そしてすぐ近くには、眠たそうにあくびをしている薙刃の姿。  
 どうやら薙刃も、人知れず疲れていたようで、眠たそうに目をトロンとさせていた。  
 どうやら自分がいつまでも起きてるから、薙刃も起きていたいようだった。  
(まったく……)  
 ライルは、薙刃の近くへと近寄ると、彼女をヒョイッと持ち上げる。  
 俗に言う、お姫様抱っこというものだ。  
「う、うわっ! ら、ライル!?」  
「眠たいんだろ? 無理するなって」  
「別に無理なんか……」  
 だだをこねるかのように抵抗する薙刃を、まったく相手にせずにライルはゆっくりと用意された布団の中に彼女を放した。  
「今日ぐらいは、しっかり休んでおいたほうがいい」  
 優しく微笑みながら、ライルは薙刃にそう伝える。  
 そんなライルの言葉に納得したのか、薙刃は布団の中へと入る。  
「じゃあさ、ライルも一緒に寝よー」  
「ああ。別にいいが……」  
 ライルがそう答えると、薙刃は自分の布団の片方へと身体を寄せる。  
 その行動を理解できないライルは首を傾げるが、そんなライルに薙刃は驚くべき言葉をかける。  
「はい。入っていいよー」  
「はっ?」  
 最初はどういう意味なのか分からなかった。  
 
 だが、冷静になって考えているうちに“入っていい”ということばの意味を理解しきった。  
 その意味に気づいたと同時に、ライルは大声を上げた。  
「は、入れるかーーーー!! 俺は、床で寝る!!」  
「えーーー! それじゃあ、ライルが風邪引いちゃうよーー!」  
 それでも構わない。と言ったかのように、ライルは薙刃から視線を逸らす。  
 だが、薙刃はライルが違う方向を向いたことを確認すると、そっと身体を動かし、ライルの右手を掴んだ。  
 そして、グイッと自分の方へと引き寄せる。  
(!?)  
 すっかり油断していたライルは、薙刃の思わぬ力に体勢を崩し、そして……。  
「えへへ……。ライル! 捕まえたーー!」  
 薙刃は両手をライルの腰にしっかりと回すと、嬉しそうに笑いながらライルに言う。  
 薙刃の顔がすぐ近くにあるからか、ライルの頬に朱が指しはじめる。  
 慌てて、ライルは腰元に回された手を放そうと試みるが思ったより薙刃の力は強く、まったく外れなかった。  
「な、薙刃!!」  
 だが、そんな慌てているライルをまったく無視するかのように、再び薙刃は眠たそうにあくびをする。  
「んー……。ライル、おやすみー」  
「お、おい!!」  
 ライルの様子をまったく気にせず、薙刃は目をゆっくりと瞑った。  
 やがてしばらくすると、薙刃から整った寝息が聞こえてきた。  
 再び離れようと試みるが、寝ているはずなのに腕に力がこもっており、手は外れなかった。  
(……。仕方ないか……)  
 いつまで経っても変わらないと判断したライルは、視線を薙刃の寝顔へと向けていった。  
 気持ちよさそうに寝ている薙刃の顔へとゆっくりと手を伸ばす。  
「……」  
 自分の手で薙刃の頬をしばらく触れていると、薙刃が少し身体を動かした。  
 起こしてしまったか。と思い、ライルは手を離すが、どうやら反応しただけで、しばらくすると、再び整った寝息が聞こえてきた。  
(……。かわいいんだよな……。やっぱり)  
 いつもは言えないことを、ふと頭の中で考えてみる。  
 考えてもみれば、薙刃に自分の思っていること全てを教えたことはないような気がする。  
 実際には、今では薙刃がいるから楽しく毎日が過ごせているようなものだ。  
 
 そんな感謝の気持ちすら、薙刃には伝えたことがなかった。  
 だが、今なら薙刃も寝てることだし、自分の気持ちを言ってもいいかもしれない。  
 ライルは、そう考え、薙刃の耳元に顔を近づける。  
「薙刃……。いつも、ありがとな……」  
 そして、最後に言った本人すら気づかないほどの声で、“愛してる”と呟いた。  
 そして、そっと薙刃の唇に自分の唇を触れさせた……。  
「おやすみ。薙刃……」  
 ライルは、部屋の電気を消し、自分も瞼を閉じた。  
「あたしも大好き……」  
 薙刃の呟いたその言葉を聞くことなく……。  
 
 
「ん……」  
 ゆっくりと目を覚ますライル。  
 相変わらず状況は夜のときと変わっていなかったようで、薙刃は相変わらずしっかりとライルに抱きついている。  
 そんな薙刃をやれやれ。と思いながら、ライルはすぐ近くで薙刃を起こしにかかる。  
「薙刃。起きろよ」  
「ん……」  
 反応はすぐに返ってきた。  
 ゆっくりと薙刃は目を開けていく。  
 だが、意識が完全に覚醒した瞬間、薙刃は思いもよらぬ行動に出た。  
「ライル!! おはよーー!!」  
「!?」  
 薙刃はライルに顔を近づけると、何も戸惑うことなく口付けをした。  
 思わぬことに、ライルの意識も一瞬で覚醒した。  
 たっぷりと口付けをした薙刃は、満足したような表情で顔を遠ざけていった。  
「えへへ……。ライル!! 私もだーい好き!!」  
「……」  
 まさか、起きていたのか!?  
 そう考えると、思わずライルは顔が赤くなりそうだった。  
 
「あの二人……。あれから、変わったわねぇ」  
「……うん。」  
 最近では、人目を気にしず、どこにいても薙刃がライルに口づけするようになったらしい。  
 そんなバカップル振りを見つめながら、鎮紅と迅伐は楽しそうに笑った。  
 
 

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